酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ステレオフォニックスLive at 渋谷~UKロックの熱き奔流

2010-04-29 03:11:59 | 音楽
 「長距離走者の孤独」、「土曜の夜と日曜の朝」、「華麗なる門出」etc……。英労働者階級の真情を代弁したアラン・シリトーが亡くなった。学生時代に読み漁った作家の冥福を心から祈りたい。

 シリトーが示した反骨と怒り、皮肉と冷笑、諦念とユーモアは、モッズからパンク、ブリットポップにも息づいている。訃報を知った当日(26日)、DUO MUSIC EXCHANGE(渋谷)で見たステレオフォニックスも、シリトーの精神を受け継いでいるはずだ。
 
 開演20分ほど前に入場した途端、「?」となった。太い柱が3本並び、ステージが実に見づらい。仕方なく後方の階段を上ると、椅子が2列に並んでいるではないか。水がたまった膝は完治していないので、最高齢の客(恐らく)はこれ幸いと腰を下ろす。そこはメンバー5人(サポート1人を含む)の動きを視界に捉える〝奇跡のシルバーシート〟だった。

 ステフォとはフジロック'98(豊洲)以来、12年ぶりの再会になる。当時の彼らはとっぽいアンちゃんだったが、齢を重ねて研ぎ澄まされた印象を受けた。ケリー・ジョーンズの豊かでハスキーな声に、「ロックはこうでなくっちゃ」と実感する。最新作「キープ・カーム・アンド・キャリー・オン」から多めにピックアップされていたが、以前の6作からも満遍なくセットリストに加えていた。

 ファンと声を大にするつもりはないが、アルバムを全部持っている〟……。このステフォへのスタンスは、パール・ジャムとも共通する。ともに<ロックスタンダード>を体現する骨太の速球派で、両バンドのフロントマン、ケリーとエディ・ヴェダーはフーの信奉者だ。<日本で売れない音の系譜>が何となくわかる気がする。

 佳境に差し掛かり、ケリーの声がリアム・ギャラガーに重なった。ステフォもまた、<オアシス不在>を埋めたバンドだったのか。オアシスが3rd以降、ステフォに匹敵する高クオリティーのアルバムを1枚でも発表していれば、神話が褪せることはなかっただろう。

 後半は1st、2ndからのオンパレードで、フロアは大いに盛り上がる。陰翳に富んだ愛聴盤の5rh「ランゲージ・セックス・ヴァイオレンス・アザー?」からの「ダコダ」で中身の濃いライブを締めくくった。メロディーとビートが程よく混ざり合った音の奔流に熱く揺さぶられ、年甲斐もなく高揚感を覚えた夜だった。

 「こんな小さいとこ(キャパ1000人)でステフォを見れるなんて、ウソみたい」
 「5枚のアルバムが全英1位に輝いた国民的バンドなんだよな」

 出口へ向かう途中、耳にした若者たちの会話である。不況が若者を直撃する現在、ロックを取り巻く環境は悪化しているようで、年明けのカサビアンから来日キャンセルや公演延期が相次いでいる。表向きの理由は「アーティスト側の事情」だが、恐らくチケットが売れなかったのだろう。

 ステフォだけでなく、海外での人気と評価が動員に結び付かないケースが多い。別稿(21日)に記したMGMTも〝売れるNY派〟らしく、新作がビルボードで2位にチャートインしているが、日本での単独公演ならリキッドルームあたりが精いっぱいだろう。

 〝日本は客が集まらないからパス〟というバンドが続出したら、遠からずフジロックもサマーソニックも成立しなくなる。老ファンの杞憂であることを願うばかりだ。




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「息もできない」~ヤン・イクチュンが起こした奇跡

2010-04-26 00:37:40 | 映画、ドラマ
 「息もできない」(08年、韓国)を先日見た。ヤン・イクチュンが制作・監督・脚本・編集・主演の5役をこなしたインディーズ作品である。

 <現代のシェイクスピア的家族ドラマ>、<カサベテスの偉業を継ぐ>、<この10年で最高の映画>と世界中から絶賛を浴び、候孝賢監督も<「勝手にしやがれ」に匹敵する衝撃>と評していた。へそ曲がりの悲しい性で、「ホンマかいな」と疑いつつ新宿武蔵野館に足を運ぶと、座席は3分の1(キャパ84人)も埋まっていなかった。

 世評が当てにならないことは、「渇き」(カンヌ映画祭審査員賞)で実感している。自分は韓国映画を楽しむDNAを持ち合わせていない……、そんな疑念を「息もできない」は吹き飛ばしてくれた。

 慧眼の批評家や一流監督を瞠目させた作品に、心を激しく揺さぶられる。俺にとってこの10年の2トップは「EUREKA」(00年、青山真治)と「赤目四十八瀧心中未遂」(03年、荒戸源次郎)だったが、「息もできない」に両作に匹敵する衝撃を受けた。

 以下に感想を記したい。多少のネタバレはご容赦を……。

 本作の“Boy meets girl”はかなり奇抜だ。サンフン(ヤン・イクチュン)は“boy”ならぬ30前後のやくざ者で、吐いた唾がヨニ(キム・コッピ)の胸元に飛ぶ。ピンクが似合うキュートなヨニだが、互角以上の悪態でサンフンをたじろがせた。

 サンフンの生業は借金取り立てだが、スト破りから屋台潰しまで何でもござれの悪党だ。アンテナのように動く目は、獰猛な小動物を連想させる。感情を制御できず、家庭を崩壊させた父そのまま、至る所で暴力を爆発させる。一方のヨニも、家庭に宿痾を抱えていた。数年前に母を亡くし、ベトナム従軍経験がある父は精神に混乱を来している。弟ヨンジュは10代半ばで道を外していた。

 〝歩く暴力〟と広末涼子似の女子高生の共通点は汚い言葉で、罵り合いながら親近感を増していく。サンフンは幼くして死んだ妹をヨニに重ねているのだろう。少し背伸びしたヨニはサンフンの姉に「彼女です」と自己紹介したり、甥ヒョンインを可愛がったりと、積極的に近づいてくる。

 資金と時間に限りがあり、リハーサル抜きで撮影に臨んだことが、スクリーンに緊張感を張り付かせている。サンフン、ヨニ、ヒョンインが雑踏を歩くシーンでは、フィルムを変えてドキュメンタリータッチを醸し出していた。俯瞰の使い方など映像全般に、初監督と思えないテクニックを感じる。

 二人の孤独と絶望が寄り添う漢江岸辺のシーンが、本作のハイライトだ。ヨニの膝枕でサンフンが泣き、ヨニもまた顔を覆って泣く。人間の心を取り戻したサンフンに、皮肉な運命が待ち受けていた。

 <年齢も境遇も性をも超越して相寄る魂を描いた物語>……。ここまで読まれた方はこうミスリードされたに違いない。確かに真実の30%は言い当てているが、この程度でシェイクスピアと比較されるはずもない。

 「息もできない」の底には、アジア的宿命観と韓国独特の恨の意識が流れている。イクチュンが意図したのか、結果として行き着いたのかはわからないが、本作はアンチロマンの典型だ。見る側は与えられたテキスト(カットや台詞の数々)を組み立てて推理しながら、自分なりの主題を探していく。

 観賞後に読んだ知人のブログに、<ヨニは最初からサンフンを知っていて、悲劇的結末を見据えていたのではないか>(趣旨)と記されていた。少し驚いたが、「俺は人を殺したことがある」というサンフンの台詞に符合する回想シーンとラストを重ねれば、無理筋とも言い切れない。「息もできない」は身の丈の感性に沿った〝百人百色〟の見方が成立する作品だ。

 日頃の暴力行為のみならず、警官をボコボコにしてもサンフンはお咎めなしだ。存在そのものが不可視であるが如く、<死に纏わる加害と被害>は社会における<罪と罰>から排除されている。シュールで不条理な全体のトーンと細部のリアルな暴力が同居する、複層的でミステリアスな映画といえるだろう。

 ともあれ、<この10年で最高>の看板に偽りはない。いずれDVDを購入し、晴れない闇、未消化の謎に迫っていきたい。


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「ロサリオの鋏」~研ぎ澄まされた愛の神話

2010-04-24 06:11:16 | 読書
 妻を刺殺し、留置場で自殺……。かつて日本を主戦場にしていた2階級王者エドウィン・バレロ(ベネズエラ)が、27戦全勝全KOでグローブを置く。唐突なテンカウントに重なったのは、クリス・ベノワ(WWE)の悲劇だ。

 ともに帝拳に所属した同国人リナレス(元2階級世界王者)が太陽なら、暗い情念を秘めたバレロは月のイメージだった。くしくも来週、リナレスの再起戦がWOWOWで放映される。両者と交流が深いジョー小泉氏と浜田剛史氏(帝拳プロモーション代表)はいかなる追悼の辞を述べるのだろう。

 愛はバレロにとって、躓きの石だったのか。事件の一報に触れた時、俺は「ロサリオの鋏」(ホルヘ・フランコ著/河出書房新社)を読んでいた。世紀末のメデジンが舞台の本作には、以下のような一節がある。

 <下半身や、目を通して入りこみ、人の心に住みついて、心を蝕むもっと厄介なもの、つまりもっとも純な人たちが愛と呼ぶ呪われたドラッグなのだが、それは小袋に入って通りで売られているもの同様、有害で、死にも至らせるのだ>

 コロンビア社会の貧困と格差、闊歩する麻薬カルテルと暴力を背景に描かれたラブストーリーは、堂々巡りしながらデッドエンドに辿り着いた時、物語を超えた神話に昇華していた。

 「フランコにこそ、私の文学の灯を託したい」(ガルシア・マルケス)、「悲痛な体験の中に根っこを沈めながら、奔放さやユーモア、傲慢さ、攻撃性で、作品がパチパチ音を立てている」(バルガス・リョサ)……。

 南米文学の2大巨頭が絶賛している以上、本作は難解なマジックリアリズムに違いないという俺の予想は見事に外れた。ハイレベルのロックンロールかサッカーの試合のように疾走感が漲り、ページを繰る指が止まらない。マヌエル・プイクを彷彿とさせるシャープな会話も魅力の一つだ。

 上流階級に属する<俺>は、麻薬カルテルの汚れ仕事を請け負うロサリオに狂おしいまでの恋心を抱いている。〝背徳の彼方の純潔〟を地で行くロサリオは、親友エミリオの恋人ゆえ、<俺>が与えられるのはささやかな癒やししかない。

 「あたしには誰よりもあんたが必要」が<俺>に対するロサリオのスタンスだ。<俺>がロサリオの心を、エミリオが肉体を享受する三角関係は、この世に無数に成立する恋愛の普遍形でもある。俺も20代の頃、本作の<俺>のように女性と親しくなった経験があるが、得られる安寧は仮初めのものだ。彼女の中の序列――肉体で結ばれた男の絶対的優位――を、俺も<俺>同様、思い知らされた。そのたびに引き剥がれた絆創膏の下、開いた傷口から血が滲んでいた。

 優しい言葉と残酷な仕打ち、夢見がちだが打算的、音信不通の日々の後に突然現れ、罪の意識と贖罪で拒食と過食を繰り返す……。気持ちだけでなく外見も刻々変化するロサリオは、男にとって恋焦がれる女性の暗喩かもしれない。

 <おまえを思い出させる一つ一つのものの中にずっとおまえを想い続けるよ。音楽や、おまえの生まれたスラム、おまえが話したスラングの一つ一つ、音を立て人を殺す銃弾さえも>

 虚飾がすべて取り払われた時、愛の重さが明らかになる。ロサリオに唯一別れを告げた<俺>は、愛の勝者になったのだろうか。

 企画の段階らしいが、「ロサリオの鋏」はスクリーンでも人々を魅了するだろう。監督にはアレハンドロ=ゴンサレス・イニャリトゥを推したい。本作の映画化に求められるのは、イニャリトゥ独特の〝分解と再構成〟の魔術なのだから……。


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ポップの万華鏡~MGMTに甦る青春の風景

2010-04-21 00:22:40 | 音楽
 〝現役ロックファン〟に復帰したばかりの俺の言葉に説得力はないが、フジロック'10は世界標準をクリアするフェスだと思う。ヴァンパイア・ウィークエンド(3月7日の稿)、ダーティー・プロジェクターズ(同19日の稿)に加え、LCDサウンドシステム、MGMTと、光芒を放つNY派のトップランナーが苗場に集結する。

 3日間滞在して最先端の音に浸り、ロキシー・ミュージックやベルセバとの再会も果たしたいが、単独行動ゆえ宿をキープできない。そもそも仕事の関係で日曜は無理なので、MUSEがヘッドライナーを務める金曜に日帰りで参加することにした。NY派だけでなく、気になるバンドを幾つ見られるかは運次第(確率3分の1)だ。

 今回は2nd「コングラチュレイションズ」を発表したばかりのMGMTについて記したい。50歳を越えてNY派に夢中になったのは、ポップミュージックに出合った頃のときめきを追体験できたからだ。キャッチーなメロディー、祝祭的な歌心、ナチュラルな手触りが、NY派の共通点といえる。

 1stアルバムのタイトル「オラキュラー・スペクタキュラー」は〝神懸かり的ハッタリ〟という意味だ。MGMTは自らを〝トリックスター〟と位置付けているのかもしれない。

 ジャンルや年代にこだわることなくポップミュージックに親しんでいる人にとって、MGMTは<底無しのおもちゃ箱>だ。1stと2ndを通して聴くと、ノスタルジックな気分になり、思春期の切なさが甦ってくるかもしれない。

 「悲しき雨音」など60年代のスタンダード、ビーチボーイズ、「ジギー・スターダスト」以前のデヴィッド・ボウイ、シド・バレット在籍時のピンク・フロイド、80年代中期のキュアー、モーマス、バンド・オブ・ホリー・ジョイ、パルプ……。

 MGMTを聴いているうちに思い出した曲やアーティストを挙げてみたが、ソウルやファンクのテイストもちりばめられているし、オアシスっぽい曲まである。MGMTとはカラフルなポップの万華鏡といえるだろう。

 曲の輪郭がくっきりしているのは1stの方だ。屈折と狂おしさを増した2ndには牧歌的ムードが漂い、甘酸っぱい青春映画のサントラといった印象だ。MGMTはアート系の大学で学んだベン・ゴールドワッサーとアンドリュー・ヴァンウィンガーデンの2人組だが、3人のサポートメンバーを加えてステージに立つという。坩堝でごった煮した極上のポップを苗場で体感できたら幸いである。

 俺が注目しているのはNY派だけではない。フジロックに来るフォールズの1stアルバム「アンチドーツ」も毎日のように聴いている。英オックスフォード出身のバンドは由緒正しい〝21世紀のUKニューウェーヴ〟で、心の底に刺さるダウナ-なエレクトロポップを奏でている。2ndアルバム発表後に予定されている単独公演(6月)に行くかどうかは、フジの日別ラインアップが決まってから考える。

 今月26日は渋谷でステレオフォニックスだ。キャパ1000人強の会場でUKロックを支えるバンドを見ることができる。日本で人気がないというのも悪いことではない。ライブの感想については、当ブログで記すつもりだ。


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「CSI」、「モンク」、「臨場」~ドラマに心が温む春

2010-04-18 03:09:36 | 映画、ドラマ
 桜が散った後に雪が降る。温暖化どころか、東京は冷蔵庫化しているようだ。寒い日は温めた部屋でテレビを見るのが一番だ。4月は各ドラマの新シーズンが始まる時期でもある。

 スカパー+WOWOW+NHKの受信料=1万7000円超……。俺ぐらいテレビに金をかける50代は珍しいはずだ。多岐にわたるジャンルの中でここ数年、ドラマが比重を増しつつある。

 きっかけは00年放映開始の「CSI科学捜査班」、「トリック」、「相棒」で、その後「名探偵モンク」、「CSIニューヨーク」、「臨場」がラインアップに加わった。

 アメリカ社会の闇と病理を抉る「CSI科学捜査班」シーズン9がスタートした。第1話は当然、前シーズン最終話で銃弾に斃れたウォリックの敵討ちとなる。ダウナーなトーンとマッチしていたウォリック役のゲイリー・ドゥーダンは降板後、薬物所持で逮捕された。表現していた憂いと孤独は、実生活の反映でもあったのか。

 寛容さと包容力、知性と洞察力で結び目の役割を果たしていたグリッソム主任(ウィリアム・ピーターセン)がシーズン9の途中で姿を消す。チームがどう変化するのか注目している。

 1月から放映中のスピンオフ「CSIニューヨーク」シーズン5では、厳格さと行動力を前面に出すマック・テイラー(ゲイリー・シニーズ)が求心力を保っている。アクティブさをペーストすることで、本家のレベルに追いついた。鑑識課員といえば「相棒」の米沢守だが、摩天楼の光と影が交錯するNYでは、刑事とともに最前線で犯人を追う。

 「相棒」シーズン8の掉尾を飾った2時間SP「神の憂鬱」は、映画「デジャヴ」(06年)や小説「ドーン」(平野啓一郎)にインスパイアされたのではないか。亀山薫(寺脇康文)から神戸尊(及川光博)に交代した意図がようやく明らかにされた。杉下右京(水谷豊)は〝変人のキャリア〟から〝権力中枢に据わるべき人材〟へと位置付けが変わりつつある。

 「相棒」から同じ枠(テレ朝水曜9時)を引き継ぐ「臨場」は、〝ピュアーな野人〟内野聖陽(倉石検視官役)の熱演もあり、「相棒」と匹敵する視聴率を挙げている。横山秀夫の小説は制作サイドを痛く刺激するのだろう。本作に限らずTBS版、ドラマWでも原作を凌駕する出来栄えを誇っている。

 「名探偵モンク」のラストシーズンがスタートした。浮遊する断片を瞬時に組み立て、ジグソーパズルを完成させるモンクだが、愛妻トゥルーディ爆殺事件は迷宮入りしたままだ。モンクがどのように真相に迫り、自らの心の壁を壊していくのか楽しみにしている。

 25年の波瀾万丈のドラマにピリオドを打ったのが、前々稿で<史上最も華のあるレスラー>と記したショーン・マイケルズ(HBK)だ。華(花)の価値は散り際で決まる。HBKは「復帰はありえないし、マクマホン以外の下では働かない」と宣言し、美学と矜持を世界中のWWEファンに示した。ここら辺りが、フレアーやホーガンとの決定的な差だ。圧倒的優位だったWCWに与したフレアーとホーガンは、オースチンやDXに粉砕されてWWE崩壊はならなかった。その後もビジネス本位で蠢き、晩節を汚している。

 ダービーを起点と終着点にするPOGは、連続性のある壮大なドラマだ。いよいよ佳境に入り、皐月賞には指名馬エイシンアポロンが出走する。

 10頭以上に連対のチャンスがありそうだが、手を広げても仕方ないので、◎⑫エイシンアポロン、○⑬ヴィクトワールピサ、▲⑯ヒルノダムール、注⑱アリゼオの4頭に絞った。3連単で⑫1頭軸マルチ、相手⑬⑯⑱の計18点。馬場状態がアポロンに味方することを願うばかりだ。



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梶井基次郎のシュールでリアルな世界

2010-04-15 01:15:34 | 読書
 五十路を越すと、固定観念や先入観から逃れるのは難しくなる。俺もまた、井伏鱒二が描いた山椒魚の如く、我執と妄想の水たまりから、世界を斜めに眺めている。

 花見に合わせて梶井基次郎を読み(4月6日の稿)、一つの固定観念から解放された。私小説、写実的、ニューミュージック的という先入観は、作品に触れるや根底から覆される。

 短編集「檸檬」(新潮文庫)は発表順に掲載されている。梶井は19歳の時、肺結核に罹患し、31歳で召された(1932年没)。読み進むにつれて死の影は濃くなり、「のんきな患者」に至る。梶井と交流があった淀野隆三による解説(1950年記)にはやんちゃな京都時代、文壇との距離、社会主義への関心など貴重なエピソードも紹介されている。

 友人の新婚生活を描いた「雪後」には赤土から女の太腿が生え出る夢が挿入されていたが、他の作品にも詩的で陰鬱なイメージが織り交ぜられ、ピカソやシャガールの画集を繰っているような錯覚に陥る。<対象に対して心が憑依するレアリスム>とは淀野の卓越した分析だ。

 表題作「檸檬」のラストは実に刺激的だ。主人公の想像の中、丸善の美術コーナーに置いてきた檸檬が<黄金色に輝く恐ろしい爆弾>に姿を変える。そして、<もう十分後にはあの丸善が美術の棚を中心として大爆発をするのだったらどんなに面白いだろう>と綴る。死を自覚した者の夢想に、テロリストの心境と重なる部分を覚えた。

 <私は物体が二つに見える酔っ払いのように、同じ現実から二つの表象を見なければならなかったのだ。しかもその一方は理想の光に輝かされ、もう一方は暗黒の絶望を背負っていた>……

 「筧の話」ではストレートに心情を吐露していた。梶井にとって小説とは、自らの存在証明であると同時に遺書だったに違いない。

 最も感銘を受けたのは「冬の蝿」だ。弱った蝿の稠密な描写は現実ではなく、梶井自身のメタファーだ。<私の病鬱は、恐らく他所の部屋には棲んでいない冬の蝿をさえ棲まわせているのではないか>と記している。主人公が感じた<其奴の幅広い背>とは、<いつか私を殺してしまう気まぐれな条件=死そのもの>なのだ。

 演奏会を描いた「器楽的幻覚」など、作品には音楽へ思いがちりばめられている。「ある崖上の感情」で登場人物に「僕はあのジャッズ(原文まま)という奴が大嫌い」と語らせているのは、恐らく梶井の本音だろう。自らの死を先取りしたかのような「Kの昇天」(K=梶井?)では、口笛で吹かれるシューベルトの「ドッペルベンゲル」が劇的な効果音になっている。

 たびたび登場する母は、繊細な主人公と好対照の愚鈍さが強調されているが、実際の母は漱石などを読破したインテリ女性だったという。作中の母親は梶井の屈折した贖罪の意識の表象だったのか。

 <頽廃を描いて清澄、衰弱を描いて健康、焦燥を描いて自若>と、淀野は梶井文学の本質を捉えていた。遅きに失した感は否めないが、素晴らしい作家を発見できた幸せを感じている。



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レッスルマニア&クラシコetc~華麗なる闘いに酔った週末

2010-04-12 00:15:30 | スポーツ
 週末は華麗なる闘いの数々を満喫した。10日のタイムラグで放映されたWWE「レッスルマニア26」を中心に記したい。

 フェニックス大スタジアムに7万超の観衆を集めた〝プロレスの祭典〟は、145カ国で放映された。時間を掛けて練られたシナリオ、それを形にするレスラーの能力に圧倒された4時間だった。

 前日に殿堂入りしたアントニオ猪木が、他の顕彰者とともに紹介された。リング外へのストーリーラインの拡大や軍団抗争など、新間寿氏とともに生み出したエンターテインメントの手法の数々は、現在のWWEにも継承されている。

 猪木の登場だけでなく、当日は〝ジャパンデー〟の趣もあった。ダークマッチのバトルロイヤルでヨシ・タツ(山本尚史)が優勝し、FMWとWARで修業した親日家のクリス・ジェリコが世界王座を防衛した。技の豊富さ、絶妙な間、巧みな受け、表現力と、ジェリコには〝世界一のレスラー〟を自称する資格が十分にある。

 マクマホン会長はブレット・ハートとの闘いで、世界中のファンの前で道化を演じた。その〝覚悟〟こそ、WWEを覇者にのし上げた最大の理由だと思う。両者の因縁は97年のモントリオールに遡る。そこで起きた事件の経緯は、秀逸なドキュメンタリー「レスリング・ウィズ・シャドウズ」に描かれている。

 昨年の再戦でもあるメーンイベントが、今大会のハイライトだった。<史上最も格の高いレスラー>のアンダーテイカーは祭典での連勝記録(昨年まで17)を、<史上最も華のあるレスラー>のショーン・マイケルズ(HBK)は引退を懸けて闘った。互いの決め技をはね返す掟破りの連続の後、テイカーが勝利を収め、HBKはリングを去った。美学と矜持を滲ませるHBKの鮮やかな引き際に拍手を送りたい。

 8万観衆のうちバルサファンが数百人……。サンチャゴ・ベルナベウで行われたクラシコの試合前、カチンスキ・ポーランド大統領の死に黙祷が捧げられた。いまだ排外主義がはびこるアジアでは考えられない光景で、恩讐を超えて緩やかな連合体を目指すヨーロッパの意識の高さが窺えた。

 前半は攻勢だったレアルだが、GKビクトル・バルテスの好セーブと女神のいたずらで、チャンスを生かせなかった。一方のバルサは、ともにシャビが起点になり、メッシとペドロがゴールを奪う。熟成したコンビネーションが閃きを生むことを証明する得点シーンだった。2点ビハインドとなったレアルは、〝チームの魂〟であるグティとラウルを投入するも、イニエスタの途中出場で中盤が厚くなったバルサを崩せなかった。

 バルサがインテルを破れば、チャンピオンズリーグ決勝に駒を進める。その舞台はサンチャゴ・ベルナベウだ。バルサの応援歌「イムノ」が自らのホームで鳴り響き、バルサイレブンがビッグイヤーを掲げて場内を一周する……。このシーンは、レアルファンにとって悪夢というより、かなりの確率で現実になりそうだ。

 タイガー・ウッズが3位でマスターズ最終日を迎える。スポーツ選手には〝性豪〟が多いが、何ゆえウッズが袋叩きに遭ったのだろう。それはきっと、ゴルフが支配者のスポーツだからだ。

 貴族や政財界の大物がたしなんできたゴルフは、植民地や第三世界の収奪の上に成立した競技ともいえる。梶井基次郎風にいえば、<グリーンの下にはアジア人やアフリカ人の屍体が埋まっている>……。両方の血を引くウッズの〝やんちゃ〟ぐらい、パトロンたちは大目に見るべきだ。

 将棋もゴルフ同様、精神性と関連づけて語られることもあるが、実態は異なる。山崎7段はNHK杯の解説で、青野9段を「将棋界に稀な人格者」と評した。若さゆえの正直な発言である。人格者かはともかく、〝孤高〟という表現が似合う2人による名人戦が開幕した。

 中盤まで有利と思えた挑戦者の三浦8段を、謎めいた柔らかい指し手でかく乱した羽生名人が初戦を制した。「三浦の敗着が見つからない」とのプロ棋士の声もあるほど、難解な激戦だった。「三浦は相手の力量をも引き出すタイプで、いつも斬り合いの将棋になる」という先崎8段の分析通り、三浦は安全策を取らなかった。2局目以降も〝剛の美学〟を貫くだろう。

 最後に桜花賞の感想を。POG指名馬シンメイフジは6着に終わったが、内枠有利の当日の馬場、先行有利になった展開で能力の一端は示せた。上がり3Fを最速33秒8で追い込んだ切れ味は、府中でこそ生きるはずだ。オークスではなくNHKマイルを目指してほしい。


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心を結ぶ「フローズン・リバー」~持たざる者に扉は開く

2010-04-09 01:56:50 | 映画、ドラマ
 メッシの4得点でアーセナルを粉砕し、バルセロナはチャンピオンズリーグ連覇に近づいた。。メッシのゴールはいずれも簡単に見えてしまうが、それこそが天才の証明なのだろう。あさってのクラシコが待ち遠しい。

 Wカップでは元祖と21世紀の〝神の子〟がタッグを組む。マラドーナが自由放任に徹すれば、メッシ率いるアルゼンチンにも優勝のチャンスはある。「この勝利をゲバラとカストロに捧げる」というマラドーナの優勝インタビューは、世界を震撼させるに違いない。

 渋谷で先日、「フロ-ズン・リバー」(08年、コートニー・ハント)を見た。カナダに近いアメリカの街が舞台で、鈍色の空の下、凍河を走って国境を行き来する車とともにストーリーは展開する。〝タランティーノが激賞した結末〟との宣伝文句でインプットされた先入観は、いい意味で裏切られた。

 興趣を削がぬよう、本作のポイントを以下に記したい。

 100円ショップで働く中年の白人女性レイ(メリッサ・レオ)、保留地で暮らすインディアンのライラ(ミスティ・アップハム)の2人が主人公だ。夫が蒸発したレイと夫を亡くしたライラは、一台の車が縁で知り合った。初めのうちは反発し合うが、<母であること>を接着剤に2人の魂は相寄っていく。

 背景にあるにはアメリカ社会の貧困で、レイ一家とライラは、ともにトレーラーハウスで暮らしている。ライラは不自由さを伴う<部族の掟>に守られているが、プアホワイトのレイは絶望的な状況だ。2人の息子とホームレスになる瀬戸際、ライラとともに一歩を踏み出した。

 映画「バグダッド・カフェ」、「EUREKAユリイカ」、小説「仮想儀礼」etc……。これらの作品と同じく、「フローズン・リバー」も従来の家族を超えた絆の可能性を提示している。

 割り切って物事を考え、時に強さを逸脱して暴力的になるレイ。親和的かつ情緒的で、殻を破れないライラ。異なる個性の2人は、パキスタン人女性の赤ちゃんを巡る象徴的なエピソードなどを経て、互いの長所を吸収していく。

 持つ者と持たざる者……。誰しも前者が幸せと確信しているが、聖書には<天国の扉は持たざる者のために開いている>(趣旨)と記してある。本作に息づいているのは、<持つ者のためのアメリカ的キリスト教>ではなく、<イエスが説いた高邁な精神>だ。だからこそ、清々しいソフトランディングに余韻は去らない。

 メーンの色調は灰色で夜のシーンも多い「フローズン・リバー」は、見る者の心を溶かす希望に満ちた佳作だった。登場する警官たちが不思議なほど寛容だった点も印象に残った。

 最後に、桜花賞の予想、いや、願望を。POG指名馬シンメイフジが17番枠から出走する。前走フラワーカップは引っ掛かって逃げる展開で5着に敗れたが、1度たたいて体調はアップし、追い切りでは抜群の動きを見せた。鞍上の岩田は人気落ちの馬にピッタリの決め打ち型で、後方からの差し切りを狙うだろう。

 シンメイフジが2着までに来たら……。空手形を切った時にいい結果が出た試しはない。翌週の皐月賞ではエイシンアポロンが控えている。煩悩の日々は続きそうだ。


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支離滅裂な花見雑感~日本人と桜の〝不幸な〟関係

2010-04-06 00:13:06 | 戯れ言
 中国当局が邦人4人に死刑執行を通告した。罪状は麻薬密輸で、今日6日にも1人に対して執行されるという。悪名高きヤクザの影がちらつくとはいえ、罰が重過ぎるというのが正直な感想だ。

 この件で中国異質論が噴出する可能性もあるが、俯瞰すると異なる景色が見えてくる。EU加入国だけでなく、韓国と台湾が死刑廃止に転じ、アメリカでも半数近くの州で執行が停止されている。いずれ死刑が日本バッシングの材料になるのではないか。

 花冷えの下、新宿中央公園で独り花見をした。例年は中野通りを散策するが、右膝治療中の今年は近場で済ませた。

 日本人はなぜ、桜を愛でるのだろう。儚さに魅かれ、無常ともののあはれを理解し、一瞬と永遠を同じ地平に捉える感性ゆえではないか……。知人にベタな〝定説〟を話したところ、「ブログで御託を並べている割に、何もわかってないな」と一笑に付された。

 サラリーマン生活30年、花見の席に毎度連なっている彼いわく、「花見は単なる年中行事。誰も桜なんて鑑賞しちゃいない」……。<桜を愛でる>という前提までバッサリだった。

 彼の言葉を咀嚼しつつ宴を観察する。会社、学校、地域の集まりと、組織ごとに敷かれたレジャーシートが重なることはない。桜を見上げている者も皆無である。

 蹲り、押し黙り、隅っこに追いやられた公園の主たちホームレスは、占拠した〝異物〟にとって不可視の存在だ。薄ら寒いとしか言いようのない光景にピッタリのBGMは、若者グループが流す大音量のテクノである。驟雨が弾けそうになった苛立ちを冷ましてくれた。

 帰路に就きながら考えた。俺はここ数年、ジャパネスクに幻想を抱いていたのではないかと……。

 そもそも桜とは、浅薄なイメージを付与された不幸な花である。軍歌「同期の桜」に<咲いた花なら散るのは覚悟 みごと散りましょ国のため>という一節がある。作者は詩人として名高い西条八十だ。

 戦争を主導した政財界人、満蒙居留団を見捨てて脱兎の如く帰国した関東軍、排外主義を煽ったメディア、そして西条……。玉砕や散華を奨励して多くの国民を死に駆り立てた支配層は、散るどころか戦後も色を変えて咲き誇った。桜よ桜、自らを冒瀆した者どもを呪い殺してしまえ!

 支離滅裂かつアナーキーに煮立った思考を鎮静し覚醒させてくれたのは、<桜の樹の下には屍体が埋まっている!>で始まる梶井基次郎の「桜の樹の下には」だった。

 文庫本で4㌻の掌編だが、豊饒で清々しく、氾濫するリアルでシュールなイメージが収斂し、<今こそ俺は、あの桜の樹の下で酒宴をひらいている村人たちと同じ権利で、花見の酒が呑めそうな気がする>と結ばれる。安直な死生観や美学と無縁なのは、肺結核の梶井が遠からず訪れる死と向き合っていたからだろう。

 昨年の今頃、入院中の妹は楽観を許さない病状だった。あれから1年、透析のため通院しているが、日常生活に支障がないほど回復した。妹が現状を維持し、来年のこの時季を迎えることができたら幸いである。


コメント (6)
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続編への期待が膨らむ「シャーロック・ホームズ」

2010-04-03 04:57:51 | 映画、ドラマ
 先月30日、ザ・フーがロイヤル・アルバート・ホールでチャリティーライブを行った。映画「さらば青春の光」のベースになった“Quadrophenia”(邦題「四重人格」)を全曲演奏するという趣向である。エディ・ヴェダー(パール・ジャム)、トム・ミーガン(カサビアン)も加わったパフォーマンスは、Youtubeにもアップされている。

 <ロックは進化している>という俺の持論も、フーの楽曲に触れると怪しくなる。彼らは40年前、21世紀の病理、疎外、絶望を見据えていた。だからこそ「CSI」3シリーズ(ラスベガス、マイアミ、NY)のプロデューサーは、フーのナンバーをテーマ曲に据えたのだろう。

 色褪せない〝英国の至宝〟といえばあの名探偵だ。先日、「シャーロック・ホームズ」(09年、ガイ・リッチー監督)を新宿で見た。ホームズ=ロバート・ダウニー・ジュニア、ワトソン=ジュード・ロウのコンビも新鮮で、スピード感に溢れた活劇に満足する。

 ビクトリア朝時代、大英帝国は産業革命と植民地支配によって繁栄と頽廃を極めた。本作には当時の流行や風潮が織り込まれているが、神秘主義もそのひとつだ。作者のコナン・ドイルも息子の死を契機に、<知と理>から<超現実>に転向し、心霊学に傾斜した。

 漫画「漱石事件簿」には、ドイルが参加した降霊会で南方熊楠が種明かしする場面が描かれていた。黒魔術を用いる本作の敵役ブラックウッド卿は、晩年のドイルが気に入りそうなキャラである。ホームズは科学の知識と瞬時の推理を駆使して、ブラックウッド卿の仕掛けを見破っていく。

 ホームズは富の偏在の恩恵に浴した高等遊民で、社会的不適応者の典型といえる。現在の日本に生きていたら、引きこもり、KY、格闘オタク、コスプレマニア(変装好き)、草食系(女性に対し)、薬物中毒といった無数のレッテルを全身に纏っているに違いない。

 ホームズの〝欠落〟は本作にも描かれている。整理整頓とは無縁で、何かに夢中になれば他のことをすべて忘れて不眠不休の日々が続く。ワトソンの婚約者メアリーに対し、観察した通りを口にして水を掛けられる場面など、KYの真骨頂といえるだろう。

 アイリーン・アドラーとの近い距離は原作とは異なるが、それはさておき、ホームズは洞察力ゆえ、女性と親密な関係を築けない。女性の本音や実態にたちまち気付いてしまえば、恋愛どころではないからだ。

 本作はあくまでプロローグで、幾重にも伏線が張られた予告編の意味合いが強い。続編では宿命のライバルで悪の権化のモリアーティ教授が登場する(本作では声だけ)。ホ-ムズにとっての〝マイ・ベアトリーチェ〟アイリーンが死闘のさなか、どのような役割を果たすのかも楽しみだ。

 ダウニー版も悪くないが、世界のシャーロキアンが唯一認めたホームズ演者は、「シャ-ロック・ホームズの冒険」(グラナダTV制作、NHK放映)のジェレミー・ブレットだ。怜悧さがもたらす孤独と憂愁を巧みに表現し、脳内がショートして真実に到達した時、悪魔憑きのような歪んだ笑みを浮かべていた。

 「シャ-ロック・ホームズの冒険」には個人的な思い出と重なる部分もある。放映されていた頃は今より幸せだったかもしれない。



コメント (2)
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