酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「100分deパンデミック論」~生き方を変えるためのテキスト

2022-01-27 22:17:40 | カルチャー
 中3日が基本のブログ更新だが、今回は+2日と時間を要してしまった。昨年8月に脳梗塞で入院した俺は、イエローカード1枚持ちの状況。次は〝レッド=日常生活から退場〟と医者に警告されているし、〝もしや〟と勘繰られた方もいるかもしれない。

 実際は王将戦第2局、ドラマチックな試合が相次いだNFLディヴィジョナルプレーオフに気を取られ、ブログに手が回らなかった。テーマとして準備していた新春スペシャル「100分deパンデミック論」(1月3日、NHKBSプレミアム)の内容があまりに濃く、消化不良に陥っていたこともある。

 <パンデミック>をキーワードに名著を持ち寄った4人が、他の出演者の推薦本も熟読して集う。斎藤幸平(経済思想家)は「パンデミック」(スラヴォイ・ジジェク著)、小川公代(文学・医学史研究者)は「ダロウェイ夫人」(ヴァージニア・ウルフ著)、栗原康(アナキズム研究者)は「大杉栄評論集」、高橋源一郎(小説家)は「白の闇」(ジョゼ・サラマーゴ著)をピックアップしていた。

 伊集院光、安部みちこアナはレギュラー番組同様、的を射たコメントでスムーズな進行に寄与していた。加えてスペシャルでは〝陰の司会〟こと高橋の年の功が、和気藹々とした空気が醸し出す。感想を語り合ううち、4作がシンクロしていった。高橋は<著者はみんなアウトサイダーで、普通の人が見えないものをキャッチしていた>とまとめていた。斎藤と栗原は俺が注目している思想家で、小川と高橋が選んだ2作はブログで紹介している。至高の書評番組に、陶然とした気分を味わっていた。

 斎藤は「欲望の資本主義 新春スペシャル」でトーマス・セドラチェクと対談した。チェコ生まれで東欧革命を経験したセドラチェクは斎藤の<脱成長コミュニズム>に懐疑的だったが、コロナ禍を機に「パンデミック」を著したジジェクは斎藤と同じく、社会主義、マルクス主義に可能性を見いだしている。

 ジジェクはエッセンシャルワーカーへの感傷的なキャンペーンを否定し、新自由主義の下、さらに広がる格差を突き付ける。まさしく斎藤の、そして栗原のツボだが、小川と高橋も同じ立ち位置で世界を眺めていた。<グローバリズムの下、貧困のパンデミックを攻撃せずして、ウイルスのパンデミックを終息できるはずがない>というジジェクの結論は4人の共通認識でもあった。

 ラカンに沿う形でジジェクが提示した夢の分析が、番組全体で繰り返し言及された。かなり難解なので〝正しく〟整理する自信はない。現在のパンデミックに敷衍するなら、<私たちはコロナ、自然破壊、格差と貧困といった現実から目を背けさせられている>……。父親が見た悪夢は、現実逃避したことへのトラウマのメタファーで、ビフォアコロナに戻るなんて不可能なのだ。

 意識の流れの提唱者とされるフォークナーがデビューする1年前(1925年)に発表されたのがウルフの「ダロウェイ夫人」だ。死の匂いが濃密な本作について小川が提示した事実に、他の3人は衝撃を受けていた。ウルフ、そして作者の反映であるクラリッサ・ダロウェイはスペイン風邪に罹患していた。クラリッサの死への予感、教会の鐘の音と墓地の描写が頻繁に織り込まれていた。「ダロウェイ夫人」は〝パンデミック小説〟の魁といえる。

 ウルフは26年に発表したエッセーで<直立人と横臥者>の構図を示す。斎藤は<直立人=男・支配層、横臥者=女性・弱者>と読み解き、高橋は横臥者を死の床に伏した正岡子規に重ねる。栗原は同時代人の大杉栄のトンボに纏わる逸話を紹介し、「大杉栄評論集」へと論を進めた……。さあといきたいところだが、俺は今、栗原の「サボる哲学」を読んでいる。次々稿で番組の内容と併せて紹介することにする。

 最後は「白の闇」だ。このデストピアの存在を知ったのは5年前の辺見庸の講演会だった。物語の発端は雑踏で、男が運転中に突然失明する。眼科医の医者、患者たちが連鎖的に白の闇に襲われ、人々が次々に視力を失っていく。失明者を隔離した精神病院は強制収容所の如くで、瞬く間にキャパを超え、混乱は世界の縮図として描かれる。互いをかばい合う理性の欠片もなく、獣性剥き出しの戦場に化す。

 「ペスト」では病と闘う人たちが英雄的に描かれるが、「白の闇」で描かれたのは<強制収容はパンデミックの本質と同じ>ということ。「白の闇」の帯には辺見の「私たちはすでに、心の視力を失っている」が記されていたが、語り部で唯一目が見える医師の妻の言葉<目が見えない方がどれほどいいだろう>が深く世界を抉っている。上記した夢と重なる部分もあった。

 カタストロフィー的な状況に至った時、力を発揮するのは女であり、エッセンシャルワーカー的な心身の動きだった。直立人的な横暴さを剥き出しにした男たちは情けないほど無力だった。新たなウイルスにも襲われるだろうし、気候変動もとどまりそうにない。永遠に続くパンデミックに向き合うためのヒントを与えてくれた100分だった。
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「ドライブ・マイ・カー」~癒やしと再生の崇高な物語

2022-01-21 21:42:17 | 映画、ドラマ
 人生は消去法だとつくづく思う。晩年は読書と映画を生活の軸に据えようと思っていたが、視力、気力、体力の衰えでページを繰るスピードが落ちている。夜中に本を読んでいると急に眠くなり、そのまま電気を消して布団にくるまる日々が続いている。

 というわけで読書は進まず、今回は映画「ドライブ・マイ・カー」(2021年、濱口竜介監督)を紹介することにする。カンヌ映画祭で脚本賞と国際映画批評家連盟賞を受賞し、ゴールデングローブ賞、全米映画批評家協会賞の獲得でアカデミー賞作品賞候補にジャンプアップした。サービスデーもあって、若い世代が多数詰め掛けソールドアウトの盛況だった。

 腰痛、頻尿の俺には厳しい長編(約3時間)だったが、スクリーンの中に自然に入り込めた。評判に違わぬ年間ベストワン級の作品である。村上春樹の短編集「女のいない男たち」(2013年発表)収録のタイトル作に加え、「シェラザード」と「木野」の3作をベースに製作された。

 「ダンス・ダンス・ダンス」(1988年)以降、村上をよんでいないから、本作を理解するのは難しい。〝村上ワールドの住人〟は、亡くしたり消えたりした女性への思いを綴る独特のスタイルが本作にも継承されているという。終盤近くに描かれる北海道も、村上お気に入りの場所らしい。

 スクリーンで体感してほしい作品なので、ネタバレは最小限にとどめたい。主な登場人物は、村上ワールドの喪失感とメランコリーを身に纏った演出家の家福悠介(西島秀俊)、脚本家の妻音(霧島れいか)、ドライバーのみさき(三浦透子)、俳優の高槻(岡田将生)の4人だ。

 芝居は門外漢だが、家福の演出に驚かされた。「ゴトーを待ちながら」で俳優たちは複数の言語で台詞を披露し、ステージ上に日本語の翻訳が示される。本作後半は家福が広島で「ワーニャ伯父さん」の舞台監督を務める稽古と並行して物語は進むが、日本人、韓国人、台湾人の俳優が母国語で台詞を言い、イ・ユナ(パク・ユリム)が演じたソーニャの伝達手段は手話だった。言葉に拘泥しながら多様性を追求する方法掄を、村上春樹と濱口監督が共有しているからこそ、本作は普遍性と多様性を獲得し、高みに到達できたのだ。

 家福と高槻は一枚のコインの欠片といえる。接着剤は音だ。ともに表現者の家福と音は理想の夫婦に映る。冒頭のセックスシーンで、音は夢を家福に伝える。<前世がヤツメウナギだという高校生の女の子が、思いを寄せる男の子の部屋に忍び込み、自身の痕跡を残しておく。ある日、階段を上る音が近づき、空き巣がばれたと思った瞬間、目が覚めた>……。ちなみに音は意識が朦朧としていたのか、翌朝に家福が反唱しても覚えていない。

 家福は音が他の男と寝ていることを知っている。ある日偶然、高槻とのセックスを目撃したが、黙って部屋を出る。もし言えば、取り返しのつかない状態になるのではと恐れていたからだ。音が急死して2年経ち、上記した芝居のオーディションに高槻が応募してきた。二人で一枚のコインを形作っていることが、後半で象徴的に描かれる。
 
 家福とみさきが心を通わせるようになるにつれ、新たなキーワード<殺す>がストーリーに滲んでくる。相手との距離を慎重に保つ家福、強引に入り込む高槻……。車の中で音が吹き込んだ「ワーニャ伯父さん」の台詞に合わせて自身の声を重ねる家福にとって、音は揺るぎないファムファタールだったが、高槻から音の夢の続きを聞かされ愕然とする。

 家福とみさきは、結果して愛しい存在を殺してしまったと心の底で懊悩している。みさきの故郷である雪深い北海道の村での会話に胸を打たれた。みさきは「音さんが家福さんを誰より大切と思っていたことと、他の男の人と寝ることは矛盾しない」と、自身の母への思いを重ねて語り掛けた。

 家福は再生に向けた決断をする。「ワーニャ伯父さん」でソーニャが手話で表現する言葉に希望を覚えた。客席にいたみさきは、ラストシーンで韓国にいた。スーパーで買い物をした後、家福から譲り受けた車に乗る。北海道、日本の傷痕を浮き彫りにする広島、そして釜山……。自由を目指し、みさきの旅は続く。俺の脳裏に美しく象徴的なシーンがフラッシュバックしている。
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「最後の文人 石川淳の世界」に<江戸>を触発された

2022-01-16 20:56:46 | 読書
 米メリーランド大で実施されたブタの心臓をヒトに移植する手術が、世界の耳目を集めている。このニュースを知って最初に思い浮かべたのがベルナール・ヴェルべール著「われらの父の父」(1999年)である。衝撃の結末は<ヒトの祖先はブタ>だった。発表当時からブタは生理的特性がヒトと最もよく似ているといわれていたが、イスラム教徒は今回の移植にいかなる反応を示すだろう。

 先日は練馬文化センター大ホールで「春から気になる三人会 桃月庵白酒・柳家三三・春風亭一之輔」を楽しんだ。三三「寝床」→一之輔「短命」→白酒「幾代餅」の順で会は進む。3人は書き入れ時の正月、掛け持ちで高座を務めるなど多忙を極めたはずだが、対抗意識もあるのかいずれ劣らぬ出来栄えで2時間余は瞬く間に過ぎた。

 王将戦第1局を先勝した藤井聡太4冠だが、B級1組順位戦で千田翔太七段に敗れて2敗目を喫し、A級昇級はお預けになった。前稿で藤井と渡辺明王将は<人間とAIの合体型>と評したが、千田もその範疇に含まれる。若い藤井だが、渡辺との死闘から中3日では厳しかったと思う。さらに中2日の朝日杯でも永瀬拓矢王座に敗れ、連覇を逃した。

 枕は本題に繋がっている。今回紹介するのは「最後の文人 石川淳の世界」(集英社新書)で、田中優子、小林ふみ子、帆苅基生、山口俊雄、鈴木貞美の各氏が、それぞれの視点で石川淳の全体像に迫っている。通底するキーワードは<江戸>で、田中(前法大総長)は「江戸問答」(松岡正剛との対談)でも江戸文学と石川の関わりに言及していた。

 立石伯は「石川淳論」で、<壮年期に於て老年を、老年に於て青春を考えた作家で、以前に達成した仕事を否定するような新たな作品を創りあげることによって、たえず生成するものとしての作家になることを課した>と分析していた。本作「最後の文人――」の帯には<「絶対自由」に遊ぶ!>と記されている。青年期、アナキズムに傾倒した石川は自由を希求し、形や制度に懐疑的だった。フランス語教師時代、左翼運動に関与して職を失い、「マルスの歌」が反軍的として発禁処分を食らったことは知られている。

 俺は石川を最も好きな作家に挙げてきたが、重要な部分を見落としていた。政治にも鋭い洞察を残している石川だが、アカデミズムと一線を画した江戸文化の研究者でもあった。学生時代、ノンセクトの活動家だった田中は、全共闘の緩さといかがわしさに石川の作品を重ねている。小説のみならず、雨月物語、俳諧を考察し、太田南畝へのリスペクトを表す論考に触発されて、田中は江戸時代の扉を叩いた。

 「狂風記」の帯に<ギュンター・グラスの「ひらめ」に匹敵する>(要旨)と記されていた。時空を行き来し、神話とご都合主義が交錯する同作は、脱皮と止揚を繰り返した石川の最高傑作だが、古典に通底する豊饒な語り口と戯作調が混淆している。限りない自由を志向する精神の精華といえる。

 石川は狂歌への造詣が深く、共同制作の方法掄に、自己同一性から解放され、自由に至る道筋を見いだしている。落語への関心を示す論考は確認されていないようだが、落語の形式を用いて綴ったパロディー集「おとしばなし」集を残している。石川は志ん生や圓生の名人芸に触れたことはあったのだろうか。

 本作を読んでいるうち、気もそぞろになった。<江戸>という視点を学んだことで、再読未読を問わず石川の作品を読みたくなった。年金生活者になる3月以降、生きる楽しみをひとつ見つけた。
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新春スペシャル「欲望の資本主義」に22年を生きるヒントを得た

2022-01-11 22:48:14 | 社会、政治
 将棋界の頂上決戦、王将戦第1局が行われ、挑戦者の藤井聡太竜王(4冠、先手)が渡辺明王将(3冠)に先勝した。1分将棋になってもAIの評価値が二転三転する大熱戦で、2局目以降も楽しみだ。

 ディープラーニングを駆使する藤井、高容量のパソコンで研究する渡辺は、ともに<人間とAIの合体型>なのだ。囲碁・将棋チャンネルで解説を務めた木村一基九段は「解説者の力量が試される時代」と語っていた。対局場で大盤解説を務めた森内俊之九段は「藤井さんだから何も言われませんが」と藤井の8六歩に衝撃を隠さなかった。藤井は今年も常識を覆す指し手でファンを驚かせてくれそうだ。

 オミクロン株蔓延により、日本でも新型コロナウイルスの新規感染者が急増している。気候変動も加わり、先が見えない2022年を読み解くヒントになる番組を見た。新春スペシャル「欲望の資本主義~成長と分配のジレンマを越えて」(NHK・BS1)である。

 様々な角度からコメントする12人の識者は、<A>資本主義の枠内で改良を目指す、<B>資本主義に変わるシステム(社会主義)を志向する……、この二つに大別できる。経済は門外漢の俺だが、アンテナに引っ掛かった持った内容を紹介する。

 ルチル・シャルマ(ストラテジスト)は生産性の低い非効率なゾンビ企業を救済する刺激策が、日本のような莫大な借金を計上する結果になると語る。<現在の資本主義は富裕層のための社会主義であり、その他の人々にとっての資本主義>と分析していた。刺激策に必要な経費を削減することが健全な資本主義の道と説く。シャルマのコメントとリンクするのは諸富徹(経済学者)らが提示したスウェーデンモデルだ。

 スウェーデンは二酸化炭素削減に成果を挙げながら、経済成長を遂げてきた。この20年で50%の賃上げを達成している。雇用調整助成金が企業に払われた日本と対照的に、スウェ-デンは企業を救わない。だが、淘汰された企業の労働者の別の職場への就職には全面的に協力する。人には優しいのだ。

 マシュー・クレイン(ジャーナリスト)の見解に、目からウロコだった。「貿易戦争は階級闘争である」との著書が示す通り、米中貿易摩擦をユニークに分析している。クレインは<中国では生産されたモノに相応しい賃金が支払われていない。中国の労働者の購買力が奪われることで、富の偏在は加速し、結果としてアメリカの労働者の雇用が損なわれる>と説く。

 ケイト・ラワーズ(経済学者)は成長や生産性といった言葉にとらわれず、ドーナツ図を提示して<循環型経済モデル>を主張する。成長より繁栄(精神的)を上位に置き、合理的経済人(資本主義信奉者)を「手には金、心にエゴ、足で自然を踏みつけている」と論難する。情報操作により、<協力や利他主義より、競争や利己主義に価値を置く>合理的経済人の考え方が広まることを懸念している。

 ラワーズの方向性を形にしているのが,成長モデルから脱却し2050年までに循環型経済モデルに転換することを目指すアムステルダムだ。バート・ファン・ソン(ジーンズ店経営者)は「廃棄されたジーンズはスペインでリサイクルされ同店に送られてくる」と言う。「リサイクルされるジーンズが増えれば綿花農家の雇用が失われるのでは」の問いに、「綿花の代わりに大豆などを栽培すれば、食糧問題に貢献出来る。大豆畑のためにアマゾンで木材を伐採することもなく、環境破壊をストップ出来る」と循環経済の意味を強調していた。

 この番組のハイライトは、トーマス・セドラチェク(ストラテジスト)と斎藤幸平(経済思想家)のリモート対談だった。セドラチェクは<A>、斎藤は<B>を主張するが、ともに成長にとらわれることを批判している。共通点もあるが、相容れない点も明白になった。

 東欧革命を経験しているセドラチェクには譲れない部分がある。かつての東欧圏がマルクス主義を継承しているとは見做さないが、壁の崩壊によって息吹を知ったセドラチェクは資本主義以外に希望はないと確信している。さらに、欧州で資本主義の枠内で有意義な改革を見聞している。上記したスウェーデンモデルの推進者、アンダース・ボルグ(元財務相)は<市場経済と社会福祉を組み合わせた同国の市場経済は資本主義でも社会主義でもない>と語っていた。

 当ブログで頻繁に取り上げてきた斎藤については、書き尽くした感がある。俺は数年前からグリーンズジャパン会員発プロジェクト「脱成長ミーティング」に足を運び、脱成長、シェア、循環型経済、ローカリズム、<コモン=共有材>の意義を学んできた。だから、マルクスが最晩年に行き着いた境地にインスパイアされた斎藤の<脱成長コミニュズム>には共感を覚えている。

 だが、苦難の歴史を知るセドラチェクは、斎藤の焦りを感じているかもしれない。この番組を見て、スウェーデンのみならずバルセロナやアムステルダムなど様々な改革が試みられる欧州と比べ、余りに貧困な日本の現実に愕然とする。とはいえ「人新世の資本論」は40万部を超え、斎藤は昨年末、多くのメディアに登場した。ひとつのきっかけになることを期待している。
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「ラストナイト・イン・ソーホー」~光と闇に紡がれた夢

2022-01-07 22:00:18 | 映画、ドラマ
 自分はなぜ、本を読み、映画を見るのだろう。生きているうちに少しでも高みに達したい……。そんな枯れた境地は、煩悩の塊である俺には似合わない。孤独を癒やすため? 現実逃避? まあ、そんなところだろう。

 新宿で「ラストナイト・イン・ソーホー」(2021年、エドガー・ライト監督)を見た。ロンドンのファッション業界に照準を定めた作品で、「クルエラ」に重なる部分も大きい。同作の舞台は1970年代だったが、「ラストナイト――」の主人公は60年代に憧れる通称エリーのエロイーズ(トーマシン・マッケンジー)である。

 冒頭のシーンは60年まっただ中だ。エリーの部屋には映画「ティファニーで朝食を」のポスターが張られている。デザイン学校に合格したエリーはロンドンに向かう。祖母(リタ・トゥシンハム)との会話から、エリーが亡き母の夢を継ぐことを目指していることがわかる。

 時代は現在で、エリーの60年代への〝独りタイムスリップ〟は学生たちのからかいの対象になる。馴染めない寮を出たエリーは、導かれるようにコリンズさん(ダイアナ・リグ)の家に下宿する。コリンズさんは厳格な高齢女性だが、音楽の趣味は似ていた。

 エリーは夢の中で60年代のソーホーを彷徨う。当時のソーホーはスウィンギング・ロンドンを象徴し、眩い光と猥雑な闇のアンビバレンツを併せ持つ街だった。キャバレー、ナイトクラブ、映画館が立ち並び、「007/サンダーボール作戦」(65年)の看板が印象的だった。

 エリーはソーホーでサンディ(アニャ・テイラー=ジョイ)と出会う。面影が似ている二人の共通点は夢を抱いていることだった。歌にもダンスにも天賦の才能を恵まれているサンディだが、悪徳マネジャーのジャック(マット・スミス)に食い物にされ、心身ともボロボロにされていく。

 ストーリーの紹介は最小限にとどめるが、後半に進むにつれサイコホラーの様相を呈していく。クラスメートのジョン(マイケル・アジャオ)は夢と現を往復するうち壊れていき、孤立するエリーを気遣う。清純派のエリーと小悪魔的なサンディはシンクロし、いでたちも似てくる。二人が鏡の中に相手を見るシーンにため息が出た。

 夢の中で衝撃的なシーンを目の当たりにしたエリーは、実際に起きた事件の真相を探ろうと警察に赴き、当時も今もソーホーの顔役的な存在である銀髪の男(テレンス・スタンプ)に接近する。その正体はラスト近くで明かされ、衝撃的な事実が明らかになる。

 上記した「クルエラ」はパンクロックムービーの色彩が濃かったが、本作の魅力もサントラで、スウィンギング・ロンドンを代表するシーラ・ブラック、ダスティ・スプリングフィールドら女性歌手の曲が流れる。サンディの役名も、エリーが大好きなサンディ・ショウにちなんでいるはずだ。サンディといえばスミスとのコラボで「ハンド・イン・グローブ」をカバーしている。モリッシーが彼女の大ファンだったことから実現した。

 他にもサーチャーズ、キンクス、ザ・フー、ウォーカー・ブラザーズ、そして最後にサンデイを演じたアニャ・テイラー=ジョイの曲も流れる。俺にとってハイライトは、エリーとジョンが目の隈取りをして学校のハロウィーンパーティーに参加する場面だ。スージー・スーを連想した瞬間、スージー&ザ・バンシーズの「ハッピー・ハウス」とともに、エリーの視界に60年代の亡霊が現れ、ラストに向けてヒートアップする。

 愛、そして夢の意味、夢破れた者たちの哀しみがちりばめられた〝映画初め〟に相応しい作品だった。俺は今、夢を見ることも叶わぬ年齢になってしまった。
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今年の目標は<自由かつアナーキーに>

2022-01-03 21:27:01 | 独り言
 あけましておめでとうございます。人生の分岐点になる今年、健康に気を配りながら乗り切りたいと思います。

 寒い日々が続いた年末年始は帰省せず、部屋でゴロゴロして過ごした。録画しておいた映画やドラマを大量に消化したが、リアルタイムで見た「相棒元日スペシャル 二人」から……。今シーズンはいまいち感が拭えなかったが、同作は貧困や格差など「相棒」独特の社会性を盛り込んでおり、エンディングにも満足出来た。

 最近放映された「岸辺露伴は動かない」と「いりびと-異邦人」は、ともに現実と異界を行き来する濃密な空気を堪能出来た。他にもHDDで埃をかぶっていたドラマを消化する。連続ドラマW「プラチナタウン」(全5回)は2012年制作で、3年ほど前にスカパーでオンエアされた時に録画しておいた。老人問題と過疎に焦点を当てた内容は、今こそ自分自身のテーマと受け取れる。楡周平原作、大泉洋主演で、豪華な助演陣がエキサイティングな展開を支えていた。

 テレ朝チャンネルで録画しておいた「京都迷宮案内」第1~第3シリーズをまとめて見た。舞台は京都日報で、杉浦記者(橋爪功)、橘キャップ(野際陽子)を軸に京都の歴史や伝説を織り交ぜて進行する。キャラはシリーズによって変わるが北村総一朗演じる大洞と、杉浦、橘とのユーモアたっぷりのやりとりに心が和んだ。秀作揃いなのは西岡琢也担当の脚本が優れているからだろう。

 映画も何本か見たが、そのうちの一作が「三度目の殺人」(17年、是枝裕和監督)である。役所広司、福山雅治、広瀬すずの豪華なキャスティングによる法廷ドラマだが、是枝作品となるとおのずと高いハードルを設定してしまう。とはいえ、人間の心の奥に迫る佳作で、見る者に鋭く問いかける結末だった。

 前稿に記した通り、俺は3月に年金生活になる。無能な俺に、格好の目標が見つかった。東京大賞典で3着に入ったウェスタールンドで、10歳の今年も現役を続けるという。騸馬というのも俺に似つかわしい。同馬は死んだふりして最後方を走りながら、ゴール前で突っ込んでくる。型にはまりながら自由というのは理想ではないか。

 慎ましく生きざるを得ないが、<自由かつアナーキーに>が今年の目標だ。このテーマに沿って紀伊國屋で昨年末、3冊を買い揃えた。ブログでおいおい紹介していきたい。
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