酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

東北と福島の今~真の絆を考える

2017-03-31 09:24:22 | 社会、政治
 政治の言葉は酷く、稚拙で、常に空虚だ。体現しているのは安倍首相だが、反安倍側も同じ陥穽にはまっているケースが多い。十進法の回りくどい思考に浸る俺は辟易しているが、単純化、図式化が求められる政治で二進法が好まれるのは当然の帰結だ。

 安倍昭恵さんについて書こうと思った矢先、森友問題をベースに本質を突いた論考に触れた。知人の高坂勝さんがブログ(「たまにはTSUKIでも眺めましょ」)にアップした「負うべき責任/負わされる責任」(24日更新)である(http://ameblo.jp/smile-moonset/entry-12259254103.html)。ぜひ検索して読んでほしい。経営するバーに何度も足を運んだ昭恵さんと谷さんへの思いが込められた一文は、既にネットメディアで紹介され、共感を呼んでいる。

 3・11から6年……。貴い犠牲を糧に、日本は再生に向けてスタートを切ると確信したが、現実は真逆だった。政官財の利権の構造そのものの東京五輪――築地市場の豊洲移転とも分ち難くリンク――が優先され、復興は後回しになった。良心や矜持の欠片もない安倍政権は原発再稼働と輸出に邁進している。無力な自分が悲しくなるが、東北をテーマに据えたドラマと映画、トークイベントについて記したい。

 まずは「絆~走れ奇跡の子馬」(NHK総合、前後編)から。3・11当日、南相馬で生まれた一頭の子馬と家族の物語である。牧場主の雅之(役所広司)は「相馬野馬追」に背を向け、競走馬育成に心血を注いでいる。周囲には和を乱す変人と疎んじられていた。母馬の出産に携わった長男の拓馬(岡田将生)は、津波で崩壊した厩舎で死ぬ。拓馬が命名していたリヤンドノールは、家族にとって彼の生まれ変わりだった。

 「リヤンをGⅠ馬に」という父と兄の夢を叶えるため、将子(新垣結衣)も故郷に帰ってきた。元騎手で兄妹の幼馴染みの夏雄(勝地涼)も協力を惜しまないが、母佳世子(田中裕子)は現実離れした夢に距離を置いていた。リヤンの未来に影を差したのは放射能で、北海道の育成牧場に預託を断られる。

 雅之と夏雄の挫折が後編で明らかになる。孤軍奮闘で育成牧場を造成する雅之に、「恩讐の彼方に」(菊池寛)の了海が重なった。夏雄、そして亡き拓馬を含む家族の絆は紡がれていくが、競馬ファンには荒唐無稽と思える設定が多々あった。その辺りに目を瞑れば感動的なドラマといっていい。

 先週末、第15回ソシアルシネマクラブすぎなみ上映会「LIGHT UP NIPPON~日本を照らした奇跡の花火」(2012年、柿本ケンサク監督)に足を運んだ。場所は高円寺グレインで、終映後は満田夏花さん(FoE Japan)と参加者を交えたトークイベントが開催された。まずは、映画の感想を。

 東日本大震災直後、一人の青年が立ち上がった。映画ではプロフィルは紹介されていなかったが、高田佳岳さんは〝普通の人〟ではない。二つの大学で学んだ後、大手広告代理店に入社した敏腕営業マンである。人脈をフル稼働させ、<複数の場所での花火同時打ち上げで被災地を明るくする>というプランを5月後(8月11日)に現実にした。昨年まで開催され、10カ所以上で花火を打ち上げている。

 高田さんたちは「今は花火どころではない」という声を説得していく。上の世代と交流していくうち、花火のコンセプトが<祭り>から<鎮魂>に変わったのが興味深かった。若い世代の情熱とチームワークは頼もしかったが、俺が違和感を覚えた。一昨年秋に被災地を巡った際に感じたことと乖離していたからである。

 映画でも紹介された釜石大観音だが、訪れた時は閑散ぶりとしていた。三陸鉄道とBRTを乗り継いで南三陸に向かう途中、窓の外の光景に愕然とする。気仙沼ではタクシー運転手が、放置された傷痕を説明してくれた。「LIGHT UP NIPPON」は希望と可能性に溢れていたが、公開後3年を経た時点の東北は復興と程遠く、今も人口減少に歯止めが利いていない。

 満田さんのトークの肝になったのは、小池百合子東京都知事の原発事故の区域外自主避難者への対応だ。支援期間延長を決めた自治体は多いが、東京では本日(3月31日)、打ち切られる。避難者宅を訪れた都職員は開いたドアに足を挟み、暴対法以前のヤクザの如き恫喝を繰り返す。誓願をはねのけて定時制高校の廃止を決めるなど、<都民ファースト>と裏腹の知事の冷酷さの反映といえる。人権犯罪に対し、FoE Japanは他の団体とともに都に抗議した。

 前々稿でアレクシエービッチの案内人を務めた斎藤貢さんの詩を紹介した。<ひとよ。虚飾の舌で 優しく、希望を歌うな。偽りの声で、声高に、愛を叫ぶな>と結ばれていたが、福島で若い世代の体内被曝の実態調査、避難地域20㍉シーベルト撤回訴訟などに取り組む。満田さんの言葉に希望と愛を感じた。そこに真の絆が息づいている。
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「牯嶺街少年殺人事件」に感じた邦画のDNA

2017-03-27 23:05:37 | 映画、ドラマ
 NHK杯将棋トーナメントは俺にとって「大河ドラマ」だ。ベスト4に佐藤姓が3人残った今期は、佐藤康光九段が佐藤和俊六段を下し、3度目の優勝を果たす。連盟会長の重責を担う佐藤九段だが、47歳になっても独創性は衰えない。決して若くない佐藤六段は懐の深い棋風で屋敷九段、羽生3冠、村山NHK杯、橋本八段と強豪に次々に破り、無名から全国区に躍り出る。棋界には才能がひしめいていることを実感した。

 橋下徹氏は羽鳥慎一アナとのトーク番組で、森友学園問題について<政権側の意向を行政が忖度するのは当たり前>と語っていた。身も蓋もない現状追認を敷衍すれば、豊洲移転で石原元知事の意向を都庁職員が忖度したのは当然となる。橋下氏自身も知事、市長として職員を従わせてきたのだろう。民主主義の根幹が首長経験者によって公然と軽んじられたことに憤りを覚えた。

 新宿武蔵野館で「牯嶺街少年殺人事件」(91年、楊德昌=エドワード・ヤン監督)を25年ぶりに見た。平日の午後だがソールドアウト(130席弱)の盛況である。3時間56分(デジタルリマスター版)の長尺にも緊張は途切れず、エドワード・ヤンの世界に浸った。

 覚えていたのは〝途轍もなく素晴らしい映画〟という印象だけで、具体的な内容は曖昧になっていた。数多の映画監督、俳優、作家、評論家らが「映画史に残る大傑作」と激賞している通り、語り継がれ、語り尽くされてもいる。俺が感じたのは<邦画のDNA>だ。小津安二郎は言うまでもなく、ATG後期に近い空気にノスタルジックな気分になり、デジャヴを覚えた。

 「台風クラブ」(1985年、相米慎二監督)を紹介した稿(2007年12月14日)で<楊徳昌(エドワード・ヤン)監督が本作のカメラワークにインスパイアされたことは、「牯嶺街少年殺人事件」見れば明らかだ>と記した。今回発見したのは、カメラワークだけでなくストーリーにおける影響である。

 「台風クラブ」ではタイトル通り、台風の一日の出来事を追っている。1960年夏に起きた事件をモチーフにした「牯嶺街――」も、台風の夜に起こったことがハイライトになっていた。「台風クラブ」は中学3年生の恭一(三上祐一)と理恵(工藤夕貴)を巡る物語で、「牯嶺街――」でも15歳の小四と小明との距離が軸になっている。

 不良たちは家庭や学校と別の名前で互いを呼び合っている。小四は通称で本名は張震だ。小四が属する「小公園」と「217」は熾烈な闘いを繰り返していたが、「小公園」リーダーのハニーが姿を消し、資産家の息子である滑頭が割って入る。不良グループの抗争で思い出すのが「ガキ帝国」(81年、井筒和幸監督/ATG)だ。「ガキ帝国」は演出の粗さが、役者たちの個性を際立たせている。「牯嶺街――」は対照的に丁寧な作りだが、血の匂いはより濃密だ。
 
 台湾が置かれた政治状況が後景に聳えている。1945年時点で台湾に暮らしていたのが本省人、国共内戦で敗れて台湾に移ってきた国民党関係者が外省人で、両者の確執は「非情城市」(89年、候考賢監督)などに描かれている。ちなみに小四一家は1949年に上海から渡ってきた外省人だ。日本統治時代の傷、大陸からの圧力、アメリカへの憧れ、地縁と血縁を重視する風土も作品に織り込まれていた。

 公務員の父と同様、小四は要領が悪く世渡りが下手だ。〝ニュートンのゆりかご〟ではないが、抗争、恋、家庭、進学と様々な力が小四に作用する。DVDで観賞するなら、途中で何度も止めて、ラストに至る痕跡を拾い集めることが出来るだろう。

 切り口は多いが、「牯嶺街――」は恋愛映画だと思う。還暦を過ぎた俺だが、女性はいまだ謎のままだ。男性なら同意されると思うが、欲望と恋が分ち難く混ざり合っているのが10代だ。小明はハニーの〝女〟だったが、それが何を意味するのか小四にはわからない。小明は〝魔性の女〟の如く振る舞うが、15歳ゆえ勘違いもある。純粋さを求めるがゆえ、小四は追い詰められていく。

 いかに社会の階段を上るべきか、家族との軋轢をどう和らげればいいか、そして恋の結末は……。数々の難問の向こう側に、広大な世界が広がっている。本作が傑作であるゆえんは、見る者全てが小四にシンパシーを抱き、彼の懊悩を我がものと感じるからだ。俺もまた、<十代の曠野>を彷徨している。

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「アレクシエービッチの旅路」~心洗われるドキュメンタリー

2017-03-24 10:15:21 | 社会、政治
 反核運動を支えてきた肥田舜太郎医師が亡くなった。赴任先の広島で被爆(=被曝)した肥田氏は、「ヒバクシャ~世界の終わりに」(03年、鎌仲ひとみ監督)で、<核兵器と原発の廃棄が、世界の終わりから人類を救出する手段>と8年後を見据えていた。享年100、不屈の医師の冥福を心から祈りたい。
 
 先日(20日)、「いのちを守れ! フクシマを忘れない さようなら原発全国集会」(代々木公園)に、オルタナミーティング(OM)のブーススタッフとして参加した。ソシアルシネマクラブすぎなみ第15回上映会「LIGHT UP NIPPON」、OM主宰「神田香織一門会」の告知が主な目的である。

 「アレクシエービッチの旅路~チェルノブイリからフクシマへ」(NHKBS)を再放送で見た。「チェルノブイリの祈り」、「フクシマ未来の物語」の2部構成で、ベラルーシ出身のジャーナリスト、記録文学者で、ノーベル文学賞を受賞したスベトラーナ・アレクシエービッチの取材を追うドキュメンタリーだ。

 <小さき人々、自らの声を書き残そうとはしない人々……。彼らの存在が砂や風のごとく闇に埋もれてしまわぬように、私は見向きもされない歴史を書き留める。教科書に載らない本当の歴史を>……。これが彼女の方法論だ。チェルノブイリ事故直後、人類にとってコントロール不能の状況に慄然として取材を始め、10年以上を経て「チェルノブイリの祈り」(1997年)を発表した。第1章は発電所の鎮火のために招集された消防士とその妻の愛の物語で、上記の神田香織が講談化し、全国で口演している。

 「核兵器と原子力は共犯者で、等しく人を殺すことを知らなかった」と自主的帰村者は語る。独裁が続いたベラルーシでは日本同様、医学、科学、メディアが政府の管理下にあり、体内被曝の実態も隠蔽されている。<ここは世界の中に出来たもうひとつの世界。私たちの世界の身代わりなのです>とアレクシエービッチは独白する。

 「チェルノブイリの祈り」のサブタイトル〝未来の物語〟は2011年3月、福島で現実になる。アレクシエービッチは昨年11月、福島を訪れ、斎藤貢氏(小高商業高校元校長)と長谷川健一氏(元酪農家)が案内人を務める。「自分はこの場所を見捨てることが出来ない」という声が印象に残ったようで、<「旅人の宿」になっている現代の世界で、「故郷」という言葉は日本で以前と同じような意味を持っている>と語っていた。

 詩人でもある斎藤氏はアレクシエービッチのリクエストに応え、自作(「いのちのひかりが」)を朗読する。福島の人たちの思いが凝縮されている詩を以下に記す。

 野の草も、木も、花も かつての美しさは色褪せてしまって いのちの気配すら もう、ここには、ないのかもしれない
 ひとが住めない土地に、芽生えるのは ガラス細工のように巧妙な 偽物のひかり
 優しいことばが むしろ、苦役で
 たくさんの、こころを 傷つけていることにも、気づかない
 放射能の薄い皮膜で、覆い尽くされてしまった土地
 廃墟のような、ふるさと
 そこを 歩いているのは、薄い紙のようなひとだろうか 
 ペラペラとした肉体で、いのちの影が、とても薄くなったひと
 しかし、それは、かすかないのちのひかりが 雑草のように、ここではじけ散ったからにすぎない
 だから、ひとよ。虚飾の舌で 優しく、希望を歌うな。偽りの声で、声高に、愛を叫ぶな

 被災者住宅で暮らす人、放射能の恐ろしさを承知しながら帰郷した人、長谷川氏らが語る自殺者の無念……。アレクシエービッチは孤独、哀しみ、絶望、憤りに感応し、同じ目線で、瞳を潤ませながら話を聞く。

 <なぜ彼らは、絶望し、首をくくらなければならないのか? 大規模な原発事故は2度しか起きていないから、抵抗の方法がわからない。被災者は社会と切り離され、「のけもの」にされている。被災を免れた人々は、自分の身にも起こり得たと実感できない>と語り、<チェルノブイリとフクシマの文化を創らねば成りません。新しい知を、新しい哲学を>と旅を総括する。

 福島訪問を終えたアレクシエービッチは東京外大で講演し、<チェルノブイリとフクシマで感じたのは、国家の無責任、冷酷さだが、抵抗の小ささにも驚いた。あなたたちの社会には「抵抗の文化」がありません>と警鐘を鳴らす。そして若者たちに<孤独でも「人間」であることを丹念に続けるしかない>と提言した。
 
 話は戻るが、反原発集会では10代、20代にチラシを配ろうと思った。休日の公園だから若者を多く見かけたが、集会とは無関心で受け取ってくれない。だが、俺も似たようなものだった。20代の頃は政治に関わっていたのに、阪神・淡路大震災を享楽都市東京から他人事のように眺めていた。小泉政権による自衛隊のイラク派遣に抗議するデモに誘われたが、仕事を理由に加わらなかった。

 アレクシエービッチの言葉を借りれば、俺は「人間」ではなく、「人間もどき」だったのだ。「人間らしき」が芽生えたきっかけは、東日本大震災と原発事故、そして翌年の妹の死である。遅きに失した感はあるが、死ぬまでに少しでも心を洗って「人間」に近づきたい。
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1975、ブロッサムズ、リップス、そしてDP~錆びついた心身をロックで磨く

2017-03-20 23:09:26 | 音楽
 山城博治氏(沖縄平和運動センター議長)が釈放された。アムネスティ・インターナショナル(本部ロンドン)が展開したキャンペーンも功を奏したのではないか。安倍政権はオリンピックを控え、<弾圧国家>の本質を暴かれることを避けたいのだろう。重い病(悪性リンパ腫)とも闘う山城さんの健康を祈りたい。

 今月上旬、「柳家三三と春風亭一之輔の二人会」(渋谷・さくらホール)終演後、階段から落ちて全身を打ったことは別稿(3日)で記した通りだ。治りが遅く、今も接骨院で左手の治療を受けている。体以上に著しいのは脳の劣化だ。方向音痴に磨きがかかり、記憶力の低下は絶望的だ。30年前、両親は何度目かの「刑事コロンボ」を心から楽しんでいたが、血は争えない。今の俺も「相棒」や「名探偵コナン」の再放送を新鮮な気持ちで見ている。

 ボケ防止を意識しているわけではないが、映画、文学、落語に親しみ、将棋や麻雀の対局番組を見ている。まるでホバリングするハチドリのようだが、心、頭、体の錆びは削げない。ロックの効能に期待し、昨年から今年にかけてリリースされた4枚のアルバムを購入した。

 英米音楽誌で昨年度のベストアルバムと評価されているのがThe1975(英)の2ndアルバムである。「君が寝てる姿が好きなんだ。なぜなら君はとても美しいのにそれに全く気がついていないから」の長いタイトルが、作品のムードを物語っている。初々しい恋人たちの心情、瑞々しい感性、好奇心が込められた75分に及ぶ大作で、俺にとって回春剤のようなアルバムだった。

 ロックを聴く者はピート・タウンゼント(ザ・フー)が言い当てたように、死ぬまで<10代の曠野>を彷徨している。俺もそのひとりで、還暦を過ぎても情けないほど蒼い。初期衝動、繊細さに満ちたアルバムとして感応したのはヴァインズの「ウィキット・ネイチャー」(14年)以来だ。The1975の音はクチクラ化した俺の血管に、純水のように染み渡っていく。

 煌めくポップという点でThe1975の2ndに引けを取らないのがブロッサムズ(英)のデビューアルバムだ。連想したのはプリファブ・スプラウト、ペイル・ファウンテンズ、アズテック・カメラといった80年代のネオアコバンドでノルタルジーに浸ったが、聴き込むうちに印象が変わってくる。上記のバンドには陰り、捻れがあったが、ブロッサムズは色調が異なる。キャッチーかつメロディアスを志向しつつ、ブルートーンズを彷彿させる骨格が窺えた。

 いきなり年齢が上がるが、56歳のウェイン・コインが率いるフレーミング・リップス(米)の新作「オクシィ・ムロディ」を聴いた。ウェインが「遠い未来に作られた宗教音楽」と評した前作「ザ・テラー」は全く売れなかったが、妖しい雰囲気のアシッドロックだった。かつてのリップスは様々な意趣と加工が施す<音の彫刻>を提示してきたが、新作は潜在意識を刺激するシンプルな作りといえる。

 リップスについて、当ブログでも何度も紹介してきた。<メロディーとノイズ、開放感と閉塞感、浮揚感と下降感覚、前衛とエンターテインメント……。数々のアンビバレンツを内包するのがリップスの魅力>と評したが、本作もそのまま当てはまる。

 リップスの魅力が最大限、発揮されるのは祝祭的でマジカルなライブだ。彼らの後を継ぎ、フェスのヘッドライナー級に成長するのではと期待していたのがダーティー・プロジェクターズ(米、以下DP)である。バンド名を冠した新作は本年度のベストアルバム候補に挙げられる出来栄えだが、俺の心にはレクイエムと響いた。

 DPはそもそもデイヴ・ロングストレスのソロユニットとしてスタートしたが、「ビッテ・オルカ」(09年)の頃には7人編成になっていた。育ちの良さそうな美男美女が全員でハモり、担当楽器を変えて演奏する。オルタナティブ、ボーダレスを体現する彼らにロックの未来を感じたが、前作「スウィング・ロー・マゼラン」(12年)以降、シーンから消え、原点(デイヴのソロユニット)として復帰した。

 1980年代、3枚の傑作を発表したスクリッティ・ポリッティも天才ソングライター、グリーン・ガートサイトのソロ名義だったが、DPも同じ道を歩むのだろうか。デイヴは新作のテーマを「別離」とか「失恋」とか語っている。バンド内の色恋沙汰が想像されるが、傷が癒えたらバンド活動を再開してほしい。秀才(エール大卒)の35歳のエリートもまた、<10代の曠野>の放浪者なのだろうか。

 シガー・ロスの来日公演(8月1日、東京国際フォーラム)のチケットをゲットした。還暦過ぎのジジイにとって、冥土の土産になりかねないが……。
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「ペルーの異端審問」~聖と性の境界を笑い飛ばす猥雑な人間賛歌

2017-03-17 12:48:47 | 読書
 奇妙な夢を見た。入浴中、天井から5㌢ほどのヒルが落ちてきて肩に止まる。「ギャー」と叫んで、掴んで浴槽に投げると、事態はさらに悪化した。ヒルは膨らみながら浮上し、鼠からリス、やがて猫に形を変え、ひょいと流し場に降り立った。心臓が破裂するかと感じた刹那、アラームが鳴る。

 渡瀬恒彦さんが亡くなった。映画でも5作品で主演賞、助演賞に輝いているが、テレビでの活躍は傑出している。刑事ドラマは俺にとって〝飯の供〟で、録画して数日後に見るのがパターンだが、渡瀬さんこそ〝最高のおかず〟というべき役者だった。優しさや怒りを目で表現し、おのずとチームの結び目になっている。強烈な個性を束ねる「警視庁捜査一課9係」が典型だった。最も印象に残るのは「十津川警部シリーズ」で、ラストでの伊東四朗(亀井刑事役)との掛け合いに心が和んだ。親和力に秀でた名優の死を心から悼みたい。

 〝籠池爆弾〟が安倍政権を追い詰めている。登場する籠池夫妻、首相夫妻、稲田防衛相、松井大阪府知事、鴻池元防災相らを繋いでいるのは教育勅語だ。古今東西、<大声で倫理を説く輩は怪しい>という〝真理〟は、上記の人たちにも当てはまる。徳を説く同志に切り捨てられた憤りが、籠池氏の逆噴射の理由なのだろう。

 政治家、教育者、軍人といった連中は大抵、怪しく薄っぺらだ。果たして宗教家はどうだろう。「沈黙-サイレンス」(16年、マーティン・スコセッシ監督)に登場したロドリゴとガルベの苦悩は想像を絶するものがあった。全ての修道士は2人のように高潔かつストイックだったのか……。そんなことはない。聖人であっても状況によって変わることを「ペルーの異端審問」(新評論)は描いている。

 著者のフェルナンド・イワサキは日系3世だが、写真を見る限り、日本人だけでなく複数の民族の血を継いでいるようだ。DNAだけでなく、イワサキは歴史家、文献学者、評論家、そして作家と複数の顔を持つ。その懐の深さとキャパの大きさが、本作に無限の広がりを持たせ、読む側の想像力を掻き立てる。

 発表後20年も邦訳されなかったのも不思議だが、巻頭言の筒井康隆、序文のバルガス・リョサの名に惹かれたのも購入した理由のひとつだ。17編から成る短編集で、帯には「中世の欲情短編集」とあるが、日本の区分でいえば近世(1500~1600年代)リマを舞台にしている。ちなみにカトリックによる異端審問は、ルターらの宗教改革への対抗措置だった。

 悪魔に操られて聖職者たちを次々に籠絡した女、多くの淑女と関係を持った聴罪司祭、イエス・キリストと寝たと語る女たち、死後もペニスが屹立したままの聖人、囚人や修道士の精液を材料に菓子を作る女、背徳文学を誘惑の手段にする修道士、天使を自称し全裸で闊歩する女……。強烈なキャラが各編に登場する。現在風にいえば性依存症、倒錯のオンパレードだ。女たちの告白は赤裸々で、修道士の多くは光源氏並みのドンファンである。

 一読して、「マジックリアリズム」の系譜に連なり、「メタフィクション」の手法を極めた小説と感じた。もっともらしい史料も含め、全てフィクションと結論付け、筒井の巻頭言とリョサの序文を再読して腑に落ちた。すべて、史実に基づいている!

 セビリアに移住したイワサキは、ペルーからスペインに持ち去られた虫食い状態の史料を精査する。想像と創造を施した本作では、善と悪、正義と罪、純潔と淫蕩、情熱と冷酷が奇妙な整合性をとって個人の中に同居している。人々は束縛から逃れようと喘ぐが、欲望という縛りから決して自由になれない。「ペルーの異端審問」は聖と性の境界を彷徨う人間を肯定的に描く人間賛歌である。

 かねて不思議に思っていたのは、フランス、イタリア、スペイン、そして南米と、享楽的、情熱的、刹那的とされる国で、戒律が厳しいカトリックが信奉されていることだ。非キリスト教徒の俺の理解を超えた〝了解の仕組み〟が暗黙の裡に成立しているのだろう。本作では拷問の血なまぐささは抑えられ、悪業も懺悔や告解で赦される。異端と審判が下っても国外追放、鞭打ち程度で、愚者、狂人と判断されたら罪は軽くなる。唆した悪魔が罪を負うこともしばしばだから、神と悪魔は分ち難い対語なのだろう。

 偽悪者たる俺は自称〝煩悩の塊〟だが、本作の登場人物には遥かに及ばない。人間とは滑稽かつ哀れで、愛すべき存在だと教えられた。上記した「沈黙」の2人の神父が、日本ではなくペルーに派遣されていたら……。愚にもつかないことを妄想して悦に入っている。
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「いのちの森 高江」~美しい日本を破壊する者、それは……

2017-03-13 22:28:28 | 映画、ドラマ
 第1次安倍内閣のキャッチフレーズは「美しい国日本」だった。<日本の美しさ>を何に覚えるかについて個人差はあるだろうが、世論調査(06年、複数回答可)では「山や森などの自然や四季折々の景観」と答えた人が圧倒的で、「伝統工芸の匠の技」や「伝統文化」が続く。抽象的だが「日本特有の無常観や死生観」を挙げる人もいるだろう。

 当時の安倍氏はぶら下がりの若い記者にも見下されていた。反安倍の俺でさえ、<一国の首相に対してあまりに非礼ではないか>(趣旨)とブログに記したぐらいである。ひ弱だった安倍氏は5年後、屈辱をバネにモンスターとなって首相に返り咲き、対米従属と国民管理に邁進している。

 先日、<「いのちの森 高江」上映会&トーク>に参加した。場所は〝常連〟と化している高円寺グレインだ。同店で催される他のイベントと比べて平均年齢は低く、女性の数が目立っていた。本作は昨年11月に完成したドキュメンタリー(謝名元慶福監督、語り=佐々木愛)で、米軍ヘリポート(オスプレイ・パッド)建設が進む高江の現在を描くだけでなく、ニュース映像を織り込み、沖縄の苦難の歴史を浮き彫りにしている。高江関連の映画を見るのは「標的の村」(13年、三上智恵監督)以来だった。

 日本による沖縄弾圧は1892年の琉球処分から始まった。沖縄王国は滅び、独自の文化を根絶する施策を推し進める。アイヌ弾圧と同時期で、アジア侵略へのステップボードになった。太平洋戦争末期、沖縄は捨て石にされた。世紀を超えた今、辺野古や高江への冷酷な対応を、〝第二の琉球処分〟と訴える声もある。

 ベトナム戦争時、米軍は高江の人々をベトコンに見立てて実戦に向けた訓練をする。周辺では実弾演習が繰り返され、ハリアーパッド建設が発表された。年齢、性別、支持政党を超えた闘いが広がったことは、挿入された映像や写真の数々が示す通りだ。

 本作の主役というべきは、高江周辺の豊かな自然である。沖縄本島北部に位置する山原(やんばる)は、絶滅危惧種のノグチゲラ(キツツキ科)、固有種のハナサキガエル、そしてヤンバルクイナを筆頭に蝶類の宝庫だ。貴重な生き物は生態系に守られ、共生して至高の美を形成していた。まさに安倍首相の〝初心〟というべき<美しい国日本>だが、周囲を機動隊が取り囲み、上空には轟音をかき鳴らして米軍機が飛んでいる。

 抗議の声を無視して、業者が森を伐採していく。怒りの矛先はどこに向かうべきなのか。言うまでもなく安倍首相だ。都内で開かれた東日本大震災の追悼集会で、最後まで原発事故について触れなかった首相に、内堀福島県知事は違和感を隠さなかった。被災者の苦しみは続き、原発事故の収束が程遠いにもかかわらず、3・11当日、恒例になっていた記者会見をパスした。福島、そして沖縄の人たちは、首相の醜く冷たい貌に憤りを覚えている。首相にとっての〝美しさ〟とは強者に隷従する従順さなのだろう。

 観賞後、ミュージシャンの石原岳さん(高江音楽祭主宰)の熱いトークが始まる。当地で暮らす石原さんは、ヘリパッド建設阻止活動に加わり、日本中を飛び回って高江の今を伝えている。今回のイベントは東京ツア-の一環だった。運動の内側にいないと見えてこない話を聞けて楽しかった。翌日が早いので中座したが、2ndアルバム「発酵する世界」のタイトルにちなんだTシャツを購入する。

 会場は和やかな空気に包まれていた。東京都に対し機動隊派遣差し止め訴訟を起こした原告団など、地道な活動で参加者の思いは紡がれている。俺に出来ることは多少のカンパ、そして起こっていることを当ブログで紹介するぐらいだ。細い糸ではあるが、遠く離れた高江、そして辺野古と繋がっていたいと切に願っている。

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「虚人の星」~島田雅彦が織り成した甘美な夢

2017-03-10 13:25:03 | 読書
 前稿の最後、WBCでイスラエルが韓国に勝ったことを衝撃と記したが、無知ゆえの勘違いだった。イスラエルチームはMLBやマイナーリーグで活躍する選手で構成されており、1次リーグ首位突破は順当な結果と野球通は話していた。

 将棋B級1組の最終局の棋譜をネット中継で見た。肩入れしてきた山崎隆之八段が阿久津主税八段に敗れ、A級昇格を逃す。今回も〝才能があるのに勝負弱い〟という評価を覆すことが出来なかった。既に復帰を決めていた久保利明九段とともにA級入りを決めたのが豊島将之七段だ。名人に挑戦する稲葉陽八段とともに、関西のホープのひとりである。

 「又吉直樹 第二作への苦悩」(NHK)を録画で見た。執筆に取り組む又吉に密着したドキュメンタリーである。別稿(15年8月25日)に記したように、「火花」を芥川賞に相応しい作品と評価している。<ポップとギャグは、人を狂気に追いやる>は俺の持論だが、同作では袋小路に迷い込み世間と乖離していく〝全身漫才師〟神谷を見守る徳永(又吉の分身?)の独白に感嘆させられた。

 新作「劇場」が「新潮」に掲載された。内面を掘り下げた恋愛小説らしい。純文学に固執して独自性を保つのも有効な戦略だが、枠組みを広げた方が楽になると思う。文壇を牽引する作家たちは、俯瞰の目で縦軸(歴史)と横軸(社会)を組み立てて小説を書いている。その代表格、島田雅彦の「虚人の星」(15年、講談社)を読了した。
 
 「虚人の星」はユーモア、パロディー精神に溢れた政治小説だ。主人公は星新一と松平定男の2人で、両者の主観が交錯しながら物語は進行する。星の記憶の中に2人の父が存在する。9歳の頃、2人目の父は星を寿司屋で置き去りにして失踪する。その後、母と星の周りに奇妙な人々が現れた。引きこもりで友達のいない星の内面に、七つの人格「レインボーマン」が棲みついた。

 上記のドキュメンタリーで、又吉が師と仰ぐ古井由吉と対談するシーンがある。多重人格の初期とされる「解離性障害」をテーマに、古井は「槿」を著わした。日常に表れるのが「離人」だが、俺も子供の頃から突然、頭が朦朧としてデジャヴに襲われることがある。軽度の「解離性障害」に相違ない。この分野で最先端の研究者といえる精神科医の宗猛が見守られ、星は自殺することなく大学を卒業し、外交官になった。

 松平はイケメンの3世議員だ。追い詰められた政権党は、窮余の一策で松平をトップに据えて総選挙に圧勝する。〝陰の総理〟上杉官房長官にとって操縦性がいい松平は、敷かれたレールを脱線しなければいい。<対米従属を維持し、対中戦争を準備する>というミッションを松平は過激に語り、アメリカ大統領をも驚かす。松平の中で別人格のドラえもんが蠢き始めたのだ。

 島田作品の特徴を挙げれば、神聖と猥雑の同居、スピリチュアルな薫り、そしてタブーを破って政治を後景に据えることだ。「無限カノン三部作」のヒロインには皇太子妃雅子さんが重なるし、「英雄はそこにいる」では橋下徹、金正恩と思しき人物が暗殺対象になっていた。本作の松平のモデルはもちろん安倍晋三首相だ。

 祖父、父に次いで44歳で首相になった松平は安倍首相そのままの保守派だ。昭恵夫人っぽい奥さんは皇后に親近感を抱いているが、当人は発刊1年半後、〝化けの皮〟が剥がれてしまった。<右派が担ぎたい皇室が護憲派のシンボル>という捻れた構図が本作の背景になっている。

 星もまた、レールの上を走らされていた。中国のスパイになった星は外務省から出向し、首相秘書として松平と身近に接するようになる。別人格を抱える両者の人生は宿命的に交錯するのだ。島田の言葉を借りれば、「虚人」とは<組織や集団に自身を委ねた人>となる。「虚人の星」は星と松平が自身を解き放ち、アイデンティティーを回復する物語である。

 ラストのドンデン返しで、島田の理想が語られる。護憲と反戦に価値を見いだすリベラルや左派は、「スミス都へ行く」や「独裁者」を重ねるだろう。俺にとって甘美な夢の如き小説だが、醒めた時、酷い現実は何も変わっていない。

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「バンコクナイツ」~アジアと日本を俯瞰で捉えるロードムービー

2017-03-06 22:42:16 | 映画、ドラマ
 アメリカの<オルタナ右翼>はトランプ大統領就任に寄与した。本家というべき日本の<ネット右翼>は〝この世の春〟を謳歌しているが、彼らのシンボルというべき存在が今、苦境に追い込まれている。小心で姑息な内面が露呈した石原元都知事に加え、安倍首相も森友学園の件で集中砲火を浴びている。

 メディアは一昨年9月4日の首相の行動を報じている。戦争法案で議論が白熱する中、首相は国会を抜け出して大阪に向かい、森友問題で策を講じた。昭恵夫人の名誉校長就任は翌日である。黒幕は明らかに首相本人だが、<安倍、離婚を考える~こんな世間知らずの妻はもういらない>という「週刊現代」の広告に愕然とする。官邸は夫人をスケープゴートにするつもりなのだろう。

 この国は醜くなりつつある。そんな日本、そして日本人は、世界、とりわけアジアにどのような貌を晒しているのだろう。考えるヒントになる映画「バンコクナイツ」(16年)をテアトル新宿で見た。富田克也監督は映画作家集団「空族」の一員で、アジアに照準を定めて映画を撮り続けてきた。海外では高い評価を受けている。

 毎回ソールドアウトの盛況という。決してエンターテインメントではないが、深いテーマ性、シャープな映像、会話(監督の出身地に合わせて字幕は甲州弁)のセンスに引き込まれ3時間、も緊張が途切れることはなかった。セミドキュメンタリー風で、素人っぽい演技がリアルを色付けている。

 舞台はタイの首都だ。副題「地獄でも超えて行ける」が示すように、キーワードは<地獄>と<楽園>だ。タイといえば、プミポン国王の死を悼み、人々が泣き崩れるシーンに怪しさを感じたが、当地に友人が多い従兄弟によると、演出は確実にあるという。

 タニヤ通りの「人魚」で、美貌とアンニュイを武器にナンバーワンになった娼婦ラックが主人公だ。彼女はラオス国境沿いのイサーン出身だ。ラックだけでなく「人魚」の女の子たちは、おしなべて人工的だ。彼女たちに群がるのは〝醜い日本人〟である。

 バンコクは日本人の男にとって楽園で、タイ人の女にとっては地獄なのだ。ラックは国元の家族に仕送りしているが、他の女の子も似たり寄ったりだ。遊郭に娘を売るというかつての日本の状況が、タイでは今も続いている。さらに、バンコクで暮らす日本人の男たちの格差も鮮明だ。

 元自衛官で〝沈没組〟のオザワがラックの恋人的存在だ。ラックとオザワが惹かれ合ったのは、互いが秘めるやるせなさに気付いていたからだろう。人は生きる上で取り繕う。ラックとオザワは互いのコーティングを剥がし、素の人間として向き合うために旅に出る。行き先はイサーンだ。

 エンドロールで、キャストの素顔やNGシーンが紹介される。ラックを演じたスベンシャ・ポンコンは寺院を訪ね、僧の言葉に涙ぐんでいた。劇中で弟ジミーに入隊ではなく出家を勧めたのは本音だったのだろう。仏教はタイで今も息づいていることは、他のシーンからも窺える。自衛隊時代の上司の指令でラオスに直行するはずだったオザワは、イサーンで精霊に会う。

 思い出したのは「光りの墓」(2015年、アピチャッポン・ウィーラセタクン監督)である。同作では幻想的な世界が表現されていた。タイは精霊の国なのだ。精霊といっても、タイ、ラオス、カンボジア、ベトナムの戦乱で斃れた怨霊も交じっているだろう。ラオスから国境を超えて出稼ぎに来る生きた人間も紛れているかもしれない。

 ラックとともに楽園を探す道行きで、オザワのコーティングがであるこ剥がれていく。自衛隊時代に訪れたカンボジア、ベトナムに足を運び、オザワの目に映る光景が変わっていく。家族を背負うラック、日本人であることから逃れられないオザワ……。素の男女として愛し合える楽園は、果たして見つかるのだろうか。

 本作は様々な問題、そして謎を孕んでいる。咀嚼し切れず、理解に至らぬ点は多いが、アジアと日本を俯瞰で捉えたロードムービーの傑作と断言出来る。

 ブログをアップする寸前、衝撃のニュースが。WBC初戦で、韓国がイスラエルに敗れた。驚いた人も多いのではないか。

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「楽園」、そして「相棒劇場版Ⅳ」~濃密なミステリーに浸る

2017-03-03 14:31:01 | 映画、ドラマ
 昨日は「柳家三三と春風亭一之輔の二人会」(渋谷・さくらホール)に足を運んだ。三三「元犬」→一之輔「お見立て」→一之輔「人形買い」→三三「田能久」の順で会は進行する。「お見立て」以外は初めて聴く演目だったが、その「お見立て」も一之輔らしくアヴァンギャルドでブラックな空気を醸していた。

 三三が「ようやく落語らしいものを」と切り出し「田能久」を演じる。三三は小三治直系という〝殻〟、一之輔は古典という〝型〟を破らんと精進していることが窺えた。旬の話芸を堪能した2時間だったが、楽しみ過ぎた罰なのか、終演後、ホールの階段を踏み外す。何事もなかったかのように見栄を張って立ち上がったが、全身打撲であちこちが痛い。年は取りたくないものだ。

 WOWOWの充実が著しい。キラーコンテンツのひとつがドラマWで、当初の単発から、現在は4~6回シリーズが主流になっている。時間は限られているから決め打ちし、2010年以降、「マークスの山」(10年)、「人間昆虫記」(11年)、「ヒトリスズカ」(12年)、「レディ・ジョーカー」(13年)、「LINK」(同)、「悪貨」(14年)、「きんぴか」(16年)と、1年1作ペースでピックアップした。

 今年放映された「楽園」(全6話、宮部みゆき原作)を録画してまとめて見た。5月にDVD化されるので、興趣を削がぬようアウトラインを記したい。複数の家族が抱える闇が描かれていたが、ラストでタイトル「楽園」の意味が明かされる。

 「模倣犯」の9年後という設定で、痛手を負ったライターの滋子を仲間由紀恵が演じている。火事をきっかけに、<16年前、15歳の長女を殺して自宅の下に埋めた>と土井崎夫妻(小林薫、松田美由紀)が告白する。騒動と軌を一にするように、ある母親(西田尚美)が息子の等が描いた奇妙な絵を持って、滋子の元に訪れる。滋子は土井崎夫妻の件と等の絵の関連に気付いた。

 宮部の小説を読んだのは2000年までで、とりわけ印象に残っているのは「龍は眠る」だ。同作には「ミステリー・ウォーク」(ロバート・マキャモン)の影響が窺えたが、両作の主人公同様、等もエスパーで、ある人物の心象風景を写し取った絵をとば口に、滋子は真実に迫っていく。

 スポンサーや代理店に気兼ねする必要がないから、ドラマWはテーマを深く掘り下げ、批評性が強い。キャスティングも豪華で、本作でも甲本雅裕、黒木瞳、夏帆、石坂浩二、金子ノブアキらが彩りを添えていた。

 先週末、「相棒劇場版Ⅳ」を新宿で見た。「首都クライシス 人質は50万人! 特命係最後の決断」のサブタイトルに偽りはなく、興行成績も上々という。政治がテーマになると、「相棒」は時折、齟齬を来すことが多いが、「Ⅳ」は緊張が途切れぬ濃密な作品に仕上がっていた。脚本を担当した太田愛氏の力量が寄与しているのだろう。


 <日本の棄民の伝統>が起点になり、戦前と戦後を繋げている。安倍政権に警鐘を鳴らしているのは明らかで、自公に一票を投じている人は、作品の底に流れる<反戦の思い>に違和感を覚えるかもしれない。脇を固めるお馴染みの面々に加え、鹿賀丈史、北村一輝がそれぞれ国連犯罪事務局元理事、「バーズ」のメンバーとして存在感を示していた。最近のテレビ版を見ても、冠城役の反町隆史がようやく、杉下警部(水谷豊)と息が合ってきたのを感じる。

 時の流れを感じるのは、監視映像の扱いだ。15年前、歌舞伎町に防犯カメラが設置された時、人権派から大きな非難が沸き起こったが、今では共謀罪に賛成の声が高い。監視社会への忌避感が薄まってきたことに最も貢献したのは、「相棒」などテレビ朝日系の刑事ドラマだと思う。

 <法の正義を、法を超えた正義より上位に置いていることが「相棒」の限界>と指摘してきた。だから、伊坂幸太郎の小説、「その女アレックス」(ルメートル)には敵わなと考えていたが、「シーズン13」最終話で甲斐享(成宮寛貴)がタブーを破った時、その後の展開に期待した。成宮が引退した以上、何も始まらないが……。

 スカパーで再放送されている「シャーロック・ホームズの冒険」(グラナダTV製作)を見て、ホームズが必ずしも<法の正義>にこだわっていないことに気付いた。人間としての正義に貫かれているのなら、犯罪を見逃すケースもある。〝師匠ホームズ〟の振る舞いを公務員の杉下が真似出来ないのは承知の上だが、本作では軸足を〝犯人側〟移しているのを感じた。

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