酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

<鬱>、<弧>、<壊>、<虚>のコロナ元年を振り返る

2020-12-31 13:03:10 | 独り言
 年の瀬になってもコロナ感染者増にブレーキが掛からない。変異して強毒化したウイルスに、ワクチンがどこまで有効なのか悲観的な専門家も少なくない。博才ゼロの俺の予想だが、元日付の各紙朝刊1面には<東京五輪、中止へ>の見出しが踊っているような気がする。

 日本漢字能力検定協会が発表した「今年の漢字」は<密>だった。皆さんにもそれぞれ一字はあるはずで、フィリピンの貧困救済など国内外でアクティブに活動している従兄は<鬱>を挙げていた。俺も一票と言いたいところだが、<弧>を選んだ。他者と直に接する機会が減って、孤独は更に深まった。

 コロナ禍の副作用が表れたのはブログだった。〝ステイホーム・バブル〟というべきか、訪問者数が一気に増える。過去にバブルは、「主戦場」を紹介した昨年4月以降に起きた。訪問者の多くは俺の論調に批判的だったに違いない。今回は長期にわたって数字が伸び、仕事先でも自慢していたが、やはりというべきか右肩下がりになって、今では旧に復している。牽強付会な書き散らかしに呆れられたのは当然だろう。

 安倍首相辞任表明直後、朝日新聞の世論調査で71%が政権の実績を評価していた。「全く評価しない」が9%だったから、俺は明らかに少数派だ。違和感を覚え、離れていった方も多かったと思う。保守化、アメリカ化、集団化に邁進した安倍政権だが、唯一の〝成果〟は負債というべきモラル破壊だ。民主主義を逸脱した米トランプ大統領と重ねると、<壊>も日米に相応しい一字だった。

 2019年は希望の年だった。グレタ・トゥーンベリに呼応し、欧米で同じ日に数百万人のティーンエイジャーが授業を放棄し、街頭で気候危機を訴えた。斎藤幸平大阪市大准教授とマイケル・ハート、マルクス・ガブリエル、ポール・メイソンとの対談を収録した「未来への大分岐」、「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ著)など、胎動の予感を覚える書物をブログで紹介した。

 コロナ禍で様相は一変する。中国の<AI独裁>が典型だが、権力による管理が世界で蔓延する。日本では〝下からの管理〟を実践する自粛ポリスが闊歩し、匿名で医療関係者を中傷した。心の芯を失った者が虚しさを反転させ、自己犠牲も厭わず活動するエッセンシャルワーカーを今も攻撃している。<虚>もまた今年の空気を反映する一字だった。

 <鬱>、<弧>、<壊>、<虚>に彩られた一年だったが、希望が潰えたわけではない。欧米では自然破壊ストップ、シェアと公平を掲げるグループが支持を広げている。独メルケル首相の哲学に溢れた言葉に感銘を覚えたが、俺が選んだ〝ワード・オブ・イヤー〟は、方方(中国の作家)によるものだ。

 藤原辰史・京大人文科学研究所准教授が岩波書店HPにアップした<パンデミックを生きる指針~歴史研究のアプローチ>で、方方(中国の作家)の日記を表現した。方方は武漢封鎖時、共産党の弾圧に屈せず、世界に発信した。<一つの国が文明国家であるかどうかの基準はただ一つしかない。それは弱者に接する態度にある>の印象的な言葉は来年、格差と貧困が顕在化する日本を測るリトマス紙になるだろう。

 阿佐ヶ谷ロフトで開催される友川カズキのライブは俺にとって師走の風物詩だが、今年はオンラインで第19回「オルタナミーティング」として開催された。共演は前野健太で、色調が重なる両者の互いへのリスペクトが窺えた。2日まで公開中で、昨夜ようやく半分(1時間半)見た。繊細な詩人である友川だが、言葉のナイフを長めのMCに込めていた。日本で現在、最も必要な感情は怒りであることを実感した。

 最後に感謝を。ブログに付き合ってくださってありがとうございます。俺にとってブログは備忘録、遺書代わりのようなもの。生ある限り、なんて書くとオーバーだが、更新していくつもりです。
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「ミッドナイトスワン」~タナトスと希望に彩られた愛の神話

2020-12-28 23:09:59 | 映画、ドラマ
 コロナ禍で映画館に足を運べない時期もあり、観賞する機会は例年より少なかった。スクリーンで接したという括りでベストテンを選んでみた。

①「ミッドナイトスワン」(内田英治監督)
②「コリーニ事件」(マルコ・クロイツバイントナー監督)
③「彼女は夢で踊る」(時川英之監督)
④「パラサイト 半地下の家族」(ポン・ジュノ監督)
⑤「黒い司法 0%からの奇跡」(デスティン・ダニエル・クレットン監督)
⑥「レ・ミゼラブル」(19年、ラジ・リ監督)
⑦「滑走路」(大庭功睦監督)
⑧「スペシャルズ」(エリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュ監督)
⑨「オフィシャル・シークレット」(ギャヴィン・フッド監督)
⑩パブリック 図書館の奇跡」(エミリオ・エステベス監督)

 例年上位に挙げてきた韓国映画だが、今年は見る機会がなかった。先日、新型コロナウイルス感染症で亡くなったキム・ギドク監督作は「嘆きのピエタ」(14年)、「The NET 網に囚われた男」(17年)をベストテンに選んでいる。ここ数年、セクハラ、暴力問題で批判を浴びてきたとはいえ、人間の深淵と原罪に迫った作品の価値は揺るがない。鬼才の死を心から悼みたい。

 昨年は最後に見た「象は静かに座っている」(フー・ボー監督)を1位に挙げたが、今年も同じことが起きた。ベストテンが定まった後に観賞した「ミッドナイトスワン」(20年、内田英治監督)にKOされる。数日置いて冷めるかと思ったが、マグマが固まって確信になったので1位に挙げたい。

 本作はトランスジェンダーを後景に据えており、差別の礫を浴びる主人公の凪沙を演じた草彅剛の女装姿がメディアを賑わせていた。凪沙(本名・健二)は新宿のニューハーフクラブ「スイートピー」で働いているが、故郷(広島)の母にはカミングアウトしていない。母は姪である一果(服部樹咲)を預かってほしいと息子に頼む。一果は母・早織(水川あさみ)にネグレクトされ、心は刺々しく傷ついていた。

 子供嫌いを広言し高圧的に接する凪沙、反抗的な一果の共同生活はぎくしゃく荒んでいくが、ふたりには<踊る>という共通点があった。凪沙は「スイートピー」で他のショーガールと拙くダンスし、一果はバレエに取り組む。店に凪沙を訪ねた一果がステージで見事なパフォーマンスを披露するシーンで、凪沙と一果の夢が繋がった。

 闇と光が交錯する本作のイメージに重なるのがゲイカルチャーの嚆矢といえる「夜と朝のあいだに」(1969年、ピーター)だ。作詞は先日召されたなかにし礼で、♪夜と朝のあいだに ひとりの私 天使の歌をきいている 死人のように から始まり、♪夜の寒さにたえかねて 夜明けを待ちわびる小鳥たち おまえも静かに眠れで終わる。凪沙はまさに〝死人のように〟身を潜め、一果は〝夜明けを待ちわびる小鳥〟だった。

 ジェンダーや年齢を超越した究極のラブストーリーに心を揺さぶられた。絶対的な孤独を滲ませる凪沙、自分を解き放つようにバレエに取り組む一果……。魂が相寄る過程で、ふたりは何度もハグをする。「俺たちみたいなもんは耐えるしかないんや」と街角で凪沙が一果を諭すシーンが印象的だった。

 タナトスと希望のアンビバレントなベクトルに本作は結ばれている。自己流だが経験があった一果をバレエ教室に誘ったのは裕福なクラスメートのりん(上野鈴華)だった。先生の実花(真飛聖)は一果の才能に気付き、熱心に指導する。追い抜かれたと実感したりんだが、凪沙を心から応援する。ガールズラブの匂いがするが、りんの心に忍び寄ったのはタナトスだった。

 バレエには莫大な投資が必要だ。一果の夢を叶えるため、凪沙は女装を解き、男性として就職した。夢の実現に向け幾つもの挫折が重なり、体を売る寸前に追い込まれた凪沙を救ってくれたのは、既に坂道を転がっていた同僚の瑞貴(野上剣太郎)だった。凪沙は一果の母になるため、海外で性転換手術を受ける。

 冒頭の「スイートピー」で凪沙が「小学生の頃、海水浴に行った。海パンではなく、女の子の水着を着たかった」と語る場面が、ラスト前の美しく切ない海辺のシーンに重なっていく。本作は一果の成長物語でもある。一果の心は凪沙と接することで絶対的な優しさを纏っていく。

 一果がニューヨークのオーディションで舞う「白鳥の湖」のオデットは、凪沙と一果の物語に重なった。年の瀬に神話の領域に到達したストーリーに出合えた幸せを噛み締めている。
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「JR上野駅公園口」~出口の見えない結末の先に

2020-12-24 22:41:33 | 読書

 柳美里(ゆう・みり)、「JR上野駅公園口」で全米図書賞翻訳部門受賞……。この一報にミーハーの俺は早速、紀伊國屋に走った。多和田葉子著「献灯使」に続く快挙だが、繰り返し称賛してきた多和田と対照的に、柳の作品は一冊も読んでいなかった。

 64歳になっても発見の連続で、自身の無知を思い知らされるばかりだが、柳との出会いも僥倖だった。160㌻ほどの文庫版(河出文庫)の後景に広がる世界に圧倒される。高度経済成長から半世紀の日本を背景に、非運に翻弄された男(主人公)の人生を追っている。男は上皇と同じ1933年に生まれで、名字は森。ホームレスの仲間に〝カズさん〟と呼ばれていた。天皇と同じ60年2月23日に生まれた息子に、浩宮から一字取って浩一と名付けた。

 前稿で紹介した大林宣彦を含め、リベラル、左派にカテゴライズされていた多くの文化人が受勲、受章によって天皇制に連なっていく。呪縛から逃れ、ホームレスと対置することで天皇制を相対的に捉えることが出来たのは、柳が韓国籍であることも大きいだろう。男は人生最後の舞台(山手線ホーム)に立つ前、〝山狩り〟を逃れ、上野駅公園口で天皇(現上皇)夫妻の車列に出くわした。戦後間もなく故郷相馬に行幸した昭和天皇を熱狂的に迎えた光景と重なっている。

 山狩りとは皇族が上野を訪れるたび、ホームレスたちが強制される一時撤去のことだ。柳は本作の構想を練る間、上野公園のホームレスを取材している。〝誰も自分を必要としていない〟という絶対的孤独、喪失の痛みだけでなく、わずかばかりの生活費を稼ぐ方法が、ギャラを含め詳述されている。柳はホームレスの多くが東北出身であることを知った。

 天皇、健全な市民、そして不可視の存在であるホームレス……。大雑把に三つの層に分けてみたが、本作にはホームレスが見えない、いや見ようとしない市民の、ホームレスの生活感とは懸け離れた軽薄な会話が挿入されている。俺は新宿中央公園の花見の場面を思い出した。空騒ぎの酒宴から距離を置いた〝住民〟たるホームレスは木々に隠れるように横たわっている。公園を2、3周したが、〝健全〟と〝不可視〟の垣根が払われることはなかった。

 「JR上野駅公園口」は複層的、かつ実験的に綴られ、起承転結といった〝常識〟を超越している。死が濃密に匂う冒頭とラストは繋がっており、電車が近づく音とともに作品中、数回挿入されている。時空を自由に行き来し、天皇の言葉や皇室、原発事故関連のニュースが男の来し方と重なり、史実と創作が交錯するメタフィクション(オートフィクション)の手法が用いられている。

 シーンを紡いでいるのは雨で、男の記憶は雨で湿っている。雨粒は地面で弧を描きながら、重ならないうちに溶けていく。雨は人の孤独や哀しさのメタファーなのだろう。息子の浩一が21歳で急死したことで、男の心に亀裂が生じる。出稼ぎしないと生活が成り立たず、男は自宅を留守にする時間が長かった。そんな一家にとって、レントゲン技師の国家試験に合格した浩一は希望の星だった。

 柳の取材の成果は、浩一の葬儀の場面にも生かされている。映画でいえばカメラを固定し、時系に則って物語を追う。相馬の真実も抉られていた。相馬に住み着いていた人たちは「相馬様」、200年ほど前に富山県からやってきた移住者は「加賀者」と称され、両者は明らかに分断されている。男の一族は加賀者で浄土真宗の信者だ。柳は真宗の死生観と儀式を丹念に描いている。

 苦しみを共有してきた妻の死で、故郷に留まる理由がなくなった男は上野でホームレスになる。仲間のシゲさんは不合理な山狩りに抗議し、天皇への直訴状をしたためる。手渡すのはコヤに居着いた猫のエミールというから本気ではない。目取真俊著「平和通りと名付けられた街を歩いて」では沖縄を訪れた皇太子夫妻(現上皇夫妻)が乗る車のフロントガラスに、老婆が自身の糞を塗りたくった。痛快な不敬小説は沖縄文学賞を受賞した。シゲさん、そして男も、沖縄の人々と怒りを一部共有しているはずだが、天皇夫妻の車列におとなしく手を振った。

 ラスト近くで男の意識は空を舞い、東日本大震災直後の津波にのまれる孫娘を見た。この世に繋がる縁が完全に断たれていることを知った男は、他に選択肢がない結末へと踏み出す。本作は上野駅ホームで男の脳裏を駆け巡った回想であったことに気付いた。

 俺が手にしたのはサイン本で、表紙に<時は過ぎない 2020年冬 柳美里>と記してある。104㌻(文庫版)に本作の肝というべき記述がある。以下に記したい。

 あの日――、時が過ぎた、時は終わった。なのに、あの時が、ばらまかれた画鋲のようにそこかしこに散らばっている。あの時の悲しみの視線から目を逸らすことができずに、ただ苦しむ――。
 時は、過ぎない。
 時は、終わらない。

 時が循環し、出口の見えない結末を書き換える方法はあるのだろうか。格差と貧困を是正すること、想像力をもって他者と接すること、怒りを正しく表現すること……。口で言うのはたやすいが、コロナ禍の現在、出口はさらに狭まっている。
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「恋人よわれに帰れ」に刻まれた大林宣彦の初心

2020-12-20 21:51:35 | 映画、ドラマ
 別稿にも記したが、ブログを書く時は大抵、スカパー!で録画したドラマを視聴し、〝BGD〟として活用している。刑事ドラマが多いが、時代劇もラインアップに加わるようになった。学生時代、深夜に再放送されていた「子連れ狼」(萬屋錦之介版、全79話)を時代劇専門チャンネルで録画し、先日ようやく最終話をクリアした。

 <侍≒日本軍>というイメージで武士道を忌避する気持ちは理解出来るが、「子連れ狼」の主人公、拝一刀(萬屋)は異彩を放つ。<武士とは身分ではなく志>と捉え、苛斂誅求に耐えかねて一揆を起こす農民に心を寄せることもある。上にへつらい、下をいたぶる卑屈さを武士道の伝統と勘違いしている人には原作を一読してほしい。一刀が示す人としての優しさが溢れている。

 俺にとって時代劇初体験は「宮本武蔵」だった。あれから55年、武蔵を演じた北大路欣也は現役バリバリで、「記憶捜査2」では再雇用された鬼塚司法係を演じている。車椅子の鬼塚の温かさと洞察力をリスペクトする〝チーム〟は、粉骨砕身して難事件を解決する。肝は桜井武晴の脚本で、光と闇が交錯する新宿に照準を定めていた。

 日本映画専門チャンネルで録画した「恋人よわれに帰れ」(大林宣彦監督、早坂暁脚本)を見た。1983年にフジテレビ系で放送された沢田研二主演のドラマである。<大林宣彦は映画作家としていつから戦争を語り始めていたのか>のタイトルを冠した尾道映画祭(2018年)でクロージングに選ばれたように、大林の初心が反映していた。

 原爆投下から2カ月後の広島……。GHQのジープから降り立ったのは日系2世の米兵、ケン・オータ(沢田)で、姉ナオミ(小川真由美)を捜すのが目的だった。ダンサーだったナオミは日米開戦直前、オリエンタルな衣装を求めて日本を訪れたが、渡米はかなわなかった。広島に住んでいたという情報を得て、婚約者だったケンの上官、ジョン・ローチ(トロイ・ドナフュー)もナオミの消息を追っていた。

 ケンは広島でケロイドを包帯で覆っていたケイ子(大竹しのぶ)と出会う。幼い弟は原爆で重度の白血病を患っていた。舞台はケンとともに東京・新橋に移る。闇市を支配する組長(財津一郎)が、日本の敗戦で解放されたアジア系のギャングに殺される。跡目を継いだユキ子はナオミと生き写しだった。
 
 ケンは闇市で復員兵の秋本(泉谷しげる)と友達になる。きっかけはジャズで、秋本はトランペッターで、ケンもバンドで歌っていた。ユキ子に掛け合ってクラブが造られ、ジョンの計らいで進駐軍から楽器が払い下げられる。全編にジャズが流れ、ケンだけでなく中本マリ、真梨邑ケイがステージで歌う。クラブに頻繁に足を運ぶジョンは、ユキ子に心を奪われていく。
 
 太平洋戦争、敗戦と原爆投下、朝鮮戦争に至る10年間を背景に、早坂の反戦の意思と大林の初心のコラボによって制作された作品に感銘を覚えた。アイデンティティーを追求し、国とは何かを見る側に訴えてくる。ケンはアメリカに忠誠を誓うため軍隊に志願したが、母は終戦前、日系人の収容所で死んでいる。母との思い出の曲「宵待草」が、ケンとケイ子の心を取り結んだ。ケンは弟の治療費を稼ぐため東京で娼婦になっていたケイ子と結婚する。

 朝鮮戦争が始まる頃、症状が悪化していたケイ子は、ケンが戦地に赴くことに反対する。彼女のルーツは朝鮮半島だった。ケイ子の台詞に重なるのは報道写真家、福島菊次郎の著書「ヒロシマの嘘」だ。ABCC(1946年設立、原爆傷害調査委員会)は10億㌦(当時)の巨額な年間予算で、被爆者の健康状態を分析、いや、モルモットにした。その事実ゆえ、ケイ子は広島での入院を拒否する。

 生きていたナオミとケン、そしてジョンとの再会が美しくも儚い結末を導いた。ケイ子、ナオミ、ジョンを繫いでいたのは被爆、被曝体験だ。ジョンは広島訪問とビキニ環礁の実験で被曝し、白血病の症状が表れていた。ナオミとジョンが踊る幻想的な光景、ケンとケイ子の墓碑銘……。至高の愛に心が濡れた。

 ジュリーは神々しいほど輝き、大竹しのぶの可憐さ、小川真由美の妖艶さに瞠目させられた。重厚で繊細な脚本、豪華な俳優たちに命を与えたのは大林らしいシュールな映像感覚だった。大林は後に「僕の正体がばれていた」と本作を振り返っていたという。真っ向勝負の反戦映画とフジとはミスマッチに思えるが、是枝裕和を育んだのも同局である。
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将棋、落語、斎藤幸平、そしてマルクス・ガブリエル~カルチャーに親しむ週末

2020-12-16 22:42:03 | カルチャー
 先週末はカルチャーに親しんだ。食べ過ぎで消化不良になったので、更新が1日遅れてしまう。まずは将棋から。

 12日夜、銀河戦決勝で妖しい手を連発して局面転換を試みた糸谷哲郎八段を押し切り、藤井聡太2冠が自身4度目となる一般棋戦優勝を果たした。翌13日、NHK杯トーナメントで杉本昌隆八段が豊島将之竜王を破る。豊島に6連敗中の愛弟子に攻略法を教えたといえるだろう。AIに比肩する鋭さを絶賛される藤井だが、豊島戦では師匠が示した〝軟投〟が必要か。

 鈴本演芸場昼席に足を運んだ。声色と所作の使い分けで「棒鱈」を演じ切った古今亭文菊を堪能したが、ソーシャルディスタンスが徹底された客席で年を召した噺家たちの熟練芸に聞き惚れた。漫才、マジック、紙切り、曲芸と色物も充実したラインアップで、寄席の魅力を再発見する。まったりした気分で帰宅し、第2期オンライン連続セミナー(グリーンズジャパン主催)に参加した。

 講師は斎藤幸平大阪市大准教授で、テーマは「脱成長経済と社会的連帯で気候危機に立ち向かう」である。新著「人新生の『資本論』」(集英社新書)では晩年のマルクスが到達した環境への視点やコモンに言及していたが、論理は控えめに軟らかい切り口で進めていた。

 斎藤は国連が提唱するSDGs(持続可能な開発目標)を否定する。欧米では環境対策を経済発展、雇用創出の機会と捉える動きも広がっているが、利潤と効率を志向する資本主義と環境保護の両立は不可能だ。端的な例として斎藤は帝国的生活様式(先進国)とグローバルサウス(途上国)を対比する。

 電気自動車は先進国の二酸化炭素排出量を低減すると喧伝されているが、電池の材料になるリチウムを採掘するため、途上国は夥しい環境破壊に晒される。収奪と簒奪で世界を貪り尽くす資本主義を否定しない限り環境破壊は止まらない。斎藤はGDPに縛られない<脱成長コミュニズム>を提唱する。

 ソ連や中国はマルクス主義を体現した……。こう誤解している世代は社会主義やコミュニズムに忌避感を抱いているが、世界の動向は異なる。斎藤は英米におけるバーニー・サンダース、ジェレミー・コービンの10~30代への浸透をデータで示し、20年後の変化に期待を寄せる。キーワードは<コモン>だ。
 
 <コモン>とは生産や労働の現場で社会的共通富を市民がコントロールするという意味で、晩年のマルクスは<コモン≒コミュニズム>と捉えていた。脱成長、ローカリゼーション、持続可能性、多様性に直結するバルセロナでの実践を紹介し、変化の胎動を力説していた。

斎藤は理論と社会運動を不可分と考えている。「人新生の『資本論』」のあとがきで、<SNS時代、3・5%の人々が本気で立ち上がると社会は大きく変わる>という政治学者の言葉を紹介し、ウォール街占拠やグレタ・トゥーンベリなどの実例を挙げた。結晶軸が見えない日本だが、斎藤は希望を捨てていない。

 「マルクス・ガブリエル NY思索ドキュメント」(NHK・BS1)の取材に通訳を兼ねて同行するなど、斎藤とガブリエルの交遊は深い。セミナーと併せて録画しておいた「コロナ時代のワクチン」(同)を見た。斎藤は資本主義からの脱却を説いていたが、ガブリエルはコロナ禍を新自由主義終焉の好機と見做している。両者に共通するのは<自然破壊と気候危機が続く以上、コロナに代わる新たなウイルスが発生する>と考えている点だ。

 <自由とは好きなように思い通り行動することではない。誰かに命令されることなく、自らの意志で自らを律すること>……。番組冒頭、ガブリエルはカントを紹介する。「新実在論」や哲学に関する言及については、門外漢ゆえ割愛することにする。

 ユーモアに溢れたガブリエルの刺激的な示唆に引き込まれていく。ガブリエルは自由、正義、倫理、道徳を重視し、善と悪を峻別するが、二元論に陥ることはない。多面的、複層的に考察するのが合理性で、理性とは〝十進法〟の上に成立するのだ。

 ガブリエルは現在をフランス革命に比すべき革命期と考えている。色を持たず目に見えないウイルスが、人間の行動と危機を可視化し、目に見える価値を問う……。このパラドックスが世界を動かしているのだ。ワクチン開発には科学だけでなく、分配などを巡って正義や倫理も関わってくる。ガブリエルは分断という毒に対抗する〝精神のワクチン〟が求められていると説く。
 
 新自由主義、グローバリズムがまき散らした最大の過ちは、思考より物資を上位に置く唯物主義で、SNSをツールに消費資本主義として蔓延した。上記したカントの言葉に含まれる〝自らの意志〟は、消費資本主義の下でコントロールされている。ガブリエルは実生活においてSNSの活用を最小限にとどめているという。

 ラストで引用される哲学者ガタマーの<相手が正しい可能性はある>に感銘を覚えた。ガブリエルは〝シンプルな倫理の表現〟と語る。分断の呪縛から解き放つためのヒントで、感情を含めて相手の視点を取り入れることが分断の時代に求められている。

 メルケル首相は感染拡大が止まらない状況に、<祖父母との最後のクリスマスにしないで>と国民に訴えた。移動の制限に否定的なガブリエルだが、東独出身で自由の価値を誰よりも知り尽くしているメルケルの言葉に何を思うだろうか。
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「滑走路」~30年先の空を舞う愛に濡れた翼

2020-12-11 13:09:41 | 映画、ドラマ
 40代半ばの知人が家庭内離婚状態に陥っている。ロック、ジャズ、フォークロア、ルーツミュージックなどジャンルを問わず音楽に詳しい彼だが、K-POPにハマった奥さんと娘さんにDVDとCDを独占され、苛立っていた。「K-POPなんか無価値。政府に利用されてるだけ」とけなすと、「それだけじゃビルボードで1位にならないわ」と反論され、妻子との会話はその後、途切れがちだという。
 
 年は20ほど離れているが、俺と彼には共通点がある。<物事の価値の差を見極めることが生きる意味>と考えている点だ。「感性の違い」なんて受け付けないから世間を狭くし、孤立する。俺など結果として、ブログで御託を並べることになる。<価値>を求め続けてきた俺の人生は、無意味なあがきによって築かれたゴミ集積場なのだ。

 テアトル新宿で「滑走路」(2020年、大庭功睦監督)を見た。原作は17年に自殺した萩原慎一郎(享年32)による同名の短歌集である。キャッチフレーズは<非正規、いじめ――逆境の中、それでも希望を託した魂の叫び>で、HPには<現代社会をもがき生きる苦難と希望描く人生讃歌>と紹介されている。全編を貫くイメージは<きみのため用意されたる滑走路 きみは翼を手にすればいい>だが、HPやネットから萩原の歌を幾つか紹介する。

 僕は歌う。誰からも否定できない生き様を提示するために。
 非正規の友よ、負けるな ぼくはただ書類の整理ばかりをしている
 もう少し待ってみようか 曇天が過ぎ去ってゆく時を信じて
 癒えることなきその傷が癒えるまで癒えるその日を信じて生きよ 
 いつか手が触れると信じつつ いつも眼が捉えたる光源のあり 
 今日という日を懸命に生きてゆく蟻であっても僕であっても 
 ぼくたちはほのおを抱いて生きている 誰かのためのほのおであれよ

 ここまで読まれた方は、社会派ドラマと思われるだろう。日本の現状を厳しく穿つ台詞もあったが、監督と脚本家の桑村さや香は唯一遺された歌集を読み込み、至高のラブストーリーに飛翔させた。30年の時空がカットバックし、複数の主観が交錯しつつ収束する。

 冒頭は、2007年前後の中学校だ。苛烈ないじめを受けていた少年A(池田優斗)を救った学級委員の少年B(寄川歌太)は、そのことによっていじめの対象になる。絵の才能を認められていた同級生の少女(木下渓)は、数学を教えてくれるBと心を通わせるようになる。下校途中の公園にふたり寝そべり、上空を滑る飛行機を見ていた。心ときめくピュアな初恋だ。

 10年後、厚労省若手官僚の鷹野(浅香航太)は、非正規労働者の待遇改善を目指し孤軍奮闘していた。政官の建前は公正と公平だが、本音は格差維持だ。社会の〝いじめの構図〟に行き着いた鷹野はNPOを訪ね、自死した非正規の若者のリストから同い年(25歳)の青年に目を留める。

 12年後、切り絵作家の翠(水川あさみ)はようやく才能を認められたが、夫・巧己(水橋研二)はカリキュラム変更で美術教師を失職する。巧己の言動に重なるのは前稿で紹介した「だまされ屋さん」の優志だ。理解ありげな言葉を吐くものの実体のない巧己から、翠の心は離れていく。数年後に明かされるのは不毛な愛による残酷な事実だ。

 一枚の絵によって、少年Aは鷹野、少年Bは自死した集介、少女の現在形が翠であることが明らかになる。いじめに加担させられ、集介から盗んだ数学の教科書を墓前に備えた鷹野に、母(坂井真紀)は毅然と語る。「過去を忘れないようにあなたが持っていなさい。集介の分まで結婚し、子供を幸せになさい」と。鷹野は玄関口で、中学生時代に翠が描いたシュールな絵に気付く。描き込まれた女性の後ろ姿に、「この人、泣いているよ」と集介は翠に言った。。

 <自転車のペダル漕ぎつつ選択の連続である人生をゆけ>。この歌を基に紡がれたラストシーンに感銘を覚えた。路上でお別れの抱擁をする集介と翠の思いに心を撃たれ、重なるように流れた主題歌「神飛行機」(Sano ibuki)も秀逸だった。♪忘れられないよ もしもが叶う世界でも あなたの読みかけの人生の栞になれたことを……。

 集介はきっと、翠の人生の栞だった。そのことに栞が気付いたのは、集介が自死してから12年後のこと。俺は果たして、誰かの人生の栞になれただろうか……。悔恨、贖罪、孤独、絶望、夢、そしてささやかな希望が織り込まれた本作を見た夜、俺はなかなか寝付けなかった。サービスデーなのに館内は閑散としていたが、人生の濾紙になる<価値>ある作品に出合えて幸いだった。
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「だまされ屋さん」~星野智幸が紡ぐウイズコロナのバイブル

2020-12-07 22:55:59 | 読書
 NHK杯将棋トーナメント(収録は少し前)で羽生九段が渡辺名人を下しベスト8に進んだ。森内九段も終盤まで形勢不明と解説するほどの接戦だった。番組終了後、竜王戦の実況中継を見る。AIは羽生有利と分析としていたが、豊島が追い上げ4勝1敗で防衛を果たす。ここ一番の対局を必ず制していた羽生だが、今は昔。あと1と迫ったタイトル通算100期に届かない。〝老い〟の残酷な表れなのか。

 コロナ禍によって強権政治が常態化しつつある。寛容と調和が広がるという希望的観測もあるが、現実は厳しい。国連女性機関は年末までに4億7000万人の女性が極度の貧困に陥るとリポートしている。〝負〟をシェアする精神が求められるウイズコロナのバイブルというべき小説を読了した。星野智幸の新著「だまされ屋さん」(中央公論新社)である。

 論理と皮膚感覚で誰より深く日本を洞察してきた星野は、多様性とアイデンティティーを追求してきた。「毒身温泉」では窮屈な日本社会で家族を超えた共同生活を志向する者たちが描かれていた。家族をテーマに据えた小説は大抵カタストロフィーに至るが、「だまされ屋さん」は逆ベクトルだ。崩壊した夏村家が起点になっている。

 古希を迎えた母・秋代、在日の梨花と事実婚の長男・優志、借金苦で妻・月美と家庭内離婚状態の次男・春好、シングルマザーの長女・巴……。この4人が没交渉になった経緯が、それぞれのモノローグで語られる。「似たような話を聞いたことがある」と親族を重ねた方もいるだろう。家族、絆の意味を問い掛ける小説だ。

 秋代は俺より6歳上で、責められると「私が悪かった」「育て方を間違えた」を繰り返し、そのことが怒りに油を注ぐ。だが、俺の世代の母親像とは異なる。映画「罪の声」のW主人公、俊也(星野源)の母同様、秋代も学生運動に関わったことがある。スポーツ、韓流ドラマのファンで、春好が才能を発揮したサッカーでは息子を応援するだけでなく、地域のチームのサポーターになるなど、心に〝熱〟を帯びている。

 希望の星だった春好の挫折が夏川家の崩壊の序曲だった。冷静にプレーする春好だが、ピッチ外では感情を制御出来ない社会的不適応者だ。家族を支えなければ……。義務感に縛られ優志はもがき続ける。母に代わって巴の保護者然と振る舞ううち、優志はジェンダーの問題に行き着き、苦悩は増すばかりだ。優志に反感を抱いた巴はアメリカに留学し、シングルマザーになって帰国した。

 子供たちに絶縁状を突き付けられ、春好の借金を肩代わりするため家を売り、団地で独り暮らしを始めた秋代の心に、正体不明の中村未彩人が忍び込む。巴もまたミステリアスな夕海と親しくなった。タイトル「だまされ屋さん」から想像するのは「だまし屋さん」だが、この二人が夏川家を奇跡の大団円に導いた。

 星野ワールドの背景にあるのはメキシコ遊学経験だ。不自由な日本と異なり、南米では人種を超越したコミュニティーが成立している。ツールになっているのはサッカーで、「だまされ屋さん」では日本在住の外国人、ホームレス、障害者がともにプレーするフットサルが重要な意味を持つ。巴の結婚相手はヒスパニックだったし、優志のパートナーは韓国籍というのも、星野らしい設定だ。

 <対立という構図は鏡みたいなものなんだよ。鏡に映った像というのは、すべてが逆さまになっていただけで、じつはそっくり同じものだろ>……。「夜は終わらない」の中の台詞だが、「だまされ屋さん」にも通じるものがある。凝り固まっていた夏川家は、未彩人と夕海を解毒剤にして心のロックを解除する。食べ物もあれこれ出てくるが、〝ヨーグルトを載せたカレーライス〟が融和の象徴になっていた。ラストの公園で、秋代までフットサルに興じるシーンに感銘を覚えた。

 コロナ禍だけでなく、閉塞した日本に希望を灯す小説に、自分の家族を重ねていた。夏川家ほどではないが軋轢を抱え、深刻な喧嘩に発展することもしばしばだった。言葉を吐き出した後、予定調和的にカタルシスが訪れ優しい気持ちになった。本作は普遍的な家族のバイブルだと思う。
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「マンク」が映すアメリカの慢性的な歪み

2020-12-03 22:29:40 | 映画、ドラマ
 コロナ禍の下、俺にも寂しい師走になった。年末の風物詩になっていた友川カズキのライブ(阿佐ヶ谷ロフト)は開催されず、友人と旧交を温める機会もない。〝土に還る日〟が近づいたせいか、和の感性に浸るようになった俺は昨日、小石川後楽園に足を運んだ。訪れた人はまばらだったが、冷たい雨に濡れた紅葉に更なる感興を覚えた。

 大統領選後、アメリカは岐路に立っている。共和党は福音派や右派を糾合したトランプ支配に屈し、民主党は分裂の可能性さえある。5000万人以上が飢餓の危機に瀕しているアメリカでは、若年層に社会主義が浸透中だ。民主党プログレッシヴはグリーン・ニューディールに消極的で、サンダースを労働長官に据えないバイデンへの批判を隠さない。

 現在のアメリカとオーバーラップする映画「Mank/マンク」(2020年、デヴィッド・フィンチャー監督)を有楽町で見た。前半は業後の疲れで意識が遠のくことがしばしばだった。普段ならパンフレットでカバーするが、ネットフリックス配給のためか作製されていなかった。

 背景は1930年代の大恐慌下で、世界中で格差が広がり、ファシズムと社会主義が対峙していた。ドイツではナチスが共産党を抑えて政権を握ったが、アメリカでも対立は深刻で、資本主義への怒りをぶちまける人々は、カリフォルニア州知事選に立候補したアプトン・シンクレアを支持する。シンクレアと重なるのがサンダースだ。

 F・ルーズベルト大統領は<民→官>のニューディールを断行する。その進化形といえるのがサンダースやオカシオコルテス下院議員が提唱するグリーン・ニューディールだ。ハリウッドではシンクレアを巡って対立が表面化した。シンクレアの側に立つことを公言していたのが「マンク」の主人公ハーマン・マンキーウィッツ(ゲイリー・オールドマン)で、タイトルは愛称だ。

 マンクは「シカゴ・トリビューン」の海外特派員でベルリンに滞在し、帰国後に書いた劇評が映画界の目に留まって脚本家デビューを果たす。社会を俯瞰の目で捉えるマンクは、〝ハリウッドの独裁者〟メイヤー(アーリス・ハワード)のエンターテインメント志向とは相容れなかった。本作ではメイヤーとタルバーク(フェルナンド・キングズレー)との対立などハリウッドの裏面史が描かれている。

 ユーモアと反骨精神の持ち主だったマンクはオーソン・ウェルズ(トム・バーク)に脚本を依頼される。当時20代だったウェルズはラジオドラマで名を馳せた時代の寵児で、その作品が1941年に公開された「市民ケーン」だ。革新的なカメラワークで知られる同作へのオマージュが「マンク」に溢れ、コントラストが浮き彫りになるモノクロのコントラストが斬新で、回想シーンを多用している。もう一つのオマージュは監督自身のもので、本作のベースはフィンチャーの父が2003年に書いたシナリオだ。

 「マンク」にはハリウッドの恥部も明かされている。当時、長編映画と併映されたニュース映像はシンクレア叩きを意図していた。マンクの友人シェリーも加担したが、後に罪の意識に苛まれて自殺した。この構図は、今年の民主党予備選と似ている。民主党上層部の意を受けたニューヨーク・タイムズが「サンダースではトランプに勝てない」と報じたことで空気が一変し、死に体のバイデンが息を吹き返した。

 確執を抱えていたマンクとウェルズの共通点は、ハリウッドのアウトサイダーだったことだ。共同脚本にクレジットされた「市民ケーン」のモデルはメディア王ハーストだった。ハーストは自身と、マンクとも交遊があった恋人マリオン(アマンド・サイフレッド)を侮辱する映画として、製作を妨害する。公開後もメディアを利用して同作を酷評した。

 マスコミを使って作品を貶めた例として「市民ケーン」と重なるのが「素晴らしき哉、人生!」(1946年、フランク・キャプラ監督)だ。前者はハーストの圧力、後者は容共的という理由でエスタブリッシュメントに葬られそうになった。両作はその後、映画オールタイム・ベストテンのトップを争う作品として国民に愛されている。

 キャプラの「スミス都へ行く」のモデルはルーズベルトの副大統領を務め、人権と公平を掲げ、労働者、女性、黒人に人気のあったヘンリー・ウォレスだった。立ち位置が真逆のトルーマンが副大統領を引き継ぐことになり、ウォレスは戦後、左派のレッテルを貼られ民主党を離れざるを得なくなる。キャプラもハリウッドから追放された。

 「マンク」は当時も現在も、アメリカには民主化を阻む〝見えざる巨大な手〟が存在することを教えてくれる。あすからネットフリックスで公開されるので、90年前から維持されている慢性的なアメリカの歪みを確認してほしい。
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