酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「古道具 中野商店」~川上弘美が提示する鮮やかなカタルシス

2020-01-31 01:49:49 | 読書
 世界を今、2人の10代が震撼させている。17歳のグレタ・トゥーンベリと18歳のビリー・アイリッシュだ。ポスト資本主義に立脚し、構造を変えることを志向するグレタの言動は、<1%>を苛立たせている。そのライフスタイル〝気候を変えずに自分を変える〟は世界に確実に浸潤している。

 グラミー主要4部門で受賞したビリーは、<1%>に消費し尽くされそうな気配だ。彼女に重なるのはカート・コバーンである。ニルヴァーナが2nd「ネヴァーマインド」をリリースした1991年9月、カートは車上生活者だった。商業的成功に苛まれたカートは94年4月、ショットガンで自身の頭を撃ち抜いた。ビリーもカート同様、鬱に苦しみ、タナトスに憑かれているようだ。悪い予感を払拭出来ない。

 東出昌大が大バッシングを浴びている。〝不〟と〝醜〟の否定的な文字が入っているように、芸能人の不倫や醜聞に厳しい日本人だが、常軌を逸した首相の国家私物化や虚言を許容しているぐらいだから、決して倫理的ではない。単なる〝願望の裏返し〟なのだろうか。

 川上弘美の「古道具 中野商店」(2005年発表、新潮文庫)を読了した。以前に読んだ4作は、四季の移ろいを織り込んだ「センセイの鞄」、愛と喪失を描いた「夜の公園」(06年)、現実と仮想の淡い境界を追求した「真鶴」(同)、全章が一本のビーズで結ばれた創世記「大きな鳥にさらわれないよう」(16年)で、いずれも脳裏にしっかり灼きついている。

  「古道具 中野商店」は古道具店が舞台だ。「開運!なんでも鑑定団」に登場するような骨董品やアンティークではなく、古くなった日用品やガラクタの類いを主に扱っている。主な登場人物は店主の中野さん、遊びにくる姉のマサヨさん、バイトで買い取り助手のタケオ、語り手兼主人公で店番を務めるヒトミだ。

 12章それぞれの内容は「角形2号」、「文鎮」といったタイトルで象徴的に示されている。上記の4人は「こんな人、周りにいる」と感じてしまうようなありふれたキャラだが、読み進むうち、川上の繊細な筆致と会話の面白さで4本の糸は紡がれていく。
 
 ユーモア溢れる中野さんは、ツッコミどころ満載のダメ男に映る。今の奥さんは3人目、愛人は由緒ある骨董店店主で美人のサキ子さん、さらにもう一人というから、羨ましいほどの艶福家だ。一見植物系だが、蜜に群がる虫たちをパクリという食虫植物の如くだ。アーティストのマサヨさんもアラカンながら発展家で、丸山という恋人がいる。

 川上の作品では<女の生理>があけすけに語られる。20代後半で恋愛経験もそれなりにあるヒトミだが、マサヨさん、そしてサキ子さんの赤裸々さに圧倒されている。タケオもセックスに興味がなく、精力増強のため酢を飲むよう勧めた恋人と別れた。色の道の達人というべき濃密な中高年姉弟、薄めの若年層の対照が面白い。中野さんとマサヨさんは、恋人未満のままのヒトミとタケオをもどかしく感じている。

 感性の塊であるマサヨさんは、平凡な丸山を「一生で一番愛していた」とヒトミに告げる。中野商店解散から2年、派遣社員として働くヒトミはタケオに連絡しなかった。絵がうまい以外、取りえもなく、不器用だ。平凡以下に思えるタケオはどこかで野垂れ死にしているのでは……。そんなヒトミの不安が杞憂だったことは最終章「パンチングボール」で明らかになる。

 偶然が織り成す鮮やかなカタルシスに心が潤んだ。本作ではさりげなく、ささやかな気持ちの積み重ねの上に成立する愛が示される。俺は記憶の扉をそっと開け、愛と絆の意味を自身に問い掛けていた。
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「オリ・マキの人生で最も幸せな日」~瑞々しく清冽なラブストーリー

2020-01-27 21:38:31 | 映画、ドラマ
 新作「ダーク・ウォーターズ」で環境汚染企業のデュポンと弁護士の闘いを描いたティム・ロビンスが、バーニー・サンダース支持を表明した。ポスト資本主義を見据えて<グリーンニューディール>を掲げ、世界が動向を注視する〝民主党プログレッシブの代表格〟オカシオ・コルテスもサンダース応援団だ。ヒラリーら〝1%〟の代弁者は地殻変動に怯えている。

 新宿で先日、「オリ・マキの人生で最も幸せ日」(2016年、ユホ・クホスマネン監督)を見た。アキ・カウリスマキ監督作、「アンノウン・ソルジャー」に次ぐフィンランド映画だった。公開後10日足らずなのでネタバレは最小限に、俺自身とボクシングとの関わりを含め、背景と感想を記したい。

 1962年8月、フィンランドの田舎町でパン屋を営むオリ・マキ(ヤルコ・ラハティ)に世界タイトル挑戦話が舞い込んだ。オリ・マキはアマチュアで活躍後にプロ入りし、欧州王座を獲得している。王者デビー・ムーアは歴戦の兵で、彼我の実力差は大きく、ブックメーカーもお手上げだったに違いない。

 1960年代の日本は、ゴールデンタイムに週数回オンエアされるほどボクシングブームで、俺も父とテレビ桟敷で観戦した記憶がある。人気の中心は〝狂った風車〟ファイティング原田で、世界戦で視聴率50%超えを5度記録している。原田の戴冠以前、最も期待されていたのが高山一夫だ。

 その高山を連破したのが上記のムーアで、初戦の激闘は語り草になっている。ムーアと日本との縁はそれだけで終わらない。KO負けしたラモス戦の2日後、ダメージが原因でこの世を去ったが、この経緯を基に造形したのが「あしたのジョー」の力石徹だ。

 オリ・マキは世界戦の記者会見直前、結婚式のパーティーでライヤ(オーナ・アイロラ)と出会う。野生動物のようなオリ・マキと笑顔がチャーミングなライヤのもどかしい恋愛模様を、ヌーベルバーグを彷彿させるモノクロ映像が浮き彫りにする。

 フィンランド人として初めて世界に挑戦するオリ・マキにセレブが群がってくるが、当人は反感を隠さない。マネジャー(エーロ・ミロノフ)の減量の指示にも生返事で、試合の実現が怪しくなる。俺がオリ・マキに重ねたのはアラン・シリトーの「長距離走者の孤独」(1959年)の主人公スミスだ。

 感化院でランナーとしての資質を開花させ、競技大会に出場したスミスはゴール直前で立ち止まり、大人たちの思惑を打ち砕く。片や英国、片やフィンランド……。60年前後のヨーロッパには反抗的な空気が充満していたのだろう。

 あるスポンサーが「あいつ(オリ・マキ)は共産主義者」とマネジャーに吐き捨てていた。旧ソ連と西欧諸国の狭間で揺らぐフィンランドは50年代以降、ゼネストが頻発するなど政情が不安定で、オリ・マキが与していたかは別に、共産主義が一定の影響力を保持していたことは間違いない。同国は60年以降、北欧型の社会民主主義国家を志向し、現在に至る。

 オリ・マキとライヤが出会った日は雨が降っていた。2人が湖に飛び込むシーンも印象的だった。減量に苦しむオリ・マキにとって、水は生命線でもある。水は本作の細部にまで瑞々しく染み込んでいる。

 フィンランドでは昨年末、ストライキが続くさなか、社民党マリーン党首(34)が首相に就任し、<人間が威厳を持って生きられる社会を目指すこと>を高らかに謳った。連立する他の4党党首は全員女性で、俺が属するグリーンズジャパンの友党グリーンリーグのマリア・オサヒロ党首(34)は引き続き内務相にとどまった。本作のイメージ通り、フィンランド社会には清冽な水が流れている。
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「マザーレス・ブルックリン」~具材たっぷりの〝ハードボイルド鍋〟を堪能する

2020-01-23 22:49:58 | 映画、ドラマ
 前々稿の枕で紹介したアドマイヤビルゴは、武豊を背に新馬戦を制した。恩讐を超えたサーガ第2章の幕開けを彩ったのは、故近藤利一氏からビルゴを引き継いだ妻の旬子さん、②着に追い込んだフアナのオーナーで前妻の英子さんである。赤い二筋の気炎は、の世の近藤氏に届いただろうか。

 数年前まではこの時期、NFLの結果に一喜一憂していたが、スポーツ全般に興味が失せた今、観戦したのはポストシーズンに入ってからである。アップセットの連続にタイタンズのにわかファンになったが、AFCチャンピオンシップではチーフスに歯が立たなかった。

 全米を震撼させているのはMLBのサイン盗みで、GM1人、監督3人が解任された。戦争に擬せられるNFLでは盗み、騙しは奨励される。ヘッドコーチはルールブックで口元を隠しているが、その程度で技術の進歩に太刀打ち出来ない。NSAやCIAの個人情報収集を告発したスノーデンやアサンジにアメリカがどう対応したかはご存じの通りだ。野球だけに正義を求めるのはダブルスタンダードだ。

 新宿で先日、「マザーレス・ブルックリン」(2019年)を見た。監督はエール大で日本語を学び、1年弱の滞日経験もあるエドワード・ノートンで、製作・脚本、主演も兼ねている。出演作でとりわけ印象に残っているのは「アメリカン・ヒストリーX」と「ファイト・クラブ」だ。公開されて半月弱なので、興趣を削がぬよう感想を記したい。

 同名の小説(1999年発表)と、住民運動と巨悪の対決を描いたノンフィクション(50年代発表)をベースに、50年代のニューヨーク・ブルックリンを舞台に製作された。ノートン演じるライオネルは私立探偵だ。孤児院から引き取ってくれたフランク(ブルース・ウィルス)はボスであり、友であり、父親代わりでもある。タイトルは、フランクが母のいないライオネルに付けたあだ名だ。

 ライオネルは障害(強度のチック症?)を抱え、頭が〝ラップ〟して制御出来ない言葉をまきちらしてしまう。脈絡はなさそうだが、連想ゲームに似て的を突いている。ライオネルは症状を恥じているが、ローラ(ググ・バサ=ロー)も楽しんでいるし、マイルス・デイヴィスがモデルらしいトランペットマン(マイケル・K・ウィリアムス)も才能の発露と見做していた。

 驚異的な記憶力を持つライオネルを買っていたフランクは早々に殺されてしまうが、回想シーンで繰り返し登場する。本作では上記以外に、ギャビー・ホロウィッツ役のチェリー・ジョーンズ、ポール役のウィレム・デフォーらが脇を固めている。異彩を放っていたのはニューヨークの〝裏の帝王〟モーゼスを演じるアレック・ボールドウィンだ。

 「サタデー・ナイト・ライブ」におけるトランプのパロディーで好評を博したボールドウィンは、「偉大なアメリカを前身させる」などトランプを彷彿させる台詞を吐いている。<巨人の力を持つのは素晴らしいが、その力を巨人のように使うのは暴虐だ>(シェイクスピア)……。このテロップの言葉を体現するモーゼスに反抗の狼煙を上げたのがギャビーであり、ローラだった。

 50年代といえば、ジャズとハードボイルドだ。モダンジャズの全盛期、本作のメインテーマ「ウーマン・イン・ブルー」をはじめ、シャープで白熱した演奏シーンに魅せられた。ノートンはハードボイルドの傑作を参考にしたようだが、俺が重ねたのは、主人公が私立探偵ではないオーソン・ウェルズの「上海から来た女」と「黒い罠」である。

 本作は〝グツグツ煮え立つハードボイルド鍋〟だ。メインの具材はもちろん闇、トラウマ、孤独に苦しむライオネルとローラの進行形の愛だが、黒人差別、格差と貧困、汚職と強権といった社会性を背景に、様々な要素が織り込まれている。エドワード・ノートンの柔らかさが作品に反映されていた。

 ライオネルとローラは、ラストで海辺を見つめていた。相寄る魂はエンドマークの先、どのような航海に出るのだろう。
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「未来への大分岐」~知の最前線の現在

2020-01-19 21:41:47 | 読書
 気候危機、格差と貧困、AIをキーワードに世界は今、転換期を迎えている。趨勢に遅れまいと「未来への大分岐」(斎藤幸平編、集英社新書)を読了した。サブタイトルは<資本主義の終わりか、人間の終焉か?>である。〝脳死状態〟の俺にはハードルが高かったが、理解不能な点はスルーした。ブログで普段記していることに引き寄せて感想を記したい。

 ウォール街占拠の理論的支柱である政治哲学者のマイケル・ハート、〝哲学界の寵児〟マルクス・ガブリエル、著書「ポストキャピタリズム」で次なる経済社会への移行を提示したポール・メイソン……。この3人と斎藤幸平大阪市大准教授との対談が収録されている。世界が注目する知のトップランナーの引けを取らない斎藤は30代前半。今後、論壇をリードしていくことは間違いない。

 ハートと斎藤は、現状を打開するのは社会民主主義ではなく、ラディカルな左派であるとの見解で一致している。「資本主義の飼い慣らしを志向している」とピケティを批判していた。<自身の能力を発揮する手段を民主的かつ自律的な方法で管理すること>……、マルクス主義哲学でいえば、疎外からの解放を求め、エジプト、チュニジア、欧米でオキュパイ運動が広がった。

 サンダース旋風も香港での抗議活動もこの潮流に乗っているが、社会運動は今、従来のヒエラルヒー型、市民運動とリンクした水平型かの転機を迎えている。 ハートは水平型を支持し、オルタナティブで直接民主主義的な運動が新しいタイプのリーダーたち、サンダースやコービンを生み出したと述べていた。

 斎藤は日本の社会運動が脆弱な理由として、〝選挙民主主義〟を挙げていた。メディアも変化の萌芽を無視し、政局に偏って報道している。斎藤は今世紀の日本で最も本質的だった社会運動として、オキュパイ運動の先駆けといえる「年越し派遣村」(2008年)を挙げていた。ハートと斎藤が最も注目しているのは、バルセロナのクラウ市長が実践する<ミュニシバリズム=都市レベルでの自治的な民主主義的参画を重視する試み>だ。
 
 両者が民主主義の再生の鍵に置いているのは<コモン=民主的に共有されて管理される社会的な富>だ。コモンはコミュニズムに繋がり、世界中の水道民営化の実態、スー族のパイプライン、エコロジーとリンクして考えると理解は深まる。資本主義はコモンを正しく取り扱えない。生産力至上主義の下での成長と発展は略奪に繋がるからだ。

 「新実在論」を掲げるマルクス・ガブリエルは、<相対主義は民主主義を壊す>と主張する。相対主義は米トランプ大統領が体現する「ポスト真実」、「モア真実」の生みの親で、歴史修正主義と通底している。ガブリエルは「ホロコーストと従軍慰安婦は自明の理」と語り、斎藤は「現在の相対主義の典型はガザ。ホロコーストを利用し、弾圧を知っているのはユダヤ人だけとの前提で、パレスチナ人の苦しみを否定している」とイスラエルを批判している。

 SNSの蔓延で<自明>は喪失し、「真実を知ることは簡単ではない」という迷いが世界に広がったとガブリエルは指摘する。<自明>とは倫理的思考(哲学)の習得に基づくものとし、AIにも言及する。死を意識することで形成される倫理はAIと無縁だ。サイバー独裁は民主主義の否定を招く。

 <真理、平等、自由、連帯という普遍的概念を再起動するのが新存在論の本質で、ポスト真実とは真逆>という斎藤の言葉に ガブリエルは感激していた。倫理的責任に基づいて行動し、ポスト真実と相対主義にピリオドを打つことが哲学者ガブリエルの目標だ。

 経済は苦手な分野だから、メイソンと斎藤の対談を読み解くのは無理だった。理解出来たのは前提になっている部分である。現在をどう捉えるか……。識者や社会運動家の立ち位置は二分されている。一つは、資本主義を改良していく方向だ。日経が先月末から連載している「逆境の資本主義」はソフトランディングに向けた施策を提示している。

 もう一つは、ポスト資本主義を見据える立場だ。景気循環がないこと、住宅の価格破壊などのデータを示し、メイソンは産業資本主義の終焉を主張する。環境危機をポスト資本主義のスタートと捉え、万人のためのニューディールの必要性を訴える。具体的にはオカシオ=コルテス米下院議員がイニシアチブと取るグリーンニューディールだ。

 グリーンニューディールは<100%再生可能エネルギー>、<電力のスマートグリット化>、<製造業と農業のグリーン化>といった環境問題のみならず、格差の解消、公共交通機関の充実、医療・教育の充実を含むプロジェクトだ。民主党支持者、若年層に浸透しつつある社会主義、マルクスへの共感を反映しているといえる。

 メイソンはポスト資本主義下における労働の在り方にも言及していた。「脱成長ミーティング」(1月7日の稿)でも話題に上ったが、AIが進歩しても消えない職業は教育、介護、福祉といったケア労働だ。ガブリエルも<知性や理性は感情とリンクしている>と述べていた。知の最前線に迫った本書だが、時代に堪え得る人間としての情や優しさの意味を再認識させられた。
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「パラサイト 半地下の家族」~洪水が悪魔を呼び覚ます

2020-01-15 20:52:47 | 映画、ドラマ
 俺がPOGで指名した5億8000万円の高額馬アドマイヤビルゴ(友道厩舎)がデビューする。鞍上は武豊だ。近藤利一氏(アドマイヤのオーナー)、同氏が多くの所有馬を預託していた松田博資師はともに亡くなり、ビルゴの父ディープインパクトもこの世にいない。

 近藤氏&松田博師、そしてディープの主戦だった武豊は絶縁状態になった。その経緯については諸説あるが、ビルゴにはサイドストーリーもある。ディープを育てた池江泰郎元調教師は現在、サトノの冠で知られる里見治氏のアドバイザーで、ビルゴを競り落とした友道師には〝大魔神〟佐々木主浩氏が協力している。

 値が急騰した背景にはオーナー同士、友道師と池江泰寿師(泰郎氏の長男)の意地もあったのだろう。相克に満ちたサーガ第2章は、友道師の計らいと近藤旬子新オーナー(利一氏を看取った妻)の理解で今週末、京都で幕を開ける。馬場の悪化、体の小ささがネックになるかもしれない。

 武豊とアドマイヤは恩讐を超えたが、カタストロフィーに至る映画を新宿で見た。昨年度のパルムドール受賞作「パラサイト 半地下の家族」(2019年、ポン・ジュノ監督)である。韓国で1000万人以上を動員し、全世界で大ヒット中だ。俺が見た回もフルハウスで、若いカップルが目立った。公開直後なのでネタバレは最小限に、感想と背景を記したい。

 人間の深淵に迫る韓国映画には悪魔が頻繁に登場する。「殺人の追憶」では、悪魔は独裁政権のメタファーだった。「母なる証明」では闇と影の先に悪魔の素顔が像を結ぶ。芸術性とエンターテインメント性を併せて志向するポンにとって、「パラサイト――」はキャリアの到達点といえる。

 別稿(昨年11月6日)で<日韓から「家族」を描く 是枝裕和×ポン・ジュノ>(日本映画専門ch放映)に触れた。本作の主演(キム・ギデク役)のソン・ガンホについて、ポンは「台本を読み込んだ上でのアドリブは、作品を引き締め着地点に誘う力がある。私にとって、是枝監督における樹木希林さんのような救世主」と語っていた。

 ギデクを筆頭に揃って失業中のキム一家は半地下で生活している。当人だけでなく、妻、長男、長女も才能はあるのに浮上できない。若くしてIT企業を立ち上げたパク社長は妻と子供2人、熟練の家政婦と豪邸で暮らしている。タイトル通り、キム家がパク家にパラサイト(寄生)していく過程をユーモアたっぷりに描いているが、養分吸い取りの橋渡しになっていたのはパクの妻でお人好しのヨンギョだ。

 パク家、そして各自が別々に入り込んだキム家の面々……。階級を超えた信頼と友情が芽生えていくかに思えた。失敗を繰り返してきたギデクは、パク家の人々の善良さに驚くが、両家を決定的に分かつものが象徴的に現れてくる。ご覧になって確認してほしい。

 様々な栄誉に浴した「スノーピアサー」と「オクジャ」は膨大な製作費がプレッシャーになったポンにとって、「パラサイト」は自分のサイズにあった作品というが、お金はもちろんかかっている。主な舞台になったパク邸は、ポンが美術監督と協力し、3DとCGを駆使して描いた絵コンテを基に造り上げたセットだった。

 ラストに重なったのは「ショート・カッツ」(ロバート・アルトマン監督)だ。同作は地震によって群像劇が終焉する。「パラサイト」では、洪水で呼び覚まされた悪魔がカタストロフィーに導いた。悪魔といっても格差が生み出したもので、パク家に潜む〝異物〟に憑かれたソンの演技に魅せられた。

 上記の対談で、ポンは樹木希林へのオマージュを語っていた。その樹木は「母なる証明」に感銘を覚え、感想を綴ったメールを是枝に送ったというポンは今、是枝もその天分を絶賛する広瀬すずに興味を持っている。<ポン・ジュノ監督次回作の主演は広瀬すず>……。そんなニュースが世界を駆け巡る日が来るかもしれない。
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メディアの未来を見据えた「さよならテレビ」

2020-01-11 19:53:23 | 映画、ドラマ
 女性初のプロ棋士誕生なるか……。藤井を超えるフィーバーに2カ月後、覆われているかもしれない。西山朋佳女流三冠が三段リーグを8勝2敗で折り返した。女流史上最強と謳われる里見香奈女流四冠でさえ、年齢制限の壁に跳ね返された。他の若者たちも命を削り、西山に牙を剥いている。腐り切った世の中、残酷かつ清々しいオアシスは存在するのだ。

 辺見庸がブログに記した<カルロス・ゴーンの胆力はその語学力とともにニッポン的標準ではまったく異次元のものだ。あのワンマン・ショーにあってはニッポンのメディアなどハナクソも同然である>に共感を覚えた。メディアの在り方を問う作品が今年の映画初めだった。

 ポレポレ東中野で「さよならテレビ」(2019年、土方宏史監督/東海テレビ製作)を見た。東海テレビは11年以降、秀逸なドキュメンタリーを世に問うてきた。映画館で観賞するのは「眠る村」に次いで2作目になる。劇場公開12作目の「さよならテレビ」は自社報道局に密着し、テレビ界の現在と未来を浮き彫りにしている。仲間内ゆえ、意識的にヒールを演じる局員もいたが、目くじらを立てる気はない。

 カメラが主に追ったのは以下の3人だ。ベテラン記者の澤村は本多勝一や鎌田慧の著書に親しみ、メディアの現状に危機感を抱いている。「みんなのニュースOne」の福島キャスターは、〝堅実〟という殻に縛られている。1年契約で人材派遣会社からやってきた渡邊は社会の矛盾に関心がない今風の若者と三人三様、志向とキャラが異なっていた。

 事件・事故・政治・災害を知らせる、困っている人(弱者)を助ける、権力を監視する……。東海テレビの社是に忠実な澤村は共謀罪への異議を訴え、違法逮捕された市民の側に立つ。福島と澤村に待ち受けていた失意の背景にあるのは視聴率至上主義だ。弱小ブロガーの俺でさえ日々の訪問者数が気になるのだから、数字の魔力は恐ろしい。

 放送事故を起こした東海テレビがスポンサーの顔色を窺い、視聴率に一喜一憂するのは当然だが、俺は以前から違和感を覚えている。視聴率を調査するテレビは、複数の世代からなる家庭のお茶の間に設置されている。核家族、独居者宅は統計外だし、最近はテレビを持たず、ネットで番組を視聴している若年層も多い。視聴率は果たして指標足り得るのだろうか。

 久米宏は「報道ステーション」で「管理野球を批判する方は、身の周りの管理と闘っているのですか」と問い掛けた。<管理>はそのまま<格差>に置き換え可能だ。メディアは完全な格差社会で、本作でいえば渡邊が体現している。宇都宮健児氏は想田和弘監督とのトークイベントで、「不自由な組織が自由を語る資格はない」と共産党を仄めかして語っていた。メディアも残念ながら自由な組織ではない。

 澤村が参加した集会で、<沖縄や福島について政権に反対する意見を述べると、ネットで叩かれるケースが多い>と講師が語っていた。米軍がイランのソレイマニ司令官を殺害した直後、先進国では第3次世界大戦を危惧するツイッターが軒並み上位を占めたが、この国では嵐関連が1位だった。国民に忖度すれば、メディアの視点も自ずと下がっていく。

 福島降板の理由は<テレビのメインターゲットが高年層であることを鑑みてキャスターを据える>だった。だが、高年層に絞って番組を制作し、記事を掲載することは、対象と一緒に〝霊柩車〟に乗るようなものだ。世界では今、若い世代がムーヴメントの起点になっている。この流れが日本に押し寄せてきたら、高齢者仕様の日本のメディアは対応出来ない。

 俺が信頼しているメディアは、東京新聞、週刊金曜日、そして東海テレビだ。リトマス紙は<政局のみに拘泥する〝選挙民主主義〟に堕すことなく、社会運動をきちんと紹介し、変化の兆しを先取りする>……。〝不自由な集団〟だったデイズジャパンが廃刊になったことは残念だった。

 ラストで福島と渡邊が吹っ切れた笑みを浮かべていたことにホッとした。澤村は今後も闘い続けるだろう。秘密保護法と共謀罪でメディアは外堀を埋められつつあるが、これからも東海テレビ発のドキュメンタリーを追いかけていきたい。
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「脱成長ミーティング」に参加して~現在に甦るガンディー

2020-01-07 23:34:01 | カルチャー
 ゴーン脱出劇と併せて考えるべきは〝先進国基準〟だ。代用監獄など日本の司法制度の歪みに、ゴーンは堪えられなくなったのか。「ゴーンを取り返せ」の声はレバノンに届かない。死刑を継続している日本が犯罪人引き渡し条約を結んでいるのは米国と韓国だけだ。五輪狂騒曲を奏でる前に、ガラパゴス化したこの国の現実を見つめるべきではないか。

 おととい(5日)、「脱成長ミーティング」(ピープルズ・プラン研究所)に足を運んだ。発起人の白川真澄、高坂勝両氏は緑の党グリーンズジャパンの結成に関わった。白川氏は物事の本質をラディカルに抉るイデオローグで、農業を軸に自立と地域再生を志向する「匝瑳プロジェクト」を創設した高坂氏は包容力ある実践家だ。立ち位置は異なるが、脱成長と共生を志向し、ポストキャピタリズムの道筋を模索している。

 第20回のテーマは<ガンディーの新しい社会構想と現代:自立共生への道>で報告者は石井一也氏(香川大法学部教授)だ。年齢(50代半ば)と経歴から想像する人間像とは真逆で、柔らかで若々しくユーモアに溢れていた。メガバンクOB、官僚、研究者、教育者、社会運動家、農業実践者らが顔を揃えた。

 経済関連の学会に参加するたび、アウエー感を覚えるという石井氏は、「脱成長ミーティングはホームだった」と最後に述べた。経済学のベースは成長と発展で、100年後の今、ガンディーの方法論が有効であるとは考えづらい。だが、今回初めて知ったガンディーの思想は、現在の世界の流れと符合している。基本といえるのは<コンヴィヴィアリティ=自立共生>だ。ガンディーは「産業の生産性」ではなく、<各人が自立的でありながら、他者と相互に助け合う社会>を目指した。

 ガンディーの言葉の端々に滲むのが<反近代と反経済学>だ。<近代文明に酔っている人はそれを当然と受け入れる。一国による他国支配を許す経済学は非道徳>と語っていた。資本主義の下、成長と発展は略奪と犠牲を伴うが、ガンディーが100年前に見据えていた<将来世代とのコンヴィヴィアリティ>こそ、環境危機を訴える潮流の先駆けだった。

 ガンディーが提唱した「チャルカー運動」は<脱近代>の象徴といえ、実効はなかったが、インパクトは後世に引き継がれた。効率は挙がらないが、多くの人が仕事を共有するという発想は、現在のワークシェアリングに繋がっている。ガンディーの系譜を引く者たちはスローライフ、ミニマリズム、地産地消を提唱し、モンサントへの抗議など社会運動に関わっている。

 <地球は全ての人々の必要を満たすのに十分なものを提供するが、全ての人々の貪欲を満たすほどのものは提供しない>……。これが、石井氏が最も感銘を覚えたガンディーの言葉だった。反資本主義、反グローバリズムの原点を見た。

 様々な論争は割愛するが、ガンディーの人間像に重なるのは禅僧だ。弟子や訪問者に公案のような問いを発しケムに巻くガンディーだが、西洋の教養を身に付けていた。ガンディーといえば、<非暴力>で知られる。対英国のみならず、対立するヒンズー、イスラム両教徒間にも非暴力を説いた。ソ連の暴力的な支配も徹底的に批判していた。

 <個々の力は弱くても、カタツムリのように手を携えて前に進んでいく>というガンディーの主張は現在でも有効だ。「私の周りにも東京新聞、オルタナティブな電力会社、城南信用金庫に変える人がいる。社会を変える前に自分が変わるという発想に、ガンディーに通じるものを感じた」と質疑応答の時間、俺は感想を話し、「1920年前後のアジアは、どのような状況だったのですか」と質問をぶつけた。

 石井氏が「私はインドばかりに集中しているので詳しくないんです」と返すと、白川氏が各国の武装闘争の動きと一線を画したインドについて教えてくれる。石井氏は高坂氏に〝日本のガンディー〟を感じたという。本人は恐縮していたけれど……。新年早々、考えるヒント満載の和やかな会に参加出来たのは幸いだった。
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新年の誓い&年末年始の雑感

2020-01-03 00:07:28 | 独り言
 あけましておめでとうございます。今年も暇な折にお立ち寄りください。新年の誓いと年末年始の雑感を手短に記したい。一年の計は元旦にありという。下流老人まっしぐらの今、少しでも〝人生の詰み〟を先送りできるよう、実行可能な目標を立てた。節約と節制である。

 大学を卒業した頃、俺の人生は〝詰み〟どころか〝必至〟状態だった。社会的不適応のひきこもりで、現在なら「発達障害」と診断されるはずだ。「爆弾作ってるの」とか「友達おらんやろ」と当時、面と向かって言われたことがある。「無理心中を迫られそうで怖かった」と後に女性に告白されたほどだから、まさしく犯罪予備軍である。

 そんな男が40年後も、ゴキブリのように東京砂漠を這いずり回っている。尊敬出来る仲間たちに恵まれ、気遣ってくれる人までいるから奇跡だ。善行どころか愚行ばかり繰り返しているのに、罰が当たらず生かされている。何より人を蝕む〝孤独病〟に罹っていないから、運に感謝するしかない。

 年末年始は従兄宅に帰省し、母が暮らすケアハウスを訪ねる日々だ。耳がさらに遠くなった母は、壊れたテープレコーダーのように同じ話を繰り返すが、新ネタもあった。自由人で波瀾万丈の人生といえなくもない父方の祖父、陸軍将官だったが零落した母方の祖父……。好対照の二人は戦後に出会い、親友になったという。俺が生まれた背景にはそのような〝歴史〟があった。

 従兄のライフワークはフィリピンの貧困救済で、あれこれ話を聞いた。同国のみならず、アジア全域への中国の進出は目覚ましい。「中国敵視政策は限界」と評していた安倍首相が、何と初夢に出てきた。あの顔、あの声で、仕事(校閲)の同僚という設定である。「安倍さんは政治が得意だから」と政局絡みの原稿チェックを頼むと、快く引き受けてくれた。夢とは不思議なものである。  

 世間が紅白やその裏番組に見入っていた大晦日夜、従兄と恒例の「ベートーベン第九スペシャルコンサート」(Eテレ)を見た。従兄は大晦日に「第九」を見ると翌年、必ず悪いことが起きるというトラウマを抱えていた。久々に封印を解いたようでお相伴した。指揮者のシモーネ・ヤングは豊満な女性で、軽やかにオーケストラをリードしていた。感動体質の俺は初めて通して見る第九に素直に心が震えた。300年を経てもいまだフレッシュであることに感銘を覚えた。

 「第九コンサート」の後は、昨年オンエアしたダイジェスト版が続く。ウィーンでの野外コンサートでは、ロックフェスさながら、カジュアルな装いのカップルがスタンディングで寄り添いながら楽しんでいた。日本では通があれこれ分析しながら観賞しているという印象があるが、海外でクラシックは、型式ばらず楽しむ音楽なのかもしれない。

 2020年は五輪の空騒ぎが去った後、人々が厳しい現実に気付く年になるかもしれない。板子一枚下は地獄であることに……。
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