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酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

当分の間

2021-08-24 13:51:35 | 戯れ言
  入院のため、更新出来ません。コロナではありませんが。
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「返校」~自由の価値を問う学園ホラー

2021-08-20 12:51:47 | 映画、ドラマ
 「コロナ新時代への提言3」は示唆に富む濃密な内容だった。俺の脳はショートしてしまい、<モモは時間泥棒(灰色の男たち)が奪った時間を取り戻し、人々は平穏な日々を取り戻す>という結論を記すことが出来なかった。前稿末に記した通り、山口周(独立研究者)、斎藤幸平(経済思想家)、磯野真穂(医療人類学者)の「時間」への言及を簡潔に紹介する。

 山口は<時間とは心>と語り、心と感情を未来への軸に据えた。<時間を資本>と定義した斎藤は、ダーウィニズムではなく共生と共助で進化してきた人類史に立ち返ることが再生へ道と述べる。磯野はささやかな日常の意味、死との触れ合いの重要さを説いた。3人の言葉に、自身の来し方を問い直す時機にあることを考えさせられた。

 「チェルノブイリの祈り」で知られるベラルーシ出身のノーベル賞作家、スベトラーナ・アレクシエービッチは祖国を出て、ポーランドからオンラインで思いを発信した。彼女は5年前に来日した際、<フクシマで感じたのは国家の冷酷さだが、抵抗の小ささにも驚いた。日本には抵抗の文化がない。孤独でも人間であることを丹念に続けるしかない>と若者に語りかけた。

 ベラルーシの人々は自由を求めて闘っている。自由の意味を問う映画を日比谷シャンテで見た。「返校~言葉が消えた日」(2019年、ジョン・スー監督)である。舞台は1962年の台湾で、47年に戒厳令が敷かれて以降、台湾では徹底した言論弾圧の下、自由が圧殺されていた。〝白色テロの時代〟を描いた作品として「非情城市」と「牯嶺街少年殺人事件」が知られている。

 「返校」の主人公は高校生のファン・レイシン(ワン・ジン)だ。冒頭で<自由が罪になる世界で僕らは生きていた>というナレーションが流れる。教室で目覚めたファンは下校しようとするが出口は閉ざされている。彷徨ううち彼女を慕う後輩のウェイ・ジョンティン(ツォン・ジンファ)と遭遇する。壁に貼られた標語に、監獄社会の実体が表れていた。

 予備知識がなかったので、60年近く前の独裁政治の告発し、自由を希求する社会派ドラマと考えていた。ところが雰囲気は学園ホラーで、迷路を脱けられないファンとウェイの恐怖と、社会の閉塞が重なる。HPを見て知ったのだが、本作のベースは同名の人気ゲームだった。

 物語が進行するうち、校内で秘密裏に開かれている読書会の存在が明らかになる。ウェイもメンバーのひとりで、チャン先生(フー・モンボー)とイン先生(チョイ・シーワン)が主宰している。朗読される禁書の中に、厨川白村の「苦悶の象徴」があった。厨川は中国語圏で読者を持つ英文学者で、恋愛論の魁として内外で認知されている。

 現実とゲームの世界を行き来し、ファンが目覚めると日常に戻るというパターンが繰り返される。校内に常駐する軍人は、〝反乱分子〟を探るスパイになるようファンに提案していた。ファンの父は軍人の部下で、母と折り合いが悪い。家庭に居場所のないファンはチャン先生に思いを寄せる。

 俺はゲームはやらないし、ホラーも見ない。だから、見落としている点は多々あるはずだ。ゲームとホラーの共通点はアイテムと小道具が重要な役割を果たすこと……らしい。本作に当てはめれば鏡とか雨といったところか。厨川が紹介されていることからも、恋愛物の要素も大きい。ファンのチャン先生の逢瀬はロマンチックだが、孤独かつ純粋、そして結ばれる可能性が小さい恋が時に破綻のきっかけになることを、本作は示していた。

 チャン先生がウェイに託した言葉が40年後に形をなす。身を捨てたからこそ燦めき昇華する言葉に感銘を抱いた。本作は昨年の台湾総統選にも大きな影響を与えたという。多くの若者は、台湾が40年余り監獄島であったことを知り、自由という崇高な価値を再認識したのだ。

 最後に、訃報を。千葉真一さんが亡くなった。享年82、新型コロナによる肺炎だった。膨大な出演作の中でとりわけ記憶に残るのは、10代の頃のドラマ「キイハンター」、そして狂気がスクリーンに弾けた「沖縄やくざ戦争」あたりか。名優の死を心から悼みたい。
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「コロナ新時代への提言3」~価値観を変えるヒントを得た

2021-08-16 22:46:49 | カルチャー
 ミューズ「シミュレーション・セオリー・フィルム」(WOWOW)を見た。8thアルバムのコンセプトを軸に制作された映像、ロンドンでのライブ、数十人によるステージ上のパフォーマンスの秀逸なコラボである。ネット上と病原菌の感染が交錯し、ロックダウンにも言及されていた。2019年秋のライブだから、コロナ禍を予見したような内容といえる。AIによる情報操作、フェイクニュースに警鐘を鳴らして抵抗を呼び掛けるなど、ミューズのラディカルな思想性を反映していた。

 コロナ禍と毎年繰り返す大雨による被害に、終末の予感がよぎってしまう。生物多様性の回復と自然との共生を目指すためには、グローバリズムからの脱却が喫緊の課題だ。人類の、いや自分の来し方を振り返り、価値観転換へのヒントを与えてくれる番組を見た。「コロナ新時代への提言3~それでも、生きてゆける社会へ」(NHK・BS1)である。

 山口周(独立研究者)、斎藤幸平(経済思想家)、磯野真穂(医療人類学者)の3人がそれぞれの観点からコロナ新時代を語る。共通のテキストになったのはミヒャエル・エンデ著「モモ」だ。斎藤については繰り返し言及してきたが、山口と磯野を知ったのは当番組が初めてだった。

 斎藤は冒頭、<コロナも気候変動も、ともに真犯人は資本主義>と断定し、行き過ぎた新自由主義を俎上に載せる。コロナ禍において、先進国では<命か、経済か>の選択が突き付けられた。医療関連の費用削減日本に限ったことではない。コロナ禍が医療崩壊をもたらしたのは必然の結果だった。自助が強調され、公助と共助が軽んじられ、コロナ禍によって格差は決定的になる。

 「モモ」は30年以上前に読んだが、凡庸な俺はインパクトを感じなかった。当番組に関わるのは第2部「灰色の男たち」だ。灰色の男たちは時間泥棒で、<時間を節約すれば生活は豊かになり、君たちは幸せになれる>と宣言し、人々から時間を奪っていく。

 磯野は現在と対比して「モモ」を語る。出会いでしか生まれない時間を生きるモモに会うために人々は集まってくる。だが、時間泥棒に支配された人々は次第にモモから遠ざかっていく。コロナ禍において、人々は他者と触れ合う時間を奪われ、拡散した<不要不急>に人々が賛同したことに、磯野は恐怖を覚えると同時に、命が数値化されることに違和感を覚えた。

 磯野に重なるのはシリーズ初回に登場した國分功一郎(哲学者)だ。國分は「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのか。疫学的に人口を捉え、人間を一つの駒として捉える見方に違和感を覚える」と語っていた。お盆の時季に墓参り出来ず、死者に向き合えない社会が恒常化することは、いずれ<生の意味>も変えてしまい、時間は空虚になるだろう。

 斎藤はマルクスの「資本論」に則り、時間泥棒とは人間が生み出した資本だと説く。資本主義は人々を搾取し、消費を礼賛する。モモは人々が仕事に関心をなくし、画一化、効率化されていることに気付いていた。山口は「モモ」を読んで<退屈>という問題に行き当たったという。マリー・アントワネットの「退屈するのが怖い」という呟きが近代の始まりと捉え、コロナ禍がピリオドを打ったと語っていた。退屈から逃れるため、人々は消費と生産を繰り返す。一方でモモは、独りで星空を眺めていても退屈さを感じない。静寂を満喫出来るのだ。

 斎藤は晩年のマルクスが到達した自然との共生にインスパイアされて<脱成長コミュニズム>を提唱する。人類の共有財産である<コモン>をシェアしていくことで、〝資本主義以外に道はない〟という刷り込みから自由になる道が開けるのだ。山口もまた、格差が拡大し二極化が進行する資本主義を克服する道を提示する。具体的には富裕層への増税とベーシックインカムを挙げ、<金持ちが金持ちでいられない世の中>を掲げている。

 日本は登山の時代を終え、成長の必要がない<高原社会>に到達したと山口は説く。斎藤の<脱成長コミュニズム>と通底する部分もある。磯野が紹介した<ゴンドラ猫の実験>も示唆に富む内容だった。ここで俺の貧弱な脳がショートした。次稿の枕で「モモ」のラストについて記したい。
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向き合い、寄り添うこと~映画「かば」が問いかけるもの

2021-08-12 22:48:54 | 映画、ドラマ
 映画、ドラマを問わず、教育をテーマに掲げる作品は多い。社会的不適応者で無数の失敗を重ねてきた俺など反面教師にしかなれないが、視点や背景によっては納得することもある。敗者の目から描かれた「引きこもり先生」(NHK総合、全5回)もそのひとつで、主人公の上嶋を佐藤二朗が熱演していた。

 38歳から11年間引きこもったという経歴に目を付けた中学校長(高橋克典)に依頼され、上嶋は不登校児のための「STEPクラス」非常勤講師に就任し、 クラス担任やソーシャルワーカーと手を携えて生徒たちと信頼関係を築いていく。<いじめはない>と公言する校長と軋轢が生じたが、上嶋は逃げずに闘う。コロナ禍も織り込み、教育の意味を問いかけていた。

 実在の中学教師、蒲益男を主人公に据えた「かば」(2021年、川本貴弘監督)に感銘を覚えた。公開後半月ほどなので、ストーリーの紹介は最低限に背景を中心に記したい。パイロット版を見た2万人が映画化を望み、クラウドファンディングで完成したインディーズ作品である。演出やシーンの繋ぎに粗さは感じたが、「ガキ帝国」を彷彿するエネルギ-に圧倒された。

 1985年、バブルの恩恵と無縁だった釜ケ崎周辺の中学校が舞台だ。釜ケ崎には人生の終着駅というイメージがある。〝伝説のストリッパー〟一条さゆりが行き着いたのも労働者の街の3畳間だった。〝放浪の末の哀れな最期〟などと評されたが、一面的な捉え方であることを本作は示している。

 映画「解放区」(太田信吾監督)のキャッチは<そのフェンスの向こうには〝楽園〟があった>……。通天閣と新世界に近い釜ケ崎は一種の駆け込み寺で、相互扶助の精神に溢れていることは漫画「じゃりん子チエ」(はるき悦巳作)や小説「通天閣」(西加奈子著)にも描かれている。

 「かば」では蒲(山中アラタ)を筆頭に小早川(牛丸亮)、岡本(木村知貴)、藤岡(石川雄也)ら生徒に寄り添う教師が揃っていた。ヒロインは臨時の体育教師として〝かばチーム〟に加わった加藤(折目真穂)で、彼女の成長がストーリーの軸だ。女性ということもあり悪ガキに相手にされず、ショックを受け寝込んでしまう。

 <この学校にはか在日か沖縄しかないんや! どれでもないよそ者は引っこんどれや>……。加藤にこう凄んだのは野球部主将のシゲだった。小早川は加藤に、「あいつらはあんたを試してるんや。野球で勝負したら」と言われる。腕に覚えがあった加藤は、シゲの投球にホームラン性の当たりを連発し、コーチに就任して人気者になる。

 転校してきた良太は「俺朝鮮ちゃうんや韓国や」と啖呵を切って野球部員たちと喧嘩をする。半島出身者が南北いずれにルーツを求めるかという問題に直面していたことが窺える。良太は野球部員たちを叩きのめしたが、登校しなくなった。<向き合う>が不文律の〝かばチーム〟キャプテン蒲はマッコリ持参で当人宅を訪れ、叔父の信頼を得る。蒲とバンド志望の良太との会話の軸はARBなど音楽だった。

 俺は本作で騒音寺と再会した。「初台ドアーズ」で8年前、頭脳警察とのジョイントライブで騒音寺を見た。演奏はソリッドで、MCで頭脳警察への敬意を繰り返し語っていたのを思い出す。川本はPVを制作するなど仲間である騒音寺に主題歌を依頼した。「ロング・ライン」は作品の熱さを見事に伝えている。

 良太とシゲら野球部員が友情を築く場面がハイライトの一つだ。加藤と裕子との交流にも心が揺れた。在日の父、日本人の母とは諍いが絶えず、裕子はSOSを発信していた。ラストはアップになった裕子の笑顔のストップモーションだった。〝かばチーム〟だけでなく、警官、居酒屋の店員、バス運転手らも人々への優しい気配りを示していた。

 「生徒に日々教えられている」と語る教師たちは誠実かつ謙虚だ。蒲とかつての教え子である由貴(近藤里奈)とのサイドストーリーにも、差別の痛みに溢れていた。男臭い「かば」を支えるのは多くの母たちだ。本作には母性の物語という側面がある。見るたびに発見があり、味が出てくる作品だと思う。
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「サムジンカンパニー」~高卒女子が煌めく社会派エンターテインメント

2021-08-08 17:31:52 | 映画、ドラマ
 広島での平和記念式典(6日)での菅首相の読み飛ばしが話題になっている。「我が国は核兵器の非人道性をどの国よりもよく理解する唯一の戦争被爆国であり、『核兵器のない世界』の実現に向けた努力を着実に積み重ねていくことが重要」という部分を、アメリカに忖度してカットしたと勘繰っている。

 コロナ対応で評価された米ニューヨーク州クオモ知事がセクハラで告発され、失職の危機にある。同じくセクハラを告発されて自殺した朴前ソウル市長を思い出した。朴氏は世界で最も評価された改革派首長だった。コスタリカの非武装中立を推進したサンチェス元大統領もセクハラで晩節を汚している。広河隆一氏(デイズジャパン元編集長)を含め、俺が敬意を表した人たちの末路は哀しい。

 俺にもセクハラ体質はあるし、ジェンダー問題に目覚めたのもここ数年のことだ。1995年の韓国社会における女性の地位を背景に描いた映画「サムジンカンパニー 1995」(2020年、イ・ジョンビル監督)を見た。「サムジン」のタイトルからモデルはサムスン電子と勘違いしたが、実は日本で馴染みのない会社で起きたことをベースにしたようだ。

 公開中でもあり、レンタルショップで人気アイテムになる社会派エンターテインメントだから、ネタバレは最小限にとどめたい。金泳三大統領が95年に宣言した「グローバル元年」をきっかけに、早朝から満員の英会話教室にサムジンの女性社員3人が通っている。ジャヨン(コ・アソン)、ユナ(イ・ソム)、ボラム(パク・ヘス)は同期の高卒社員だ。

 ジャヨンは生産管理部、ユナはマーケティング部、ボラムは会計部に所属しているが、高卒というだけで制服着用を義務付けられ、能力があるのに代替の利く仕事しか与えられない。ユナが会議で名案を出しても、正当な評価を得られずにいた。妊娠したら退職という不文律もある。30歳を前に、3人は夢を叶える道は閉ざされていた。
 
 韓国は97年、経済危機に陥り、国際通貨基金(IMF)の介入を許した。IMFによる支配を描いた映画「国家が破産する日」を別稿(19年11月17日)に紹介した。OECDに前年加入した韓国は、見かけの好景気と裏腹に新自由主義が蔓延し、中間層が崩壊する。先駆けといえる事態がサムジンでも進行していた。

 ジャヨン、ユナ、ボラムにとって転機になったのは滑稽なほどアメリカナイズされた新社長就任だ。彼女たちが英会話を学ぶのも<TOEI600点以上で代理に昇格>という新方針に則ったものだ。報われてはいないが精いっぱい仕事に励んでいる彼女たちは深刻な事態に直面する。工場廃液が周辺地域に健康被害を引き起こしていることをジャヨンが知ったのだ。

 本作に重なったのが連続ドラマW「誤断」(15年、堂場瞬一原作)で、製薬会社社員の主人公が自社工場による公害摘発に苦悩する内容だった。ジャヨンも上司に相談するが、適当にあしらわれ、内部告発者として左遷される。データ改竄と隠蔽を明らかにする過程で貢献したのが、数学コンテストで優勝した経験のあるボラムだった。

 スパイもどきの3人の捜索劇はコメディ-タッチでユーモラスだが、暴かれる真相はその後の日本とも無縁ではない。会社は誰のもの、社員同士の繋がりは、男女格差を打破する意味を本作は問いかける。成果主義に基づく人事考課制度が日本に導入されたのは1990年代だが、そもそも本家本元のアメリカは異常なコネ社会で、日本では〝目標〟で社員を奴隷にすることが目的だった。

 決死の覚悟で立ち上がったジャヨン、ユナ、ボラムは絆の回復を達成し、ハゲタカから会社を守る。演じた女優たちの個性とチャーミングさが本作の肝といえる。最新のジェンダー・ギャップ指数では韓国が102位、日本が120位と先進国とは思えない低評価だ。開催に至る過程で文化的に先進国と言い難いことを白日の下に晒したオリンピックが閉幕した。本日もまた新型コロナ感染者が4000人を超えた。
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川上未映子著「夏物語」~女性の生理と感受性に彩られた生と死の円環

2021-08-04 21:54:10 | 読書
 安倍-菅政権は一貫して医療と福祉を切り捨ててきた。iPS備蓄予算の削減を山中伸弥京大教授に通告したことがその例である。<99%は死んでもいい>という政府の本音を、<中等症以下は自宅療養>の方針転換が如実に語っている。

 前稿のラストで<一人の人間が自己を発見するには、一生かかってもまだ足りないくらい>という開高健の言葉を紹介した。あと2カ月で65歳になる俺は、いつ死が訪れても不思議はないから、〝自己を発見する〟ため、来し方を振り返ることが増えてきた。生と死のアンビバレンツ、そして俺にとって最大の謎である女性の感受性に紡がれた小説を読了した。川上未映子著「夏物語」(2019年、文藝春秋)である。

 川上の作品を読むのは5作目になる。550㌻弱の本作は2部構成で芥川賞受賞作「乳と卵」(未読)の大枠を1部(二〇〇八年夏)に据え、8年後の2部(二〇一六年夏~二〇一九年夏)に繋がっていく。主人公は30歳の夏目夏子で、大阪の下町出身だ。作家志望だが、本屋のアルバイトで生計を立てている。1部は夏の盛り、東京にやって来る39歳の姉の巻子、12歳の姪の緑子とのやりとりが中心だ。

 巻子はスナックのホステスで、豊胸手術を考えている。母と口を利かない緑子は初潮が来ないことを気にしている。会話や描写に女性の心理の生理が織り込まれていた。全編を第1章のタイトルが「あなた、貧乏人?」で、夏子の回想には貧しかった生い立ちが表れる。

 <子供を産むことの意味>、<人工授精(AID)の捉え方>、<シングルマザー(巻子も)の生き方を含めた貧困と格差>……。識者や読書好きが様々な視点から言及している。俺が本作に感じたのは別のポイントだった。頭上を舞う言葉ではなく、<謎めいた女性という存在>と俺が取ってきた誤った距離感への自責の思いだった。俺は還暦を過ぎても女性について何も知らなかったのだ。

 夏子と巻子の父親は幼い頃に家族を捨てて姿を消した。第2部で小説を1冊発表した夏子の周りにも男への怨嗟が渦巻いている。バイト先で知り合った紺野さんは結婚して子供もいるが夫に絶望している。編集者で独身の仙川さんは「子どもが欲しいなんて凡庸なことを言わないで小説を書きなさい」と夏子に迫る。「男とは絶対にわかり合えない」と断言する遊佐は離婚したシングルマザーの作家だ。

 医師の逢沢潤との出会いで、夏子はAIDに積極的になる。逢沢はAIDで生まれ、遺伝子上の父を捜している。逢沢の恋人、善百合子もAIDで誕生したが、育ての父に性的虐待を受けた過去がある。だから「子どもを産む人は自分のことしか考えない。子どもを不幸にしたくなかったら産まないこと」と言い張る。女同士の会話はシリアスだが、夏子の関西弁が滑車の役割を果たしていた。

 夏の終わり、夏子は生まれ故郷に向かい、彼女を追ってやって来た逢沢と合流する。観覧車のシーンは印象的で、2人はそれぞれの父に思いを馳せた。死と生の円環の中、セックスに忌避感と嫌悪を抱く夏子はAIDで子を産み、シングルマザーとして育てることを決断する。幾つもの<死>と喪失感が、<生>への希望に昇華する瞬間を川上は見事に表現していた。

 恋愛、結婚、セックス、出産というありきたりの価値観をぶち破ってくれたのが村田沙耶香だった。村田はインタビューで<同時代にも複数の価値観は存在するのに、自分の狭い世界の正義をひたすら信じて、それで誰かを平然と裁くことに対して恐怖を感じる>と語っていた。

 村田ほど破壊的ではないが、<恋という幻想で子宮と精巣を接触させ繁殖に至る工程>に疑義を提示した川上も、<別の正義>を提示してくれた。女性に対する凡庸な考え方を変えるきっかけを与えてもらったが、人生の第4コーナーを回った俺にはどうしようもない。
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