酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「高野豆腐店の春」~ヒューマンドラマを紡ぐ放射能の糸

2023-08-28 21:58:56 | 映画、ドラマ
 福島第一原発の処理水海洋放出が決行された。世論は肯定的だが、小出裕章氏(元京大原子炉実験所助教)は<敷地内の130㌧の処理水とは、浄化処理を施しても取り去ることが出来ない放射能(トリチウム)が残った水。トリチウムの半減期は10年で、深層に流せば表層に出てくるまで1000年かかるが、国と東電は表層に放出しようとしている>と警鐘を鳴らしていた。

 日本政府はIAEA(国際原子力機関)に、<第一原発事故で大気中に放出されたセシウム137は広島原爆の168発分>と報告している。放射能は五感で感じられず、広島でも投下後、何十年経っても原爆症を発症する人が後を絶たない。日本人が核兵器、原子力の悪魔の貌を忘れていることを、映画「高野豆腐店の春」(2023年、三原光尋監督)を見て実感する。

 高野は〝こうや〟ではなく、主人公の名前の〝たかの〟だ。時代は平成後半で、「東京物語」(小津安二郎)、「尾道3部作」(大林宣彦)などのロケ地で知られる尾道が舞台だ。<父と娘が織り成す温かなヒューマンドラマ>というのは半分当たっているが、物語が進むにつれて浮き彫りになるポイントは後半に記したい。

 高野豆腐店は辰雄(藤竜也)と春(麻生久美子)の父娘で営まれている。大豆、水、にがりの微妙な組み合わせで作られる豆腐の味を、辰雄は守り続けてきた。作業場での豆腐作りの工程が本作の肝といえる。淡々と細部にこだわる辰雄の職人技を支えるのは春だが、〝豆腐の人格〟を決めるにがりを投入する作業は辰雄の役割だ。

 心臓に不安を抱える辰雄は、理髪店店主の繁(徳井優)、定食屋の一歩(菅原大吉)ら気の置けない商店街の仲間に、春の再婚相手探しを頼む。浮上したのはイタリア料理店を経営するイケメンシェフの村上(小林且弥)で、豆腐を洋食にアレンジしたいと考えていた春と意気投合する。だが、春には意中の男がいた。

 辰雄は頑固な人で、納入先のスーパーの担当者が販路拡大を提案しても一切耳を貸さず、「ちんちくりん」と心の中で罵っている。だが、春が結婚を前提に付き合っていると紹介し男がちんちくりんこと西田(桂やまと)だった。〝世界の納豆〟を説くだけでなく、巨人ファンと知って喧嘩腰になる。辰雄は熱烈なカープファンだった。春は家を出ていった。

 辰雄にも出会いがあった。スーパーで清掃員をしているふみえ(中村久美)は辰雄と同じ病院の患者で、ペースメーカーを入れていた。親しく言葉を交わすようになり、ふみえも演奏するピアノコンサートに誘われたが、ふみえの体調悪化で叶わなかった。

 辰雄とふみえの穏やかな老いらくの恋の成り行きに引き込まれた。1945年8月6日、すなわち原爆投下による甚大な影響が2人の会話から明らかになる。尾道でも多くの人々が原爆症で苦しんだ。辰雄は亡き親友の妻と結婚したが、原爆症で亡くなった。春は連れ子で辰雄の実子ではない。春が東京で離婚したのも、条件が揃い過ぎている村上との結婚を拒んだのも、原爆症の遺伝子を恐れていたからではないか。

 そしてふみえもまた、原爆症患者だった。心臓だけでなく、乳がんを再発して入院する。辰雄は覚悟と勇気をもってふみえに寄り添う。ラストで「街角ピアノ」さながら、快復したふみえは街頭でピアノを弾く。メンデルスゾーンの「歌の翼に」で、♪歌の翼で愛しい人よ、私はきみを運ぶ……で始まるメルヘンチックな愛の歌だ。

 奇跡の愛に出会った辰雄は優しく物事に肯定的になる。春と一緒に豆腐を作る最後の日、にがりを投入する作業を娘に任せる。今年82歳になった藤竜也と麻生久美子の名演が温かい余韻を残してくれた。
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「青春神話」~行き詰まりの青春に未来はあるか

2023-08-23 18:52:39 | 映画、ドラマ
 夏の甲子園準決勝(21日)当日、中華屋で昼飯を食っていると、日焼けした作業着姿の若者3人が隣の席でテレビを見ながらがっついていた。アンチ慶応らしく、土浦日大に肩入れしていた。〝あんたらは勝ち組なんだから、野球ぐらい遠慮しろよ〟が本音だろう。エリートへの生理的反感なのか、スタンドの盛り上がりにも忌避感を覚えていたようだが、決勝では慶応が8対2で快勝し、仙台育英の夏連覇を阻止した。

 彼らと同じ年の頃、俺は〝東京砂漠で野垂れ死に〟の確率が高い引きこもりのフリーターだった。その時、俺はどんな風に感じていたのかを、最近になって思い知らされている。というのも、年を取って眠りが浅くなり、当時の閉塞状況そのものの悪夢で目覚めることが何度かあった。人生とは不思議なもので、60代と青春時代がリンクしてしまった。

 自身の20代の鬱屈と重なる映画「青春神話」(原題「青春哪吒」/1992年、ツァイ・ミンリャン監督)を新宿ケイズシネマで見た。<台湾巨匠傑作選2023>と銘打たれた企画で上映された27本のうちの一作で、候孝賢と楊德昌の次世代に当たるツァイ・ミンリャンのデビュー作である。

 1987年の戒厳令解除から96年の正副総統選実施までの間、台湾は日本ブームだったようで、本作にもゲームセンターやテレクラが登場する。主人公のシャオカン(リー・カンション)は予備校生だが、勉強に身が入らず惰性に流され、暴力への衝動にも駆られていた。台北の街でシャオカンは窃盗常習犯のアザー(チェン・チャオロン)とアビー(レン・チャンピン)と交錯する。アザーは兄と付き合っているアクイ(ワン・ユーウェン)をバイクに乗せ、街を疾走していた。

 シャオカンの父(ミャオ・ティエン)はタクシードライバーだ。父が運転するタクシーに乗っている時、トラブルに見舞われる。その際、バイクを走らせていたアザーにサイドミラーを壊された。様子をうかがっていたシャオカンはアザーとアビー、そしてアクイに付きまとうようになる。予備校を退学し、払い戻した授業料でピストルを買い、ストーカーのように彼らの行動をチェックする。

 現在の台湾では女性の地位が向上しているが、シャオカン一家では父が支配権を握っていた。占い師の元を訪ねた母は「シャオカンは哪吒(ナタ)の生まれ変わり」とのお告げを得る。ナタとは台湾で多くの信者を持つ道教で崇められる少年神で、父と軋轢を抱えている。シャオカンはナタのように踊って父の不興を買った。シャオカンは家出して台北を彷徨うが、後半には父の許しも描かれていた。

 本作はシャオカンとアザーの心の闇を表現するためなのか、夜景のシーンが多かった。さらに、繰り返し雨が降っていた。雨は憂鬱の象徴、それとも再生への希望? その両方かもしれない。俺がアザーの真意を理解出来なかったシーンがある。排水口に布を詰め、フロアを意識的に水浸しにしていた。自身の停滞や澱みを直視していたのだろうか。

 夜景、雨とコントラストをなすのが、眩しい光と音楽だった。ロケ地は今も台北の流行の先端をいく地域だ。青春は孤独、夢、ときめき、屈折に彩られている。50代になったシャオカンとアザーは、どんな風に生きているのだろう。
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「しろいろの街の、その骨の体温の」~暑気払いは村田沙耶香

2023-08-19 20:31:15 | 読書
 ニューヨーク大学は遺伝子を組み換えたブタの腎臓が脳死患者に移植され、30日を過ぎても拒絶反応が出ることなく機能し続けていると発表した。重なったのは〝現代のジュール・ベルヌ〟ベルナール・ヴェルベール著「われらの父の父」だ。ヴェルベールは同作で霊長類に加え、もうひとつの動物をヒトの祖先として挙げていた。

 それはブタで、ヒトの臓器と互換性が高いというデータだけでなく、人肉の味が似ているというカニバリストの証言に沿っている。穢れゆえブタを口にしない本当の理由は<禁忌>かもしれないと、イスラム教徒やアメリカのキリスト教保守派が激怒しそうな仮説は衝撃的だった。知的エンターテインメントとして高いレベルの著書は、なぜか全て絶版になっている。

 酷暑で心身ともダウンしている。せめて脳だけでも活性化しようと村田沙耶香著「しろいろの街の、その骨の体温の」(2012年、朝日文庫)を手に取った。村田ワールドに導かれたのは6度目だが、本作は他と比べて味付けはマイルドだった。とはいえ、セクシュアリティーをテーマに据え、アイデンティティーと疎外を追求する点は変わらない。

 「コンビニ人間」で芥川賞を受賞した村田は、「しろいろの街の――」で既に三島由紀夫賞を受賞しており、「授乳」、「消滅世界」などで常識の円環から飛翔する作家として注目されていた。にもかかわらず、村田はコンビニで働いていた。村田は他の人と階層意識が異なるのではないか……。俺はそんな風に感じたのだが、「しろいろの街の――」には思春期の少女の階層意識が色濃く反映されていた。

 主人公は開発が繰り返されるニュータウンで暮らす谷沢結佳で、小学4年から中学2年までの彼女の心と肉体の変化が、街の光景と重ねて描かれる。俺は男子校に通っていたから、女子生徒たちのヒエラルキーなど理解を超えているが、本作の男子生徒たちも女子の中で起きていることを把握しているとはいえない。幼馴染みでともに習字教室に通う伊吹も、結佳には鈍感と映る。

 男性と女性では感想は大きく異なるかもしれない。中学に通っていた頃、クラスはグループに分かれていたが、階層といえるものではなかった。結佳は小学生の頃、若葉、信子と仲良しトリオを形成していたが、中学に入るやそれぞれ別のグループになる。容姿、成績、家族の仕事や収入と理由は様々だが、若葉はクラスのトップ、結佳はおとなしく目立たない下から2番目、そして信子は最底辺のグループに分類され、互いが交わるケースは稀だ。<スクールカースト>という言葉が語られるようになったのは世紀が変わってからである。

 結佳は自分の第二次性徴と街の変化を重ねていた。膨らみかけた胸を押さえ、「この街もこんなふうに痛いんだろうか」と想像する。結佳は脚が膨らんでいくのに、上半身は未成熟のままだ。膨張する街の基調は白で、タイトルの〝しろいろ〟に繋がっているが、結佳は白い世界で埋葬されているような気分になる。結佳は街に嫌悪を覚え、成長が止まった街が巨大な墓場のように見える。街の光景と自身の肉体の変化や欲望をリンクさせて描写する筆致に圧倒された。

 デビュー作「授乳」で主人公の少女は家庭教師を隷属させる。無機的な青年は、胸に顔を押し当てられても無抵抗だった。「しろいろの街の――」で結佳の〝おもちゃ〟になるのはサッカー少年の伊吹で、強制的にキスをする。小学生の頃は自分以下の階層と感じていた伊吹だが、キャラが愛され、中学に入るや〝上級国民〟にカテゴライズされ、クラスのボス的な女子に思いを寄せられるまでになる。

 <公認セクシュアリティーへの疑義>は村田ワールドに通底している。「地球星人」ではいとこ同士の小学生のセックスが描かれ、「消滅世界」では人工授精が妊娠の唯一の手段で、男は精通、女は初潮を迎えると体内に避妊装置を埋め込まれるという設定だった。「しろいろの街の――」では結佳の生々しい欲望が表現され、伊吹とのセックスに至る。

 本作のハイライトは信子の爆発だ。結佳の一つ下の最下層に分類された信子は、自分を公然と侮蔑する男子に向かって怒りをぶちまける。孤立は深まるが、結佳は自分を解き放った信子を美しいと思う。ウィキペディアに記されていたが、村田は中学時代、同級生から「死ね」と言われて抵抗出来ず、実際に死のうと思ったが、小説を書くことで生の意味を見いだせたという。

 様々な体験から、村田は社会や構造を内在化する術を身につけた。強靱だからこそ、シュールで狂気に満ちた物語を提示出来るのだろう。複数の価値観があるのに、自分の狭い正義に則って他者を裁く傾向が強まっている。村田は〝常識の押し売り〟と闘っている。
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「パルプ・フィクション」~映画で遊ぶタランティーノ

2023-08-15 22:38:27 | 映画、ドラマ
 藤井聡太竜王への挑戦者が同じ年生まれの伊藤匠七段に決まった。合わせて41歳のタイトル戦で、棋界は世代交代が進みそうだ。伊藤は小学生の頃、藤井を負かしたことがあり、その時に藤井が号泣したのは有名なエピソードだ。20歳前後の有望棋士も多く、棋界は上げ潮に乗っている。朝日杯では三井住友トラストグループが特別協賛に名乗りを上げた。

 世間だけでなく、俺の中でも戦争は風化している。俺が生まれた1956年の「経済白書」は<もはや戦後ではない>で結ばれた。経済復興をもたらしたのは朝鮮戦争勃発による<朝鮮特需>と、産業構造の変化による<神武景気>である。隣国での戦争に加え、1960年代の<ベトナム戦争特需>も高度成長に寄与した。きょうは79回目の敗戦の日だが、岸田政権は殺傷兵器の輸出解禁に向けた議論を加速させている。日本は戦争と縁が深い国のようだ。

 リバイバル上映された「パルプ・フィクション」(1994年、クエンティン・タランティーノ監督)を新宿ピカデリーで見た。約30年ぶりの再会である。上映初日でもあり、フルハウスの盛況だった。「CSI:科学捜査班シーズン5」24&25話、脚本を担当した「トゥルー・ロマンス」を含め10作近く見ているが、最も印象に残るのが「パルプ・フィクション」だ。

 公開当時、暴力シーン満載、時系列をシャッフルした作りが斬新と騒がれたが、現在は自然に入り込める。W主演はヴィンセント(ジョン・トラボルタ)とジュールス(サミュエル・L・ジャクソン)の殺し屋コンビだ。2人のボスで、LAの闇社会を取り仕切るマーセルズ(ヴィング・レイムス)は愛妻ミア(ユマ・サーマン)の接待をヴィンセントに依頼する。

 タランティーノの作品の魅力のひとつは台詞だ。ユーモアと品のなさが特徴で、本作ではヴィンセントとジュールスの会話が回転軸になっている。ギャングたちを色めき立たせる事件が起きた。落ち目のボクサーのブッチ(ブルース・ウィルス)がマーセルズの八百長の指示を拒み、相手を殺して賭け金を奪ってしまう。ブッチを逃がす女性タクシー運転手(アンジェラ・ジョーンズ)の個性が際立っていた。

 ご覧になった方はおわかりだと思うが、真面目に批評するのは相応しくない。タランティーノは映画で遊ぶインディーズの初心を忘れず、カンヌとハリウッドを席巻した。冒頭とラストに登場する不良カップルの青年パンプキンを演じたティム・ロスはタランティーノの盟友だし、サミュエル・L・ジャクソンは次作「ジャッキー・ブラウン」の助演男優だ。ユマ・サーマンは「キル・ビル」2作の主演女優である。〝身内で楽しもう〟が基本精神で、その辺りは公開中のドキュメンタリー「クエンティン・タランティーノ 映画に愛された男」に描かれているかもしれない。

 タランティーノはクイズを出すような気分で映画を撮っているのだろう。本作に限らず、作品はLA観光案内の趣がある。それぞれのシークエンスにもタランティーノのサービス精神がちりばめられており、ヴィンセントとミアが踊るシーンには誰しもトラボルタが一世を風靡した「サタデー・ナイト・フィーバー」を重ねてしまう。ブッチの回想シーンに登場するクーンツ大尉はハノイで抑留されていたという設定だが、演じたのがクリストファー・ウォーケンとくれば「ディア・ハンター」を思い浮かべるのは当然だ。

 ヴィンセントが手にしている大衆向けの犯罪小説(パルプ・フィクション)だ。一方でジュールスは殺人前に旧約聖書エゼキエル書25章17節と引用元を明かした上で、正しき者、悪しき者、迷える子羊うんぬんと警句を発する。ジュールスは奇跡的に相手の弾を食らわなかったことで悟りを開いたかと思ったが、実は千葉真一主演作のアメリカ版冒頭からパクったというのが真相らしい。

 タランティーノは日本映画オタクとして知られるが、「パルプ・フィクション」でもブッチが日本刀を振り回すシーンに嗜好が現れている。俺が気付かない伏線やトリックもたくさんあるはずで、音楽の使い方など映画の楽しみ方を教えてくれる作品だった。
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「ぼくはウーバーで捻挫し――」~斎藤幸平の分岐点

2023-08-11 15:01:45 | 読書
 世界を凄まじい熱波が覆い、アメリカでは45度超えの地域が続出している。グレタ・トゥーンベリが警鐘を鳴らした気候危機を真摯に受け止めた先進国はなく、世界は崩壊の緖についた。環境問題のみならず、日本にも抜本的な変革を説く識者はいる。そのひとりが<脱成長コミュニズム>を掲げる斎藤幸平(経済思想家、東大大学院准教授)だ。市場原理主義からのコモンの奪還を説いた「人新世の『資本論』」は50万部超のベストセラーになった。

 <ローカリゼーション>、<持続可能>、<多様性>、<ワークシェア>といった言葉がちりばめられた同書のあとがきに<SNS時代、3・5%の人々が本気で立ち上がると社会は大きく変わる>という政治学者の言葉が紹介されていた。書斎から抜け出し、自らも〝3・5%〟への一歩を踏み出した経緯を綴ったのが「ぼくはウーバーで捻挫し、山でシカと闘い、水俣で泣いた」(KADOKAWA)である。

 前職の大阪市立大准教授時代、毎日新聞社に掲載された「斎藤幸平の分岐点ニッポン」を書籍化したものだが、コロナ禍で頓挫した企画もあったという。本書に感じたのは<斎藤自身の分岐点>だった。ドイッチャー記念賞を歴代最年少で受賞するなど、マルクス主義研究者として国際的に認知され、マルクス・ガブリエルやスラヴォイ・シジェクら世界を代表する知識人と交流が深い。30代半ばで多くを成し遂げた斎藤だが、葛藤を抱えていたのではないか。

 理論を語る学者や知識人に生理的な反感を覚える人は多いだろう。俺もしばしば集会などで、彼らの言葉に空疎さを覚えたことがあった。斎藤も様々な運動に関わっているが、立ち位置が異なる方は忌避感を抱くはずだ。ステータスの高いマルクス主義者なんて認めてなるものか……。そんな反発もあるのは当然で、斎藤は自らの想像力を磨くため、現場に赴くことを決意する。

 23の現場(試み)のうちからピックアップして感想を記したい。タイトルに含まれているように、斎藤はウーバーイーツの配達員になる。仕組みや収入も明かされるが、働く側にとってシェアするものが何もない〝使い捨て〟というのが結論だった。ケガをしたが、補償はなかった。コロナ禍で広がったテレワークや人気を集めたゲーム「あつ森」には否定的だったが、撤去から3年経ったタテカンの現在を知るために訪ねた京大では、作製者と和やかに交流していた。

 斎藤は生身の人間同士の結びつきを重視する傾向がある。兵庫県豊岡市で林業を営む協同組合「NGT」に足を運んで、持続可能性と脱成長を包含する未来の労働の形を目の当たりにする。環境保護についても幾つかの項で記しているが、理想的な例として太陽光パネル設置で行政を巻き込んだ奈良県生駒市の例を挙げている。コモンの奪還は可能なのだ。

 昆虫食やジビエなど食に関するもの、自身のドイツでの体験を重ねながら外国人労働者への差別をテーマにしたものなど多岐にわたるが、最も印象的だったのは<今も進行形、水俣病問題~誰もが当事者>の項だった。チッソの責任を追及し続けた漁師の緒方正人さんは1980年代、運動を離れる。制度上(システム)の解決へと水俣病の問題が矮小化されていく過程で、生身の人間の顔が見えなくなる闘いに違和感を抱いたことが理由だった。

 緒方さんは一方的に責任を問う側にいた自分もシステムと無縁ではなく、水俣病の加害の奥にある人間の責任という普遍的なテーマに行き着いた。その思いは著書のタイトルでもある「チッソは私であった」に綴られている。本書のタイトルに含まれる「水俣で泣いた」は、加害と被害を超えた調和を志向する<癒やし>に感銘を覚えたからだ。

 釜ケ崎で活動する上田さんは、<ドヤ街として釜ケ崎は衰退したが、非正規労働の一般化と少子高齢化で、全国が「釜ケ崎化」している>と警鐘を鳴らしていた。分断と自己責任が時代の空気になった今、斎藤は仮に自分が順調だとしても、それは誰かの犠牲の上に成り立っていると考えている。本書は斎藤にとって扉を開くきっかけになった。
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「シモーヌ」~世界を変えた崇高な意志

2023-08-06 19:03:29 | 映画、ドラマ
 藤井聡太七冠と豊島将之九段による王座戦挑戦者決定戦は159手で藤井が制し、永瀬拓矢王座に挑む。1分将棋が続き、いずれにもチャンスがあった二転三転の大熱戦で、AI、いや人知を超えた神局と称賛されている。終局後、笑みを時折浮かべながら長時間の感想戦を行った両者に、将棋への純で熱い思いが窺えた。

 今年になってフランス関連の小説と映画を3作紹介してきた。キーワードは<女性の権利>である。アニー・エルノー著「事件」の主人公は熟年の大学教員で、彼女が大学生だった1960年代に経験した中絶の一部始終が記されている。「パリタクシー」でシャルルが乗せたマドレーヌは女性解放のアイコンとして名を刻む女性だった。そして、妊娠したアフリカ系女性の葛藤を描いた前稿の「サントメール ある被告」である。

 新宿で先日観賞した「シモーヌ フランスに最も愛された女性」(2022年、オリヴィエ・ダアン監督)は1974年、人工妊娠中絶の合法化を可決にこぎつけたシモーヌ・ヴェイユの生涯に迫った伝記映画で、上記3作と密接にリンクしている。フランスというと〝民主主義の象徴〟というイメージがあるが、1960年代のフランスはカトリック教会の絶対的支配の下、中絶はおろか避妊でさえ禁じられていた。国会議員だけでなく、シモーヌにとってエリート層の男性たちが〝抵抗勢力〟だった。

 10代後半から30代までのシモーヌはレベッカ・マルデール、それ以降はエルザ・ジルベルスタインが演じている。ユダヤ人のシモーヌにとってアウシュビッツの体験は決定的だった。16歳で収容所に送られ、両親と兄を失う。戦後はパリ政治学院でアントワーヌと出会って結婚するが、卒業後の男女格差は歴然だった。シモーヌは夫を支えることを強制され、学んだことを社会に還元することは許されなかった。

 女性の社会進出を妨げる風潮に立ち向かい、シモーヌは司法試験に合格し、司法官に就任する。最初に手掛けたのは、フランスからの独立のために戦ったアルジェリア兵、現地の民衆の扱いを改善することだった。刑務所はその国の民主度を測る物差しだが、アルジェリア人は劣悪な環境下で収容されていた。弱者の側に立つシモーヌは、後にエイズ患者、薬物中毒者にも温かい手を差し伸べる。国民的人気を誇る政治家になるのは当然だった。

 本作に感じたのは、フランスと日本の共通点だ。日本では戦争を主導した保守派が戦後も力を保持したが、フランスでもナチス協力者が断罪されることはなかった。ユダヤ人への偏見も収まらず、シモーヌが国民を前に自身の収容所体験を明かすのは2004年のことだった。終盤は現在と収容所時代の回想がカットバックして進行する。

 アウシュビッツでの体験、ナチスの犠牲になった家族への思いが描かれる。弱者に寄り添うシモーヌの原点であることは言うまでもなく、観賞した方が感動するのは当然だ。だが、たった1%の例外がある。俺はイスラエルによるパレスチナ弾圧を、ツツ大主教やケン・ローチ監督の言葉を借りて、<現在のアパルトヘイト、ジェノサイド>と批判してきた。反ユダヤ主義に警鐘を鳴らすシモーヌのモノローグに違和感を覚えてしまう。

 シモーヌの崇高な意志には感銘を覚えたが、興行界を牛耳るユダヤ系の〝国策〟を感じてしまったのはへそ曲がりゆえか。66歳にもなると、心に様々な錆びが染みついていることを実感させられた。
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「サントメール ある被告」~曖昧な境界に迷い込む法廷劇

2023-08-01 22:21:05 | 映画、ドラマ
 4年ぶりに開催された隅田川花火大会に足を運んだ。知人が申し込んだ有料席で満喫した至高のページェントは冥土の土産かもしれない……。そんな風に考えてしまったのは理由がある。混雑を避けるため三ノ輪駅から会場まで歩いて往復したが、帰り道、前に進まなくなった。腰が痛くなり、バランスが崩れてフラフラする。脳梗塞と熱中症が重なったのか、駅や道で何度も休憩しながら思い出していたのは父である。

 花火マニアの父は毎夏、いくつもの花火大会をはしごしていた。仕事に遊びにアクティブに取り組むバイタリティーに感心していたが、今の俺と同じ年の頃(60代半ば)に母と所用で上京した際、衰えを痛感する。ゆっくり歩いて何度も休み、結局タクシーを拾ってホテルに向かった。4年後に召されたが、俺にも遠からず〝その日〟が来るかもしれない。

 確執というほどではないが、父と理解し合っていたとはいえなかった。俺の生き方が父の期待から大きく外れていたことが大きかったと思う。父と息子ではないが、移民社会を背景に、母と娘の距離を描いたフランス映画「サントメール ある被告」(2022年、アリス・ディオップ監督)を渋谷で見た。法廷をメインに描かれていたが、裁判官と弁護士は女性、検事が男性という設定に製作側の意図を感じる。ちなみにフランスの法曹界は女性が多数を占めているという。

 移民社会フランスの実情を知らない男にとって、「サントメール ある被告」は難解な作品だった。白人男性との子供をみごもったアフリカ系の2人の女性の視点から描かれている。実際に起きた事件とその裁判がベースで、裁かれているのは生後15カ月の娘を海岸に置き去りにし、死に至らしめたセネガル人の若い女性ロランス(ガスラジー・マランダ)だ。茶色の肌に茶色の服を纏い、法廷の茶色の壁に同化したロランスは感情を面に出さず、視線を斜めにやっている。

 傍聴に訪れたのは同じくセネガル系だが、フランスで育った作家のラマ(カイジ・カガメ)だ。妊娠中のラマは冒頭、マルグリット・デュラス原作の映画「二十四時間の情事」(原題「ヒロシマ・モナムール」)をテーマに大学で講義している。ナチス将校と恋仲だった女性が髪を切られて引き回されるシーンが印象的で、後半には嬰児殺しが描かれた「王女メディア」のカットが挿入されていた。

 「二十四時間の情事」は広島への原爆投下が描かれており、「王女メディア」には長唄が使われるなど、日本と縁のある2本の映画が「サントメール ある被告」と深くリンクしていた。ロランスが〝完璧なフランス語を話す〟のは両親の教育方針の反映だが、期待に沿えなかったことで疎遠になる。<フランス語が完璧=アイデンティティーの喪失>で、決定的な孤独に苛まれたロランスは30歳も年上の男と付き合うようになる。

 裁判で罪状を問われたロランスは「私は本当に娘を殺したんでしょうか。教えて下さい」と答えた。子供を消して元の自分に戻りたい、あるいは海が本来あるべき場所に子供を送ってくれるという感覚に陥っていたのだろうか。善悪、罪と罰、ジェンダー、母娘、白人とアフリカ系……。見る側は境界が次第に曖昧になるのを感じ、複眼的に真実を見据えることが求められる。ロランスが囚われた呪術的風習、弁護士が終盤で示したマイクロキメリズムも、物語を重層的な世界に導いていた。

 妊娠中している母親と胎児の関係など、俺が理解出来るはずもない。ハードルが高く、感想を述べることさえはばかられる作品だった。次に観賞するのもフランス映画だが、本作と比べてわかりやすい気がする。
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