酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「琥珀のまたたき」~小川洋子が紡ぐ静謐な寓話

2019-04-28 23:05:29 | 読書
 10連休の前半は京都に帰省し、従兄宅(寺)に泊まって、近くのケアハウスに母を訪ねるという〝お約束〟の日々だ。冷春というべきか、土日は暖房が必要なほど寒かった。

 時節柄、平成振り返りが流行っている。次稿で俺なりの感想を記すつもりだが、文学に限るなら豊饒な30年だったと思う。当ブログで頻繁に紹介している作家たちで、辻原登、池澤夏樹、島田雅彦、奧泉光らとともに1990年代前半から活躍しているのが小川洋子だ。「ミーナの行進」と「猫を抱いて象と泳ぐ」がとりわけ印象に残っているが、両作に匹敵する「琥珀のまたたき」(2015年発表、講談社文庫)を読了した。

 桐野夏生、川上弘美、川上未映子と、今年に入って女流作家の作品を紹介してきたが、女性の生理と心理に疎いので、感想が的外れになるのは致し方ない。<現実と幻想の境界を精緻な筆致で描き、物語を寓話に飛翔させる魔法使い>というのが小川のイメージだ。まあ、俺にとって大抵の女性は魔法使いなのだけど……。

 二つの時空をカットバックしつつ進行する。メインはある家族の、外部と遮断された6年に及ぶ物語だ。3歳の末妹の死をきっかけに家族は別荘の跡地に移り住む。三姉弟はママによって壁の内側に閉じ込められ、鉱物図鑑からオパール、琥珀、瑪瑙と新たな名をもらう。外出だけでなく、大声で話すことも禁じられた子供たちは、狭い空間で様々な遊びを考え出す。不自由な状況での自由の追求は、作者が少女時代に愛読した「アンネの日記」が下敷きになっているという。

 外界は魔犬が彷徨う危険な場所……。ママはこう主張し、仕事先(保養施設)に向かう時、ツルハシを手にする。そんなママにも密かな息抜きがあった。公園のベンチに腰を下ろし、演目が終わった頃、近くの小劇場に足を運ぶ。ママは女優に間違われてサインを求められるほどの美貌を誇る。別の下りにも芝居に関する記述があるから、女優がママの見果てぬ夢だったのか。父が経営する出版社の図鑑のモデルに採用されたことが、両親の馴れ初めだった。

 メインストーリーの語り手は琥珀で、サイドストーリーは数十年後の琥珀、すなわちアンバー氏と私との交流だ。ちなみに、アンバーとは琥珀の英訳である。「芸術の館」で余生を過ごすアンバー氏は、今も小さな声でしか話せず、心は少年時代のままだ。職員(介護士?)である私は、恋慕、母性愛、敬意が入り混じった感情で寄り添っている。

 琥珀だけでなく、オパールと瑪瑙も地中で時間をかけて結晶を凝縮し、掘り当てられた時、その燦めきで人の心を魅了する。琥珀の片方の瞳は琥珀色で、心象風景に映る亡き妹の姿を図鑑の余白に描き込む。まさにパラパラ漫画で、アンバー氏は今も6年間の記憶に住み続けている。

 前々作に当たる「ことり」と重なる部分も大きい。社会との繋がりを最小限にとどめ、兄さんを守っていた小鳥の小父さんは、琥珀(アンバー氏)に通じる。本作で喪失の痛みを体現するのはママだ。ラストに近づくにつれ、決着の仕方が気になってきた。

 「モスキート・コースト」(ポール・セロー著)のアリーのように、ママは狂気に憑かれてしまうのか、「イン・トゥ・ザ・ワイルド」(07年、ショーン・ペン監督)のクリストファーのように、子供たちは外界への通路を完全に遮断されてしまうのか……。本作には、家族の緩やかな崩壊が描かれていた。

 母の支配力の低下ではなく、思春期の子供たちの外界への好奇心と憧れが、壁を内側から侵食していく。聡明なオパールはママへの不満を秘めているし、瑪瑙は自由奔放だ。オパールにとってジョーとの絆が決定的になり、実在か幻かはともかく、瑪瑙はシグナル先生と猫のカエサルによって外と繋がっていた。ひとり琥珀はママの思いに寄り添い、家族の親和性を保とうとする。

 本作は寂寥と孤独に温かく紡がれていた。四季折々の移ろいを精緻に表現するのも小川作品の特徴だ。私の寂寥と孤独は、アンバー氏に映っているのだろうか。私はアンバー氏、いや、時空を溯り、琥珀の描く内面の光景に入り込んでいく。そこではママと三姉弟が幸せそうにくつろいでいた。老いが心身に染み込んだ俺にとって、平成の読書納めに相応しい作品だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「主戦場」~スクリーンの外の恐ろしい現実

2019-04-25 23:26:53 | 映画、ドラマ
 「デモクラシーNOW!」など米独立系メディアは〝第二のマッカーシズム〟を危惧している。パレスチナにおける人権尊重を訴えるBDS提唱者オマール・バルグーティ氏が入国を拒まれた。イスラエルによるアパルトヘイトを批判した大学自治体、下院議員らが圧力を受け、BDS支持者であるロジャー・ウオーターズのツアーが妨害された。同志であるツツ大主教、ケン・ローチ、アキ・カウリスマキらも入国を拒否されかねない。

 日本人とは何かを問い掛けるドキュメンタリー「主戦場」(18年、ミキ・デザキ監督/アメリカ)を公開初日(20日)、イメージフォーラムで見た。サブタイトルは<ようこそ、「慰安婦問題」論争の渦中へ>で、立ち位置が対極の論客が自身の意見を述べるという形式だ。

 公開10日ほど前から〝不穏な動き〟があった。Yahoo!のユーザーレビューで1点、2点(5点満点)が次々にクリックされ、現在も2・5点台と低評価になっている。ぴあの満足度調査では92・3点(100点満点)だから、〝組織的犯行〟は一定の成果を挙げたといえるだろう。

 上映終了後、日系2世のデザキ監督が登場し、「薦めてほしいが、内容は言わないで」と満員の客席に釘を刺していた。背景と感想にポイントを置いて記すつもりだが、ネタバレは確実なので、観賞予定の方はここで別ページに飛んでほしい。一言でいうなら、斬新な手法に用い、重いテーマに鋭くかつ鮮やかに切り込んだエンターテインメントである。

 場内が明るくなり、沸き起こった拍手の波に加わったが、怒りに震えて退席し、〝反日映画〟のレッテルをSNSで貼りまくった方もいるはずだ。日本人のDNAを受け継ぎ、アメリカの自由な空気に育まれた監督は、生理学を学び、タイで僧侶になるため修行をしている。沖縄と山梨で中学生を教えたことで、〝面白く伝える〟ためのコツを掴んだと語っていた。

 櫻井よしこ、杉田水脈、藤岡信勝、ケント・ギルバート、加瀨英明ら著名な歴史修正主義者が、自信たっぷりに従軍慰安婦を矮小化していた。同作HPに鈴木邦男氏は、「今までの恨みもあって彼らの叫びもすさまじい」とコメントを寄せている。両論併記を前提に取材を受けた杉田らの低レベルの発言に、客席から失笑が漏れた。

 日本の責任を重く捉える側は知名度では劣るが、弁護士、歴史学者、政治学者、韓国人活動家、元慰安婦、元日本軍兵士らが的確な指摘で応酬する。HP掲載の町山智浩氏(映画評論家)のコメントが興味深かった。<エド・マーローがマッカーシー上院議員に好きなだけしゃべらせて彼の正体を晒した>……。この手法を、デザキは参考にしたのだろうか。

 歴史修正主義者の虚偽まみれの発言後、対峙する側の論理的、倫理的なコメントが続く。さらに、真実を示す映像を手際良く挿入する。日韓だけだと小競り合いの印象になりかねない。デザキは俯瞰の視線でアメリカを取材し、人権活動家や首長の声を紹介する。仕事先の夕刊紙記者は試写会終了後、ケント・ギルバートが敗北したボクサーの如く、ひとり席にとどまっている姿を目撃している。

 右派にとっての〝救い〟は、慰安婦に日本軍が関与したことを示す資料が残されていないこと……。だが、慰安婦に限らず、日本政府は敗戦間近、岸信介が主導して多くの資料を廃棄したという。ちなみに戦後、進駐軍相手の公営慰安所設立に動いたのが池田勇人元首相(当時は大蔵省幹部)だから、ノウハウを受け継いでいたのだろう。

 デザキは隠し玉を用意していた。櫻井よしこの後継者と目されていた日砂恵ケネディは、かつての自分を否定するだけでなく、本作のキーになる証言を残していた。歴史修正主義者たちは<米軍の資料には慰安婦の記述はなかった>と繰り返すが、それは正しくない。ナチス・ドイツの戦争犯罪を調査した資料だから、慰安婦関連の記述などあるはずもないのだ。

 「主戦論」は歴史修正主義者、日本会議はノックアウトする。ウィキリークスへのデザキのオマージュも窺えた。デザキは作品中の杉田の言葉を引用し、トークイベントで「ダマサレルホウガワルイ」とたどたどしい日本語で話し、笑いを取っていた。だが、日本会議が安倍政権の閣僚の80%を占めている。この恐ろしい現実に目を背けてはならない。デザキは<私の国(アメリカ)の戦争で日本の若者が死ぬことに思いを馳せてほしい>と結んだ。

 安倍政権にNOを突き付けるなら、歴史修正主義者や日本会議が掲げる強面ではなく、全く別の、真実に即した日本人像を創り上げることが緊喫の課題ではないか。個としての日本人は柔らかく寛容だと信じたい。
コメント (4)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

小三治、「揺れる大地」、「主戦場」~文化に親しんだ1週間

2019-04-21 21:01:21 | カルチャー
 公開初日、イメージフォーラムで従軍慰安婦問題に切り込んだ「主戦場」を観賞した。YAHOO!レビューでは公開前から異常な低評価だったが、理由は簡単、〝組織的犯行〟であることは明らかである。内容は次稿で紹介するが、自信をもってお薦め出来る作品だ。

 「子連れ狼」の原作者、小池一夫さんが亡くなった。武士道の本質に迫った文化人の死を心から悼みたい。主人公の拝一刀は「士たる志を持つ者こそ武士」と言い放ち、一揆に立ち上がった農民、変革を志す商人の側に立つ。萬屋錦之介の入魂の演技も忘れられない。身分としてのサムライは上に忖度し、下を軽んじる愚か者で、負の遺伝子がこの国を腐蝕している。

 ノートルダム大聖堂の火災でフランス人は悲しんでいる? まさか! イエローベスト運動は23週連続で継続されたが、「ワールドニュース」(NHK・BS)は、庶民の声を報じていた。膨大な寄付金を申し出た企業に対し、<貧困で苦しんでいる人たちのために金を使え>との抗議の声が広まっている。

 先週はカルチャーウイークだった。16日は野戦攻城「Nachleben揺れる大地」最終日(花園神社水族館劇場)、18日は柳家小三治独演会(調布グリーンホール)、そして20日は冒頭に記した「主戦場」である。時系列は逆だが、〝枕の小三治〟から。

 調布のかつての長閑な光景、乗馬、重い荷物と45分以上続いた枕の後、「馬の田楽」に入る。間抜けな馬方、字の汚い番頭、悪ガキらが織り成す聴く噺だった。終了予定時間を大幅にオーバーし、申し訳なさそうな小三治は、十八番の「小言念仏」で締める。79歳の小三治は一時期、体調不良が伝えられたが、今回は声の涸れもなく、衰えを感じなかった。

 笑いは権力に向き合うための武器であるべきだが、芸人の保守化が目立っている。松本人志は胡散臭いし、全共闘世代を「赤信号、みんなで渡れば怖くない」と揶揄したビートたけしは、先頭を切って青信号を渡っている。その点、落語界は健全だ。三遊亭白鳥、柳家喬太郞、桃月庵白酒、柳家三三、春風亭一之輔らトップランナーは体制に辛辣だ。小三治の気概に学んでいるのだろう。

 2014年12月、総選挙直後に開催された独演会で、小三治は原発再稼働に怒りを爆発させ、小泉進次郎議員にファシズムの影を重ねていた。後のインタビュー番組で、小三治は「人間国宝は取り消されることがあるんですよ」と冗談交じりで話している。時事ネタ枕は減りつつあるが、小三治の反骨精神は次世代にも受け継がれているはずだ。

 演劇は門外漢だが、「揺れる大地」は時代背景に馴染みがあったのですんなり入り込めた。芝居を見るのは川柳歌人、鶴彬の生涯を追った「手と足をもいだ丸太にして返し」以来、4年5カ月ぶりである。劇評なんておこがましいので、感想を簡単に記したい。

 1930年代の満州と80年後の東京……。時空を超えて開拓民、兵隊、阿片中毒の女、精霊、亡霊、妖怪といった有象無象が行き来する。安倍政権への違和感が根底にあり、見る者に戦争とは、国家とはと問い掛ける。川島芳子を演じた女優のキュートさに目を奪われた。

 満州を支配していた甘粕正彦、阿片王として関東軍に資金を調達した里見甫、岸信介、そして電通の前身「日本電報通信社」も台詞に出てくる。この80年、社会の仕組みは何も変わっていないのではないか……。鑑賞しながらそんな風に考えた。テントゆえ、救急車など新宿の街の音といい塩梅で中和していた。

 劇団「野戦攻城」の来し方や構成は知らないが、小冊子には<山谷や寿町から、ここのところ音沙汰なかった仲間が集まった>なんて書いてある。役者たちの年齢層は幅広く、キャラはバラエティーに富んでいた。<芝居愛>に紡がれた絆が羨ましかった。

 終演後、音楽を担当した頭脳警察のPANTAさんが出口近くで歓談していた。「久しぶりです」と挨拶し、言葉を交わす。「フェイスブック、やってる? 繋がろうよ」と言われた時、別の方が近づいたので会場を出た。家に帰って友達申請し、承認される。

 知性、世界観、人間性と、誰よりも尊敬するPANTAさんは69歳。くしくも父の享年と同じだ。ブログに記したが、頭脳警察50周年ライブ(7日)に感銘を覚えた。機会があれば、またライブに接したい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

いしいしんじ「ぶらんこ乗り」~〝21世紀の宮沢賢治〟が紡ぐメルヘン

2019-04-17 23:14:24 | 読書
 喫茶店で時間を潰していたら、就職活動中の男子学生3人組が横で情報交換していた。自身のプラン、会社側の対応などが自然に耳に入ってくる。感想は「日本は終わってる」……。仕事先の夕刊紙等で実績ある経営者のインタビューに接することも多いが、青春期に社会主義にシンパシーを抱いたり、哲学や文学に関心を抱いたりした経営者は少なくない。

 社会で成功するための武器は<世界観>だが、採用担当者、学生たちは<馴致>に囚われているようだ。若者が自身の思いを発信し行動する先進国に、日本が太刀打ちするためには、逼塞した空気の打破が必要だ。価値観をぶつけ合う自由、突破者になる覚悟が、地盤沈下を防ぐために求められている。

 ブログ開設から14年半……。この間、実感したのは自分の愚かさだ。平野啓一郎の「決壊」をきっかけに、21世紀の肥沃な日本文学に足を踏み入れた。昭和を彩った作家たちはあらかた押さえているから〝文学通〟を気取っているが、自分の物差しで測れない作品に触れた時、無知な〝半可通〟であることを露呈する。その典型が別稿で紹介した「悪声」(いしいしんじ著、15年)だった。

 先日、いしいの「ぶらんこ乗り」(新潮社、00年)を読了した。作家と出会うなら、デビュー時に溯るのが正しい読み方だろう。熟成された「悪声」をベースに、初長編作「ぶらんこ乗り」を論じるのは無理な話だ。とはいえ、15年を経た両作に共通点を見つけた。

 まずは<声>の喪失だ。「悪声」の主人公「なにか」と同様、「ぶらんこ乗り」の語り手(私)の弟も美声を失い、人を恐慌に陥れる声を自ら封じた。トラウマの反映という想像は的外れで、作者は大学時代、吉本にスカウトされたほど喋り上手という。第二の共通点は、「悪声」の「なにか」のように、「ぶらんこ乗り」の弟も土着的パワーを秘めていることだ。

 おばあちゃん、額縁制作者の父さん、絵描きの母さん、私(語り手の少女)と弟、後に一員となる指の音と名付けられた犬が家族を構成する。おばあちゃんはかつて有名な女優で、母さんが幼い頃に死んだおじいちゃんは偉大な画家だった。家族で訪れたサーカスで、ぶらんこ乗りに魅せられた4歳の弟は、「手をにぎろう!」と名付けられた物語をノートに記した。

 「ずっとゆれているのがうんめいさ。けどどうだい、すこしだけでも」
 と手をにぎり、またはなれながら、
 「おたがいにいのちがけで手をつなげるのは、ほかでもない、すてきなこととおもうんだよ」
 ひとばんじゅう、ぶらんこはくりかえしくりかえしいききした。(中略)ふたりのぶらんこのりはまっくらやみのなかでなんどとなく手をにぎりあっていた。

 手を握り合っていたのは、ストーリーに即していえば、父さんと母さん、そして姉弟だ。淡々と綴られる愛の深さと絆の強さ、優しさ、ノスタルジー、孤独に記憶の底を揺さぶられ、涙腺を刺激された。声を失った弟は、庭の木に吊るしたぶらんこで暮らすようになる。揺れるぶらんこは<内と外>、<虚実>の境界を行き来するツールで、弟は自然や動物、亡き人の魂と交感する。

 高校生になった私は冒頭、弟の書き残したノートを読み始める。この時点で、弟の不在による私の喪失感が滲んでくる。時空を溯り、様々な出来事と弟が作った物語に触れるうち、カチカチの物差しが柔らかくなっていく。「悪声」を評する際、石川淳、辻原登を援用したが、肝心の作家が念頭になかった。宮沢賢治である。

 夢の中で夢を見るような浮遊感は、まさに宮沢賢治の世界だ。弟はぶらんこの上で風の音、木々の揺らぎ、鳥の鳴き声、虫の羽音と感応し、自然への畏れと共生への祈りに満ちた物語を綴っていく。父母の死で、ぶらんこのバランスは崩れ、向こう側の引力に耐えかねた弟は、ぶらんこを降り姿を消す。

 <もうしばらく待てば指の音が、あのこを連れてもどってくる。かじかんだ手をごしごしとこすり合わせ、鎖を握り直すと、しずかに風景を埋めていく雪のまんまんなかで私、ぶらんこをゆるやかにこぎつづけたんだ>……。私が弟と重なったかのようなラストの私の独白に余韻は去らない。

 「悪声」と同じく、本作にも漂泊の哀しみが滲んでいる。死後に旅行先から届く父母のはがき、指の音の毛の禿げた部分に人々がメッセージを書き込み、〝はがき犬〟になっているという設定も効いていた。62歳にもなって、屁理屈抜きで感情移入出来る小説に巡り合えた幸せを噛みしめている。



コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「キャプテン・マーベル」~荒唐無稽と懐の深さを併せ持つエンターテインメント

2019-04-14 20:39:37 | 映画、ドラマ
 米軍によるイラク民間人虐殺映像を公開するなど、権力に牙を剥くウィキリークス創設者のジュリアン・アサンジが、アメリカの要請でロンドンのエクアドル大使館から連行された。香港では、雨傘運動の提唱者に有罪判決が下る。中国の圧力は増すばかりで、自由と民主化は風前の灯になっている。

 汚職で追い詰められていたイスラエルのネタニヤフ首相は、トランプ大統領の支援もあり総選挙で勝利する。アパルトヘイトは続行するが、心和むニュースもある。パレスチナのサッカー場が改修され、ガザ地区とヨルダン西岸地区のチームの試合には多くの観衆が集まった。1億円の費用を提供したのは日本政府事務所だ。悪の枢軸<米イ>から距離を置く姿勢を見せたことになる。

 キュアーの「ロックの殿堂」入りは遅きに失したが、授賞式におけるトレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ=NIN)のスピーチに、キュアーとロバート・スミスの魅力が余すところなく詰まっている。1978年にデビューしたキュアーは、ロック界の二大潮流の起点になった。

 UKニューウェーヴの流れを汲むミューズ、インターポール、クーパー・テンプル・クロースらを経て、新星ペール・ウェーヴスのヘザーもキュアーへのオマージュを語っている。一方で、ポストパンク/オルタナにカテゴライズされるレッド・ホット・チリ・ペッパーズ、グリーン・デイらUS勢への影響は絶大で、NINは〝一番弟子〟といえるだろう。ロバート・スミスは今秋発表されるアルバムについて、「ハードコアファンが喜ぶダークで激しい作品」と語っている。

 新宿で先日、「キャプテン・マーベル」(19年、アンナ・ボーデン&ライアン・フレック監督)を観賞した。マーベル・スタジオ製作、ウォルト・ディズニー配給で、最新技術をフル活用したスーパーヒーロー映画だ。〝繋ぎ〟的作品で、主人公のキャロルもしくはヴァース(ブリー・ラーソン)は近々公開される「アベンジャーズ/エンドゲーム」にも登場する。

 縁がなかったタイプの作品を見るきっかけになったのは、ロッキング・オンHPに掲載された<時代設定は1990年代半ばでグランジ/オルタナ関連の引用がたくさん出てくる>(趣旨)という記事だ。事故で記憶を失ったキャロルはクリー帝国に搬送され、ヴァースの名で特殊能力を生かすべく訓練を受ける。感情を制御するよう彼女を諭すのは上官ヨン・ロッグ(ジュード・ロウ)だ。

 テンポ良くアクションたっぷりのエンターテインメントで、荒唐無稽といえるほど弾けている。DVD化された暁には人気アイテムになるのは必至だから、ストーリーの紹介は最小限にとどめ、感想をファジーに記すことにする。

 進歩と停滞、正義と邪悪、秩序と混沌、正統と異端……。アンビバレンツな価値観が同居するのがアメコミ原作の映画で、本作も特徴を受け継いでいる。ロックファン必見という点で共通しているのが「クロウ/飛翔伝説」(1994年)で、同作のサントラにはキュアーとNINがレイジ・アゲンスト・ザ・マシーンらとともに名を連ねていた。

 地球人キャロル、クリー人ヴァース……。本作は主人公が記憶とアイデンティティーを取り戻す経緯を描いた作品だ。エネルギー・コアの行方を探るため地球に潜入、実は帰還したヴァースが踏み入れたのは1995年のカリフォルニアだ。圧倒的な軍事力を誇るクリーに抵抗するのは、不気味な外見で、カメレオンのように他者に同化するスクラルだ。

 シールドのエージェント、ニック・フォーリー(サミュエル・L・ジャクソン)の協力を得たヴァースは、親友マリアと再会し、自身がキャロルだったことを知る。周囲と馴染むためヴァースが着ていたのがNINのTシャツで、グランジ風のアクセサリーも幾つか登場する。尊敬するローソン博士の真意、彼女の死の真相が明らかになり、キャロルはヴァースを捨てた。

 <クリー=正義=アメリカ>、<スクラル=邪悪=イラン>といった構図が顛倒し、キャロルはスクラルの思慮深さと反戦の意志に気付く。トランプは二元論そのものだが、冷静に世界戦略を見据えるハリウッドは愚かではない。普遍性を重視し、真の意味でのグローバリズムを志向している。

 俺にとって本作は音楽映画だ。エラスティカ、ホール、REMが流れ、肝というべきシーンではニルヴァーナの「カム・アズ・ユー・アー」ときた。猫のグースの活躍もMVP級で、疾走感溢れる作品だった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

頭脳警察at花園神社~時代は今こそ「銃をとれ」

2019-04-11 22:29:46 | 音楽
 先日7日、歴史的イベント、頭脳警察50周年1stライブ(花園神社水族館劇場)に参加した。PANTAが楽曲を提供し、同会場で開催中のNachleben「揺れる大地」公演との連動企画である。PANTA(ギター、ボーカル)とTOSHI(パーカッション)を4人の若いメンバーがサポートしていた。

 今世紀末を舞台にした奧泉光著「ビビビ・ビ・バップ」(16年)では、1960年代後半の新宿がバーチャルに再現され、新宿騒乱当日、頭脳警察は花園神社で「銃をとれ」を演奏していた。寺山修司、高橋和己、大島渚らとともに、頭脳警察は熱い時代のイコンであり、いまだにフレッシュだ。フルハウスの満員で、若い世代も多く詰めかけていた。

 安田講堂攻防戦、公害への抗議、連続ピストル射殺事件、ベトナム反戦運動の拡大、大菩薩峠での赤軍派逮捕、佐藤首相訪米阻止行動、創価学会の言論妨害……。1969年はまさに嵐の一年で、アングラ演劇とフォークゲリラが時代の象徴だった。

 今回のライブは、当時のパトスを再現しつつ、成熟が加味されていた。PANTAがMCで、「俺たちが半世紀後も生き残っているなんて不思議」と話していたが、発禁処分の連続で抹殺寸前だった頭脳警察は、世界に先駆けたパンクバンドでありながら、フォーク色が濃かった。

 オープニングで寺山修司「アメリカ」を朗読し、寺山と高取英が共作した詩に曲をつけた「時代はサーカスの象にのって」を歌った後、PANTAは高取への弔意を示す。「コミック雑誌なんていらない」からタイトルを引用した内田裕也は、同名の映画で脚本と主演を担当した。今回のライブには、同志たちへの「惜別」の思いが込められていた。

 一番盛り上がったのは「揺れる大地」で、劇団メンバーがセットの上と客席に登場し、PANTAと唱和する。芝居は門外漢だが、歌詞に感銘を覚えたこともあり、楽日(16日)のチケットを申し込んだ。最も心に染みたのは「さようなら世界夫人」だ。原作者ヘルマン・ヘッセは崩壊するドイツへの哀悼を込めたとされる。

 ♪世界はがらくたの中に横たわり かつてはとても愛していたのに 今僕等にとって死神はもはや それほど恐ろしくないさ さようなら世界夫人よ さあまた 若くつやつやと身を飾れ 僕等は君の泣き声と笑い声には もう飽きた

 PANTAは原詩の精神を保ちながら、自身の世界観を織り込んだ。世界夫人とは、そして死神とは何か。日本の現状を踏まえ、あれこれ思いを巡らせている。切なく美しい「さようなら世界夫人」は、俺にとって日本のポピュラーミュージック史上ナンバーワンの曲である。

 頭脳警察は90年、一時的に再結成し、7thアルバムを発表する。収録曲「万物流転」は詩的かつ知的なイメージに彩られていた。MCで「何も変わらなかったことに絶望して作った」と前置きしていた。「銃をとれ」と「ふざけるんじゃねえよ」で締め括る。♪無知な奴らの無知な笑いが うそで固められたこの国に響き続ける……。安倍政権を連想させる歌詞だ。

 昨年から今年にかけ、欧米で熱気が蔓延している。バーニー・サンダースの影響を受けて社会主義を掲げる米民主党オルタナティブは徐々に浸透している。フランスのイエローベスト運動は階級闘争の様相だ。日本でも深刻な貧困と格差で<板子一枚下は地獄>の状況だ。サブタイトル通り、今こそ「銃をとれ」の叫びが相応しい。闘い、抗うため、心を高揚させるためのツールとして……。

 目取真俊の小説を読んで、<暴力の内包>が必要であることを学んだ。<憲法9条があったから、日本は戦争と無縁だった>など、沖縄を捨象して語るリベラルに苛立ちを覚える。「戦争しか知らない子供たち」と歌ったPANTAも、目取真と同じ地平に立つ。

 1969年、日本のGDPは世界2位になり、老人医療無料化が自治体に広まった。富を国民に還元する仕組みが崩壊した50年後、頭脳警察の世界観、知性、そして憤怒が褪せることはない。
  
 2日後、日本橋公会堂に足を運び、第7回「春風亭一之輔 古今亭文菊 二人会」を堪能した。古典を現代風にアレンジする一之輔、伝統に殉じる文菊……。芸風は対照的で、一之輔「新聞記事」→文菊「お見立て」→文菊「長短」で進行し、一之輔が枕抜きで披露した「百年目」に、文菊へのライバル意識を感じた。馴れ合い、楽屋ネタが一切ない清々しい会だが、来年はチケットを取れるだろうか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ウィステリアと三人の女たち」~心の枝葉を共振させる川上未映子の魔法

2019-04-07 12:16:46 | 読書
 名人戦開幕を前に、俺にとっての大河ドラマ、NHK杯将棋トーナメントが始まった。女流棋士出場決定戦で里見香奈4冠に敗れた西山朋佳女王も、奨励会三段リーグで健闘するなど、実力は引けを取らない。渡部愛王位も進境著しく、女流棋界は戦国時代に突入した。

 18年度麻雀最強戦ファイナルが、3カ月のタイムラグで放映された(テレ朝チャンネル)。最強位に就いたのは遅咲きの近藤誠一最高位で、風貌通り堅実な打牌で地歩を築いたが、五十路を越えて超攻撃型に転じ、頂点に立った。最強にして最高、まさに中高年の星だ。

 予選、敗者復活戦、ファイナル16、決勝卓で華麗な打ち筋を披露したのは近藤と同期の渡辺洋香で、アラフィフらしくないコメントや仕草も可愛い。ニックネーム「フェアリー」(妖精)を冠した雀荘(新宿)に、いずれ足を運ぶだろう。昨年プロ入りした朝倉康心の活躍も目覚ましく、最高位戦は男女MVP、新人王を独占した格好だ。

 川上未映子の「ウィステリアと三人の女たち」(18年、新潮社)を読了した。川上作品を読むのは4作目だが、神話の領域に達した「ヘヴン」読了後、純水が心身の隅々に行き渡る瑞々しさに浸った。「ヘヴン」は幹をグラグラさせる暴風だったが、「ウィステリア――」は枝葉を共振させる微風といえる。

 3作の短編と、表題作の中編で構成され、孤独、諦念、喪失感、メランコリーに彩られている。全編ヴァージニア・ウルフへのオマージュで、<死への憧憬>と<女性同士の未達の愛>が主音だった。年齢や性によって体感に差が出る。アンテナが錆び付き、そもそも女性の生理や心理に疎い俺が、繊細な描写に紡がれた本作を評するのは難しい。ピンボケを承知の上で感想を記したい。

 ♯1「彼女と彼女の記憶について」の主人公は作者自身の投影か。多ジャンルで才能を発揮している川上は、「パンドラの筺」(09年、富永昌敬監督)でキネ旬新人賞に輝いたが、女優としての活動は控えめだ。本作は30代の女優が中学の同窓会に、手繰り寄せられるように参加するという設定である。

 記憶を例えれば箱だが、自身の内にあるのではなく、外側から届けられることもある……。冒頭のモノローグ通り、女優は小学校時代の友達が3年前に餓死したことを知らされる。独りではなく、女性との心中と思しき死に様に、幼い頃の記憶が、罪の意識とともに甦る。残酷な結末に息をのんだ。

 ♯2「シャンデリア」の主人公は毎日デパートを訪れ、ブランドショップをチェックする。ブルジョワの倦怠がテーマと思いきや、主人公は巨大なシャンデリアを仰ぎ見て、<シャンデリアが落下する瞬間――きっとその瞬間にわたしはどこにいたって真下にいるはずで、(中略)わたしは落下そのものになる>と独白する。シャンデリアはタナトスのメタファーなのだ。

 知り合ったリッチな老女は亡き母とほぼ同年齢、店前で乗ったタクシーの女性ドライバーの母は自身と同い年(46歳)……。3世代の女性が物語の綾になっていた。主人公の来し方と〝富の源泉〟が明かされ、老女に対する態度の豹変に納得した。

 「死にぞこないの、くそばばあ」の罵りが耳目に焼き付いたまま、♯3「マリーの愛の証明」に読み進む。マリーは他者に「死ね」と言ったことも思ったことは一度もない。元恋人のカレンには踏めないものがたくさんある。傷ついた少女たちが暮らすミア寮が舞台で、マリー入寮の理由に、父親の性的虐待が仄めかされている。

 カレンに「愛の証明」を求められたマリーの心のコップに、死の薫りがする水滴が溜まっていく。カレンとマリーの会話に、死に憑かれた経験を持つ看護係アンナの主観が交差した。アンナは少女たちの中に亡き娘の面影を追う。ウルフの前衛性と実験性を踏襲していた。

 ♯4「ウィステリアと三人の女たち」にはウルフの「波」から引用されている。主人公は不妊検査を巡るやりとりで夫とセックスレスになったアラフォーの主婦だ。手が異様に長い女、黒猫に導かれるように廃屋に導かれる。そこはかつて英語塾で、老教師と英国人教師の女性同士の秘められた恋が綴られる。

 ウルフ、老教師、主人公の寂寥が、藤の木(ウィステリア)とベートーベンのピアノソナタ32番、自然と心理のこまやかな描写のピースで浮き彫りになる。完成したジグソーパズルのタイトルは<喪失と崩壊の先に倒立した蜃気楼>だ。

 最後に、桜花賞の予想を……。POGに興じていると、他のメンバーの指名馬を応援する気になれない。「死ね」と思えないマリーとは程遠い、邪さに基づき、④クロノジェネシス、⑤ルガールカルム、⑨アクアミラビリスを応援する。4時前にはひきつった笑みを浮かべているはずだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「最後の一滴まで ヨーロッパの隠された水戦争」~怒りは日本に伝播するか

2019-04-03 21:53:31 | 社会、政治
 平成の30年は<日本が壊れた時間>だが、俺の内側で和が浸潤し、皮膚を食い破らんばかりだ。かつて荒畑寒村が自任した土着的左翼の心情に、俺は近づきつつある。ありふれた〝先祖返り〟で、東日本大震災と福島原発事故、妹の死が流れを加速させた。

 無常観、恥の意識、和の精神といった美徳が剥ぎ取られてしまったことに痛みを覚えつつ、桜、紫陽花、花火、紅葉に親しんでいるが、感興を抱くのが難しくなってきた。自撮り→SNSのアリバイ文化に違和感を覚えながら、中野通りで桜を鑑賞した。還暦を過ぎると死の影が重なる桜の刹那の儚さは権力に利用され、多くの若者が散華に導かれた。

 安倍首相は第2次政権下の6年で、日本をアメリカ51番目の州にした。貧困は拡大し、<板子一枚下は地獄>を実感している方も多いだろう。「美しい国」どころか、環境破壊を確実にもたらす水道法改正について考える映画上映&トークイベント(3月30日、ソシアルシネマクラブ主催)に足を運んだ。

 「最後の一滴まで ヨーロッパの隠された水戦争」(17年、ヨルゴス・アヴゲロブロス監督/ギリシャ)上映後、<誰のための水道民営化>と題されたトークセッションに移る。日本版製作に携わった内田聖子氏(PARC共同代表)、辻谷貴文氏(全水労書記次長)、三雲祟正氏(新宿区議、弁護士)、奈須りえ氏(大田区議)がパネリストを務めた。

 日本の水道は漏水率が極めて低く、品質は高い。民営化の必要は皆無だが、麻生財務相は2013年、ワシントンでジャパンハンドラー(CSIS=国際問題研究所)の集まりで「日本の水道は全て民営化する」(外資に売り渡す)と発言した。「ウォーターゲーム」(18年、吉田修一著)を併せて読めば、水道法改正法の先にあるものが浮かんでくる。

 「最後の一滴まで」では、①パリとベルリンが水道事業を公営に戻した経緯、②民営化失敗のツケを住民が負担させられるポルトガルの自治体、③債務危機を理由に水道民営化を迫られるギリシャ、④国民投票で水道民営化を否決したイタリア、⑤健全に運営されている水道事業の一括民営化をEUに求められたアイルランドの状況が、順次リポートされる。

 キーワードは<トロイカ>で、アイルランドの民営化反対大集会でも「打倒トロイカ」のプラカードが林立していた。ちなみに、活動家が纏っていたのは黄色のベストで、反マクロン大統領を掲げるパリのデモ隊と同じ装いである。トロイカとは欧州連合(EU)、欧州中央銀行(ECB)、国際通貨基金(IMF)で構成され、3者の意を受け各国に伝えるのがのが、グローバル企業と癒着する欧州委員会だ。

 EU内におけるヒエラルヒーが本作に窺える。トロイカ代理人と思しきマクロンはギリシャに圧力をかけ、同国民の怒りを買っていたが、前任者オランドを継承しただけだ。武器商人という点で何ら変わらないオバマ→トランプと構図は同じである。ドイツの閣僚も国内での柔らかい仮面とは別の黒い素顔を、ポルトガルやギリシャで見せていた。大国指導者を操る司祭が背後で蠢いている。

 辻谷氏は「最後の一滴まで」に描かれている通り、民営化によってサービスか低下し、水道代が高騰すると予測していた。利潤追求が最優先されるからである。<民営化により非効率な役所仕事が改善される>がまやかしであることは先進国の常識になってきたが、日本国民は洗脳から解けない。だから、麻生財務相の〝売国発言〟が看過されているのだ。

 三雲、奈須両氏はPFIに言及していた。PFIとは<民間資金を利用し、公共サービスの提供を施設整備に委ねる手法>で、水道民営化ともリンクしている。1992年に先立って導入された英国では失敗と評価されているが、日本で活用されたのは1999年以降だ。20年も前から民営化に向けた道筋が用意されていたことに今更ながら驚いた。

 令和発表当日、「白鳥・三三 両極端の会」(紀伊國屋ホール)を堪能した。オープニングトークの出囃子が「君が代」というのも毒を吐く二人らしい。「令和はまだピンとこないが、三遊亭とか柳家の次にくると妙に据わりがいい」と話していた。大騒ぎしたメディアと比べ、冷ややかな二人の方が遥かにマトモに思えた。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする