五輪開催には反対だったが、テレビで観戦している人は多い。俺もそのひとりで、チャンネルを回すうち見入ってしまうこともある。27日2848人、28日3177人 29日3865人、30日3177人、31日4058人……。日本のメダルラッシュと感染者急増に、パラレルワールドを行き来している感がする。
前回の東京五輪が開催された1964年、前年までのキューバ危機に代わり、世界はベトナムを注視していた。トンキン湾事件への報復を口実に、米ジョンソン大統領は北ベトナムを攻撃する。日本でも南ベトナムに肩入れする政府に反対する動きが広がった。
世界の寵児になったのがモハマド・アリ(当時カシアス・クレイ)とビートルズだった。豊潤な文化の時代、同年に刊行された「他人の顔」(安部公房)、「荒魂」(石川淳)、「絹と明察」(三島由紀夫)、「日本アパッチ族」(小松左京)、「個人的な体験」(大江健三郎)に感銘を覚えた。
映画では「砂の女」(勅使河原宏)、「飢餓海峡」(内田吐夢)、「怪談」(小林正樹)、「赤い殺意」(今村昌平)、「かくも長き不在」(アンリ・コルビ)、「突然炎のごとく」(フランソワ・トリュフォ)、「博士の異常な愛情」(スタンリー・キューブリック)あたりが記憶に残っている。
「映像の世紀プレミアム15~東京 夢と幻想のプレミアム」を見た。東京が焦土と化した1945年から19年後の開催は奇跡といってよく、国家予算の3分の1(1兆円)が投入された。東京は様々な問題を抱えていた。交通事情は最悪で、渋滞した車は排ガスをまき散らしていた。解決策は首都高速と地下鉄網の充実だった。
都民は衛生観念が乏しく、公衆トイレはゴミの山だった。都は<一千万人の清掃作戦>を掲げ、婦人会どころか自衛隊まで動員して街を大掃除する。東京浄化の過程でホームレスの姿が消えた。<破壊と創造>が進行し、〝水の都東京〟の光景は一変する。一掃された伝統への野坂昭如の〝弔辞〟が紹介されていた。
「東京砂漠」にクールファイブの名曲を思い出すが、史実に基づいていることを知る。無計画な膨張と雨不足でダムは渇水し水飢饉になるが、旱天の慈雨で危機は回避された。五輪への関心は低く、知識層は大きな犠牲に疑義を呈していた。本作では東京を〝筆のオリンピック〟と評し、作家たちの言葉を伝えている。中でも五輪前後と〝祭りの後〟までルポルタージュした開高健と、開会式について綴った杉本苑子に感銘を覚えた。
3月に太股を刺された米ライシャワー駐日大使は、手術用輸血で血清肝炎に感染する。貧しかった時代、輸血用血液の多くは日雇い労働者の売血で賄われていた。彼らを取材した開高は労災病院に赴き補償金を調査する。<命の値段はインドよりましだが、デンマークとは比べものにならない。どこが先進国なのか>と日本の現実を穿っていた。
杉本は開会式に、43年の学徒出陣式を重ねていた。「あすへの祈念」と題された一文を以下に紹介する。
<二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。(中略) 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみだった。私たちは泣きながら往く人々の行進に添って走った。きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、何としてもあすにつなげなければならないとする祈りだけだ>……。杉本の言葉は57年後の今をも貫いている。
本作に感じたのは戦争の記憶だ。五輪招致の推進役だった田畑政治は聖火リレーの開催場所に、日本軍の爪痕が癒えぬアジア各国を選んだ。沖縄を経てつながれたリレー最終走者の坂井義則は原爆投下の45年8月6日、広島で生まれた。アメリカへの気遣いを説く声に田畑は「アメリカにおもねる必要はない」と毅然と反論する。IOCとNBCに首根っ子を掴まれた現政権とは対照的な矜持を覚えた。
閉会式は語り継がれるハイライトになった。整然と行進する〝日本的〟な光景とは真逆に、日本選手団に各国のアスリートが乱入するお祭り騒ぎになった。小学2年だった俺も大人たちと一緒に競技を見ていた。フランスの水泳選手に心が時めいた。あれは初恋だったのだろうか。
本作を結んだのは開高だった。<(前略)一人の人間が自己を発見するには、一生かかってもまだ足りないくらいなのだというから(中略)いよいよわからなくなるのが当然かも知れない。もし、しいて答えを見つけようとするなら、問いつづけることのなかにしか答えはないはずであると答えるよりしかたあるまい>……。
人生というレースの最終コーナーに差し掛かった俺に、〝問いつづける〟時間はどれほど残されているのだろう。
前回の東京五輪が開催された1964年、前年までのキューバ危機に代わり、世界はベトナムを注視していた。トンキン湾事件への報復を口実に、米ジョンソン大統領は北ベトナムを攻撃する。日本でも南ベトナムに肩入れする政府に反対する動きが広がった。
世界の寵児になったのがモハマド・アリ(当時カシアス・クレイ)とビートルズだった。豊潤な文化の時代、同年に刊行された「他人の顔」(安部公房)、「荒魂」(石川淳)、「絹と明察」(三島由紀夫)、「日本アパッチ族」(小松左京)、「個人的な体験」(大江健三郎)に感銘を覚えた。
映画では「砂の女」(勅使河原宏)、「飢餓海峡」(内田吐夢)、「怪談」(小林正樹)、「赤い殺意」(今村昌平)、「かくも長き不在」(アンリ・コルビ)、「突然炎のごとく」(フランソワ・トリュフォ)、「博士の異常な愛情」(スタンリー・キューブリック)あたりが記憶に残っている。
「映像の世紀プレミアム15~東京 夢と幻想のプレミアム」を見た。東京が焦土と化した1945年から19年後の開催は奇跡といってよく、国家予算の3分の1(1兆円)が投入された。東京は様々な問題を抱えていた。交通事情は最悪で、渋滞した車は排ガスをまき散らしていた。解決策は首都高速と地下鉄網の充実だった。
都民は衛生観念が乏しく、公衆トイレはゴミの山だった。都は<一千万人の清掃作戦>を掲げ、婦人会どころか自衛隊まで動員して街を大掃除する。東京浄化の過程でホームレスの姿が消えた。<破壊と創造>が進行し、〝水の都東京〟の光景は一変する。一掃された伝統への野坂昭如の〝弔辞〟が紹介されていた。
「東京砂漠」にクールファイブの名曲を思い出すが、史実に基づいていることを知る。無計画な膨張と雨不足でダムは渇水し水飢饉になるが、旱天の慈雨で危機は回避された。五輪への関心は低く、知識層は大きな犠牲に疑義を呈していた。本作では東京を〝筆のオリンピック〟と評し、作家たちの言葉を伝えている。中でも五輪前後と〝祭りの後〟までルポルタージュした開高健と、開会式について綴った杉本苑子に感銘を覚えた。
3月に太股を刺された米ライシャワー駐日大使は、手術用輸血で血清肝炎に感染する。貧しかった時代、輸血用血液の多くは日雇い労働者の売血で賄われていた。彼らを取材した開高は労災病院に赴き補償金を調査する。<命の値段はインドよりましだが、デンマークとは比べものにならない。どこが先進国なのか>と日本の現実を穿っていた。
杉本は開会式に、43年の学徒出陣式を重ねていた。「あすへの祈念」と題された一文を以下に紹介する。
<二十年前のやはり十月、同じ競技場に私はいた。女子学生のひとりであった。出征してゆく学徒兵たちを秋雨のグラウンドに立って見送ったのである。(中略) 暗鬱な雨空がその上をおおい、足もとは一面のぬかるみだった。私たちは泣きながら往く人々の行進に添って走った。きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、何としてもあすにつなげなければならないとする祈りだけだ>……。杉本の言葉は57年後の今をも貫いている。
本作に感じたのは戦争の記憶だ。五輪招致の推進役だった田畑政治は聖火リレーの開催場所に、日本軍の爪痕が癒えぬアジア各国を選んだ。沖縄を経てつながれたリレー最終走者の坂井義則は原爆投下の45年8月6日、広島で生まれた。アメリカへの気遣いを説く声に田畑は「アメリカにおもねる必要はない」と毅然と反論する。IOCとNBCに首根っ子を掴まれた現政権とは対照的な矜持を覚えた。
閉会式は語り継がれるハイライトになった。整然と行進する〝日本的〟な光景とは真逆に、日本選手団に各国のアスリートが乱入するお祭り騒ぎになった。小学2年だった俺も大人たちと一緒に競技を見ていた。フランスの水泳選手に心が時めいた。あれは初恋だったのだろうか。
本作を結んだのは開高だった。<(前略)一人の人間が自己を発見するには、一生かかってもまだ足りないくらいなのだというから(中略)いよいよわからなくなるのが当然かも知れない。もし、しいて答えを見つけようとするなら、問いつづけることのなかにしか答えはないはずであると答えるよりしかたあるまい>……。
人生というレースの最終コーナーに差し掛かった俺に、〝問いつづける〟時間はどれほど残されているのだろう。