私のブログの最初にエントリーしたのが平野原2地割にある神明神社であるが、ここから南の山裾がとらねこさんが紹介している平野原館。その館跡の北西道路向かいにあるのがこの熊野神社。昨日仕事にて近所まで来たので、再度立ち寄る。そこで偶然お会いした元市役所職員の方から、平野原館跡周辺を地元では「ごりょうち」と呼んでいたとお聞きする。想像→「御領地」なかなかgoodな呼び名である。
さて、この熊野。掲額には「犬亦(いぬまた)何某」という文字があり、社の管理者と思われる。遠野でも珍しい苗字のひとつ。盛岡藩遠野通りの修験霞場をまとめた本を見ると平倉村として俗別当が管理する社のひとつに「神明・熊野権現 文七」とある。両方の管理者が同一人物で周辺に神明神社があるのはこの地域だけであることから、犬亦氏がどちらも管理してきたことが想像できる。熊野のある場所は、かつては山を開いた畑であり、その中に社を造ったようである。平野原館の前方の平場にある神明神社は、田を開いた場所にあり、社の周りに現在集落を形成している。どちらが先に造られたのだろうか?
神明神社は、神明造りという伊勢神社特有の構造形式に由来する名称で祭神は同一であり、本来は伊勢神社であるはず。伊勢講が遠野で盛んになったのは江戸時代中期以降であり、熊野はというと、出展は忘れてしまったが、図書館にある本だったと思うのだが永正元年(1500)「長覚坊乙世 遠野地下の檀那職を実宝院に売買する」という記録があり、遠野の熊野関係最古の資料だと思う。この時期は大崎氏家臣間の争いが発端で奥州全域が大騒乱になっていた時期でもある。(所謂戦国時代)この文章に出てくる実宝院は熊野の実力者で15世紀にその檀那職の売買が全国的に盛んになり、動産取引の対象となっていたようだ。遠野市内の熊野神社は南部氏以前にその起源を語るものが多いが、では、いつか?
関東における熊野の中本山は、箱根と伊豆である。伊豆とくれば、始閣藤蔵。
市内の熊野の分布は
達曽部2 宮守1 鱒沢5 綾織8 小友14 遠野城下・横田村1 土淵4 上郷2 附馬牛3
(遠野城下ぶんの1は昨日の新張、宮守のは以前紹介したもの、また、神明と兼ねている俗別当がいるのは綾織と上郷ぶん)
これを見ると小友・綾織・鱒沢が多い。共通事項は何だろう。人物でいうと宇夫方、平清水。金山開発?まだ、よくわからない。
さて、この熊野。掲額には「犬亦(いぬまた)何某」という文字があり、社の管理者と思われる。遠野でも珍しい苗字のひとつ。盛岡藩遠野通りの修験霞場をまとめた本を見ると平倉村として俗別当が管理する社のひとつに「神明・熊野権現 文七」とある。両方の管理者が同一人物で周辺に神明神社があるのはこの地域だけであることから、犬亦氏がどちらも管理してきたことが想像できる。熊野のある場所は、かつては山を開いた畑であり、その中に社を造ったようである。平野原館の前方の平場にある神明神社は、田を開いた場所にあり、社の周りに現在集落を形成している。どちらが先に造られたのだろうか?
神明神社は、神明造りという伊勢神社特有の構造形式に由来する名称で祭神は同一であり、本来は伊勢神社であるはず。伊勢講が遠野で盛んになったのは江戸時代中期以降であり、熊野はというと、出展は忘れてしまったが、図書館にある本だったと思うのだが永正元年(1500)「長覚坊乙世 遠野地下の檀那職を実宝院に売買する」という記録があり、遠野の熊野関係最古の資料だと思う。この時期は大崎氏家臣間の争いが発端で奥州全域が大騒乱になっていた時期でもある。(所謂戦国時代)この文章に出てくる実宝院は熊野の実力者で15世紀にその檀那職の売買が全国的に盛んになり、動産取引の対象となっていたようだ。遠野市内の熊野神社は南部氏以前にその起源を語るものが多いが、では、いつか?
関東における熊野の中本山は、箱根と伊豆である。伊豆とくれば、始閣藤蔵。
市内の熊野の分布は
達曽部2 宮守1 鱒沢5 綾織8 小友14 遠野城下・横田村1 土淵4 上郷2 附馬牛3
(遠野城下ぶんの1は昨日の新張、宮守のは以前紹介したもの、また、神明と兼ねている俗別当がいるのは綾織と上郷ぶん)
これを見ると小友・綾織・鱒沢が多い。共通事項は何だろう。人物でいうと宇夫方、平清水。金山開発?まだ、よくわからない。
御料地、御領地、・・・「ごりょうち」そもそもの意味がわからないので、当てはめる漢字ひとつで意味が変わりますね。笑
「ホウリョウ」→風琳堂さんが出てくると流石に私にはわからないことばかりの内容になります。ただ、覗いていて気がついたのは、「ホウリョウ」ではなく、熊野・白山が藤原氏の時代から平泉藤原氏の勢力範囲において信仰され続けてきたことです。時の支配者が変わっても、大切にされてきたということは、各地域に浸透した信仰だったのだと考えさせられました。
町中で商売しておられるあのお宅と関係あり・・・でしょうか。
少ない名字ならば・・・・
よほど当方も画像を掲載しようかと思いましたが、笛吹童子さんは既に取材とか調べが済んでいるものと判断して見送りました・・・笑
平野原館に関しては、おそらく斜面が流された箇所や畑以外にも館域はもう少し広いと考えてますので、裏の山野も今後探訪予定です。
ところで「ごりょうち」・・・御料地、御領地(知)・・・おそらく遠野南部時代の名残かなんかで当主弥六郎公のお蔵入り分の領地だったのではないかと考えます。
平野原村50石弱ということですし、平野原村を知行地としていた家臣が居なかったようでもありますし・・・・それか遠野南部家から熊野社別当家が知行田とかいただいていたとか・・・そういったことが考えられますが、調べてませんので適当な考えでもあります・・・汗
11日山猫氏来遠・・・予定を空けておいていただければ幸です。
一如さんも是非に・・・・。
町で商売をしているお店の方とは親戚です。上郷が本家筋だと思いますよ。それはそうと、連休中のお国入りはありませんか。
「ホウリョウ」といい「ごりょうち」といい、難解な地名が出てきますね。笑
11日の件、了解。
一如さん:
Yamaneko氏が知行地にお帰りになりますので、一如さんも是非、夜の部に参加しませんか?
私も人見知りでおまけに言語障害、内向性に赤面症・・・・口数少なく・・・・とにかく性格的に表にでるといったことは苦手な部類ですが、会ってしまえば皆気さくな方々ばかり、頷きトリオでもいいと思いますし、何よりもネットの世界というのは不思議で、顔も声も知らないのに会えば以前から知っている仲間のような感じですよ・・・・ホント。
連絡の取り方は当方ブログにて承知いたしましたが、当日午後6時30分、遠野駅カッパの像前で一旦皆さんの集合場所として勝手に決めましたので、送れないようお出ましください。
なお、目立つよう私は赤のジャンパーを着てうろついてますので・・・・是非に色々語って懇親を深めましょう・・・。
管理人殿、失礼いたしました。
当ブログでも当日の仔細を掲載いたします。