ぶらっと 水戸

水戸の見て歩き

水戸の姿のよい木

2019-03-31 20:03:56 | 水戸

  どれも周囲に樹木がない一本木で、のびのびと育ったからなのでしょう、たいへんきれいな形をしています。このまま素直に成長して行くといいなと思いました。

 

エノキ(鹿島神社(森戸町546)近く)

 それほどの古木ではありませんが、姿が立派です。道路から一段低いところにあります。キヅタがからみ、根元に小さな石祠があります。

 

タブ(㈲常澄塗装(川又町489)近く)

 市の保存樹木に指定されていて、樹齢は200年だそうです。遠くからもたいへん目立っています。

 

ケヤキ(千波町 湖南坂駐車場をのぼったあたり)

  これも市の指定樹木で、樹齢は200年だそうです。住宅地の中にある空き地にありますが、ここが公園になったらいいなと思いました。

 

シダレザクラ(見川小学校(見川2-96-3)校庭)

 徳川光圀の奥女中・高尾の一周忌に、光圀が植えたという、樹齢300年を越えるエドヒガンの枝垂れだそうです。今は生徒達を見守っているようです。高尾の墓は近くの妙雲寺にあり、かつてはここも妙雲寺の寺域だったそうです。

 

クスノキ(茨城大学(文京2-1-1)構内)

 それほどの古木ではないようですが、クスノキは成長が早いので、立派な形にそだっています。この大学のシンボルツリーになって行くのでしょう。

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水戸の扁額(1)

2019-03-30 19:44:51 | 水戸

  水戸を代表するところを表示する扁額です。

 

好文亭(常磐町1-3-3)

  好文亭にある以下3つの額は、すべて戦災で焼けて復元されたものだそうですが、どれも偕楽園をつくった徳川斉昭の書だそうです。

 

楽寿楼(好文亭 常磐町1-3-3)

  好文亭3階の楽寿楼の額は、千波湖側の長押の上にかけられています。好文亭の扁額も同様です。

 

何陋庵(かろうあん 好文亭 常磐町1-3-3)

  好文亭につくられた茶室です。好文亭入口南側にある、茶室入口の軒下にかかっています。以上3つの扁額は、気をつけないと通り過ぎてしまいますので、注意して見て下さい。

 

対古軒(たいこけん 好文亭 常磐町1-3-3)

  何陋庵へ好文亭側から入る、待合にあたる部屋のようです。

 

弘道館(三の丸1-6-29)

 今ある弘道館の建物は、昭和20年の空襲にかかったものの焼け残ったそうですが、この額も、建築当時のものだそうです。斉昭の書で、玄関にかけられています。写真は露出をだいぶいじっています。実際はもっと見えにくい額です。

 

至善堂(弘道館 三の丸1-6-29)

  至善堂は、徳川慶喜が水戸に戻って謹慎した部屋だそうです。徳川ミュージアムに、これとそっくりの斉昭筆という額がありました。そこには、弘道館の額は明治になって、それを模写したものと解説してありました。

水戸の神額(3)

水戸の寺額(3)

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水戸の長屋門(3)

2019-03-29 20:45:44 | 水戸

  長屋門は武家屋敷の門様式だったようで、それを農家が作ることができたということは誇りだったのでしょう。門の両側には、武家では門番などが住んだようですが、農家では物置などに使ったのでしょう。大変広い面積を持つ門なので、現在は住居スペースとしても利用されているようです。塀などで全景が見えない場合も多く、私などのような物好きには、物足りなさを感じることがよくあります。

 

中原町  下が板張り、上が白壁で、門の両側にくぐりがある形式のようです。

 

杉崎町  全体が、板で覆われていて、屋根下に軒がつけられています。軒やその下に張り出して作られた部屋らしいものは、改修のときに加えられたのでしょう。

 

上国井町  右側にくぐりがあります。現在は家の裏側に門があるように見えます。下に横板があり、通りにくそうです。

 

小泉町  瓦型金属板で覆われていて、屋根てっぺんにある熨斗瓦部分の装飾が変わっています。米工房さとうという名前で、生産した米を小売りしているようです。

 

赤尾関町  屋根が金属板になっていて、左側は住居になっています。くぐりは右側です。

水戸の長屋門(3)

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水戸の八坂神社(3)

2019-03-28 20:51:34 | 水戸

  八坂神社は明治の神仏分離までは、牛頭天王(ごずてんのう)などともいわれていたようです。実際、「水戸の八阪神社(1)」でご紹介した河和田の八坂神社の拝殿内部には、牛頭天王という神額がかかっています。その牛頭天王は、インドに神の祖型がないそうで、あまりはっきりしない神のようですが、日本に入ってきてから、独自な展開をもったものなのでしょう。

 

八坂・冨士浅間神社(下入野町富士山) 天王さんといわれているそうです。かつてはここも牛頭天王といっていたのでしょう。

 

三宝大荒神、金刀比羅大明神、八坂神社(西大野区民館(西大野114)近く) 細長いため池の脇にあります。3社が一つの社殿に祀られています。鳥居と社殿の向きが正反対という不思議な配置です。

 

大杉神社、八坂神社、別雷皇大社(香取稲荷神社(東大野158)東南250m位) 3つの神社が扉を別にして一つの社殿に祀られています。田の中にあり、その背後に共同墓地があります。

 

鹿島神社(大塚町1108) 境内社としての八坂神社ですが、たぶん神輿が納まっているのでしょう。

 

熊野神社(谷田町4503) 八坂神社と一緒に、山王神社、金刀比羅神社、天満宮、疱瘡神の全部で5社が境内社として合祀されています。

水戸の八坂神社(2)

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水戸の珍しい石碑(1)

2019-03-27 20:48:32 | 水戸

二夜三日念仏回向塔(満福寺 大塚町495-2)  念仏講の講中が二夜三日念仏をとなえた記念に建てられた碑なのでしょう。縁日には念仏講の講中が堂内の阿弥陀仏の手とこの碑をサラシで結んで、鐘を叩いて念仏して回り歩いたそうです。上部の梵字は阿弥陀如来などののことだそうで、碑の建立は文久元年(1861)です。

 

奉書写地蔵経理趣経一石一字塔(六地蔵寺 六反田町767)  地蔵経と理趣経を、一つの石に一字ずつ書き写して、それを埋めて、上に碑を建てるという、江戸時代にはやった信仰行事による塔だそうです。寛政2年(1790)に六地蔵寺の法印が書写して奉納したそうです。ほんとうにそんな大量の石が埋められているのかと思いますが、福岡県では68.000個の経の一字ずつを書いた石が出土しているそうです。

 

奉安産守護千人供養所塔(仏性寺 栗崎町1984)  仏性寺44世住法師覚運によって、天明4年(1784)に建てられた石塔だそうです。仏性寺と六地蔵寺は、石仏・石碑の宝庫です。

 

己巳供養塔(福徳弁財天 渋井町)  「つちのと み」とか「きし」とよんだりするようです。碑は文字が上下逆になっています。下には、一万人印施、枝川村別当とあります。弁財天の使者がヘビ(巳)であって願い事を届けてくれるという信仰や、五行説で、「土(つちのと=己)は金を生む」という説から、巳の日や己巳の日に弁財天を祀って富や福を願ったということのようです。松ヶ丘1には巳待供養塔があります。

 

高祖大師塔(東前町)  昭和16年に同族の5人が弘法大師を祀って建てた石碑のようです。ここは、小字が大士前といったそうですから、かつてこのあたりに大師堂があったのでしょう。

水戸では珍しい神仏

水戸にある珍しい名前の神社(2)

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