酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

現在のロシアを穿つ「動物農場」

2022-05-31 21:36:36 | 読書
 前稿末のダービー予想は案の定、大外れとなった。アスクビクターモアは3着(7番人気)と健闘したが、1、2着馬を買っていないのだからどうしようもない。これからも年金生活者らしく、レースを絞って少額投資というスタイルを貫きたい。

 ロシアのウクライナ侵攻以降、関連する内容を綴ってきた。ジョージ・オーウェルについては伝記を紹介した4月16日以降、2度目になる。今回は学生時代以来、40年以上を経て再読した「動物農場」(1945年)について記すが、NHKで放映されたドキュメンタリー2本を枕で紹介したい。

 まずは「映像の世紀バタフライエフェクト~スターリンとプーチン」から。両者の連鎖を描いている。スターリンについては本題と重なるので、後半に記したい。興味深いのはプーチンの生き様だ。プーチンは1952年、レニングラードで生まれた。柔道に熱中し、岸惠子原案(出演も)の日仏合作映画「スパイ・ゾルゲ 真珠湾前夜」(1961年)に感動して諜報員を目指す。

 KGB入局を果たし、派遣された東独でベルリンの壁崩壊を目の当たりにする。自身を支えていた理念の崩壊を覚え、KGBを辞めた。故郷でタクシー運転手をしていたプーチンに転機が訪れる。レニングラード市長選に立候補した恩師の右腕として市庁舎に入り、たちまち副市長に昇格や、その手腕が中央にも伝わり、96年には大統領府入りする。

 クレムリンの汚職疑惑を追及する検事をえげつない手を使って失脚させ、エリツィンに恩を売った。首相就任後はテロの自作自演で人気が上昇する。タクシー運転手から9年、2000年に大統領まで上り詰めたのだ。オリガルヒ(新興財閥)を弾圧して喝采を帯びたが07年、EUとNATOに牙をむく。現在に至るロシアの闇を抉ったのが「ワグネル 影のロシア傭兵部隊」(フランス制作)だった。

 ワグネルは傭兵部隊ながら実質はロシア軍で15年、親露派が力を持つウクライナ東部ドンバスに派遣された。創設者はヒトラー信奉者で元ロシア特殊部隊将校のウトキン、財政的バックボーンは下獄したオリガリヒのプリゴジンで、プーチンと親交が厚い。情報操作に長け、米大統領選でトランプに与したことでも知られる。

 ロシア軍の戦争犯罪が問われているが、ワグネルはシリアなど各国で、ロシアの尖兵として残虐行為も厭わない。とりわけ中央アフリカ共和国では実質的な支配者として、資源確保に取り組んでいる。ちなみに、反プーチンの急先鋒も元オリガリヒのホドルスフスキーで、ジャーリストたちに資金を提供している。

 プーチンの現在は、「動物農場」が戯画化したロシア革命に遡及する。内容について多くの方がご存じの通り、ロシア革命を導いた革命家が登場する。政治家に擬せられているのは豚だ。人間が経営する農場での収奪に抗議の声を上げたのは雄豚メージャーで、モデルはレーニンだ。

 メージャーには2人の後継者がいた。狡猾で政治的根回しがうまいナポレオンのモデルはスターリンだ。戦争のヒーローでアイデア豊かなスノーボウルはそのままトロツキーだ。現実の通り、スノーボウルは裏切り者の汚名を着せられて追放される。権力掌握後、ナポレオンの代弁者として動物たちを騙すスクィーラーのモデルはモロトフだ。

 亡命先のメキシコで暗殺されたトロツキーだが、世界革命を志向し、芸術に理解が深かった。死後も支持は国外に広がり、日本でも60年安保、その後の熱い時代を主導したのはトロツキーの流れを酌む者たちだった。オーウェルは義勇軍としてスペイン市民戦争に赴くが、加わったのはトロキストのPOUMだった。

 映画「赤い闇 スターリンの冷たい大地で」で描かれていたのは<ホロモドール>だった。1932年から33年にかけ、スターリンは計画経済の成果を改竄するため、ウクライナの農作物を強制的にモスクワに送る。1000万超の餓死者が出たジェノサイドを告発したのが英国人記者のガレス・ジョーンズだ。「赤い闇――」は、「動物農場」執筆中(1945年)のオーウェルのモノローグで始まる。

 ガレスによってホロモドールの惨状を知り、スペイン市民戦争で共産党の醜い体質を体感したオーウェルが「動物農場」執筆に至ったのは必然の成り行きだった。本作に重なるのが、1940年に公開された「独裁者」だ。チャップリンはヒトラーを徹底的にこき下ろし、世界中で称賛を得た。

 ところが、オーウェルは違った。<共産主義は未来への光>、<ドイツを敗戦の追い込んだスターリンはヒーロー>……。これは民主主義を標榜する知識人の常識だった。ガレスの告発も大メディアに無視され、オーウェルも〝反共主義者〟と叩かれる。伝記によれば、身の危険を感じたこともあったという。日本人では石川達三が、ソ連と中国を訪問後(56年)、<「一九八四年」というのは悪い小説だ。大変なデマゴーグである>と記している。

 「動物農場」が発表された1945年、どこまで腐蝕がソ連内で進行し、伝えられていたのかわからない。多くはメディアの忖度で伏せられていたはずだ。オーウェルは想像力で、近未来SFを書き上げた。その内容は現在のロシア、そして中国を穿っている。
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「マイスモールランド」~美少女の視線が穿つこの国の冷酷さ

2022-05-26 21:07:21 | 映画、ドラマ
 節約しなければならない年金生活者なのに、先週、今週と野球観戦(横浜)を挟み、落語会に足を運んだ。まずは「喬太郞・白酒・一之輔 三人会」(調布グリーン大ホール)から。

 柳家喬太郞「親子酒」→仲入り→春風亭一之輔「反対俥」→桃月庵白酒「鰻の幇間」と進む。足の不調で幕が上がった時、高座に〝板付き状態〟だった喬太郞が余分に重ねた座布団を放る。回収に現れた一之輔に客席は沸いた。「反対俥」は初めての演目だったが、一之輔は自由かつアクティブにアレンジしていた。「親子酒」と「鰻の幇間」はポピュラーな噺で、喬太郞と白酒の手練れの芸に聞き惚れた。

 6日後は「白鳥・三三 両極端の会」(紀伊國屋ホール)だ。三三「戦え!新型くん」→仲入り→白鳥「それゆけ!落語決死隊 コロナ退治」で進行する。オープニングとラストの2人の座談も面白い。互いに宿題を出し合うのが会の倣いで、コロナ禍の現在、健康をテーマにした新作を披露するのが16回目の趣旨である。互いを噺に盛り込むなど息はピッタリで、エキサイティングでありながら心和むイベントだった。

 さて、本題……。今回の戦争でキーワードに浮上したのが<民主主義>で、<気候正義>は後方に追いやられた感がある。日本も民主主義を掲げる先進国とされているが、実態は怪しい。俺は当ブログでEU加盟条件である死刑廃止と先進国では例を見ない選挙制度(とりわけ莫大な供託金)について取り上げてきた。先日発表された<報道の自由度>でも71位に後退している。

 代用監獄制度や刑務所の実態と合わせ、世界の人権団体の非難を浴びているのが、難民認定と入管での外国人の扱いだ。これらを後景に据えた「マイスモールランド」(2022年、川和田恵真監督)を新宿ピカデリーで見た。本作は埼玉県在住のクルド人、チョーラク家の物語である。父マズルム、長女サーリャ(嵐莉菜)、次女アーリン、長男ロビンの4人家族だ。

 マズルムは故郷で反政府グループに所属しており、身の危険を感じて日本にやってきた。サーリャは普通の高校生として生活し、小学校教師になる夢を実現するためコンビニでバイトしている。平凡な生活は暗転する。難民申請が不認定になり、家族は在留資格を失った。マズルムは入管に収容され、非人道的な扱いを受ける。面会に訪れた山中弁護士(平泉成)に「冷房は効かないが、ご飯は冷たい」とジョーク交じりに打ち明けた。サーリャはバイトを打ち切られる。

 ロシアのウクライナ侵攻もあり、世界の難民は1億を超え、日本の難民認可は1%……。この現実をどう捉えればいいのか。外交でも日本政府は権力側とのみ癒着する。<お上に従わないのは不届き者>という思考が日本人に染みついているのだろう。そんなことを理屈っぽく綴るつもりが、冒頭で吹き飛んだ。

 サーリャ、即ち嵐莉菜がアップになるや、俺の心はキューンとなる。半世紀以上、映画を見てきたが、こんなことは覚えている限り2回目だ。日本で10年のタイムラグを経て1986年に公開された「ピクニックatハンギングロック」を見た時も、ヒロインの美しさに打ちのめされた。

 サーリャの一挙手一投足に俺の目は引き寄せられる。ジェンダー、多様性が俎上に載せられる現在、このような感じ方は〝愚か〟と断罪されることも承知した上で、冷静に嵐の演技を観察した。哀しみ、憤り、希望、夢、家族に寄せる思い、そして聡太(奥平大兼)との淡い恋……。スタッフと綿密に打ち合わせたのだろう。人間としての自然な感情が表現されていた。

 帰宅してHPをチェックし、等身大の演技の理由の一端を知る。作品で共演したのは現実の家族でもあったのだ。嵐の父、マズルム役のアラシ・カーフィザデーはイラン、イラク、ロシアのミックスで、母は日本とドイツにルーツを持つ。サーリャは作品前半、自身をドイツ人と話していた。さらに川和田監督は、英国人と日本人のDNAを引き継いでいる。本作が多様性とアイデンティティーの追求を内包しているのは当然といえるだろう。

 フィンランドとスウェ-デンがNATO加盟を申請する。トルコのエルドアン大統領は「両国内で活動しているクルド人活動家を引き渡さない限り認めない」と難色を示した。クルド人とは主にトルコ、イラク、イランに暮らす山岳民族で、国は持たない。作品中でもサーリャやマズルムが聡太にレクチャーするシーンがある。お薦めの小説はクルド人をテーマに描いた船戸与一著「砂のクロニクル」だ。

 本作は上段に構えて日本の行政の冷酷さと融通の利かなさを説くのではなく、家族の目線で物語を紡いでいる。家族でラーメンを食べるシーンが印象的だ。クルド人としての伝統に固執するマズルムだが、自分を犠牲にすることで家族を守ろうとする。

 サーリャと聡太が一緒に絵を描くシーン、東京と埼玉の境界線に押された2人の手形に、作る側の思いが表れていた。撮影は「ドライブ・マイ・カー」の四宮秀俊である。川和田は是枝裕和、西川美和が所属する映像グループの一員で、是枝は製作にも関わっている。嵐莉菜を巡って是枝の元に、世界の映画人から出演依頼の声が寄せられるかもしれない。

 最後に、ダービーの枠番が確定した。馬券圏内なら殆どの出走馬に可能性がありそうで、騎手を軸に大混戦を予想したい。先週のオークスでは不可解に思えた騎手交代があった。オークスでは馬主や厩舎との友情を優先したと思われる川田の⑫ダノンベルーガ、騎乗馬がなくなった田辺の③アスクビクターモア、そして川田からレーンに乗り替わる⑰ロードレゼルの3頭を考えている。自信は全くない。
※追記 もう一頭挙げれば⑨ジャスティンパレスかな。
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「女のいない男たち」~村上春樹と30年ぶりに再会

2022-05-21 23:01:59 | 読書
 別稿(1月21日)で映画「ドライブ・マイ・カー」を紹介した。サブタイトル<癒やしと再生の崇高な物語>が示すように、同作に深い感銘を覚える。「ドライブ――」を含め、ベースになっている「シェエラザード」と「木野」が収録されている村上春樹の短編集「女のいない男たち」(2014年、文春文庫)を読了した。

 長文の<まえがき>によると、全6編を繋ぐビーズは<様々な事情で女性に去られてしまった男たち、あるいは去られようとしている男たち>で、書き下ろしのタイトル作として最後に収録されている。村上のパブリックイメージ<喪失と孤独を描く>が全編に染み渡っていたが、「ダンス・ダンス・ダンス」を最後に、30年以上も村上を読んでいない俺に、的確な批評は難しい。

 村上となぜ距離を置いていたのか。戦後文学を牽引した開高健、安部公房、高橋和己、石川淳、三島由紀夫らの多くを読み残していたし、ポール・セローら北米の作家たち、バルガス・リョサとガルシア・マルケスら南米の巨匠たち、ギュンター・グラスに対象が移った。俺は臍曲がりだから、凄まじい売れ行きとハルキストたちの絶賛に鼻白んでいた。

 俺は離れたところから「女のいない男たち」を論じることにする。まずは♯1「ドライブ・マイ・カー」から。どうしても映画を重ねてしまうが、俳優である家福は亡くなった女優の妻が他の男たちと関係があったことを知っている。〝最後の恋人〟である高槻は、映画では岡田将生が演じており、それなりに説得力があったが、原作では中年の俳優である。

 家福と妻は強い絆で結ばれていた。だから、感性と知性に溢れた妻が平凡な高槻と寝ていたことに納得がいかない。そして、いわば〝共犯〟であることを暗黙の了解として、家福と高槻は何度も酌み交わす。♯5「木野」で提示される<人間の両義性>について両者は考えた。家福が<自分は妻の最も大切な一面を理解していなかった>と語り、それを盲点と表現する。高槻は<誰かを完全に理解するのは無理。人は全て盲点を抱えている>と返した。

 どうしてあの人は、あんな男と……。男は何度もこんな理不尽に思い悩む。ドライバーのみさきの反応が面白かった。映画で演じた三浦透子は小説を忠実に映像化したかのようだったが、女の揺れを<病>と表現し、受け入れ、呑み込むしかないと家福に語る。俺は本作を<女性という謎に惑う男の普遍的な恋愛小説>と受け取った。

 「女のいない男たち」収録作は村上が64~65歳の頃に発表された。普通なら枯れているはずだが、本作にはセックスに関する描写が多い。むろん、俺は〝村上初級者〟だから、他の作品と比べることは出来ない。♯2「イエスタデイ」は性の匂いは淡いが、村上が早稲田時代を振り返った青春小説の趣がある。

 大学2年の谷村は兵庫・芦屋出身だが標準語を話す。バイトで知り合った木樽は田園調布生まれだが、コテコテの関西弁で話す2浪生だ。ビートルズの「イエスタデイ」に関西弁の訳を付けて歌っている木樽は、恋人のえりかとのデートを提案する。えりかは谷村に、自分が繰り返し見る夢を話した。その中に出てくる<下半分が沈んでいる月>を、他者が理解出来ない部分と捉えることも可能なのか。

 十数年後に谷村はえりかと再会し、アメリカを流浪する木樽の消息を知る。木樽は日本に定着出来ない自由な魂の表象といえるかもしれない。その谷村は♯3「独立器官」の語り手だ。親しくなった独身の美容整形外科医で、複数の女性と付き合っている度会は。ひとりの女性(人妻)に肩入れし死を選ぶ。谷村はその女性が他律的な<特別器官>の働きで嘘をつき、度会は<特別器官>の機能で恋に落ちたと想像する。

 ♯4「シェエラザード」で主人公の羽原は外界と閉ざされた施設で暮らしている。そこを週2回訪ねてくるのがシェエラザードという名の女性で、羽原と体を重ねる。その後のピロートークは映画「ドライブ・マイ・カー」で妻が家福、そして高槻に聞かせる物語と一緒だ。不思議な設定で、羽原は何者か、シェエラザードはいかなる〝使命〟を帯びているのかわからない。

 ♯5「木野」の冒頭、主人公が目撃したのは映画「ドライブ・マイ・カー」で家福が妻の情事を目撃した場面に重なる。そういえば♯1で家福と高槻が訪れる<灰色のやせた猫が丸くなって眠っていたバー>の経営者は木野だった。全6編、とりわけ「木野」のキーワードになっていたのが<両義的>だった。官能的な客の女性との交わり、姿を消した猫と代わりに店の周辺に現れる蛇……。そして罪の匂いがする常連客の助言で木野は旅に出る。この辺りの展開に、村上と縁の少ない俺は、惑いながらページを繰るしかなかった。

 ♯6の表題作「女のいない男たち」も奇妙な設定だった。僕は深夜、ある男の電話を受け、男の妻、即ちかつての恋人が自殺したと聞かされる。僕が便宜的に「エム」という女性とはかなりの間、没交渉で、結婚していたことさえ知らない。僕が付き合った女性で自殺したのは3人目だった。

 僕と彼女を巡って現実と空想が混濁してくる。二人は生物の授業で、消しゴムをきっかけに「十四歳のときに出会った」。いや、「本当はそうじゃない」……。人間の持つ多面性、表層と隠れている部分がパラレルに入り組み、物語は進行する。両方の隙間を抱えることが生きる意味になる。

 <一人の女性を失うというのは、すべての女性を失うことでもある。そのようにして僕らは女のいない男たちになる>……。後半でこのように記されている。この辺りの記述に、村上が共感を得る理由が窺える。俺は緊張を保って6編を読了したが、登場人物にアイデンティティーは感じなかった。俺は村上と遠い場所で迷っているのだろう。
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「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」~時代と闘った清冽な魂

2022-05-16 18:00:19 | 映画、ドラマ
 ロシアのウクライナ侵攻以降、世界は戦争モードに転換した。フィンランドに続きスウェーデンもNATO加盟が決定的で、欧州各国は軍事費増強の方向だ。100年前はどうだったのか。当時はスペイン風邪が蔓延し、現在はコロナ禍だ。1917年にロシア革命が起き、翌年に第1次世界大戦が終結した。

 日本では大正デモクラシーで自由の気風が広がったが、米騒動、関東大震災と大きな事件が続き、格差と貧困が拡大し、社会主義が浸透する。<1925年の治安維持法成立で抗議の声が弾圧された>という〝通説〟は誤りで、施行直後の1920年代後半から30年代半ばにかけ、農民や労働者の決起が燎原の火のように広がる。生活実感と表現主義やシュルレアリズムが結びついていた。

 時代に抗った女性に焦点を定めた映画をポレポレ東中野で見た。「わが青春つきるとも-伊藤千代子の生涯-」(2022年、桂荘三郎監督)である。1905年、信州・諏訪で生まれた伊藤千代子は東京女子大に進み、社研に所属して治安維持法の下、変革に立ち上がる。千代子を演じたのは井上百合子だ。

 彼女を含め同志たちの明るさに違和感を覚えたが、〝暗い閉塞の時代〟という刷り込みに囚われているからかもしれない。ショーガールやマネキンガールまで隊列に加わったように、抵抗運動はカラフルだった。本作では前半と後半でトーンが大きく変わる。ささやかな希望が、暗澹たる闇に落ちていくのだ。

 千代子をサポートした歌人の土屋文明(金田明夫)が大学で講義する際、千代子を悼むシーンから本作は始まる。諏訪の女学校、そして東京女子大でも千代子は人望があった。代用教員時代、貧困家庭の少女と弁当を分け合うなど、社会の矛盾に気付いたことが出発点だった。

 千代子は、東大新人会出身で〝左翼のホープ〟浅野晃(窪塚俊介)と結婚する。共産党と友好関係にあった労農党を夫妻揃って支援するなど固い絆で結ばれていたが、三・一五事件でともに検挙される。千代子は特高刑事(石丸謙二郎)らの凄まじい拷問にも耐え、獄中でもリーダーとして仲間を励ました。

 千代子を絶望に陥れ、狂気に追いやったのは浅野の転向だった。拘禁精神病で松澤病院に収容され、肺炎で亡くなる。享年24、清冽な青春だった。千代子を絶望の淵に追いやった浅野を責めることも可能だろう。だが、我が身に翻って考えると難しい。俺など、僅かな拷問にも屈し、身上書を提出し、権力に寝返ることは確実だ。

 転向については様々な論考が記されている。吉本隆明の「転向論」は<日本近代社会の本質を掴み損なったインテリは、劣悪な社会と妥協し、屈服するしかなかった>(要旨)と論じていた。<大衆の原像>を追求した吉本は、転向した者たちの心情にあったのは<大衆との乖離>ゆえの孤独と考えたのではないか。

 千代子が獄中で同志とともに歌うシーンがある。千代子の合図で囚われた女性たちが革命家を合唱する。神々しいロシア革命について、伊藤野枝は3年後、<中心と上下に縛られていた>と批判している。1921年に来日したバートランド・ラッセルが「好ましいと思った日本人はたった一人。伊藤野枝という女性」と語っていたことは、「村に火をつけ、白痴になれ~伊藤野枝伝」(2014年、栗原康著)に記されている。

 全共闘世代、そして俺と年齢が変わらず、上記の吉本、高橋和己を読み、大島渚の映画に親しんだ方は、「わが青春つきるとも――」に入り込めなかったはずだ。共産党色が強過ぎるからである。とはいえ、千代子の最期に胸が苦しくなる。野枝と大杉栄、山本宣治や小林多喜二、鶴彬……。立ち位置は異なっても、抗議の拳を振り上げ、斃れた無数の魂に感謝の思いを捧げたい。

 ラストは1945年、敗戦直後だ。千代子の後輩が夫と子供を連れ、千代子の墓を詣でる。後輩は「あなたが夢見た民主主義、男女平等の社会になった」と報告する。だが、この国の形を変えたのは民衆ではなくGHQだった。そのことが日本の閉塞感の要因だ。

 治安維持法と同時に成立したのが普通選挙法の精神は、今も受け継がれている。莫大な供託金、そして候補者と有権者を分断する公職選挙法は先進国(OECD加盟国)ではあり得ない民主主義の阻害要因になっている。俺もまた、無気力、沈黙、ニヒリズムに溺れ、声が涸れてしまった。
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「オールド・ボーイ4K」~ラストに救いはあるか

2022-05-11 20:24:17 | 映画、ドラマ
 将棋の対局番組では、画面上部にAIの形勢判断が提示されるが、時にドラスチックな数値の乱高下に目が点になる。そして、前稿の最後、王座戦挑戦者決定トーナメントで大橋貴洸六段に敗れた藤井聡太5冠について、<珍しく失着があったのか>と記したが、解説動画によると、金の位置を微妙に間違えたらしい。

 NHK杯では千田翔太七段が終盤、金の逃げ場所を誤って一気に敗勢となり、杉本和陽五段に逆転される。名人戦では3連勝目前の渡辺明名人が、万全を期す受けが緩手で、斎藤慎太郎八段の逆襲に屈する。藤井と千田は秒読み、渡辺は余裕と理由は異なるが、AIの使い手として知られる棋士たちが〝人間の証明〟をした。将棋とは<頭脳と魂を懸けた格闘技>なのだ。

 格闘性が高いといえば韓国映画だ。新宿武蔵野館で「オールド・ボーイ4K」(2003年、パク・チャヌク監督)を見た。21世紀に入り、周りから韓国映画を薦められたが気乗りせず、本作も見逃していた。ブログで最初に紹介した韓国映画は「母なる証明」(2009年、ポン・ジュノ監督)だった。ベストワンを選ぶなら「息もできない」(08年、ヤン・イクチュン監督・主演)だ。

 さて、本題……。「オールド・ボーイ」はカンヌ映画祭でパルム・ドールに次ぐ審査員特別グランプリに輝くなど評価を確立している。ご覧になった方も多いので、ネタバレはご容赦願いたい。俺は韓国映画のテンションには慣れているから、本作にさほどの〝ショック〟はなかったが、強烈なインパクトの原点がどこにあるかが理解できた。

 主人公のオ・デス(チェ・ミンシク)はおしゃべり、酒癖が悪いという欠点はあるものの、どこにでもいるサラリーマンだ。些細なことで警察の厄介になった雨の夜、妻と娘が待つ家に帰る途中、電話ボックスで拉致される。監禁は15年に及び、7月1日に解放された。復讐に駆られたオ・デスは真相を突き止めようと疾走する。謎めいた男イ・ウジン(ユ・ジテ)に5日間の期限が与えられたが、オ・デスは監禁中、記憶を操作されていた。

 オ・デスは寿司屋で若い女性職人ミド(カン・へジョン)と知り合い、急接近する。両者の周りに怪しげな人間が次々に現れ、少しずつかつての記憶が甦ってくる。復讐劇の主人公のはずが、自身もまた復讐の対象であるという真相に行き当たった。朝鮮半島に根付く<恨の精神>が迸る作品と感じたが、ネットでチェックして、意外な事実を知る。何と原作は日本の漫画「ルース戦記オールドボーイ」(作=土屋カロン、画=嶺岸信明)だったのだ。

 本作の肝ゼリフは<心は獣にも劣る人間ですが、生きる権利はあるんじゃないですか>で、オ・デスとイ・ウジンがそれぞれ口にする。〝獣〟の意味に重なるのは「嘆きのピエタ」(12年、キム・ギドク監督)で、原罪を問い、慟哭と不条理に彩られた深淵を描く韓国映画の嚆矢が本作だ。

 韓国映画といえば骨の軋みがスクリーンから洩れてくるアクション、目を覆いたくなるような残酷なシーンが多い。歯をペンチで抜いたり、舌を切り落としたりと、心まで痛くなるシーンがちりばめられていた。寿司屋でオ・デスが生きたままのタコを貪り食う場面も強烈だった。さらに、現在なら当たり前になっている意識操作も重要なツールになっている。

 全てが明らかになった後、オ・デスはある決断をする。癒やし、救い、そして祈り……。自分に〝生きる権利〟があるのかを確かめるのだ。愛と罪の意味を考えさせられる作品だった。

 是枝裕和監督の次回作「ベイビー・ブローカー」は韓国人のスタッフ、キャストで製作された韓国映画だ。主要な出演者のひとり、ペ・ドゥナはシュールな「空気人形」(09年)に主演するなど是枝とは旧知の仲だ。上記したポン・ジュノ監督は是枝との対談で、故樹木希林さんと広瀬すずへの関心を語っていた。映画の日韓交流第2弾というビッグニュースが飛び込んでくるかもしれない。
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GW雑感~オシム追悼、CL、そして憲法

2022-05-06 22:11:36 | 独り言
 イビチャ・オシム氏が亡くなった。享年80、最後のユーゴ代表監督である。内戦を生き抜いた偉大なサッカー指導者の冥福を祈りたい。オシム氏が残した名言の数々が今、関係者によってネット上にアップされている。俺も含蓄ある言葉に感銘を覚えていた。

 ユーゴ内戦では戦犯法廷(ハーグ)でセルビアのミロシェビッチ元大統領、指導者カラジッチ、軍司令官ムラジッチが断罪される。「スプレニツァの虐殺」にジェノサイド罪が適用され、集団レイプは人道に対する罪と認定された。セルビア人に偏った点に批判はあったが、戦争犯罪を裁く基準が設定されたことは事実だ。だが、プーチン大統領を裁くには国内で失脚し、逮捕に追い込むしかない。

 オシム氏はユーゴ監督時代、民族間の対立を緩和するため様々な手段を講じたが、時代の波に翻弄された。今風に言えば、サッカーで多様性を追求したように思える。日本代表監督時代、<日本サッカーの日本化>を掲げたが2007年、66歳の時に脳梗塞を発症し、退任することになった。昨夏、64歳で発症した俺とは〝脳梗塞つながり〟だったのだ。

 仕事から離れ、欧州チャンピオンズリーグを暇にあかして観戦している。準決勝ではリバプールが5対2(2戦合計)でビジャレアルを破ったが、レアル・マドリードの大逆転は衝撃だった。レアルは決勝T入りしてからパリ・サンジェルマン、チェルシーに押されていたし、クラシコ第2戦ではバルセロナに0対4と完膚なきまで叩きのめされている。

 内容的にもマンチェスター・シティが押していたが、終了間際に2点を決め、延長で勝利を収めた。シティは決めどころで外していたし、守備に集中を欠いた点もある。でも、そんな理屈を超えた伝統の力を世界に見せつけた。決勝がどんな戦いになるか楽しみだ。

 大谷がレッドソックスを7回無失点で3勝目を挙げた。11奪三振は普通も、無四球という点に、大谷の進化が窺える。フェンウエイ・パークで驚いたのはレッドソックスのクローザーの入場曲。何と引退したアンダーテイカー(WWE)のテーマを使っていた。プロレス史上に輝くレジェンドの知名度を再認識させられた。

 5月3日、有明防災公園で行われた憲法集会に1万5000人が参加した。俺も芝生の端っこに座り、アピールに耳を傾けていた。ロシアのウクライナ侵攻は副産物を生み出した。軍拡の嵐である。日本でも憲法9条改正が声高に叫ばれ、護憲派の危機感は臨界点に達している。

 当ブログで、<ドローンなどの最新兵器の導入で戦争の形は変わりつつあるのではないか>と記してきた。この間のロシアのウクライナ侵攻を見ても兵器の進化は著しいが、ユーゴ内戦時と変わらぬ白兵戦で、ジェノサイドと集団レイプが行われている。戦争が人間を獣にするという原則はそのままなのだ。

 かつて是枝裕和監督はドキュメンタリー「シリーズ憲法~第9条・戦争放棄〝忘却〟」(06年)で、9条の根底にあるのは<加害の意識>と論じていた。かつて日本軍がアジアで行ってきた戦争犯罪を忘却することが、結果として9条の精神を脅かすと是枝は説く。この点を踏まえ再度、憲法を捉え直す必要がある。

 そして、<平和憲法があったから、日本人は手を血で汚すことがなかった>という俗論を検討しなければならない。日本は戦後、朝鮮戦争、ベトナム戦争で米軍の兵站基地だったし、イラク侵攻時には沖縄から数千人の海兵隊員が戦地に赴いている。沖縄の基地問題に目を背けて〝平和憲法〟を語る意味がない。

 ロシアのウクライナ侵攻について、<プーチン=絶対悪>が常識になった。むろん、的を射ている部分もある、NATO(=アメリカ)、EUが悪と戦う善とすることに無理がある。問題を歴史的、包括的に捉える論考に出合えればと願っているが、日本人がウクライナの人々に寄り添うためには、戦争放棄を説く9条を守ることが第一だ。

 ジェンダー、沖縄、貧困問題を説く識者のアピールが続いた。日本国憲法を織り成す糸が紡がれているのを感じた。デモには加わらず中座したが、憲法の現在を自問する集会だった。

 王座戦挑戦者決定トーナメントで大橋貴洸六段が藤井聡太5冠を破り、対戦成績を4勝2敗にする。AIの評価値で藤井が逆転したかと思ったが、珍しく失着があったのか、数字が乱高下して押し切られた。プロ入り同期の大橋は、この日もピンクの上下と派手ないでたちで知られるが、回り道して奨励会を抜けた後はB級2組まで昇級している。藤井キラーとして存在感は増すばかりだ。
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「ニトラム/NITRAM」~マーティンと俺との微差

2022-05-02 21:38:07 | 映画、ドラマ
 20代の頃、俺は自分が思って以上に暗く危うかった。大卒後、引きこもっていた頃に知り合った友人は、「おまえ、爆弾でも造ってるんとちゃうか」と笑いながら話した。俺のアパートに来た女性は後に、「レイプされると思った」と振り返った。両親は実家で、朝刊を開くのをためらったという。俺の名前が事件絡みで載っている気がしたからだ。

 新宿シネマカリテで「ニトラム/NITRAM」(2021年、ジャスティン・カーゼル監督)を見た。1996年、オーストラリアの観光地ポートアーサーで起きた銃乱射事件で35人が死亡し、23人が負傷する。当時27歳だった犯人のマーティン・ブライアント(ケイレブ・ランドリー・ジョーンズ)の半生を追っていた。

 カーゼル監督と脚本のショーン・グラントのコンビが製作した「トゥルー・ヒストリー・オブ・ザ・ケリー・ギャング」(19年)については別稿で紹介した。ケリーは今も英雄視されているが、マーティンはタブーになっている。原題の「NITRAM」はマーティン(Martin)を逆さ読みしたもので、同級生から呼ばれた蔑称だった。〝のろま〟〝鈍い奴〟の意味が込められている。

 マーティンは幼い頃から火に対する執着が強く、大人になっても花火を大量にあげて住民の罵声を浴びている。無職だが、何かしなければという焦りはある。海辺の街でマーティンがコミュニケーションのツールと考えたのはサーフィンだが、画面を見る限り技術は全くない。普通になりたいという願いが叶う可能性は狭まっていた。

 <(俺の)両親は実家で、朝刊を開くのをためらったという>と上記した。家族に心配をかけた俺ゆえ、マーティンの両親との関係を注視していた。父(アンソニー・ラパーリア)はマーティンを保護し、絆を築こうと努力する。父子によるペンション経営を計画していたが、資金を調達したものの、老夫婦に先を越されてしまう。これが犯行のひとつのきっかけになった。

 「トゥルー・ヒストリー――」でも背景に描かれていたが、本作の最大のテーマは母(ジュディ・デーヴィス)とマーティンとの関係かもしれない。母は常に支配的に振る舞う。〝あの子を一番理解している〟との自負は、マーティンとヘレン(エッシー・デイヴィス)との出会いで揺らぐ。マーティンは偶然訪れたヘレン宅で便利屋として働くようになり、そのうち住み込むようになる。

 ヘレンは20歳以上も年上の富豪の女性だ。母と対照的にあるがままのマーティンを受け入れる。性的な関係はなく、友達として家をシェアしている。本作のハイライトは母とヘレンが会話するレストランのシーンだ。ヘレンとマーティンはアメリカ旅行を計画するが、事故で頓挫する。ヘレンは財産を遺して亡くなった。

 俺はなぜ新聞に載らず、マーティンは世界を賑わせたのか……。決定的な違いに思えるが、果たしてそうだろうか。何かを共有しているが、それは一体何なのか。ヘレン、そして父の死で大金を得たマーティンは銃を購入する。それも、実に簡単だった。監督と脚本家は本作で銃規制を訴える意図があったとコメントを寄せている。

 犯行を決意したマーティンはラスト近く、鏡に写った自分にキスをして、ヘレンが飼っていた数匹の犬を放す。自己の発見と解放と深読みすることも可能だが、あれこれ理屈をつけることに意味はない。本作は人間の心の闇を彷徨する作品だった。

 もう一度、我が身を顧みる。俺を〝犯罪者予備群〟にとどめてくれたのはロックだったのかもしれない。「MUST BE UKTV」という音楽番組がNHK・BSプレミアムで再放送されている。かつての記憶、青春時代の傷が口をあけ、ノスタルジックな感傷が甦ってくる。俺はロックに癒やされ、救われていたのだ。
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