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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「地球星人」~村田沙耶香の世界観と強靱さに圧倒される

2019-05-31 12:28:38 | 読書
 川崎で忌まわしい事件が起きた。亡くなった2人の冥福と、心身に傷を負った方々の回復を心から祈りたい。社会の底から世間を眺めている俺ゆえ、偽悪的に記すのが常だが、自分は岩崎容疑者とさほど遠くないと感じている。一つ二つ歯車が狂っていたら、還暦を過ぎた今、どうなっていたのだろう。

 20代半ば、俺はひきこもりの走りだった。当時の知人は「爆弾でも作ってるんじゃないかと思った」、ある女性は「無理心中を迫られそうでビビった」と後に証言している。定職に就かず極貧だった俺は親不孝の極みで、「何かしでかしたのでは」と両親は朝刊を開くのが怖かったらしい。まさに犯罪予備軍だったのだ。

 ドラマW「坂の途中の家」(角田光代原作)は秀逸な内容だ。1児の母である里沙子(柴咲コウ)は、わが子を虐待死させた水穂(水野美紀)の公判の補充裁判員に選ばれた。裁判の進行につれ、里沙子は水穂の喘ぎにシンクロし、自分も娘に手を掛けてしまうのではという予感に苛まれていく。どのような結末が待ち受けているのか、明日の最終回が楽しみだ。

 映像化された作品にしか接していないが、角田ワールドには、女性への世間の不理解に醸成された悪魔が潜んでいる。さらに衝撃的な女流作家の小説を読了した。村田沙耶香の最新作「地球星人」(新潮社)で、帯に記された「過去10年で一番驚愕した小説」との佐藤優氏の絶賛も頷ける衝撃的な物語だった。

 芥川賞受賞作「コンビニ人間」を<カフカ的なテーマに貫かれ、アイデンティティーと疎外という深遠なテーマが滲む作品>と評したが、「地球星人」はその延長線上にある。主人公の奈月は「坂の途中の家」の里沙子と異なり、世間や常識を幼い頃から敵視している。

 奈月は両親、姉とともに、お盆になると長野県の秋級に向かう。鄙びた村で、UFOが飛来しても不思議のないムードを醸している。年に一度、全国から親族が集う祖父母宅で、いとこの由宇と結婚を誓う。由宇はポハピピンポポピア星人、奈月は魔法少女を自称する。由宇もまた世間に距離を覚えていた。

 奈月に近づいた塾講師の伊賀崎は一流大に通うハンサムな青年で、生徒や保護者の受けもいい。完璧な普通人の異常な振る舞いに、「自分の体が自分のものでなくなる」と直感した奈月は、秋級で思い切った行動に出る。針金で結婚指輪を作り、由宇と結ばれた刹那、大人たちに見つかって大騒動になる。いとこ同士の小学生のセックスという禁忌を破って引き離された二人の誓いは、<何があっても生き延びること>……。

 物語は20年後にタイムスリップし、奈月は世間の監視から逃れたい人々が集う「すり抜け・ドットコム」で出会った智臣と、セックスレスを前提に結婚していた。夫婦は<工場>を拒絶することで繋がっていた。恋という幻想で子宮と精巣を接触させ繁殖に至る工程から距離を置く二人は出来損ないの部品だった。工場は地球星人の作り上げた仕組みともいえ、職を転々とする智臣は二重の意味で不良品だった。

 奈月は地球星人であることを拒否しつつ、支配されたいというアンビバレンツに引き裂かれている。「コンビニ人間」の恵子は<世界の部品であることを初めて感じ、コンビニ人間として生まれた>と意識するが、奈月もまた、地球星人に洗脳されるのも悪くないと考えることがある。

 本作のハイライトは二つの殺戮シーンだ。奈月はぬいぐるみのピュートに勇気付けられ伊賀崎を惨殺する。変質者である伊賀崎だが、友人たちはストーカーに追い回される恐怖を克服しようと睡眠薬を服用していたと証言していた。幽体離脱して、伊賀崎の心に棲む悪魔を殺した……。奈月はデジャブのように記憶しているが、別の捉え方も可能ではないか。

 工場の掟に詰められた夫と秋級に向かった奈月は由宇と再会する。地球星人になってつまらなくなったと感じた由宇だが、天与の共感性ゆえ、夫婦の影響でたちまちポハピピンポポピア星人だったことを思い出す。盗み、そして凄まじい殺人と逸脱を繰り返すうち、三人は三匹と表記されるようになる。理性を失うことで解放された奈月が初めて疼き(性欲)を覚えるという設定が興味深い。

 今の日本社会の矛盾なんて問うても、村田は一笑に付すかもしれない。お茶目に見える彼女だが、社会や構造を内在化し、皮膚を固めているのは明らかだ。強靱だからこそ、シュールで狂気に満ちた物語を提示出来る。驚愕のラストと村田の世界観を味わってほしい。

 最後に、安田記念について。POG指名馬アーモンドアイとダノンプレミアムが文字通り雌雄を決する。40年超の競馬歴で最大のイベントだ。俺の予想は本命ダノン、対抗アーモンドだが、愛する両馬の一騎打ちを期待している。
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民主国家への道いまだ険し~供託金〝合憲〟判決を受けて

2019-05-27 22:56:31 | 社会、政治
 POG指名馬ロジャーバローズが12番人気でダービーを制し、波乱の主役になった。今季は最下位に沈んでいたが、帳尻を合わせられて幸いだ。管理する角居調教師はレース後の記者会見で苦渋の表情を浮かべていた。断然人気サートゥルナーリアが4着に終わったことを慮っていたに違いない。

 サートゥル=ノーザンファーム生産馬、ロジャー=日高生産馬で個人馬主……。2年後の引退が決まっている名トレーナーでさえ、社台系独裁の現状に縛られていて、想定外の結果を素直に喜べない。競馬界は今、安倍政権下の日本以上に不自由なのだ。

 衆参同日選があるかはともかく、メディアは既に、エンターテインメントとして選挙を報じている。最たるものは〝スター〟揃いの参院東京地方区だ。参院1人区で野党が候補を絞れても、衆院選と同時となれば〝実効〟に陰りが出てくる。

 観光客と米メディアに揶揄されたトランプ大統領を筆頭に、排他主義を掲げる指導者が世界を闊歩しているが、抵抗する側も負けていない。目を引くのは欧米での10代の政治参加だ。スコットランド独立運動では中高生が顔にペイントして旗幟を鮮明にし、スウェーデンでは国政選挙のたびに政党関係者が学校で生徒が議論する。

 日本では自由と民主主義が死に瀕している。治安維持法とセットで普通選挙法が導入された1925年に戻っている。〝世の中はこんなもん〟と嘯くニヒリスト気取りも多いが、気になっているのは<日本だけ>を否定的に捉えない風潮だ。例えば、死刑……。廃止がEU加盟条件だが、日本では現状肯定派が、戦争法に反対したリベラルにも多かった。

 俺はこの間、日本が民主国家になる道筋を選挙に求めてきた。この国の公職選挙法は<立候補者と投票する側をいかに遮断するか>に腐心している。国会に議席を持たない政党や無所属の候補者の声は、有権者に届かない仕組みになっている。政権側にとって、これほど〝有効〟な制度はない。自公は25%の組織を固め、投票率が50%そこそこなら当選は動かない。それが現在の不毛な状況をつくり出している。

 政界進出を妨げているのが供託金制度だ。衆参の選挙区に立候補するために300万円、比例区なら名簿登載者1人当たり600万円が必要になる。他の先進国(OECD加盟35カ国)では例を見ない制度だ。立候補の自由を保障する憲法15条1項、国会議員の資格について財産や収入による差別を禁じた憲法44条に違反するとして、埼玉県の自営業者が東京地裁に提訴した。

 原告側弁護団長を宇都宮健児氏が務め、16年5月に始まった公判は24日に判決が下り、完全敗訴に終わった。「世界一高く、先進国であり得ない供託金は合憲」が杜下弘記裁判長の結論で、宇都宮弁護士は「上中下、考え得る最悪の判決」と怒りを滲ませていた。原告側はもちろん控訴する。

 この1年、欠かさず傍聴してきた。前任者は原告側に理解を示しており、<泡沫候補や売名のために立候補することで選挙が妨害される>といった屁理屈はクリアされていると確信していたが、杜下裁判長は屁理屈を判決に織り込んでいた。

 前稿で紹介した「冤罪三部作」の金聖雄監督は映画会で「良心的な裁判官が結審寸前、交代するケースが多い」と語っていた。仮に杜下裁判長が<供託金は違憲>との判決を下せば、左遷され、法曹界における出世の道は閉ざされる。勇気のなさを責める気にはなれないが、法律に無知な俺でさえ、疑問を覚える言葉があった。

 安倍首相はこれまで3度、「私は立法府の長」と国会で発言し、失笑を買った。正しくは<行政府の長>である。ところが杜下裁判長は<司法府の長>という自覚に欠けていた。国会の動向に阿り、供託金が200万円から300万円に引き上げられた経緯に言及している。ある候補を泡沫と判断するのは主権者の国民で、司法の側ではないという認識に欠けている。

 日本は戦後、欧米諸国の民主主義を模範にして追っかけてきた。だが、選挙制度は特殊で、<先進国標準>とズレていても是正する必要はないというのが判決の趣旨だった。平均年収が300万円前後の今、貧困に喘ぐ者は政治からパージされている。貴族の巣窟となった国会が弱者を鞭打つのは当然なのだ。

 残念でならないのは、メディアが本質的な問題に目を背けていることだ。まあ、メディアの社員は〝準貴族〟だから、供託金を深刻に考えるなど、よほどの想像力がない限り不可能なのだろう。
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ジブリ、そして狭山~3本のドキュメンタリーを堪能する

2019-05-23 19:58:53 | カルチャー
 週をまたいでドキュメンタリーを観賞した。まずはジブリ関連から……。宮崎駿をメーンに据えた「夢と狂気の王国」(砂田麻美監督)と、昨年亡くなった高畑勲の実像に迫った「高畑勲 『かぐや姫の物語』をつくる」(三木哲・佐藤英和共同ディレクター)で、それぞれ日本映画専門チャンネルとWOWOWで放映された。

 ともに2013年製作で、宮崎は「風立ちぬ」、高畑は「かぐや姫の物語」の完成に向け苦闘していた。ジブリの二枚看板だが、評価と人気は宮崎が凌駕している。先月末、帰省中に従兄宅で見た「平成ニッポンのヒーロー」では、リアルタイムの視聴者投票で宮崎が「ニュース・文化部門」1位に輝いた。

 放送された作品を幾つか見た程度で、ジブリと縁が薄い。最も印象に残っているのは高畑監督作の「火垂るの墓」だ。原作(野坂昭如)の素晴らしさに加え、兄妹のドラマであることが自身と重なったからだ。ジブリに距離を感じるのは理由がある。知人の女性はアニメーターで、下請けプロダクションでジブリ作品も担当していたが、待遇はブラックどころか地獄で、エンドロールに名前が載ることだけが〝ご褒美〟だった。世紀が変わる頃、彼女は別業種に転職する。

 ジブリのファンタジーを支えているのは、血と汗と涙である……。などと書くと、「おまえは夢のない奴」と罵られるかもしれない。「夢と――」であるスタッフは宮崎との付き合い方について、「守るものがある人は辛いと思う。自己犠牲が必要」と語っていたが、言葉の端々に〝王の孤独〟が滲む宮崎は、自身が独裁者であることを十分理解している。

 宮崎は高畑に見いだされ育てられた。〝人格破綻者〟とも評される高畑は「かぐや姫の物語」撮影時、77歳だったが、見た目は5歳下の宮崎より遥かに若い。高畑は愛の鞭ならぬ潰しの礫を打つ人だったが、宮崎は受けて立ち、業界でのポジションを逆転した。

 宮崎は反戦、反原発、護憲を訴えてきたが、その思いが作品にどう投影されているのかわからない。宮崎は広河隆一と交流があった。福島で体内被曝した可能性のある子供たちのため、広河が立ち上げた保養施設「沖縄球美の里」のシンボルマークを宮崎がデザインした。晩節を汚した広河の二の舞いにならぬことを祈っている。

 週末は高円寺グレインで「SAYAMA みえない手錠をはずすまで」(金聖雄監督)を観賞した。1963年、女子高生殺人犯にデッチ上げられた石川一雄さんを追った作品で、2014年度毎日映画コンクールでドキュメンタリー部門作品賞に輝いた。長谷川豊氏の暴言(=本音)には愕然とさせられたが、本作の背景にあるのは差別と貧困、そして警察の暴力と誘導である。

 石川さんは32年間、獄中で過ごし、現在は仮出獄中だ。脅迫状の筆跡鑑定は99%、石川さんが無実であることを示している。再審請求が通り、証拠開示が認められたら無罪は明らかだが、権力者は石川さんの死を待ち望んでいる。国連自由権規約委員会は狭山事件に言及し、<司法手続きにおける証拠開示について、公正な裁判の原則に立つべき>と日本政府に勧告したが、状況は変わらない。

 学生時代、韓国民主化支援と狭山事件に関わっていた。俺の物差しを作ってくれたのが二つのテーマである。開演前、金監督がマイクを握り、石川さんと奥さんの早智子さんを紹介する。支援者の願い(再審)が叶わぬことへの忸怩たる思いでストイックに生きる石川さんを、早智子さんが優しく包み込んでいる。夫婦漫才のような会話で紡がれた夫妻は理想のカップルと映った。

 「冤罪三部作」の陣内直行プロデューサー、ソシアルシネマクラブすぎなみの大場亮代表、文化交流の場を提供する加藤真グレイン店主はいずれもグリーンズジャパンのメンバーだ。そして闘争のシンボルだった石川さんが、飄々としたユーモアを湛えて左前に座っている。グリーンズジャパンに入会したことで、40年の時間が遡行し、凝縮して逆流する。俺は絆の意味をしみじみ実感した。
 
 俺もかつて参加した「狭山事件現地調査」、そして早智子さんの帰省先(徳島)で開催された交流会にも若い世代が目立っていた。客席にも若い女性が多く詰め掛けている。俺は微かな希望を覚えた。ちなみに鳴門の海岸は夫妻にとって思い出の場所らしい。「この映画はラブストーリーです」と語っていた通り、金監督は眩いほどの愛で本作を締めた。
 
 最後に告知を。本作の呼び掛け人のひとり、小室等が結成した獄友イノセントバンドのライブが6月2日、阿佐ヶ谷ロフトで開催される。ゲストは李政美という豪華ラインアップで、獄友たちも顔を見せるかもしれない。関心のある方は阿佐ヶ谷ロフト(℡03・5929・3445)もしくは高円寺グレイン(℡03・6383・0440)まで。
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中島敦~夭折した作家が秘めていた無限の可能性

2019-05-19 11:57:55 | 読書
 春眠どころか、常に暁を覚えぬ俺だが、WOWOWで録画しておいたWBSSバンタム級準決勝(グラスゴー)での井上尚弥のパフォーマンスに、眠気は一気に吹っ飛んだ。地上波でも今夜放映されるので、衝撃を味わってほしい。

 先月に続き、柳家小三治の独演会(サンパール荒川)に足を運んだ。高座に上がると春日八郎、三橋美智也、西田佐知子の思い出を語り、得意の喉を披露した。枕だけで袖に消えたが仲入り後、1時間超の「死神」で観客を魅了する。ファン歴が長い知人は「出色の出来栄え」と絶賛していた。

 不断の努力と摂生に支えられた傘寿間近の名人、そして将棋界には29歳の新名人が誕生した。豊島将之2冠が4連勝で戴冠する。〝間〟といえば小三治だが、豊島の絶妙な間合いが光ったシリーズだった。無個性とも思える豊島だが、謎めいた一匹狼、不戦勝した際に対局者を慮った節度、ユヴァル・ノア・ハラリを愛読する知性と、素顔をメディアが報じている。

 備忘録、遺書代わりとしてブログを使ってきたが、最大の効能は<自分の無知を知ったこと>だ。今回紹介する選書「中島敦」(筑摩書房)で、夭折した作家の作品に感銘を覚えた。きっかけは昨年末、小説「月」発刊記念に紀伊國屋ホールで開催された辺見庸の講演会<存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて>である。

 「月」は相模原障害者施設で起きた事件に着想を得て書かれた。辺見は講演で中島の「セトナ皇子」を取り上げ、<在ることは無意味と考えるのが自由の端緒だが、「さとくん」(加害者)は在ることの意味に拘泥し、最善を目指して最悪の行為に至った>(論旨)と語っていた。

 池澤夏樹による解説を読むのにためらいがあった。入り口が辺見、出口が池澤……。敬意を抱く両者の前に、俺の感想など芥子粒ほどの意味も持たないことを承知しているからだ。幸いなことに被らない点も多々あったので、拙い感想を以下に。

 「セトナ皇子」同様、<存在の意味>を考察した作品が収録されていた。「文字禍」について池澤は、<ボルヘスの作品群に交じっていても違和感はない>と評価している。中島は1941年、持病の気管支喘息が悪化して亡くなった。死神を意識しながら、対戦国である中国の故事に題材にした作品を書く。「山月伝」は高校の教科書に掲載されていたので、おぼろげに覚えていた。

 中島はジレンマを抱えていたに違いない。主人公は日本の支配層と対照的に、矜持と信念を併せ持ち、宿命を理解している。〝親中文学〟のレッテルを貼られても不思議ではなく、発表出来ても偏狭な日本社会に受け入れられない可能性が高い。自身の絶望的状況を、不遇をかこつ登場人物に重ねていたのではないか。

 中島が20歳の時に発表した「巡査の居る風景」に瞠目させられた。父親の転勤で京城の小学校に転入した時の記憶をベースに、趙教英巡査の目を通して描かれる。サブタイトルは「一九二三年の一つのスケッチ」で、本作にも同年の関東大震災直後に起きた朝鮮人大虐殺が言及されている。趙が独白する<朝鮮人の奴隷根性>に魯迅の「阿Q正伝」が重なった。

 中島は死の前年、教科書編纂掛としてパラオに赴任する。生来の旅人で当地を何度も訪れた池澤は、中島へのシンパシーを記していた。パラオを舞台にした4編は、いずれも寓意に満ちた神話的輝きを放っている。中島が「マリヤン」の主人公に惹かれていたのは明らかだ。痩せた小男の中島、フックラして大柄のマリヤン……。ルックスは対照的だが、読書人という共通点があった。

 抑制的な日本文化と対極にある開放的なパラオの風土に中島は馴染んでいく。知性や教養を首から上のアクセサリーに用いる知識人は多いが、中島は血肉化し、世界をスクエアかつ俯瞰の視線で眺めていた。だからこそ中国の歴史を真摯に学び、朝鮮人の目で日本を穿ち、パラオの人々と対等に接することが出来たのだ。

 とりわけ印象に残ったのは中国を題材にした怪奇譚「牛人」と、東京での日常を描いた「かめれおん日記」だった。三流の校閲者である俺が気になったのは「・」の多用だった。戦前なら「、」が普通だったはずだが、中島の真意は奈辺にあったのだろう。

 残された全集は3巻だったが、生き長らえて30巻だったら……。池澤は繰り返し夭折を惜しんでいる。俺が再会、いや発見した中島は日本の文学、そして思想界を変えたはずの存在だったと確信した。
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象徴天皇制の今をファジーに考えた

2019-05-15 19:00:27 | 社会、政治
 今回は象徴天皇制について記したい。護憲集会の稿(4日)の次の予定が、遠藤ミチロウの訃報などもあり、少しずれた。ハードルが高いのは承知しているから、重いテーマをファジーに綴ることにする。

 三島由紀夫は大衆天皇制に危惧を抱いた。皇室がメディアに露出することで、神秘性が薄れることを恐れたからである。美学としての天皇制を信奉した三島は、昭和天皇に鋭い視線を向けていた。「剣」の主人公、剣道部の国分主将は、部員たちのささやかなルール違反を崩壊と捉え、自ら命を絶つ。三島は「あなたはなぜ責任を取らなかったのか」と昭和天皇に問い掛けたのだ。

 一般参賀(4日)の大盛況(14万人超)は〝皇室〟ブームを裏付けた。<象徴天皇制≒大衆天皇制>として認知された光景を、三島は泉下で苦笑を浮かべて眺めているに違いない。護憲集会では元号や象徴天皇制に疑義を唱えるスローガンは含まれていなかった。

 この30年、皇室と国民を巡る構図が大きく変わった。昭和→平成の頃は右翼が皇室を支えていたが、平成→令和では中道-リベラル-左派が護憲の思いを滲ませた上皇昭仁と上皇妃美智子にシンパシーを抱いている。その結果、内閣の8割が改憲派の根城、日本会議に占められている安倍政権への対抗軸に皇室が選ばれ、<反安倍≒親象徴天皇制>が令和のムードになった。

 クラッシュの「ロンドンは燃えている」にインスパイアされたのか、アナーキーは「東京イズバーニング」で次のように歌っていた。

 ♪アッタマくるぜまったくよ タダ飯喰ってのうのうと いい家住んでのんびりと 何にもしねえでスクスク育つ 何が日本の天皇だ 何にもしねえでふざけんな  何が日本の象徴だ……

 アナーキーはラディカルではなかった。逆に言えば、国民の一部の声を反映していたともいえる。昭和天皇が死んだ時、テレビは退屈な追悼番組を流し続けた。〝日本中が喪に服している〟とはまさしくフェイクニュースで、自粛せず営業した居酒屋やカラオケボックスは記録的な大繁盛で、レンタルビデオ屋ではマニアックなAVまでレンタル中だった。店長のパンク兄ちゃんは「次のXデーはいつですかね」とホクホク顔で話していた。

 象徴という表現は新憲法発布時、耳に馴染まぬ新語だった。学校の先生は子供の質問に、「象徴とは憧れ」と答えていたという。別稿(3月27日)に紹介した「天皇組合」(1950年、火野葦平著)のハイライトは、皇居前の米よこせ集会だった。昭和天皇を糾弾する言葉が飛び交っていたが、「君が代」がさざ波のように広がり、やがて大合唱になる。むろんフィクションだが、火野は70年後を見通していたのか。

 象徴天皇制を定着させるため、皇室は気を配る。昭和天皇は空気になるよう努力した。現上皇夫妻は戦没者、被爆者、沖縄の人々、そして被災者のためにひたすら祈り、<皇族=祈る人>のイメージが定着する、バックアップしたのは朝日新聞で、大元帥(昭和天皇)まで平和主義者に塗り替えてしまった。

 この間、気になっているのは、神道に基づく皇室の国事行為が当然の如く報じられていることだ。憲法に疎い俺に政教分離の本質を理解するのは難しいが、歪みが滲んできているのを感じる。仕事先の夕刊紙コラムで小林節氏(憲法学者)は、<朝見の儀は国民主権から逸脱しており、「国民代表会見」として設定すべきだった>(論旨)と記していた。

 元号に違和感を覚える俺は、反天皇制に分類されるかもしれない。疑義を覚えてきたのは叙勲制度だ。公務員や企業人が天皇に連なることで〝人生双六の上がり〟と感慨を覚えるのは仕方ない。だが、この国の現実を抉った新藤兼人、岡本喜八、大島渚ら映画人まで叙勲していることに絶望を感じる。民衆の側から権力と対峙した「苦海浄土」の著者、石牟礼道子にも〝内示〟があったというから驚きだ。もちろん、彼女は拒否した。

 この30年で<差別から天皇制を照射する>という観点が消えた。朝鮮人差別と差別を構造的に見据え、頂点に位置する天皇制を否定する……。こんな捉え方は死語、いや〝死論〟になってしまったのだろう。

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「ハンターキラー 潜航せよ」~情と信頼、そして自由が紡ぐカタルシス

2019-05-11 14:13:31 | 映画、ドラマ
 この半月余り、ブログのアクセス数が急増した。解析によれば、理由は一目瞭然、「主戦場」バブルである。「主戦場」を検索ワードにして辿り着いた方が多いようで、同作を〝反日プロパガンダ〟と攻撃する安倍首相支持派も〝敵情視察〟に訪れているはずだ。しょせんはバブルで、数字は旧に復しつつある。

 別稿(5月1日)で「無限カノン三部作」と「赤目四十八瀧心中未遂」を、それぞれ小説と映画の平成ベストワンに挙げた。洋楽ロック派の俺だが、JPOPなら浅井健一(ベンジー)に尽きる。ブランキー・ジェット・シティ、JUDEも素晴らしいが、詩的で繊細な世界を創り上げたシャーベッツに魅了された。

 ベンジーはソングライターとして、1年1作を超えるペースでアルバムを制作し、その数は30枚を超える。まさにギネス級といえるだろう。現在はインターチェンジキルズを率いてツアーを敢行中で、チケット入手は難しい。50代半ばになっても、ベンジーの創作意欲は衰えていない。

 ドラマなら「ハゲタカ」だが、「相棒」をきっかけにテレビ朝日の刑事ドラマが〝飯の供〟になった。〝テレ朝ウイルス〟に侵されているらしい。学生時代の友人と十数年ぶりに再会したのが「相棒劇場版Ⅱ」公開中の映画館前だった。ラディカルを貫く彼は若い頃、「刑事ドラマなんて絶対見ない」と断言していたが、あの日は「カミさんが(「相棒」を)好きなんで」と奥さんを紹介しながら、バツが悪そうな表情を浮かべていた。

 軍需産業やグローバル企業に操られているのは間違いないが、イランへの軍事行動を仄めすなどトランプ大統領の暴走が止まらない。支持率が上昇中と知って愕然とする。気休めを求めたわけではないが、評判の米映画「ハンターキラー 潜行せよ」(18年、ドノヴァン・マーシュ監督)を新宿で見た。上記の友人など反戦派は見ないタイプの作品だが、融通無碍の俺は超弩級のサスペンスを満喫した。

 アメリカとロシアが北海で一触即発になる。発端は米潜水艦の撃沈で、攻撃したと見做されるロシア艦も沈没している。不可解な状況に至った理由が徐々に明らかになり、米ロの原潜艦長が第3次世界大戦を食い止めるために協力する。米側のジョー・グラス館長(ジェラルド・バトラー)は不屈の精神力と的確な判断力を併せ持つ。冒頭の狩猟のシーンに、グラスの人間性が表れていた。

 ロシア側のアンドロポフ艦長(ミカエル・ニクヴィスト)も部下たちから絶大なる信頼を得ている。長い下積みによって人の心と海と潜水艦の仕組みを知り尽くすグラスとアンドロポフは、互いの中に自分を見て、たちまち強い友情で結ばれる。公開を待たず肺がんで死去したニクヴィストは、素晴らしい演技でキャリアの掉尾を飾った。

 ロシアの軍事クーデター、強硬意見が支配的になるNASAとホワイトハウス、北海に潜入した特殊部隊のロシア大統領救出作戦がカットバックし、秒刻みのスリル満点の展開に緊張は途切れない。「007」のジェームズ・ボンドや「ミッション;インポッシブル」のイーサン・ハントのような超人的な活躍はないが、それぞれが人間力で事態を打開していく。

 閑話休題。昨日は勝ったが、ベイスターズが借金9を抱えている。開幕前、「プロ野球ニュース」でラミレス監督を懸念材料に挙げていた解説者がいたが、不安は的中したようだ。データ野球を掲げるラミレス監督だが、チームは点に分解され、線になってこない。チームに重要なのはモメンタムとケミストリーだ。グラスやアンドロポフのように、信頼と情熱を軸に据える指揮官が必要だと思う。

 情と信頼をベースに、両国の兵士たちは俯瞰の視点で<何が最も必要なのか>を判断する。上意下達、規律、服従より大切なものに気付き、行動した。個に立ち返り、自由に考えることラストのカタルシスが生まれた。ハリウッドはトランプほど愚かではない。世界で観客を動員するためには普遍性と不変の真理が求められるが、本作は十分にエンターテインメントの基準を満たしていた。

 翻って日本の現状はどうか。普遍性と不変の真理のベースになるべき規範、倫理、矜持が失われつつある。だから自由は失われ、集団化に邁進している。
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遠藤ミチロウ追悼~ピュアなロッカーに心を濾し取られた3年半

2019-05-08 11:51:16 | 音楽
 GW後半、風邪をひいて普段以上に惰眠を貪っていた。連休明けの昨朝、仕事先でT君から「ミチロウ、死んじゃったね」と告げられる。死因は膵臓がんで享年68。なぜか俺のアンテナに引っかかっていなかった。ショックで眠気が吹っ飛び、心が潤むのを覚える。亡くなったのは先月末で、今月になって公表されたという。

 スターリン時代を知らない俺が初めて遠藤ミチロウのライブに初めて接したのは2015年11月、第7回オルタナミーティング(阿佐ヶ谷ロフト)でのPANTAとの共演だった。わずか3年半の縁だったが、ミチロウは俺の記憶の壁に深い爪痕を刻んでくれた。

 前稿の最後、<憲法と天皇制>をメインに据えると予告したが、次稿もしくは次々稿に回し、ミチロウの思い出を記すことにする。

 15年に発表された「FUKUSHIMA」は情念、怒り、絶望、祝祭、自虐と露悪、喪失感、贖罪、鎮魂が混然一体となったアルバムで、途轍もないエネルギーを放射していた。♯3「NAMIE(浪江)」、♯8「俺の周りは」、♯11「放射能の海」、♯12「冬のシャボン玉」がとりわけ心に響いた。

 俺がミチロウにシンパシーを抱いた理由は三つある。第一に、PANTAと半世紀近い交流があること。頭脳警察を山形大学園祭に呼んだのが実行委のメンバーだったミチロウだ。同年(1950年)生まれの両者だが、並んで立つと〝父子〟のように見えた。そのライブでミチロウは、竹原ピストルらがカバーしている「ジャスト・ライク・ア・ボーイ」で締めくくる。

 ♪まるで少年のように街に出よう どこまでも続く一本道の そのずーっと先の天国あたり 何を見つけたのか それはお楽しみに……。この曲を口ずさみながら書いている。

 第二の理由は、大学時代に影響を受けた先輩と同窓(福島高校)だったこと。福島に思いを馳せる時、ミチロウとその先輩がオーバーラップするのだ。「FUKUSHIMA」は3・11以降、故郷への思いを込めた弾き語り集である。自身がメガホンを執った映画「お母さん、いい加減あなたの顔は忘れてしまいました」(15年)は、3・11を挟んだツアーを追っていた。あづま球場で開催されたスターリンのライブに圧倒されたが、居酒屋で数人を相手に演奏する姿は吟遊詩人である。

 「お母さん――」のテーマは<家族、福島との絆>だった。故郷喪失者だったミチロウは3・11を機に、「プロジェクトFUKISHIMA」を立ち上げ、フェスを開催する。久しぶりに実家を訪れた様子はまさに〝放蕩息子の帰還〟で、母との会話に笑ってしまった。ミチロウの母が健在だったら、息子の死をどう受け止めただろう。老母を持つ我が身に重ね、そんなことを考えてしまった。

 ミチロウは膠原病を患い、14年7月からの50日間の入院生活を綴った詩集「膠原病院」を発表する。俺がミチロウにシンパシーを抱く最大の理由は、妹が膠原病と闘って力尽きたからである。膠原病の罹患者は女性が多いが、ミチロウは還暦を過ぎて発症した。

 死と向き合ったミチロウは、「墓場がどんなに放射能に汚染されても 墓場が僕のふるさとだから」と絶望を綴り、「不治の病は気づかぬ内に 人間そのものが不治の病」と自身の状況と日本社会を重ねていた。「ただ不幸を弄ぶことはできる 表現者ならそれぐらい開き直れ 不幸は表現の肥やしだぞ」と自分を叱咤したミチロウは退院後、身を削って歌い続けた。

 病室から眺めた隅田川花火に東京大空襲を重ね、広島の原爆の日には、3・11と重ねて「神様は試した どれだけ人間が愚かなのか 僕らは試した 自分達の愚かさを 二度目は自爆した ヒロシマからフクシマへ 放射能の想いが通じた」と詠んでいた。

 知性、世界観、人間性を称揚してきたPANTAに、ミチロウも匹敵する。40年近く友人だった渋谷陽一氏(ロッキング・オン社長)は訃報に触れ、<とても批評的な言葉を持ったアーティストだった。インタビューをする度に、その知的な言葉の力に感心した。しかし彼の素晴らしさは、その批評的な言葉を超える肉体的な表現を実践するデーモンがあったことだ。(中略)知性が表現を規定したり抑圧することがなかった。誰もが彼の人柄の良さに魅了された>と同誌HPに記している。

 「お母さん――」で見せたミチロウの素顔は優しかった。自身を浄化するようなシャウトとメークは、繊細と狂気のアンビバレンツを表現するための儀式だったのか。「FUKUSHIMA」でカバーした「ワルツ」(友川カズキ作)の3番をミチロウに手向けたい。

 ♪切なさを生きて君 前向きになるのだや君 物語はらせんに この世からあの世へと かけのぼる 生きても 生きてもワルツ 死んでも 死んでもワルツ 出会いも 出会いもワルツ 別れも 別れもワルツ……。 

 俺はこれから、身を剥がされるような別離を幾つ積み重ねるのだろう。それが老いるということなのか。

 
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好天の護憲集会で感じたこと

2019-05-04 19:11:30 | 社会、政治
 別稿(4月25日)で紹介した映画「主戦場」が大ヒット中で、イメージフォーラムは立ち見の出る盛況だ。終演後、拍手が沸き起こっているという。本作を<反日>と攻撃する安倍首相支持派の〝組織的犯行〟によって低得点がクリックされていたYahoo!のユーザーレビューも、ようやく3点前後に上昇した。

 安倍首相は改憲に意欲を見せたが、俺は「平和といのちと人権を! 5・3憲法集会-許すな!安倍改憲発議-」(有明防災公園)にオルタナプロジェクトのスタッフとして参加した。好天に恵まれ、6万5000人(主催者発表)が足を運んだ。会場近くに警察車両がズラリと並び、機動隊員が立っている。右翼の妨害から守るためというが、公安刑事が参加者に鋭い視線を遣っていた。

 ブース出展の目的は金聖雄監督による冤罪3部作、「SAYAMAみえない手錠をはずすまで」、「袴田巌 夢の間の世の中」、「獄友」の上映会、「獄友」のサントラを担当した獄友イノセンスバンドのライブ(ゲスト・李政美)の告知である。チケット予約は映画会=キムーンフィルム(℡042・316・5567)もしくは高円寺グレイン(℡03・6383・0440)。ライブ=阿佐ヶ谷ロフト(℡03・5929・3445)もしくは上記の高円寺グレインまで。

 集会開始前にステージに立った獄友インセンスバンドの小室等さんがメンバーとともにブースを訪れ、サントラ「真実・事実・現実 あることないこと」の物販とサイン会を行った。金監督は笑みを絶やさずPRに努めていた。向かいのブースには映画「誰がために憲法はある」関係者が詰めていた。同作の主題歌を担当したのはPANTAさんである。ちなみに、集会の司会者はオルタナプロジェクトとも縁が深い神田香織さんだった。

 若者たちの政治アレルギーについて、当ブログであれこれ記してきたが、その理由のひとつに伝える側の〝姿勢〟があるのではないか。政治の言葉は硬直化しており、人は年を重ねるにつれ頑固になって、自身のちっぽけな思い込みに固執するようになる。小室さんの温かさと自然体、金監督の活力とユーモア、PANTAさんの知性と包容力、神田さんの芯の強さと表現力が、伝える側に求められている。

 ブースを訪ねた若者にCDを薦めると、「交通費しか残っていない」と返ってきた。若年層は経済的に恵まれておらず、今回も中高年層が目立っていた。そんな中、20代と思しき女性がジャージー姿の少女たち数人を引き連れ、各ブースを回っていた。恐らくステージで朝鮮高校無償化を訴える先生と生徒たちで、映画会とライブのチラシを勇んで手渡した。

 隣のブースは移動本屋「新・吉祥寺書店」で、集会の趣旨に沿った書籍が陳列されていた。一押しは絵本「ベイビーレボリューション」(文・浅井健一、画・奈良美智)でシャーベッツの名作「ナチュラル」収録曲がベースになっている。イメージに紡がれた繊細な楽曲を作る浅井は一時、反米ナショナリストであることを隠さなかった。護憲集会とはミスマッチに思えるが、同曲は明らかにプロテストソングである。

 反原発集会(3月21日)でも気付いたが、タイガースの「廃墟の鳩」がプロテストソングとして認知されつつあり、昨日もステージから聞こえてきた。「翼をください」、「昭和ブルース」、「学生街の喫茶店」、「岬めぐり」など数多くのヒット曲の作詞で知られる山上路夫氏は、鳩が半世紀を経て廃墟から舞い上がったことに驚いているかもしれない。

 ブースに集会の様子は届かなかったが、国民民主党・玉木代表が「令和初の憲法集会」と切り出した時、「令和はいらない」と会場から怒声が飛び、「安倍政権の最大の問題点は」と問い掛けた時、間髪入れず「令和だ」の声が上がったという。健全だと感じた俺は少数派だろう。令和といえば残念なのは、令和新撰組を立ち上げた山本太郎参院議員だ。感覚の鈍さに呆れるしかない。

 集会スローガンには9条改憲阻止、戦争法と共謀罪廃止、辺野古新基地建設反対、脱原発などが並んでいたが、なぜか天皇制に関するメッセージがない。次稿では<憲法と天皇制>をメーンに据えるつもりだが、俺の能力を超えていることは重々承知している。

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京都で平成を振り返る

2019-05-01 01:02:08 | 独り言
 新緑の候というには肌寒い丹波から雑感を記したい。母も叔母も衰えを口にしていたが、ともに92歳だから当然のこと。心配なのは従兄宅の飼い猫ミーコだ。耳が遠くなっているため鳴き声が異様に大きく、虫歯なのか顔の下が腫れている。慢性便秘状態で、連休明けには獣医につれていく予定という。人に換算したら優に80歳超。次に帰る時に生きているだろうか。

 父の二十五回忌がささやかに営まれた。父が俺と同じ年(62歳)だった頃、碁会所で徹夜したり、旅行会を主催してハンドルを握ったり、農家に土地を借りて大量の野菜を収穫したり、塾を経営したりと、まさに〝スーパーおじさん〟だった。それでも69歳の冬、心身が一気に壊れる。既に酔生夢死で、日々〝永眠へのリハーサル〟をしている俺は、父の享年を超える自信がない。

 令和に変わって1時間余、平成を簡単に振り返る。2004年末までの15年はサラリーマン、その後はフリーランスとして過ごしてきた。俺にとって平成前半は明らかな停滞期で、社会を斜め見する悪しきニヒリストだった。恥ずかしくて仕方ないのは、自分を物知りだと思い込んでいたことである。

 後半の15年は充実期だった。ブログを始め、テーマ探しに小説や映画に親しみ、社会や政治について考えるにつれ、自分の無知を思い知った。〝社畜〟ではなかったが、会社という軛から解放され、自由に考え、行動するようになる。結果としてグリーンズジャパンに入会し、新たな仲間を得ることが出来た。

 最も印象的な一日を挙げれば、2012年5月27日だ。POG指名馬のディープブリランテとフェノーメノがダービーで①②着し歓喜に浸ったのも束の間、膠原病と闘いつつ日常に復帰していた妹の急死の報が翌朝届く。義弟は職場で缶詰めになっていて、朝帰りして妹の死に気付いた。前年の東日本大震災、原発事故と併せ50代後半、生き方を変えるきっかけになった。

 社会全般を振り返れば、日本はこの30年、文字通り〝アメリカ51番目の州〟になった。新自由主義が蔓延し、格差と貧困が拡大する。旧ソ連崩壊を受け、「朝まで生テレビ!」では田原総一朗、舛添要一らが<社会主義は終わった>と得意げに語っていた。小沢一郎が主導した保守二大政党制が、現在のどん詰まりを招いたか。

 現在、空気は変わりつつある。アメリカでは多様性と調和に根差した〝進化した社会主義〟が浸透し、バーニー・サンダースの影響下にある民主党オルタナティブが支持を広げている。女性、LGBT、移民、ムスリム、貧困層の代表が昨年、下院や地方議会で次々に当選を果たした。フランスのイエローベスト運動は階級闘争の様相を呈している。

 翻って日本はどうか。福祉切り捨て、年金減額で多くの国民が<板子一枚下は地獄>に直面しているのに、社会主義復権を説くと一笑に付す人が多い。受け皿(政党)は脆弱だが、欧州では若者が軸になってポデモスなど新しい政党が誕生した。奴隷にされているのに、〝闘うなんてとんでもない。社会について語るなんて無意味〟が基調になった。先進国で閉塞状態は日本だけである。

 経済については門外漢だが、日本人が蓄積した富はどこに消えたのだろう。バブル崩壊は人災で、政官財のトップは経済無策を問われ下獄しているべきだったと説く専門家もいる。<平成は失敗の時代>は否定出来ない。失われたのは富だけではない。矜持、調和、恥の意識といった日本人の美徳も、今や泥に塗れてしまった。

 当ブログで繰り返し紹介したが、いしいひさいちの慧眼に驚嘆せざるを得ない。いしいは40年前、日本の現在を予知していた。<何事も正確に処理する勤勉な日本人は数十年後、行き当たりばったりのギャンブラーになっている>……。その4コマ漫画通り平成後半、データの紛失、改竄が相次ぎ、政治と経済は出任せかつ投機的に運営されるようになった。

 各部門で平成期私的ベストワンを挙げるなら、小説は「無限カノン三部作」(2000~03年、島田雅彦)、映画は「赤目四十八瀧心中未遂」(03年、荒戸源次郎監督)だ。邦楽については稿を改め記したい。

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