酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

北関東への旅、自己責任論、ジュリー、パソコン不具合etc~秋の雑感あれこれ

2018-10-28 22:14:07 | 独り言
 パソコンに不具合が発生し、ブログの更新が遅れた。旅の感想をメインにあれこれ記したい。

 桐生駅から通称〝わ鉄〟こと、わたらせ渓谷鉄道に乗って1時間半、通洞駅で下車し、足尾銅山坑内と足尾歴史館を巡った。日本近代史を否定的に捉えている俺は、<民>の論理で<官>に対峙し、鉱毒に苦しむ農民の側に立った田中正造に最大の敬意を払っている。

 現在の日本における最大の病根は<集団化>だ。〝お上〟に忖度して唯々諾々と従う空気に乗っかって、安田純平氏を自己責任論でバッシングする者たちに、〝突破者〟のダルビッシュ有と本田圭佑が異論を唱えた。この両者は信念を貫いた田中に通じるものがある。歴史館には田中の語録、鉱毒事件関連の研究書や記録が展示されている。管理者に矜持が窺えた。

 わ鉄の車窓からの光景に、山陰線の嵯峨嵐山駅~保津峡駅~馬堀駅の区間が重なった。「鉄道捜査官シリーズ」(沢口靖子主演)で殺人事件が起きた無人駅を確認する。わ鉄だけでなく、各路線の本数の少なさ、乗った列車全てが空いていたことに驚いた。1泊目の桐生で街を散策した。ソースカツ丼とひもかわうどんが名物らしいが見つからず、デニーズで夕飯とは締まらない話である。

 2日目の午後、横川駅で下車し、「峠の釜めし」(荻野屋)を本店で食べる。〝日本一の駅弁〟の看板はダテではなかった。碓氷峠への1時間半の登坂は既に疲れていた俺には無理な話で、1時間ほどで引き返す。徒歩20分弱の軽井沢駅を起点にしておけば辿り着けたはずで、再チャレンジするつもりだ。
 
 帰路、両膝に加え腰まで痛くなる。疲労困憊した駅伝ランナーのように体が右に傾いてしまったが、「レモンスカッシュ」を飲むとたちまち回復する。俺は〝炭酸人間〟なのだろう。案内所近くで騒ぎが起きていた。人々の視線の先を追うと、野生の猿が人家の屋根で柿を食べている。生態系の破壊が原因なのか、猿、猪、鹿が畑を荒らすケースが後を絶たず、猪に食べられた飼い犬もいるという。

 最終日は世界遺産に登録された富岡製糸場に足を運んだ。足尾銅山では影=鉱毒事件に触れていたが、富岡では〝罪の意識〟を感じなかった。「女工哀史」に描かれたのは岡谷の工場だったが、富岡の女工たちも厳しい環境に置かれていたことは言うまでもない。維新以降、性別、職種を問わず労働者を搾取して蓄積された富で戦費が賄われる。この構図は21世紀の今も変わらない。

 上州富岡駅に沢田研二ショー(27日、富岡市内)を告知するポスターが貼られていた。俺にとってジュリーは同郷の大スターであり、時代のイコンである。主演作「悪魔のようなあいつ」(1975年、TBS)、「太陽を盗んだ男」(79年、長谷川和彦監督)はそれぞれ、ドラマ史、邦画史に燦然と輝く傑作だ。最近は反原発の思いを歌詞に託すなど、社会派として存在感を示している。この間の報道で、肝心なことが〝意識的〟に省かれているような気がしてならない。

 25日に帰宅し、想定外の事態に愕然とする。旅についてブログをアップしようとパソコンの電源をオンにしたら、パスワード入力画面でカーソルが動かず、スリープ状態でフリーズしてしまった。翌日、仕事先に持参して、勤め人時代からの知人でシステム担当のIさんに診てもらう。

 ガラケーを使っているから、重要なデータはパソコンにインプットしている。壊れたら馬券も買えないし、映画の予約も出来ない。自分が重度のパソコン依存症であることを思い知った。Iさんのおかげで快癒し、ようやくブログを更新している。

 昨夜、奇妙な夢を見た。乗り込んだバスの後部座席で不良っぽい白人男性が放歌高吟している。オアシスの曲で、めちゃくちゃうまい……。それもそのはず、男はリアム・ギャラガーではないか。ハミングしながら近寄っているうちに目が覚めた。「ロッキング・オン」HPによると、リアムはツイッターでレディオヘッドをこき下ろしているという。罵詈雑言の類いとはいえ、的を射た部分はある。
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「ソニータ」~焰の少女ラッパーが世界を変える

2018-10-23 00:16:04 | 映画、ドラマ
 NHK杯将棋トーナメント1回戦で藤井聡大七段を下した今泉健司四段が、深浦康市九段を破って3回戦に進んだ。深浦といえば今期、竜王位挑戦にあと一歩まで迫ったA級在籍のトップ棋士である。別稿(8月18日)で今泉の波瀾万丈の半生を紹介したが、この快進撃でファンを増やしそうだ。

 前稿末に記した菊花賞で、POG指名馬エタリオウは②着だった。ほぼ勝てると思っていたので残念だったが、今回は6度目の銀メダルだ。成長力あるステイゴールド産駒で、気性難と斜行癖も改善されつつある。来年以降は古馬戦線を賑わせてくれるだろう。

 外資系企業に勤めている知人がいる。同僚のアメリカ人――ジョンさんとしておこう――はご多分に洩れずスポーツ好きで、NFLやMLBをリアルタイムで観戦している。タイムラグはあるが、WOWOWやスカパーで米国発ドラマを日本人の奥さんと楽しんでいるらしい。

 奥さんと一緒に見る「相棒」や「ドクターX」に、ジョンさんは違和感を覚えている。国家的危機をも未然に防ぐ杉下右京、奇跡的な腕で患者の命を救う大門未知子はなぜ、敬意を払われないのかと……。日本人には屁理屈の類いに聞こえるだろうが、両作は明らかに〝アメリカ標準〟とずれている。

 アメリカンドリームがフレッシュであることを実感する映画を見た。制作年はトランプが大統領に就任する前の2015年だが、第34回「ソシアルシネマクラブすぎなみ」上映会で観賞した「ソニータ」(ロクサレ・ガエム・マガミ監督)である。

 サブタイトルは<売られる花嫁 魂のラッパー>だ。アフガニスタンでは家族が娘を結婚相手に売って結納金を得ることが慣習化している。イランに逃れた16歳の少女ソニータは、旧弊と恒常化した暴力への抗議を、ラップに託して伝えようとする。サポートするのは難民保護施設の担当者とイラン人女性のマガミ監督だ。

 各国の映画祭やメディアで絶賛された本作は、「国際ガールズ・デー」(10月11日)に合わせ、全国で上映会が開催されている。性別、年齢で二重の差別に苦しむ少女たちの現状を訴えるため国連が制定したのが国際ガールズ・デーで、貧困、ストリートチルドレン、人身売買など様々な問題とも連なっている。

 「私たちは羊じゃない。価格がつけられるおぼえはない」と彼女は歌う。MVで象徴的だったのは額に書かれたバーコードだ。イランの言論封殺はアフガニスタンと変わらない。ソニータに援助を懇願されたマガミ監督は懊悩する。

 自身を追ったドキュメンタリー「人間の戦場」(15年)で広河隆一(元DAYS JAPAN編集長)は<ジャーナリストとして記録する前に、一人の人間であるべき。溺れている人がいたら、カメラを脇に置いて助ける>と語っていた。パレスチナや難民キャンプで被写体に寄り添った広河と同じ決断を、マガミは下す。ソニータの才能が世に出ることを望んだのだ。

 巨匠ハフマン・ゴバディはイランのロックバンドが国外脱出を試みる経緯を「ペルシャ猫を誰も知らない」(09年)で描いた。監督自身も同作撮影後、出国する。同作でバンドのメンバーが「アイスランドに行って、シガー・ロスを見る。それが僕の夢なんだ」と語っていた。あれから9年、音楽を取り巻く状況は大きく変わったことを「ソニータ」で再認識する。

 ソニータにとって抵抗のツールはロックではなくラップだ。ソニータが憧れるリアーナはセックスシンボルというイメージだが、スーパーボウルのハーフショーの出演を断った。人種差別に抗議して試合前の国歌斉唱を拒否したコリン・キャパニック(元49ersQB)を支持しているからだ。

 ソニータのMVはSNSで拡散し、アメリカに迎え入れられた。奨学金を提供されて現在、音楽学校で学んでいる。ソニータは決して独りではじゃない。世界中の無数のソニータが意志の力で空気を変え、トランプのアメリカを壊すかもしれない。
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樹木希林の親和力に紡がれた「歩いても 歩いても」&「海よりもまだ深く」

2018-10-19 12:22:24 | 映画、ドラマ
 今月上旬に帰省し、従兄宅(寺)に泊まって母の暮らすケアハウスを訪ねた。従兄の家族、猫のミーコと交流し、祖父母、父、分骨した妹の墓に詣でる。人生の第4コーナーに差し掛かった俺は、家族に思いを巡らす機会が増えた。

 樹木希林が亡くなって1カ月が経った。追悼の意味を込め、録画しておいた「歩いても 歩いても」(2008年、是枝裕和監督)、「海よりもまだ深く」(16年、同)を続けて見る。後者は続編といった趣で、主人公が良多(阿部寛)、樹木演じる母がとし子と、ともに同じだ。「良多」は是枝お気に入りの役名で、数作で用いている。それぞれYOUと小林聡美が演じた姉のがめついキャラも共通している。

 是枝の〝社会派〟の側面を重視してきた俺は、「そして父になる」や「海街diary」を〝情緒に流れている〟と否定的に評してきたが、本質は小津安二郎や成瀬巳喜男の影響が濃い〝家族を描く映像作家〟なのだろう。「誰も知らない」と「万引き家族」は、現在の日本を背景に家族の在り方を問うていた。 

 本作に描かれた父と息子の相克にも普遍性を感じる。二人の良多、とりわけ「海よりも--」の方は、息子との良好な関係を築こうとあくせくする。両作のラストに描かれる転回は、監督自身の経験を踏まえているのだろう。ある一日を描いた作品は、見る側が来し方を振り返り、自身の〝家族映画〟を創り上げるきっかけになる。

 「歩いても 歩いても」の良多は失業中の絵画修復師だ。兄の命日、妻ゆかり(夏川結衣)、息子あつしとともに実家を訪ねる。ゆかりは再婚で、あつしは死別した前夫との間の子である。兄は溺れた子供を助けるため海に飛び込み絶命したという設定で、死の薫りが本作にペイストされている。

 気難しく癇癪持ちの父恭平(原田芳雄)は母と喧嘩が絶えない。そんな良多と父は、姉の目には似た者同士と映る。良多一家と両親との夕飯シーンが印象的だった。母が思い出の「ブルーライトヨコハマ」のレコードをかける。「歩いても 歩いても」の歌詞がタイトルの由縁であることをさりげなく示していた。[わたしはゆれて ゆれて あなたの腕の中」の部分で、あつしが恭平の顔を覗き見るのがおかしかった。

 ラストの温かいカタルシスから8年、「海よりもまだ深く」は喪失の哀しみに彩られていた。本作の良多は島尾敏雄賞受賞後は鳴かず飛ばずで、現在は興信所で働いている。離婚した響子(真木よう子)、息子の真悟に未練たらたらだが、養育費を払えない。俺もダメ男、親不孝の典型だが、亡き父から社会的不適応者のDNAを引き継いだ本作の良多には呆れてしまう。

 「誰かの過去になる勇気を持つのが大人の男」と興信所所長(リリー・フランキー)が良多を諭す。母は良多に「男はいつまでも失くしたものを追いかけたり、叶わない夢を見たりする。何かを諦めないと幸せは手に入らないのよ」と語りかける。母子の会話の背景に流れていた「別れの予感」(テレサ・テン)の歌詞が、本作のタイトルになっていた。

 夢のピースがぶちまけられたジグソーパズルは、決して再現出来ない。真悟に人としての道を説いても、新しい父の言葉に薄められていくだろう。「夢見た未来とちがう今を生きる、元家族の物語」がキャッチコピーの本作は、やさぐれ男のボディーにジワジワ効いた。愛と夢を剥がされていく良多にシンパシーを抱いてしまう。

 両作の樹木を、俺自身の母の写し絵のように感じた。俺の母は霊の存在を信じているが、「歩いても――」のとし子は部屋に迷い込んだ蝶に、死んだ兄を重ねていた。毒のある本音を良多に吐き、テープレコーダーのように同じ話を繰り返す。買いだめが癖で冷蔵庫はいっぱいだ。「海よりもまだ深く」のとし子は齢を重ねて得た人生観を息子に説く。

 樹木の最大の魅力は親和力だ。自然体でキャストたちを繋ぎ、作品に奥行きと幅を与えている。是枝との晩年の出会いは、樹木にとって僥倖というべきか。映画史に刻まれる6作は、樹木の名を更なる高みへと導いた。

 やるせなさを競輪やパチンコで紛らわせていた「海よりも――」の良多ほどではないが、俺は週末ギャンブラーだ。枠順が確定した菊花賞にはPOG指名馬エタリオウが出走する。同馬を軸に、アフリカンゴールドあたりを絡めて馬券を購入する予定でいる。斜行癖のあるエタリオウを、デムーロは果たして御せるだろうか。
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誕生日に寄せて~還暦男にとってブログとは

2018-10-15 20:20:31 | 独り言
 きょう15日は62回目の誕生日である。視力の衰え、膝と肩の痛み、記憶力と気力の低下……。加齢による心身の劣化をボヤいてきたが、大掛かりな抜歯のため来月中旬、3泊4日で入院する。日程が決まった途端、患部がズキズキ疼いてきたから、人間の体とは不思議なものだ。

 JRAから昨日、誕生プレゼントを頂戴した。POG指名馬アーモンドアイが凄まじい剛脚で牝馬3冠を達成する。俺の属するグループは秋以降もGⅠのみ対象になるから、アイちゃんさまさまだ。レース後も順調なら、次走のジャパンカップも期待できそうだ。奇縁というべきか、アーモンドアイに唯一、黒星をつけたニシノウララが同日の東京最終レースに出走して④着だった。

 夏の盛り、当ブログを管理するgooがアンケートを取っていた。<あなたにとってブログは何ですか>という質問である。駄文を書き始めて14年、ブログの関係は微妙に変化してきた。
 
 2004年10月、退職に備えてブログを始めた。それから3年余、誰とも口を利かず一日を終える引きこもり生活が続く。他者と交流するツールとして選んだのがブログだった。アクセス数が1桁の日が続いたので、読者を増やすためmixiのコミュニティーに足跡を残し、競馬予想をトラックバックした。一時的な成果はあったが、何せ雑多な内容のブログだ。相手の迷惑に思い至って作戦は停止する。

 過疎からの脱出に貢献してくれたのは、俗に言うネット右翼である。首相の靖国参拝を批判したり、従軍慰安婦や南京大虐殺に触れたりすると、パトロールする訪問者が増え、おっかないコメントが投稿される。俺は〝紳士的〟を保ったが、喧嘩腰で対応し、炎上して閉鎖に追い込まれたブロガーもいる、

 3・11が俺のブログにも大きな変化をもたらした。2週間後の25日、俺は緊急報告会「福島原発で何が起きているか」(早稲田奉仕園)に参加し、広河隆一、広瀬隆両氏の熱い言葉に感銘を覚える。尾崎豊の「卒業」を枕に、以下のように記した。

 <日本人は〝仕組まれた自由〟に馴らされ、コントロールされている。俺もまた〝かよわき子羊〟ゆえ、石を投げる勇気はないが、窓が割れたことぐらい伝えられる。当ブログも一つの手段だ>……。

 井戸端会議は無意味と感じて3年後、緑の党に入会した。石を投げるまで至らずとも、折に触れて集会や講演会について報告してきた。政治音痴ゆえ、気分が高揚して世迷い言を綴ったことはあるが、現在の空気は3・11以前に後退してしまった。現在の俺のメインテーマは、日本に民主主義を根付かせる唯一の手段と確信する供託金違憲訴訟裁判だ。

 SNSをフル活用している知人は、俺のブログについて以下のようにダメ出ししている。

 その一、写真をアップせず、レイアウトに工夫がない。明らかに時代遅れだ。その二、SNSは〝仲間意識〟を形成するツールだから、テーマに統一感がないのは致命的。傍から見て〝○○信者〟と括れる方が読者は増やしやすい。その三、フリーだから組織票がない。その四、政治的メッセージは読者を失う。フェスで原発反対を明らかにしたバンドのツイッターが炎上するなど、政治への忌避感は蔓延している。

 彼の分析は的を射ているが、俺にとってブログは〝遺書代わり〟であり、〝存在証明〟だ。アクセス数は想定外に乱高下するが、気にしないようにしている。

 マルクス・ガブリエルの10日間を追った「欲望の時代の哲学~マルクス・ガブリエル 日本を行く」で最も印象的だったのは<物事には「絶対的な無意味さもなければ、絶対的な意味もない。それを知れば人は自由になれる>の言葉だ。肝に銘じてブログをアップしていきたい。
コメント (2)
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「ゼイリブ」リマスター版~30年後を穿つ預言的傑作

2018-10-12 01:33:01 | 映画、ドラマ
 帰省先の京都では、従兄宅に泊まりながら母が暮らすケアハウスを訪ねる日々だった。家族面談に呼ばれ、院長さんに母の終活について尋ねられた。92歳の母に何が起きても不思議はないが、従兄が近くの寺の住職だから、話は簡単に済んだ。

 ちょうどその頃、従兄は奥さんと「あいつ(俺のこと)、突然死したらどうするんや」と話していたらしい。テーマは俺の終活で、「年末に帰省するまで考えとけ」と言われる。このところ惰眠を貪る日々で、〝永眠へのリハーサル〟は進んでいるが、母より先に死ぬわけにはいかない。

 9日夜に帰京し、新宿で飯を食った。シネマカリテ前を通りかかり、「ゼイリブ」(1988年、ジョン・カーペンター監督)が上映中と知る。「製作30周年記念HDリマスター版」と銘打たれていた。9時開映と時間も合うので観賞した。

 ジョン・カーペンターはレンタルビデオ店に通っていた頃、お気に入りアイテムだった。「リオ・ブラボー」へのオマージュを形にした「ジョン・カーペンターの要塞警察」、「ハロウィン」、「ザ・フォッグ」、「ニューヨーク1997」、「遊星からの物体X」、「エスケープ・フロム・LA」など記憶に残る作品は多い。とりわけ印象的だったのが「ゼイリブ」だ。

 社会派ドラマ風にスタートする。レーガノミクスの失敗により中産階級が崩壊の危機に瀕した当時、富が1%に集中する流れが定まった。主人公のナダ(ロディ・パイパー)は全米を転々とする労働者で、流れ着いた街の工事現場で仕事を得た。同僚フランク(キース・デイヴィッド)に誘われドヤ(ホームレスの集落)で暮らすうち、異変に気付く。

 ドヤで見ていたテレビ画面が突然乱れる。革命家風の男が過剰な消費と権力側のコントロールに異議を唱え、「私たちは彼らに操作され、奴隷にされている」と警告を発するのだ。ナダはアジトと思しき教会に忍び込んだが、警官隊に踏み込まれ、グループは散り散りになる。

 教会に隠されていたサングラスを嵌めた瞬間、ナダの視界が急変する。人間に擬態したエイリアンが群衆に紛れているという〝真実〟に気付くのだ。それだけではない。街中の広告や壁から「消費せよ」「従順であれ」といった洗脳の文言が浮き上がってくる。ビッグ・ブラザーが支配する「1984」(ジョージ・オーウェル著)を想起させる光景だ。

 「ゼイ」は地球を蹂躙するエイリアンという設定だが、カーペンターの作意は明らかで、「歯止めが利かなくなった資本主義に対して大声で反対を唱える映画」と語っている。エイリアンとは<グローバル企業-権力機構-富裕層-警察-メディア連合体>のメタファーなのだ。30年後の今を穿つ預言的作品で、カーペンターの慧眼に感嘆させられる。本作に登場する大統領候補とトランプ大統領の共通性を指摘する識者もいる。

 カーペンターの真骨頂は、スリル満点のB級エンターテインメントを幅広い客層に提供することだ。メグ・フォスターはホリー役にピッタリだし、主役のロディー・パイパーが素晴らしい。25年前にビデオで見た時、端正な顔立ちと表現力に、カート・ラッセルに次ぐ〝カーペンター組のスター誕生〟と直感したが、パイパーの〝正体〟に気付いたのは数年後だった。

 パイパーは「リゾート・トゥ・キル」(94年)で千葉真一やメグと共演しているが、本業は記録より記憶に残るレスラーだ。センスの良さ、マイクパフォーマンス、様々なギミックでファンの心に焼き付いている。2005年に殿堂入りを果たした後も、3年前に亡くなるまでWWEのリングにレジェンドとして登場していた。

 本作の見どころのひとつは、数分間に及ぶフランクとの乱闘場面だ。プロレス技も盛り込まれ、客席から歓声が上がっていた。深いテーマを掲げながら、笑いも取る。ラストのカタルシスも言うに及ばず、カーペンターのサービス精神と職人芸が光る傑作だった。
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供託金違憲訴訟&映画「判決」~リアルと仮想の法廷で<真実>の意味を考えた

2018-10-08 08:12:54 | 映画、ドラマ
 京都に帰省し、母が暮らすケアハウスに通っている。泊めてもらっている従兄宅で猫のミーコと戯れながら、本稿をアップした。

 先月オンエアされた「指定弁護士」(テレビ朝日系)は森友・加計問題と重なる興味深い内容だった。指定弁護士を引き受けた一ツ木唯(北川景子)と橘検事(北村一輝)は田金代議士(石橋蓮司)を起訴出来なかったが、内閣官房と法曹界の癒着を暴き出す。キーワードは<事実と真実>だった。

 ドラマを現実に置き換え、不安になった。俺はこの間、宇都宮健児氏が原告側弁護団長を務める供託金違憲訴訟裁判を傍聴してきた。被告は国(≒官邸)だが、今月3日の公判から裁判長が交代した。前任者は原告側に理解を示し、堅苦しさも感じなかった。背後で官邸が動いていても不思議はない。

 先進国(OECD加盟35国)で22国が供託金ゼロ。10万円を超えるのは日本と韓国だが、韓国では額を抑える様々な条件が設定されている。300万円の日本は異常だが、この〝事実〟に潜んでいるのは<日本は非民主国家>という〝真実〟だ。治安維持法とセットで施行された普通選挙法の骨格は100年近く経った現在も揺らぐことはない。

 日比谷で先日、「判決、ふたつの希望」(17年、ジアド・ドゥエイリ監督)を見た。アカデミー賞外国語映画賞にノミネートされるなど、世界の映画祭で高い評価を得た。二転三転するシリアスな法廷劇だが、エンターテインメントとしても質は高い。レバノン映画の充実ぶりを窺わせる作品だった。

 1975年にキリスト教マロン派の民兵が27人のパレスチナ人の命を奪ったことをきっかけに、レバノンでは15年間、内戦状態が続いた。右派民兵がパレスチナ難民やムスリムを1000人以上虐殺したことの報復で、ダムールでマロン派の住民が数百人殺され、排他的な「レバノン軍団」が結成される。数々の暗殺、2度のイスラエルの侵攻と、レバノンは混迷を極めた。

 本作のW主人公はパレスチナ人のヤーセル(カメル・エル=バシャ)とキリスト教徒のトニー(アデル・カラム)だ。難民キャンプで暮らすヤーセルは建設会社に雇われた有能で寡黙な現場監督、車の修理工場を経営するトニーは周囲との軋轢が絶えない荒くれ男と、個性は対照的だ。

 不幸な出会いが、世界の耳目を集める大事件に発展した。パレスチナ人という理由で、トニーはアパートの補修を担当するヤーセルを拒絶する。怒りを爆発させ、排水管を破壊したトニーに、ヤーセルは「クズ野郎」と罵った。トニーが要求した謝罪に応じるため、ヤーセルは工場を訪ねたが、そこで決定的な出来事が起きる。「シャロン(イスラエル元首相)に抹殺されていればよかったのに」と口走ったトニーだが、ヤーセルのパンチを浴び、肋骨を2本折って入院する。

 個人的謝罪を求めていたトニーは右派弁護士カミールの勧めでヤーセルを訴え、カミールの娘ナディーンがヤーセルの弁護を買って出る。父娘が自身の思想信条に立脚し、法廷で対決することになった。ヤーセルは当初、トニーのヘイト発言に触れず、有罪を受け入れようとした。

 日本では安倍首相を支えるメディアが、「新潮45」問題を経てもヘイトスピーチを〝表現の自由〟と論じているが、人間の尊厳に関わるトニーの「シャロンに――」発言、カミール弁護士の失言の数々で原告側は苦境に陥る。イスラエルの代弁者と見做され、内外のリベラルや人権団体を敵に回すことになる。一方で、ナディーンは論理明晰で水際立っていた。起死回生を狙った原告側は、ある事実を明らかにする。

 原告と被告の支持者が法廷で乱闘するなど、国論は二分され、大統領まで鎮静に向けて乗り出す事態となった。トニーはレバノン軍団の一員で、ヤーセルはPLOに属していた可能性が高い。両者は血塗られたレバノン現代史を象徴する存在で、和解は不可能に思えた。

 家族の絆が後半、物語を紡ぐ糸になる。トニーが医師からの安静の指示を守らなかったために、妻シリー(リタ・ハーエク)は早産する。生死を彷徨った乳児の回復で、トニーの心境に変化の兆しが現れた。

 憎悪と分断を叫ぶトランプ大統領に、日本が追従するという絶望的な状況だが、俺は本作に一筋の光を見た。希望、祈り、記憶、そして贖罪……。決着を見た法廷で、原告側も被告側も笑みを浮かべる光景にカタルシスを覚えた。ヤーセルとトニーがいかに歩み寄り、事実を克服して人間的な真実に至ったのか、皆さんにもぜひご覧になってほしい。
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戦後文学の金字塔「死の島」を再読した

2018-10-04 18:04:30 | 読書
 別稿(7月17日)で「加田伶太郞全作品集」を紹介した。加田伶太郞とは福永武彦が推理小説を発表する際のペンネームである。読了後、福永の最高傑作「死の島」(1971年発表)を再読しようと新潮文庫を手に取ったが、黄ばんだページに細かい字がぎっしり詰まっている。老眼用眼鏡を買ったとはいえ読むのは容易ではないから、講談社文芸文庫(上下巻、900㌻超)を購入した。

 着想を得たのがデビュー間もない1952年で、66年から文芸誌に連載され、71年に上梓する。本作は福永にとってライフワークであり、集大成といえる。複数の主観をフーガ形式で繋ぎ、時空を行き来するなど実験的手法を駆使する作家だが、本作は完璧な構想力に裏打ちされた奇跡というべきで、パソコンを使って書いたのかと錯覚するほどだ。

 50年代半ば、出版社社員の相馬鼎は平和をテーマにした書籍を担当していた。美術展で「島」という絵に魅了され、作者である萌木素子こそ装幀に相応しいと直感する。素子と同居している相見綾子を通じて素子と知り合い、彼女たちが下宿する西本家に足繁く通うにようになる。タナトスに憑かれメドゥサの如き意志を感じさせる素子、脆さを漂わせ庇護欲を掻き立てる可憐な綾子……。好対照の二人に相馬は惹かれていく。

 20代前半まで福永ワールドに漬かっていた俺は、〝絶望的恋愛論〟なるものを披瀝していた。この35年、福永から目を背けていたのは、傷痕が疼き、かさぶたから血が滲むことを恐れていたからだ。

 本作は相馬の独白、素子の内部、作家志望の相馬が素子と綾子を題材に執筆中の3編の小説、素子と綾子を知る或る男の独白が時系列を循環しながら進行していく。若い男性特有の蒼さと純粋さを象徴する相馬と、汚れちまった悲しみに打ちひしがれる或る男の距離は決して遠くない。

 相馬が素子と綾子に語るシベリウスに、循環を多用する福永の方法論が窺える。

 <或る主題にふさわしい断片がある。また、断片それ自体はどういう主題に属するのか分からないのに、幾つかの断片がつながることによって、その結びつきの間から主題が浮んで来るということもある。(中略)断片が幾つも過ぎて行くうちに前に聞き覚えていた主題が、形を変えてまた現れて来るということがある>

 相馬と素子は芸術論を闘わせるが、時間と死の捉え方が決定的に異なるから噛み合わない。素子にとって時間とは平面を回る曲線に過ぎず、初めは終わりを孕んでいる。死を秘めた芸術を好む相馬が、果たして死を認識しているのか素子は疑問を抱いている。相馬にとって素子は<闇が目の見えない鳥たちを包み込むように、深淵が意志を持たぬ枯葉を呼び寄せるような>存在で、自身を盲目の鳥と感じていた。

 被爆体験が素子を〝虚無と混沌の囚われ人〟にした。1945年8月6日、素子は故郷の広島で被爆する。<内部>(全14章)で、投下直後の広島の惨状が詳述される。本作は原爆文学の要素も濃い。素子も原爆症で白血球が減少し、定期的に入院している。背中にはケロイドが残っていた。

 自分と綾子の間で揺れている相馬の気持ちを察しつつ、未来のない自分ではなく、同じ時系列で歩む綾子を選ぶべきと素子は考えていた。だが、綾子もまた、タナトスに囚われていた。<あたしはつまりあのひと(素子)だったのね。(中略)あのひとの孤独は、あたしまでそのなかに呑み込んでしまうような孤独だったのよ>と綾子は相馬に話す。素子だけでなく、綾子との間にも愛が成立しないことを相馬は絶望とともに思い知る。

 西本さんの元に、素子と綾子が広島で心中したとの電報が届く。一人が亡くなり、もう一人は重体という内容だった。一報を受けた相馬は鹿児島行きの急行列車に飛び乗った。20時間か経過する中、遡行する記憶の箱に閉じ込められる。東京も広島も、車中から見える景色も吹雪だった。福永は雪に何を託したのだろう。

 再読し、福永のメッセージに気付いた。<日本の平和は与えられたもので、選び取ったわけではない。だから、いつどうなるかわからない>という素子の指摘は極めて預言的だ。相馬もまた、<戦争の傷跡癒えていないのに、朝鮮で戦争があろうとなかろうと、何の関係もない平和な国>と憂えていた。

 宿命、深淵、死に彩られた本作は戦後文学の金字塔で、改めて感銘を覚えた。60年代の空気と距離を置いておいていた福永だが、世紀が変わって再評価の兆しがあるという。相馬にとっても、ヒモのように生きている或る男にとっても、女性は解けない謎のままだ。「あなた(相馬)のような馬鹿な人に、どうして愛が分るろう」という素子の独白は、今の俺にもチクチク痛い。

 還暦を過ぎ、死の跫音が聞こえてきた今こそ、〝初心〟を思い出し、人生を振り返る時機なのだ。「死の島」に次いで「邪宗門」(高橋和巳)を再読することにした。
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