まほろばの泉

亜細亜人、孫景文の交遊録にある酔譚、清談、独語、粋話など、人の吐息が感じられる無名でかつ有力な残像集です

  人間考学   あの時の「五寒」にみる政治の局面と狡務員

2024-02-26 06:42:15 | Weblog

  2017  12再             桂林の子供たち


数年前の再掲載ですが、病巣は拡大している

官と民間の棲み分けが曖昧になってきた。

 それは公私の分別といったものだろうが、古典では「公私の間」の重要さを説いている。

 しかし、このところその「間」を巧妙に使い分け、まさに狡猾な狡務員が増殖している。昨今の世情を騒がしている防衛省の問題だが、装備備品の水増し請求についての錯覚した争論をみてみたい。

石破大臣の弁に「官側でその価格の査定をする内部組織と人員が必要だ」とある。
また野党民主党も追従している。

 教育改革の論もそうだが、組織やシステムを論ずることによって問題が解決すると思っているのだろうか・・・


 民の代表である議員職が政府側の大臣になった途端、妙な論を展開するのは常だが、このところの内閣は官吏の怠慢から生ずる問題の言い訳に終始するのが答弁の通例になっている。野党とて党首の意地や政権奪取の点数稼ぎのために自由な議論がなされない状態である。


 とくに顕著に現れた石破氏の答弁と野党の同様なる論の構成は、紫禁城に増殖した宦官の群れに汲々とした政治家と衰亡した清朝の状況を同様な姿として観るのである。

世間、或いは読者にも石破氏の論は、゛オカシクハナイガ・・゛と思うであろう。
事、ここまでの状況にしても未だ理解の淵に届かないのだろうかと筆者は不思議に思う。

 不見識だか「わかっちゃいるけど,止められない」と植木等氏が謳っていたが、いま国民の経済状態をよそに官域は増殖し、かつその既得は民活の合唱のもとチェックの効かない領域に逃避し、より強固な姿になっている。

 隣国の国営も「公司」の名において軍官の派閥形態の中に納まり、国法国費を流用増殖して統制の効かない牙城として根付いている。

「生きている人間のすることだから色々ある」というが、筆者は決して四角四面で苦言を呈するのではない。

 厚生省も社会保険庁も防衛省も、いくら枡添、石破両氏が論点をずらそうと、官吏は重々承知の上での行為である。米国では軍用機の便器の蓋が数千ドルということもあった。

 民族運動家 赤尾敏氏

明治人の言論は言い切る小気味よさがあった。

 

 

古人の言を活用して問題発生を俯瞰してみてみると、ブログにも前記した「五寒」に当てはまる。

敬重、謀弛、内外、政外、女レイを以って「五寒」
であるが、これが顕著になると亡国だという。

防衛事務次官守屋氏は、謀弛(ハカリゴトが漏れ、官規が弛(ゆる)む)そして、おねだり女房は女厲 ジョレイ(女が烈しくなる) 然り。

厚生省は謀弛から敬重(敬われることがない)政外(政策のピントが外れる)

内外(内政が上手くいかないために外交に視点を向ける)はひどいときには戦争を仕掛けたり、国民に外交危機、環境危機を論点に乗せる。

美麗な語意解釈ではなく、民主、自由が恣意的な政策大義として、ときには軍備を以ってしてお題目のように広げられてきた。

 国家は連帯を失い、世界あらゆる所で与野党の拮抗が生まれ国家の座標軸が揺らいできた。家庭は規範を失い、社会は経済のみに興味を奪われ、テクノクラートでさえ財貨の欲望に没している。 

また、放埓した社会の収斂欲求はシステム論、組織論に委ねられた隙に、利便思考に追い立てられた管理社会に収斂されてしまった

 物事の興味は「局面」に追われ、落ち着いて行く末を考察する余裕さえ無くしている。一過性の刺激ある「局面」は枝葉末節な重箱論議に終始し、軽薄な大義に酔う議員によってセレモニーが繰り広げられるようになった

まさに「五寒」にみる局面浮遊でしかない国家の姿である。

これを亡国の徴という

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間考学」の不確実性原理  その(Ⅱ)

2024-02-24 12:39:24 | Weblog

           櫻のあとの津軽は、リンゴの花盛り

 

以下は 村岡氏が持参した二度目の原稿 

(二) 組織と人材

 

Ⅰ 組織のガバナビリティー

 

組織の統御を考えるとき、統御のパワーは結局、統御する「人間如何」に依存しているということである。人間如何であるならば、との解答(又はそのヒント)は、人間考学の随所に隠されている。(繰り返すが解答は一つであるとは云えない)

然しながら、寳田先生の「人間考学」は、漢語環境が多用され、しかも「思考」の過程が水(上善)のごとく流れ、それに伴って文体も大河の流れのように雄大なっている。そうであるが故に、現代人の思考形態(回路設計の類)で、「人間考学」を追求するのは容易ではない。

そこで、その難問を突破する糸口として、歴史学(政治史)と社会学の両学を活用してみることにした。

 

組織の統御の問題を換言すれば、組織の両義性の問題である。

両義性とはゲマインシャフト(第一次集団、自然的、歴史的、情緒的に形成された共同体社会)と、ゲゼルシャフト(合理的、目的論的、利益追求的に形成されたビラミット型社会)の両性を、組織が内在的に包合されているということである。

古代、中世においては前者の傾向が強く、近現代では後者の傾向が強いという特徴を有しているが、いずれにしても組織であるからには、程度の差はあるとしても、この両義性という厄介な問題を包み込んでいるわけである。

 

ところで、組織は縦軸(上位下達、指揮命令系統)と、横軸(能力的。機能的な役割分担)の両軸によって成立している。この両軸がなければ烏合の衆(群衆など)に過ぎず、明確な方向性(目的)も効率の高い目的の実現もあり得ない。

 

以下、軸については寳田先生の講話から参考抜粋する

「人間考学」では縦横の問題を「緯」と「経」として説き、しかも緯に「維」を添えて全体視(あらゆる個所からの俯瞰視)をすすめている。

CDディスクに書き込まれているデーターを読み解くには回転基軸と動力が必須であり、座が揺れては、ディスクはダッチロールして正確に読み取れない。また動力であり、揺らぎない情報収集(考察)する回転基軸(座標)は、コマ軸のように上下に延び、互いに過去と将来に結び付いている。その軸が細ければ鋭い回転をするが、太すぎれば安定を失いコマは揺れる。

 

ディスクは「経」として平面の東西南北から種々の情報を集積し、天地に延びた軸「緯」は過去と現代、未来の時空を表している。「経」の東西南北の平面情報はスパイラルに維を芯として軸を移動する。

つまり、つねに「座」を基軸にして、現実社会の諸内容は包み込んで移動するが、天地(上下)変換しても、その様態はつねに回転慣性から逸脱することなく運動する。天は地を必要とし、地は天を必要とする。見方によっては上下ではあるが、相互必須な関係性は逆転したところで、その関係は絶えず対する(絶対的)関係でもある。

それは、あの子供のころに夢中になった、あの上下を変えても回転しつづける金属製の宇宙コマの不思議感を、思索の想像性と置き換えてもよいだろう。

 

また社会観察、政治考察は下座観と俯瞰「鳥瞰視」として、つねに下座観、あるいは地に伏す意識で為政を眺め、上からは見えない為政の底部(依って立つ基部)を指摘する。これも上下位置を逆転すれば見える世界も変われば、施政の方策も自ずと変わる。その試みを「人間考学」では機略として、臨機応変、縦横無尽の闊達な思索の展開を促すのである。

 

隣国には六義(駒込の六義園)とか六合と、よく六を用いる。それは東西南北と天地で「六」、つまり立体、今どきは3Dの立体円形の意もあり、「丸く収まる」は、その意と解釈すれば、「人間考学の六合思考」とは、事象の多面的、全面的。あるいは過去から将来を推考する切り口から、部分の合理を思索に落し込む方策ともいえるものである。

それは「自分」を解くときに表れる、個人、他人、包み込む環境、社会、国家、地球、順次想像して自分の位置なり存在を知ることを、逆順として観ることでもある。

宇宙、地球、東西文明、アジア、日本、東京、所在地への探索は、逆順によって個人の多様な意義が個人の可能性を広げる。

それは、前記した「機略」の縦横無尽、臨機応変を許容する「真の自由」を基とした思索と観照の促しでもある。

 

        

      海舟、次郎長、原、陸羯南 三遊亭圓朝 みな鉄舟に集った   

持論(村岡)に戻るが 、縦軸と横軸の論は、これだけでは組織が活き活きと有機的な動きをするわけではない。ドイツの物理学者ハイゼンベルグが唱えた「部分の算術的総和は必ずしも全体ではない」と。

これは真理であると同時に浅薄な近代合理主義(機械論的要点還元主義)への痛烈な警句ともなっている。

やはり、その組織リーダーの「人間的魅力」が変数となり、組織が関数としての機能を発揮することになる。決してその逆はない。つまり、リーダーの人間的魅力が組織成立の十分な条件といえる。ここに「人間考学」の「考学」たる所以がある。

歴史的にいえば、組織の統御(両義性)にもっとも苦心したのは、我が国の「近代国家創生期」の明治の宰相、伊藤博文だろう。彼は岩倉使節団(条約下交渉と欧米の実情調査)の随員の一人として渡航し、その過程で大久保利通と親しくなり、維新以後の日本の近代化(明治国家)についての青写真を模索していた。

一八八二年(明治十五年)八月八日伊藤はウィーンに到着し、シュタイン(ウィーン大学教授)に面会し、その学説(君主機関説)に感銘したことを岩倉に報告している。つまり明治以前の君主国(ゲマインシャフト的団体)と、明治以後の立憲国家(ゲゼルシャフト)という両義性の問題を、伊藤はシュタインの学説によって解決の光明を見出したのである。

それは、天皇制によって国家の精神的紐帯(結び目)を企図するとともに、明治憲法の制定によって日本近代化(立憲政治)を確立し、以て両義性を止揚(アウフヘーベン)しようとしたのである。

当時の時代状況の中では、これはベストの方策ではなかったと思われる。伊藤の学問は大正期に入り美濃部達吉の「天皇機関説」となって結実する。(いわゆる大正デモクラシーの理論的支柱)

 

組織は、大は国家組織から、小は部隊レベルに至るまで規模は様々ではあるが、今、伊藤博文の来歴で見たように、組織の統御で大事なことは「理念」と「人物」ではないだろうか。

その事は「人間考学」を精読していただければ明らかである。

然しながら、伊藤は自らが生み出した現行の明治憲法には決して満足していた訳ではなかった。自分たち(維新の経験者)が生きている間は、現行の明治憲法で何とかやりくりできると思っていたが、伊藤自身は明治憲法の構造的欠陥を冷厳に認識していた。

 

その傍証は矢次一夫氏(国策研究会主宰)の次の言葉の中に秘蔵されている。

『戦後まもないころかな、ある人物が一包みの風呂敷をもって私を訪れた。次のように言ったんだ。この中に伊藤公の明治憲法の改革案の原稿が入っている。矢次さん!、これを材料にして貴方の会で議論してみたら如何か。戦後の混乱で議論することは出来なかった・・・。

そうこうしているうちに、風呂敷包みが紛失してしまった。分からなくなってしまったんだ。いまさら悔やんでも仕方がないが・・・』(矢次一夫対談集 原書房)

 

この矢次先生の言葉を読んだとき、私は伊藤博文という政治家の「人物」を再認識した。

 

      

      働き、学ぶ 日本農士学校

       

 

(2) 規律(組織)と良心(個人)

 

このテーマについては「長官 山本五十六の手紙」の稿で論考したので割愛する。

ただし、IT産業が急速な発展する歴史的状況のなかで、危惧することがあるので、一言付言したい。

ITの発展と良心との麻痺がパラレル(平行)の関係になっているという事実である。

これは戦時中の話しでるが、B29が東京を猛爆したとき、焼夷弾、爆弾の投下スイッチを押した搭乗員は良心の呵責に苦しまなかったらしい。

もちろん命令という自己判断ではない状況もあっただろう。あたかも地図上に豆粒を落す感覚だったらしい。(高度数千メートルで投下しても地上の人間を識別でき訳ではない。たとえ戦闘員であろうが市民であろうが)

ところが搭乗員が日本に進駐し、東京の惨状を眺めたとき、突然、良心の呵責に苦しみ、しばらくの間、精神に異常をきたしていたという記述もあった。この傾向は、現在では幾何級数的に増幅し、「リアル(現実)とバーチャル・リアリティー(仮想現実)」との境界が混濁している状況であって、これを何となせねばならないと痛感している。

やはり、「良心」をも含めて、現代人には「人間を考学」する責任と使命があるように思う。

 

 

(三) 平時、有事、戦時(3K)

 

とくに国防に係わる組織において、平時と非常時とでは同一の組織と云えども、その役割(機能)と目的と気概とはおのずから変容してくる。簡略すると次のようになる。

非常時は、有事と戦時と大別してみる。

有事は実際に戦闘には至ってはいないが、戦争勃発の危険が最高点に達している状況である。やはり「いざ鎌倉」という段階になって身動きがとれるためには、勃発以前に「有事法制」が確立されていなければならない。

しかしながら外交努力などで戦争回避の手段が残されている訳であって、両にらみ臨機応変に運用能力が求められる。

戦時とは、すでに戦争が勃発し、戦闘が展開されている状態であって、この段階では士気実戦の対応能力が求めらる。

無論、その際に必要な能力は「サンカン原理」にもとづいた能力である。以上、要するに平時には法令順守、有事には臨機応変、戦事には士気実戦の「3K」ということになります。

 

     

青森県八甲田

     

 

(四) 国防(防衛組織)と規範科学(憲法など)

   存在(ザイン)と当為(ゾレン)

 

そもそも防衛組織の存否を憲法などの規範科学で律すること自体、初歩的な論理学の命題に反している。防衛組織の存在(ザイン註①)が、それ自体を憲法で否定することは社会科学や自然科学を否定することに等しい。現実問題として、あえて問題にするべきは、それを運用する為政者や指揮命令の職掌を持つ「人物」の能力(責任負荷力、統率に対する信頼)如何を問うべきであって、存在云々を論ずることではない

註①・・であること。であらざるを得ないこと。

 

田中美知太郎博士(京大名誉教授、ギリシャ哲学)の言葉を引用すれば、非常に単純明快な答えが得られる。

『火事がなければ消防は無用となる。これは確かだ。しかし、だからといって消防を無くせば火事がなくなると考えるのは、単純な論理上の誤謬であって、言葉の知性を備えた人は、このような簡単な誤りはしないはずである』(「今日の政治的関心」文芸春秋)

既に気が付いたと思いますが、「消防」と「軍隊」、「火事」と「戦争」に置き換えても、引用した田中氏の言とは論理構造上まったく変わりはない。無論、存在(ザイン)を前提にした上で、当為(ゾレン註➁)を法令などの規範科学で律することは、必要なことで大切なことである。

註➁・・なさねばならないこと。目的論理意思。命令。Orders

 

      

 

 

(五) 無用の用(荘子)とパレードの法則

 

「荘子」(内篇 逍遥遊篇)に「無用の大木」という項があり、これは「無用の用」と適材適所を説いたものである。以下、原文を抄訳する。

 

恵施は荘子に言った。

『私の家に樗(ちょ)という大木があるが、これは全く役に立っていない。ところで、お前さんの議論もこの大木のようなもので、大きいばかりで無用の代物だ』

 

すると、荘子はこう応えた。

【どのような者にも得手不得手(得意、不得意)がある。例えば、ヤマネコを知っているかな。器用で敏捷だが、獲物を追いかけているうちに、罠にかかって死ぬ始末だ。今お前さんは、せっかくの大木をもっていながら、それが役に立たないことを気にしているようだ。

それなら広漠として果てしない野原に植え、その木陰で悠然と昼寝でもしたらどうかな。万人に安らかな昼寝の時間を提供するであろう。この大木のように、それが小さな庭では無用であっても、少しも困ることはないよ】

 

要するに大器というものは小さな世界では無用の長物ではあるが,時と所を得れば大きな世界で万人のために貢献できるのだ。幕末維新にかけての人物としては、西郷や坂本龍馬が樗の大木に相当するのではないだろうか。

 

寶田氏の説く「人間考学」では、よくこの説話を紹介している 

あの孔子でも仕官のあてもなく弟子を連れて逍遥した時期もあった。

弟子は思い余って孔子に問うた。(簡約)

先生ほどの方が、仕官することもなく、このような境遇に置かれている。諸侯は先生の偉大さを理解できない・・」

孔子は応えて言う。

『人には運があるようだ。若くして仕官して有名になる者もいれば、能力があっても一生恵まれない者もいる。かといって、学問は衣食のためにするものではない・・』と。

 

 

パレードの法則

 次に、パレードの法則について考えてみる。これは蟻の世界においてみられる法則であり、「1対3対1」の法則と呼ばれている。

例えば、蟻が500匹いたとする。その中の役100匹(20%)は率先して仕事に集中する。(グルーブA系)

次の約300匹(60%)はAに引きずられるように消極的ながら働くグループ(B系)

残りの100匹(20%)は、働いているふりをしてけど、実際には怠けている(C系)に分かれる。要するにC系は全体のなかで無用の存在になっている。

 

ところで、この法則の法則たるゆえんは次の事実にある。

例えば、最初のA系を選択して働きぶりを観察すると、やはり「1対3対1」の比率で系統が分かれてしまう。つまり、A系(全体の20%)の中でもそうだが、同様にB系、C系でも、その中では、比率通り「働くもの」「追従するもの」「怠けるもの」が存在している。

問題は怠ける「C系」それぞれの比率で、が何ゆえに存在するのかという事実である。

自然界の摂理といってしまえばそれまでだが、自然界が原理的、根本的に無駄で無益と思われることをするとは思えない。何か理由があるはずだ。

 

 

寳田先生の「人間考学」では、生きるもの無駄に生きているものはない、とする。どう活か(生き)すかが学びだ。それは自分と他人、あるいは大自然のから己を知り、想像を働かせる糧として、有効な「無(無限大の有機)」とするか、単なる「駄」とするかは、自身の考え方次第だ、と。そして氏は面白い例を無名の禅師から語る。

ある禅の修行僧が、師が瓦を磨いているのを見て不思議そうに尋ねた。

『何をしていらっしゃるのですか』

【瓦を磨いているのだ】

『瓦を磨いてどうなさるのですが』

【磨けば鏡になると思って・・・】

『瓦を磨いて鏡になるはずはないと・・』

【毎日、経を読めば立派な禅僧になると・・・】

『・・・・・』

つまり、学び舎の知識・技術や情報は目的の「用」に立っても、「人物」は作れないということだ。まして、その「用」が、食い扶持など小欲のためなら尚更のことだ。

 

村岡として、その理由は荘子の思想の中に隠されていると考える。

例えば、これは思い付きかもしれないが、二つの理由が考えられる。まず第一にA系は一生懸命働くから、徐々にエネルギーが劣化する。その劣化を補完するためにエネルギーの消耗度が少ないC系が存在していること。A系は一途邁進の傾向が強いので、その分、環境への適応能力が弱い。

ところがC系の怠け者のグループは、案外、環境適応能力が高いのではないだろうか。つまり、仕事に夢中していない分、外部変化の対応に敏感なわけだ。

 蟻の世界の「パレードの法則」が、単純に人間組織に当てはまるとは思わないが、組織の責任負荷された位置にいる人たちは、少なくても蟻の世界には法則が存在しているという認識理解をもっていてもマイナスにならない。人間も蟻も自然界(宇宙)の創造である限り、人間の意思では抗しえない自然界の摂理に、人間界も順わざるを得ないかもしれない。

そのようなことから、冷厳で素直な心境を再開発することは、組織を統御する使命と責任ではないだろうか。

その結果、統御(ガバナビリティー)は、自(おの)ずから万理(宇宙の摂理)によって遂行(実践)されるであろう。

 

      

       

 

≪考学の抄≫

統御とは他の事象や人間を統率したり、支配するだけではない。

「人間考学」は、まず己を統御(欲望のコントロール)することを端緒とし、かつ目的への途(道、途上)としている。

その用法は様々だが、識るための思索や観照は、揺るぎない座標を自己に確立させなくてはならない。定点が揺らげば、時々や都合で表現も変わり、なによりも落ち着きのない人間となってしまう。「識」は道理である。単なる知識の集積や、物珍しい情報ではない。

スキルを高める、モチベーションを維持する、敏速なイノベーション、さまざまな言葉か飛び交うが、多くは時の変化に抗しきれず、単に滞貨を積層して苦渋している。

まさに自己の喪失という流行り言葉だが、その解決はいったん立ち止まる勇気と眺める余裕が必要になってくる。つまり、複雑から「そもそも」という単純に戻ることだはないだろうか。

 

難しいことではない。古代からの栄枯盛衰に揉まれた人間が、つねに思索したり夢想したりした「生死の間」への疑問への回帰だ。

それは生きている間の禍福や価値観、それが、ふと生命途絶を想起したとき、すべてが無になるという恐怖は種々の宗教や学問において、途絶えることなく論が立てられ、なかには定説として記されるものもある。

いずれ死ぬまでの口と行動の世界だが、たかだか人間界の世界のことも想うことだ。

切り口は粗雑だが。イタリアの経済学者ヴィルフレド・パレートが発見した蟻の研究も、下座観として蟻から見れば、人間界もさぞ不思議に映るだろうと考えるのだ。宇宙観ではどれが下部か上部かは判明しない、いやどちらでもよい。そこで蟻から聴いたら人間観察は、と考えることも妙考えだろう。

小動物は逃げるが、蟻は人間の観察など目もくれず動き回っている。蟻の人間観を聴いてみたいが、近ごろではマジマジと蟻を観察する暇もなければ、優雅に星を眺める者もいなくなった。

ある若者が「星がすきで、いつも眺めています」というので、「いつも観られているよ」と応じた。蟻もそうだが、何も持たずに寄っても無視だ。飴玉でも巣穴の傍に置けば群れになる。その時、怠け者の蟻も寄ってくるはずだと思うのだ。まそに「蟻考学」の端緒にもなる。

他と異なることを恐れるな」と明治の教育者は説く。

アップル社のジョブスも「気が違ったように夢中になった」と語る。その前提には、多くの人のためという志がある。

加えて、人の楽しみをみて悦ぶ、つまり「忠恕心」が溢れている。

私利我欲ではとうてい理解すら届かない彼らの世界だ。

創生期のアダムとイブは「知」を得たことによって苦しみも始まった。

それは心の世界の大切さや、想像力と直感力の認知でもあろう。

それこそ「人間考学」の描く普遍性への探求でもあるのだ。

 

 

次回は村尾聡史氏の「人間考学の不確実性原理」も終章となる。

(Ⅲ)は「文明と日本人」期待が膨らむ

 

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「人間考学」の不確実性原理  その(Ⅰ)

2024-02-22 02:19:20 | Weblog

 

二部に分けて持参した原稿を、流れを解りやすくするために連続掲載します。

終章(Ⅲ)は、到着次第掲載します。

なお、村岡氏は質実簡素な生活を好み、PC、FAXは所持しないため、御意見、ご質問は以下から転送します。

sunwen@river.ocn.ne.jp  まで

 

「人間考学」の不確実性原理

                 国策研究会評議員 村 岡 聡 史

  はじめに・・・

今年の正月明け、寳田先生から1通のEメールが届く。

それは、「人間考学」を現代人の思考形態(慣性)に理解対応できるように体系化することは可能か否かということだった。

「たぶん可能です」と気軽に応えてしまったが失敗だった。途中で背負いきれない程の重いお荷物を抱え込んだ自分に気が付いた。放り投げたい気持ちは山々だが,時すでに遅し。私に対して奇人(貴人)怪人(快人)と高い評価を与えてくれた寳田先生の期待をいまさら裏切るわけにもいかない。

したがって以下は対応の体系化(第一歩)であると同時に、私の悪戦苦闘の軌跡でもある。

 

     

 

 

 序 孔子の学風

2015年12/16から昨年の11/23日までの5年に及ぶ防衛関係に向けた寳田先生の講話聴講者の所感に対する応答集(備忘録146P)を拝読しました。

読み進むうちに、ハタッと気が付いたことがある。これは平成の「論語」ではないかと。むろん2500年の時空の隔たりがあり、その内容もまったく異なっている。しかし、講話聴講の所感に対する応答という研修形態は完全に一致する。

すでにご存じの方も多いと思いますが、論語は孔子と弟子たちの「講話応答」を後世になって編纂したものである。結局、普遍性の高いものは2500年の時空を超えて生き続け、おそらくこれからもそうであろうという訳であろう。

この聴講者との協働した名著「講話応答備忘録」(新論語)そのものに私が新たな知見を加える必要性は見当たらない。しかし、これでは約束を破ることになる。寳田先生とは20年来の道縁でもある故、約束は履行せねばならない。

そこで、「人間考学」をより正しく、深く理解するために村岡流「人間考学対応の翻訳」を謹記することにした。以下、テーマを3つにしぼり、歴史・組織・文明、についての拙論を展開する。

 

 

 

≪Ⅰ 歴史と人物≫

①  歴史とは何か

「歴史とは現在と過去の対話である」(E.Hカー)

「歴史とは過去の時空におけるエントロピー増大法則(エネルギーの劣化、無秩序の拡大)に抵抗する人間諸活動の総体である」(村岡流の定義)

戦争はなぜ無くならないのか。答えは2つの要因である。

 

1つは物理学的要因として、人間はエントロピー増大則に順っているからだ。戦争によって破壊され荒廃した国家社会はエネルギー劣化の象徴だ。その逆に平和を維持するには莫大なエネルギーの投入(ポテンシャル増大)が必要だ。人、モノ、資金、情報、システムの構築などだ。

 

次に考えられるのは生物学的要因としての「人口調節作用」がある。人道的見地からはあまり認めたくはないが、人間も生物である以上、無為無策であればこの原理に順わざるを得ない。

その点、経済学の立場からマルサスが説いた「人口論」(人類は幾何級数的に増加するが、食料は算術計算的にしか増加しないから、早晩人間社会は崩壊する)は鋭い点をついている。

幸いにも科学技術の発展によって食料は生産量を増大させ、マルサスの預言は外れたが、最近の人口と食料、気候変動の危機に直面してみると、その理論的根拠は今でも実証性を担保しているといえます。

 

     

 

≪Ⅱ  歴史を学ぶ≫

 

①   前段では歴史の定義に順って歴史理解の補助線(理系の発想)について記しましたが、ここでは歴史を学ぶ基礎的な心得について記します。

②   まず第一に「事」系と、「言」系に分けて考えてみます。

「事」系・・・本物、事実(静的、長期的)、事件(動的・短期的)

「言」系・・・記憶、記録、記述(論述、物語)

前記の両系統を時間軸に対応して織れば立体的な無歴史叙述になる。注意すべきは両系が必ず一対一に対応しないケースがあるということだ。

たとえば、日記などの記録では本人の記憶違いもあるし、伝聞を確認せずそのまま記載するケースもある。

一級史料といわれる文章類も然りだ。

 

だた、ここで寳田先生は、

・・面前に起きる血肉飛び散る戦闘や革命の臨場は、いずれの第三者の筆になる歴史ともなるが、体験者の行動は記録記述のためにあるものではなく、まして、゛歴史なるもの゛を鑑とし、かつ糧とする後世の人間のために企図したり想像する推定の学びではない。

客観視も大切なことではあるが、記述の検証や論拠の立て方などに労を費やすだけでなく まずは面前の瞬間的行為、あるいは肉体的反応の仮の臨場想像として考えるべきものだと,一考察を述べている。

くわえて、そこには個々の身に降りかかる肉体的衝撃や森羅万象の驚愕、恐怖、歓喜の事実をもって、ときに沈黙にある「言外の意」を汲みとるように情感、あるいは我が身に譬て肉体的浸透されなければ、たかだか人間の言や章とて次世の評に耐え得るものではない。それは、たとえ脳漿に染め付けられたとしても、それは学び舎の机上学の類でしかなく、深層の情緒性の集積(歴史)として遺るものではない、と・・。

 

日本は明治以降、ドイツのランケ史学(資料実証主義)を導入したが、落とし穴が二つある。まず第一に史料を重視するあまり、その真意があまり重視されないという傾向を生むと同時に、その真意があたかも不定方程式を解くがごとく、解答が一つに決定されないという弊害がある。

歴史学から科学的精神(観察→仮説→思考実験のプロセス)を奪うという欠点があった。最悪の場合、薄暗く生命力の乏しい博物館のような歴史学(又は歴史叙述)になってしまう。

私は資料を拒絶しているわけではない。要するに資料を尊重しつつ拘泥せず、これがスタンスである。

 

➁第二にマクロの視点(大きな事実・事件)とミクロの観点に分けて考察すること。

たとえば前者では、昭和十六年大本営発表「本日未明、帝国陸海軍は西太平洋において米英と戦闘状態に入れり・・」後者では、大本営発表当日前夜七日の夜、日比谷の映画館でアメリカの西部劇映画を愉しんでいた或る観客の翌日の心理状態など。

 

➂とりあえず、「歴史学」と、「歴史文学」に分けて学習に資する文献を提示します。前段では「歴史とは何か」(EHカー岩波新書)「西欧の衝撃と日本」(平川裕弘 講談社学術文庫)、後段では吉村昭の一連の歴史文学作品を提示したい。

同氏の作品は歴史学と文学の見事な結晶であり、かつ何よりも人間そのものが描かれている。また司馬遼太郎の「坂の上の雲」は明治期の「歴史の流れ」と人間群像を感知するための好個な作品であると思います。

 

≪Ⅲ  歴史に学ぶ≫

本節では、歴史(客体)を学びつつ、歴史(主体)の中に教訓や知恵を発見するという課題について論考します。やや大胆な発想になるが、ここでは大日本帝国崩壊をミクロの視点(小さな事系)から分析していきます。

 

①  青年 中岡艮一の短刀 (起)

大正十年(1921) 11/4 大阪毎日号外。「原首相、東京駅で暴漢に刺され絶命」翌朝の見出し、「狂刀、心臓をえぐる。犯人は十九歳の鉄道員(大塚駅)中岡良一」

ちなみに、中岡艮一の出自はそれほど低くはない。彼の父は土佐山之内容堂家の藩士中岡精で、伯父中岡正は維新の志士で、故板垣伯の先輩である・この暗殺事件が中岡艮一の単独犯なのか、あるいはまた、なにか複雑で大きな政治的背景をもった犯行なのか(黒幕説)、近代史の専門家でも諸説あり、現在でも不明である。

いずれにしても、大正期の大政治家原敬は頓死してしまった。

事件当日、原首相の周囲には警視庁、政官界の随員など三十人がいたが、あっという間の出来事であり、気付いたときには既に瀕死の状態であった。(凶行後15分死亡)

当時の原敬(南部藩)は内外で期待された大政治家であった。彼は伊藤博文が結成した政友会を藩閥、官閥などの人材を取り込み、結党以来最大、最強の党にまで発展させた。その剛腕というべき政治手腕(マキャベリスト)の一方で、議会制民主主義にも深い理解を示し、多くの国民から平民首相として歓迎されていた。(デモクラット)

その原敬が無名の青年の「短刀一本」で頓死してしまった。

 

英紙デイリーメール(大正10  1/4) は書いた

≪原氏の死によって氏の堅実な勢力がワシントン会議の上に影響する日本の不運を悲しまなければならぬ。原氏は内政に外交に偉大な抱負、経綸をやり遂げる不僥不屈な精神をもった偉大な政治家であった

たまたまシベリア、山東等の問題で非難を受けたが、これは人格云々するものではない。氏の死は日本、否、世界にとっても悲痛な事件であるとともに、世界平和の世界的運動の上に、日本の公平な態度を了解させ、また外国に日本の地位を了解させるために努力し、日本の地位の向上に力を尽くした公明な人である≫ 傍線は村岡

英紙の論調は元老山県の呻吟(うめき)になって現れる。

                           

 

  

 

 

元老、山県有朋の呻吟 (承)

政友会と元老山県の連絡役として水面下で活動していた松本剛吉(後の貴族院議員)は、事件を知ってすぐに山県邸に急行した。山県は八十五歳の病体を横たえていた。以下は松本と山県の会話である。

M 閣下、原首相が東京駅で暗殺されました

Y 何・・・、原が殺られた・・・、本当か。

M はい、犯人は大塚駅の若い駅員とのこと。

山県は呻(うめく)くようにして

Y 原が殺られては・・、原がやられては・・・、日本はタマッタものではない。

そう言って呻吟した。(参照 松岡剛吉政治日誌 岩波1959)

 

問題は『タマッタものではない』のスケールの大きさである。単に「国益のマイナス」レベルではないのか、「国家の崩壊」レベルなのか、という問題である。

前者ならば、人為的な政策で対応可能であるが、後者ならば、人為的な政策では対応することは極めて難しい。最悪の場合、歴史の自動律的な巨大な慣性に押しつぶされ、国家崩壊への坂道に転落していくことになる。元老山県の伸吟はどちらを意味するものなのか。結論からすれば後者である。それは山県の更なる呻吟(うめき)に耳を傾けたい。

Y 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 (再び) 松陰先生・・、高杉さん、木戸さん、俊介(伊藤)、聞多(井上)、・・・

 

何度も伸吟(うめき)を繰り返している。元老山県をして、うなされるように。この呻吟を吐かせる根本は何なのか、と自問自答したとき、結論は一つ、山県は「明治国家の崩壊」を予感(予知)したわけです。

幕末維新の動乱を辛くも生き残り、下関戦争、西南戦争、日清、日露、第一次世界大戦等々、幾山河の修羅場を経験し、国際社会のパワーポリティクスと明治憲法体制の構造的欠陥をも冷厳に認識していた山県である。世俗の老人から聴こえる呻吟とは同列に論ずることは絶対にできない。

以下は、元老山県の真理と予感を村岡流に分析してみた。

〈松陰先生以下の名前の連呼は、幕末維新以来心血を注いで営々と建設してきた明治国家が、この暗殺事件を契機に崩壊の過程を歩み始め、自分〈山県〉には、もはやその歩みを押し止めるエネルギーはない。だから、連呼した方々に祐けを求めたい、これが理由ではないだろうか。

 もう一つは、みなで建設してきた明治国家が早晩崩壊していくだろう運命に対して、無力な己の境遇に「申し訳ない」という謝罪の意味。

 

第三に、山県は次世代の人材に対しても危機感を持っていたと思う。つまり、明治の第二世代〈官製学校エリート〉にあっては、知識の量は増えたが、それを内外の大局的見地から政策に活用するべき、智慧と勇気と経験が欠けているというクールな認識がある。その有為なる人物の問題に関する危機感が呻吟として現れた。

 

第四に、以上の三点と「明治憲法体制」の構造的欠陥が結合すると、国家は物理現象のように自動律的に崩壊の過程を進んでいくことになる。山県は瞬時にそのことを見抜いていた。

 

明治憲法は、建前上では「天皇は統帥権の総覧者、大元帥」と規定されていたが、運用は英国流の「君臨すれど、統治せず」であって、政府が輔弼責任を負い、天皇には責任が及ばないようになっていた。

しかも、厄介なことに首相は各省大臣の同輩中の首席程度のポジションであり、各省大臣の任命権を有せず、ゆえに内閣(政府)は憲法上、極めて脆弱な権力基盤の上に立っていた。

考えは簡単。薩長土肥に代表される維新の功労者たちが、成文化された明治憲法体制の欠陥を、補って余りある政治的手腕を発揮したがゆえに、「ボロ」が顕在化しなかったわけです。文字は無機でも、人物に依って有機的機能を発揮したのです。

彼らが次々に世を去っても、元老として山県等は内外の政治を支えていました。

 

ところが、元老も次々と世を去るにつれ、明治国家は扇の要を失ったように弱体化してきた。次代は立身出世を企図し、その用として官制学校歴の数値選別に励み、官位は名利のために用とする風潮がはびこってきた。この段階から遺産の食いつぶしが始まったといってよい。

山県が描いた次代の元老を原に委ねようと考えたとしても、不思議ではない。もはや、歴史を俯瞰して内外を総攬する見識を有した人材は原の頓死でいなくなった。

「原が死んだら日本はタマッタものではない」という伸吟は、明治国家建設の参画者としての危機感の表れであり、明治国家の将来への危機的憂慮として元老山県なりの逆賭でもあった。

   逆賭・・・将来起こりうることを想定して、いま手を打つ。

山県は本件の三か月後の大正十一年八十五歳で亡くなっている。

 

    

 

 

➂ 長官 山本五十六の手紙

山県の没後、二十年の歳月が過ぎた。

その間、明治国家は内憂外患の諸問題を継続的に受けていた。内に於いては関東大震災、昭和恐慌、血盟団事件、五・一五事件、二・二六事件、外においては満州事変、日中戦争、日米通商航海条約破棄、ハルノート等々。それは内憂の政治的要因、外患の経済的、軍事的要因など、明治以降の外征的政策と前記した国家構成上の構造的問題が一挙に出てきたような時代の流れでもあった。

とくに外憂の要因を惹起する国内の政治的抗争を誘引するような軍事的(人事、陸海の歴史的軋轢)など、多くは明治創生期に勃興した軍事を中心にした国力伸長を期すという政治構造が内憂の大きな部分を占めていたようだ。その行動形態は民生、経済、政治がバランスを欠くこととなった。

つまり、国家統御の弛緩(人事、組織のゆるみ)は弱点として外患を誘引する問題ともなった。

 

結局、昭和十六年十二月一日の御前会議で、米英に対する開戦を決定することに結び付いた。要因の切り口はさまざまだが、ここでも各界の要路における人材、つまり用となる人物登用の問題として、山県の伸吟に現れているのだ。

満鉄調査部、総力戦研究所などの部署では、正確な資料分析(総合国力の比較)の結果、日米開戦不可論を提言(山本五十六等)していたが、もはや歴史の運動量が万事を決していた時点では、諸組織,諸個人の抵抗力(抑止力)では止めることは不可能な状態だった。

以下、それを象徴する「山本長官の手紙」に着目して歴史を学んでみたい。

 

日米開戦の二カ月前、山本五十六(長岡藩士高野貞吉の六男)が海軍の無二の親友、堀悌吉(当時は予備校)に宛てた遺書とも思える手紙がある。以下要約する。

昭和十六年十月十一日

一 留守宅の件、適当にご指導を乞う

二 大勢はすでに最悪の場合に陥りたりと認む。・・・これが天なり。命なりとは、情けなき次第なるも、いまさら誰が善い、悪いといったところで始まらぬ話なり。

三 個人としての意見は正確に正反対の意志を固め、その方向に一途邁進の外なき現在の立場は、まことに変なものなり。これを命というものか。

傍線部(村岡)は、山本個人としては、三国同盟に反対し、日米開戦にも猛反対してきたが、歴史の巨歩が万年を決した今となっては、日米開戦に突進せざるを得ないと、海軍の一員として山本長官の覚悟と決意を語っている。この手紙は、組織(規律)と個人(良心)との関係を考察する上でも貴重で深刻な史料となっている。

 

    

 

 

Ⅳ 安岡正篤氏(48才) (結)

更に四年の歳月が流れた昭和二十年八月十五日、大日本帝国(明治国家)は崩壊(滅亡)した。国内の大都市は空襲で焼け野原となり、広島・長崎には十五日の正午、日本政府はポツダム宣言を受諾する旨の玉音放送を流し、国民の日本の敗戦と、終戦を知った。

その三日前の十二日、大東亜省顧問の安岡正篤氏は、迫水書記官長が内閣嘱託の川田瑞穂氏の起草依頼した草稿に朱筆(監修修正・加筆)を入れている。

「万世の為に太平を開(拓)かんと欲す」(拓)は筆者挿入

この言葉、敗戦後の日本の政策(経済重視・軽武装)を見事に象徴した表現ではないだろうか。このように元老山県の伸吟は、敗戦を経て四半世紀(25年)の時空を経て、顕現したわけです。

寳田先生の備忘録では、安岡氏は敗戦間際、旧知の哲人(岡本義雄)に漢詩を贈っている。それは大東亜省の顧問であり、文京区白山の町会長でもあった安岡宅に早朝訪問時のことだ。

「先生、先生は偉い人だと聞いた。毎日の空襲で国民はもがき苦しみ亡くなっている。軍は聖戦だと騒いでいるが、このままだと日本および日本人が滅亡してしまう。・・・」

安岡氏は大東亜省の迎車を四十分も待たせて、側近には『来客中!』と告げ、岡本の烈言を聴いている。

数日して秘書から一幅の漢詩が届けられた。

 

漢詩簡訳

春の朝、夢を破って空襲警報が鳴る

殺到する敵機は雲のように空を覆っている

炎はすべてのものを焼き尽くしているが、嘆くことではない。

塵のような害あるものを掃って、滞留した忌まわしい風を除くだろう

 

傍線は、明治以降伸長し、ときに増長し、組織的には立身出世を企図した上層部エリートで構成する組織の止め処もない増殖は、国家の暗雲として天皇の権威すら毀損するようになった。

これを、国家の暗雲として、いかんともしがたい内患として安岡氏は観ていた。その憂慮の根底は天皇を象徴とした多くの国民の安寧だ。

また、邦人が支え、醸成し永続した国柄の護持への危機感だった。

漢詩では、「君、歎ずることはない」とある。劫火同然(焼き尽くすことによって暗雲は祓われ、新世界が訪れるという激励の漢詩でもある。

終戦の詔勅に挿入した、万世・・は、「世が続く限り平和であることを願う」意味は、まさにこの継続した意志によるものだ。と、寳田先生は記している。

 

      

     1989 戒厳令下の小学校 北京

 

Ⅳ 歴史の特異点

要するに、山県が憂いたように、駅員、中岡艮一(こういち)の短刀一突きで(歴史の特異点)を契機として、事後、明治国家は崩壊したことになる。

そんなバカな・・」と思う方は大勢いると思う。

では、私も聴いてみたい。セルビアの一青年の短銃一発によってオーストラリア皇太子が暗殺され、これを契機に第一次大戦まで発展し、人類に未曾有の不幸をもたらした訳です。

これは歴史的事実であり、世界史の教科書にも記載され、ほとんど常識化されています。

ルーマニアの独裁者チャウシェスクも集会に集まった群衆の一人の青年が「バカヤロウ」と発声したことで群衆はおののき、混乱して、終には栄華を誇った独裁政権はなんなく崩壊しています。

事後はさまざまな観点から原因を研究されていますが、貧困、軍の膨張、他国との軋轢、国内の政治事情など様々ですが、もしそこに沸点、飽和点、があるとすれば、一刀、一発、一声は、現状崩壊、覚醒、更新の端緒として、また研究者には歴史の特異点(分岐点。キーポイント)として、かつ問題意識をもった人間の行為として記されるものです。

第一次大戦に至る因果関係は諸説あり、専門家の間でも紛糾しますが未だに確たる定説がない。つまりよくわからない訳です。結局、歴史学(人文科学)岳からのブローチでは、自ずから限界があり、納得のいく合理的説明ができない訳です。やはり、社会科学、自然科学の成果を取り込み「腑に落ちる」説明に努める必要があると思います

つまり「思考の三原則」に順って、根本的、多面的、に思考し、もって歴史の特異点として回想することだと思います。

以上は「歴史の特異点」に接近するための一般的、描象的な方法論を説明したものですが、より客観的、実際的な方法論として、二つの処方箋を提示したい。

①   まず第一に、或る小さな事件が発生したら、それは、もしかすると「歴史の特異点」かもしれない、と直観を働かせることだ。元老山県のように「人間考学」を学ぶ意義はここにも存在している。

敷衍(ふえん)すれば、「人間考学」は、単に記号(文字)の順列、組み合わせを表現しているのではなく、直感(カント流にいえば先験的認識)を前提にした直観(絶えざる学修、経験による後天的認識)を働かせることを主題としている訳である。

つまり、「実相観入して神髄を極める」ことである。

 

➁ 現代数学の一分野である「複雑系数学」(フラクタル理論=自己相似、ベキ乗数の理論、バタフライ効果など)の基礎概念について理解を深め、それを「歴史の分析」活用してみることである。

たとえば、ヒットラーのモスクワ侵攻(失敗)をナポレオンの同様な侵攻と比較考察しても、(失敗要因として双方、極寒には勝てなかった)これはフランクタル(自己相似)の関係にあると考察することである。一駅員の中岡良一の短刀とセルビアの青年の一撃も然り。

このように複雑系の数学を活用することによって、歴史を多面的、根本的、将来的に分析し、現代の現象に活かすことが大切なことである。

以上のように論考しくると、何となく「腑に落ちる」ような気がしますが、実は現実には厄介な問題が水面下には存在しています。

「歴史の特異点」において、発生は偶然の産物であり(必然性はない)、それが「歴史の特異点であるか否か」を認識できるのは、元老山県有朋のように、ごく一部の例外を除いて事後的に結果を知っている未来の人であって、渦中のほとんどの人は「歴史の特異点」を認識することは適わないという事実である。

このように論を進めていくと、「慧眼の士」は、「なんだ、結局、理解にならない説明をしているだけではないか。それは要するにトートロジー(同義反復)じゃないの?」と思うでありましょう。であるならば。とりあえず「然り」と応えざるを得ない。(認識論理の限界)

 

ここで皆さんに質問したい。曹洞宗の開祖である道元の「不立文字」(文字によらない)と、「正法眼蔵」(仏教哲学の書物)の関係は如何かと。

その解答(回答にあらず)のヒントは、「人間考学」のなかに存在している。

認識の論理(合理的思考のプロセス)と実在の論理(正反一如)とを比較考察してください。そして繰り返しになりますが、直感と直観の大切さを理解ください。

 

      

 

寳田先生の抄

碩学といわれた安岡正篤氏も、「真に頭の良いと云ことは、直感力の鋭敏な読み解き」と説いています。。

その意味では、地に伏し、天に舞うような俯瞰力(眺め意識)をもって事象を考察することを勧めたい。

また、前記した「逆賭」(将来起きることを推考して現在、手を打つ)だが、難儀な労を費やす論理の整合性を求める前に、東西の学風にある同義的研究を対峙することではなく、南方熊楠が希求した東西の融合を通して、異なるものの調和を図るような寛容な人間(人物)陶冶こそ、人間考学の理解活学と目指す万物への貢献かと考えています。

その上での理解の方策として、東西の学風を用とすれば、各々の説家(研究者)も大局的見地で協働が適うはずです。

山県氏でいえば、土佐藩主山内容堂の見方として、幕末維新の騒動は、多くは無頼の徒の行動だったと感じていました。維新後は名利衣冠を恣(ほしいまま)にして、政官軍の上位に納まり曲がりなりにも国なるものを操ってきた。

その経過は、当初、出身郷(藩・地域)の競争をエネルギーとしてきたが、少し落ち着くと軍閥、官閥を蟻塚のように作り、威勢を誇り、なかには功名争いをするものまで出てきた。胸章や褒章で身を飾り、職位が名利食い扶持の具になってきた。

 

その中で名利に恬淡で剛毅な鉄舟に縁をもち、維新功臣から除外された旧南部藩から原敬が台頭してきた。

似たように児玉源太郎の慧眼もあり台湾民生長官として功績のあった後藤新平も岩手水沢出身の、官界の異端児(変わり者)だった。愛媛松山の秋山真之も然り、みな不特定多数(国内外を問わず)の利他に邁進し、人情にも普遍な日本人だった。

その気概は、我が身の虚飾を忌避して、物に執着せず(拘らない)、名利に恬淡な人物だった。

老成した山県が有用とみたのはその至誠ある人物だった。

武を誇り,威を振りかざし、竜眼(天皇)の袖に隠れて権力を壟断する明治の拙い残滓は危機を誘引し惨劇を異民族にも演じた。

また、それが明治創生期にカブレたようにフランスから借用した教育制度の成れの果てでもあった。とくに数値選別では測れない、本来有能な人物を見出すすべのない教育制度は、戦後の官域に残滓として残り、現在でも同様な患いを滞留させている

 

山県の危惧は自身の成功体験が時を経て、善悪、賞罰の見方を転換させる状況が生まれてきたことを表している。それは西郷が「こんな国にするつもりはなかった」と言ったという事にも通じます。

 

つまり、勝者の奢りから安逸になり、組織の規律は弛緩し、模範とする人物は亡くなり、増長することによって自制するものもなく、終には自堕落となって、白人種の植民地経営を模倣し、大義を弄して異民族の地に富を求めるたが、老境に入り、かつ死後のいくすえを思案する精神的境地に至ったことで、人物の真贋や無私の観察ができるようになったと思います

そのとき、掃きだめの鶴のようにオーラを発していたのが原敬だったのです。

 

       

      原 敬 氏

 

山本権兵衛海相は、地方司令官の東郷平八郎を連合艦隊司令に登用した理由は、「運が良い」と観たからでした。その運の良さは、部下にも恵まれました。参謀の秋山真之ですが、これも緻密な作戦を立てますが、最後は「天祐」(天の祐け)と述懐しています。

児玉は国家の危機に二階級降格までして日露戦争の参謀長として心血を注ぎましたが、司令官は愚鈍とも思える大山巌でした。それが東郷や大山の涵養した国家に有効な「観人則」(適材に人物を登用する眼力)だったのです。

思考の多様は、意図すれば目くらましになる。あるいは目を転じさせる興味があれば人間は、深く、落ち着いた思索を疎かにしてしまう。

それは、他があって自己が存在するという「自分(全体の一部分)」の確立を妨げ、連帯の分離、コロニーからの離脱、排斥、といった茫洋としたところでの夢遊な自己認識しか、できなくなってくる危険性をはらんでいる。

 

清末の哲人、梁巨川は「人が人でなくなって、どうして国が、国と云えるのか」と。

その「人」とは、どのような人間をみて感じ、察するのか。いまどきの人格とは何ら係わりのない附属性価値でいう、地位、財力、経歴、学校歴(学歴ではなく)を人間判別の具にしたのでは見えてきません。

今は、食い扶持保全のために高学歴エリートが、その知を、我が身を護るための用として虚言大偽を弄し、文を改竄し、責任回避します

≪文章は経国の大業にして,不朽の盛事なり≫

これは山県でなくとも「タマッタものでない」と思うところです。

いかがですか、人間考学は、あなたの内心を怖がらずに開け、無駄なものは省き、器を大きくしたところで素直に事象を観察することです。老境の域にならなくとも、童のころに戻れば醇な心は還ります。

それで眼前の事象を眺め。考察することです。

「人間考学」は、思索や観照の前提として、まず自らに浸透しなくてはならないことへの促しです。それは「本(もと)立って、道生ず」まずは、その内心に本を探り(己を知る)、特徴に合わせて伸ばし、道を拓くことです。

 

その道の歩みも、やたら巧言を語らずに、体験を糧に内心に留まった考察を反芻して、利他のために発するのです。

口耳四寸の学といいますが、口と耳の距離は四寸くらいですが、聴いた、見た、知った、覚えた、この簡単なことを身体すら巡らすことなく口から発することは「話」言べんに舌ですが、「語」りは、「吾」を「言」うです。

つまり梁巨川氏も言うとおり、吾のわからないもの、知ろうとしないものは、彼の云う意味での「人」ではないのでしょう。

その「人」を考える、人の織り成す現象の行く末を想像する、それが「人間考学」命名の由縁でもあります。

 

(II)に続く

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

はりまや橋夜学会 自由への渇望「自由之理」

2024-02-20 15:33:00 | Weblog

  賀川豊彦

 

「意見が通らないことは不自由ではない。大勢の人間の一部分であることを愉しいことだと感じなければ、独りを悦しむ(独悦)さえ不自由、排斥として悲哀をかこい、ついには不満を恃みとして思考を狭く、行動を締め、より不自由に陥るだろう」

 

明治はあらゆる制度を諸外国から引用、いや食べ合わせのよくないモノでも巧く調理吸収した。

憲法はドイツ、君主制は君臨すれど統治せずとイギリス王室に倣った。

海軍はイギリス、陸軍はドイツ、ちなみに今風の民主主義は移民大国米国から敗戦国として迎合順化した。

ついでに明治初頭フランスから取り入れた教育制度に添えて啓蒙思想を掲げ、民主に自由と平等や人権なる意識を知らしめた。

ここで伴氏の記した自由の理(ことわり)は、当時の日本人には新鮮かつ刺激のある内容だったと推察する。

とくに基礎的修学慣習のある士族にとっては日本人の情緒を多面的グランドに乗せる絶好の機会でもあったろう。

士族として内心の涵養や知識人としての使命感と教養は、今までの日本人の情緒性に宿っていたであろう道徳的徳目を、本来自由である生存の理(ことわり・意義)として、日本人を新たにグランドで躍動させようとする意欲と使命感が沸き起こったと想像する。

自由が放埓となり、民主が自利我欲となり、平等が他の不平等を惹起するかのような現代社会の混沌において、当時の彼らの利他社会へ貢献のための進取の精神は、逸話としてではなく、今後立ち返るための脚下照顧として読者に省きと考察を想い起す良機としてご紹介します。

 

         

        人と同じく、国にも装いがある

 

自由への渇望「自由之理(ことわり)」

はりまや橋夜学会 日時:2024年1月19日午後7時から 場所:WaterBase

講師:伴武澄

 ジョン・スチュワート・ミルが書いた「自由之理」(On Liberty)は自由民権活動家のバイブル的存在だった。

幕府の昌平黌出身の中村敬宇が明治5年に翻訳出版したもの。

「統治者たちの権力が自分たちの利益に対立し自分たちとは無関係に成立しているのは、本質的に避けられないことだ、と人々が考えなくなる時代が到来した」

選挙でえらばれる期間限定の支配者という、この新しい要求は、徐々に、民主政志向の政党が存在しているところではどこでも、そうした政党の主要な活動目標となり、支配者の権力の制限というそれまでの努力に取って変わるようになった」

こんな表現が目からうろこのように映ったのだろうと想像できる。

明治6年、これを読んだ河野広中にとって、これまでの漢学や国学によって培われた思想が「木っ端みじんの如く打壊かるると同時に、人の自由、人の権利の重んず可きを知った」のだった。

民権論者たちは「自由之理」とともに「西国立志編」「西洋品行論」の三冊を官吏と教育社で読むことができなければ「その資格に欠くる処有るものの如き観あり」といわれたほどであった。

果たして板垣退助がこの本を読んだか分からないが、内容は知っていたはずだ。

明治の自由民権運動の発端は明示的だった。

征韓論政争に敗れ下野した板垣や江藤新平らは2カ月後の明治7年1月には政治結社「愛国公党」を設立、「民撰議院設立建白書」を政府に提出した。署名者8人のうち高知県出身が4人もいた。征韓論という武断政治から自由民権へと政治姿勢が180度転換する。自由への渇望という思想的転換が沸騰するのだ。建白書に署名した江藤新平は翌2月、佐賀の乱に巻き込まれ処刑される。

それにしても、幕末から明治期にかけての日本の知識人たちによる新知識に対する学びには言葉に尽くせない渇望感がある。

ビクトリア朝中期のイギリスから日本に打ち寄せた思想の流れの中心は、19世紀初めからの自由主義・急進主義だった。

日本での翻訳書は、 時にはイギリスよりも広く、民衆に受け入れられ、自由民権運動につながった。

それを可能にしたのは、当時の日本での印刷出版技術、理解能力など社会的条件が熟していたことを示しているのではないだろうか。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

たしか、団塊と呼ばれていた 2007. 11 再

2024-02-20 01:56:51 | Weblog

 

 

団塊といわれたあの頃の人は来年には70歳になる

話題は変わり、病気、孫、年金、元気がいい者は、まだ車やオンナの話、それも多くは昔話だ。

この世代は前世代との端境期だ。「人と変わったことをするな」「余計なことを話すな」それが習性となっている前世代の両親を持つ子供たちが、易々とマスコミ宣伝の作った流行に乗って、のっぺりとした姿に変わったのもこのころだ。

受験も熾烈になったが、大学の新設ラッシュで大学と名の付くものはどこにも潜り込めた。

そんな具合だから、ナンパ・麻雀・学生運動、同棲、など学生が先頭を切って遊び始めのもこのころだ。

 

      

           津軽 平川

       

団塊の世代のあいだで流行っているものにオールディズというジャンルの音楽がある。
カントリー、ジャズ、ポップス、ロックなど1960゛70年代の懐かしい曲が、心地よい気持であの世代を思い起こさせてくれる。発信地のアメリカもすばらしいメロディーが湧き立つ環境があった。とくに白人が黒人音楽に触れ、テンポのよいリズム&ブルースがプレスリーの登場によって音楽カルチャーとして大衆に馴染んで来たころでもある。

あの当時の少年が団塊という妙な形容のもと、新たな人生の回帰とでも言おうか、親父バンド、ママさんバンドと称して人生の差別化?プラス存在確認、はたまた逃避なのか、励む姿が多く見受けられるようになった。もちろんあの当時の和洋ポップスなど、まるでスターを想い描き自己陶酔したかのように玄人はだしの演奏を繰り広げる。

英国のそれもあるが、まさに当時のグレートアメリカンを髣髴とさせるスタイルと雰囲気である。違っているのは懐の具合で、グヤトーンのギターがギブソンに、バールのドラムがラデックに変ったが、気分は当時のアメリカンそのものである。

なかには高橋竹山の洒脱な話ではないが、うまい人が高価な楽器で弾くとよりいい音がでるが、へたなやつが弾くと下手が際立つと言うが、戦後婦女子のブランド志向が雄の子にも伝染しているようだ。

あの時は、銀座のみゆき通りと晴海通りを回遊魚のように闊歩し、青山のキラー通りでは食べもしないドンクのフランスパンを抱え、さも分かりきった主のふりしてたむろしていたオジサンやオバサンたちである。さもなければ流行り始めた塾通いに一流校を目指していたような世間知らずの青い世代でもあった。

余談だが、塾、家庭教師の類が、代ゼミ、駿台、はたまたNOVAのようなカルチャー系が出現する以前は、書道塾、ソロバン塾が主流で、茶道、華道は女子の花嫁修業という古色蒼然とした「習い事」の範疇にあった。ソロバン塾などは、待ち時間にと卓球台まで置いてある塾もあった。

まだまだ成長期といわれたウブな頃だが、それでも華といわれた想い出なのだろう。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人間考学  主義で実態は動くか 11 12/24 あの頃

2024-02-17 01:18:11 | Weblog

石原莞爾   戦争史大観原本  弘前養生会蔵



世俗に称せられる右、左、中道といろいろな紙面に接するが、その商いや懐事情は同じでも集会、会議、居酒屋談義、選挙、宣伝などを見ると、みな特殊事情を持ったその手の人間には同様な「質」をもっている。

購読しているその一つの某党機関紙にこんなことがあった

「資本主義の矛盾の深まりと、科学的社会主義の生命力」

資本と科学的社会に「主義」を付け加えると何となく理屈に合いそうだが、人間科学には馴染まない。



それは昨今の金融の混乱を題材に「そら、みたことか」と言いつのる表題として使っているが、それは理屈でなく「人間」を観ていない。いや、人間とは不可思議で、当てにならない、更には単なる箱で整理したような教科書学習のマニュアルでは理解できないためか、合理性が無いと観念しているようである。この場合、彼らにとっては受験に必要なきカリキュラムであり、思索手順のマニュアルだからでもある。

権力に抗す、あるいは矛盾に反応するというが、もともと発する土台は権力機構の一部分である文部省の官制学なり制度に組み込まれて、その与えられた数値評価のみを頼りに選別された学域奴隷だと解からないでいる。
しかも選別されて高位を得ていながら、その域や世界というものを矛盾の対象にして、自らが「無知」の群れと考えている大衆を扇動して食い扶持を得ている「無恥」の群れの戯れの様なものだ。


しかし、ここで敢えてこの言を以て元とする
吾、汝らほど書を読まず、されど汝らほど愚ならず
もう一つある
物知りのバカは、無学の莫迦より始末が悪い

繰り返すが、元々是認していない政治体制のなかで、その構成継続を維持するためを目的とした官制の学校制度の教育を金科玉条のごとく是認し、かつ数値評価を唯一の価値として、自らの位置を占めている者たちの論は、もともと詭弁なのである。
しかも、仇敵であった田中角栄氏の政策で教育労働者は特別な待遇を得ている。教科書無償配布も氏の政策だ。その労働者の多くは彼らの支援者だという。

「過剰生産と過少消費の矛盾が危機の根源」として、外国人の声を借りて「だからマルクスを勉強するのが賢明・・」だと説く。そして「巨大に発達した生産力を制御できないという資本主義の矛盾」を記した党の綱領を紹介している。

要は懐具合と分配の争いのようにみえる。
たしかに経済学の争いだが、庶民は言い争っている人間の真意と信頼性を大切にする。たとえばお世話になった方の紹介や仕事をくれた人、好きな人や夫や妻の頼みで投票もすれば、新宗教にも入る。

つまり経済学ではなく、官製のカリキュラムから忌避された独立した人間の自由を担保する「人間学」をその身で魅せてほしいのだ。人は必ずそれに倣う。洋学、唐学にはない我が国の情緒だからだ。
ブータンの「幸せへの学び」もその一例である。







人権、平等、自由、民主はフランス革命の先鞭をきった準備思想のようだった。そして労働者大衆に向かって国家の長(おさ)である国王をその象徴として打倒した。そして民主と自由を勝ち取ったと大声で語らせた。そして次の長(おさ)のターゲットはロシア皇帝だった。


そこでも彼らは新しい言葉「解放」を植え付け扇動した。理屈はそうだが実態は違った。
彼らにとっては趣の変わった実験でもあった。だが人を括ることについては限界があった。
その後の惨禍と消耗は愚かな人間の欲望として歴史に刻まれている。

「言は易し、行いは難し」である。

地球儀を俯瞰して人間の変化、ここでは劣化を考察すれば、それによって人が優しくなり、人と調和し、善きことに連帯することが少なくなったことは、優化を探し出すことさえ難しくなったことでもある。

要は欲望の制御という人間の問題だ。

思想の伝播、宗教教義の拡大、際限のない貪りを流れとした人間の業だ。争いは起きるはずだ。庶民は知っている。だから願望はあってもその流れには乗らない。

実は居酒屋で彼らが無知の大衆と思っている初老の男どもに、それを話してみた

「難しいことは解からんが、ぬくぬくと部屋の中で小難しい理屈を考えていても経済は動かない・・、それが食い扶持なら他人を語らず、自分の苦労を語れ・・」

「思想は知らんが、人を納得させ、思い通りに動かしたいなら、まず自分からだ。デモしたり、旗を振りまわしたり、東京の人は面白がるが,田舎はまず庭先を掃除して、人に迷惑をかけないことだ」

たしかにバカな政治家と食い扶持だけを計算している役人には、みな厭になっている。彼らにも子供や親もいる、生活もあるだろう、だから強いことも云わないが、タコが自分の足を喰っていても痛みを感じないようじゃ、終わりだよ」

「俺の長野の松代は恩田杢がいる。そんなに人のことが心配なら女房と離縁して私事から離れ、贅沢をしないで一生懸命やっていれば、人はついてくる。地位も名誉も欲しがらなかった。理屈で大勢を煽るより先ずは自分を魅せることだ。日本人とはそんなものだ。そういえば、キリストだってそうだろう」

「野暮で潤いの無い連中だな・・・。せっかく尖ったガリ勉が世間慣れして柔らかくなったとおもったら此れだ。土方のために頑張っている土建の職員や、未払い回収をしてくれる兄ちゃんが可哀そうだ」






地方議員などもこんな理屈で後援者に話せない。実態はそうだ。
青森出身の都内の区議は季節になるとリンゴを買ってもらう。北海道はジャガイモだ。
みな苦労している。寒いさなか得意のラッパを吹いて人集めして中央の指示キャンペーンを大声で訴え、年寄りの支持者はかじかんだ手でビラを渡している。ここはモスクワではない。 ゛ご苦労さん゛ついぞ言葉をかけてしまう。党は知らないが人の懸命さは感ずるものだ。

彼らは決して中央幹部にはなれない。枝であり細胞なのだが、それも疲弊している。
以前、兵本達吉という人がマスコミの人物と訪ねてきた。拉致事件のきっかけを作った人物である。
『あのとき横田さんの玄間は夜中でも電灯を点け鍵も開いていた。蓮池さんの両親は早稲田大学の授業料を欠かさず納めていた。いつ戻ってきてもいいように・・』

関係する公安機関に連絡を取った。ほかの事情があったのだろうが、彼の党は公安は敵だった。なにか別段で便宜を図ったとの理由で査問にかけられ除命になった。でも元々の入党理由は、困っている人を助ける、そのために悪い体制を転換するという愚直な理由だった。彼も京都大学の秀才である。
だからと言って当時の国際共産党の細胞になった訳ではなかった。これは目の前の社会の問題だった。

尋ねた
「なぜ、幹部の多く、とくに委員長は東大法学部なの?」

『宮本さんが好のむからかなぁ・・』

「でも、東大,とくに法科は昔から官僚育成の、まさに体制を護持する人材を育成するところでは・・・、その数値評価で人を選別するという矛盾に抵抗した?」

『いゃ・・・、党もその基準のようだ。狭い慣習だ。そんなことは規約にはないが・・』

「じゃ、労働者は志があっても一生その場にいなければならない。学歴が基準なら此の慣性体制を転換しなければ支持も集まらないが・・」

『・・・・』

「所詮、己の意を通すため、あるいは同志という仲間を揃えるための巧みな弁でも、そんなことは庶民が一番嫌うことだ。民族のつながりは人情の忖度と阿吽の理解だ。昔は「分」が分かっていた。それを身分だの差別だのと言いつのり、説明責任だと言われても、そんなかすれた、みっともない調和や連帯はその世界だけのものだ」









せっかく馴染んできた現場の苦労は、物知りの愚かもののために、また固陋なる世界に追いやられる。その愚は「真の新たな世界」への順化を妨げるようだ。それを知学でなく身学して、あなた方が覚醒するべきだ。国民は善なるカウンターとして期待している。

あなた方は国民の情緒の一端を担っている。それは幼児でも分かる弱者への帯同だ。
ことさら弱者救済は謳うものではない。我が国の情緒は「心あるものの善行」に委ね、いたずらに自主自立を衰えさせる「貰い扶持」「下げ降ろし」は卑しいこととして忌避されてきた。


その連帯と深層の国力である情緒を壊すなら意図なら別だが・・・

人情は国法より重い、その理解には程遠い。
せめて拘束や妙な基準の無い、かつ大衆のために日々協働する同志を交えて長(おさ)を決め、皆で推戴できないだろうか。学閥、門閥、その弊害を打破するために志を抱いたのではなかったのか。

せめて一カ月、幹部は北辺の寒村の雪かき、被災地の塵祓い、孤独老人のお世話、くれぐれも駅当のビラ配りや、バッチ組の視察でお茶を濁さないでもらいたい。
そこには数値に表れない真の国力である潜在する力を観るだろう。
それが資の本となる「資本」というものだ。

外来思想ならずとも、我が国にはそれがあることを
気が付いてほしい。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

人と成り   2017 あの頃も

2024-02-15 01:32:40 | Weblog

 音声は知性を表すとは安岡正篤氏の呟きだが、それは電話の音声のことだった。誰でも判るような見たり聞いたりではなく、琵琶法師のように、盲目でも音を駆使して情景を表す潜在能力を現代人は失ったのだろうか。

それ故か人格とは何ら関係のない附属性価値(地位、名誉、財力、学校歴など)でしか人を測れなくなっているようだ。その虚装エリートによる組織の経営、法の運用、政治政策は、数多の社会問題、突然起きる災害、他国との交渉などに多くの煩悶を起こしている。

まさに「成っていない」人間の有り様として日本および日本人を覆っている。

 

「成り」は姿や被っているものだが、「人」の問題となると難しくも整理のつかない問題となるようだ。

いまどきは証明なるものを言葉や文字で説明するような必要に迫られることもある。

人なりは一瞬の観察で、観て(見るではない)察することでもある。

直感のもとにあるものは、体験や集積された心の養いの発露でもあるが、逆に道理(識)のない知や見や胆は有効でないばかりか、より理解を複雑化してしまう。

 

「心の養い」だが、それは勤勉なる努力や忍耐だけではなく、怠惰な放埓でも経過や結末で会得できる。つまり「人と人の間」や、職務などで起きる「公私の間」の煩悶などは、人の関係から得る人為としての「人爵」だが、ほどほどの勤勉な努力と縁の効用で得られることだ。

一方、自らの意志では認知できない「天爵」がある。

天爵も人爵もそれぞれ自身を高めることだが、高位を得たり評価を高める作為と、人智努力では到底あがなえないものが在ることを熟知することで真の己を知ることでもあろう。巷間の人権や平等などの意識を援用すれば、より分別や弁えが無くなってしまうことでもある。

 

容姿も経験や努力で造られるが、よく面(つら)と称されるものがある。風情ともいうが、政治家、職人、教員、農業や漁業従事者、稼業と称するヤクザ、などはそれぞれ独特な面が風容として漂っている。

役者はそれを演技として虚偽を上手に装い、似たもので政治家や教員もそれらしく自身を作り上げる。

しかし、元々それらしい雰囲気と容姿を備えた人物もいる。 それは容・象・体がバランスよく職分や位置に、それなりに納まっている人物だ。

ある国では、容姿はホドホドでも、背が高く、声が大きく、どことなくオーラ(風圧)が察せられる人物を頭領に推戴する。「おさまりのよい」人事は技能や知識とは別の要件だが、現代は安易な数値選別が主流となっている。

 

日露戦争での満州派遣軍総司令はガマ坊といわれた巨躯の大山、戦闘を指揮する参謀は地位欲得を超越した児玉源太郎、まさに人智を超えて天が援けるような人材布陣だ。

海戦は、゛運がいい゛といわれた東郷、参謀は「天祐神助」と後記した秋山真之。

 

                 

                東郷平八郎

児玉も秋山も戦に臨んで抗することのできない自らの境遇に天爵を感じて、その天祐(天の援け)を祈ったのだろう。

ここまで記すと、西洋の合理的学問とは相いれないことではあるが、児玉や秋山は史実に記されているように、他の将官の誰よりも科学的合理をもって兵を養い、資材を活用している。

 

               

          秋山真之

 

 

それでも、天に祈ることは、人間の為せる行為(人智)を超えた運否天賦(天に任せる)に委ねる謙譲の精神は冷静にあった。 

ここでは天や神は証明されないから否定するといった考えはない

それは死を滅し、公を興す、徹底した「公私の間」の弁え意識が養われていたことでもあろう。

 

 

             

児玉は官界の異端児 後藤新平を登用  台湾民政 満鉄 東京市長 多くの業績を成した

 

つまり「人成り」は自他の厳存を認知し、分別の弁えをもって物事に応ずる人物の様相なのだ。

その境地を得たければ、己の分を知り、貪らないことを前提とすることは言うまでもない。

 

※イメージは関係サイトより転載させていただきました

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

官吏の四角四面    09 10月 あの頃も

2024-02-13 00:57:18 | Weblog

几帳面である。鷹揚ではない。
満州国の副総理だった張景恵は日本人を揶揄して「どうも四角四面でいけない。異民族との調和は何処まで踏み込むか、あるいは引くかの間(ま)が重要だ。二、三度戦争に負けたら角が取れるだろう」と、ある意味、残念がっていた

其の証拠に、今でもあの、゛偽満州゛は良かったと古老は懐古している。

官吏も四角四面で真面目だ。しかし賄賂を取らないために下の官吏に回ってこない。コレには参った。朝から晩まで賄賂を考える処である。しかしこの賄賂も「人情を贈る」こととして定着している。だから貰う側にまわりたいと勉強(賄賂学)を一生懸命習って地位を昇るのである。つまり「昇官発財」である。





其の四角四面と揶揄された日本の官吏だが、このところコンプライアンスと騒ぎ立てているが、゛すり抜け゛については巧妙な知恵を働かせる。まさに狡務員である。
また、国民に対しては殊のほか四角四面である。融通が利かないというよりか、それしか考えられない愚直な人間が多くなったようだ。だが身を守ることには長けているし知恵もまわる。

内部情報は漏らすな。ついては生涯を保障する」と、裏金領収書を大量に作成しキャリアの餞別や遊興費を捻出する。それはタブーとは云うが検察キャリアの調査活動費と称する裏金、警察機構を曇らせているこれもキャリアへの上納金のような裏金だとマスコミは記した。


治安関係が先頭を切るものだから諸官庁もノーパンしゃぶしゃぶ・改竄・隠蔽の財務省、調達利権の防衛省、俺も仲間にと斡旋利得の政治家、青少年健全育成を謳う教師も縁故就職、どうも表面は四角四面だから始末に悪い。とくに体面を気にする背信の官吏がみみっちくも卑しい態度を見せたとき国民はどうなるだろう。


政治家をそそのかして立法は、ときに、やらなくてもいい理由付けや間違っても責任が及ばないようになっている。違反も「捕まえなくてはならない」では責任が生まれるので、「捕まえることができる」と、本人の運用(気分)次第となっている。




江戸の仇は長崎で・・・の例えではないが、理屈で装った言い訳には逆らえず、背中を向けてバカヤロウと怒鳴るしかない。まさか警察や検察、あるいは税務署の不祥事に、゛問題あり゛と告げるところも無く始末が悪い。しかたなくヌード掲載の週刊誌や、ワイドショーに告げても一過性のお笑いになるのがオチ。確かにあの狡猾さを知るものは止めを刺すまで不安でしょうがないだろうが、弱者の復讐は寄ってたかって残忍であるが徒労感がつきまとう。

かといって投票所の区切られた箱の中で誰の目も気にせず、怨嗟と復讐、あるいはオネダリを図っても、ことはより複雑怪奇な様相を浮かび上がらせ、時に不安に駆られる。





「禁ずるところ利を生ず」とは税と治安機関の専権だが、政治家とて選挙法の網目を厳密に抜けきれるものは無いのでコレも役に立たず。せいぜい違反の目こぼしと関係予算で融通しあっているのがオチだ。

始末に悪いのは、自身の資金を賄賂に使うのはまだマシだが、互いの組織の不祥事を舐めあうように公金をキャッチボールしたり、善良な部下にそれを強いる手合いは隣国の賄賂、汚職は笑えない。

考えようによっては陰湿でたちが悪い。
ことに人間の質や格としての高貴さがなくなった高位、高官、あるいは寄生虫のように擦り寄る御用学者、はたまた津々浦々の主だったボスによって其の劣化、劣情の進捗はいっそう甚だしくなっている。

天皇は民を「大御宝」と呼び、心に記している。
翻ってそれに倣う忠恕と高貴さは高位高官には無い。

鐘や太鼓で送り出した開拓民を辺境に置き、護るべき関東軍や高級官吏は真夜中に電話線を切って遁走している。

新京の日本人会のボスは、日本人婦女子を騙し集めて慰みとして占領軍に提供している。

四角四面どころではない。口舌は巧みで肉体的衝撃に弱い高位高官の喰い扶持官吏が、土壇場で逃げた歴史がある。異民族の地で王道楽土を謳い上げた彼等の結末の醜態は、日本人の恥として異国の地に刻まれている。異民族からの侵略非難どころではない。畏敬されるべき高官たちが同種同民族を食い合い陵辱したのだ。

内外の検証や批判は分別が大事だ。先ずは非難も足元からだろう。なぜなら其の根は増殖し、今以て変わらないからだ。







あの張景恵や孫文が歎き残念がった「真の日本人がいなくなった」という意味をもう一度探索してみたい。それを動かすものは、滅ぼすのは惜しいと首の皮を残してくれた彼等の日本人に対する想いであり期待だ。

多くの邦人は実直かつ勤勉だった。その精励態度を残像とする愛顧や、彼の国には乏しい人間の調和と連帯の国風に思う気遣いでもあったのだ。
終戦間際、満州へ侵攻した北方の異種人にはこの人情はなかった。

黙っていたら損をする。相手が言ってきたからと言い返す風儀はない。

敵であっても困っていれば塩を送る人縁への思いもある。故に頼まれずとも国境を越えて侠助に向かうこともあった。また深く思索し観照する民でもあった。だから模倣も巧みだった。

だが国勢の逆転なのか、口先の平和、人権、平等を唱えつつも、表層の異なりを言いつのり軋轢を増幅しているさまは、自らの意志で動くことなく相手の変化を望む依存、甘えの民癖として、いずれ衰亡の道を辿るだろう。

かつ、近ごろの、無気力で偏狭に切り捨てるような、野暮で融通性の無い四角四面の態度は、政経の外交友誼のみならず、人の生き様や経国に於いても、より閉塞感を導くに違いないと憂慮するのである。

コメント (1)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

智将と勇敢な兵士がいたあの頃 「後藤田の諫言」  2012  10 再  

2024-02-09 00:37:25 | Weblog

中曽根内閣の元官房長官後藤田正晴氏は、ペルシャ湾に掃海艇派遣を迫る中曽根氏を諫めるように言った。

「彼の地はかりにも戦闘地域である。そこに自衛隊を派遣することは戦争に参加することだ。国民にその(戦争)覚悟はあるのか・・」

本人はことさら厳しく諫言したものではないというが、戦争体験した世代なら語るように物申した方が相手にとっては厳しい。

翻って戦争を知らない世代が国民の大多数を占めるようになった。また、座標の定まらない時勢に流される手合いも多い。

俗話に「馬糞の川流れ」とある。流れるうちにバラバラになることだが、時勢に合わせることに汲々としていると力は弱くなる。

騒ぎ、落ち着きのない政治に指揮される軍隊は弱い、あの世代の人ならみな判っている。

国民に覚悟はあるのか

戦略戦術は机上だが、社会の気風を慎重に観察して「機」を観る後藤田氏の諫言は「救国の言」であった。

そんな人物の到来を待つに久しい世情のようだ。

 

             

 


政治も経済も上官、上司とよばれる立場がある。
いずれにも準拠する法なり掟もあるが、「人を治める」ことが肝要となる。
民主だ自由だ平等だといわれると上が下を治めることなど、口がさけても云えぬ雰囲気だが、単に職掌の位置を表す官の褒章、民の役職だけでは人がついてこない。しかも統制され「人を治める」など明治以降の官制学校カリキュラムにはない。

当時は、゛西洋かぶれ゛が甚だしく、国の根幹である教育までフランス風になり、平成の今を以ても邦人には似合わない環境におかれている。いや、その方が都合がよい一群の理由でもある。もっとも、゛そもそも゛とか、゛依って立つ゛ことすら考えない優雅で自堕落な世界にさも当然なこととして既得権を有する「上の人」が存在している。

この人の上に立つ人物の国家的要請だが、官吏養成としてわざわざ創った国立大学だが,はじめから人を成す教育に欠陥があった。西洋科学とそれを考証する合理的な手法と思索の慣性は選別や分別に数値の基をおき、人間さえも合理効率の結果として数値選別のグランドに追い込んだ。しかも、そのかぶれた倣いであるフランスの人権思想は今までの尊敬や敬重の秤を人の人格ではなく、附属的価値に多くを求めた。

もともと、自由、平等などのスローガンを喧伝し市民によって、今までの「長(おさ)」を無用なものとして倒し(フランス革命)、いまの日本のように、責任の無い、決められない、風潮を作りだし、自我平等を唱える市民という衆によって国家や社会に立脚する帰属意識すら失くした大多数を作りだした。

じつは明治の教育制度はそれを倣いとして、いや、゛かぶれて ゛模倣したものだった。
維新の傑物は今流の教育制度もない状況で人物を涵養した。外来は蘭学だ。
もとは藩校や塾だが、今と違うのは自由闊達の中での切迫した使命感だった。

加えて、何よりも大切なことは、人成りを倣うことだった。もちろん習学もあったが、師の言論、動作、細かくは仕草の意味を観察し、倣うことが修得の第一歩だった。
書道でいうなら創作以前に習う大家の墨跡臨書のようなものだ。



           

           弘前城




横道にそれたが、当時は人として成ることはその様なことだと自得していた。
土壇場における人の連帯は、とくにこの様な人の関係によって「信」を涵養していた。

標題にある問題だが、その土壇場における肉体的衝撃の最たるものが戦争である。今どきの様にミサイル、飛行機、レーダーが無いころ、当たり前のように白兵戦があり、騎馬戦もあった。深く入りすぎて自軍の大砲の惨劇に遭うこともあった。いまでも習志野のレインジャー部隊の精鋭は富士の樹海での最終訓練では蛇も蛙も生で食べるという。方向を間違えたら臨戦では捕虜か死亡である。

明治の戦争はそれが普通だった。あの極寒の満州黒溝台での戦闘はまさに人間そのものを兵器とした耐力の戦いだった。

いくら八甲田雪中行軍の烈なる試練はあっても弘前師団にとっては、伸るか反るかの戦闘だった。いま想い起してもあのとき負けていたら満州の派遣軍は全滅しただろう。そして朝鮮半島はロシアの影響下となり、力の乏しくなった日本も殺戮、輪姦、略奪の憂き目にあっただろう。

今の現状を嘆くなら、勝ってしまったから結果はこうなった、と思う考えもあろうが、ここは歴史戦略を離れて、なぜ、かくも敢闘できたのか、また司令官立見尚文の臨機応変な戦術と無条件に随った津軽兵士の醇なる精神は、今なお誉れ高く語り継がれるほど素晴らしい臨場だったのか、「人を統率する」「人に随う」互いの合気に畏敬の念を感ずるのである。

当時の若者は現在の米国同様、常に戦っていた。世界的にも西洋植民地も定着して版図の書き換えや新地への攻略なとが徐々に勢いをなくし、逆に企てによって国境をとなり合っている国同士の軋轢や、宗教、民族対立を煽るような消耗を促し、漁夫の利を得ようと謀る地球儀を俯瞰したような政略に変わっていった。

血気にはやる新興国の軍事国家であった日本も武人社会の残影と国民皆兵策が相俟って、他国と比することの無かった国柄を、ごく普通の国家の在り様として国民は受容していた。
白兵戦も普通に語られる戦闘だった。荒神山の喧嘩出入りや、近頃亡くなった暴走族の集団抗争も白兵戦だが、戦争の白兵戦は義理人情や勢力拡大ではなく、国家の存亡をかけた白兵戦だった。それは長時間にわたって怒号と吐息が眼前に降りかかる接近戦だった。

皆兵は自由民権とともに義務として課せられたと、ひとつの風評として聞いた逸話がある。

あの戊辰の会津との戦闘で多くの郷士、民衆が参加した。攻めるは元武士の官軍である。その会津の人々の戦いは勇敢にも戦闘専門職である官軍を大いに手こずらせた。その戦闘にあの板垣退助が従軍していた。そのありさまを見て強大な軍隊にするには今まで武士の専権であった戦闘行動を、国民を訓練してそれに向けようと思い立ち、その対応として自由と民権を与え、゛みんなの国 ゛を守る戦闘集団として閃いたと、聴いたことがある。あながち為政者の的は外れていないと感心した。その板垣も西洋のかぶれの一人でもあったのだろうか。






石原莞爾将軍 「戦争史大観」直筆  弘前養生会蔵



多くは農民だった。当時、気候変化によって収穫すらままならない環境にいた弘前師団も、多くは農民である。地域柄、寒さにはめっぽう強い。あの満州皇帝の秘書長まで務めた工藤鉄三郎(忠)は樺太まで船で渡り、結氷を待って氷上を徒歩でロシアに渡り、甘粛省まで行っている。

あるいは松陰が訪ねた伊東梅軒の子息伊東重は、人間はどれくらい自然に耐えられるかと訓練し、意を決して極寒の岩木山に籠っている。寒さに耐えるだけではなく、立ち向かう精神を吾が身で確かめているのも津軽衆と自称するこの地域の男子の倣いだった。






伊藤重 子息  伊藤六十次郎氏




アレができて、なんでワ(吾)ができないのか。
考えるだけでは男子は勤まらない、行動こそ津軽衆といわれる由縁だ。
一件、無謀と思われることでも、やってみなければわからんという気概がある。
ただ、口を多くするもの、ひけらかすもの、たとえそんな作為がなくても、敏感に反発し、津軽でよく言う「足引っ張り」が多いのもその特徴だ。意が溢れているのに語ることを避け、同じことを考えているものまで素直に賛意を表せない、そんな津軽衆が立見という智将を得ることによって、極寒の激戦に耐え、ロシア軍の猛攻を押さえた事情は時に悪口もあった秋山好古の賛辞にもよく表れている。






菊池九郎



津軽衆と言っても、まとまりのないこと甚だしい。いつも間合いを計り観察し合っている。
他郷の人も滅多には受け入れない。筆者も二十有余年、ようやく偉そうなことを言えるようになった。そのケガイの地といわれ、東征の頃でさえ白神の北は解からんといわれた地域は以南の日本とは異なる情緒をもっている。

だだ、枠を超えた偉人が輩出した。明治の言論人陸羯南、珍田捨巳、辛亥革命の立役者・山田良政、純三郎兄弟、格闘家・前田光世(オンデ・コマ)、多くが進取の精神を涵養して外地で活躍している。
その特異な津軽衆が敬愛したのが東北の西郷といわれた菊池九郎である。
その菊池は維新後の冷害、疲弊に嘆ずる郷民に向かって「人間がおるじゃないか」と喝破している。

その菊池に影響を受けた後藤新平は「人を育て、人を活かし、人物によって財を活用し、もって超数的効果を得る」と台湾の繁栄、満鉄の基盤作りと人物を観る独特な慧眼によって事業を成し遂げている。

今どきの数値を駆使して乗数効果などと古臭い理屈で税を弄する官吏とは一味違う、いや人物そのものの活かせる能力が異質な人物の姿だ。





日露戦争出征記念 一列右二人目 大山巌 児玉 山縣






智将と謳われ、津軽でも語り草になった黒溝台の勇戦と立見への愛顧だが、その立見は桑名だが語りのなかではれっきとした津軽衆の仲間入りを果たしている、いやそれ以上に郷の異なりを超越した畏敬でもある。自分たちの勇猛さも忘れ、あの人がいたから勝てた、生き残れたというのである。郷の友も亡くなった。帰郷した津軽は相変わらず貧困に打ちひしがれている。それでも智将に隋った極寒の戦闘は、猛訓練の厳しささえ忘れさせてくれる津軽衆の誇りだった。
そのためか、多くの若者が満州をはじめとする外地に勇躍して多くの事績をのこした。

我慢強く、意を共にする異民族と共に働き、愚直なまでにあの黒溝台で表れた良質なバーバリズムを本性として、ときに、明け透けにも映る底抜けの明るさを背負って満州の土になろうと誓った人物もいる。山田兄弟の甥、佐藤慎一郎氏もその一人だ。






佐藤慎一郎御夫妻 新京にて



氏は与えられたものに愚直なのではない、自身の矜持に愚直だった。
妻は隣の南部だった。満州で死ぬと居留民の救済に奔走するため、家族を帰国させることにした。自身は好きな満州の人たちのために、あるいは装った関東軍や日本人官吏の醜態を詫びる気持ちで満州の土になる覚悟だった。
満州国最後の重臣会議で日本人は狼狽していた。高級官僚だ。佐藤さんを呼ぼうということになった。

彼らは満州と人々のことは何も知らなかった、と述懐する。
「この国のことは、この国の人たちに任せなさい」
まさに土壇場の厳命だった。高官はしたがった。

家族を日本に帰す決断をして新京の駅頭で別れを告げて汽車を送った。
後ろ髪を引く妻ではなかった。氏は惜しむ間もなく次の行動に奔走した。
だが、妻は子供を伴い鉄領から引き返してきた。
「お父さんと一緒に居ます」

黒溝台と満州、そこに多くの勇者がいた。人生の縁だというのはたやすいが、臨んだ縁でなくても彼らは勇敢に日本人の矜持を護り、異民族と協働した。







江の島 児玉神社 爾霊山(203高地)




あの旅順攻略戦でも戦いの帰趨が分かり掛けたとき兵士たちはトーチカ、ざんごうから飛び出して幼子のように小躍りした。

今まで撃ち合っていたあどけない両軍の兵士は抱き合って言葉もなく喜びあった。言葉も通じないが意気を通じて旅順の酒場へ繰り出す無邪気さもあった。それまでは白兵戦もあった。ロシア兵は日本兵の両眼に指を挿し、日本兵は首に噛みつき両者絶命するような光景はざらだった。

後世の物書きは不敬にも乃木は愚将と嘲けることで対価を得た。しかし乃木は一瞥もしない境地があった。ロシアの智将と戦士を讃えて武人の礼を整えた。両軍の兵士を讃えあう礼は、この戦闘は決して狂人同士の争いではなく、互いの血脈の尊さを讃え、時の不都合な縁によって民族の誇りを競りあった戦いだと、死者の霊を憐れみ決して忘却しないことを誓ったのだ。

乃木は朝鮮の子供たちにも語っている。「自分たちの国で外国の軍隊が戦っている。憐憫の情(不憫に思う気持ち)を察する」

物書きは黒溝台の逸話に惹かれたように県立弘前高校を受験したが、門は固く彼を拒絶した。
陸羯南を書こうと思ったが、理解不能だったのか頓挫した。
そして遠い憧れの郷、北方のまほろばを書いた。









物書きにとって智将は心のなかにはいなかった。囲炉裏を囲んだ兵士の茶碗酒の苦さと祓う陽気さも分からなかった。

折に視る津軽衆の狂気のような陽気さと、明日の夢を無邪気に表す衆の心底は、筆者が都度に参拝祈念する弘前禅林の忠霊塔の階上に安置してある受け取り先の無い遺骨に「寒かっただろう」「痛かっただろう」「帰りたかったろう」と、独り問う哀惜の念は、多くの防人衆(さきもり)にも刻まれている。




忠霊塔




近ごろは智将なくして数値と兵器装備の競いとなった。また数値選別によって将官になる者もいる。しかし、勇猛な兵士は訓練や給与だけでは成らない。
なかには有事になったら無能な上官は後ろから・・・という兵士もいる。
何が足りないか、文部省カリキュラムにはどこを探してもない。
足りないものが分からずに、更新や補充もない。
智将も兵士も「知った、覚えた、」だけではなく、瞬時、土壇場でも知と身体を合理させるべく心学や良質な動態慣性を身体浸透させて適応させた。
人差し指が吹き飛ばされれば、小指でも撃った。
極寒で銃が凍れば小便をかけて融かした。




弘前忠霊塔 階上の御遺骨



聴くべきはあの人たちだ。言葉は無いが不朽な意志は教えてくれるはずだ。
そして、必ず、「ありがとう」と伝えることだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

再読 宰相が先ず取り組むべきこと 09 9/20 あの頃も

2024-02-04 13:15:28 | Weblog

 

いつの間にか・・・と、考える国民が等しく自省すべき問題に「己を知る」ということがある。

複雑な要因で形成された国家という代物に、民族という名において棲み分けられている夫々の国には、政治や経済という運動体によって維持され、そこから観察する多少高低や速度が繁栄バロメーターとして測定されている。

また、単にその要因だけでは集合体は成り立たない。そこには人々の情緒性や、あるいは精霊の在り処を生き様に溶け込ませてこそ国家として成さしめることでもある。

「人が人でなくて、どうして国が国として成り得ようか・・」と清末の哲人梁巨川の言である。それは清朝末期の宮廷官吏の腐敗と政治の堕落が外国勢力の侵入を誘い、終には清朝打倒という国内革命勢力の伸張を許してしまった事への歎きでもあった。

しかし政治権力は満州族から漢族に易旗しただけで、権力の国民に対する試みは変わらなかった。それは漢族内の国民党、共産党でも同様だった。

その繰り返しに慣れ親しんだように、民衆の権力に対する姿は巧妙かつ熟練したものだった。

日本人にも、一昔前は「中国人は・・」と、その性癖の異なりを嘲るものがいた。
あまりにも明け透けな欲望への欲求と競争心は、我国の情緒とは相容れないものとして見られていた。

また、中国の政治にも、自由と民主、資本主義の体裁を真似た我国は、米国を後ろ盾にした先進国という目で様々な反駁をしていた。

中国の近代化はさておき、彼らの言う人民と我国の国民が、政治との「間(マ)」や面従腹背という応えに、近頃余りにも類似してきたようにみえる危惧、あるいは、切り口を変えれば「成長」とも思える姿を見せたきた。

男女の「性」、奇種や贅溢れる「食」、制限のない「財」
それらの欲求は政治が制限するものではないとしているが、各々が自制、或いは自省すべき心がが亡くなるような様相は、いくら共通した循環思想をもつ似て非なる民族だとしても、これではまるで欲望への「同化」であろう。



             




前項で記した「精霊」と「情緒」を互いに無意味、あるいは無用と忌諱し、現世のみに有用なる「利」を追求する姿は、砂のように纏まりのない民として形容される彼の国のように政策執行者は常に強権専制の手段、あるいは擬した手法を考えざるを得ない状況に誘引されるだろう。

とくに、その執行を選択したとしても政策手続きなど専管している「官吏」の腐敗と無作為は、いくら善政を施しても行き渡らない状態を作り出し、終にはコントロール不能な機能不全、つまり無用な政府と混沌とした国情を作り出してしまう。

亡国は亡国に陥って、始めてその亡国を知る」というが、その兆しが直感できる読者に、声の届くであろう我国の宰相に、先ずは経国の前提とすべき要件について、゛非なるが似てきている゛隣国の歴史に尋ねてみたい。


(前記コラムの抜粋)

 「四患」有りて存するものなし

 後漢、洛陽に都す。後漢の人で、荀悦という人がいる。“性、沈静(沈着、おちついて静か)著述を好む。獻帝(第十四代、189~220年)の時、禁中に侍講す。官は秘書監……”としるされている。

この旬悦が、政治家、官吏には、四つの患い、重い病気がある。それは偽、私、放、奢の四つである。これを国の「四患」というと警告している
  



              




「偽」とは、あざむく、いつわるという意味ではあるが、この偽には、手段を用いて、人為的に他人をあざむく、という意味がある。

 「偽」とは、「化ける」と云う意味。偽せものの人という意味。
 今度の新内閣、閣僚二十一名とかのうち、九名までが、リクルートだとか、何とかの人たちだと報道されている。「リクルート堂々の復権内聞」だとか「宮沢丸は御赦免船だ」などと、連日大きく報道されている。そのような汚職内閣に、入閣を断った者は、誰一人としていない。

 政治とは、まず自らを正して、しかる後、世の中を正すのではないのか。とにかく、日本は上から下まで、「偽」が、蔓延している。にせ物が本物を乱しているのだ。




           




 「私」、公を忘れた私、私意、私欲に翻弄された日本人が、日本国中に氾濫している。

特に上に立つ人こそは、私心を滅して公に奉ずるのが本当のはず。ところが彼らは、天下、国家の公論を借りて、私情を満足させようとしているではないか。

私心を抱くことなく、誠心誠意、社会のために、そして仕事のために、尽し切るからこそ、その人間がはしめて生かされてくるのではないのか。自分を忘れた日本人の氾濫。自があっての分、分があっての自ではないのか。
  

「放」とは、棄てるということ。

子供らを勝手気ままにさせるのは、わが子を棄てることだ。慈母に敗子あり。必らず締りのない、目標のない子に育つ。
 放埓の埓とは、馬場の囲い。かこいを取り除いて馬を放つと、馬は、本能のままに飛び歩く。放埓息子、放蕩息子が必らず育つ。
  


「奢」とは、ぜいたく、おごる。

 俺の金だ。俺がかってに使って何がわるいと、傲然として、ぜいたくした気分になっている。そんなものは、ぜいたくでも何でもない、浪費だ。
 本当のぜいたくとは、金で買えないような悦びを味うことだ。
それを「窮奢」--ぜいたくを窮めると云う。 奢る者は、その心は常に貧しい。

偽私放奢、この四患有りて存するものなし。

生きた歴史は、この警告は真実であることを証明している
四つの病患の第三は「放は、軌(軌道)を越える」である。
  

「放」の原典は、「はなす」ことであるが、「放は、逐なり」(説文)で、追い払う(放逐)とか、「放は棄なり」(小爾雅)で、棄てる(放棄)とか、また勝手気まま、欲しいままにする(放縦)といった意味がある

 「厳家に格虜なく、しかも慈母に敗子あり」(史記、李斯)
 厳格な家風をもった家庭では、気荒い召使いでも、手に負えなくなるようなことはない。ところが慈愛に過ぎた母のもとでは、かえって、やくざな、どうにもならぬ放埓息子ができる。
 
放埓の「埓」とは、馬場の囲い、柵のことである。この囲いを解かれて放たれた馬は、本能のままに、勝手気ままに飛び回れるが、その馬は馬としての用はなさない。

 放蕩息子とは、そのように軌道をそれて、かって気ままな振舞いはするが、人生に対する方向のない、志のない、全く締りのない悪子のことである。自分で自分を抑えることが、できないのである。
 
前漢の第九代宣帝(前74~79年)の時、侍御史。その後河南の太守として、河南の民政を委された人に厳延年という人がいた。彼は厳しい母に育てられた人であった。

 にもかかわらず、彼は人民を刑殺すること頗(すこぶ)る多く、冬でも殺された人々の血が数里も流れたという。それで河南の人々は、彼のことを、「屠伯」殺し屋の親玉と呼んでいたと記録されている。

そのような様子を見ていた彼の母は、「お前のように人を多く殺せば、やがては自分も殺されることになるだろう。私は故郷に帰って、お墓を掃除して、お前が殺されてここに来るのを待つことにしょう」と云って息子を諌め責めたてて、故郷へ帰った。
 果して、彼は、死刑に処され、その屍は街に晒された。(後漢書、酷史、厳延年)


 「厳母、墓を掃く」
 という言葉が残っている。継母に育てられた子においてすら、この始末。まして、骨のない慈母に放縦に育てられた子供たちの将来は、まともではあるまい。

「温室に大木無し。寒門に硬骨有り」
とは、苗剣秋が、私に語ってくれた言葉である。要するに「放は軌を越える」からである。
 いかに日本は豊かではあっても、子供たちが駄目なら、そんな国に明るい未来は望めまい。そのような子供を育てているのは、私たち大人、親たちである。

本当の亡国とは、国が亡んでしまってから、亡んだことを知ることである。今なら、まだ救う道はある。

四つの病患の第四は「奢は、・制を敗(やぶ)る」である。

 「奢」という字は、古文では「」と書いていた。つまり「大」プラス「多」の会意文字である。大きいうえに更に多くの物を寄せ集める意味だという。
どうするか、救うしかない
 
天下を憂いることは簡単だ。天下を救うことは、むずかしい。しかし救うしかない。何とかいう坊さんの言葉 一燈照隅、万燈照国、これしかない。

コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

カエルの面(つら)に小便政治  あの頃も 

2024-02-01 00:41:53 | Weblog

カエルの面に小便政治

 

カエルは天上からの潤いに、顔を上げて目をつむりウットリとした顔でそれを享けている。

いまどきは放射能か黄砂混じりなどという野暮はあえて言わないが、たとえ小便でもそれは変わらないだろう。

無感能、人間なら問題意識無しの無関心とでもいおうか、はたまた空気が読めない(KY)ともいうらしい。

 

為政者はカエルなら国民は「釜中の民」(ふちゅうの民)だ。

これもカエルに例えるなら、カマドにかけられた大釜の水が、ぬるま湯なら温泉気分でもよいが、温度が上がり煮えたぎるとカエルは茹カエルになってしまう。水鉢のボウフラなら飛び立つが、メダカや金魚は死滅するだろう。

まさに、温泉・グルメ・旅行・イベントの刺激と遊興が、ギリシャやローマ、あるいは大英帝国が衰亡するときに表れた市民の指向性だと識者はいう。

 

上下こもごも利を征(と)れば、国 危うし」まさに倣い、似るものだ。

 

王陽明も「外の賊、破るに易し。内の賊、破るに難し

解り切っていることだが、人間の動向が「風」となり、いまわしくも息苦しくなっている。それも、いつの間にか、徐々に慣らされ、怠惰になり、それさえも関知することなく、無関心になる。大釜を温め,熱く熱中に導く釜焚きは、その手をゆるめない。

 

天邪鬼はついつい野暮なお節介を言うが、相手も分かっているのか、それとも分かっているけど止められないのか、それとも、゛いいんじゃん゛と思っているのか、偏風はとまらない。

 

ゴーギャンは南の島に、寒山寺の拾得和尚は隠遁して世を嘲笑い、利休は庵で鎮まりを求めた。人気者のジョブスは、ときに「狂」にならなければならないと説き、松陰は「他と異なることを恐れない意志」を志士に説いた。

みな天邪鬼で変わり者だ。多くは大釜に入って、人と゛つるむ゛ことを嫌い、お願いしますと土下座までするカエルにはなりたくなかった。そのカエルがホドも弁えずに釜を炊いている。

そっと薪を差し出す者もいるが、焚き木を出すだけなら言葉違い(言語)は気にならない。

 

喩えにしたカエルには気の毒だが、水と小便は判らぬはずはない。

分からぬのは二本足で歩く生き物だけだ。

コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする