脳出血で無職になった親父のブログ

株式投資に腕時計が好きなオッサンのブログです。年齢を重ねスピリチュアルにも興味を持ったお蔭で人生感も変わりました。

昭和40年代 父が株でプチ儲け♪すし店開店。

2015年05月05日 09時37分28秒 | わが半生
私が小学4年~5年生の頃・・父が朝になると電話をしていました。『N証券のNさんや!もう毎朝たまらへん!!』母はいつも愚痴を言ってましたが父は何もきにせず長電話。当時、佐藤内閣から田中角栄氏になるか?なったかの時代で日本は好景気に入り建設株や製造関連が軒並み暴騰しはじめ、政治銘柄も・・今は倒産しましたが三光汽船などは値動きが激しい銘柄でした。父は大成建設・熊谷組・ミツミ電機・ヤシカ(上場廃止)アラビア石油、季節銘柄ではビール関連にカルピス。カルピスは冬に仕込んで夏に売れば相応の小遣い稼ぎになると息巻いてました・・そんな、ある日『家買うか?店にするか?』父は悩んだそうです。当時、香里園の成田周辺は既に住宅が建ち成熟してましたので父は香里ケ丘か寝屋川市太秦周辺の1000万前後の住宅を考えつつ一方では寿司職人として一国一城・・店を出したい気持ちがあったのです。勿論、母は家にしてくれと・・現金で買えるくらいは株で儲けたらしく、やたら新聞の折り込みチラシにある不動産情報を父に見せておりました。私も(団地生活脱出や)と思っておりました。ズーーッと貧困生活してきた我が家に漸く中流の風が差し込んできた?と思っていましたが・・父は【店】を選んだのです。株で儲けた現金は店の開店資金と免許も取得し新車を購入、クルマは日産のブルーバード510型で当時では人気車種。すべて現金で購入。母はため息交じりで『家にしたらええのに!残るし・・そんな楽して儲けた、お金で店なんかしても、どうせ失敗するワ!!』父は寝屋川市の高柳というところで寿司店をオープン。『駅前ちゃうのん?なんで?こんなヘンピな処で?』母の怒りは爆発寸前。高柳?寝屋川市駅から大利商店街を通り抜け徒歩15分くらいですか・・行くとマンションの1階部分が市場のようになって近隣に電気屋・布団屋・豆腐屋など商店が軒を連ねています。父のお店は市場側と路面側の両方に出入りできるいので市場が閉店しても営業はできるのですが・・『なんで?こんな所?御寿司なんか食べにくる人いないよ!!』母は何度も忠告し契約を思いとどまるよう言いましたが未だ30代そこそこの父。『ワシが儲けた金や。店は夢なんや!!』と譲らずオープン。開店祝いの時は父の友人・知人で賑わいましたが、その後は・・・母も偽の手伝いで出前などもしつつ当時、小さかった弟は保育所に預け奮闘。私は、いわゆる鍵っ子になり夕方から夜遅くまで自宅でヒトリボッチ。だんだんと父の店がなくなればいい!!と思い始めたのです。母は常に言ってました『あぶく銭は身につかない』と。その言葉通りになるのは時間の問題でした。
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