崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

私が研究される

2017年11月02日 05時26分17秒 | 日記

 昨日家根橋先生の日本語授業に留学生と市民を交え討論するところにお邪魔した。日本語の基礎のない私には羨ましい。その基礎のない私に日本語の授業を受けた学生で教授になった人は多い。その一人が慶南大学校の張竜傑教授である。彼は東亞細亞日本學會、東北亞細亞文化學會、日本文藝硏究會の聯合主催で東亞大學校(2017 10 27~28日、富民國際館)で開かれた國際學術大會で「『なぜ米軍慰安婦はなぜ生まれたのか』に表れた民衆の慰安婦に関する両義性の一考察」を発表した。それは拙著の分析である。私が朝鮮戦争中の体験を書いた部分に彼は注目した。国民が戦争に巻き込まれるのは当然である。彼は国民とは異なる民衆の存在に注目すべきであるという。つまり接戦中には村人は国家をあまり意識しない。ただ生存しようとする。敵ではない味方と思った国連軍、米軍が性暴行をするということに対備しなければならなかった。儒教的貞操倫理を捨てて売春村にならざるを得なかった。そこで彼は国民と民衆を区別して国家とは何かへと文脈が流れる。鋭い。彼から私は研究される。嬉しい。そして怖い。