酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「コリーニ事件」~<法を超えた正義>を追求したリーガルサスペンス

2020-06-27 21:30:26 | 映画、ドラマ
 前々稿から1週間余、棋界で激闘が続いた。豊島将之名人(竜王)は名人戦第2、3局で渡辺明3冠に連勝し、その間、叡王戦第1局で永瀬拓矢2冠を破っている。杉本昌隆八段との師弟対決を制して竜王戦挑決トーナメントに進出し、永瀬を破って王位戦挑戦を決めた藤井聡太七段に、殺害予告が入った。タイトル戦が続くだけに無事を祈るしかない。

 都知事選では宇都宮建児候補の勝利を願っている。同氏が原告側弁護団長を務める供託金違憲訴訟裁判を何度も傍聴してきた。常に弱者の側に立って活動し、都政について提言してきた宇都宮氏こそ、都知事に最も相応しい。国政選挙であれ自治体選挙であれ、当選の見込みは低くてもグリーンズジャパンが推す候補に寄り添ってくれた宇都宮氏に、尊敬と感謝の念を抱いている。

 宇都宮氏が日本の代表格なら、ドイツ屈指の弁護士はフェルディナント・フォン・シーラッハだ。この10年は世界的ベストセラー作家で、ドラマ化された「犯罪」、「罪悪」、「テロ」も完成度は高かった。「コリーニ事件」(19年、マルコ・クロイツバイントナー監督)を新宿武蔵野館で観賞した。差別、家族の絆、愛の貌を背景に据えた法廷劇で、シーラッハの祖父がナチス幹部であったことも作品に反映している

 「コリーニ事件」は2018年度ベストワンに挙げた「判決」(17年、ジアド・ドゥエイリ監督)、別稿(4月4日)に紹介した「黒い司法」(19年、デスティン・ダニエル・クレットン監督)に匹敵するリーガルサスペンスだった。2001年のドイツが舞台で、冒頭でいきなり殺人事件が起きる。

 67歳のイタリア人ファビリツィオ・コリーニ(フランコ・ネロ)による84歳の大物実業家ハンス・マイヤー(マンフレート・ツァバトカ)暗殺は国中にセンセーションを巻き起こす。黙秘を続けるコリーニの国選弁護人に任命されたのが、資格を得て3カ月のルーキー弁護士カスパー・ライネン(エリアス・ムバレク)だ。

 ライネンはトルコ系という設定だが、演じるムバレクはチュニジア系だ。父が失踪した後、目をかけてくれたのがマイヤーで、祖父を殺した犯人を弁護することになるライネンに事業を受け継ぐ旧知のヨハンナ(アレクサンドラ・マリア・ララ)が接近する。マイヤー家を支えるのが、ライネンの恩師で法曹界の重鎮リヒャルト・マッティンガー(ハイナー・ラウダーバッハ)だ。

 後景にはドイツ国内における差別が横たわっている。ヨハンナの弟フィリップのライネンに対する差別発言をマイヤーが叱責したことが、ライネンがマイヤー家に迎えられるきっかけだった。マイヤーは寛容な人物として尊敬を集めていただけに、コリーニの動機は謎めいていた。

 本作に「ダイ・ハード」第1作が重なった。頼りなく見えたマクレーン刑事(ブルース・ウィリス)を心配していたが、ストーリーが進むにつれて真価を発揮していく。本作のライネンも〝慣習〟を知らないがゆえの自由さで壁を突破し、ドイツ法制史上の闇を炙り出す。マッティンガーをKOしたライネンのタフさの根源はボクシングだった。

 育ての親マイヤーと実父ベルンハルト(ペーター・ブラガ―)、型にはまったヨハンナと奔放なニーナ(ピア・シュトゥッツェシュタイン)……。ライネンを取り巻く登場人物が、時系列をカットバックしながら描かれていたが、肝はライネンとコリーニの面会シーンだ。父親についてのコリーニ言葉に触発されたライネンは、疎遠だったベルンハルトをニーナとともに訪ねる。複数の言語に精通したベルンハルトの協力で、真実の扉が開かれた。

 <戦争がもたらす痛みと贖罪>が根底に流れている。前稿で紹介した「逃亡者」には南方戦線における日本軍の蛮行が描かれていた。中村文則が本作を見たら、いかなる感想を抱くだろう。原作発表(11年)の翌年、ドイツの法曹界に激震が走る。本作のメインテーマになった、謀殺罪と故殺罪の差異を定めたドレーアー法について、法務省に調査委員会が立ち上げられたのだ。法を超えた正義を追求した本作の成果といえる。

 緊張が途切れぬスタイリッシュなカメラワークが見事だった。奥深いエンターテインメントを締めくくったのは時空を繋ぐサッカーボールだ。カタルシスに溢れたラストに余韻が去らない。
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「逃亡者」~壮大な座標軸に印された中村文則の新境地

2020-06-23 23:11:17 | 読書
 予告通り、<ロックと知性>について枕で記す。映画「白い暴動」で移民排斥を主張した国会議員を支持したとして、エリック・クラプトンとともにデヴィッド・ボウイの名が挙がっていた。俺はボウイに絶大な敬意を払ってきたからショックを受ける。後にボウイは趣旨の異なる発言をしているが、ハイパー資本主義のシステムに縛られたロッカーに〝知性〟を求めるのは難しい。

 アートと体制の距離は常に議論の的だが、政治と音楽の関係を軸に据えた中村文則の新作「逃亡者」(幻冬舎)を読了した。主人公の山峰はフリージャーナリストで、その政治信条は中村自身の投影だ。安倍政権下で進む右傾化と集団化への忌避感が作品の前提になっている。

 第2次世界大戦中、南方戦線で〝熱狂〟と呼ばれたトランペットの音色が、日本軍だけでなく米軍、そして現地の人々を惹きつけた。演奏者である軍楽隊員の鈴木はジャズを学んだ天才で、山峰はトランペットに加え、鈴木が戦地で綴った手記を入手する。その結果、正体不明の〝B〟、そして宗教団体に追われる羽目になった。

 中村の小説には〝絶対者〟が頻繁に現れる。「一九八四年」ならオブライエンとウィンストン、そして本作では〝B〟と山峰の対話が重要な位置を占める。濃密なドスエフスキーの薫りとミステリー仕掛けは従来通りだが、本作で縦軸(時間)と横軸(空間)が一気に広がった。数百年の時間、そして長崎―フィリピンーベトナムードイツを、恋愛、信仰、戦争、多様性を結び目に物語は時空を奔放に彷徨う。

 中村自身、インタビューで以下のように種明かししていた。<人間は歴史の堆積であって、実は孤独にはなりえない。みんなが住んでいる土地にはそれぞれの物語があり、その大地の上で僕たちは生きている。その歴史がまた未来につながっていく。そういった人類の膨大な蓄積の上にいる重みも書いてみたかった>……。壮大な座標軸に破綻を危惧したが、「N=中村」が登場するラストで一本に糸に収斂する。

 短編集「A」収録の「A」と「B」は日本軍の中国における殺戮と従軍慰安婦をテーマにしていた。「逃亡者」では南方戦線での蛮行が描かれている。自分の吹くトランペットが兵隊たちを駆り立てているのではないか……。鈴木はこう苦悩したが、政権は好戦的な空気を醸成するツールとしてトランペットを利用しようとする。鈴木による美の極致の音楽は、タナトスと背中合わせの無上の愛に裏打ちされていた。

 中村が「逃亡者」に<公正世界仮説の否定>を据えた。<公正世界仮説>とは心理学用語で、<社会が理不尽で危険と思うと人は不安になる。だから社会に問題があっても認めず、誰かが被害を訴えた時、あなたにも落ち度があったと被害者を批判する>傾向だ。<公正世界仮説>が蔓延すれば自己責任論やSNSでの卑劣な書き込みに繋がる。中村の危機感が行間に滲み出ていた。

 座標軸の広がりだけでなく、本作に中村の新境地を感じた。構造、政治信条、信仰、伝説など全てを包含し、俯瞰の目で小説を書く<全体小説>の方法掄を色濃く反映しているのは山峰とベトナム人の恋人アインとの物語だ。二人の出会いは数百年にわたる宿命の糸に紡がれていた。同時に、現在の日本で底辺労働者として搾取される留学生の実態を詳らかにしている。
 
 中村はコロナ蔓延の以前からマスクを着用していた。発作的な虚無と闘うためという。識者はもっともらしい発言をして、〝安全な日常〟に戻るが、誠実で繊細な中村は異なる。社会の歪みや他者の痛みに感応し、皮膚の内側で傷口を疼かせているからこそ、「逃亡者」のような小説を提示出来るのだ。

 創作が佳境に入ると、電話やメールに一切反応しない中村にとって、NPB開幕は吉事かもしれない。贔屓チーム(恐らく巨人)の試合を集中して見るのが唯一の気休めというが、没我の境地で観戦している姿を想像すると恐ろしくもなる。初代〝日本のドストエフスキー〟こと高橋和己は全共闘に寄り添い、自身の肉体を苛んだ。立ち位置を定めた2代目も心配になってきた。
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梅雨空を火照らせる戦い~NPB、将棋、都知事選、そして「白い暴動」

2020-06-19 13:02:46 | 映画、ドラマ
 NPBが開幕した。かつて欧州サッカーやNFLをロングショットで眺めていたが、スポーツは接写が一番というのが最近の結論だ。贔屓のベイスターズは普通にゲートを出ればAクラスも有望だと思う。

 豊島名人・竜王、渡辺3冠、永瀬2冠、藤井七段……。棋界はトップ4を軸に回転している。コロナ禍により日程はタイトで、本日19日は豊島と渡辺の名人戦第1局2日目、21日は永瀬と豊島の叡王戦第1局、23日は永瀬と藤井の王位戦挑戦者決定戦、28日は渡辺と藤井の棋聖戦第2局と続く。〝熾烈なコロナの夏〟を生き抜くのは誰か。

 都知事選が告示された。小池知事は自主避難者への住宅支援を打ち切り、定時制高校継続の嘆願を拒絶する。石原氏でさえ寄せていた朝鮮人大虐殺を慰霊する式典への追悼文を取りやめ、コロナに苦しむ自営業者への補償に消極的だ。冷酷な知事にさよならするチャンスは、「首相になる」と公言する山本太郞氏(れいわ新選組代表)の立候補によって潰えた。

 7年前の参院選直前、各党代表者が顔を揃えた「反貧困ネットワーク」(宇都宮健児代表)主催のシンポジウムに飛び入りで参加した山本候補(当時)は「自分も貧乏です。困った時、宇都宮さん、お願いします」と笑いを取っていた。宇都宮氏との票の奪い合いを選んだ山本氏は、<筋>や<情>をどのように捉えているのだろう。

 警官による黒人市民殺害への抗議が世界に波及する今、「白い暴動」(2019年、ルビカ・シャー監督)を渋谷で見た。1970年代の英国におけるレイシズムの実態を描いたドキュメンタリーで、タイトルはクラッシュの1stシングルから採った。当時と現在に共通するメッセージは<人種を超えた連帯>である。

 英国は不況のどん底で、移民排斥を叫ぶ声が大きくなる。国民戦線(NF)は、地域によって20%以上の票を得ていた。後ろ盾は保守党の重鎮、パウエル国会議員で、格差が育んだ歪んだ愛国主義は失業中の白人貧困層に浸透する。

 エリック・クラプトン、デヴィッド・ボウイがNFに近いコメントを出したことに対抗し、「ロック・アゲインスト・レイシズム」(RAR)が創設された。クラッシュ、トム・ロビンソン・バント、スティール・パルスらが結集し、ニュー・ミュージカル・エクスプレス、メロディーメーカーがRAR支持を鮮明にしたことで、RARは大きな潮流になった。

 警察官の多くはNF寄りで、当局の黙認の下、差別に根差す殺人事件が相次いだ。RARのメンバーにも暴力が及ぶなど、状況は現在のアメリカと変わらない。RARは他の運動体と連携しながら、アートで反差別を訴える。別稿(5月14日)で「ぼくはイエローでホワイトで、ちょっとブルー」(ブレイディみかこ著)を紹介したが、表現を重視する英国の学校教育の精華と感じた。

 10万人規模のRARフェスでヘッドライナーを務めたのはトム・ロビンソン・バンドだった。トムはゲイであることを公表していたが同じ頃、メインストリームで壁にぶち当たっていたのがフレディ・マーキュリーだ。インド系ゆえデビュー以前は〝パキ〟と差別され、ゲイをカミングアウト出来ず苦悩したことは映画「ボヘミアン・ラプソディ」に描かれている。フレディーはフェスで演奏したパンクやレゲエのバンドたちを羨望の目で眺めていたのではないか。

 スキンヘッズに支持されていたシャム69にとって葛藤の日々が続く。RARの趣旨に賛同しつつ、ファンも裏切れない。フロントマンのジミー・パーシーはフェスでクラッシュとステージに立つことを決断し、「白い暴動」をジョー・ストラマーと熱唱する。映画「ルード・ボーイ」(1980年)ではジミーが登場した時、プラグが抜かれて混乱する様子が描かれていた。シャム69をヘイト側と決めつけた主催者によるものだったが、圧倒的なパフォーマンスは本作のハイライトである。

 本作はパンクが世界を変えたことを象徴的に示していた。4年後、クラッシュの来日公演を新宿厚生年金会館で見て、<ロック=メッセージ性>と確信する。ジョーは本作で「平穏な時代だったら、キスの歌を作るよ」と語っている。クラッシュの精神を受け継ぎ、RARのロゴを〝借用〟したのがレイジ・アゲインスト・ザ・マシーンだ。

 現在のアメリカで抗議する者の心に響いているのがレイジの楽曲で、約30年前の1stを筆頭にアルバムが再びチャートインしている。ゲバラの写真と逆さまの星条旗をステージに掲げるラディカルさ、ノーマ・チョムスキーと語り合う知性、そして史上最高のライブバンドと断言出来る表現力を併せ持つ希有なバンドだ。ちなみに俺の一日は、レイジの「スリープ・ナウ・イン・ザ・ファイアー」の携帯アラームでスタートする。

 次稿は小説がテーマだが、音楽とも関連がある。書き切れなかった<ロックと知性>について枕で記したい。
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國分功一郎、辺見庸、五箇公一~ウイズ・コロナの次代に響く言葉

2020-06-15 22:20:08 | カルチャー
 最初にお断りを二つ。今稿で紹介する方はそれぞれの分野で評価を確立しているので、敬称略で記すことにする。さらに、ワードの不調で文書を途中で消してしまい、焦って書き直したので、普段以上に中身のない内容になることをご容赦願いたい。

 多くの識者がこの間、新型コロナウイルスについてコメントを発信している。地上波では、スウェーデンの「集団免疫」方式を支持する木村もりよ、「PCR検査抑制で感染者数を偽装する政府は〝日本の恥〟」と主張する山梨大・島田学長の発言が耳目を集めたようだ。

 ネットにアップされた「パンデミックを生きる指針」(藤原辰史)、「コロナ後の世界」(内田樹)も的を射た論考なので、ぜひ一読願いたい。今回は俺自身がふやけた脳で考えてきた問いに答えを出してくれた(と勝手に考えている)3人の言葉を紹介する。

 BS1スペシャル「コロナ新時代への提言」で〝発見〟した國分功一郎(哲学者)、「こころの時代~緊急事態宣言の日々」(Eテレ)でインタビューを受けた辺見庸、連続オンラインセミナー<気候危機とコロナ危機 新しいシステムを求めて>(グリーンズジャパン主催)で第1回の講師を務めた五箇公一(生物学者)だ。いずれもリモート出演で、論旨が重なる点は併せて記したい。

 國分が冒頭で提起した<生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのか>が心に刺さった。人生の第4コーナーで溺れている俺にとって、<アフター・コロナを生きる>とは死と向き合うことと同義なのだ。國分はウイズ・コロナで定着した<疫学的に人口を捉え、人間を一つの駒として見るような見方>に違和感を覚えている。辺見も同様で<コロナは人間を無名化、数値化する>と表現している。

 國分はイタリア人の哲学者ジョルジョ・アガンベンの問題提起<死者の権利>に言及する。アガンベンはコロナで亡くなった方が葬儀の機会を与えられないこと、死者に向き合えない社会の恒常化を危惧している。辺見はさらに論理を進め、〝健康であること〟に価値を置き、病者や弱者を「自己責任」と切り捨てる社会の危険性を指摘する。國分はフランスを、辺見はアメリカを俎上に載せ、<コロナの背景は格差と貧困>と主張していた。

 國分は後半で<身体性>に言及する。移動制限や3密回避で他者と会えないことが、人間の精神にいかなる影響を与えるかについて思索中という。アフター・コロナに求められる価値に國分は<連帯>を、辺見は<正義と平等>を挙げていた。文学と哲学の意味が問われる今、両者の言葉は心に染みた。

 辺見は堀田善衛、ーマス・マンら作家や哲学者の言葉を引用し、思索の底を潜っていく。コロナは人間のささやかな幸福と不幸を無にし、予定や準備を打ち砕いた。旧約聖書「コレヘトの言葉」にある<なんという空しさ 全ては空しい かつてあったことはこれからもあり かつて起こったことはこれからも起きる 太陽の下 新しいものは何ひとつない>を現在に重ねていた。

 <健康の義務化>が空気が蔓延し、不寛容な社会になりつつある。この日本の風潮と真逆なものとしてアラン・シリトーの作品中の台詞を紹介する。英国の労働者階級の怒りを代弁したシリトーは「風邪ひいても世の中の責任にしてやる」と登場人物に語らせた。辺見が言及したジャン・ボードリアールの<人間はウイルスみたいなもので、人間がウイルスを発見したのではなく、ウイルスが人間を発見した>に重なるのが、生物多様性の視点で人類史を眺める五箇だ。

 遺伝、種、生態系、景観の多様性から形成される生物多様性を人類が破壊したことで、野生動物が〝都会のジャングル〟に接近し、コロナをはじめ、SARS,エボラ、HIVが人類社会に蔓延する。背景にあるグローバリズム、地球温暖化に歯止めをかけ、人類と動植物の<ゾーニング>を再設定し、自然と人間の共生を喫緊の課題に挙げる。

 イメージすべきは日本の里山文化だ。キーワードは地産地消とローカリゼーションで、それぞれの地域が固有性を追求し、文化を創生することを説く。もはやインバウンドは望めないが、リピーターの訪日客にとって、各地の文化が最大の魅力だ。自然との共生は、国境を超えた調和に繋がる。アフター・コロナ、ポスト・コロナというのは〝先輩〟のウイルスに失礼な物言いで、<アンダー・コロナ>が正しいと五箇は語っていた。

 「ウイルスVS人類」(NHK・BS1)に出演していたした五箇を〝生物界のロックンローラー〟と紹介したが、実は既に〝大スター〟だった。地上波に出演した際には自作のダニの絵をプレゼントする。キムタクと笑顔で並ぶスナップも講演資料に含まれていた。

 かなり気合を入れて準備したのに、端折らざるを得なくなったのは残念でならない。あー、疲れた。



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映画「21世紀の資本」~冷酷な世界にさよならを叫ぼう

2020-06-11 22:53:47 | 映画、ドラマ
 藤井聡太七段が渡辺明棋聖(3冠)の王手の連続をかわし、初タイトル戦を制した。指し手は冷酷なスナイパー、表現はシャイで謙虚……。このアンビバレンツが藤井の魅力だと思う。心身のダメージがあったのか、中1日の王座戦予選でプロ同期の大橋貴洸六段に屈した。藤井は決め手を与えない大橋を苦手にしており、対戦成績は2勝3敗になった。

 警官による黒人男性殺害への抗議が、米国から世界に波及している。差別を背景に<1%>の利益のみを追求してきた建国以来の政策の歪みは隠し切れない。日本も同様だが、悪い材料しかないのに株価は一定の水準を保っている。仕事先の夕刊紙記者に尋ねたら、<コロナ禍対応で財政出動が世界の空気。リスクが小さいとみて、資金は市場に流れている>……。<99%>の生活実感と無縁の株価を指標に景気を語る政治家は<1%>の代弁者とみていい。

 久しぶりに映画館(新宿ピカデリー)に足を運び、「21世紀の資本」(2019年、ジャスティン・ベンバートン監督)を観賞した。13年に発刊されたトマ・ピケティの経済書をベースに製作されたドキュメンタリーで、著者のみならずイアン・ブレマー、ジョセフ・スティグリッツ、ポール・メイソンらがコメントを寄せている。

 ハードルが高いとみて原作を読まず、時評をまとめた「新・資本論」でお茶を濁した。ピケティは同書でタックヘイブン規制と法人税アップに繰り返し言及している。<格差と貧困の拡大が民主主義の基盤を揺るがせ、排外主義の蔓延と好戦的ムードを醸成する>との主張は映画にも表れていた。

 フランス革命、産業革命、非人道的な植民地政策、富を蓄積する大英帝国、アメリカ独立と奴隷制、2度の世界大戦、大恐慌、ナチズム、ニューディール、ベルリンの壁崩壊、新自由主義、リーマン・ショック、中国の経済成長etc……。本作は経済を軸に据えた近現代史講座の趣がある。

 本作に重なったのは石川啄木の<はたらけど はたらけど 猶わが生活楽にならざり ぢっと手を見る>だ。<1%>が常に<99%>を収奪する構図が、時空を超えて共通しているを再認識する。実写フィルムや「プライドと偏見」、「ウォール街」、「エリジウム」、「怒りと葡萄」といった映画のシーンが効果的に挿入され、本作のメッセージを補強していた。

 サイモン・クズネッツが提唱した<トリクルダウン>が本作のキーワードだ。アベノミクスでも用いられたが、<富裕層や大企業に行き渡った富が、次第に中下流層に滴り落ちていく>現象だ。サッチャー、レーガン、鄧小平が自信満々で語っていたが、欺瞞であったことは歴史が証明している。

 「21世紀の資本」でピケティが立てた仮説は<資本収益率は経済成長率を上回る>……。土地、貯蓄、株など資産が生む利益は経済成長以上で、格差は広がる一方になる。政治権力をも併せ持つ資本家が構造維持を図るのは英国貴族階級以来、現在まで変わらない。

 <法人税アップや福祉重視で富を正しく分配するのが自由と民主主義への道>という考えがアメリカで広まっている。ピケティと近いといえるが、左派、ラディカルの立ち位置でポスト資本主義を志向するマイケル・ハートや斎藤幸平は、「資本主義の買い慣らしを志向している」とピケティに厳しい。自身の能力を発揮する手段を民主的かつ自律的な方法で管理することを目指さない限り、現状を変革出来ないというのが彼らの主張だ。

 その辺りの議論は俺の手に負えないが、本作に生ぬるさを感じた。だが、それはピケティのせいではない。想定外のコロナ禍が格差をさらに広げ、独裁社会に至る危険が増したからだ。啄木の歌で私は〝ぢっと手を見た〟が、手を挙げて怒りを訴えないと板子一枚下の地獄に吸い込まれてしまう。

 本作は私たち<99%>が何百年も間、冷酷な仕組みに取り込まれていたことを教えてくれた。エルヴィス・コステロのアルバムタイトルではないが、今こそ「グッバイ・クルエル・ワールド」と叫ぶ時だ。世界中で声が上がっているが、日本人はおとなしい。怒るという感情を失くしてしまったのか。

 「新・資本論」やインタビュー、そして本作に触れる限り、〝論理の人〟ピケティを衝き動かしているのは、正義感と怒りだ。だからこそ共感を生むのだろう。
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「エネミー・オブ・アメリカ」~現在の<国家の敵>はもちろんトランプ

2020-06-07 21:48:36 | 映画、ドラマ
 藤井聡太七段が4日、挑戦者決定トーナメント決勝で永瀬拓矢2冠を破り、渡辺明棋聖(3冠)に挑戦する。5番勝負はあす8日開幕と、コロナ禍でスケジュールはタイトだ。飯島栄司七段は<本年度ベストワン候補。芸術の域に達している>と解説していた。

 永瀬と藤井は公式戦では初対局だったが、練習将棋で腕を磨いてきた。「努力は天才に勝る」と広言する兄貴分の〝軍曹〟永瀬、羽生善治九段と並ぶ天才の藤井……。両者の情熱が将棋を高みに導いた。棋聖戦、名人戦(10日開幕)と、俺の腐った脳にハードルは高いが、AIを超えるドラマを楽しみたい。

 「カンバセーション…盗聴…」(1974年、フランシス・フォード・コッポラ監督)をもう一度見ようと思ったが、録画に失敗する。WOWOWで放映された「エネミー・オブ・アメリカ」(98年、トニー・スコット監督)にスライドした。「カンバセーション」で情報収集のエキスパートを演じたジーン・ハックマンが、「エネミー」で似たような役柄を演じていた。

 心理サスペンスの趣があった「カンバセーション」と比べ、「エネミー」はアクションシーン満載で息つく間もない展開だった。ハックマンが走る姿に「フレンチ・コネクション」シリーズを重ねたが、さすがに老いて足取りは覚束ない。邦題では〝ステート〟を〝アメリカ〟に替えているが、原題は<国家の敵>となる。

 話は逸れるが、ハリウッドで<国家の敵>と見做された監督、脚本家、俳優は枚挙にいとまない。代表格はチャールズ・チャップリンで、「チャップリン対FBI 赤狩りフーバーとの50年」(NHK・BS1)は興味深い内容だった。半世紀以上にわたってFBIを支配したフーバー初代長官は、チャップリンを共産主義者と断じ、監視下に置く。国外追放後も盗聴、盗撮で私生活を丸裸にしていた。

 巨匠フランク・キャプラもフーバーによって貶められた。アメリカでクリスマス夜の定番となった「素晴らしき哉、人生!」は公開当時(46年)、〝社会主義的〟とメディアで酷評される。「スミス都に行く」(39年)のモデルは、ニューディールを支えたヘンリー・ウォレス副大統領だったが、ルーズベルト大統領の死後、〝容共的〟とのレッテルを貼られ、保守派の策謀でワシントンでの地位を失った。

 閑話休題……。「エネミー」の主人公はウィル・スミス演じるディーン弁護士だ。マフィア関連の訴訟を抱えていたディーンは学生時代の友人ダニエルと偶然再会するが、直後に死体となって横たわっていた。動物学者ダニエルが設置していたカメラに写っていたのは下院議員暗殺の一部始終である。

 ディーンの妻カーラ(レジーナ・キング)も弁護士で、<通信の保安とプライバシー法案>に強い疑義を示していた。気付かぬうちにダニエルに託されていた映像でディーンも国家安全保障局(NSA)に追われる身になる。協力者で元恋人のレイチェル(リリ・ボネット)、彼女の庇護者ブリル(ハックマン)を軸に進行するシリアスなサスペンスだが、ディーンとブリルのユーモアに溢れたやりとりが柔軟剤になっていた。

 ブリルはテヘランやアフガニスタンの諜報活動に携わったプロで、かつて所属したNSAの恐ろしさを熟知している。公開当時に本作を見ていたら、15年後のエリック・スノーデンの告発にも驚かなかっただろう。NSA高官レイノルズ(ジョン・ヴォイド)の指示により、会話、現在地、口座など全ての個人情報をチェックされたディーンを、ブリルの経験と技術が救う。

 ディーンの機転もあってNSA、マフィア、FBIは三すくみ状態に陥り、胸のすくラストを迎える。極上のエンターテインメントは、「CSIシリーズ」で知られる敏腕プロデューサーのジェリー・ブラッカイマーの手によるものだ。あれから20年、中国のサイバー独裁と比べたら、本作に描かれた諜報活動など児戯に等しいものだろう。

 世界中で<国家の敵>として葬られた者は無数にいる。その殆どは冤罪だが、現在のアメリカには明白な<国家の敵>が存在する。分断と差別を蔓延らせ、国民に宣戦布告を宣言し、国の地位を失墜させたトランプ大統領だ。全米に広がる抗議活動の背景は200年以上の貧困と格差の歴史といえる。バイデンはアフターコロナに、連帯、多様性、公正の価値を示せるだろうか。
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 「一九八四年」~愛と死が薫る濃密なディストピア

2020-06-03 20:52:46 | 読書
 カタロニア讃歌レーニン撰集も売りにしコーヒー飲みたければ
 
 歌心などない俺だが、第1次早大闘争を闘った福島泰樹の処女歌集(「バリケード・一九六六年二月」に強く心を揺さぶられた。冒頭は同歌集収録作で、「カタロニア讃歌」とはスペイン市民戦争でトロツキーの思想を継ぐポウム義勇軍に加わったジョージ・オーウェルのルポルタージュである。スターリンの援助で勢力を増し、ポウムなど他のグループを圧殺する共産党軍をオーウェルは目の当たりにした。

 独ソ戦線も同じ構図だ。ソ連は戦後の傀儡政府樹立を視野に、独軍によるポーランド市民への容赦ない攻撃に洞ケ峠を決め込んだ。アンジェイ・ワイダの「地下水道」と「灰とダイヤモンド」は民主派を見殺しにしたソ連への抗議が込められている。

 共産党が大衆を裏切るのは日本でも変わらない。60年安保で主戦場から離脱し、<前衛>から転落した共産党に刃を向けたのは高橋和己の「憂鬱なる党派」、大島渚の「日本の夜と霧」、吉本隆明の「擬制の終焉」といった作品だ。あらゆる闘いの場でシャッターを押し続けた福島菊次郎の写真に納まっている共産党員は皆無だろう。

 自由を叫ぶ者たちのイコンになったオーウェルの遺作「一九八四年」(49年発表)を約40年ぶりに読んだ。高橋和久による新訳(ハヤカワepi文庫)である。前置きが長くなったのは、本作を理解する上で必要と感じた事柄を記したからである。

 <管理社会を予言したディストピア>……。俺もステレオタイプされた図式に乗っかってきたが、一面的な理解であることを思い知らされた。無為と無駄を蓄積して生きてきたが、齢を40年重ねたことで、「一九八四年」の真実に迫れた気がしている。〝錯覚〟は後段で記したい。

 管理が行き渡ったオセアニアでは、ビッグ・ブラザーの像とポスターが国民を睥睨している。メインスローガンは<戦争は平和なり 自由は隷従なり 無知は力なり>だ。ビッグ・ブラザーはスターリン、反政府組織の指導者ゴールドスタインはトロツキーをモデルにしており、ロシア革命以降の政治情勢を反映している。

 主人公はオセアニア国真理省記録局に勤務するウィンストンだ。1950年に起きた核戦争で、世界はオセアニア、ユーラシア、イースタシアの3大国に分割され、常に戦争状態にあると喧伝されている。対戦国が突然変わったり、諸々の計画が修正されたりすると、現実に即して過去の記録を訂正する。ウィンストンに重なったのは、安倍首相に忖度し、捏造と隠蔽を繰り返した官僚たちだ。

 日記に叛逆の意思を綴りつつ〝同志〟を捜すウィンストンに、別の部署に勤務する10歳以上も年下の女性が接近してきた。模範的な党員で<思考警察>の一員と勘繰っていたジュリアである。二人は監視の目をくぐり抜け逢瀬を楽しむようになる。部屋を提供してくれたのは古道具屋店主で古き良き時代への郷愁を語るチャリントンだ。ウィンストンはここ数年、党幹部オブライエンの所作に、「この人は同志かもしれない」と親近感を描いていた。

 ヒトラー・ユーゲントや紅衛兵のような<スパイ団>所属のわが子に摘発された隣人、市民を監視し心の内まで読み取る「テレスクリーン」、そして洗脳されたプロール(プロレタリアート、下層階級)……。稠密に描かれたオセアニア社会について書くことは避けたい。識者や読書家が事細かに記しており、現代に至るまで現実に化しているからだ。ウィンストンが目にする禁書には政治の力学が詳細に解説されている。

 ウィンストンが死を強く意識していたのは本作発表後、1年も経たないうちに結核で召されたオーウェル自身の健康状態の反映か。積極的な治療は拒んだという。5年前に亡くなった前妻、ジュリアのモデルとされる新妻への愛が行間に滲んでいた。人は死を意識した時、来し方を振り返る。本作にもジュリアのみならず、母への思いが綴られていた。

 夢の中に現れる母と妹は、自分を守るために犠牲になったのではないか……。そんな思いにウィンストンは囚われるようになる。母が示した個人的誠実(≒愛)を守り抜こうと耐え抜いたウィンストンだが、審問のさなか<愛の喪失>を突き付けられる。釈放後のウィンストンとジュリアの姿が悲しい。管理の対語は愛で、管理と対峙するのも愛……。これこそオーウェルが最後に行き着いた境地なのか。

 <「一九八四年」は愛と死が薫る濃密なディストピア>が再読した俺の感想、いや錯覚だ。ミステリーの要素もあり、詩的な表現に溢れている。ウィンストンとオブライエンの対話はドストエフスキーを彷彿させる重厚さに満ちていた。現在を把握する上で欠かせない作品である。
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