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水戸の見て歩き

水戸・偕楽園の話 (1)

2021-09-12 18:47:35 | 水戸

 好文亭のあるところには、拝殿と本殿で30坪あったという七面堂があったそうです。ここは、水戸藩2代・徳川光圀の妹・菊姫が、夫の死後尼となって住んだ地で、死後、菊姫が熱心な日蓮信者だったことから、3代綱條(つなえだ)が見川の稲荷神社にあった日蓮と縁のある七面堂を移築したのだそうです。斉昭は、それを妙雲寺へ移して偕楽園を開いたそうです。写真は、妙雲寺にある七面堂です。

 

 攘夷の戦いの準備として、偕楽園の梅を梅干しにして1000樽漬けて保存しようというのが斉昭の目標だったようです。しかし実際にはその1/3くらいしかできなかったようです。しかもそれは、幕末の争乱で那珂湊の戦いなどで、諸生党の軍用食料として使われたそうです。写真は偕楽園の梅林です。

 

 好文亭の太鼓廊下は橋廊下といわれ、うぐいす張りだったそうです。昭和天皇が学習院初等科5年生だったときに、ここを歩いて、「太鼓橋のようだ」といったことから、太鼓廊下といわれるようになったそうです。

 

 偕楽園は、水戸城防備施設の意味もあったそうです。外国船が那珂湊に来たときに、のろしを上げるのに、竃神社(かまどじんじゃ)の森がさえぎって好文亭3Fの楽寿楼からは見えないということで、神社の鎮守の森を伐らせたそうです。境内の大けやきが寸詰まりになっているのはそのせいかもしれません。写真左が樹齢330年のけやきです。

 


 偕楽園記碑には天保10年(1839)と刻んでありますが、12年(1841)に杉山下の彫刻現場へ斉昭が検分に行っているそうです。そして、偕楽園が開園したのは天保13年(1842)だそうです。


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