酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

恋愛小説の極北「白痴」に2人のマリアを見た

2018-12-29 19:01:57 | 読書
 今年最後は大晦日に更新と記したが、帰省その他、用事が立て込んだので難しい。年末年始の雑感を来年早々、京都でアップすることにした。この一年、雑文に付き合っていただいた読者の皆さん、いい年をお迎えください。

 あらゆるジャンルで関心が著しく低下した一年だったが、読書はきっちり日々のサイクルに織り込めた。最後に読了したのはドストエフスキーの「白痴」(亀山郁夫訳、全4巻/光文社文庫)で、再読ではなく初読だった。自伝的要素も濃い作品で、作者が置かれていた状況を重ねて綴りたい。

 「白痴」が発表されたのは1868年、ロシア革命の端緒となった「血の日曜日」は37年後だった。ドストエフスキー自身、社会主義者のグループに属し、シベリア流刑も経験している。国事犯として追放され、欧州を転々としながら本作を執筆した。癲癇を抱える主人公のムイシュキン公爵には作者自身が投影されている。

 ドストエフスキー作品では、革命、哲学、キリスト教、芸術などについて登場人物が繰り返し対話する。「白痴」も同様で、ニヒリストや無神論者らが、黙示録や女性解放を俎上に載せる。革命前夜、狂おしい空気が横溢していることが窺えた。自称デモクラットの公爵は、自身が属する階級と距離と置いている。

 何幕物かの芝居のように、大人数が一堂に会する場面の連続だ。恋愛小説の白眉と評される本作では、<ムイシュキン=ナスターシヤ=ロゴージン>、<ナスターシヤ=ムイシュキン=アグラーヤ>の二つの三角関係、いや四角関係が回転軸になっている。

 本作を支えているのは圧倒的なドラマトゥルギーだ。冒頭のペテルブルグ行き列車の場面で公爵と知り合ったロゴージンとレーベシェフは、生い茂る枝葉となってストーリーを広げていく。厳しい経済状況と監視の下、ドストエフスキーは口述筆記で本作を完成させた。その構成力は神の領域に達している。

 「白痴」とは知的障害を指し、差別語の範疇に含まれるが、ムイシュキンは字義通りではない。頭の回転が鈍いと診断された公爵は少年時代、スイスで庇護され療養していた。ロシア帰国後も周囲との距離感が掴めず、子供じみた言動で「おばかさん」と笑われることもあるが、直観力で人々を感嘆させ、時に柔らかな言葉で刺々しい空気を融和する。だが、自身の能力に公爵は気付いていない。

 ドストエフスキー作品の魅力は、ズームアップ、ロング、そして俯瞰(語り手)の主観を交錯させて物語を織り成すことだ。エバンチン家のパーティーで失態を演じた公爵は、なぜかアグラーヤ(エバンチン将軍の三女)との婚約お披露目の席との認識がない。語り手が社交界を闊歩する高級娼婦と評したナスターシヤに、公爵は〝背徳の彼方の純潔〟を覚え、その内面の壊れやすさに怯えているのだ。

 辺見庸は講演会で、「月」の映像的基調はマリオ・ジャコメッリの写真集であると明かしていた。「白痴」にとって該当するのは「死せるキリスト」(ハンス・ホルバイン)で、公爵をはじめ複数の登場人物に爪痕を残す。訳者の亀山氏は公爵とロゴージンをキリストとユダになぞらえていた。読了後、俺は閃いた。ナスターシヤとアグラーヤは、キリストを巡る二人のマリアではないのかと……。

 聖母マリアは理想主義者で潔癖なアグラーヤに近い。ドストエフスキーはナスターシヤに、罪深い女(娼婦)とされ、キリストの遺体に香油を塗るため墓を訪れたマグダラのマリアを重ねたのではないか。そう考えたら、ホルバインが描いた傷つき苦しむキリストが「白痴」の映像的基調である点にも納得がいく。

 短期間にせよ同じ屋根の下で暮らしていた事実が明かされた公爵とナスターシヤだが、<性>は捨象されていた。俗っぽいメロドラマとは対極の、宿命に彩られた神話の領域に本作は飛翔している。引力と遠心力が織り成す愛の謎は、悲劇的結末を迎えても解けない。再読したいが、俺にそんな時間は残されていないだろう。

 亀山氏が<ドストエフスキーの課題を現在日本に甦らせた>と激賞する中村文則の小説を映画化した「去年の冬、きみと別れ」を、俺は年間ベストテン4位に挙げた。WOWOWで昨日オンエアされたのを見て、一級のミステリーであることを再認識する。高橋和己ほど饒舌ではないが、中村もまたドストエフスキーのDNAを受け継ぎ、社会、そして愛の本質を追求している。
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激高老人PART2~「月」発刊記念講演会で辺見庸の言葉に心を抉られた

2018-12-24 21:57:59 | 読書
 先日(21日)、第11回供託金訴訟裁判(東京地裁)を傍聴し、閉廷後、報告会&只野雅人教授の特別講演会(衆院議員会館)に参加した。感じたことは今年最後の稿(恐らく大晦日)で記したい。

 竜王戦で羽生善治竜王が広瀬章人八段に敗れ、27年ぶりに無冠となった。右脳と左脳をフル稼働し、タイトルを積み重ねてきた羽生だが、あと一つと迫った100期は難しいかもしれない。朝日杯決勝(2月)で今春、広瀬に完勝したのが藤井聡大七段である。羽生は48歳、広瀬は31歳、そして藤井は17歳……。世代交代の奔流に、羽生も呑み込まれてしまうのか。

 全てのジャンルで<老い=衰え>とは限らない。前稿で紹介した友川カズキは還暦を過ぎても傑作アルバムを世に問うている。今回メインに据える辺見庸も2000年以降、脳梗塞と大腸がんを患ったが、復帰後は詩集「生首」、「眼の海」で中原中也賞、高見順賞を受賞しただけでなく、次々に傑作を発表している。

 辺見は今秋、相模原障害者施設殺害事件に着想を得た小説「月」(KADOKAWA)を発刊した。<存在と非在/狂気と正気のあわいを見つめて――「月」はなぜ書かれたのか>と題された2時間半に及ぶ講演会(紀伊國屋ホール)に足を運んだ。

 自身を評した「激高老人」が、前回、今回のタイトルになっている。怒りっぽくなっている辺見だが、同時に、自身のみならず世界も〝すがれて=尽れて、末枯れて〟いるという。辺見は歩行も厳しい状況で週2回、老健施設に通っている。

 講演会は一度キャンセルされた。「月」を対象化出来なかったからだという。<脱稿後も「月」は終わっていない。閉じ込められている。不穏な小説を書いた報いなのか>(論旨)と述べていた。〝解題〟を期待した俺だが、辺見は「月」を書いた〝動機〟をメインに言葉を紡ぐ。

 辺見は聴衆に「友人の皆さん」と語り掛けた。辺見だけでなく愛読者、安倍政権に憤っているリベラルやラデイカルは、肩身がますます狭くなっている。お互い〝風にそよぐ葦〟で、仲間、同志であることを、感謝の意を込め辺見は「友人」に込めたのだ。

 「月」で殺人者として描かれているのは「さとくん」、被害者のひとりの「きーちゃん」は語り手だ。辺見は事件に囚われず、日本を後景に据えている。言葉の基調になっているのが「行旅死亡人」だ。引き取り手がなく、存在が消された遺体……。ノスタルジックでアルカイックな響きが、施設入居者に重なる。

 「さとくん」は加害者で悪、「きーちゃん」らは被害者で善……。この構図を固定し、<命の価値>と<誰しもが生きる権利>を説くメディアに、辺見は気持ち悪さを拭えない。辺見は自身の経験を踏まえ、<人間は例外なく障害者。健常者と障害者の区別はない>と考えている。

 辺見は善と悪の境界が薄れゆく現実に思いを馳せる。格差は拡大し、弱者は鞭打たれている。欺瞞と私欲に塗れた政権を悪と断じ、弾劾する者は少数だ。増大する排除の論理、近づく軍靴の響き……。辺見は事件を日本社会の写し絵と捉え、加害と被害は等価値と見做す。返り血を浴び、血煙の内側に身を措いて「月」を著した。

 「月」の映像的基調としてマリオ・ジャコメッリの写真集を挙げた。ジャコメッリは見る者に時空の不確かさと遠近感の崩壊を突き付ける。ホスピスにカメラを据えた第2写真集「死が訪れて君の眼に取って代わるだろう」の中の「スカンノの少年」に、辺見は「さとくん」を重ねた。子供か老人か見分けのつかない男が写った作品にインスパイアされて「ヤコブ」を造形したに違ない。

 ジャコメッリは〝撮るという暴力〟を用いず、年月をかけてホスピスに入り込む。死にゆく者の眼を通して世界を写す手法は、「月」にも用いられている。辺見は今、老健施設で痴呆症らしき高齢者と交流している。自身も脳梗塞で倒れ、無意識の闇を彷徨った。死者、無意識者、沈黙している者の内面は時にアナーキーで、「月」で描かれているように〝人格が割れている〟。辺見は<人間は幻想の総合体>と規定していた。

 辺見は感銘を覚えた小説として「楢山節考」(深沢七郎著)と「セトナ皇子」を挙げた。「さとくん」の殺戮は、「楢山節考」で描かれた日本の共同体の語られざる因習(姥捨て)、蔓延りつつある<与死>の概念と通底している。〝心失者〟の「きーちゃん」は「月」で「わたしはなぜあるのか、なくてもいいのに」と自問する。「セトナ皇子」が追求したテーマは<あることの無意味>だ。<あるということに意味がない>と考えることが自由の端緒だが、「さとくん」は<あることの意味>拘泥し、最善を目指して最悪の行為に至った。

 作者が消化に至っていないのに、俺が「月」の全体像を把握来るはずもない。メタファーとして頻繁に現れるのがカゲロウで、すぐそこにある死を象徴している。定常的な日本の現状――社会は何があっても復元し、旧に復する――に絶望している辺見は、カタストロフィーを待つような言辞を繰り返した。濃密な言葉に抉られ、血煙が俺の中で広がった。
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激高老人PART1~〝師走の風物詩〟友川カズキ阿佐ケ谷ライブ

2018-12-20 21:21:20 | 音楽
 イスラエルのパレスチナに対する人権弾圧に、世界中で抗議の声が上がっている。米国を後ろ盾に国連決議を蹂躙するイスラエルに対抗する最後の手段はBDS(ボイコット、資本引き上げ、制裁)であることは承知の上で、先週末のBDS japan結成大会には参加しなかった。

 武器開発、五輪を契機にしたセキュリティー強化で日本とイスラエルは接近中だ。ソフトバンクを筆頭に関係構築を志向する企業も増えている。BDS japanの会員になることで問われる身体性(抗議集会やデモへの参加)に自信が持てないから、当分はカンパを〝免罪符〟にするつもりだ。

 感性の著しい劣化を実感した一年だった。顕著なのはロックで、15年前までは年にアルバム60枚は購入していた。NMEの年間ベストテン発表を待つまでもなく、ランクインした作品はほとんど聴いていた。今年最も期待していたのはThe1975の3rdで、NHEでは年間1位の評価だったが、イマイチというのが俺の感想だ。

 俺にフィットしたのはジュニー・マーの「コール・ザ・コメット」、マニック・ストリート・プリーチャーズの「レジスタンス・イズ・フュータイル」だが、ともにNMEのベスト50以内にランクされていない。NMEが時流に阿っているのか、それとも俺が取り残されたのか……。恐らく後者だろう。

 16日と18日、「激高老人」に圧倒された。16日は第17回オルタナミーティング「友川カズキ 阿佐ケ谷ライブ」(阿佐ヶ谷ロフト)で、18日は「『月』刊行記念~辺見庸講演会」(紀伊國屋ホール)である。激高老人とは辺見が最近の自身を評していた言葉だ。辺見の講演会については新作「月」の感想と併せて次稿で記す。

 辺見より6歳下(68歳)の友川のステージにも荒ぶる魂が溢れていた。ライブを見るのは4回目。いずれもオルタナミーティング主催で、場所は阿佐ヶ谷ロフトだ。微力ながら広報&やチケット販売で協力している俺にとって師走の風物詩になっている。立ち見も出る盛況で、オープニングアクトの尾島隆英は友川に敬意を表し、「夢のラップもういっちょ」をカバーしていた。

 晩年の大岡昇平、「戦場のメリークリスマス」にキャスティングしようとした大島渚をも魅了した友川はライブ冒頭、安倍政権の原発政策への怒りをぶちまける。隠蔽と私欲に塗れた政権に抗議しない国民を憂えていたが、俺たち凡人は軋轢を恐れ沈黙が倣いになる。武器(歌)を持つ友川が羨ましくてならなかった。

 覚えている範囲で主立ったセットリストを挙げれば、「コスモスと鬼」、「夜の国へ」、「祭りの花を買いに行く」、「グッドフェローズ」、「一人独りぼっちは絵描きになる」、「トドを殺すな」、「青いアイスピック」、「ピストル」、「家出少年」、「生きてると言ってみろ」となる。

 タイトルを思い出せない曲も幾つかあり、自宅に帰って復習した。そこで気付いたのは、最近のアルバム「青いアイスピック」、「復讐バーボン」、「光るクレヨン」の濃密さとクオリティーの高さだ。デヴィッド・ボウイ同様、友川は還暦を過ぎて表現者としてのレベルを上げている。これは奇跡といっていい。

 「この年になるといろいろある。遠藤賢司、忌野清志郎が亡くなって、チューニングしてくれた人で生きてるのは三上寛ぐらいになった」と寂しげに語る。膵臓がんで闘病中の遠藤ミチロウには触れなかった。ミチロウは同年生まれで、友川の名曲「ワルツ」をカバーしている。

 アメリカやウクライナでのツアーの感想も面白かった。歌詞を英訳する人がステージに立っていたようだが、友川の表現を借りれば〝狂ったような〟反応があったという。言霊ならぬ音霊で、言葉を超えて感応するのは可能なのだろう。

 友川の魅力は、それぞれの曲に静謐と狂気、繊細と野性のアンビバレンツがちりばめられ、諦念、絶望、孤独を叙情に包んでいる点だ。モノローグと叫びで表現し、MCで繰り返す「射殺してやる」は優しさを隠すための偽悪と感じた。

 「自分には何もないから、本、映画、絵画に触れて曲を作っている」と語る友川は、インスパイアされた表現者や光景を明かして歌い出す。画家たるゆえんか、目を瞑ってシュールかつ哲学的な歌詞に集中すると、脳裏に水彩画が広がってくる。ギャンブル中毒(競輪好き)で〝人間失格〟を自任する友川は、社会の底から言葉を刻んでいる。乱射し屈曲するプリズムのような友川ワールドに魅せられた夜だった。
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「グレイテスト・ショーマン」~疾走感溢れるミュージカル

2018-12-16 13:14:16 | 映画、ドラマ
 この一年、関心が薄れたジャンルもあったが、映画観賞のペースは変わらなかった。以下に極私的ベストテンを記したい。

①「判決」(ジアド・ドゥエイリ)
②「カメラを止めるな!」(上田慎一郎)
③「万引き家族」(是枝裕和)
④「去年の冬、きみと別れ」(瀧本智行)
⑤「1987、ある闘いの真実」(チャン・ジュナン)
⑥「シェイプ・オブ・ウォーター」(ギレルモ・デル・トロ)
⑦「菊とギロチン」(瀬々敬久)
⑧「タクシー運転手」(チャン・フン)
⑨「華氏119」(マイケル・ムーア)
⑩「スリー・ビルボード」(マーティン・マクドナー)

 続くのが「グレイテスト・ショーマン」と「ボヘミアン・ラブソディ」(ブライアン・シンガー)の音楽映画、「操作された都市」(パク・クァンヒョン)と「殺人者の記憶法」(ウォン・シニョン)の韓国映画、「サムライと愚か者」(山本兵衞)と「獄友」(金聖雄)のドキュメンタリーである。

 ※追記(1月5日)=何か忘れていると思っていた。「Search サーチ」(アニーシュ・チャガンティ)は確実にベストテンに入る作品です。

 新宿ピカデリーで先日、「爆音映画祭」で再上映された「グレイテスト・ショーマン」を見た。「ボヘミアン・ラブソディ」に匹敵する動員力で、DVDが店頭に並んでいるにもかかわらず、3日前にネット予約した時点で残りは3枚だった。疾走感と楽曲の素晴らしさがマッチした「グレイテスト――」に魅了された。

 主人公バーナム(ヒュー・ジャクソン)のモデルは実在の興行師だ。上流階級の娘チャリティ(ミシェル・ウィリアムズ)と駆け落ち同然で結ばれたバーナムは、フリークスによるミュージカルでショービジネス界の大立者になる。成功で心が揺らいだバーナムだが、家族と仲間の絆に立ち返り、大団円に至る……。これがおおよそのストーリーだ。

 根暗な切り口で本作を論じてみたい。俺は今、講演会(18日、紀伊國屋ホール)に備えて辺見庸の新著「月」を読んでいる。相模原の障害者施設で2年前に起きた殺傷事件をベースに、心の闇と社会の歪みを照射している。「グレイテスト――」もまた、人の心に巣くう差別意識を描いていた。

 「グレイテスト――」に登場する批評家が暗示的だ。観客から絶大の評価を受けた同作だが、厳しい批評も多かった。バーナムの興行に反対する人たちの言動は、現在の差別主義者やヘイトスピーチに重なる。米国では政治の圧力がメディアに及び、興行成績に影響を与えることもしばしばだ。最近では主人公が銃規制キャンペーンを主導し、二大政党制の虚妄を抉った「女神の見えざる手」(16年)が典型か。

 忖度したメディアの酷評で早々に打ち切られたのは、〝米映画史上ナンバーワン〟としてクリスマスの定番になった「素晴らしき哉、人生!」(46年)だ。公開当時、批評家の集団リンチを浴び、社会主義者のレッテルを貼られた名匠キャプラは事実上、ハリウッドから追放される。

 映画のみならず、音楽や文学でも批評家の力が大きいのが米国の実情だ。「グレイテスト――」の舞台である19世紀、既にエスタブリッシュメントは形成され、批評家上位の構図は確立していたことが窺えた。まあ、人気作をあれこれ語っても意味はない。クリスマスの夜、至高のエンターテインメントをレンタルDVDで楽しんでもらいたい。

 最後に、今年のドラマを振り返る。ドラマWでピックアップした「闇の伴走者~編集者の条件」、「イアリー見えない顔」、「誤判対策室」、「真犯人」はいずれもハイクオリティーな作品だった。海外物では「BULL/法廷を操る男」(シ-ズン1&2)の斬新さとウィットを楽しんでいる。

 WOWOW以外なら「カラスになった俺は地上の世界を見おろした。」(NHK)が内容、映像とも秀逸だった。シリーズ物なら何といっても「リーガルV」だ。「ドクターX」の二番煎じと思っていたが、「X」より「V」の方が遥かにいい。チームワークと熱さに、最終回では部屋でひとり拍手してしまった。
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今年の漢字は<災>~自身を振り返れば<衰>

2018-12-12 21:02:50 | 独り言
 父ブッシュの訃報は日本でも大きく報じられた。「デモクラシーNOW!」は負の側面を抉り、死者を鞭打っている。「民主主義を守る」という大義を掲げたパナマ侵攻は、後の大統領たちの〝模範〟になった。長官を務めたCIA時代、父ブッシュは中南米の独裁者を支え、民衆弾圧に手を貸す。民主主義の敵というべき存在だった。

 今年の漢字が今日(12日)、清水寺で発表された。天災に次々襲われたことから<災>が選ばれる。下馬評にも挙がっていたから、妥当な結果といえるだろう。幾つものジ・エンドの重なりから<終>、改竄が相次いだことで<改>を挙げる識者もいた。競技を問わず、独裁的、閉鎖的体質が次々に明るみに出たことで、スポーツ記者は<圧>を推していた。藤井聡大七段にとって<進>の一年だったという。

 俺が挙げるなら、空洞化に相応しい<空>、閉塞感から<閉>、階級分化を示す<分>、沈黙を主音に沈みゆく日本を似つかわしい<沈>といったところか。トランプ大統領を筆頭に対立を煽る指導者によって世界は血なまぐさくなり、<戦>、<爆>、<暴>の字がメディアで躍る。マルクス・ガブリエルは来日した際、「静寂が叫んでいるようだ」と東京を評した。ハロウィーンの空騒ぎを合わせ、<叫>と<騒>も世相を映している。

 自身を振り返ると、<衰>以上にピッタリくる言葉は浮かばない。卑近な例を挙げれば前稿で、サブタイトルの「ベッド」が半日ほど「ベット」になっていた。職業が校閲だから、仕事の質も推して知るべし。O型の俺は、物事を遺漏なく進めるA型的資質を著しく欠く。何をやってもずさんで、偏差値50を辛うじて超える仕事は新聞の校閲のみだ。とはいえ、齢を重ねての劣化は隠しようがなく、周りに支えられてこなしている。

 前稿で記したが、歯で入院とは想定外だった。膝と肩が痛く、接骨院に週1回通っている。近眼と老眼がごっちゃになって、2本の眼鏡を使い分けないと生活も仕事も立ち行かない。気力も衰え、進取の気性は減退し、日々の景色から消しゴムでこするようにパーツが失われていく。いつも酔生夢死状態で日々、永眠へのリハーサルをしている。

 愕然とするのは記憶力の衰えだ。「相棒」や「科捜研の女」(ともにテレ朝系)、「十津川警部シリーズ」(TBS系)の再放送を見ていても、何も思い出せないうち終わることがしばしばだ。30年ぐらい前のこと、両親は「刑事コロンボ」の再放送、いや再々放送を新鮮な驚きで見ていた。今の俺と全く同じで、健忘は我が家の血筋なのだろう。

 衰え劣化したのは、俺だけではなさそうだ。リベラルや左派が主催するデモや集会、イベントの動員力は大幅に減少していることを、志葉玲氏はパレスチナ報告会で憂えていた。政治的発言だけでなく、自身が属する組織で思いを率直に語ることへの忌避感も拭えない。自由が失われたら、社会は衰退するしかない。

 安倍首相を支える右派はどうだろう。改正水道法案と出入国管理法改正案が国会を通過した。前者は多くの国民が内実を知らされず、後者は矛盾を抱えたままだ。話は逸れるが、水道法については鷹野一彦シリーズ第3作「ウォーターゲーム」(18年、幻冬舎)は、現実を先取りした必読の書だ。

 種子法と水道法は安倍首相が1期目に掲げた<美しい国日本>と明らかに反している。北方四島を巡る日露交渉でロシアのラブロフ外相は、<第2次世界大戦の結果を認めることが交渉の条件>と語っていた。これは、<北方四島は日本固有の領土>と説くこの国の保守派と異なる。

 研究所テオリア主催のシンポジウムで杉田敦法大教授は、安倍政権は新自由主義、国家社会主義、排外主義、内閣中心主義を基盤に成立していると分析していた。この間の永田町の動きを見ていると、安倍政権は明らかに新自由主義に軸足を置いている。日本の伝統と文化を愛しているはずの右派は、なぜか安倍政権に意を唱えない。保守も空洞化しているのだろう。
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還暦男入院日記~ベッドの上で考えたこと

2018-12-08 21:41:17 | 独り言
 夕刊紙で校閲を担当している俺は、向かいのセクションの競馬班と親しく交流している。POG指名馬が勝つたび差し入れているから、積まれた菓子を遠慮なく食べている。9月上旬、北海道シリーズ担当記者が帰京した際に持参したキャラメルを二つ三つ口に入れた。その時、異変が起きる。グニャッとした音と同時に歯の詰め物が取れたのだ。

 10年以上前に処置してくれたクリニックで、他の部分の疾患が明らになる。抜歯3本だけでなく、歯茎に溜まった膿が脳に繋がる神経に支障を来す可能性を指摘された。惚けぶりを考えると、既に症状は起きているかもしれない。歯科医の伝もあり都立駒込病院で3泊4日の入院が決まった。

 記憶が全くないまま、全身麻酔で手術が終わった。手術前後の検診も2時間おきで、担当医や看護師の丁寧な応対に感謝している。血糖値が高かったことで、食事は全て糖尿病患者仕様だった。病棟にローソンがあり、間食への欲求を抑えるのは大変だった。

 高層の病室から隅田川花火やスカイツリーが見えると聞き、遠藤ミチロウの詩集「膠原病院」を思い出した。膠原病に罹ったミチロウは夏に入院し、闘病の日々を綴った。帰宅して捜したが、時に〝ブラックホール〟と化す部屋で見当たらない。看護師さんによると、墨東病院の可能性もあるという。ミチロウは先日、膵臓がんを公表した。復活ライブを心待ちにしている。

 前稿の冒頭に記した通り、パソコンは持ち込まず、ネットと距離を置く。惰眠の合間に読書を楽しんだ。ガラケーに知人から「ようやく回復」とのメールが届く。意味不明だったが、ニュースで腑に落ちた。新規上場を控えたソフトバンクで大規模な通信障害発生し、大変な事態になっていたようだ。

 俺はソフトバンクに厳しい目を向けている。3・11を受け「自然エネルギー財団」を設立したまではよかったが、活動が目に見えてこない。孫正義氏はトランプ大統領に擦り寄り、武器・セキュリティー先進国イスラエルと緊密な関係を築いた。非人道的なイエメン空爆を主導するサウジアラビアのムハンマド皇太子とはファンドを設立する。孫氏は悪の枢軸<アメリカ-イスラエル-サウジ>のキーパーソンになっている。

 駒込病院は効率的なシステムで運営されている。外来時にはポケベル様の機器を渡され、行き先が画面に指示される。担当医、スタッフの丁寧な対応も素晴らしかった。入院費はほぼ想定通りで、歯を治療している方は物入りを理解しているはずだ。幸い俺には〝孝行娘〟がいた。POG指名馬アーモンドアイである。それも今年いっぱい。摂生の必要性が身に染みた師走である。

 帰宅してメールやお馴染みのサイトをチェックする。羽生竜王が3勝目を挙げ、タイトル防衛(通算100期)にあと1勝と迫った。第6局は日本中の耳目を集めるだろう。前々稿で触れたバズコックスのピート・シェリーの訃報を「ロッキング・オン」HPで知る。多くのフォロワーを生んだ先駆的ロッカーの死を悼みたい。

 この間、アンテナにかかった点については次稿に雑感として記したい。今年一年を象徴する漢字一字を考え中だが、果たして……。
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「東京小説」~昭和を切り取る野坂昭如の鮮やかな遠近法

2018-12-04 02:03:39 | 読書
 本稿更新後、朝一番で入院する。3泊4日の予定だ。パソコン持ち込みも可能だが、情報の渦から距離を置く格好の機会なのでやめておく。入院生活については次稿に記すが、早くても土曜夜になるだろう。
 
 予告通りミューズの8thアルバム「シミュレーション・セオリー」の感想から。一言でいえば濃密で、「闇を抱えてきた」、「追い込まれた」、「回路が壊れた」、「砕かれたアイデンティティー」と歌詞に閉塞感が漂っている。<ゲームの世界に迷い込み、出口が見つからない>がコンセプトだ。

 ロンドン蜂起の空気を先取りした「アップライジング」(叛乱)など、ラディカルなメッセージを歌詞に織り込んできたミューズだが、本作のベクトルは内向きだ。クオリティーは高いが、チャートアクションは前作「ドローンズ」を下回っている。クイーンを継ぐスタジアムバンドとしての地位を確立したミユーズだが、ヒップホップ、ラップが主流になりつつある今、〝ロックファン御用達バンド〟は分岐点を迎えている。

 録画しておいた「カラスになったおれは地上の世界を見おろした。」(BSプレミアム)を見た。ドローンを活用した映像は斬新で、ドラマ史に名を刻む傑作だった。IT起業家の坂口(眞島秀和)は誕生パーティーの馬鹿騒ぎの後、一羽のカラスに誘われ体を交換する。大空を舞って目撃した光景に自身の愚かさに気付く。〝人生の成功者〟〝幸せな家庭人〟は偽りの仮面だったのだ。

 妻と息子の切羽詰まった状況、部下の卑しさを知った坂口は、カラス(姿は自分)に導かれるように、封印した過去へ舞い立つ。何年も会っていない施設暮らしの母、少年時代に手ひどい仕打ちをした女性と再会した坂口(姿はカラス)は、人間らしい情感を取り戻す。物語は二転三転し、エンドロールの後、パラレルワールドが暗示されていた。

 「カラス――」とどこか重なる短編集を読了した。野坂昭如著「東京小説」(講談社文芸文庫)である。初出は1988~89年のバブル絶頂期で、野坂は当時、還暦直前だった。戯作調ながら日本文学の伝統に則った文体、滲み出る死生観……。野坂文学のエキスを味わえるタピストリーだった。

 田中角栄に挑んだ正義感と気骨、自虐的なポーズが魅力の野坂だが、俺は決してファンとはいえない。〝預言者野坂〟に衝撃を受けたポリティカルフィクション「オペレーション・ノア」(1981年)はあくまで傍流の作品なのだ。「東京小説」についてまともな評を書けるはずもなく、感想のレベルを超えることはない。

 立ち位置を変えて顔を覗かせる主人公だが、「家庭篇」では聞き手である。公園のペンチで隣り合わせた女が語る半生に、私は女の孤独の深さを感じる。ディテールの細かさが練習の精華としか思えないからだ。「純愛篇」では中年男と少女の虚実ないまぜの「ひとり妄想」がケミストリーを生み、波紋を広げる。リアルでないが故、純愛なのだ。

 野坂は戦中戦後とバブル期をシンクロさせている。野坂が「東京小説2018」を書いたと想像してみる。外国人が増え、格差と貧困が拡大した現在をどう描くだろう。家族崩壊を先取りしたともいえる「慈母篇」に〝預言者野坂〟の慧眼を感じた。「僕の町篇」では現実と仮想の境界線を行き来する「タア爺イ」を造形し、「相姦篇」は野坂が繰り返し描いた性のタブーがテーマだった。

 「隅田川篇」は川端康成の短編に似た深い味わいがある。娘を持つ野坂の父性がベースになっており、喪失の哀しみに心を穿たれる。猥雑さと神聖さの混淆をユーモアに包んで描いた「夢の島篇」に、入院を控えた我が身がそよぐのを覚えた。

 全体を通して感じたのは、野坂の鮮やかな遠近法で、優れたフォトアイで昭和の光景を切り取っていく。「私篇」で野坂は自身をターゲットにしている。野坂は小説にのみならず、多くの分野で煌めいてきた天才だ。同時に世渡りに長けていることも「私篇」に示されている。奇矯な振る舞いと奇妙なこだわりを詳らかにし、自嘲とユーモアでまぶしているのが野坂らしい。

 当ブログで紹介してきた辻原登、町田康(文庫版の解説)、車谷長吉らに与えた影響が窺える。未読、再読問わず、野坂の傑作群を少しずつ読んでいきたい。
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「ボヘミアン・ラプソディ」~苦悩が紡いだ至高のロックアンセム

2018-12-01 12:38:27 | 映画、ドラマ
 新宿で「ボヘミアン・ラプソディ」(18年、ブライアン・シンガー監督)を見た。クイーンのレコードデビューは1973年だから、当時20代だった方は70歳前後。客席に中高年層、とりわけ女性の姿が目立ったのも当然といえる。YAHOO!のユーザー採点は4・7前後(5点満点)と奇跡的な高さをキープ中だ。フレディが愛した猫たちも作品に彩りを添えている。

 CGなど先端技術をフルに用いたウェンブリースタジアムでのパフォーマンス(ライブエイド)の再現に、長年のファンはノスタルジックな気分を覚えただろう。ラミ・マレックもフレディ・マーキュリーを演じ切っていた。初期の「炎のロックンローン」や「キラー・クイーン」を口ずさんでいた程度で、アルバムを購入したことがない〝非ファン〟の俺は、時代背景を切り口に感想を記すことにする。

 パンク~ニューウエーブにどっぷり漬かった俺にとってクイーンは視界の外で、過小評価されている嫌いもあった。それを痛く感じたのは「カンボジア難民救済コンサート」(79年)である。「ヤング・ミュージック・ショー」(NHK)の枠で81年にオンエアされ、クイーン→クラッシュの順で登場した。

 ショービジネスの垢に塗れたクイーン、ロック界の革命児クラッシュ……。両者のコントラストは鮮明だった。イベントを仕切ったのはポール・マッカートニーとピート・タウンゼント(ザ・フー)で、クイーンはパンクスと大御所に挟まれ居心地が悪かったと思う。

 フレディは自身のセクシャリティーに苦悩していた。ファム・ファタールのメアリー(ルーシー・ポイントン)を大切に思いながら、愛に至らない。別居して隣のマンションに暮らすフレディとメアリーが灯で交信するシーンに心が潤んだ。愛ゆえの孤独が本作のメインテーマといえる。

 日本文化に造詣の深かったフレディは、お忍びを含め来日するたび新宿2丁目に足を運んだという。制度的にはLGBTに冷酷な日本だが、先進国で最もゲイやレズビアンに寛容だったことは、60~70年代のショービジネス界が示している。英国はといえば、映画「イミテーション・ゲーム」にも描かれている通り、事情が大きく異なっていた。

 70年代後半、トム・ロビンソン・バンドの「グラッド・トゥ・ビー・ゲイ」はBBCで放送禁止になる。PVにはトムの決死の覚悟が表れていた。モリッシーもスミス時代からカミングアウト状態で、ピカデリーサーカスにたむろする男娼を題材にした曲(「ピカデリー・パラーレ」)がある。

 パンクのトム・ロビンソンやピート・シェリー(バズコックス)はいざ知らず、国民的人気バンドのフロントマンがカミングアウトすることは難しく、服装やヘアスタイルで表現するのが精いっぱいだった。本作にも、マスコミに詰問され、フレディが苦しげな表情を浮かべるシーンがある。

 音楽的志向は異なっても、フレディの思いは後世のアーティストに受け継がれた。ヨンシー(シガー・ロス)は性同一性障害を公表しているし、マイケル・スタイプ(REM)やサム・スミスもゲイであることを明かしている。彼らの勇気が社会を少しずつ変え、アメリカでは現在、多くのLGBTの代表が議会に進出している。

 フレディは少年時代、「パキ野郎」と罵られていたが、パキスタン移民ではなくペルシャ系インド人とされる。俺がフレディに感じるのはロマ(ジプシー)だ。そもそも「ボヘミアン」とはロマへの蔑称で、定住しない人のことを指す。ジェスロ・タルやレッド・ツェッペリンにも、自由に価値を置くロマの匂いが漂っていた。ミューズのマシュー・ベラミーも少年時代、スペインでロマのギタリストに教えを請うたという。

 各メンバーが曲作りを分担していたように、クイーンは決してフレディ独裁ではなかった。他の3人はインテリ風で、フレディのみロックスター特有の破滅志向に取り憑かれ、乱行を繰り返した。孤立し、恋人(男)にも裏切られたフレディは家族(クイーン)の元に戻り、両親とも和解した。91年に召されたフレディは、ゾロアスター教の教義に従い火葬されたという。

 本作の最大の魅力は楽曲だ。「ウイ・ウィル・ロック・ユー」と「伝説のチャンピオン」は、今も世界的スポーツイベントの定番だ。フレディの絶望と懊悩が人々を高揚させる至高のロックアンセムを生んだことを実感する。次稿の枕では、スタジアムバンドとしてクイーンの後継者と目されるミューズの新作について記したい。
コメント (2)
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