事務所に昨年から、巣作りをして今年やっと使い始めたツバメ。卵を孵したのか、一羽が巣から離れない。もう一羽は、出たり入ったり。窓についた汚れを掃除したいところだが、育つまでは待とう。
と思っていたところ、先週末から、巣の様子が怪しかった。ツバメの鳴き声が聞こえず、出入りしている様子がない。残念ながら、外敵に襲われたようだ。折角2年越しで頑張ってきたのに・・・・自然界の無情を感じる。
こんな思いを抱きつつ、そう云えば、綾織町中宿(JAガソリンスタンド)の熊野さんの脇に日露戦争の碑があったなあと思い、また、戦時中、沢山の方々が祈願の為に神社に訪れた話を聞いたなあと、何度と無く思う数日。
そんな心持ちだったせいか、忠魂碑の日露戦争の文字からか、十年以上前に行った青森市の八甲田山雪中行軍の資料館で、遠野出身者もその中に含まれていたことを思い出した。
●八甲田山雪中行軍遭難●
来る日露戦争に際し、ロシア軍が日本に侵攻してきた場合の物資輸送等の訓練のため、明治35年1月23日、高倉健でお馴染みの映画「八甲田山」での雪中行軍が行なわれた。210名の参加者に対し、139名が犠牲になった。この210名中144名が岩手県出身者。犠牲者の中に4名の遠野出身者が含まれていた。その4名は、次のとおり。
○懸田良蔵(伍長)遠野町出身 公吏
○佐々木栄太郎(二等卒)土淵町柏崎出身 農業
○菊池徳三郎(二等卒)上郷町平野原出身 農業
○佐々木忠太郎(一等卒)宮守町達曽部出身 農業
栄太郎と徳三郎は同じ第1小隊、忠太郎は第3小隊、懸田は特別小隊であったが、皆、同じルートから行軍。
1/23 6:55青森出発 11:35将校と見習仕官とで帰営、進軍の意見対立
23:45目的地まで1.5k地点で露営
1/24 2:30行軍再開(-24℃) 17:20再度露営(40名死亡)
それからは次々と
5/28 最後の犠牲者の遺体収容(4ヵ月も捜索を続けた)
遠野出身者もこの最初の犠牲者に含まれているのかもしれない。はっきりしているのは、懸田伍長で、彼は1/24、激烈な凍傷にかかり、歩行困難になった為、江刺出身の橋田伍長と村松伍長に助けられながら行軍するも昏睡。第二露営地点まで連れて行ってもらうが、そこで眠りについた。助けてくれた橋田伍長もそこで、倒れている。生き残った村松は、四肢切断。また。栄太郎の遺体を発見したのは、捜索隊に加わっていた北海道の7名のアイヌの人々だった。日付は2/14。合掌
今年は暖冬で雪が少なかったが、川の水量を素人目で見る限りはそれほどでもないように今は感じる。ここは附馬牛町沢の口にある東禅寺川の水量調整堤。
と思っていたところ、先週末から、巣の様子が怪しかった。ツバメの鳴き声が聞こえず、出入りしている様子がない。残念ながら、外敵に襲われたようだ。折角2年越しで頑張ってきたのに・・・・自然界の無情を感じる。
こんな思いを抱きつつ、そう云えば、綾織町中宿(JAガソリンスタンド)の熊野さんの脇に日露戦争の碑があったなあと思い、また、戦時中、沢山の方々が祈願の為に神社に訪れた話を聞いたなあと、何度と無く思う数日。
そんな心持ちだったせいか、忠魂碑の日露戦争の文字からか、十年以上前に行った青森市の八甲田山雪中行軍の資料館で、遠野出身者もその中に含まれていたことを思い出した。
●八甲田山雪中行軍遭難●
来る日露戦争に際し、ロシア軍が日本に侵攻してきた場合の物資輸送等の訓練のため、明治35年1月23日、高倉健でお馴染みの映画「八甲田山」での雪中行軍が行なわれた。210名の参加者に対し、139名が犠牲になった。この210名中144名が岩手県出身者。犠牲者の中に4名の遠野出身者が含まれていた。その4名は、次のとおり。
○懸田良蔵(伍長)遠野町出身 公吏
○佐々木栄太郎(二等卒)土淵町柏崎出身 農業
○菊池徳三郎(二等卒)上郷町平野原出身 農業
○佐々木忠太郎(一等卒)宮守町達曽部出身 農業
栄太郎と徳三郎は同じ第1小隊、忠太郎は第3小隊、懸田は特別小隊であったが、皆、同じルートから行軍。
1/23 6:55青森出発 11:35将校と見習仕官とで帰営、進軍の意見対立
23:45目的地まで1.5k地点で露営
1/24 2:30行軍再開(-24℃) 17:20再度露営(40名死亡)
それからは次々と
5/28 最後の犠牲者の遺体収容(4ヵ月も捜索を続けた)
遠野出身者もこの最初の犠牲者に含まれているのかもしれない。はっきりしているのは、懸田伍長で、彼は1/24、激烈な凍傷にかかり、歩行困難になった為、江刺出身の橋田伍長と村松伍長に助けられながら行軍するも昏睡。第二露営地点まで連れて行ってもらうが、そこで眠りについた。助けてくれた橋田伍長もそこで、倒れている。生き残った村松は、四肢切断。また。栄太郎の遺体を発見したのは、捜索隊に加わっていた北海道の7名のアイヌの人々だった。日付は2/14。合掌
今年は暖冬で雪が少なかったが、川の水量を素人目で見る限りはそれほどでもないように今は感じる。ここは附馬牛町沢の口にある東禅寺川の水量調整堤。
それでも日露戦争の激戦地に送られそのほとんどが戦死したとか・・今でも八甲田山麓には当時遭難した兵隊の幽霊がでるとか・・お~こわ!
そうなんですよね!山ノ神の日だったんですよね。「や~まのかみ~、う~みのかみ~今年も本当にありがとう~」
遠野出身者がいた事を忘れないでいたいと思います。
参加して2次会まであそぼうね!歌ってあ、げ、る
(爆)
弘前ですから、多くの遠野の人たちも入隊していたはず。遠野ゼミではないけれど、今伝えていかなければならないもののひとつだと思います。
気になる っていう状況は私もよくあります。だからこうなってる・・・どうなってる???(笑)
ご期待申し上げます!
山の神→旧暦の話なのす!
H6年に熊本県菊池市の市長夫人が遠野に縁があるということで交流が始まり、毎年、それぞれの市民の行き来をしています。ちなみに、武将菊池氏発祥の地ということが最大の要因だったと思います。私も、40歳まで所属できる某団体にいた頃、菊池市の方々と交流させて頂きました。
八甲田遭難は、東北出身者遭難の歴史だったんです。
菊池氏縁の人物が、九州から茨城や江刺市、宮守などに移ってきたという話が伝わっております。
体力が大事だと思いつつも、なかなか、運動する機会もなく、その気力も衰え・・・これが現実かな?