酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「天国でまた会おう」~神話へと飛翔した宿命の物語

2018-08-29 21:29:19 | 読書
 3年前の戦争法反対集会で、識者のアピールに違和感を覚えていた。「子供たちを戦場に送るな」と主張しつつ、沖縄が一貫して戦場である事実を捨象していたからである。今世紀になって戦争の質は変わり、武器とセキュリティーが不即不離の関係になった。東京五輪を控えた日本政府は、両分野で最先端の技術を誇るイスラエルに接近している。

 今日から2日間、川崎市で開催中の「イスラエル軍事見本市」に対し、<非人道的な戦争犯罪で得たノウハウ導入は許さない>と市民グループが抗議活動を展開している。呼び掛け人は知人でもある杉原浩司さん(武器輸出反対ネットワーク代表)で、NHKの夕方のニュース(関東版)でも、パレスチナ弾圧の映像とともにインタビューされていた。

 川崎市は頑なだが、ソフトバンク本体は出展を取りやめた。BDS(イスラエルボイコット運動)が欧州で広がり、映画界、音楽界にも浸透している。商機に敏い孫正義氏は世界を俯瞰し開催直前、メインスポンサーから下りたのだろう。市民の抗議と憲法の効力が褪せていないことを実感した。

 ゲーム感覚の戦争が当たり前になりつつあるが、100年前は敵の息遣いが聞こえてくる白兵戦だった。第1次大戦の独仏戦線から始まる「天国でまた会おう」上下巻(2013年、ピエール・ルメートル著/ハヤカワ文庫)を読了した。ルメートルの作品は「その女アレックス」を別稿(16年10月30日)で紹介している。絶望と喪失に喘ぐ〝シリアルキラー〟アレックスに感情移入した俺は、愛に似た思いを彼女に寄せていた。

 ルメートルは「天国でまた会おう」でゴングール賞を受賞した。ミステリーから純文学への移行(一時的かもしれないが)は高村薫を彷彿させる。濃密な筆致(翻訳者・平岡敦氏の貢献大)、優れた人物造形に感嘆させられる。本作では、アレックスが体験した生き地獄に2人のフランス兵、アルベール・マイヤールとエドゥアールが放り込まれた。

 小心なアルベールは銀行の経理係、奔放なエドゥアールはアーティスト……。対照的な2人だが、前者は支配者然と振る舞う母を嫌い、後者は父との相克を抱えていた。家族の軛からの解放の場でもあった戦地で、悪魔の化身というべきプラデル中尉が立ちはだかった。心に傷を負ったアルベールは復員後、顎を失い、戸籍の上で死者になったエドゥアールを庇護する。生き埋めから救われた恩を、パリで返すことになったのだ。

 アルベールとエドゥアール、プラデル、エドゥアールの父で実業家のマルセル・ベリクール、プラデルと結婚したエドゥアールの姉マドレーヌが形成する五角形が、ゴツゴツ回転しながらストーリーは進行する。主人公のアルベールは〝受容体〟で、他の4人が放つ刺激に反応しながら流されていく。

 戦場での傷痕に加え、戦後処理が本作の軸になっていた。薬物依存で底に沈んだエドゥアールだが、天賦の画才が甦り、趣向を凝らした仮面を作り始める。アルベールとともに戦死した兵士の追悼事業(父がスポンサー)で詐欺を企んだ。ブラデルも遺体埋葬事業に関わり、犯罪に手を染める。読む側まで窒息しそうになるアルベールの生き埋めシーンが、後半への伏線になっていた。

 金儲けと上昇志向に憑かれたプラデルの悪魔性は次第にペラペラになっていく。危機に瀕したプラデルの前に、公務員でジプシー風のいでたちのメルランが現れる。永田町の官僚たちと真逆に、金や出世より正義を重んじるメルランは、プラデルの目に融通が利かない〝真の悪魔〟と映ったことだろう。

 エドゥアールとマルセルの父子関係に重心が移っていく。ゲイを思わせる息子の振る舞い、教会や世間を冒瀆する絵の数々を忌み嫌ったマルセルだが、戦死の報(偽装)が届いた後、息子の記憶が鮮明に膨らんでいく。別人名義でエドゥアールが作製したデザインを目にしたマルセルの心にケミストリーが生じ、息子への思いは一層強まっていた。

 宿命に彩られたラストは衝撃的だった。本作は心に突き刺さる矢であり、物語から神話の領域に飛翔している。ルメートルは法を超えた正義を志向し、読者と共犯関係を結ぶ希有な作家といえる。読後にカタルシスを味わえるのもいい。機会があれば、他の作品を読んでみたい。

 ルメートルは来日した際、作品を覆う空気が近い中村文則と対談している。中村はアメリカで最も人気のある日本人作家で、ミステリーにカテゴライズされている。俺は純文学とミステリーのジャンルにこだわり過ぎているのかもしれない。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」だって、ミステリーの要素はたっぷりなのだから……。


コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」~<普遍性>に根差した超絶エンターテインメント

2018-08-25 19:59:13 | 映画、ドラマ
 「デモクラシーNOW!」など米独立系メディアは、トランプ政権下で横行する異常事態を報じられている。長くアメリカで暮らしている男性が、臨月の妻を病院に送る途中、移民局に拘束された。人種差別と闘ったり、移民勾留施設で抗議の声を上げたりした者が逮捕れるケースが後を絶たない。軌を一にして刑務所のストライキも広がっている。

 <普遍性>が失われつつあるアメリカ発の「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」(18年、クリストファー・マッカリー監督)を新宿で見た。前作「ローグ・ネイション」(15年)に匹敵する秀逸なエンターテインメントだった。興趣を削がぬよう、背景を中心に記したい。

 ベースになる「スパイ大作戦」は再放送(CS)で全エピソードを見ている。制作当時(1966~73年)、泥沼化したベトナム戦争で虐殺を繰り返すアメリカは、世界で絶対的なヒールだった。エピソードを重ねるにつれ、番組の質が変化する。正義を掲げる反政府ゲリラのボスはゲバラ風の容貌だがその実、私利私欲にまみれた悪党……。そんなストーリーも再三あった。「スパイ大作戦」は<アメリカ=正義の国>の偽りを喧伝するための国策ドラマに堕したのだ。

 半世紀を経て、アメリカのテレビドラマは質的に向上した。スピンオフを含め「CSIː科学捜査班」は中東でも支持された。アメリカの病理や闇を抉るだけでなく、家族や組織の在り方を問い掛けるからである。社会の仕組みに左右されない<普遍性>が共感を呼んだ。

 「ミッション:インポッシブル/フォールアウト」もまた、<普遍性>に配慮している。敵役ソロモン・レーン(ショーン・ハリス)に国家(≒アメリカ)のテロと抵抗する側のテロを対置する台詞を語らせている。トランプも少しはハリウッドに学んだ方がいい。

 シリーズ2以降の「スパイ大作戦」で、ピーター・グレイブス演じるフェルプスがIMF(Impossible Mission Force)の〝頭脳〟だった。「ミッション:インポッシブル」シリーズでは、イーサン・ハント(トム・クルーズ)が〝肉体〟をも兼ねている。50代半ばのトムのフィジカルに圧倒されるばかりだ。

 本作で「スパイ大作戦」のエキスの数々に気付いた。最先端技術に精通しているルーサー(ヴィング・レイムス)にはバーニー、変装の名人ベンジー(サイモン・ペッグ)にはローランにパリスと、それぞれ元キャラをなぞっている。自白に導いた病室のシーンは、「スパイ大作戦」で繰り返し用いられたスタジオトリックである。〝行き当たりばったり〟の展開で、ハントは「何とかなる」といった台詞を繰り返す。この半世紀、テクノロジーは格段に進歩したが、本作には人間力に支えられたアナログ的ムードが漂っていた。

 とはいえ、「ミッション:インポッシブル」シリーズは決定的なハンディを背負っている。絶望的な状況に追い込まれても、最後にチームが笑うという結果は決まっているから、過程が試されるのだ。CIA捜査官ウォーカー(ヘンリー・カヴィル)、スローンCIA長官(アンジェラ・バセット)など一筋縄ではいかないキャラが登場し、MI6の影もちらつく。カッカリー監督が「ユージュアル・サスペクツ」の脚本家というのも頷けた。

 ハントと女性たちとの関わりが本作の肝になっている。前作「ローグ・ネイション」にも登場したイルサ(レベッカ・ファーガソン)、身柄を保護されている元妻ジュリア(ミシェル・モナハン)、慈善事業家と武器商人の顔を併せ持つウィドウ(ヴァネッサ・カービー)が作品に彩りを添えていた。

 井筒高雄氏とレイチェル・クラークさんのトークイベントを紹介した別稿(6月23日)、<日本国内に蓄積されたプルトニウムは世界3位で、日本は実質的な核保有国。戦争が起きたら原発は攻撃対象になる>と記した。本作のテーマ、プルトニウムの売買は、日本にとって決して他人事ではないのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

酷暑の愛聴盤~K・ラマー、D・バーン、ダーティー・プロジェクターズ&ジョニー・マー

2018-08-22 17:19:48 | 音楽
 高校野球が終わった。金足農の快進撃は見事の一語で、同校の文学的な校歌が印象に残る。「愛」が3回続き、「やがて来む 文化の黎明」とくる。作詞者の近藤忠義(法大名誉教授、国文学)と金足農がどう繋がっているのか調べているうち、ある答えに行き着いた。

 近藤は敗戦直前、治安維持法違反で逮捕されている。左翼学生だった近藤は、阿仁前田小作争議(北秋田郡)に関わっていても不思議はなく、当地は金足村(当時)と近い。当時の社会主義者はユートピア志向が強かった。言論弾圧下、近藤は「文化の黎明」に変革の夢を託した……というのが、俺の妄想だ。

 アレサ・フランクリンが亡くなった。偉大なソウルシンガーの死を悼みたい。<公民権運動とフェミニズム運動の女神>と評されるアレサは黒人解放運動家アンジェラ・デービスが不当逮捕された時(1970年)、保釈金を払った。アンジェラは「デモクラシーNOW!」で、「彼女は集団的変革への願望を永遠に鼓吹するだろう」と語っている。

 真摯に社会と向き合うロッカーが減っているが、ヒップホップにカテゴライズされるミュージシャンがカバーしている。まさに、アレサの遺志を継ぐ者たちだ。酷暑の時季、4枚のアルバムが読書の供になった。ケンドリック・ラマーの「DAMN.」をメインに記したい。

 ヒップホップやラップは門外漢だが、ピュリツァー賞受賞につられて買ってみた。ラマーの出身地は、N.W.Aが産声を上げたヒップホップの聖地、カリフォルニア州コンプトン出身だ。イージーEの死までN.W.Aの7年間を追った映画「ストレイト・アウタ・コンプトン」(15年)の謳い文句は「言葉で世界をぶっ壊す」だった。〝ぶっ壊される〟覚悟で聴いてみたら、サウンドは意外なほどマイルドだった。

 言葉で世界と対峙したN.W.Aの精神を引き継ぐだけでなく、歌詞には豊饒で詩的なイメージが迸っていた。警察の暴力に抗議し、トランプを支える保守派メディア(FOX)を嘲笑するだけでなく、聖書や原罪に言及する。故郷コンプトンも出てくるが、ラマーの父はギャング団(ブラッズ)の一員だった。黒人が置かれているシビアな状況を示しつつ、自身の立ち位置を明確に<忠誠>を繰り返す。

 「ストレイト――」で「反ユダヤ的ではないか」と指摘されたメンバーは、「俺たち黒人はゲットー(欧州でのユダヤ人居住区)に暮らしている」と反駁していた。「DAMN.」にも、黒人、ヒスパニック、ネイティブアメリカン、そしてユダヤ人を同一の視座で捉える歌詞があった。

 デイヴィッド・バーンの「アメリカン・ユートピア」もトランプ大統領を生んだアメリカを見据えた作品だ。トーキング・ヘッズこそ最もクリエイティヴなバンドと考えているから、バーンが解散後、表舞台に出なかったことを訝っていたが、本作にヘッズ時代のメランコリックかつアンニュイなエッセンスが窺える。和みと癒やしを覚える名盤だった。

 ヘッズの流れを汲んで2000年代後半に開花したのがNYのインディーシーンで、ダーティー・プロジェクターズ(DP)も代表格のバンドだった。8年前、渋谷クアトロとフジロックで見たDPは、美男美女7人が曲ごとに編成を変え、素晴らしいボーカルハーモニーを披露する。オルタナティヴ、実験的、祝祭的なステージはまさに〝ロックの神降臨〟で、フレーミング・リップス級のバンドに成長すると確信した。

 ビョークとの共作アルバム「ビッテオルカ」発表後、活動停止状態になる。デイヴ・ロングストレスの失恋が理由というのもインディーズらしい。5年ぶりの前作はデイヴのソロプロジェクトだった。新作「ランプ・リット・プローズ」も佳作だが、マジカルなムードは感じない。幸いなことにバンド活動を再開したようで、燦めきを取り戻すことを期待している。

 マニックスの「レジスタンス・イズ・フュータイル」を脅かす今年のベストワン候補がジョニー・マーの「コール・ザ・コメット」だ。ニューウエーヴのエキスが詰まった傑作で、聴くたびに甘酸っぱくノスタルジックな気分になる。56歳直前のマーだが、心はまだ蒼いのか。

 マーはフジロックで、新作収録曲のみならずスミス時代の「ゼア・イズ・ア・ライト」や「ビッグマウス・ストライクス・アゲイン」を披露していた。モリッシーも同様で、スミス時代の曲がセットリストに含まれることが多い。米最大のコ―チェラフェス主催者は毎年、スミス再結成をモリッシーとマーに要請し、両者に断られるのがお約束になっている。30年前に壊れた〝恋〟の傷は癒えないようだ。

 年内発売予定のアルバムで心待ちにしているのはThe1975とミューズの新作だ。当ブログで感想を記すことになるだろう。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「介護士からプロ棋士へ」~今泉健司の七転び八起き人生

2018-08-18 23:37:29 | 読書
 ネットはあらゆる分野で変化をもたらした。麻雀でもネット対局で実績を残し、プロ入りするアマが増えた。朝倉康心(最高位戦)もそのひとりである。とはいえ、麻雀のメディア露出は限られている。この状況を打破するため、藤田晋氏(サイバーエージェント社長、14年度最強位)がMリーグを立ち上げた。

 7チームによるドラフト会議が先日、開かれた。厳しい環境下のプロ(2000人超)に希望を与えるためにも、実力に見合った選択がなされるべきだった。多井隆晴(RMU)を1位指名したサイバーエージェント、小林剛(麻将連合)に加え上記の朝倉をチョイスしたU-NEXT、村上淳(最高位戦)ら実力派を揃えた博報堂は〝麻雀愛〟を示していた。

 ゲームメーカー2社は仕方ないが、テレビ朝日と電通には失望した。強者(連盟)への忖度、実力より人気……。会社の規範そのままドラフトに臨んでいたように思える。ちなみに最近、麻雀番組で<対局→試合、雀士→選手>の言い換えが進んでいるのは、<麻雀のスポーツ化>を唱える藤田氏への忖度だろうか。

 麻雀のみならず、将棋をスポーツ感覚で楽しんでいる。別稿(7月17日)で記したが、サッカーW杯を含めて今年のベストバウトはNHK杯将棋トーナメント1回戦、藤井聡太七段対今泉健司四段戦である。藤井は史上最年少(14歳)、片や今泉は史上最年長(41歳)でプロ入りと経歴は好対照だ。

 サラブレッド同様、棋士は<才能の絶対値>がものをいう。対局中、呻吟し、髪を掻きむしる今泉に「オモロイ奴やどけ苦しいな」と独りごちていたが、驚異の粘りで逆転勝ちする。〝奇跡〟の背景を知るため、今泉の自叙伝「介護士からプロ棋士へ」(講談社)を読んだ。サブタイトル「大器じゃないけど、晩成しました」が本書の内容を言い表している。

 今泉は14歳で奨励会の門を叩く。三段リーグ入りを果たし、夢まであと一歩と迫ったが、年齢制限で退会を余儀なくされた。次点3回で、現在の規定ならプロ棋士になっていた。最初の師匠である小林健二九段は、「ちょっと目を離すと横着してしまう」と振り返っていた。「今泉のことをこれ以上、心配するのはきつい」、奨励会再挑戦時は、桐谷広人七段に預けた。

 三段リーグにおける2度の挫折について、本人は冷静に分析している。局面が好転した途端、自信過剰と油断が入れ替わり、敗着を指してしまうのだ。真摯に反省せず、気分転換だったはずのパチスロや麻雀にのめり込んでしまう。本書を読み進むうち、努力の人というイメージは誤りで、〝気まぐれの天才〟が実像に近いように思えてきた。

 今泉は2度目の奨励会在籍中(07年)、独自の戦法(2手目△3二飛)で升田幸三賞を受賞している。創造性溢れる新手を編み出した者に与えられる名誉で、プロ棋士以外が選ばれるケースは稀だ。この受賞は、今泉が天才であることの証明である。この戦法を広めたのは同世代の久保利明王将で、才能を認められ、キャラが愛されていることを示している。本作にも恋愛話や好きな音楽についてあけすけに記していた。

 2度目の退会後、今泉は介護士になる。幾つもの職を経験している今泉は、介護の現場を真の戦場と回想している。勉強時間は減ったのに、棋力はアップしていく。複数のアマタイトルを獲得し、出場権を得た棋戦でプロ棋士相手に高勝率を残して編入試験に挑む権利を得た。当時の参謀役は現王位の菅井竜也である。

 40歳近くになると瞬発力と閃きが陰って成績は降下する……。この常識を今泉は覆した。介護の現場で学んだことが大きかったという。生死に関わる状況で冷静さを保ち、痴呆症の入居者と積極的にコミュニケーションを取る。そして、支えてくれる周囲への感謝を忘れない。人間に幅を加えたことが、プロ入りに繋がった。

 才能に人徳が加わったことが〝奇跡〟の原動力になった。プロ入り後も毎年、好成績を挙げ、今期も9勝5敗だ(18日現在)。NHK杯の次戦、深浦康市九段(A級在籍)戦が楽しみだ。〝オモロイ奴〟を今後も応援していきたい。
コメント (2)
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「大誘拐」~<国家と個人>を問う一夏のメルヘン

2018-08-15 22:39:01 | 映画、ドラマ
 8月15日が敗戦の日であることは、安倍首相を見れば明らかだ。でも、<敗者は勝者にどう接するべきか>の答えは一つではない。1959年、広島の原爆資料館を訪ねたゲバラは、「日本人はなぜ、アメリカを許しているのか」と同行したジャーナリストを詰問した。〝魂を失うな〟がゲバラの真意だろう。
 
 あれから約60年、勝者に媚びる首相は高額武器を言い値で購入している。昨夜の「報道ステーション」は、イージス・アショア配備予定地の山口県阿武町における質疑応答を伝えていた。電磁波の数値公開を求める住民に、防衛省は「特定秘密に当たるので無理」と答えていた。もう一つの予定地、秋田の地方紙「魁新報」は社説で「ノー」を突き付けている。すべてのメディアが魂を失ったわけではない。

 本日正午、甲子園では1分間の黙祷が捧げられた。お盆の恒例行事で、今年は偶然にも〝現在も戦地〟沖縄代表の興南の試合中だった。<野球が出来る平和を噛みしめてほしい>というお約束のコメントに、俺は違和感を覚えている。高校野球が軍隊や戦争を連想させるからだ。坊主頭は異様だし、名門校におけるいじめや暴力の蔓延は軍隊そのものだ。

 涙と汗と友情に仮装されたドラマと対極に位置する野球映画を挙げれば「ダイナマイトどんどん」だ。今回は同作でメガホンを執った岡本喜八による「大誘拐 RAINBOW KIDS」(1991年)を紹介したい。日本映画専門チャンネルで録画して観賞し、二十数年後の日本を照射する反戦映画であることを再認識する。ご覧になっていない方はここで読むのをやめ、レンタルショップに走ってほしい。

 岡本は日本、いや、世界を代表する〝戦争映画監督〟だ。「日本のいちばん長い日」、「肉弾」、「激動の昭和史 沖縄決戦」に加え、日中戦線をテーマに多くの作品を撮った。「独立愚連隊」と「独立愚連隊西へ」が01年、NHKの放送予定から消えたことが記憶に残っている。慰安婦問題を扱った「問われる戦時性暴力」に安倍官房副長官(当時)らが介入した「NHK番組改変問題」のさなか、同局は慰安婦が多数登場する両作の放映を忖度して中止した。

 原作(天藤真著)は「20世紀傑作ミステリー」(文藝春秋)の国内1位に輝いている。興趣を削がぬよう本作の内容に触れたい。人生どん詰まりの健次(風間トオル)は、同じく前科持ちの正義(内田勝康)、平太(西川弘史)とともに誘拐を企てた。狙うは和歌山の山林王当主、柳川とし子刀自(北林谷栄)である。誘拐は成功するが、82歳の刀自は3人が太刀打ち出来る相手ではない。ユーモアがあって肝が据わり、横文字と数字に強く、言葉に説得力がある。谷林の表現力が本作の肝だった。

 刀自に恩義を感じている井狩県警本部長(緒形拳)が捜査の指揮を執る。津川雅彦と親友だった緒形のみならず、神山繁、天本英世、常田富士男ら今は亡き名優が脇を固めていた。他にも樹木希林を筆頭に、嶋田久作、橋本功、竜雷太、本田博太郎、岸部一徳と超豪華なキャスティングである。

 当初の身代金は5000万円だったが、刀自自身が引き上げる。その額100億円……。上記のイージス・アショアほどではないが、F16戦闘機2機分と刀自は煙を巻く。劇場型犯罪が世界中の耳目を引きつつ展開する中、井狩の脳裏に黒幕の姿が像を結んでいく。

 刀自は所有する山林を眺めつつ、戦争で3人の子供の命を奪った国が、森まで取り上げようとしていることを慨嘆する。そして、「私の一生は、そないなもん(国)に奪われ続けるだけだったのか>と自問自答した。真相に気付いて訪ねてきた井狩に100億円のからくりを伝えた。

 岡本作品で俺の一押しは「近頃なぜかチャールストン」で、「国家とは、天皇制とは、戦争とは」を見る者に問うラディカルな作品だ。本作でも岡本の基本テーマ<国家と権力>が柔らかくそよいでいる。千載一遇の機会を得た刀自にとって、誘拐事件は一夏のメルヘンだったのだ。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

滑稽でシリアスな「スターリンの葬送狂騒曲」

2018-08-12 23:21:40 | 映画、ドラマ
 長崎平和祈念式典でグテーレス国連事務総長は、核兵器禁止条約に背を向けたトランプ政権への抗議を滲ませた。朝日新聞は<NYで言いづらいことを長崎で発信>と揶揄していたが、アメリカは今、国連にとって桎梏になっている。イスラエルによるパレスチナに対する戦争犯罪を多くの加盟国が告発しているが、アメリカの圧力で派遣団を送ることさえ難しい。

 <様々な貌を持つ空海を、1200年後の今に連れていきたい>と前稿を結んだが、空海をイメージさせる哲学者が世界中で注目を浴びている。来日した10日間を追った「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く」(NHK・BS1)は刺激的な内容だった。

 ともに複数の言語を操るバイリンガルで、自然科学など多岐にわたるジャンルに精通している。ガブリエルは「資本主義は全てを〝ショー〟にするシステムで、哲学を現代に甦らせるためには時代に合った表現が必要」と語っていた。空海同様、セルフプロデュースに長けているから、〝哲学界のロックスター〟と評されるのだろう。

 <世界は存在しない>というメインテーゼについて門外漢の俺が説明出来るはずもないが、ガブリエルの観察眼に感嘆した。秩序の下にある瞑想的な静けさ、クレージーな混沌が混ざり合い、<静寂が叫んでいるようだ>と日本を表現していた。最も記憶に残ったのは、現ドイツ憲法の礎になっている「人間の尊厳」と「倫理の土台」である。

 民主主義に価値を置くガブリエルは、ドイツ人ゆえヒトラーに言及していた。ヒトラーと並び称される独裁者の死と後継者を巡る政争を、史実に基づいて描いた英仏合作映画「スターリンの葬送狂騒曲」(17年、アーマン・イアヌッチ監督)を新宿武蔵野館で観賞した。興趣を削がぬためにも、背景を中心に記したい。

 スターリンはレーニンの死後、トロツキーとの後継者争いを制し、書記長の座に就いた。死後も延々と続く両者の闘いについては、後半に記す。スターリン(エイドリアン・マクフリン)が脳卒中で倒れた。予告編でブラックコメディーを予想していたが、シリアスさが次第に増していく。

 凡庸なマレンコフ(ジェフリー・ダンバー)を操り人形に仕立てようとするのが、大粛清の責任者であるベリヤ(サイモン・ラッセル・ビール)だ。両者に立ち向かうのがフルシチョフ(スティヴ・ブシェミ)である。ベリヤの力の根源である内部人民委員部(NKVD)は、ナチスドイツでいえばヒムラーが指揮する武装親衛隊に当たる。フルシチョフが利用したのは、プライドが高く、NKVDの重用に苛立ちを隠せない正規軍(赤軍)だった。

 かのソルジェニツィンでさえプーチンに肯定的だったほどで、〝皇帝幻想〟が定着していた旧ソ連において、ドイツを返り討ちにし、東欧圏を形成したスターリンは英雄だった。その点をどう捉えるかが、政争の結果に表れる。葬儀委員長という脇役に追いやられていたフルシチョフだが、形勢を逆転する。

 フルシチョフによるスターリン批判(1956年)は全世界に衝撃を与えた。日本でも共産党が新左翼を「トロツキスト」、新左翼が共産党を「スターリニスト」と罵り合う事態になった。前稿の枕で記したが、「日本の夜と霧」で津川雅彦が演じた全学連幹部は「トロキスト」である。

 スターリニストVSトロキストを分かつ感性的リトマス紙として最適なのはシャガールだ。トロツキーはアヴァンギャルドに好意的で、スターリンは写実的な自然主義を推奨する。非ソ連的と見做された芸術家には収容所が待っていた。自由を志向する者は誰でも、弾圧の対象になっていた。

 歴史を溯っても、スターリストが優位に立っていたことは否めない。スペイン市民戦争ではトロツキストやアナキストが義勇兵として共和国軍に加わったが、ソ連軍は見殺しにした。そのひとりであるジョージ・オーウェルは英国に帰った後、スターリン主義への批判を「カタロニア讃歌」、「動物農場」、「1984」に込めた。

 ガブリエルが抑圧的と表現した日本社会はある意味、スターリン主義的な社会だ。集団化、効率化が進行した社会には、幾重にも防壁が立ちはだかり、自由が失われている。トランプ、プーチン、習近平、金正恩らとタイプは異なる安倍首相は、システムと風土が生んだ独裁者というべきか。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「空海」~直感と直観で言語宇宙を築いた空前絶後の天才

2018-08-09 23:33:34 | 読書
 まずは二つの訃報から……。翁長沖縄県知事が亡くなった。翁長氏が本土に向けて発信し続けたのは以下の2点である。第一は、憲法9条のおかげで日本は戦争に加担しなかったという〝お題目〟が虚妄であること。第二は、沖縄は過去も現在も戦場であること。言葉の身体性を体現した政治家を惜しむと同時に、遺志を継ぐ者が知事選で勝利を収めることを願っている。

 津川雅彦さんが召された。伊丹十三作品や「相棒」での瀬戸内米蔵役が印象に残っているが、俺の脳裏に鮮烈に刻まれているのは大島渚の「太陽の墓場」と「日本の夜と霧」だ。前者では愚連隊のリーダー、後者では安保闘争における共産党の裏切りを告発する全学連幹部を、ギラギラしたオーラを放射しながら演じていた。兄(長門裕之)とともに日本映画を彩った名優の死を悼みたい。

 還暦を過ぎ、<日本とは、日本人とは何か>に思いを馳せるようになった。土に還る時が近づいたから? それとも、この国の現状に絶望しているから? 理由は自分でも定かではないが、考えるヒントとして高村薫著「空海」(15年、新潮社)を選んだ。

 「レディ・ジョーカー」(1997年)までの高村ワールドは、ページを繰る手が止まらないほどエキサイティングだった。2人のやさぐれ男が敦賀原発を襲撃し、世界を終末に導く「神の火」(91年)はとりわけ衝撃的だった。「晴子情歌」(2002年)以降の作品では、細密画の世界に迷い込んだような感覚に囚われるようになった。タッチが変わったきっかけは、阪神・淡路大震災とオウム真理教事件である。

 二項対立を克服した高村は、法を超越した善と悪、罪と罰を追求するようになる。<純文学を超えた天上の文学>と当ブログで絶賛した「太陽を曳く馬」(09年)について、高村は「私は仏教もオウム真理教も現代アートも、そして殺人に至る経緯を理解していない。だから、未消化の混沌をそのまま提示した」と語っていた。迷いと惑いの延長線上にあるのが「空海」だ。

 仏教に無知の俗物が記せるのは、幼稚な感想でしかない。矛盾しているようだが、本作が難解かと問われれば、さにあらず。挿入された約70点の写真が、空海の道程を辿る紀行文といったテイストを加え、ノスタルジックな気分を味わえる。日本人独特の死生観も写真に焼き付けられていた。

 空海とは何者か。簡単にいえば超人かつ天才で、ネットもSNSもなかった1200年前、その言動は凄まじい勢いで流布していく。空海の才能を象徴するのが、遣唐使として派遣された長安でのエピソードだ。高僧恵果は初めて会った瞬間、空海を一番弟子と認める。対概念である金剛頂経と大日経を伝授し、止揚することを託すのだ。ヘーゲルより1000年近く前、空海は弁証法を把握していた。

 唐に渡る前、空海は天啓を受けていた。「谷響を惜しまず、明星来影す」との表現を、高村は<自らが音になり、金星になっていたという直感を言語化したもの>と解釈する。オウムも当初、空海を念頭に置いていたとされるが、<直感の言語化>を諦めたことが堕落の始まりだったと高村は捉えている。

 空海は名文家、名筆家として名を馳せた。バイリンガルで、建築や医学にも精通し、官僚、教育者としても成功した。高村は<空海は二人いた――そうとでも考えなければ説明がつかない>と述べていたが、二人どころの話ではない。だが、肝になるのは修行者としての空海だ。長くなるが、本作から引用する。

 <空海が構築した密教は、顕教の各宗派をはじめ諸思想をすべて包含すると同時に、それらのすべてを超越する。多元にして一、非連続にして連続、普遍にして絶対の、神秘的直観と宗教的確信と独創性にあふれた世界だと言える>……。空前絶後の言語宇宙を支えていたのが、日々の修法を通した身体体験だった。空海の法会は、今風にいえば超絶のイリュージョンと受け止められていたはずだ。

 空海の足跡を辿って八十八カ所の霊場を巡拝するのがお遍路さんだ。空海は流浪をイメージさせ、全国津々浦々、無数の伝説と伝承に彩られている。高村が最初に訪れた浪江町の寺にも弘法大師像が立っていた。空海とは日本人の様々な信仰の形と不即不離で、アニミズム、浄土信仰、現世御利益とも結び着いている。

 高村は本書を<もしタイムマシンがあったなら、私は誰よりも生きた空海その人に会ってみたい>と結んでいた。俺は逆に、様々な貌を持つ空海を、1200年後の今に連れていきたい。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

井筒高雄&レイチェル・クラーク~リアルと想像力の彼方に

2018-08-06 23:51:04 | 社会、政治
 6日は広島、9日は長崎と慰霊の日が続き、15日は敗戦の日と、日本人はこの時期、戦争と平和に思いを馳せる。広島平和記念式典で安倍首相は、ノーベル平和賞を受賞した核廃絶キャンペーン(ICAN)に言及しなかった。

 先日(2日)、「リアルな戦場~平和への道のり」(高円寺グレイン)に足を運んだ。井筒高雄氏(元陸上自衛隊レンジャー隊員)とレイチェル・クラークさん(通訳者)によるトークイベントで、サブタイトルは<想像力を磨け>だ。想像力の源になる詳細なデータがスライドで提示された。

 新潟出身で米国人と結婚したレイチェルさんは、元軍人が平和を目指して結成したベテランズ・フォー・ピース(VFP)の終身会員だ。オリバー・ストーンやオノ・ヨーコも会員である。井筒氏は日本支部(VFPJ)代表を務めている。

 3カ月前に開催された井筒氏の講演会は、<改憲と自衛隊>がテーマだった。イスラエルによるパレスチナ人虐殺を例に挙げ、自民党憲法案に記された<緊急事態条項>と<国民の義務>について、「日本においても(反体制派に向け)同様の事態が起き得る」と警鐘を鳴らしていたが、今回は歪な日米関係を軸に語っていた。

 両者はとにかく冗舌で、〝言葉の身体性〟に満ちた刺激的な内容だった。認識を共有する手練れのジャムセッション風にトークは進行する。内容は多岐にわたったが、印象的だった部分を紹介したい。

 イージス・アショアは2基で2500億円(当初の1・7倍)の購入額が話題になっているが、日本がアメリカから武器を購入する際、3倍に跳ね上がる〝3倍ルール〟が常識になっている。報じられていないのは、環境と健康に及ぼす影響だ。

 イージス・アショアは強力な電磁波を全方位に放射するため、ルーマニアでは<10㌔規制>が制定されている。日本で配備される陸自新屋演習場(秋田)と同むつみ演習場(山口)の周辺には、学校など公共施設も多く、住民たちに深甚な健康被害が及ぶ可能性は大きい。しかも、購入の前提になっている北朝鮮の脅威のリアリティーは薄れている。

 安倍首相は昨年9月、国連で「北朝鮮との対話は必要ではない」と演説した。メディア、沖縄自治体関係者、NGOなどに依頼され国連で活動しているレイチェルさんは、安倍首相の真実をキャッチしていた。演説を聞いていたのは、北朝鮮外交官、スマホを触っている女性を含め3人だけ。首相と対照的に、ICANとともに核廃絶を訴えている日系人女性が演壇に立つ時は、満員の会場に拍手が涌き起こるという。

 両者は戦争に繋がる経済構造を明らかにする。アメリカの国防予算は77兆円に達するが、年金その他を扱う財務省、退役軍人省を含めればさらに巨額になる。<政府-国防総省-軍需産業-シンクタンク>の共同体が形成され、金だけでなく人間も環流する仕組みだ。負担する国民には事実が知らされず、ロッキードやグラマンなどの株は上昇の一途を辿る。

 レイチェルさんは後半、核問題に比重を移した。<被曝≒被爆>、<原発≒原爆>と規定し、核実験で被曝したマーシャル諸島の人々を取り上げる。福島原発事故の際、県のアドバイザーを務めた山下俊一氏は、国内で「放射能は大丈夫」と不気味な笑みを浮かべて話しながら、福島で得たデータをアメリカに渡しているという。福島の被曝者をモルモットにした悪魔に3・11直後、がん大賞を授与したのが朝日新聞だ。

 井筒氏は日米安保と地位協定の問題点を力説した上で、原発についても言及する。<地震大国日本に戦争は不可能で、原発54基が攻撃対象になる。食糧自給率が低いから、輸出入なしに経済は成立しない>と戦争できない理由を力説する。リアルに分析し、想像力を働かせれば必然的に到達する結論だが、〝本籍アメリカ〟の安倍首相には気付かないふりをする。

 ちなみに、国内に蓄積されたプルトニウムは世界3位で、日本は実質的な核保有国だ。政府が原発稼働にこだわる意図を疑ってしまう。安倍政権打倒と拳を振り上げても、首相自体が操り人形だったとしたら……。熱いトークに心が躍りながら、聳え立つ巨大な敵の存在に、無力感を覚えてしまった。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

「菊とギロチン」を支える自主自立と自由への夢

2018-08-03 12:07:53 | 映画、ドラマ
 今稿は死刑をキーワードに記す最終回だ。この1カ月、辺見庸のブログを日々チェックしている。

 麻原らオウム真理教幹部の刑執行当日(7月6日)、<ニッポンは、こころあたたかく、人情に厚い、サッカーの試合後みんなでゴミ拾いをするほど公徳心がたかく、なによりも死刑のだいすきな、言論表現の不自由を愛好する、異常国家なのである。明るくて、ひどく暗いクニだ、ニッポンは>と締めていた。

 <戦争法に反対する人が、なぜ死刑を肯定するのか>と当ブログで疑問を呈してきたが、辺見の論理は明快だ。ジョージ・オーウェルの「絞首刑」を引用しながら、<死刑こそが国家暴力の母型である。それは戦争というスペクタクルの、最小単位の顕示である>と死刑と戦争を同一の視座で捉えている。

 「私は死刑制度には反対ですとは、少なくともこの件(オウム関連)に関しては、簡単には公言できないでいる」と語った村上春樹に対して、辺見は失望を隠さない。「被害者感情と死刑を同一線上でかたるのは、よくありがちな錯誤」と述べ、「どうしても地金が出る」と村上の俗情との結託を揶揄する。

 テアトル新宿で「菊とギロチン」(2018年、瀬々敬久監督)を観賞した。関東大震災直後、女相撲一座「玉岩興行」と実在したアナキストグループ「ギロチン社」との交流を描く3時間超の作品だ。

 花菊(木竜麻生)は夫の暴力に耐えかね一座に加わる。玉岩興行は〝駆け込み寺〟で、朝鮮人虐殺を逃れた十勝川(韓英恵)も潜り込んでいた。彼女たちの置かれた状況を慮り、防波堤になる親方を渋川清彦が好演していた。「土俵は女人禁制」はまやかしで、1920年代には多くの女相撲興行が官憲の弾圧をすり抜け、人気を博していた。

 ギロチン社の中心メンバーは、個性が対照的な中濱鐵(東出昌大)と弟分の古田大次郎(寛一郎、佐藤浩市の息子)だ。詩人でもある中濱は激烈なアジテーターだが、行動が伴わない無頼派。古田は生真面目だが、政治活動でも恋愛でも、ここ一番でドジを踏む。

 労働運動社の和田久太郎(山中崇)や村木源次郎(井浦新)らと女相撲を見に中濱と古田は、女力士とアナキストはアウトサイダー同士と直感したのか、彼女たちにシンパシーを抱く。中濱と十勝川、古田と花菊の恋未満も物語の回転軸になっていた。

 <十代の頃、自主映画や当時登場したばかりの若い監督たちが、世界を新しく変えていくのだと思い、映画を志した。僕自身が「ギロチン社」的だった。数十年経ち、そうはならなかった現実を前にもう一度、「自主自立」「自由」という、お題目を立てて映画を作りたかった(後略)>……。構想30年、HPに掲載された瀬々監督の「口上」が本作の本質を言い当てている。

 「菊とギロチン」は危険な映画だ。そもそも<菊>とは皇室のことで、中濱らの暗殺対象には当時の摂政(昭和天皇)、朝鮮人暴動の偽情報を流した警察官僚の正力松太郞(後の読売新聞社主)も含まれていた。本作で正力は、古田によるテロを逃れている。「菊とギロチン」が報知映画賞、日本アカデミー賞(日本テレビ系で放映)で受賞することはあり得ない。

 朝鮮人虐殺の凄惨な光景を、十勝川だけでなく、手を下した在郷軍人会に語らせている。「天皇陛下万歳」を繰り返す殺戮者の姿は、当時の、そして遠くない未来の狂気を表している。現在の日本でも、格差と貧困が差別と排外主義に結び付き、不穏な空気を醸している。

 本作のハイライトは、女相撲一座が海辺で踊る祝祭的なシーンだ。やるせなさと自由への夢が、若い肉体に横溢していた。中濱は十勝川に、「自由で差別もない満州国をつくりたい」と壮大な夢を語る。だが、満州に未来を託したのはアナキストや左翼だけではない。大震災直後、大杉栄を殺したとされる甘粕大尉はやがて、満州国の実効的支配者になった。

 古田は25年、中濱は26年、死刑が執行される。村木は25年、予審中に病死し、和田は28年、獄中で自殺した。だが、彼らの思いは共有されていた。1927年から34年にかけ小作争議が激発し、労働者の決起は子供や女性をも触発する。自由への希求が100年後の日本でも爆発するかもしれない。俺は淡い夢を抱いている。

 本作の脇役陣には嘉門洋子、大西信満、嶋田久作、下元史朗ら実力派が名を連ねている。正力松太郎を演じていたのは監督の大森立嗣だ。彼らもまた、自主自立と自由を願う瀬々の夢を共有しているに違いない。
コメント
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする