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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「トータル・ライフ・フォーエヴァー」~エモーショナルに深化したFOALS

2010-05-31 00:19:23 | 音楽
 ビートジェネレーションの精神を継承したアウトサイダーが召された。デニス・ホッパー、享年74歳。「イージー・ライダー」で世界に衝撃を与え、「アメリカの友人」、「地獄の黙示録」、「ブルーベルベット」で強烈な存在感を示す。「スピード」の悪役も魅力的だった。

 ♪吐く息が白くなるほど 冷たいコーラ飲み干し 豹柄のヴェスパで あの子を迎えに行かなくちゃ 今すぐ デニス・ホッパーみたいに 路上で吹き飛ばされる前に……

 ブランキー・ジェット・シティ時代、こう歌った浅井健一も、手向けの酒を酌み交わすに違いない。

 芯が詰まったホッパーと比べたら、俺の生き様など泥池で息を潜めるボウフラの如くで、成虫(蚊)になれぬまま老いさらばえている。右膝の不調は治まらず、幾つかの予定を中止した。レントゲンを撮ったら、「年のせいで骨の噛み合わせが悪くなってます。減量した方が」と医者に言われた。

 気持ちだけでも若くありたいと現役ロックファンに復帰すると、NY派がビルボードのアルバムチャートを賑わせ、世界を闊歩していた。UKの若手は押され気味で、高評価のホラーズでさえあまり売れていない。今回紹介するFOALSも同様で、満を持して先日発表した2nd「トータル・ライフ・フォーエヴァー」がコケてしまった。俺の脳裏をよぎったのはマンサンの悪夢である。

 マンサンの2nd「SIX」は狂おしいほどメランコリックな究極のポップアルバムだが、<真にいいものは売れない>という〝ロックの法則〟を証明し、バンドは失速した。俺のようなしがないブロガーでさえ、気合を入れて書いてもアクセス数が増えないと落胆するものだ。傷心のFOALSは、マンサンの道を辿るのだろうか。

 研ぎ澄まされ、際立った輪郭を持つ曲が並ぶ1st「アンチドーツ」超えを目指したFOALSは、細部まで工夫を凝らしつつ、エモーショナルに深化した。ニューウェーヴの影はさらに濃くなり、初期デペッシュ・モードを彷彿とさせるリリカルな曲調もある。俺にとってはノスタルジックで心地良い作りだが、ファジーで切れに欠けるといえぬこともない。〝時代の寵児〟MGMTだって、印象は変わらないけれど……。

 ロックは俺にとって魂を抉るナイフ、気分を活性化させる刺激剤、そして心を洗う濾紙だった。現役ファン復帰後、最大の効能である〝癒やし〟に気付く。ミルクに浸されたパンのようにFOALSの音に和みながら読書するのが、俺にとって至高のひとときだ。

 FOALSは6月15日、アストロホール(原宿)でワンナイトギグを行う。若者が感性を磨く恰好の機会をロートルが奪うこともないから、見送ることにした。ちなみに、チケット(500枚弱)はまだ残っているようだ。かのステレオフォニックスでさえ会場はキャパ1000人クラスと、この国のロック環境は悪化の一途を辿っている。洋楽ロックは若者ではなく、金満中高年のための音楽になったようだ。

 最後に、ダービーの感想を。①②着は早々に切ったので大外れは仕方ない。「競馬予想TV!」で藤沢番のヒロシ氏と調教調査官の井内氏が、ペルーサのソフトな追い切りに疑問を呈していた。前走の好タイム勝ちがこたえていた可能性もある。

 ダノンシャンティの取り消しもあったが、時計が出過ぎる馬場のままでは、一流馬の故障続出に歯止めはかからない。JRAに改善を望みたい。



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ダービー&POG~競馬依存を強める日々

2010-05-28 01:04:26 | 競馬
 ダービーの枠順が確定した。〝史上最高〟の前評判に相応しい素質馬が揃ったが、燃えるものがない。2週後のペーパーオーナーゲーム(POG)ドラフト会議に気持ちが飛んでいるからだ。指名馬が出走しない分、冷めた目で出馬表を眺めているうち、<この馬を選んでいたらなあ>なんてPOG的感覚に陥ってしまう。

 まずは母の父がラムタラのヒルノダムールに目が留まる。ダービー、キングジョージ、凱旋門賞を続けて制し〝神の馬〟と呼ばれたラムタラは、鳴り物入りで輸入されたものの、種牡馬として失敗する。ヒルノダムールにはぜひ、祖父の屈辱を晴らしてほしい。
 
 あとはペルーサとレーヴドリアンで、それぞれの弟と妹は今季のPOGでも人気を集めるだろう。俺の趣味には合わないが、皐月賞馬ヴィクトワールピサには敬意を払いたい。

 ◎⑫ヒルノダムール、○⑨ペルーサ、▲⑦ヴィクトワールピサ、△②レーヴドリアン。馬連は⑫から3点、3連単は⑫1頭軸で買う。

 ダービー以上に注目する今週のレースは、POG指名馬アマファソンが出走する白百合ステークスだ。ダービー以降はGⅠのみ加算というルールだから、ここを勝って秋華賞に繋げてほしい。
 
 初年度は4位(12人中)、2年目も似たような順位だが、ビギナーズラックとしか言いようがない。セイウンワンダー、エイシンアポロン、シンメイフジら下位指名馬が想定外の活躍で下支えしてくれたが、クラシックを意識した上位指名馬たちは総じて振るわなかった。3年目は方針を変え、<人気厩舎の良血馬>を臆面なく選ぶ予定だ。

 ディープインパクトの産駒が走るかどうか……。今季の注目はその一点に尽きる。種付けした牝馬は極め付きの良血揃いだが、資質を潰し合う危険性を指摘する専門家もいる。小柄がいい(大きいと駄目?)、スピード血統の牝馬が好相性(欧州系は合わない?)などかまびすしいが、1年後に答えは出ている。

 2年の経験で身に染みたのが、厩舎の重要性だ。ダービー出走表を見ても、角居、池江泰郎の2頭出しを筆頭に、藤原英、松田博、堀、橋口、藤沢和、昆、長浜、松田国とGⅠ実績を誇る名伯楽の名が並んでいる。腕利きスタッフを抱える厩舎に高額馬を預け、実力派ジョッキーでレースに挑むという競馬サークルの〝優勝劣の法則〟に、格差否定の俺も従うしかない。

 血統ってそんなに大事なの? 競馬ファン以外の方はこんな疑問を持たれるはずだ。あくまでも確率で、字面通りにはいかない。人間となれば尚更で、〝駄人〟の俺など、父系の〝商人の血〟と母系の〝役人の血〟が相殺され、運だけで世を渡る怠け者だ。ちなみに社交家かつ努力家の妹は、父系と母系の良質のDNAを受け継いだ例といえるだろう。

 付け焼き刃と言うしかないが、先週末からようやくPOGの準備に入った。ドラフト会議が終わった頃に開幕するワールドカップは、参院選の喧騒と重なる。野次馬の俺ゆえ、フワフワと非文化的な日常に流されそうだ。





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Wカップへのカウントダウン~CL決勝&日韓戦

2010-05-25 00:14:24 | スポーツ
 普天間基地移設は堂々巡りに終わった。民主党の混迷はひどいものだが、自民党政権が継続していればすべて〝決め事〟で押し通しただろう。沖縄県民以外が半世紀以上、向き合わなかった問題について議論百出の現状は、1年前と比べて大きな前進ではないか。

 自動車産業における<米中連合VS日本>の構図(前稿)だけでなく、したたかな米中は経済を軸に緊密さを増している。新たなコンセンサス形成に向け、<日米安保と基地は中国への抑止力>という前提を疑ってかかる必要がある。

 チャンピオンズリーグ(CL)決勝でインテルがバイエルンを2-0で下し、45年ぶりにビッグイヤーを獲得した。プレミアとリーガばかり見ているので前知識は少なかったが、スカパーの中継は解説者とアナウンサーの掛け合いが面白く、背景のドラマも含めて楽しむことができた。 

 オランダ代表とバルセロナでの失敗で〝過去の人〟と思い込んでいたバイエルンのファンハール監督だが、今季はチームを国内リーグVに導くなど復活を印象づけた。そのファンハールに見いだされたのがインテルのモウリーニョ監督で、CL決勝は友情と敬意に溢れた師弟対決でもあった。

 セリエAで抜群の強さを誇ったマンチーニ時代のインテルだが、CLでは万年優勝に挙げられたものの期待を裏切り続けた。モウリーニョでも内弁慶の克服は厳しいかな……と思っていたが、2年目で結果を出した。イタリア人選手の先発がゼロでも堅固な守備を構築し、チェルシーで世界を瞠目させたダイナミズムを植え付けた。〝草食系〟イブラヒモビッチを放出してエトーを獲得したこともプラスに作用する。

 派手な言動で話題を提供するモウリーニョだが、〝勝利はすべて選手のおかげ、敗北の責任は自らが負う〟という、野村克也前楽天監督とは真逆のスタンスを貫く。悪童ドログバだけでなく、〝常に選手とともに〟という姿勢に多くの選手が心酔している。選手以上に耳目を集めるチャーミングなコーチは、新天地レアルマドリードでバルセロナを苦しめるに違いない。

 決勝の舞台はそのレアルのホーム、サンチャゴ・ベルナベウだった。昨季終了後、大補強の陰でひっそりチームを去ったスナイデル(インテル)とロッペン(バイエルン)が中心選手として帰ってきた。2人のオランダ人の胸に、熱い思いが去来したはずだ。

 74年大会以降、ワールドカップではオランダを応援してきたが、シーズン終盤、欧州各国で代表選手たちが目覚ましい活躍を見せた。歯車が噛み合えば、本命スペインを脅かすかもしれない。メッシ、イグアイン、CL決勝で2点を挙げたミリート……、強烈な攻撃陣をマラドーナ監督が使いこなせば、アルゼンチンが爆発しても不思議はない。

 日韓戦で岡田ジャパンは0―2と完敗した。岡田監督と鳩山首相を重ねて揶揄する向きもある。<W杯ベスト4>と<普天間移設>……、ともに理想を掲げたものの、実現への方向性を示せなかった。

 格差是正、少子高齢化への歯止め、環境に優しいエネルギー開発、閉塞感の打破など、日本は<絶対に負けてはならない闘い>を幾つも抱えている。W杯での1次リーグ突破は絶望的だが、国の根幹に関わる大勝負で結果を出せれば、サッカーぐらい、いくら負けても構わないではないか。



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米中同盟への捨て石?~「誰が電気自動車を殺したか?」

2010-05-22 05:43:30 | 映画、ドラマ
 〝遅れてきた武蔵〟こと三浦8段の健闘空しく、羽生名人が4連勝でタイトルを防衛した(通算7期)。名人の柔軟な指し回しに、剛直な挑戦者が翻弄された感もある、将棋の奥の深さ、ミステリアスさを楽しめたシリーズだった。

 さて、本題。今回は車について。WOWOWで放映された「誰が電気自動車を殺したか?」(06年)とNHKスペシャル「自動車革命~次世代カー 電池をめぐる闘い」を続けて見た。免許のない俺にとっても実に刺激的な内容だった。

 排ガスによる健康被害が広がったカリフォルニア州は90年代、無公害車の導入を検討する(全車の10%)。GMをはじめメーカー側は、ブレーキを掛けたまま電気自動車を開発した。一回の充電で100㌔以上走行可能だが、量産体制を取らなかったためコスト高だった。しかもリース限定なので、電気自動車は広く認知されるに至らなかった。
 
 <行政=政治家=石油&自動車産業=学界=メディア>が一体となって排ガス規制を骨抜きにし、メーカーは歩調を合わせて電気自動車から撤退した。全車回収という異常事態にユーザーたちは抗議活動を展開するが、独裁者(大企業)の前では無力だった。

 電気自動車にトドメを刺したのは〝石油業界の代理人〟ブッシュ大統領だが、流れを作ったのはクリントン政権(93~01年)ではないか。本作を見る限り、〝環境の聖人〟ゴア副大統領も石油&自動車業界に押し切られたとしか思えない。

 電気自動車を葬った後、ブッシュ政権は電池自動車に軸足を置く。国家プロジェクトに祭り上げられた<石油メジャーが製造する水素電池と車のコラボ>だが、否定的な識者の方が多かった。

 本作公開から4年、状況の劇的変化をNHKスペシャルで知る。高性能のリチウム電池の開発が進んだことで、電池自動車が〝未来の車〟の座を確保したのだ。対立項は<日本VS米中>で、リチウム電池でシェア60%を占める日本の牙城に、米中連合が挑むという構図である。

 車だけでなく米中接近は目立っている。なれば、<中国の軍事増強に対抗するためにも日米同盟は必要>という〝常識〟は、いずれ〝虚妄〟に転落するのではないか。〝本籍ワシントン〟の日本のナショナリストは、経済での米中連携をどう捉えているのだろう。

 GMやトヨタは、ユーザーから好評だった電気自動車を自らの手でスクラッチにした。連中には期待できないから、自分たちで車を作ってみよう……。こう考える起業家がアメリカや中国で増えている。二つのドキュメンタリーで実感したのは、車の世界にもインディーズ感覚が浸透していることだ。近い将来、車もハンドメイドになるかもしれない。電池自動車なら十分可能なのだ。

 最後にオークスの予想を。冷静に考えたら厳しいが、POG指名馬の⑭シンメイフジを軸に3連単を買う。〝右脳派〟岩田の直感騎乗に期待したい。相手には⑥オウケンサクラ、⑱サンテミリオン、⑤ギンザボナンザ、⑨モーニングフェースの4頭を考えている。

 POGドラフト会議が間近に迫ってきた。準備は一向に進まず、付け焼き刃で臨むことになりそうだ。


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詩文集「生首」~根が生えた言葉の凄み

2010-05-19 00:39:53 | 読書
 大阪で小2女児が刺され、30代の女性が逮捕された。少女の回復を心から願っているが、メディアはなぜ女性の父親の肉声を流したのだろう。

 加害者家族には必ず有形無形の社会的制裁が及ぶ。事件の背景を探ることは必要だが、報道は可能な限り、当事者のみにとどめるべきだ。俗情と結託するメディアの荒みと奢りはとどまるところを知らない。

 辺見庸の詩文集「生首」(毎日新聞社)を、〝ブロンクスのビョーク〟レジーナ・スペクターをBGMに繰り返し読んだ。俺という濁ったフィルターは無用といえる。五臓六腑から吐き出された断章の数々を、出来る限り紹介したい。

 <言は剥がれ。いかなる実体も描きえず。まして虚体を名状しえず。実体はかえって消失し。言は実体の消失をもはや言いえず。あるはただ符牒のみ。記号のみ>(「剥がれて」から)

 タイトルの「生首」は、空疎な言葉の暗喩でもある。胴体(実体)から切り離された首(言葉)はフワフワ宙に浮き、踏みしめる地面は液状化して重力を失くしている。この国はどこに漂着するのだろう。

 <濃い闇は、無音で淡い闇を侵し、薄い闇は濃い闇の凝縮を音もなく、ほどく。あやういのは、後者である>(「partition」から)
 
 <すべての明け暮れが絶えておわれば、これからは明けるのではない、暮れるのでもまたない、まったきすさみだけの時である。いまやぞっとするばかりに澄明な秘色の色に空と曠野はおおいつくされて、畏れるものはもうなにもない>(「酸漿」から)

 この国が〝無痛の不自由〟に至る道筋を<薄い闇>と表現したのだろうか。真綿で絞められるように若者は活力を奪われた。明け暮れは絶え、昼と夜の区別がない〝明るい閉塞〟に覆われている。

 第3章では連作詩で自らの死と葬列を描いている。安物の不浄屍体用平型並箱をリヤカーに載せて運ぶのが私なら、棺の中の<蒸れくされる屍体?>も私だ。<まるで影の影のように 顔 胸 腹をかくし 腐れてはいつくばっている>。葬列は徒刑のごとき野辺の送りで、悼む者も祈る者もいない。贖罪の意識が濃く反映された「生首」は、著者にとって一冊の〝遺書〟なのかもしれない。

 <私は人と断じられることによってしか私の「人」を容易にあかしえはしない。その逆では慙死するほか行き場はない>(「眠り」から)

 何より自らを穿つが辺見の言葉に感応する者は、〝無菌の温室化〟したこの国では少数だ。

 <おれはとうに 飽いているのだ もう 疲れているのだ マラカイト・グリーンの あの 青丹に似せた 満遍のない いかさまに 怒ったふりをしてみせる 君たちの いかにも いかさまな 猿芝居に>(「緑青」から)

 政治記者を「背広を着た糞バエ」と断じた辺見のメディア批判だ。俺も間もなく空騒ぎに踊らされるだろう。Wカップと参院選の喧騒で和らげられた倦怠は、灼熱に炙られて腐敗し、消臭されて秋を迎える。

 <この国は貧民から権力者まで、上から下までびっしりと裏切り者によってのみなりたっている。(中略)あられもない内応のプロたち、とめどない転向者たちの群れ。内通者たちの楽園。語の肉からの剥離を毫も意に介さぬ者ら>(「挨拶」から)

 根の生えた言葉に殉じる著者が指弾するのはメディアだけではない。大道寺将司さんとの面会を綴った詩文で、<語と身体の懸隔>をもたらした者たちの職業を羅列している。

 <風の根は おそらく そら恐ろしいほど 清い ひとりの思想の青である。こちらでは狂ともいわれる 人外の青である。風の根の青みは しかし 渡らないと 視えない。視た者は 還らない。ただ ひとりの風になり 吹きわたるだけなのだ>(「風」から)

 この一節に、著者が到達した境地と覚悟が窺える。低レベルのブロガーに過ぎぬ俺だが、一瞬でもいいから向こうに渡ってそよいでみたい。たとえそれが、狂いに近づくことだとしても……。



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「不思議惑星キン・ザ・ザ」~寓意に満ちたSFコメディー

2010-05-16 01:06:49 | 映画、ドラマ
 俺は若い頃から奇病に侵されている。女性と映画を見ると眠くなるのだ。いや、映画に限らず芝居やスポーツ、ライブでさえ似たような経験を重ねてきた。

 「女の都」で夢の世界をさ迷い、現実に戻った時、映画館にひとり取り残されていたことがあった。フェリーニなら起こり得る現象だが、俺の場合、女性が横にいたら「スター・ウォーズ」でさえ睡眠導入剤になってしまう。

 最近は単独行動主義に徹しているので――相手がいないだけの話だが――、女性を不快にさせることはなかったが、早稲田松竹で先日、思わぬピンチに遭遇する。前事務所時代、お世話になった女性と1年半ぶりに再会し、並んで観賞することになったのだ。

 彼女はマイミクの一人で、時折ブログにもコメントを書いてくれる。やさぐれ中年にはラッキーな展開だったが、上映時間が近づくにつれ、「寝ちまうんじゃないか」という不安が頭をもたげてきた。

 「ひなぎく」(66年、ヒティロヴァー監督)はすべての制約を嗤い、限りない自由を謳歌するチェコ映画で、プラハの春の魁というべき精神を孕んでいた……。と適当に書いてみたが、俺は眼前と脳内の二つのスクリーンに映る像を交互に見ていた。

 休憩時間に缶コーヒーを飲み、トイレで顔を洗う。睡魔を抑えた状態で「不思議惑星キン・ザ・ザ」(86年、ダネリア監督)を見ることができた。長尺(135分)の旧ソ連製SFで、20分ぐらいカットすればシャープになったはずだが、そこはトルストイやドストエフスキーを生んだ国、冗舌は伝統なのだろう。

 建築技師のウラジミールとバイオリン弾きのゲデバンは、奇妙な男と関わったことでモスクワから砂漠にテレポートしてしまう。近くに着地した釣鐘形の飛行船の扉から出て来たみすぼらしい2人の男に、ウラジミールは上から目線であれこれ問う。

 どこかの資本主義国と勘違いしていたウラジミールだが、そこはキン・ザ・ザ星雲に属するグリュク星だった。「クー」としか言わない2人組は野蛮人どころか、ウラジミールとゲテバンの思考を読み、たちまちロシア語を操る〝文明人〟だった。

 地球に帰るためには瞬間移動装置が必要だが、文化と風習が異なる地では埒が明かない。苦境を切り開いていくのは、中年男ウラジミールの冷静さと行動力だ。対照的にゲテバンはナイーブな青年で、バイオリン奏者としての実力は謎のままだ。字幕の印字が薄いので肝の台詞を見落としたかもしれないが、異星人の前でバイオリンを弾くのは専らウラジミールだった。

 人類が永遠に到達できそうもない科学を誇るグリュク星だが、生活は極めて前近代的だ。そのギャップに重なったのは、繁栄する上海と貧困に喘ぐ農村が同居する現在の中国だ。前年にゴルバチョフが書記長に就任したこともあり、締め付けは緩くなっていたのだろう。<グリュク星人の強欲さなど資本主義の悪弊を描いた>と見せかけ検閲をすり抜けたに相違ないが、本作がソ連社会を戯画化し、風刺したことは明らかだ。

 「クー」と「キュー」の奇声、階層ごとに決められた滑稽な動作、貨幣以上に価値が高いマッチ棒、恐れられている割に無力な警察や支配層……。邦題通り不思議だらけだったが、「不思議惑星キン・ザ・ザ」は寓意、ユーモア、教訓に溢れたカルト映画だった。

 「第9地区」(5月10日の稿)にも感じたが、寛容の精神こそ最高の美徳だと思う。プライドの塊に見えたウラジミールだが、異星人との交流で偏見から自由になり、<知・理・利>ではなく義理と人情で行動するようになる。だからこそ、ラストに爽快さを覚えたのだろう。

 最後に、ヴィクトリアマイルの予想を。実績上位のブエナビスタとレッドディザイアだが、ドバイ帰りが気になる。春の最大目標は別かもしれないし、調教過程に不安のあるレッドを消すことにした。

 ◎⑪ブエナビスタ、○③ラドラーダ、▲⑨ブロードストリート、△①ベストロケーション、△⑱プロヴィナージュ。馬券は⑪1頭軸で<⑪・③・⑨><⑪・③・⑨・①・⑱><⑪・③・⑨・①・⑱>の計18点。馬連とワイドで③⑨を買う。

 人間の女性に弱いのは仕方ないが、競馬ぐらい牝に強くなりたいものだ。

 
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初期衝動を保つホワイト・ストライプスの奇跡

2010-05-13 00:22:42 | 音楽
 MUSEの北米ツアーがマイスペースで公開中だ。1万6000余を集めたシアトル・キーアリーナでのライブで、若者(平均年齢は20歳前後?)の熱狂ぶりに、アメリカにおける認知度の高まりが窺えた。

 量的成功はロックバンドにとって諸刃の剣で、〝MUSEは資本主義の毒に侵された〟と批判することも可能だろう。レイジをリスペクトするMUSEだが、初期衝動とラディカリズムをいつまで保てるだろうか。

 さて、本題。ホワイト・ストライプスの「アンダー・グレイト・ホワイト・ノーザン・ライツ」を購入した。カナダツアー'07の模様を収録したライブCD&ドキュメンタリーDVD(エメット・マロイ監督)の2枚組である。今回はDVDについて感想を記したい。
 
 ストライプスは世紀末、ストロークスとともにシーン最前線に躍り出た。4th「エレファント」(03年)まで追いかけたが、ロックから遠ざかっていた時期に発売された最近の2枚は聴いていない。メロディー志向の老いた情念派にストライプスは敷居が高く、来日公演(03年)もパスしてしまった。
 
 手元にある4枚のアルバムはすべて輸入盤なので、<姉弟の2人組>を唯一の〝知識〟として、フレッシュな気持ちでドキュメンタリーを見た。2ピースバンドのサポート抜きのパフォーマンスに、心をズバッと抉られる。

 ドラム担当のメグは無口で声も小さい。デビュー当時はロボット説がまことしやかに囁かれたほどだが、照れながらボーカルを取るシーンは微笑ましかった。普通っぽいメグに〝痛さ〟を覚えるのは、俺の目が歪んでいるからか。ギター&キーボードを縦横無尽にこなすジャックは、普段も冗舌でちゃめっ気に溢れている。静と動の対照的な個性が弾き出す音は、3次元を超えて刺激的だった。

 U2、レディオヘッド、MUSEら〝王道〟――ロックの墓場に通じる道でもあるが――を歩むバンドとは対照的に、ストライプスは大掛かりな舞台装置、最先端の機材、デジタル処理とは無縁だ。

 初期衝動とアナログ志向を維持するため、ジャックは幾つものルールを自らに課している。時間が限られているからこそ創造力を発揮できると考え、スタジオ入りするや曲を作って数日のうちに録音する。セットリストを用意しないこと、同じギターを10年も使い続けること、楽器の位置を工夫することで、ステージでの緊張感を高めている。

 本ドキュメンタリーの肝は、ハプニング的フリーライブだ。「ホワイト・ストライプスが広場に来るよ」といった情報が到着直前、ラジオやネットで流れ、半信半疑で人々が集まると、2人が現れ演奏する。ボウリング場、レストラン、船の上など場所は様々で、公民館でのイヌイットとの交流は興味深かった。

 見終えた後、ウィキペディアで復習し、たちまち目が点になる。<姉弟の2人組>がガラガラ崩れたからだ。ドキュメンタリーでも〝僕たちの従兄弟や親族〟と音楽家やスポーツ選手を紹介していたメグとジャックだが、実際は元夫婦で、ともに別の相手と再婚しているらしい。

 <ホワイト・ストライプスは嘘ばっかり>と批判されたこともあったようだが、ジャック本人が気に入っているバンド評は、<彼らは最もフェイクだけど、同時に最もリアル>である。本質を穿っていると思う。NY派にも感じることだが、ストライプスも自らをトリックスターと位置付けているようだ。

 海外バンドのチケットが売れない現状、日本のロック環境は悪化しつつある。ストライプスの来日公演も難しそうだが、もし実現したら、姉弟を偽装する元夫婦の奇跡のケミストリーを体感してみたい。
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抑圧と差別~「第9地区」が突きつける人類の性

2010-05-10 00:10:48 | 映画、ドラマ
 欧州トップリーグが最終章を迎える中、W杯開幕が1カ月後に迫った。復調した小野伸二を推すサッカー通の声もあるが、日本代表メンバーにサプライズはあるだろうか。

 W杯開催地の南アフリカについては、行政と警察の腐敗、ギャング団の抗争、エイズ発症率の高さなどマイナス面が繰り返し報道されている。暴力、セックス、ドラッグがはびこる〝貧困と格差の国〟に世界からゴールハンターたちが結集する。草食系の岡田ジャパンに身を守る手立てはあるだろうか。

 新宿で先日、「第9地区」(09年、ニール・ブロムカンプ監督)を見た。息つく間もないジェットコ-スタームービーだが、テーマは極めて重く、制作サイド(ピーター・ジャクソンなど)の深い問題意識が窺えた。

 「第9地区」の舞台は南アのヨハネスブルクだ。いや、当地以外では成立しえない作品で、アパルトヘイトを背景にしている。制度上は90年代半ばに撤廃されたが、本作には抑圧と差別から逃れられない人間の哀しい性が描かれている。

 デクラーク大統領は1989年、方針転換を表明し、翌年2月にマンデーラが獄中から解き放たれた。まさに大変革の時期、ヨハネスブルクに宇宙船が降り立ったという設定だ。架空のニュースフィルムが繰り返し挿入され、ドキュメンタリータッチで進んでいく。

 第9地区に隔離されたエイリアンは外見からエビと呼ばれ、ゴミを漁って生き延びている。大好物のキャットフードを売りつけているのはナイジェリア系のギャング団だ。<アパルトヘイト後のアパルトヘイト>を支持する者、人道的見地から反対する者と、黒人社会が二分されている点が興味深い。

 上陸後20年、エイリアン居住地を市中心部から離れた第10地区に移すことが決定する。政府から移住作業を委託されたのはコングロマリットのMNUで、ヴィガス(シャルト・コプリー)が責任者に任命される。アメリカに本拠を置く企業らしい情実人事だ。

 生まじめなヴィガスは職務上、〝タテの目線〟でエイリアンと接するが、想定外の事態で追われる立場に転じる。〝ヨコの目線〟に目覚めたヴィガスはエイリアンのクリストファー父子と行動を共にするうち、彼らの聡明さと〝ヒューマニズム〟に触発され、人類の愚かさと醜さに気付いていく。

 「第9地区」は破天荒なアクション映画であると同時に、「ザ・フライ」を彷彿とさせるラブストーリーの側面もあり、異形の者の悲しみと純粋さに心を揺さぶられた。ヴィガスは果たして愛する妻と再会できるだろうか。続編への期待を抱かせるエンディングに、<3年後>がキーワードと深読みしてしまった。

 本作はアパルトヘイトだけでなく、移民問題や外国人差別の本質も提示している。石原東京都知事を筆頭に、近隣諸国における軍隊やヤクザの悪行など忘れたかのように、アジア人を不逞呼ばわりする日本人は少なくないが、異質な存在への厳しさと排外主義は世界共通だ。

 旧ユーゴで起きたこと、現在パレスチナで起きていることは、差異に囚われた〝タテの目線〟に根差している。ヴィガスが行き着いた〝ヨコの目線〟こそ、世界共生の橋頭堡なのだ。


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「滴り落ちる時計たちの波紋」~二十一世紀旗手の畏るべき煌き

2010-05-07 00:25:50 | 読書
 まずは、訃報から。佐藤慶さんが亡くなった。享年81歳である。戸浦六宏、渡辺文雄、小松方正らとともに〝大島渚組〟の一員として、破壊力に満ちた映像の中で求心力を担っていた。「子連れ狼」の烈堂役(3代目)も記憶に残っている。冷酷、エゴ、傲岸を演じたら佐藤さんに匹敵する者はいないだろう。個性的な名優の死を惜しみたい。

 世界で現在、最も読まれている日本人作家は、村上春樹とカズオ・イシグロだと思う。村上は20年以上読んでいないので的外れかもしれないが、<日本語で書く外国人作家>の印象を抱いている。フィッツジェラルド、アービング、カーヴァー、カポーティーらの影響が大きく、文学通の友人は〝村上春樹は英語で書いて日本語に翻訳している〟と主張して譲らなかった。

 一方のイシグロは長崎出身だが、幼少時に英国に移住した。ブッカー賞を受賞するなど英語圏を代表する存在だが、感性は和風で、死生観、矜持、無常、諦念など日本で死滅したDNAが作品にちりばめられている。イシグロは<英語で書く日本人作家>といえるだろう。

 知名度はともかく、この2トップに実力で迫るのが平野啓一郎だ。書評掲載作品を対象にした仕事先の本のバザーで、遅まきながら昨年、平野を発見した。「決壊」(08年)と「DAWN」(09年)に瞠目させられ、以前の作品に――といっても平野はまだ34歳だが――遡って文庫を買い集めている。ゴールデンウイークは実家で短編集「滴り落ちる時計たちの波紋」(04年)を読んだ。

 〝三島由紀夫の再来〟の評価に相応しい日本語の使い手であること、文学の領域を広げるために試行錯誤を繰り返していること、ネットがもたらした変化を作品に取り入れていること……。俺が平野を絶賛する理由を挙げてみた。政治、哲学、芸術全般に造詣が深いが、何事に対してもクールに距離を取っている。

 「滴り落ちる――」収録作から、以下に簡単に紹介したい。

 「初七日」は携帯やファミレスといった今風の単語を別のものに置き換えたら、数十年前の大家(例えば志賀直哉)の作品として十分通用する。南方戦線における加害と被害の記憶を秘めたまま死んだ父が戦争の意味を問いかけ、暗喩の如く現れる猫が不思議なムードを醸している。

 「初七日」が浮き彫りにした普遍的な家族の闇、「閉じ込められた少年」に描かれたいじめがもたらす狂気、「瀕死の午後と波打つ磯の幼い兄弟」が提示する偶然と必然の共振性……。この3作の延長線上に精華として形を成したのが「決壊」といえるだろう。

 アイデンティティーを主題に据えて横書きで綴られたのが「最後の変身」で、引きこもりになった一流企業の優秀な若手営業マンの手記の形を取っている。前半部分は秀逸なカフカ論で、変身の意味を様々な角度から論じている。やがて作者自身の経験に即した他者との距離感、ネットと個人の関係へとテーマを転じていく。小説と評論を併せ持つ作品だ。

 ラストの「バベルのコンピューター」について語る資格は俺にはない。「難解な芸術論だなあ」が読み終えた時の感想だったが、解説を読んで凡人の常識を超越したフィクションであることを知る。この実験はいずれ、長編小説に応用されるに違いない。

 濃密かつ前衛的な純文学である以上、量的な成功を得るのは難しいだろうが、平野は既に世界の最前線に位置する作家と断言できる。過去の作品を読みながら、新作発表を待ちたい。



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「猫と正造と二人のをんな」~森繁が表現するしめやかな狂気

2010-05-04 10:16:46 | 映画、ドラマ
 初夏薫る亀岡のネットカフェで当稿を更新している。昨年のゴールデンウイークは京大病院に妹を見舞う日々だったが、今年は回復した妹が運転する車で、体調が思わしくない伯母や叔父の元を訪ねた。

 とはいっても忙しいわけではない。ウオーキング以外は、東京で録画したDVDを実家でゴロゴロしながら見ていた。今回は森繁久弥主演作「警察日記」(55年)と「猫と正造と二人のをんな」(56年)について簡単に記したい。

 俺が上京した頃(77年)、森繁は〝稀有の名優にして人格者〟というイメージが定着していた。それゆえ敬遠していたが、20年ほど前に「夫婦善哉」を教育テレビで見て、目からウロコが落ちる。シリーズ物は未見だが、「夫婦善哉」と今日紹介する2作に森繁の神髄が示されているのではないか。

 「警察日記」は磐梯山麓の町を舞台にした物語で、森繁はお人好しの巡査を演じている。三国連太郎、伊藤雄之助、東野英治郎、杉村春子ら芸達者が脇を固めているが、誰より光っていたのは捨て子役の二木てるみ(公開当時5歳)で、表情豊かな演技は見る者の心を和ませる。

 貧困、人身売買まがい、癒えることない戦争の傷、根強い封建制、家族に縛られ自由に運ばない恋愛と、当時の世相や空気を背景に、幾つものエピソードが交錯する。邦画全盛期の底力が窺える人情劇だった。

 俺は最近、頻繁に帰省する。老い先短い母(当人の弁)への孝行、妹夫婦との交遊が表向きの理由だが、1人(1匹)忘れていないだろうか。そう、今や実家の猫となったポン太と遊ぶのも楽しみの一つである。

 ひきこもりの走りだった頃、俺の部屋にシャムと和の血を引く見目麗しい牝猫が居ついていた。食費を削ってキャットフードを食わせ、孤独な夜には語りかける。傍から見たら気味が悪いほど猫に感情移入した経験があるからこそ、「猫と正造と二人のをんな」の主人公に痛いほど共感できた。

 〝耽美派〟谷崎潤一郎の原作を、同性愛者の豊田四郎が20年後に置き換えて映画化する。作家と監督の資質が相乗効果になって、正造と牝猫リリーのエロチックな交情、三人の女性――前妻品子(山田五十鈴)、現妻福子(香川京子)、母親(浪花千栄子)――の空恐ろしい本性がスクリーンに鮮烈に焼き付いている。

 「夫婦善哉」といい本作といい、ダメ男を演じたら50年代の森繁の右に出る者はない。正造は雑貨屋の旦那だが、気弱な怠け者で、売り物の値段もロクに知らない。結婚も離婚も母親に任せっきりで、嫁姑の確執から逃れてリリーと戯れている。

 山田五十鈴の妖艶さ、香川京子の弾けっぷりも見どころだが、それぞれが演じる前妻と現妻は、愛では意地とエゴで互いへの憎しみをエスカレートさせていく。

 「僕は今、恋愛中や。いや、もう、ずっと前からや。このリリーとな」

 女たちの諍いに嫌気が差した正造が品子に真情を吐露したところに、福子がやって来た。鬼の形相で取っ組み合いを始めた女たちを目の当たりに、行き場を失くした庄造はしめやかな狂気に追いやられ、リリーを抱いて雨の中、裸で海へと歩を進める。暗示的なラストが印象的だった。

 「品格と色気と哀愁と」は森繁の随筆集のタイトルだ。品格はともかく、「猫と正造と二人のをんな」は森繁の色気と哀愁が溢れた傑作だと思う。



コメント (2)
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