酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「死してなお踊れ 一遍上人伝」~アナキズムとは捨てること

2023-04-06 21:27:58 | 読書
 年金受給年齢の62歳から64歳への引き上げを巡って、フランスではデモやストライキが頻発し、先月下旬には2度、100万人前後が抗議運動に参加した。製油所と学校の閉鎖、交通網の混乱など影響はあったが、〝富裕層の代弁者〟マクロン大統領への批判の声はやまない。勤勉でおとなしい日本人はお上の言いなりだが、労働への執着が小さいフランス人は、「死ぬまで働かせやがって」と不満を隠せないのだ。

 「日本でこんなこと起きないかなあ」と羨望の眼差しを向けている不逞の輩もいるかもしれない。そのうちのひとりがアナキズム研究者、いやアナキストの栗原康著「死してなお踊れ 一遍上人伝」(河出文庫)を読了した。栗原を紹介するのは「村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝」、「サボる哲学~労働の未来から逃散せよ」に次ぎ3作目になる。

 栗原が大杉栄のパートナーだった伊藤野枝をアナキズムの文脈で語るのは当然だが、一遍上人の生き様も〝理想のアナキスト〟と映ったようだ。ポップな筆致が弾けている。一遍については鎌倉中期の僧侶で時宗の開祖というぐらいの知識しかない。有力な御家人の一族だったが、承久の乱で後鳥羽上皇側についたことで、一遍が生まれた頃には没落していた。

 一時期、中世史にハマったことがある。中世とは自由と混乱のさなか、少しずつ人々の意識が固定化していく時代だった。農業の進歩で定着の価値が高まり、共同体から出て流浪する者を蔑んだ。更に、月経で血を流す女性、人の死に関わる者、動物の遺骸を扱う者、ハンセン病患者への差別が顕現化する。聖と穢れのアンビバレンツを体現したのが一遍で、被差別者に手を差し伸べ可視化したことは、「一遍聖絵」に描かれている通りだ。

 栗原は<一遍が学んだ浄土教は侠気の思想>と理解している。<自分の名を10回も唱えても浄土に生まれることが出来ないなら、俺は仏になんかならない。俺は衆生を、万人を救いたい>という阿弥陀(法蔵)の教えに一遍は倣っている。日常を打ち捨て、一遍は遊行の旅に出る。<南無阿弥陀仏>を唱えれば浄土に行けるという浄土宗開祖の法然の教えは、世間と軋轢を生むラディカルな発想だった。

 高僧は長年ストイックに修行し、悟りの境地に達する。だが、法然、親鸞、一遍は念仏を唱えれば誰でも救われると説く。とりわけ一遍が率いる時衆は裸に近い格好で踊り、歌い、叫んで全国を回る。社会からパージされていたハンセン病者も含まれていた。意図したわけではないが、反権力的な空気を醸し出す集団になる。

 栗原はギリシャ語の語源に遡りアナキズムを<無支配主義>と規定する。例えば、<支配-被支配>の構図を受け入れ権力に阿ねれば、必然的にヒエラルキーで下位の者に高圧的に振る舞うようになる。一遍は遊行する際、上下、左右、貴賤に囚われず、全てを捨て去るというルールを定めた。「村に火をつけ――」に感じたのは伊藤野枝の燃えるような色調の狂いだったが、一遍もまた狂いを纏い、自身から全てを捨て去るように踊る。<念仏とは捨ててこそ>と繰り返し語った。
 
 一遍は実体験で、形あるもの――富や地位――は必ず壊れることを知っていた。踊り念仏の精神とは、壊して、騒いで、燃やすことと説いているが、踊り方に特徴があった。遡ること300年、念仏信仰の先駆者とされる空也の影響で、一遍たちは反時計回りで踊った。時間を超越するという意味が込められていたのだろう。空也の場合は祈祷の色合いも濃かったが、一遍率いる時衆の踊り念仏はエンターテインメントの要素もあった。お札をまき、民衆の関心を惹きつけ、ステージまで用意する。

 名刹や高僧の多くに拒絶されたが、一遍は挫けない。一遍には壁を破る力があった。それは言葉である。歌を詠む能力が評価された時代、一遍は宗教者、教養人、武士のみならず、庶民の気持ちを惹きつけた。栗原はあとがきで、一遍を知るきっかけは大卒後、六波羅蜜寺で空也と出会ったことだという。栗原は空也と一遍に現代的な意味を見いだした。底の底まで落ちても、必ず道は開けるのだと……。

 新宿できょう、映画「ロストケア」を見た。社会にあいた穴から落ちた者にどのような選択肢はあるのかを問いかける作品だった。感想は次稿で記したい。
コメント (1)    この記事についてブログを書く
  • Twitterでシェアする
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする
« プロ野球開幕~球春に溶ける6... | トップ | 「ロストケア」~救いと裁き... »

1 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
Unknown (すみれ)
2023-04-11 14:01:38
現在、介護の現場におります。
ドスのきいた認知症のみなさまと遊ぶ毎日のなかで、認知症のひとの能力が2なら、ぼくは5ぐらいだと認識しております。どちらも100じゃない。
ひとつふたつみっつ、たくさん。
だから変わらないよな。そう思っております。

ぼくもアイツも認知症のひとも、にんげん! 神じゃない。
お前と同じさ。お前も同じさ。

自分探しなんかしたって、みつかる自分は、特にない。
だったら自分なくしの方が快楽的だと思います。

きもちいいきもちいい、うれしい。

この本と友川かずきの「問うなれば」が大好きです。
音楽が目指すのは、音楽ではない。
躍ること。
皮にこそ 男! 女の色もあれ! 骨には変わるひとかたぞなし!

骨に向かって生きている。ゼロになっていく。
躍れ!焼き尽くせ。

そう、思います。

コメントを投稿

読書」カテゴリの最新記事