「遠野」なんだり・かんだり

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遠野に移った葛西系の人々 其の弐

2018-04-15 22:02:24 | 歴史

昨夜は、住まいのある地域の自治会総会でした。

 

今年は役員改選期ながら、続けて自治会長になられたのは、震災で遠野を終の棲家に決められたTさん。

以下、役員が若干、交代したものの、自治会長を中心に盛り上げようという気持ちが伝わる総会となりました。

総会後は、ビール党に、日本酒党、そして焼酎党と各党入り乱れての懇親会となりましたが、

無党派の私は、三種類、ブレンド状態となり、朝まで爆睡。汗

 

我が家の猫の額には、春のバレリーナが咲き始めました。

さて、

遠野に移った葛西系の人々其の弐ということで、今回は浜田(濱田)氏

浜田姓の人物が遠野で確認できる最初はと云うと、おそらく、遠野古事記。

豊臣秀吉の天下統一以降、三戸南部氏の附庸となり、先君阿曽沼氏無き後、遠野の城代を務めていたのは

上野右近広吉ですが、その右近が亡くなった(1621)後は、三戸南部氏から派遣された毛馬内・槻舘二人の

交代制城代の時代となります。

その頃、城下諸氏屋敷に住んでいた人達の名前の中に、500石、葛西浪人、浜田彦兵衛がいます。

遠野に住んでいても、三戸南部家臣ということになります。

いつも参考にさせて頂いている近世こもんじょ館には、

濱田彦兵衛清春 葛西一族濱田安房守重正男 没落後閉伊郡に潜宿し、信直公に仕へ

七百石、大槌城代、寛永十六年卒

とあり、清春の息子は300石となり花巻へ移動し、幕末まで南部家臣として続いたようです。

 

桜が咲いたらしいということで午前中お邪魔した大工町の善明寺、花は確認できませんでしたが、秒読みです。

 

陸前高田の広田湾周辺を治め、米ケ崎城主だったのが浜田氏。

遠野にも関係ありそうな時歴を見ると、秀吉の小田原攻めから6年目の天正16年(1588)、

浜田安房守に呼び出され、世田米城の浅沼(阿曽沼)甲斐と息子の中務が討たれます。

世田米浅沼氏と遠野阿曽沼氏の血縁関係は定かでありませんが、同族だったことは苗字に現れています。

この時代、浜田氏、江刺氏、世田米氏、遠野阿曽沼一族は、其々、某かの婚姻関係にありながらも、

伊達と南部に挟まれ、どちらに組するかで揉めていた時代でもあります。

天正18年(1590)、宮城県北・岩手県南地域で葛西・大崎一揆が起こり、葛西・大崎旧臣の多くが没落。

慶長5年(1600)関ヶ原の合戦となり、遠野では政変により遠野を追われた阿曽沼氏が

伊達政宗の後援を受け、上郷町赤羽根、住田町平田で遠野奪還の戦いを挑みます。

その戦いに阿曽沼氏側の人物として住田町の上有住城主だった浜田喜六がいますが、ここで戦死。

喜六は浜田安房守広綱の弟だと云われています。

この時、浜田安房守広綱が、どこにいたのか確証を得る史実はありませんが、

時間は前に戻り、天正16年(1588)に浜田安房守が気仙沼方面へ進出し、主家である葛西氏に鎮圧されますが、

その時いた安房守四男清春は、後に南部氏に仕えるという文章が見られることから、

濱田彦兵衛清春が遠野に移った時代は、1588年から上野右近死後の1621年の間が、まず考えられます。

次に彦兵衛が信直に仕えたということで、信直の在任期間を見ると天正20年(1592)から慶長4年(1599)

であり、1588年~1621年を1592年~1599年に絞れ、阿曽沼氏の遠野奪還の戦い時点で、

遠野に潜宿していた可能性がありますが、その時の弟喜六との関係がわかりません。

 

松崎町光興寺にある阿曽沼氏歴代の碑周辺は例年、桜と芝桜がきれいに咲きます。今はまだ咲かず。

鎌倉時代から江戸時代直前まで続いた阿曽沼氏歴代の墓碑、その多くがどこにあったのか、

菩提寺がどこだったのか謎です。

濱田彦兵衛清春の由緒では父親は広綱ではなく重正で、どちらも安房守ですが、

重正に関する文献が見当たらないのが気になります。はたして、広綱の四男だったのか、

広綱の兄弟重正の子だったのか・・・。

確実なのは、八戸直栄・清心尼公が移封される寛永4年(1627)以前の慶長18年(1613)には既に

大槌代官としての仕事をしており、禄の多さといい相応の人物だったと思われます。

遠野古事記では、その在住時代、彦兵衛は南舘に住む大原新右衛門の次に記され、

居住地名が空白となっていますが、その書き方を見ると大原氏と同じ南舘に居た可能性があります。

南舘は鍋倉本丸の南側を意味するのでしょうか・・・

 

阿曽沼旧臣、葛西旧臣が天正・慶長の波乱の時代駆け抜け、八戸から移ってきた遠野南部家臣もまた、

幕末以降に、激動の時代を歩み、その末裔は先祖同様に新たな場所を求め移動、

また関係子孫としての苗字を名のり、ここにいる者もあり、といった具合でしょうか。笑

彦兵衛が遠野に居た時代はそれほど長くはありませんが、その間、知行地としていた場所を縁として、

同姓としたと考えるのは如何でしょうか。