やはり……落胆の脚本………
★なかなか良いことを言い、立派なことをしようとする清盛だが
①藤原家成(佐藤二朗)の養子の師光(加藤虎ノ介)の皮肉を軽く受け流す
②崇徳院(井浦新)に組みすることはできないと断る
③雅仁親王(松田翔太)ぼ「一介の武士に頼る崇徳院を落ちぶれた」の言に「変わったのは崇徳院ではなく武士の立場が変わったのだ」と言い切る
④平氏一門の皆の議論をじっくり聞き、「鳥羽院と崇徳院の仲を取り戻させるのが平氏の仕事」という結論を出す
⑤その意志で、鳥羽院(三上博史)を説得、心を動かす
このうち②は、軽率ではないかと。
確かに、平氏は鳥羽院とつながりが深い(らしい)ということ、さらに世話になった家成の頼みもあったからであろう。この家成の懇願のシーンを入れたのは微妙なところ。
即答で崇徳院の要請を断ったのは、家成への義理もあったからであろう。これを、少し勘ぐった目で見ると、後の結論「鳥羽院と崇徳院の仲を取り持つ」と矛盾した行動を取ったことの言い訳に思えてしまう。
そもそも、家成が清盛に鳥羽院の事を託すのにも違和感。まあ、家成は鳥羽院側についていたが、「鳥羽院命」という意志を感じたことはなかった。寡黙だったのでよくわからなかっただけかもしれないが、白河法皇時代からある程度の力を持っていたようなので、財力や立ち回りのうまさで勢力を伸ばしていたように思う。意志を感じるとしたら、従兄弟の宗子(和久井映見)が忠盛(中井貴一)に嫁いだので、平氏を引き立てていたこと。
もし、自分の死期を悟って、清盛に願うなら、我が息子たちのことを頼むか、(清盛に惚れこんでいて)清盛の念願を果たすため我が息子たちを使ってくれというかだと思うのだが。
私が脚本家なら、そうしておいて、清盛と崇徳院のシーンは「朕(ちん)にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」という心情を聞き、白河法皇の血の因縁から共感(同情)を感じるのみにして、崇徳院への援助の態度を保留させる。
それはともかく、いい人だったなあ、家成さん。
…と、忘れるところだった。
なかなかかっこいいところを見せていた清盛だが、今まで、散々ぐだぐだぐだぐだしてきて、成長をあまり感じさせてもらえなかったせいで、今回の清盛には空々しさを感じてしまった。
★要らなかったような気が………雅仁親王と乙前(松田聖子)の出会い
番組最後の「紀行」で、後白河帝と青墓宿の繋がりが述べられていたが、このシーンは無理やり挿入感が強い。
確かに、今回の渦中の中心になってしまったので、何か彼の心情を表現したかったのであろうが、彼は宮中のドロドロした関係や政治の権力争いには興味がないようであった。もしかしたら、興味がない振りをしていただけかもしれないが、私の洞察力の乏しさ故か、察知できなかった。
確かに、人目を引くような奇行振りであったが、「誰も私を見てくれるものはおらん、声の枯れるほど、歌おておっても」というようには感じなかった。
また、「あなた様は、その力のやり場を見つけられぬだけ。いつか、あなた様の内から、何かがあふれてくる。それはきっと、世を大いに動かすものでござりましょう」という乙前の言葉も、このシーンに意味を持たせるためのものに思えてしまった。
さらに、清盛の近衛天皇(北村匠海)の弔問の際、雅仁親王に会い、「生まれることがすでに博打だが、生まれてこなければ勝つも負けるもない」と告げ今様(このドラマのテーマソング)を歌いだす。
なるほど、乙前との出会いは、これに繋げるためだったのか。少し納得。
でも、「それはいつか海賊船で耳によみがえった歌。あのときあの歌が聞こえて居なければいきていなかったやもしれぬ」という清盛の言葉はいらない。とにかく運命的なものを描きたい脚本家さんのようだ。
雅仁親王は権力に無関心だったのに運命の悪戯で、「瓢箪から駒」で天皇になってしまったでいいと思う。
★訳のわからない決着
「重仁を即位させる…いや、上皇を再び即位させてもよいと考えておる。
朕は、今こそ上皇に詫びたいのじゃ。何の咎もない上皇を、朕は「叔父子」と疎み、政の場から追いやった。
心より詫び、共に政を行ってまいりたい。それこそが、朕の務めなのじゃ」
おっ、改心したのか……と思ったら、「共に政を行いたい」って、隠居する気ないのか。
信西(阿部サダヲ)
「今更詫びたところで、上皇様はお許しになるはずもなく、鳥羽の方王様に付く者と上皇様に付く者、国は大きく二つに分かれましょう。
天下の権を握るは、あくまで鳥羽の法皇様。法皇様は、自在に操れるお方を、帝の座におつけになるべきです。さもなけくば、いずれ天下大乱となるのは、必定でございましょう」
口が達者だなあ。信西のキャラも変わった気がする。いつ?どこで?
得子(松雪泰子)
「帝は、世を平らかにするを望んでおいででした。どうか、この争いの種を撒くような御裁断は…(なさらないでください)」
言っていることは良いのだが、この言葉を聞いて、信西はシメシメ(笑)
争乱を避けたければ、鳥羽院が隠居すれば済むわけで、深く反省している鳥羽院が「共に政治を」と言うのは、厚かまし過ぎて不自然。
で、崇徳院が再び発狂寸前(死んだのかと思った)になる裁断が下された。
これこそ「争いの種を撒くような裁断」となった。(直系(父、祖父)しか院政を行えないという決まりがあるのなら、即位順位の規定もあってもよいのでは?)
今更、鳥羽院に反省させなくてもいいのでは?
自分の保身のため、雅仁親王を即位させたという方が納得できるんだけど。
もう、登場人物の心情・信条・人格がブレブレ。
う~ん、そろそろ限界かも。
【ストーリー】(番組サイトより)
1154年、近衛天皇(北村匠海)の容体がいよいよ深刻になってきた。母・美福門院得子(松雪泰子)は、一心不乱に祈とうする日々。父・鳥羽院(三上博史)は、崇徳院(井浦新)を遠ざけてきたことの報いではないかと、わが行いを省みる。また、鳥羽院の側近で、平氏とも親しかった藤原家成(佐藤二朗)が病床に臥(ふ)した。見舞いにきた清盛(松山ケンイチ)に、家成は実子・成親(吉沢悠)や養子・師光(加藤虎ノ介)を自分と思い相談するようにと告げ、鳥羽院のことを託した。そして後日、家成は世を去った。
ある日、清盛は崇徳院に招かれる。崇徳院は近衛天皇が死去した後、わが子・重仁(雄大)が天皇となり、自分が実権を持つ日も近いと考え、清盛に力を貸すよう説いた。しかし清盛は、平氏は鳥羽院とつながりが深いので、崇徳院にくみすることはできないと断る。崇徳院は「朕(ちん)にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」と激高。その情熱に、清盛は心動かされる。その直後、清盛は雅仁親王(松田翔太)を見かける。雅仁は、一介の武士に頼る崇徳院を落ちぶれたと非難するが、清盛は崇徳院ではなく武士の立場が変わったのだと言い返した。
その夜、平氏一門は集まり、崇徳院につくか、鳥羽院につくかを議論するが、収拾がつかない。すると清盛は、鳥羽院と崇徳院の仲を取り戻させると一同に宣言する。
そのころ、鎮西(九州)にある鳥羽院の所領を、弓矢が達者な巨漢が襲った。源為義(小日向文世)の八男・為朝(橋本さとし)である。素行が悪く鎮西に追放されていた為朝だが、この一件で鳥羽院の怒りを買ったため、為義は右衛門尉(うえもんのじょう)の職をとかれてしまう。為義が頼れるのは藤原摂関家となった。
ある日、為義は比叡山の悪僧たちを頼長(山本耕史)の前に連行した。僧の一人、鬼若(のちの弁慶:青木崇高)は以前頼長を助けた自分を見逃せと訴えるが、頼長は一切受けつけなかった。綱紀粛正に厳しすぎる左大臣として「悪左府(あくさふ)」という異名までついた頼長を父・忠実(國村隼)はいさめるが、父といえども口出しすれば容赦しないと頼長は宣言した。
そして、近衛帝の容体が悪い中、関白・忠通(堀部圭亮)は信西(阿部サダヲ)に相談する。子のないまま近衛帝が亡くなったら重仁・崇徳院の親子が権力を持つ可能性が高く、崇徳院と関係が悪い自分は失脚する恐れがあると。信西は忠通の不安に答えず屋敷に帰ると、雅仁が訪れていた。信西は雅仁の乳父であった。意気盛んな崇徳院の近くにいるのが嫌なため、信西の妻・朝子(浅香唯)をともない美濃の青墓宿(あおはかのしゅく)へ行くという。この時勢に京を離れることを止める信西だが、雅仁は関係ないと言い捨て、旅立つ。
1155年、近衛帝の容体はますます悪化、得子はますます多くの僧を集めて祈とうさせ、義朝(玉木宏)は大きな護摩壇を寄進した。清盛は鳥羽院に謁見し崇徳院との和解を勧めた。鳥羽院の心は大きく動いていた。
芸事の盛んな場所である青墓宿を訪れた雅仁は、そこで出会った白拍子・乙前(かつての祇園女御(ぎおんのにょうご)/松田聖子)の今様に、強く心を揺さぶられる。雅仁は乙前に「遊びをせんとや生まれけむ」という今様の歌のように、生き生きと生きる男(清盛)を誰もが頼りにするが、自分は誰からも相手にされない、とさびしい真情をさらした。乙前は雅仁の中にみなぎる力がやがて世を動かすといい、雅仁の心を癒やす。
近衛天皇はついに17歳の若さで世を去った。平氏一門が動揺する中、清盛はこのことは鳥羽院と崇徳院の争いのはじまりではなく、和解のきっかけになると告げた。この数日前、妻を亡くし喪に服していた頼長は次の皇位継承者を決定する会議に出席できなかった。
会議には鳥羽院や信西、忠通などが集まり議論を重ねた。弔問に訪れた清盛は内裏の一角で雅仁に会う。雅仁は帝の崩御について、生まれることがすでに博打(ばくち)だが、生まれてこなければ勝負にならない、と告げ今様を歌いだす。その今様は清盛がまだ物心つく前に実母が歌っていたものであり、清盛は不思議な懐かしさを感じる。会議では鳥羽院が崇徳院の子・重仁を推し、崇徳と和解し共に政治を行いたいと述べると、信西が猛反対。崇徳上皇が復権すれば鳥羽院を許すはずはなく、大乱になる。あくまで鳥羽院が扱いやすい方を帝にすべきと主張する。そして継承者の行方は予想外の結末を迎える。雅仁が即位し、後白河天皇が誕生したのだった。
★なかなか良いことを言い、立派なことをしようとする清盛だが
①藤原家成(佐藤二朗)の養子の師光(加藤虎ノ介)の皮肉を軽く受け流す
②崇徳院(井浦新)に組みすることはできないと断る
③雅仁親王(松田翔太)ぼ「一介の武士に頼る崇徳院を落ちぶれた」の言に「変わったのは崇徳院ではなく武士の立場が変わったのだ」と言い切る
④平氏一門の皆の議論をじっくり聞き、「鳥羽院と崇徳院の仲を取り戻させるのが平氏の仕事」という結論を出す
⑤その意志で、鳥羽院(三上博史)を説得、心を動かす
このうち②は、軽率ではないかと。
確かに、平氏は鳥羽院とつながりが深い(らしい)ということ、さらに世話になった家成の頼みもあったからであろう。この家成の懇願のシーンを入れたのは微妙なところ。
即答で崇徳院の要請を断ったのは、家成への義理もあったからであろう。これを、少し勘ぐった目で見ると、後の結論「鳥羽院と崇徳院の仲を取り持つ」と矛盾した行動を取ったことの言い訳に思えてしまう。
そもそも、家成が清盛に鳥羽院の事を託すのにも違和感。まあ、家成は鳥羽院側についていたが、「鳥羽院命」という意志を感じたことはなかった。寡黙だったのでよくわからなかっただけかもしれないが、白河法皇時代からある程度の力を持っていたようなので、財力や立ち回りのうまさで勢力を伸ばしていたように思う。意志を感じるとしたら、従兄弟の宗子(和久井映見)が忠盛(中井貴一)に嫁いだので、平氏を引き立てていたこと。
もし、自分の死期を悟って、清盛に願うなら、我が息子たちのことを頼むか、(清盛に惚れこんでいて)清盛の念願を果たすため我が息子たちを使ってくれというかだと思うのだが。
私が脚本家なら、そうしておいて、清盛と崇徳院のシーンは「朕(ちん)にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」という心情を聞き、白河法皇の血の因縁から共感(同情)を感じるのみにして、崇徳院への援助の態度を保留させる。
それはともかく、いい人だったなあ、家成さん。
…と、忘れるところだった。
なかなかかっこいいところを見せていた清盛だが、今まで、散々ぐだぐだぐだぐだしてきて、成長をあまり感じさせてもらえなかったせいで、今回の清盛には空々しさを感じてしまった。
★要らなかったような気が………雅仁親王と乙前(松田聖子)の出会い
番組最後の「紀行」で、後白河帝と青墓宿の繋がりが述べられていたが、このシーンは無理やり挿入感が強い。
確かに、今回の渦中の中心になってしまったので、何か彼の心情を表現したかったのであろうが、彼は宮中のドロドロした関係や政治の権力争いには興味がないようであった。もしかしたら、興味がない振りをしていただけかもしれないが、私の洞察力の乏しさ故か、察知できなかった。
確かに、人目を引くような奇行振りであったが、「誰も私を見てくれるものはおらん、声の枯れるほど、歌おておっても」というようには感じなかった。
また、「あなた様は、その力のやり場を見つけられぬだけ。いつか、あなた様の内から、何かがあふれてくる。それはきっと、世を大いに動かすものでござりましょう」という乙前の言葉も、このシーンに意味を持たせるためのものに思えてしまった。
さらに、清盛の近衛天皇(北村匠海)の弔問の際、雅仁親王に会い、「生まれることがすでに博打だが、生まれてこなければ勝つも負けるもない」と告げ今様(このドラマのテーマソング)を歌いだす。
なるほど、乙前との出会いは、これに繋げるためだったのか。少し納得。
でも、「それはいつか海賊船で耳によみがえった歌。あのときあの歌が聞こえて居なければいきていなかったやもしれぬ」という清盛の言葉はいらない。とにかく運命的なものを描きたい脚本家さんのようだ。
雅仁親王は権力に無関心だったのに運命の悪戯で、「瓢箪から駒」で天皇になってしまったでいいと思う。
★訳のわからない決着
「重仁を即位させる…いや、上皇を再び即位させてもよいと考えておる。
朕は、今こそ上皇に詫びたいのじゃ。何の咎もない上皇を、朕は「叔父子」と疎み、政の場から追いやった。
心より詫び、共に政を行ってまいりたい。それこそが、朕の務めなのじゃ」
おっ、改心したのか……と思ったら、「共に政を行いたい」って、隠居する気ないのか。
信西(阿部サダヲ)
「今更詫びたところで、上皇様はお許しになるはずもなく、鳥羽の方王様に付く者と上皇様に付く者、国は大きく二つに分かれましょう。
天下の権を握るは、あくまで鳥羽の法皇様。法皇様は、自在に操れるお方を、帝の座におつけになるべきです。さもなけくば、いずれ天下大乱となるのは、必定でございましょう」
口が達者だなあ。信西のキャラも変わった気がする。いつ?どこで?
得子(松雪泰子)
「帝は、世を平らかにするを望んでおいででした。どうか、この争いの種を撒くような御裁断は…(なさらないでください)」
言っていることは良いのだが、この言葉を聞いて、信西はシメシメ(笑)
争乱を避けたければ、鳥羽院が隠居すれば済むわけで、深く反省している鳥羽院が「共に政治を」と言うのは、厚かまし過ぎて不自然。
で、崇徳院が再び発狂寸前(死んだのかと思った)になる裁断が下された。
これこそ「争いの種を撒くような裁断」となった。(直系(父、祖父)しか院政を行えないという決まりがあるのなら、即位順位の規定もあってもよいのでは?)
今更、鳥羽院に反省させなくてもいいのでは?
自分の保身のため、雅仁親王を即位させたという方が納得できるんだけど。
もう、登場人物の心情・信条・人格がブレブレ。
う~ん、そろそろ限界かも。
【ストーリー】(番組サイトより)
1154年、近衛天皇(北村匠海)の容体がいよいよ深刻になってきた。母・美福門院得子(松雪泰子)は、一心不乱に祈とうする日々。父・鳥羽院(三上博史)は、崇徳院(井浦新)を遠ざけてきたことの報いではないかと、わが行いを省みる。また、鳥羽院の側近で、平氏とも親しかった藤原家成(佐藤二朗)が病床に臥(ふ)した。見舞いにきた清盛(松山ケンイチ)に、家成は実子・成親(吉沢悠)や養子・師光(加藤虎ノ介)を自分と思い相談するようにと告げ、鳥羽院のことを託した。そして後日、家成は世を去った。
ある日、清盛は崇徳院に招かれる。崇徳院は近衛天皇が死去した後、わが子・重仁(雄大)が天皇となり、自分が実権を持つ日も近いと考え、清盛に力を貸すよう説いた。しかし清盛は、平氏は鳥羽院とつながりが深いので、崇徳院にくみすることはできないと断る。崇徳院は「朕(ちん)にこの醜き世をおもしろう生きよと言うたのは、そちではないか」と激高。その情熱に、清盛は心動かされる。その直後、清盛は雅仁親王(松田翔太)を見かける。雅仁は、一介の武士に頼る崇徳院を落ちぶれたと非難するが、清盛は崇徳院ではなく武士の立場が変わったのだと言い返した。
その夜、平氏一門は集まり、崇徳院につくか、鳥羽院につくかを議論するが、収拾がつかない。すると清盛は、鳥羽院と崇徳院の仲を取り戻させると一同に宣言する。
そのころ、鎮西(九州)にある鳥羽院の所領を、弓矢が達者な巨漢が襲った。源為義(小日向文世)の八男・為朝(橋本さとし)である。素行が悪く鎮西に追放されていた為朝だが、この一件で鳥羽院の怒りを買ったため、為義は右衛門尉(うえもんのじょう)の職をとかれてしまう。為義が頼れるのは藤原摂関家となった。
ある日、為義は比叡山の悪僧たちを頼長(山本耕史)の前に連行した。僧の一人、鬼若(のちの弁慶:青木崇高)は以前頼長を助けた自分を見逃せと訴えるが、頼長は一切受けつけなかった。綱紀粛正に厳しすぎる左大臣として「悪左府(あくさふ)」という異名までついた頼長を父・忠実(國村隼)はいさめるが、父といえども口出しすれば容赦しないと頼長は宣言した。
そして、近衛帝の容体が悪い中、関白・忠通(堀部圭亮)は信西(阿部サダヲ)に相談する。子のないまま近衛帝が亡くなったら重仁・崇徳院の親子が権力を持つ可能性が高く、崇徳院と関係が悪い自分は失脚する恐れがあると。信西は忠通の不安に答えず屋敷に帰ると、雅仁が訪れていた。信西は雅仁の乳父であった。意気盛んな崇徳院の近くにいるのが嫌なため、信西の妻・朝子(浅香唯)をともない美濃の青墓宿(あおはかのしゅく)へ行くという。この時勢に京を離れることを止める信西だが、雅仁は関係ないと言い捨て、旅立つ。
1155年、近衛帝の容体はますます悪化、得子はますます多くの僧を集めて祈とうさせ、義朝(玉木宏)は大きな護摩壇を寄進した。清盛は鳥羽院に謁見し崇徳院との和解を勧めた。鳥羽院の心は大きく動いていた。
芸事の盛んな場所である青墓宿を訪れた雅仁は、そこで出会った白拍子・乙前(かつての祇園女御(ぎおんのにょうご)/松田聖子)の今様に、強く心を揺さぶられる。雅仁は乙前に「遊びをせんとや生まれけむ」という今様の歌のように、生き生きと生きる男(清盛)を誰もが頼りにするが、自分は誰からも相手にされない、とさびしい真情をさらした。乙前は雅仁の中にみなぎる力がやがて世を動かすといい、雅仁の心を癒やす。
近衛天皇はついに17歳の若さで世を去った。平氏一門が動揺する中、清盛はこのことは鳥羽院と崇徳院の争いのはじまりではなく、和解のきっかけになると告げた。この数日前、妻を亡くし喪に服していた頼長は次の皇位継承者を決定する会議に出席できなかった。
会議には鳥羽院や信西、忠通などが集まり議論を重ねた。弔問に訪れた清盛は内裏の一角で雅仁に会う。雅仁は帝の崩御について、生まれることがすでに博打(ばくち)だが、生まれてこなければ勝負にならない、と告げ今様を歌いだす。その今様は清盛がまだ物心つく前に実母が歌っていたものであり、清盛は不思議な懐かしさを感じる。会議では鳥羽院が崇徳院の子・重仁を推し、崇徳と和解し共に政治を行いたいと述べると、信西が猛反対。崇徳上皇が復権すれば鳥羽院を許すはずはなく、大乱になる。あくまで鳥羽院が扱いやすい方を帝にすべきと主張する。そして継承者の行方は予想外の結末を迎える。雅仁が即位し、後白河天皇が誕生したのだった。
郷ひろみのコンサートを検索していたら、たどり着きました。
友人の友人がファンクラブの会員で、一昨年の武道館コンサートから見始めました。
毎年、エネルギッシュなヒロミゴーに感心してます。
ほんとに若い!
ところで、私は先月から某カルチャーセンターの書道クラスに参加してます。
ほんとに初歩から始めてくれて、初回はなんと線を書くところからでした。
(ウォーミングアップとして、直線や曲線を書くのです)
「大河ドラマをご覧の方いますか?新撰組から、登場人物が筆で書く時の手元を演ってます」
すると、1人の生徒(もちろんオバさんですが)
「篤姫の時も?」
先生、苦笑して
「女性は女性がします。まあ、妹弟子みたいなもんですが」
とか言ってました。
先生、もちろん、というか、日展とかにも出てるようです。
手だけ出るタレントさんみたいです。
>郷ひろみのコンサートを検索していたら、たどり着きました
遠いところから?はるばる、ようこそです。
郷ひろみとはかけ離れた当ブログですが、この記事まで読んでいただき、ありがとうございます。
>初歩から始めてくれて、初回はなんと線を書くところからでした
そういえば、『とめはねっ!』というドラマでも、主人公が嫌というほど線を引かされていました。
>先生、もちろん、というか、日展とかにも出てるようです
さすが大河ドラマ、そんなすごい先生に演じてもらっているのですね。