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団塊の世代も言われた「扱いにくい、教育が悪い」- 昔から変わらない新入社員バッシングと入社式の式辞

2014-04-23 | いとすぎから見るこの社会-雇用と労働
古市憲寿氏が新入社員や入社式の式辞を過去に遡って調査したところ、
案の定ではあるが今と殆ど変わっていないことが分かった。

巷間言われるように、「若者は使えない」は定番で陳腐なネタに過ぎないのであり、
当ウェウログの指摘は完全に正しかったということになろう。

「そもそも世代によって極端に質が上下する筈はなく、
 もし若年層の質が本当に下がったとすれば
 間違いなく彼らを育てた上の世代の責任ではないのか」

「特に雇用分野で既得権を握っており優位にある連中の話は
 殆ど自己利益を図る薄汚いポジショントークである。
 頭から爪先まで打算だらけの彼らを、絶対に信用してはならない」

採用側の企業は新卒人材の良し悪しについて無遠慮に評する癖に、
優秀な人材を逃す自社の魅力の無さを反省することは殆どない。
所詮は自らが批判する相手と同類である。
経験値が上であるというだけで偉そうにしていられるに過ぎない。

▽ 企業は好況の際には就活生に媚び、不況の際にはバッシングして自己正当化する

『大学キャリアセンターのぶっちゃけ話 知的現場主義の就職活動』(沢田健太,ソフトバンククリエイティブ)


以下の当ウェブログの指摘も基本的に立証されたと言えよう。

「労働市場においても資産バブルは見逃せない影響を与えた。
 当時の新卒採用は「狂騒」と呼ぶのに相応しく、
 今から考えると信じられないような慣行があった。
 それを知っている者にとっては今の若年労働者への批判など笑止千万である。
 バブル世代の「行状」の方が遥かに異常だった。
 そして彼らが実社会に出てから日本経済は成長率低下・停滞に陥っている」

「よく知られるようにメディアは多数派の奴隷であり、
 多数派の欲望に奉仕することで生き長らえることができる。
 そうしたメディアが少数派である若者や、搾取される未来世代のことなど
 真面目に擁護する筈がない。利己的で責任転嫁する多数派に媚びるに決まっている」

「企業が採用ターゲットを拡大せざるを得ない今の新卒市場の状況は、
 当ウェブログの指摘が正しかったことを裏打ちするものと言えよう」

「2015年頃迄は労働市場も活況で採用側が大変であろうが、
 その後には確実に暗転が控えている。
 またぞろ腐った連中が企業の手先となって「若者バッシング」を始めるだろう」

「しようもない情報操作と脊髄反射のサイクルがまた始まっている」

目先のボールを追うだけの連中の滑稽さは、
長期間じっと観察していると実によく分かる。

 ↓ 参考

若者バッシングが減った「大人の事情」- 内定辞退続出に慌てふためく企業、採用絞り込みによる自業自得
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/a98e28c2240d87e88fae719ea3b117f3

「仕事は人並み・プライベート重視」だったバブル世代、なぜか批判されない理由 - 単に数が多いから
http://blog.goo.ne.jp/fleury1929/e/ef42179f46284a90293d15c98bfc65dee

▽ 社会学なので改善策の提示は皆無だが、観察眼としては面白い

『だから日本はズレている』(古市憲寿,新潮社)


なぜ新入社員は毎年「期待ハズれ」なのか――古市憲寿氏が読み解く(Book Cafe 矢来町ぐるり)
http://zasshi.news.yahoo.co.jp/article?a=20140422-00010002-shincho-soci
”「今年の新人は使えねー」「うちの新人、こんなことも知らなかったんだよ」
 この手のグチ、陰口は4月のこの時期に社内で必ず聞えてくる。「新人使えない話」は会社では鉄板のネタだ。
 たしかに新人は「無知」で「使えない」ことが多いのだろう。でも、そうグチっている人だって、ほんの数年前までは「無知」で「使えない」新人だったんじゃないのか。若手社会学者の古市憲寿氏は、新著『だから日本はズレている』(新潮新書)の中で、「そもそも新社会人がすぐに使えるはずがない」と述べている。
〔中略〕
■革新性のない社長挨拶
 その新入社員向けのメッセージというのは、この数十年間あまり進化を見せていない。
 今から約40年前、1971年4月1日の『読売新聞』は当時の入社式を次のように報じている。日産社長は訓示で「組織に飼い慣らされずに、逆に活力を吹き込む人間を期待する」と若者に呼びかけた。東芝社長は「消極的な気持ちではいけない。自分の創造力を生かす心づもりではいってほしい」。トヨタ社長は「国際的感覚を身につけ広い視野にたって仕事をしてほしい」。
 翌年の『読売新聞』も新入社員向け社長訓示を採録しているが、どこの企業も似たり寄ったりな内容だった。当時「日本一のマンモス企業」だった新日本製鉄社長は「幸福も繁栄も、他人から与えられるものではない」。帝人社長は「まず自分に勝つこと。それには独創的な見識を持つことが望ましい」。三菱金属鉱業は「社会、会社を動かすのは若いエネルギーだと信じている」。
 時代は飛んで2012年、新日本製鉄社長の新入社員向けメッセージを読んでみると「自らを鍛え、磨くという気持ち」「グローバルな情報への感度」が必要だとしながら、「皆さんの持つ若い力と瑞々しい感性を、思う存分発揮してもらう」なんてことが書いてあった。
 どうやら社長訓示というのは、基本的に会社名と年次を入れ替えても成立するようなものばかりらしい。
 別にここで大企業の新入社員向けメッセージの空虚さを批判したいわけではない。というか、それは空虚で大いに結構なのである。なぜならば入社式というのは儀式であって、形式にこそ意味があるからだ。社長が新入社員に向けてメッセージを発するという儀礼自体が重要なのであって、内容はどうでもいいといえばどうでもいい。
 面白いのは、空虚な訓示を発する入社式なるものを、未だに多くの企業が同じ4月1日に実施し続けているという点である。新入社員に向けては散々、チャレンジ精神の発揮を呼びかけているにもかかわらず、独創性の欠片(かけら)もない。
〔中略〕
「社会人」も「入社式」同様、日本に独特な概念である。しかもこの二つが結びついてしまったところに日本の特殊性がある。
 入社式という儀式を経て会社員になることが、「社会人」であることと同義になる。翻って、入社式が準備されないようなフリーターたちは「社会人」ではないと見なされ、社会保障など待遇の面でも「社会人」とは差を付けられる。
 まさに入社式という儀式が、「社会」に入れるか入れないかの通過儀礼としての機能を果たしてしまっているのである。
 ではその「社会人」というのは、どれほど素晴らしい人々なのだろうか。
 就活生たちにとって、有名企業で働く人々は神様のように見えるという。何百倍という倍率を勝ち抜いて、誰もが憧れる企業で「社会人」になれた人たちだ。さぞ仕事もできて、かつプライベートも充実している、きっと完璧な人間なのだろう、というわけだ。
 確かに企業の採用ページに載っている先輩社員紹介などを見てみると、「社会人」というのはさも立派な人なのだろうなという気がしてくる。
 僕の友人が働いていた大手広告代理店の先輩紹介ページでは、「毎日ワクワクした仕事の連続」「カフェでよくアイディアが思い浮かぶ」「夢は人々がハッピーになること」といった言葉が並び、本当にそこが素敵な仕事場に思えてくる。
 連日のように27時過ぎまでメイクの落ちきった顔で働き、肉体も精神もボロボロ、唯一の癒しは韓流アイドルの曲を聴くことという友人にもこのサイトを見せてあげたい。
 やはり僕の友達が働く出版社の「先輩」たちも、ものすごく楽しそうだ。「プレッシャーこそありますが、めっちゃ醍醐味に満ちた仕事」「悪戦苦闘しているうちに会心のアイディアが見つかったりしたときにはもう、快哉を叫びたくなります」と、毎日の仕事が興奮の連続だろうということがわかる。
 週刊誌に配属されて、「事件とかもう見たくない」「先輩に風俗に誘われるような文化がもうイヤだ」「バレンタインの夜に会社へ呼び戻されて今度こそ限界」とか言っている友人にもこのサイトを見せてあげたい。
〔中略〕
 多くの指標において高いパフォーマンスを出す「社会人」もいるだろうが(もちろん逆もいる)、基本的に人は自分が見えている範囲の、自分が知っているものさしで、誰かのことを「仕事ができる」「できない」と判断しているに過ぎない

■いつの世も新入社員は「使えない」
 毎年のように大人たちの「今年の新入社員は使えない」という嘆きが聞こえてくる。
 たとえば1969年に東京で行われたある新入社員向け研修で、担当講師は次のように語っていた。「最近の若い人たちは一から十まで教えないとついてきてくれない。これも教育ママに育てられてきたせいでしょうか」。(『読売新聞』1969年4月2日朝刊)
 1981年に発刊された池田信一『新入社員』という本では、「いまどきの新入社員は扱いにくい」「まるで手応えがない」「命令された仕事だけは素直にやる」といった当時の大人たちの愚痴が紹介されている。入社式での社長訓示と同様、数十年間変わらずに「今年の新入社員は使えない」という言説が垂れ流されてきたようである。
 新入社員が使えないのは当たり前である。仕事ができないのも当然である。
 なぜならば、「仕事ができる」というのは多くの場合、その人が所属するコミュニティや業界のルールをいかに多く取得できたかということに依存しているためだ。同じ「コミュニケーション能力」といっても、広告代理店がテレビ局相手に行う営業と、編集者が漫画家と行うネタ出しミーティングでは、まるで違う「能力」が必要とされる。
 コピーの取り方、電話応対の仕方、書類のまとめ方でも、会社ごと、下手したら部署ごとにルールは違うかも知れない。スピードや勢い重視なのか、それとも丁寧さが要求されるのか、それとも経費削減が至上命令なのかによって、「正解」は変わってくるだろう。
 さらに雇用の流動性が低いとされる日本の大企業では、日々の業務の中にはマニュアル化できないような暗黙知が多く存在している。その企業独自のルール(とさえもいえない細かな決めごと)は、個別具体的な仕事を通じて学んでいくしかない。そのルールをより多く身につけた人が「仕事ができる」と評価されているにすぎない。
 昨日までは「社会人」ではなかった若者たちだ。「入社式」を迎えたからといって、いきなり「使える」人材になるわけがない。そして「使える」「使えない」というのは、本来はエントリーシートや採用面接で見極められるようなものではない。
〔中略〕
 若者の声を聞きながら、自分たちの企業が本当に時代に適合的かを見直すのもいいかも知れない。組織の欠点はそこに長期間いる人ほど気付きにくいからだ。若手社員の素朴な声には、ビジネスのヒントがたくさん隠れているかも知れない。このように、若者には「使い道」がたくさんある。
「新社会人」の悪口を言うくらいなら、彼らの活用方法をきちんと考えてあげてほしい。しかもそれは、若者のためというよりも、企業のために必要なことなのだから。”

至極当然の話で、付け加えることは殆どない。
(しかし「若者を活かす」視点は優秀な人材なら必ず持っている)
「若者を見下す」輩は自己の低能さを認めたくないだけの悲しい欲望に囚われているのだ。

それにしても「幸福も繁栄も、他人から与えられるものではない」と
入社式で訓示していた新日鐵が今は政府にゴネて
「法人税下げろ、原発再稼働しろ、六重苦を何とかしろ」と叫んでいるのだから
実に皮肉な話である。自社が実行できていないことを新入社員に要求している訳だ。
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