「遠野」なんだり・かんだり

遠野の歴史・民俗を中心に「書きたい時に書きたいままを気ままに」のはずが、「あればり・こればり」

遠野の2月

2021-02-11 17:01:58 | 歴史

2月の遠野、廻りでは新型コロナ警戒生活継続中といった雰囲気が漂ってます。

 

遠野では感染者ゼロなので、それほど警戒しなくても良さそうですが、

今期の雪と寒さでは、なかなか出歩くこと自体難しいかも・・・。

ところで先月、とらねこさんの叔父さんが亡くなり、私も縁あって御焼香。

その家には江戸時代の甲冑があり、僅かながら禄米を頂いていたとお聞きしていました。

そこで、気になったのが、その先祖(工藤氏)がどこから、やって来たのか?笑

 

遠野郷八幡宮節分祭・・・豆撒きをやっていましたが、今年は中止。

工藤氏

江戸時代末期の禄持ち工藤氏は10家。寛永4年(1627)八戸から遠野移封時に

一緒に来たのが工藤四郎左衛門、工藤権左衛門、追々来たのが工藤久左衛門と工藤右市之助。

と遠野古事記にはあります。

移封7年後の遠野南部氏御支配帳には上記の人とは別の工藤与四郎200石とあります。

これらの人たちは、どのような関係の人なのか?笑

 

鱒沢神楽・・・2月は例年初舞ですが、今年は情報無し。

まずは、工藤与四郎

はるか昔の康生3年(1457)現在の青森県田名部で起きた蠣崎蔵人の乱に、南部方(八戸)

として工藤与四郎が参加しています。また、八戸市の中居林天満宮の朝日大明神由緒記には

工藤与四郎という武将がこの地で井戸を掘っても水が出ず、娘と水神に祈ったところ、

我こそは千年を経たる竜神なり・・・と云って夢枕に白髭の老人が出てきて・・・以来湧き続ける。

この工藤与四郎は寛永4年、根城南部氏が遠野への移転に従い、移住したとあります。

朝日大明神の与四郎は遠野で200石の与四郎だと考えて良さそうです。

ちなみに寛永11年の遠野で起こった岡前騒動の交渉役も与四郎です。

蠣崎蔵人の乱、岡前騒動はネットで確認してください!笑

 

市内松崎町のひな祭り、今年は中止

次に工藤四郎左衛門

移封当初は鍋倉に屋敷を与えられていましたが、寛保年中(1741~1744)とも享保年中

(1716~1736)とも云われているが、家を失火により焼失し、遠野古事記では石倉丁に、

吉田政吉氏の著書では新屋敷丁に引越し、平士に降格。とあります。

この四郎左衛門、寛永11年三代将軍家光公が京都上洛の際、諸侯にその供を命じ、

行列の中には南部藩家中として工藤四郎左衛門も。上洛後の帰途、大井川にさしかかった

ところで大雨が降り出し、二日間足止め、まだ濁流渦巻く中、南部藩主重直公は八戸弥六郎に

どうにか渡れないものかと相談したところ、直義は家臣工藤四郎左衛門を供に川に入り、

渡れる場所を探り、無事、渡河。それを見ていた残りの他藩も一斉に渡ったとのこと。

南部藩の参考諸家系図を見ると、

工藤長門の嫡男が四郎左衛門、長門の弟が右市之助で、その子が権左衛門。

長門の四男(諸家系図には三男とある)は盛岡南部藩士となり、陪臣となった

父長門、兄四郎左衛門に代わり、工藤本家として一家を成す。

 

2月末の小友町裸参り・・・今年は地域外へのPR無しで地元だけで

という情報もありましたが、どうやら中止。

当初、遠野に来た四郎左衛門、右市之助、権左衛門は、何となくわかりましたが、

久左衛門は不明。また、与四郎が長門のことなのか、四郎左衛門のことなのか、

これまた、不明。(わからないことばかりで・・・笑)

 

町家の女子神楽・・・町家のひなまつりに合わせて開催されていますが、

今年は、まだ情報がありません。

 

その女子神楽が演じられていた旧三田屋さんは解体されました。

暖かくなる頃には、安藤忠雄氏支援による「こどもの本の森」図書館がオープン!

さて、

失火により降格となった四郎左衛門、その後の御支配帳に工藤氏トップとして

工藤喜内110石が出てきます。

参考諸家系図では、四郎左衛門の父長門の弟右市之助の項に出てきます。

右市之助嫡男権左衛門、二男が廣當でその子が喜内(直右衛門とも云う)。

ところが、角川書店編「姓氏家系大辞典」には次のようにあります。

遠野南部家臣に紫波郡佐比内村の河村広当若狭の次男広明を祖とする工藤家あり。

広当は浪人中の父秀重の親友だった遠野南部家臣工藤右市之助に目をかけられ、同道し

遠野に住むことが多く、遠野では工藤氏を名乗った。

後、広当は盛岡藩南部英信(七戸氏)に仕え、広当の次男広明喜内もまた英信に仕える。

遠野南部八戸利戡の死去により信有(七戸氏)が養子相続するに当り、

広明は信有の傳臣を命じられ、遠野に移る。信有成長後も遠野に留まることを懇請され、

土淵村栃内に100石と永代家老格身分を安堵される。

見ての通り、御支配帳と大辞典には違いがあります。

工藤喜内の家系は喜内、直右衛門、紀内などと続き、明治には河村に改姓しているので、

おそらく大辞典の記述が本当で、右市之助の子として遠野八戸家臣になったものと推察。

四郎左衛門と喜内、両系統には医者になった人がいることから、

相当優秀な血筋なのかもしれませんね!笑

 

中止続きのイベントの中、遠野町家のひなまつりは本当に小規模ながら開催とのこと。

2月26日~3月3日まで、駅南側の町中にて。

 

ここ数日、最高気温がマイナスから脱出するようで、少しは春に近づいているようにも

感じられますが、四月下旬にならないと桜が咲き始めない遠野、

もう耐えられないなどとは云わず、足の霜焼けも含め、もうしばらくは、

じっと我慢の子でいたいと思います。笑