酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「フォレスト・ガンプ」~四半世紀を経ても褪せぬ輝き

2022-03-29 22:00:43 | 映画、ドラマ
 ロシアのウクライナ侵攻が続いている。短期決着を目指したプーチンだが、ウクライナの抵抗と経済制裁で追い込まれているようだ。最新の状況はリアルタイムで報道されており、俺があれこれ書いてもすぐ的外れになる。そんな時に野球観戦なんて後ろめたい気もするが、先週土曜、横浜スタジアムに足を運んだ。開幕3連敗で、オースティンとソトが復帰するまで苦しい続きそうだ。

 「コーダ あいのうた」がアカデミー賞作品賞に輝いた。主人公の父親を演じた聾者のトロイ・コッツが助演男優賞に輝いたあたりで流れを予感したが、その通りになった。「コーダ」を紹介した稿を<本作もスカー候補といわれている。多様性を希求するヒューマンストーリーだけにチャンスは大きいのではないか>と締めた。今回の授賞式のテーマは<愛と多様性>といえるだろう。

 「フォレスト・ガンプ/一期一会」(1994年、ロバート・ゼメキス監督)の4Kニューマスター版を新宿シネマカリテで観賞した。27年ぶりの再会になる。、四半世紀を経ても輝きは褪せず、普遍的なテーマ、即ち<愛と多様性>が織り込まれていた。「フォレスト」はKKK創設者の名前からで、「ガンプ」はアラバマ州の方言で〝うすのろ〟の意味だ。

 「フォレスト・ガンプ」の韓国版、「国際市場で逢いましょう」も当ブログで紹介している。「フォレスト・ガンプ」の冒頭はバス停留所だ。空中を漂う羽が、隣席の人に来し方を語るフォレスト(トム・ハンクス)の足元に落ちた。「国際市場で――」のオープニングでは、一羽の蝶が釜山の国際市場を舞う。

 母(サリー・フィールド)は養護学校入学を拒み、フォレストを普通の小学校に通わせる。仲間外れにされる中、唯一心を開いてくれたのがジェニーだった。知能指数が低く、湾曲した背骨のせいで脚装具を着けていたフォレストは、いじめを受けた時、天与の才能を発揮する。ジェニーの「走って」の声に駆け出すと、脚装具は壊れたが、フォレストのスピードに自転車は追いつけなかった。

 走ることが〝性〟になったフォレストは、アラバマ大フットボール部のRBとして大活躍し、ベトナムでは脚力を生かして味方の命を救う。巨万の富を得たものの、再会したジェニー(ロビン・ライト)は去り、母は召された。孤独を癒やすためフォレストは走り出し、全米を何回も縦断する。平和を願って、自由のため、それともジェニーを見つけるため?……。伴走者も増え、〝フォレスト巡礼団〟の様相を呈するが、「疲れた。家に帰る」と立ち止まる。

 史実とフィクションが混淆するメタフィクション(オートフィクション)の手法を用いた作品ゆえ、エルヴィス・プレスリー、ジョン・レノンら著名人と次々に出会い、歴史的な場面に遭遇する。アラバマ大では黒人学生入学を拒否するウォレス州知事と同じフレームに入り込んでいた。差別撤廃を目指すケネディ大統領には全米代表チームの一員としてホワイトハウスに呼ばれる。

 ジョンソン、ニクソン両大統領とも言葉を交わすが、フォレストの通報がウォーターゲート事件発覚のきっかけになるという設定だ。大規模な反戦集会、米中のピンポン外交でもフォレストは期せずして重要な役割を果たす。上記したように<愛と多様性>が本作に通底するテーマだった。

 ジェニーへの一途な愛がメインストーリーだ。幸せを拒んで漂流するジェニーはトラウマを抱えていた。幼い頃に受けた父親からの性的暴力は現代的な社会の傷といえる。ジェニーに対してだけでなく、フォレストはベトナムでの戦友にも誠意を尽くす。バッハ(ミケルティ・ウィリアムソン)とエビ漁船の夢を語り合い、バッハ亡き後、ダン・テイラー中尉(ゲイリー・シニーズ)が遺志を引き継ぐことになる。シニーズは「CSI:ニューヨーク」のマック・テイラー主任役で馴染みが深い。

 うすのろとからかわれ、脚装具を着けた少年時代のフォレストは、多くの者から差別の対象だった。バッハはアフリカ系で、両脚を失い荒んだ日々を送るダンを支え続けた。後半でダンの婚約者として登場する女性はアジア系だった。時代の空気を先取りした作品で、オスカー6部門獲得のみならず、多くの栄誉に浴したのも当然だと思う。温かなカタルシスに余韻は去らず、〝俺には一途さが足らなかったのか〟と自身の過去を顧みてしまった。

 CCR、ボブ・ディラン、ビーチ・ボーイズ、ジミ・ヘンドリクス、ママス&パパス、バファロー・スプリングフィールド、サイモン&ガーファンクル、ジェファソン・エアプレイン、バーズ、フィフス・ディメンション、スリー・ドッグ・ナイト……。時代を象徴するヒットチューンが流れる中で、3曲挿入されたドアーズが印象的だった。

 「人生はチョコレートの箱のよう。開けてみないと中身はわからない」……。死の床に伏す母は息子に問いかける。人生の意味を問う含蓄ある言葉がちりばまれていた。

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「授乳」~村田沙耶香の凄まじい初心

2022-03-24 22:54:37 | 読書
 1956年生まれの俺は、あらゆる点で〝既成概念〟に囚われている。例えば男女について、若い世代と大きな違いがあるはずだ。消去したい失敗を繰り返してきたが、恋愛でも同様だ。〝あの人とはうまくいくはず〟との妄想に何度も憑かれたが、それは殆ど勘違いだった。

 仕事の契約終了後、3週間が過ぎた。映画観賞とともに生活のベースに据えるつもりでいた読書が捗らない。ページを繰っているとたちまち眠くなる。ようやく村田沙耶香の「授乳」(講談社文庫)を読了した。群像文学賞を受賞したタイトル作と「コイビト」、「御伽の部屋」が収録されている。

 村田を発見したのは芥川賞受賞作「コンビニ人間」(2016年)だった。<カフカ的なテーマに貫かれ、アイデンティティーと疎外という深遠なテーマが滲む作品>と同作を評した。その後、「地球星人」(18年)、「消滅世界」(15年)を読み、村田の初心というべき「授乳」を読む。不思議でならないのは、芥川賞受賞まで時間がかかり過ぎたこと。「授乳」収録3編を読む限り、村田ワールドはデビュー時に確立していた。

 「消滅世界」と「地球星人」は設定がSF的かつドラスチックだった。欲望と分離された結婚、人工都市における洗脳が描かれており、主人公は幼い頃から既成観念を敵視している。女としてのセクシュアリティーを否定している主人公の前に壁として立ちはだかるのは、世間の常識を受け入れる母親だった。「授乳」収録3作の後景にも、<母と娘>の構図が填め込まれている。

 「授乳」の私は、家庭教師を隷属させる。透明感があり無機的な青年は、私がさらけだした胸に顔を押し当てられるのだが、抵抗はしない。性的な匂いのない男女の在り方に私は安らぎを覚えたが、母の闖入で世界は壊れた。ラストで私が踏みつけたのは、母が体現する世界だったのか。蛾や蟻、生理用のナプキンで先生の傷口を覆うシーンなど、作者の心象風景がちりばめられている。

 「授乳」にも猫のぬいぐるみが登場するが、「コイビト」のあたしはハムスターのぬいぐるみ(ホシオ)と一心同体だ。偶然、オオカミのぬいぐるみ(ムータ)と過ごす小学生の美佐子と知り合う。「地球星人」で主人公がぬいぐるみに勇気付けられ塾講師を惨殺する場面が甦った。その青年は一流大に通うハンサムな青年で、完璧な普通人の仮面の下に異常な顔を隠していた。セクシュアリティーに不自由さを覚える作者にとって、忌避すべき存在だった。

 あたしはホシオと長い時間を過ごしている。ホシオは自分と世間を繋ぐ唯一の手段、それとも思考と感情を吸収するブラックホール?……。だが、美佐子とムータとの関わりに幼い狂気を見たあたしは、ホシオと決別しようとする。美佐子はあたしの不安を見透かしていた。

 「御伽の部屋」の主人公である女子大生の佐々木ゆきは、額のテレビを通して世間と接している。「コイビト」のぬいぐるみの別の形なのか。ゆきは偶然、大学生の関口要二と知り合う。男を感じさせず、清潔感が漂う要二の部屋に、ゆきは入り浸るようになる。自分は守られている……、そうゆきは実感するのだ。

 性的な関係を持たない要二とゆきは、互いの役割を演じるようになる。カットバックするのは、ゆきの小学生時代の記憶だ。同級生のマリの正男兄さんとこっそり会うようになる。正男兄さんは自分が男であることにアイデンティティーを持てなかった。正男兄さんと要二が重なっていくが、次第にズレていき、要二とゆきの立ち位置が変わる。村田作品特有のカタストロフィーに息を吞んだ。

 村田は社会や構造を内在化し、皮膚を固めている。強靱だからこそ、シュールで狂気に満ちた物語を提示出来るのだ。村田はインタビューで<同時代にも複数の価値観は存在するのに、自分の狭い世界の正義を信じて、誰かを平然と裁くことに恐怖を感じる>と語っていた。

 「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した後も、村田はコンビニでバイトしていた。もし、俺が同じ店で働いていたら、変わったオーラに惹かれたかもしれない。佇む地平が異なるから、相手にされないのは確実だけど……。

 あしたNPBが開幕する。一応、ベイスターズを応援するが、注目選手はロッテの佐々木朗希だ。ダルビッシュ級の声が本当なのか確かめたい。
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「テレビで会えない芸人」~松元ヒロの不戦の思いに熱くなる

2022-03-19 20:30:46 | 映画、ドラマ
 16日深夜の揺れで、〝地震大国日本〟を再認識させられた。前稿のタイトルは<想像力の糸で、ウクライナとフクシマが繋がった>だが、紡いだのは原発である。ロシア軍の侵攻で、原発が非常時にターゲットになることが明らかになった。

 ウクライナのゼレンスキー大統領は、ロシアの天然ガス・パイプラインに固執するドイツを批判しているが、再生可能エネルギーにシフトするドイツは苦渋の選択を迫られている。一方で、原発推進を打ち出したフランスでは、関連企業が数千人の若手研究者を雇用する。フランスはオイルショックで原発に舵を切った。あれから半世紀、エネルギー問題が時代を説くキーワードになっている。

 14日、「ピーチスワン落語会~ホワイトデーNight~」(かめありリリオホール)に足を運んだ。三遊亭白鳥と桃月庵白酒の恒例の二人会で、両者の和やかなオープニングトークにもこれまでの蓄積が窺えた。白鳥「おばさん自衛官」→白酒「幾代餅」→仲入り→白酒「代書屋」→白鳥「メルヘンもう半分」の順で会は進行する。心の隙間をしっとり埋めてくれた。

 白鳥も白酒もテレビに出ない噺家だが、「テレビで会えない芸人」(2021年、四元良隆/牧祐樹共同監督)をポレポレ東中野で見た。鹿児島テレビが同県出身の松元ヒロを追ったドキュメンタリーである。ワンマンライブは見たことがないが、これまで接した松元について簡単に記したい。

 最初は第18回オルタナミーティング「神田香織 松元ヒロ 平成世直し二人会」(座・高円寺2)で、松元は「憲法くん」を演じた。2回目はポレポレ東中野で、鈴木邦男(一水会元最高顧問)の実像に迫った「愛国者に気をつけろ!」上映記念トークで、旧知の仲である鈴木と松元との掛け合いで、満員の会場は和やかな空気に包まれた。

 3回目は北とぴあで開催された護憲イベント(商社九条の会主催)で、前稿に登場した杉原浩司氏による講演「武器ビジネスが憲法を壊す」と「松元ヒロ爆笑ライブ」の2部構成だった。<武器爆買いなど何でもトランプの言いなりなのに、なぜ憲法だけ〝押し付け〟と言い張るのか>と訴えた。

 「テレビで――」の冒頭、松元は渋谷駅近くで困っていた盲目の女性を新宿までエスコートした。自然体の柔らかな言動に、らしさが滲んでいる。テレビに出ないから、周りも気付かない。俺より4歳上の〝普通の人〟に親近感を覚えてしまった。

 作品中に明かされた来し方には意外なほど華がある。高3時に高校駅伝で区間賞を取って法大に進むも、陸上は諦めてお笑いの道に入る。コミックバンド「笑パーティー」でダウンタウンらを退けて「お笑いスター誕生」で優勝し、その後された「ザ・ニュースペーパー」は一世を風靡した。政界批判が売りだが、忖度が求められるようになると、松元は同郷のすわ親治とともに脱退した。本作にはすわと旧交を温めるシーンがある。

 ソロで活動するようになった松元に目をかけたのが立川談志と永六輔だった。談志は<テレビに出ているやつらは局にクビにならないよう怯えている。おまえは本当の芸人>と松元を認めていた。永には「九条をよろしく」と託され、松元は「憲法くん」を全国で演じている。

 松元の芸はスタンドアップコメディーに分類されている。社会を風刺するコメディアンを指すケースが多く、ダスティン・ホフマンが演じたレニー・ブルースもそのひとりだ。松元の基礎はパントマイムで、チャプリンにインスパイアされたポーズを取って次々に毒を吐く。

 我が道を往く芸人といえば、気難しくプライドが妙に高くて扱いづらい……。そんなイメージが浮かびそうだが、松元は違う。上記したすわ、談志や永、高校時代の恩師や自身を世に出してくれた事務所社長に対し、松元は感謝を忘れない。パントマイマー時代に知り合った妻、高校教師の息子が松元の心の支えになっている。松元は当たり前の日常から飛翔した。

 ロシアのウクライナ侵攻で、軍需産業は好機を迎えている。ドイツとフランスは軍事費アップを発表し、安倍元首相は<核シェアリング>に言及した。こんな時機だからこそ、松元の「憲法くん」が必要だ。本作にも収録されていたが、松元は憲法前文を語る。たとえ現実は酷くとも、不戦という高邁な理想を掲げることの重要さを説くのだ。

 本作観賞後、松元の思いに感銘を覚えた。松元は年に120回、舞台に立つという。機会があればワンマンライブに足を運びたい。俺はテレビに依存する高齢者だが、今やネットをメインに活躍し、ビッグマネーを得ている芸人が多い。テレビ離れが若い世代の風潮だが、俺にはついていけそうもない。
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想像力の糸で、ウクライナとフクシマが繋がった

2022-03-15 21:49:26 | 社会、政治
 東日本大震災と原発事故から11年、3月11日に行われた<ロシアのウクライナ侵略糾弾!即時撤退!を求める新宿大アクション>(新宿中央公園、戦争させない・9条壊すな!総がかり行動実行委員会)に参加した。会場で知った顔を探していると、武器取引反対ネットワーク(NAJAT)代表の杉原浩司さんに肩を叩かれた。

 1200人が行進したデモのさなか、前日(10日)にNAJATが呼び掛け、ロシア大使館前で行われたダイ・インについて杉原さんに尋ねた。無事に終了したと聞き安堵する。ロシアのウクライナ侵攻の陰でミャンマーについて報道される機会が減ったが、NAJATは同国国軍の資金源を断とうとしない日本政府への抗議活動を続けている。

 プーチンが侵攻を決行した理由はわからないが、考えるヒントを近くの中華料理店で見つけた。若者2人が近くのテーブルで食事をしていた。片方の青年――仮にAとしよう――は、ウクライナ情勢を伝えるテレビを見ながら、連れのBと次のような会話をしていた。

A「みんなプーチンをボロクソ言うけど、そんな資格あるのかな」
B「どういう意味?」
A「プーチンもどき、周りにいっぱいいる」
B「確かに、自分に従わせようとするやつは多い」
A「ロシア軍が反抗すれば変わるのに。でも無理だろう」

 ニコライ2世に背き、兵士が労働者の側についたことがロシア革命の発端だった。ロシア国内でも反戦デモが起きているが、軍が良心に基づいて国民に味方するとは思えない。

 俺は政治の場で語られる紋切り型の言葉に忌避感を覚える。だが、不毛なフレーズに花実を咲かせるのが想像力だ。その意味に初めて気付いたのは発売禁止になった白竜の「光州CITY」に収録された一曲だ。東京で街を歩く若者に<君は笑いながら、誰を殺しているのか>と、光州の弾圧と無意味ではないことを訴えた曲だった。

 「チェルノブイリの祈り」でノーベル文学賞を授与されたベトラーナ・アレクシエービッチは、父がベラルーシ人で母がウクライナ人だ。パレスチナ弾圧を世界に発信するアミラ・ハス記者もアレクシエービッチ同様、来日した際、沖縄、フクシマ、広島を訪ねている。両者の共通点は想像力で飛翔し、俯瞰の目で世界を眺めていることだ。

 沖縄、フクシマ、広島、そしてガザ、イエメンは同一の視座で繋がっている。そして、ウクライナも……。3・11から11年、フクシマとウクライナを結ぶ糸が見つかった。それが核であり原発であることは、動向を注視している方はご承知だろう。フランスは原発増設を表明したが、日本のような地震国は言うまでもなく、原発が紛争の際、〝人質〟になることが明らかになった。ドイツが国防費をGDPの2%以上に引き上げたように、軍需産業は勢いづいている。

 上記したA、B両君の会話ではないが、ウクライナに思いを馳せる時、軸足はこの国に置くべきだ。自分たちは周囲の不合理、不条理、不平等を看過していないだろうか。忖度し、同調圧力に負けて見逃しているのなら、世界を語ることは出来ない。偉そうなことを言っても俺自身、コロナ禍のさなか、押し黙っていた。今回のデモは久しぶりの意思表示だった。

 この国で何が起きているのかさえ、俺は理解していない。だから、韓国大統領選の結果も他人事のように思える。若者の熱狂によって5年前、大統領選で勝利した文氏だが、後継者候補が次々に失脚し、保守派が勝利した。ニュース映像を見る限り、そこそこ盛り上がっていたように思えたが、日本と同じ病根を抱えているようだ。

 両国とも出生率は極めて低く、格差はますます広がっている。見かけは韓国の若者の方が元気だが、真情は近いはずだ。日本では嫌韓、韓国では反日が広がっているが、ともに民主主義への道は遠いのではないか。
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「ルーフトップ・コンサート」でビートルズと再会

2022-03-11 20:21:54 | 映画、ドラマ
 ロシアのウクライナ侵攻、韓国大統領選、そしてきょうは東日本大震災と原発事故から11年……。これらについては次稿に記すことにする。

 年金生活で暇になったので、BSやスカパーでドラマや映画を何とはなく見ている。最近発見したのは「取調室」だ。いかりや長介主演で1994年から2003年、19回にわたって放送された。平成年間だが、〝昭和の匂い〟が色濃い。アナログ人間の俺にはピッタリだ。

 藤井聡太竜王(5冠)がB級1組で佐々木勇気七段を下し、A級に昇級した。10勝2敗でトップ通過だが、厳しい戦いが続き、逆転勝ちも目立った。さすがに〝鬼の棲み家〟というべきか。最終戦も佐々木の作戦が奏功し、AIの評価値は拮抗していたが、優位を築くと鮮やかに寄せ切った。49勝3敗で到達したA級でも、挑戦者争いでリードすることは確実だ。柔らかな言動と、鋭い指し手のアンビバレンツが謎めいている。

 前稿で紹介した「ロスバンド」の余韻に浸っていると、「ザ・ビートルズ GET BACK:ルーフトップ・コンサート」(2021年、ピーター・ジャクソン監督)を見たくなった。ジョン・レノン、ポール・マッカートニー、ジョージ・ハリソン、リンゴ・スターの4人が天空に飛翔した軌跡に思いを馳せた。

 ラジオで「シー・ラヴズ・ユー」を聞いたのは7歳の頃。魔法のような旋律に憑かれたが、〝同好の士〟が小学校にいるはずもない。再び洋楽の門を叩いたのは高学年時に放映された「ザ・モンキーズ」で、番組で流れるヒット曲を口ずさんでいた。

 当時はグループサウンズ全盛期で、価値基準を持たない俺は、ビートルズ、モンキーズ、タイガースは似たようなレベルと考えていた。中学に入って本格的にロックに関心を持つようになるや、ビートルズが比類なき存在であることを知る。2年生の秋、公開直後に見た映画「レット・イット・ビー」には、「ルーフトップ・コンサート」の映像の一部が収録されていた。

 「ロスバンド」ではメンバーが会場に向かう途中、資金稼ぎにカラオケ大会に参加した。そこでマッティンの秘められた才能が明らかになるのだが、それはともかくカラオケは<世界の文化>だ。200を超えるビートルズの曲で100曲以上歌えるなんて方は億近くいるだろう。映画「イエスタデイ」がヒットするのも当然だ。

 「ルーフトップ・コンサート」は1969年、セッション中のビートルズが自社ビル屋上で敢行したゲリラライブを収録したものだ。映画公開当時、音楽メディアではジョンとポールの不仲が取り沙汰されていた。制作現場でもジョンと寄り添うヨーコに、ポールが不快感を抱いていた。確かにスタジオではポールがイニシアティブを握っていた。

 だが、ルーフトップでは様子が異なる。真ん中に立つのはジョンで、向かって左のポールは演奏のさなか、ジョンを目で追う。誰がリーダーなのか、暗黙の了解があったのだろう。「ゲット・バック」(テーク1~3)、「ドント・レット・ミー・ダウン」(テーク1、2)、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」(同)と撮影は進み、他の2曲を含め42分で終了する。警官2人が出動し、アンプの電源を切らざるを得ない状況に追い詰められたが、再度つなげて演奏は続行された。ポールが即興で歌詞を変え、ジョンは機転を利かせた挨拶でライブを締めくくった。

 階下には人が続々集まってきたが、中高年男性の多くはビートルズに好意的だった。まさに〝音楽の力〟で、かのフランク・シナトラが「サムシング」を〝史上最高のラブソング〟と絶賛したことを思い出す。印象的だったのはライブ直後の控室で、20代の4人の青年と奥さんが談笑していた。

 ソロ作品で相手を攻撃するなどジョンとポールの亀裂は隠しようもなかったが、先日オンエアされた「アナザーストーリーズ」(NHK)でのジョンの友人(カメラマン)の証言に心が和んだ。ニューヨーク在住時のジョン宅をクリスマスの日、ポール&リンダ夫妻が訪ねたという。ジョンが亡くなる前、2人は和解していたのだろうか。

 「ロスバンド」では引退したドラマーが、商業主義に堕したロック界の現実を斬っていた。レーベル、興行界、メディアが一体となり、バンドはインターバルをあけてCDを発表し、ツアーに出るのが業界の常態だが、ビートルズをはじめ、当時のバンドは創作意欲に忠実で、毎年のように新作を発表していた。60~70年代はロックファンにとって天国だったに違いない。
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「ロスバンド」~青春ロックムービーに心が潤んだ

2022-03-07 20:55:52 | 映画、ドラマ
 チェルノブイリ原発に続き、欧州最大規模のサポリージャ原発がロシア軍に制圧される。脱原発派の懸念が現実になった。フランスが推進の姿勢を明確にするなど原発の在り方が問われている今、安倍元首相の<核共有発言>が波紋を広げている。プーチンの狂気を〝盟友〟安倍氏も共有しているのだろうか。

 西村京太郎氏が亡くなった。「鉄道捜査官」シリーズ(沢口靖子主演)、「探偵左文字進」シリーズ(水谷豊主演)などドラマ化された作品は多いが、白眉というべきは「十津川警部」シリーズだ。テレビ朝日で十津川を演じた高橋英樹、TBSで亀井刑事を演じた伊東四朗が追悼の言葉を送っている。愛された作家の死を悼みたい。

 原作を一冊も読んでいない俺だが、TBS版は全作、今も再放送をチェックし、渡瀬恒彦(十津川警部役)と伊東の絶妙な〝間〟を堪能している。シリーズ初期、十津川は登場する女性との恋に惑うこともあった。記憶に残っているのは第3作「上野駅殺人事件」で、島田陽子演じるソープ嬢とのキスシーンが鮮烈だった。

 前稿のタイトルは<年金生活3日目~募る寂寥感に苛まれる>だった。そんなダウナーな気分を晴らしてくれる映画を新宿シネマカリテで見た。ノルウェーを舞台にした「ロスバンド」(2018年、クリスティアン・ロー監督)で、ロックをテーマに、同国の美しい自然が印象的な青春ロードムービーだー。困ったというべきか文部科学省選定で、お上推奨の映画に感動したことになる。

 ロックに関心を持って半世紀以上、様々なバンドの成り立ちを見てきた。スポーツでいう〝地区選手権〟のように選抜された若者が集うのが一般的だが、ルースターズのように波瀾万丈のドラマを辿ることもある。前身バンドでカリスマだったボーカリストが急逝した後、エディ・ヴェダーが加入し、頂点に上り詰めたパール・ジャムのように、メンバーの死や脱退が上昇のきっかけになることも多い。

 「ロスバンド」は揺籃期のバンドを描いている。10代半ばで同級生のグリム(ターグ・ホグネス)とアクセル(ヤコブ・ティールード)には、北の果ての町トロムソで開催される「ノルウェー・ロック大会」に出場するという夢があった。バンド名はロスバンド・イモータルで、メタル系バンドに憧れる2人組だ。

 グリムはドラマー、アクセルはギターとボーカルを担当している。グリムがソフトを用いてアクセルのボーカルを修整し、動画を主催者に送ったところ、本戦参加を認められる。だが、アクセルは自身が音痴であることに気付いていない。さらに、最低限のピースというべきベーシストがいない。オーディションに現れたのが9歳の少女ティルダ(ティリル・マリエ・ホイスタ・バルケル)だった。個性的なキャラと独創的なチェロの演奏に、バンド加入は即決した。

 3人はそれぞれ悩みを抱えていた。グリムは両親の不和、アクセルは片思い、そしてティルダは家庭と学校での孤立……。まあ、ありふれた設定だ。3人を乗せてトロムソに向かう車の運転役を買って出たのが、グリムたちより少し年上のマッティン(ヨナス・ホフ・オフテブロー)だ。マッティンが抱える父との確執、そして秘められた才能が道中で明らかになっていく。

 ユーモアに溢れ、ツッコミどころ満載だが予定調和的なハッピーエンドも想定内だった。グリムの憧れの対象で、引退したドラマーの言葉が商業主義に堕したロック界の現実を穿っていた。今も世界中で、成功を夢見る若者たちがもがき、あがきながら音楽に向き合っている。現役ロックファンを引退した俺に、彼らの声が届くことはないだろう。
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年金生活3日目~募る寂寥感に苛まれる

2022-03-03 19:12:13 | 独り言
 仕事から離れて3日目、気分はいまひとつだ。勤めていた会社を2004年末に自主退職した時、管理職というそぐわぬ仕事で心を壊される……、そんな危機感を覚えていたから、解放感に浸れた。だが、今回は異なる。寂しさが募っているのだ。コロナ禍で他者と接する機会が減る中、俺にとって職場は、といっても非正規(業務委託)だが、思っていた以上に比重が増していたのかもしれない。

 ジョージ・オーウェルがデストピアに冠した1984年、俺は会社員になった。大卒後3年間、当時流布していなかったひきこもり、ニートとして潜伏中だった。偽悪的に記している<俺は無資格、無能の無芸大食>は完璧な真実だ。消費者金融(サラ金)に手を出したことが両親にばれ、実家に強制送還される寸前、就職先を見つける。偶然入った蕎麦屋で手にしたスポーツ紙に、求人広告が掲載されていた。その日のうちに応募する。

 俺が唯一、偏差値50(つまり標準)をクリア出来る仕事は新聞の校閲だ。物事をきちんと整理出来ないし、不器用極まりなく礼儀や清潔と無縁な俺を我慢して使ってくれた前の会社には感謝しているが、それでも鬱積してしまい、退社して3年ひきこもった。偶然が重なって夕刊紙で仕事をすることになる。

 とっくに東京砂漠で干からびているか、実家に蟄居しているはずが、何とか65歳すぎまで働けたのは悪運と周囲の忍耐のおかげだ。しかも俺は昨夏、脳梗塞で入院しており、健康に不安がある。軽い仕事を探すつもりだが、自分が雇用主なら、俺を採用することは絶対ない。

 俺が従事してきた校閲という仕事はこの40年、大きく様変わりしている。1980年代当初、植字、文選のコンビで職人が原稿を形にしていた。俺が仕事を始めた時は写植(写真植字)にシステムが進化しており、文字の位置を把握したパンチャーが原稿をゲラに仕上げる。陛下の<陛>の横に<陸>があり、パンチャーが間違えると<天皇陸下>になるから大騒動になる。まず原稿通りパンチアウトされているかが肝心で、校閲より校正が第一だった。

 そのうち記者がパソコンで入力した記事がそのままパソコン画面に反映するようになる。原稿が不要になったので校正作業はなくなり、用字用語と事実関係にポイントが移る。<正しい日本語>に拘泥する校閲者は減り、ネット検索で事実をチェックすることが重要になる。システムの変化により、求められる内容は変わったが、そもそも校閲という仕事が絶滅危惧種になっている。校閲部がなくなった地方紙もある。

 校閲といっても、時代や職場によって<文化>は異なる。俺が仕事を始めた時、空気はまさに鉄火場だった。部を仕切っていたAさんは、自分の面かわいさに担当面のみチェックしていると、「てめえの面ばっかり見てるんじゃない」と怒声が飛ぶ。他の職種と同じく、<校閲=共同作業>が俺の心にインプットされた。システムは変わっても、校閲作業に一番重要なのはチームスピリットだと今も確信している。

 おっかないAさんだが、失敗には寛容だった。どれだけ真剣に取り組んでいてもミスは出る。複数の目が通っていても同様だ。Aさんは<人は失敗するもの>という諦念というか人生観に、仕事を通じて到達していたと思う。俺などAさんほど仕事に情熱もなく、知識も欠けているが、校閲という仕事、それに失敗だらけの人生で<謙虚さ>を身につけることが出来た。

 さあ、これからどうしよう。何か別の仕事といっても、俺にはハードルが高そうだ。年金だけでは厳しいので負担にならない仕事を見つけたい。これからも悪運と周りの情けによって生きていくのかな……。
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