崔吉城との対話

日々考えていること、感じていることを書きます。

介護と被介護の心

2013年03月03日 06時05分15秒 | エッセイ
 我がマンションのすぐ後方にサービス付き高級高齢者住宅の建設工事が終半になっているようである。足台とテントが張られていて工事の状況を観察することが出来ず遺憾である。特に私が関心を持つのは「もっと老後」を考え、つまり介護施設として関心を持っているのかも知れない。おそらく多くの人は私のように「介護される」ことばかり考えているだろう。しかし介護とは「障害者あるいは高齢者・病人などの生活支援をすること」であり、自ら「他人を介護する」という意味の「他人のため」の心に成り立っている。被介護の心より介護の心が強調されていることを想起しなければならない。
私にはその心が全く用意されていない。家内に「介護される」ことを当然だと思っているようであるからである。家内はその心を持って看護、介護の勤務をして過労の状況で手の痛みもあり、手術を予定している。それなのに帰宅して食事を用意するなどを見ても私の心使いが足りない。最近私は嗅覚を失い「無味無臭」になり調理する気持ちも失くし、仕事のテンポも遅くなっている。以前にはよくチゲなべなどを作ったりしていたのに、昨日は一日中家にいても夜8時近くに帰宅する家内を待ちながら、仕事に夢中で空腹を感じることもなく時間を過ごした。今まで家内が喜んでくれるので作っていた食事も自分のための調理であったのかもしれない。介護の心が弱い自分を反省している。また一般的に介護する施設側ばかり努力するが、一人一人の個人が「介護する心」を持つことが大事であることを強調すべきであろう。