酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

ノスタルジーと侠気で、しっとり濡れたフジロック

2014-07-28 23:57:17 | 音楽
 星稜が0―8のビハインドから9回裏、9点を奪って甲子園出場を決めた。Youtubeで映像を見たが、小松大谷は小さな揺れが増幅し、エアポケットに降下したとしか言いようがない。

 野球で奇跡が起きたのだから、政治でもと期待してしまう。読売(日テレ)、産経(フジ)、日経、NHK、文春、新潮ら御用達メディアに支えられている安倍首相だが、地方紙の論調は大きく異なる。9割は集団的自衛権に「NO」を突き付けるなど、政権に批判的なのだ。地方からの叛乱が数年後、地殻変動を起こすかもしれない。

 一昨日(26日)、4年ぶりにフジロックに参戦した。未明まで仕事をし、たっぷり眠って午後1時すぎの新幹線に乗り、帰りはツアーバスで朝4時半に新宿着という、ゆったりした旅程である。日帰りに限定すれば、サマソニより楽というのが俺の感想だ。

 雨に備えて折り畳み傘とレインコート、Tシャツ3枚にタオル2枚、暇つぶしの文庫本、シリアル2種、膝痛が悪化した時の消炎剤を詰めて準備万端のはずが、会場入りして愕然とする。携帯用の椅子を忘れていたのだ。

 グリーンステージに着くと同時に、トラヴィスが現れた。2nd「ザ・マン・フー」(99年)、3rd「インヴィジヴ・バンド」(01年)は愛聴盤で、キャッチーで泣きの入ったヒットチューンが、和気藹々と演奏されていく。実年齢(41歳)よりかなり老けて見えるフロントマン(フラン・ヒーリー)に親近感を覚えた。

 湿った風が心に吹くまま、ホワイトステージに足を運ぶ。ザ・ケミスツが超弩級のビードを刻んでいたが、「こりゃ、ついていけん」と独りごち、フィールド・オブ・ヘヴンに向かう。その途中、森の中のステージ(木道亭)から女性の澄んだ声が聴こえ、しばし足を止める。児玉奈央という知らない歌手だった。思いがけない出合いもフジロックの魅力である。

 ヘヴンでサンハウスを見た4年前、軒を連ねる雑貨店でサパティスタのTシャツを購入した。映画「アモーレス・ペロス」に描かれた反グローバリズムのラディカルな団体である。今回は少し様子が違い、グレートフル・デッド、フィッシュといったヒッピー、ボヘミアンの薫りがする品々が展示されていた。俺はネイティヴアメリカンへのオマ-ジュが窺えるTシャツを購入する。イートだけでなくショッピングも満喫出来るのがフジロックで、反原発や環境保護を訴えるNGOもブースを出していた。

 ヘヴンから流れてきたのはルミナーズだった。フォーク、ブルース、カントリーといったルーツミュージックを取り入れ、掛け声や手拍子を交えて楽しそうに演奏している。俺には縁のない音だが、暮れなずむ光景にぴったりハマって、立ち食いしながら聴いていた。レッドマーキーで〝時代の先端〟セイント・ヴィンセントを見るつもりだったが、遠いこともあり、その気はすっかり失せていた。

 今回のテーマはノスタルジーと侠気(おとこぎ)になり、最後までルミナーズを聴いてホワイトに向かう。マン・ウィズ・ア・ミッションで聴衆は異様なほど盛り上がっていたが、彼らが袖に下がると聴衆は潮が引くように消えて去っていく。

 続くビッフィ・クライロは、閑古鳥が鳴く中で演奏することになるかもしれない……。悪い予感が脳裏をよぎったが、何とか格好がつく入りで、ビッフィがステージに登場する。グラストンベリー'13のピラミッドステージでヘッドライナーを務めたビッフィだが、彼我の人気の差は大きい。男臭いバンドに湿った情感を揺さぶられ、ロックと出合った頃の衝動が甦った。

 別稿に記した通り、グリーンのアーケイド・ファイアで締めくくり、同時間帯(ホワイト)のマニック・ストリート・プリーチャーズを諦めるというのが、当初の予定だった。CDの売れ行き、メディアの評価、フェスでの位置付けと、アーケイドが現在、〝世界最高のバンド〟であることは疑うべくもない。

 <ロックの境界を広げる雑食性のバンド>は苗場でも、開放的で祝祭的なステージで聴衆を魅了するだろう。俺はコーチェラに加えグラストンベリーのパフォーマンスを繰り返し見てたっぷり予習したが、それが逆効果になる。すっかりアーケイドを〝消化〟した気分になったのだ。「ロッキンオン」のHPでは数人がアーケイドを絶賛していたが、すべて想定内の言葉で綴られていた。

 ホワイトに居残り、マニックスを見ることにした。そもそも俺は、マニックス一家に草鞋を脱いでいる。義理を欠いては、この世は生きていけない。「ロッキンオン」は無視していたが、研ぎ澄まされたマニックスに心が熱くなる。向かって左は失踪したリッチーのために空けてあったが、今回はサポートメンバー2人が立ち、音に厚みを加えていた。

 3・11直後は「輝ける世代のために」、翌年の妹の死に際して「エヴリシング・マスト・ゴー」が脳裏に鳴り響いていた。ガザ空爆が繰り返される今、最も聴かれるべき「享楽都市の孤独」からスタートしたマニックスは、ロックを武器に世界と対峙するという高邁な志を維持している。

 当日になってスケジュールを成り行きで変更したが、疲労もさほどなく、充実した一日だった。ぜひフジに呼んでほしいのはパール・ジャムである。彼らがブッキングされたら、万難を排して足を運びたい。
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「パガニーニ」~愛の深淵に迫るロックムービー

2014-07-24 23:10:54 | 映画、ドラマ
 22日付朝日新聞1面に写真が載った。キャンドル・アクション「STOP! 空爆~ガザの命を守りたい~」(21日、明治公園)を空中から写したもので、俺は「GAZA」の最初の「A」を担当した。日本での抗議集会参加者は欧米の100分の1程度だが、当夜の映像はアルジャジーラを通じてパレスチナにも流れた。ガザの人たち、そして厳しい状況下で医療機関で働く人たちと心が繋がったことに誇りを覚える。

 昨日は三遊亭白鳥と柳家三三の二人会(紀伊國屋ホール)に足を運んだ。人気シリーズ「両極端の会」の8回目で、ソールドアウトの客席からの熱気に、演者も煽られていた。演目は三三が「豊志賀の死」、白鳥が「牡丹の怪」と、ともに圓朝怪談噺だ。

 王道を歩む三三は呪いに満ちたストーリーに軽妙さを織り込み、聴く者を和ませる。白鳥は「牡丹灯籠」を現在に置き換え、主人公は売れない若手噺家の柳家みみときた。「みみちゃん」は三三の愛称で、実在の噺家たちも次々に登場する。白鳥は過去、現在、そして未来も物議を醸し続ける<落語界のパンク>かもしれない。

 日比谷で先日、「パガニーニ 愛と狂気のヴァイオリニスト」(13年、ドイツ、バーナード・ローズ監督)を見た。本作で初めてパガニーニを知る。パガニーニを演じたのは、〝パガニーニの再来〟と称されるデイヴィッド・ギャレットだ。演奏シーンだけでなく、完璧な演技と肉体に驚かされた。モデルとして活動するギャレットは、莫大な稼ぎを含め〝音楽界のベッカム〟と呼ばれているらしい。

 ギャレットだけでなく、ヒロインのシャーロットを演じたアンドレア・デックもソプラノ歌手としてキャリアを積んでいる。彼女の父(指揮者)を演じたクリスチャン・マッケイもプロ級のピアノ奏者だ。ローズ監督自身、ミュージックビデオでキャリアをスタートさせ、「不滅の恋 ベートーヴェン」(94年)を撮っている。スタッフ、キャストの音楽への思い入れがケミストリーを生み、エキサイティングな作品が完成した。

 エンドロールが終わって明かりがついた時、同行した知人に「これはロック映画だ」と感想を漏らしたが、俺の直感は的を射ていた。ローズ監督はパガニーニを〝世界最初のロックスター〟として描いたという。ちなみにギャレットはメタリカの大ファンで、ジミ・ヘンドリックスに絶大なる影響を受けている。本作の白眉というべき酒場での演奏シーンで、ギャレットはギターを弾くようにバイオリンを奏でる。その姿はまるで、ジャック・ホワイトかマシュー・ベラミーだ。

 パガニーニだけでなく、同時代の音楽家たちも資質はパンクロッカーだった。モーツァルトは天衣無縫、自堕落を地で行き、恋愛中毒でギャンブル好きだった。ベートーベンは権威が大嫌いで、交遊があったゲーテが権力者にへつらう様子に辟易していたという。パガニーニはセックス、ドラッグ、ギャンブルに耽溺する<ロックンロール・バビロン>の住人だが、薬物吸引は持病からくる痛みを和らげるためであったらしい。

 パガニーニは当初、異端扱いで嘲笑されていた。その前に現れたのがウルバーニ(ジャレット・ハリス)で、両者の関係は、セックス・ピストルズとマルコム・マクラーレン、ビートルズ(とりわけジョン・レノン)とブライアン・エプスタインに重なる。ウルバーニは「私は悪魔ではない。悪魔に仕える者だ」と語っているが、パガニーニのシャーロットへの一途な思いを知った時、嫉妬と支配欲が剥き出しになる。

 確かにパガニーニは、ジム・モリソンのような悪魔性を秘めている。だが、本作に悪魔が登場するとしたら、パガニーニでもウルバーニでもなく、無垢だったシャーロットではないか。表現することへのピュアな思いを描いた本作は、愛の深淵を追求した至高の、そしてちょっぴり残酷なラブストーリーといえる。

 土曜日は未明まで仕事をして、午後からフジロックだ。俺の心を震わせる天使、もしくは悪魔と苗場で出会えるだろうか。
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台湾学生との交流会、ガザと連帯するキャンドル・アクションに参加して

2014-07-21 23:07:59 | 社会、政治
 緑の党入会から5カ月。知人にも党の印象を尋ねているが、リベラルや左派には概ね好評だ。教条的な共産党支持者は「ハエのようなもの」、頑迷な保守派は「怪しいカルト?」とにべもないが……。

 自公は最悪だが、消費増税、TPP、原発再稼働と輸出、辺野古移設と安倍政権に向けて地均しした民主党への不信感は拭えない。前原グループや道徳議員連盟最高顧問の野田前首相など、本籍は自民党なのだ。社民党が活力を失くした今、あくまで消去法ではあるが、緑の党は革新支持者にとって選択肢のひとつに浮上しつつある。

 目玉は前回参院選比例区で17万票余を獲得した三宅洋平氏だが、今は足腰を鍛える段階だ。生活に密着した課題――介護、福祉、保育、格差etc――を掲げ、各自治体で公認・推薦の議員が続々誕生中で、<国を変えるには地方から>を実践している。

 党事務所で昨日、台湾緑の党の金旻頎君を招いて交流会が開催された。19歳の金君は日本留学中だが、秋には帰国する。台湾における反原発やひまわり運動(立法院占拠)について報告があった。中国との協調を唱える国民党、独立独歩を模索する民主進歩党が台湾の2大政党で、緑の党の得票率は5番目という。

 ひまわり運動の発端は、国民党による両岸(中国と台湾)サービス貿易協定の強行採決だ。質の劣る中国製品の流入だけでなく、通信の自由制限など民主主義の根幹を揺るがせかねない内容が協定に含まれている。〝悪い中国〟の跋扈への警戒が世代を超えて広がっているのだ。

 台湾の人口は日本の5分の1だが、反原発集会には20万人以上が参加した。台湾の原発は台北、高雄といった大都市近くに位置しており、建設中の第四原発への不信感がとりわけ強い。3・11を目の当たりにすれば、日本企業が携わる原発が安心、安全なんて信じられないのは当然だろう。リン・チーリンら大スターが反原発を訴えてデモに参加している。政府と電力会社にメディアがコントロールされた日本とは大きな違いだ。

 台湾でも日本と同じく、緑の党は運動の軸になるほどの力を持たないが、〝接着剤〟の機能は果たしつつある。党員の3分の1を占めるのは学生で、新自由主義によって貧困が拡大した彼らは<崩世代>と呼ばれている。若者の政治参加を促しているのは、馬英九総統(国民党)の悪政(支持率9%)と格差への憤りといえる。

 「非情城市」(89年、侯孝賢)、「牯嶺街少年殺人事件」(92年、エドワード・ヤン)といった台湾映画に感銘を受けたことを金君に伝えると、「知りませんでした。レンタルで見ます」と答えていた。代わりに教えてくれたのが、台湾で話題になっている「KANO」である。日本統治時代の1931年、甲子園で準優勝した嘉義農林の実話に基づく映画で、日本人、台湾人、先住民の混成チームの奮闘を描いた作品という。来春の日本公開が楽しみだ。

 今夜は明治公園で開催された「STOP! 空爆~ガザの命を守りたい」に参加した。アムネスティ、宗教団体、JVC(NGO)、ピースボートなどの呼びかけで、イスラエルの蛮行に抗議する人々が集まった。ガザの死者は500人を超え、そのうち子供は100人以上という。カトリックの神父、モスクの導師、浄土宗の僧侶に加え、ユダヤ教のラビも代読の形でメッセージを寄せていた。

 前稿の冒頭に引用した辺見庸のブログの通り、現在行われているのはイスラエルによるジェノサイドだ。現地で医療活動に携わる人たちからの生々しいメッセージに、怒りが込み上げてくる。「あなたがここ(医療施設)で一晩過ごしたら、世界の歴史は変わるだろう」とのオバマ大統領への呼びかけが印象的だった。

 参加者(500人以上)にとって7時20分過ぎ、神宮球場で上がった花火は余興といえた。相前後してそれぞれがキャンドルを掲げ、「GAZA」の人文字をつくる。欧州での集会とは2桁違うが、アルジャジーラを通じて日本人の思いはガザにも伝わるだろう。ちなみに俺は着火する際、ロウが入った紙コップまで燃やしてしまい、周囲の笑いを取ってしまった。

 メディアの誘導で<善・悪>、<正・邪>を峻別出来ず、何事においても〝どっちもどっち〟と考える日本人は多い。おのずと集団化し保守派を補強していく傾向は、ガザ空爆への反応にも表れている。<虐げられ、自由を奪われた者には抵抗する権利がある>……。この〝真理〟を説き続ける船戸与一の小説こそ、現在の日本人にとって必読の書ではないか。

 「東北の子供たちに寄せたのと同じ思いを、ガザの子供たちにも向けてほしい」と壇上でアピールする人がいた。彼の言葉は全く正しい。でも、日本人の多くは東北の子供たちにさえ、思いを寄せていないのではないか……。そう思うと悲しくなった。

 〝ふやけた市民〟にとって、有意義な連休だった。高揚した気分で今週末、フジロックに足を運ぶ。長期予報では晴れマークだが、果たして……。
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フジまで1週間~久しぶりにロックな気分

2014-07-18 13:37:45 | 音楽
 <いまガザでおきていることは「復讐の連鎖」「暴力の応酬」などではない。200発以上の核兵器を保有し、実質世界第4位の軍事力をもつイスラエルが、世界一の人口密集地、貧困都市・ガザ市に、F16戦闘機などにより爆撃をくわえるとはどういうことなのか。これは、病弱な赤ちゃんに完全武装した大人がおそいかかるのとなにもかわらない、文字どおりのジェノサイドである>(辺見庸ブログ「私事片々」7月17日付から)

 長めの引用だが、賛同された方は全文を読んでほしい。共同通信記者時代に世界を瞠目させた情報収集力と分析力、詩人としての感性に加え、毒々しいユーモアがちりばめられている。

 来週末は隅田川花火に誘われていたが、丁重な断りを入れてフジロックに足を運ぶ。出演アーティストが決定した時点で、アーケイド・ファイアとビッフィ・クライロが土曜日にラインアップされることを願っていた。希望は叶ったが、マニック・ストリート・プリーチャーズはアーケイド・ファイアと同時間帯なのでパスせざるをえない。

 予習としてアーケイドとビッフィのブートレッグDVD、マニックスの新作CDを購入した。

 モントリオール出身のアーケイドは、俺がここ数年ハマっている〝ボーダレスの音〟だ。NY派のダーティー・プロジェクターズやヴァンパイア・ウィークエンドと志向するものは近いが、より混沌として泥臭い。購入したのはコーチェラ'14の2週目の映像だが、ヒッピー、ボヘミアンの楽団といった趣だ。

 ダフトパンクとベックが客演し、寸劇風のアレンジもある。雑食性のアーケイドは今後も領域を広げ、ロックの限界を超えていくだろう。数万の聴衆が埋め尽くす会場に降り、華やかに引き揚げるエンディングも印象的だった。祝祭の予習はたっぷり出来たが、十数人のサポートメンバーがバンドと共に来日するのか不安もある。

 グラストンベリー'13でトレント・レズナー(ナイン・インチ・ネイルズ)の発言が物議を醸した。いわく「知らない連中が後から出てきた」……。その日のヘッドライナーはビッフィで、欧州での絶大な人気と比べ、日本では認知度が低い。今回のフジでもホワイトステージの準メーンである。

 上半身裸で演奏するビッフィは男臭さ満開のトリオだ。購入したのはドイツでのライブ映像だが、その佇まいは初期ブランキー・ジェット・シティに近い。外見から想像出来るように音はハードだが、ボーカルハーモニーはバッチリで、抒情的な曲も多い。叫びと泣きというツボを押さえつつ初期衝動を体現するビッフィは、フジでも見る者の心を鷲掴みするはずだ。

 土曜は未明まで仕事だから、起動は遅くなる。トラヴィス(グリーン)⇒マン・ウィズ・ア・ミッション(ホワイト)⇒ビッフィ(同)⇒アーケイド(グリーン)が想定スケジュールだ。4年前は豪雨の中、会場の端から端まで歩き回ったが、両膝痛を抱える今、グリーンからホワイトへの20分さえ遠く感じるはずだ。

 マニックスは諦めざるを得ないが、文学を筆頭に日本文化に造詣が深い彼らのこと、年内にも来日してくれるだろう。新作「フューチャロロジー」は、ニッキー・ワイヤーが「1st『ジェネレーション・テロリスト』(92年)に収録されていても違和感がない曲が揃っている」と語っていた通り、瑞々しさに溢れた傑作だ。詩的、知的、ラディカルさは相変わらずで、ヨーロッパを穿つおじさんロッカーの闘争宣言だ。

 マニックスのフェスの最新映像がYoutubeにアップされている。オープニングは1st収録の「享楽都市の孤独」だ。♪文化は言語を破壊する 君の嫌悪を具象化し頬に微笑を誘う 民族戦争を企てて他人種に致命傷を与え ゲットーを奴隷化する……。この歌詞に重なるのが、ガザの現状と冒頭の辺見の言葉だ。

 エディ・ヴェダー(パール・ジャム)は英国公演でイスラエルを痛烈に批判した。イスラエルから届いた罵倒の数々に対してエディは声明を発表し、「いつの日か、あなたも僕らの仲間になってくれたらと願う」と「イマジン」からの引用で言葉を結んだ。

 マニックス、パール・ジャム、そしてイスラエル公演をキャンセルしたニール・ヤングと、骨のあるアーティストは少なくない。〝体制の飼い犬〟に堕したバンドたちには、メッセージこそロックの肝であることを思い出してほしい。
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「革命の子どもたち」に描かれた母娘の絆

2014-07-15 23:48:57 | 映画、ドラマ
 俺は今、自己嫌悪に苛まれている。土曜は警察国家化に反対するデモ(新宿)、日曜は集団自衛権への抗議(国会前)に参加するつもりだったが、二度寝が理由でともに足を運べなかった。マイケル・ムーアの至言<民主国家において、すべての市民が活動家にならないと、自由と権利は損なわれる>を繰り返し引用してきたが、その伝でいくと、俺は活動家と程遠い〝ふやけた市民〟である。

 革命家の暴力はともかく、活動家の身体性こそ必要であることは重々承知している。俺が属する緑の党には、反原発など様々な課題に体を張っている活動家が多く、彼らに申し訳なさを覚えている。最近目立つのはガザ空爆への抗議で、イスラエル大使館前での集会の報告も上がっている。

 ネタヤノフ首相が来日した際、集団的自衛権の領域拡大について安倍首相と踏み込んだ議論をしたと示唆する識者もいる。〝同盟国〟の蛮行に対する抗議に、警察は尋常では考えられない警備態勢を敷いた。欧米ではイスラエルに対する怒りが噴出し、数千人規模の反対集会が開かれている。自身がユダヤ人であることを明かして抗議に加わるケースも目立ってきた。イスラエル国内でも反対の声を上げ、拘束された人もいる。

 苦難の歴史を歩んできたユダヤ人がナチスによるジェノサイドを反転させ、刃をパレスチナ人に突き付けているのが残念でならない。良心的とされる知識人、医療機関は<ガザこそ第二のワルシャワゲットー>と位置付け、イスラエルと背後に控えるアメリカを非難している。

 テアトル新宿で先日、「革命の子どもたち」(11年、シェーン・オサリバン監督)を見た。重信房子と重信メイ、ウルリケ・マインホフとベテーナー・ロールの日独2組の母娘の絆に迫ったドキュメンタリーである。房子は日本赤軍、とウルリケはドイツ赤軍のリーダーだった。房子は服役中(八王子医療刑務所)で、ウルリケは1976年に獄中で自殺している。

 房子とウルリケの共通点はパレスチナ解放戦線と共闘したことだ。娘はというと、メイはパレスチナや各地の難民キャンプで暮らした。一方のベティーナは、パレスチナキャンプに送られる途中、政府機関に身柄を確保された。ちなみにそのキャンプ地は数日後、イスラエルの空爆に晒され、子どもたちは全員死亡した。

 抑圧され、権利を奪われた者と連帯し、ともに闘う意味を本作は問うている。<パレスチナで流された血は、自分たちと無縁ではない>……。房子とウルリケが40年以上前、<革命の聖地>と見做したパレスチナが、2組の母娘を繋ぐキーワードだった。

 館内で上映を待つ間、流れていたのは響(PANTAと菊池琢己のユニット)の「オリーブの樹の下で」(07年)収録曲である。重信房子(作詞)とPANTA(補作詞、作曲)の共作で、メイも作詞とボーカルを担当している。掉尾を飾った「ライラのバラード」に歌われたライラ・ハリッド(パレスチナ民族評議会)も本作で房子にメッセージを寄せていた。

 年齢や立ち位置によって本作の捉え方は大きく異なるはずだ。〝熱い時代〟を体験した人はノスタルジーに浸りながら、<今の若者はどうして沈黙しているのか>と考えるかもしれない。1世代下の俺が大学に入った時、熱風は無風、時に冷風に転じていた。メッセージを伝えようとすると、自警団(支配セクト)が登場して封じ込める。この国の現在の閉塞状況をつくったのは、ビートたけしが揶揄した<みんなで赤信号を渡って、居心地のいい場所に返ってきた世代>ではないか。

 革命家といっても、房子とウルリケは資質が異なる。俺が房子に感じるのは柔らかさだ。意志というより状況が彼女を変え、周囲はそのしなやかさに魅せられる。一方のウルリケの武器は鋼の意志だ。房子は流れ、ウルリケは隘路に突き進んでいく。

 オサリバン監督は日本で暮らしたことがあり、ビースティーボーイズのライブで出会った女性と結婚した。知日家であることが本作にプラスに作用している。監督によれば、母の個性の違いが娘たちに反映しているという。メイはフレンドリーで、房子への情をナチュラルに伝えたが、歴史学者であるベティーナはあくまで客観的にウルリケを見据えている。

 現在の日本は、〝熱い時代〟より深刻な状況にある。リベラル、左派に分類される人たちはこの間、身体性のない言葉を弄んできた。その結果、安倍政権の剥き出しの暴力性に対峙する方法が見つからない。〝市民の非暴力〟では残念ながら、軍国化と格差拡大にブレーキが掛けられないだろう。〝ふやけた市民〟であることを反省した上で、身体性を正しく発揮する方法を模索している。
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「ハーモニー」~死の淵で志向された調和

2014-07-12 23:54:56 | 読書
 オランダのW杯制覇によって、サッカーとの絆を断つ……。40年来の宿願は叶わず、少なくともあと4年は、サッカーと付き合うことになった。オランダの若きDF陣は予想以上に健闘したし、ケガで欠場したMFストロートマンはロシア大会でチームを牽引するだろう。ロッペン、ファンベルシーに続くFWの登場を心待ちにしている。

 絆といえば、この年(57歳)になって87歳の母との間に、肉親の情以外の縁(よすが)が生じた。それは読書で、母はかつての習慣を取り戻し、5日に1冊のペースで本を読んでいる。ゴールデンウイークに帰省した際、他の荷物と一緒に文庫本を数冊送った。母が絶賛したのは「聖の青春」(大崎善生)で、唯一ダメ出しされたのが「人質の朗読会」(小川洋子)だった。母の好みは直木賞タイプといえるだろう。

 伊藤計劃の第2作「ハーモニー」(08年、ハヤカワ文庫)を読了した。発表翌年、伊藤が召されたこともあり(享年34歳)、死の薫りが濃密な作品だ。「虐殺器官」では潜在意識と言葉がテーマになっていたが、本作も延長線上にある。3人の少女の出会いと13年後の再会がカットバックし、個人的な感情と人類の運命が交錯する壮大なプロットは、感情や情念で湿り気を帯びている。

 主人公のトァンは高校時代、聡明でカリスマ性のある美少女ミャハに惹かれ、同じくミャハに心酔したキアンとトリオを形成する。舞台は今世紀末で、社会において健康と安全が最重視されている。後退した政府に代わり、小規模の<生府>が行政の単位だ。構成員は<WatchMe>と呼ばれる監視システムで一元管理されている。

 「虐殺器官」と比べ〝教養による補強〟は控えめになっているが、志賀直哉や坂口安吾に言及するなど、ミャハは<大災禍>以前の文化に造詣が深い。ミャハは冒頭で、世界の一部を除いて廃れた売春、買春についてトァンとキアンに語る。唐突に思えたが、その時のやりとりが後半になって意味を持ってくる。

 ミャハにとって<WatchMe>は、<世界に自分を人質として晒すシステム>で、言い換えれば<慈母によるファシズム>だ。昼休みの弁当タイムで、ミャハはフーコーの言葉を借りて以下のように話す。

 「権力が掌握しているのは、いまや生きることそのもの。そして生きることが引き起こすその展開全部。死っていうのはその権力の限界で、そんな権力から逃れることができる瞬間」……。

 ミャハは自殺し、トァンとキアンは生き残る。そして<WatchMe>を提唱したトァンの父も失踪した。13年後、反社会的傾向はそのまま、トァンはWHO螺旋監察官として紛争地域を回っている。〝不健康な嗜好品=酒、たばこ〟の入手も目的のひとつだ。

 伊藤の死因が肺がんと知り、酒とたばこを好むトァンは作者の反映と想像してしまった。どうやら勘違いで、伊藤は死の10年近く前から闘病生活を送っている。治療の過程で被曝し、肺がんに至った可能性もあるのではないか。本作における<生命主義>は、核戦争で世界が放射能に汚染された<大災禍>の反省から生まれた。伊藤の病歴とどこかで繋がっていても不思議はない。

 ミャハはチェチェンの意識を持たない民族出身だ。8歳の頃、ロシア軍に囚われておぞましい体験をし、そのさなかに、意識が目覚めた。15歳で命を絶ったミャハの生存を、トァンは確信するようになる。きっかけは<WatchMe>に紛れ込んだ集団自殺プログラムで、同時刻に数千人が自殺を図る。13年ぶりに東京で再会したキアンもその一人だった。事態はエスカレートし、<ある期日までに他者を殺さないと、あなた自身が死ぬことになる>という恐るべき内容の宣言が発せられ、世界は<大災禍>以前の混沌に陥った。

 ミャハを追うトァンの脳裏に、13年前の言葉がフラッシュバックする。ミャハは<生命主義>を憎み、死への憧れを隠さない一方で、<意識して何事かを信頼し維持することこそ善>とトァンに説いていた。アンビバレンツな志向は収斂し、ミャハはある結論に到達していた。<WatchMe>が脳まで管理し、8歳以前の彼女のように、誰もが意志や意識を持たずに済むのが理想の社会だと……。

 細部まで計算され尽くした調和で、人々は与えられた意志と意識を我が物にように感じる。現在の日本も似たようなものかもしれない。メディアによって拡散した政府の意図を、人々は自然に受け入れている。意志や意識を人間に残された最後の砦と考えることも出来るが、ミャハは15歳の時に言い放っていた。「意志なんて、単に脊椎動物が実装しやすい形質だったから、いまだに脳みそに居座っているだけ」と……。

 <伊藤があと10年生きていたら、SFのジャンルを超え、日本最高の作家として記憶されたのではないか>と、俺は「虐殺器官」を紹介した稿で記した。その思いは、「ハーモニー」を読み終えて一層強くなる。長編2作品が来年、アニメとして劇場公開され、「虐殺器官」がハリウッドで実写化される可能性もあるという。〝伊藤ワールド〟が世界中に浸潤することを願っている。
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「軍旗はためく下に」~三十数年ぶりに再会した反戦映画の白眉

2014-07-09 23:57:13 | 映画、ドラマ
 白竜の1stアルバム「光州City」(81年、廃盤)に、鋭い問題意識を突き付ける曲が収録されていた。「街を楽しそうに歩く君たちは、笑いながら誰か(光州事件の死者)を殺している」(要旨)という内容で、隣国で流された夥しい血を一顧だにしない日本の若者の想像力の欠落を抉った曲である。あれから33年、封印を解かれた軍国主義がこの国を闊歩している。

 集団的自衛権についてアピールし、抗議活動を展開している人たちに心から敬意を表したいが、納得出来ない点が一つある。<集団的自衛権の閣議決定により、日本は戦争する国になった>では不十分で、<平和憲法下でも、日本は戦争に加担してきた>と考えないと、想像力の欠落になるのではないか。

 小泉政権が全面協力したイラク戦争で、米軍は劣化ウラン弾(もしくは化学兵器)をファルージャに大量投下し、無残な姿で生まれてきた多くの赤ん坊は、生後間もなく死んだ(映画「ファルージャ」は必見!)。実行犯(アメリカ)の罪は重いが、全身に血飛沫が染みついている従犯(日本)も無実ではない。

 集団的自衛権に反対し、憲法9条を守るだけでは罪から解放されない。米軍機や艦隊が日本から戦地に赴くという状況を変えない以上、道義的責任から逃れられない。米軍基地の日本からの撤去が実現した時、日本は<戦争しない国>になる。

 時宜を得たというべきか、日本映画専門チャンネルで「軍旗はためく下」(72年、深作欣二監督)が放映された。学生の頃、名画座で見た記憶があるが、徹マン明けか何かで爆睡してしまい、内容は覚えていない。三十数年ぶりの〝再会〟で、戦争が必然的にもたらす狂気を描いた作品に衝撃を受けた。

 脚本には深作だけでなく新藤兼人も加わっている。戦争の悲惨さ、軍隊の理不尽、国家の冷酷、そして天皇制に鋭い刃を突き付けた反戦映画の白眉といえる。資金集めに苦労し、今もDVD化されていない。放映されることも希というあたりに、〝見えざる手〟の存在を感じるのは俺だけだろうか。

 冒頭のシーンは1971年の戦没者追悼式典だ。天皇の言葉に重なり、厚生省に場面が転じる。富樫サキエ(左幸子)は毎年8月15日に陳情に訪れている。夫(元軍曹、丹波哲郎)は軍法会議で死刑になったため、遺族年金は下りない。だが、サキエは金銭ではなく、真実を求めているのだ。

 「他の遺族の人たちは天皇陛下と一緒に追悼式に出て、菊の花あげてるっていうのに」……。夫の名誉を回復したいという思い、そして天皇への敬意がサキエの言葉に窺える。役人は当時の事情を知っている可能性がある戦友4人の名を、サキエに教えた。

 サキエが最初に訪ねた寺島(元上等兵、三谷昇)が最も重要な証言者で、後半にも登場する。舞台は地獄の南方戦線だ。満蒙開拓民を見捨てて遁走した関東軍が端的に示すように、日本の軍隊は決して国民を守らない。それどころか棄民国家は軍隊さえ守らない。大岡昇平や奥泉光は南方戦線に棄てられた軍隊をテーマに、多くの作品を著わしている。

 寺島の証言で、命を第一に作戦に反対する勇気、傷病兵への思いやりといった富樫のプラスの側面が明らかになる。ところが、秋葉(元伍長、関武志)の話で食糧泥棒の疑いが生じ、越智(元憲兵軍曹、市川祥乃助)には人肉食を示唆された。サキエの心は暗く深く沈んでいく。

 サキエが米軍基地に近い高校で国語を教える大橋(元少尉、内藤武敏)を訪ねる場面が印象的だった。米軍機の轟音に、血のメーデー、再軍備、安保闘争、浅沼委員長刺殺、三派系の街頭闘争、三島由紀夫の自決がフラッシュバックする。「A級戦犯(岸信介、安倍首相の祖父)が総理大臣になっているのに、下っ端の人間が浮かばれないのは、戦争中も今も変わらないのですね」の大橋の台詞に、製作サイドの意図を感じた。

 大橋の証言によって、富樫が死刑になった理由、決定を下した千田(元陸軍少佐、中村翫右衛門)の存在が明らかになる。千田は自身が戦犯から逃れるための口封じに富樫らを処刑し、帰国後は要職に就いた。戦前と戦後を繋ぐ不変の権力構造を象徴している。

 寺島は富樫の最期をサキエに伝える。富樫は同罪の2人とともに日本に向けて遥拝し、「天皇陛下!」と声を振り絞る。「万歳と言うつもりだったべか」と問うサキエに、寺島は「何か訴えかけるような、抗議するような叫び方でした」と答えた。

 ロック風にアレンジされた「君が代」が流れるラストで、サキエは「父ちゃん、あんたやっぱり、天皇陛下に花あげてもらうわけにはいかねえだね」と独白する。サキエは天皇の呪縛から解放されたが、深作と新藤はどうだったか。深作は97年に紫綬褒章、新藤は02年に文化勲章を授与され、天皇制に取り込まれた。作品と叙勲との乖離に、複雑な思いがする。
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「国民性って何」と考えながら、蛍とW杯を愉しむ

2014-07-06 22:52:44 | 独り言
 昨日は昨年に続き、荒川自然公園で蛍を観賞した。闇の中、目を凝らしていると、水中、地表、空中が一瞬、煌めく。幻か現か、残像を追っていると、感嘆の沈黙がさざ波になって聞こえてきた。設置されたテントでは、光が輪になって舞っていた。美しい水と空気を保つために尽力する主催者(荒川区ホタルを育てる会)に、心から敬意を表したい。

 子供の頃(半世紀前!)は改まって観賞せずとも、蛍は身近にいた。夏の宵の宇治川沿い、蛍はあくまで脇役で、家族で夜空を彩る光のページェントを愉しんた。父と妹は召され、母と俺が残された。蛍火は俺の心を濡らして揺らし、セピア色の思い出が走馬灯のように駆け巡る。

 上記の如く、俺の感性は<和化>している……と書くと、違和感を覚える人もいるだろう。<軍国主義+新自由主義=アメリカ51番目の州>を志向する安倍首相と支持者に、<和化>は別の像を結んでいるからだ。日本的な情感や優しさに魅せられた俺は、この国では少数派かもしれない。

 週末にはW杯準々決勝を見た。かつて国民性と代表チームを重ねていたが、それは無意味だとようやく悟った。日本人は周囲からどう見られているのだろう……。初めて意識したのは高校2年の時だった。田中角栄首相がインドネシアを訪れた時、<戦前は軍隊が、戦後は企業がインドネシアを蹂躙している>と主張するデモ隊に迎えられた。同国を舞台にした池澤夏樹の「花を運ぶ妹」でも、日本軍が残した癒えない傷痕が描かれている。

 その後、勤勉でアイデア豊富な国と幾分イメージアップしたが、サッカーとリンクしているわけではない。日本のサッカーは安倍首相が目指すように、戦闘好きな肉食系でもなく、創意工夫とも無縁だ。強豪チームは強い個による集団を形成しているが、日本の場合は集団の埋没しているというべきか。

 4試合の感想を一言で述べれば<均質化>だ。代表チームは準備期間が限られているが、主力は欧州でプレーしていて、試合の映像はリアルタイムでチェック出来る。となれば、創造性に溢れたバルセロナ、組織重視のバイエルン、攻守に躍動感あるチェルシーといった熟成したトップクラブの戦略と戦術を導入するのが手っ取り早い。その辺りが<均質化>の理由ではないか。

 まずは、移民を含めた〝多民族軍〟の対決といえるドイツ対フランスから。インフルエンザ禍が囁かれたドイツだが、フランスの攻勢を凌ぎ切った。チームの構成から〝ゲルマン魂〟と呼ぶのは的外れだが、教科書のようなチームを毎回つくってくる。戦争、経済、サッカーと実利を争えば常にドイツが勝つというイメージを、俺は勝手に抱いているが、フランス国民はその辺りをどのように感じているのだろう。

 ブラジル対コロンビアに、南米ペーストをあまり感じなかった。ファウルが50以上の削り合いを制したブラジルだが、ネイマールとシウバ主将を欠いてドイツ戦に臨む。王国の総合力が試される準決勝になるだろう。ベルギーは常に、〝W杯標準〟として姿を現す。今回も攻守のバランスが取れた好チームだった。走行距離までデータ化される世知辛いご時世だが、唯一遊びが許されているのがメッシだ。硬質で直線的な戦いに、螺旋状のアクセントを添えていた。

 オランダ対コスタリカは予想を超えた死闘だった。シュート数で20対6と圧倒したオランダだが、ゴールマウスをこじ開けられない。相手GKナバスの神業的セーブの数々を目の当たりにして、「PK戦になったらやばい」と観念する。すると終了間際、ファンハールがPK戦仕様にGKを代えた。

 ファンベルシー、ロッペン、スナイデル、カイトの中軸が立て続けにPKを決め、代わったGKクルルが好セーブを見せた。初優勝までマジック2である。準決勝でアルゼンチンを破って1978年のリベンジを成し遂げ、決勝でドイツを破って74年の雪辱を果たしてくれれば、40年に及ぶ〝オレンジの呪縛〟から、俺はようやく解放される。

 今回の〝MVPチーム〟はコスタリカだ。〝死のD組〟を首位通過し、1人少ない状況でギリシャを破って準々決勝に歩を進めた。そのコスタリカに大会直前、日本は3対1で勝っている。ザックや協会に最も欠けていたのは、臨機応変の柔軟性ではなかったか。

 コスタリカは中米の小国(人口450万強)で、日本が脱落した今、平和憲法を掲げる数少ない国だ。コスタリカに敬意を表する俺は、安倍政権の暴走に歯止めを掛けるため<憲法9条にノーベル平和賞を>にネットから署名した。7月末が期限という。賛同する方にはぜひ続いてほしい。
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「あいときぼうのまち」~記憶の底に張り付く映画

2014-07-03 23:41:35 | 映画、ドラマ
 前稿に続き、杉並区議補選について。川野たかあき候補(緑の党推薦)の獲得票数は民主党候補の3分の2で、みんなと生活両候補の合計に近かった。無名の新人にとって大健闘といえる結果だと思う。

 選挙戦に入る前(5月)の川野さんのブログに、今稿のテーマに重なる内容が記されていた。行きつけのバーで川野さんは、ある女性と原発について論争することになる。山本太郎議員の影響で政治の世界に入った川野さんは、むろん反原発だ。一方で、その女性の実家は南相馬市で、彼女は今、子供と東京で暮らしている。反原発と思いきや、彼女は「原発は必要」と繰り返し主張する。

 感情的になった部分もあったが、川野さんは被災者家族の複雑な思いをくみ取った。<今までの自分たちの苦しみや悲しみ、犠牲にしてきたことはいったい何だったのだろうか、と。もうそれは理屈ではない部分(に違いない)>と彼女を慮っている。<○○だから、△△は当然>と俺を含め、自身の価値観で物事を割り切ろうとしがちだ。そこに疑問を抱いた川野さんの柔軟さに感心した。

 テアトル新宿で先週、「あいときぼうのまち」(菅野廣、14年)を見た。もともと健忘症で、年(57歳)も相俟ってこの1週間、細部はどんどん消えていったが、作品全体は俺の中で、重く痛い澱となって沈んでいる。

 本作は原子力に弄ばれた福島の70年をテーマに据えた壮大な物語だ。学徒動員でウラン採鉱が行われた1945年の石川町、原発誘致を巡って揺れた双葉郡、そして3・11前後のある家族が描かれている。3つの時系を行き交いながら、3本の糸は紡がれて太くなる、館内が明るくなった時、拍手が起こったのは「エレニの帰郷」(テオ・アンゲロブロス)に続き今年2度目である。

 タイトルの「あいときぼうのまち」には大島渚のデビュー作「愛と希望の街」(60年)へのオマージュが込められている。絶望的な格差を背景に描かれた――現在の日本も当時に戻りつつあるが――「愛と――」のラストで、金持ちの青年(渡辺文雄)が鳩を撃つ。相容れない2つの世界を象徴的に示していたが、本作に通じる部分がある。

 福島と東京の断絶に憤った美紅(西山怜)は、煌々とした東京のビル屋上で、「何も変わっていない。何も終わっていない」と叫び、沢田(黒田耕平)とともに福島で採取した放射能に汚染された草花を地面にぶちまける。このシーンの衝撃は、「愛と――」に一歩も引けを取らない。話すことがコロコロ返る詐欺師風の沢田はある意味、狂言回しの役割を担っており、人々の福島への思いを代弁している。

 大島の作品には、異様なほどのテンションが漲っていた。典型といえるのが「少年」で、映像の構成という点で、上記のアンゲロブロスにも強い影響を与えた。言霊とよくいうが、タイトルを受け継いだことで本作は〝映霊〟といっていいほど、各シーンに魂がこもっている。台詞回しが演劇風なのも大島的だし、「骨まで愛して」や美紅の鎮魂のホルンといった音楽の使い方も刺激的だった。

 物語の結節点に位置するのが、美紅の祖母である愛子で、1966年を大池容子、3・11前後を夏樹陽子がそれぞれ演じている。愛子の父は1945年に学徒動員されたひとりで、母の愛人でもあった将校から「国は信じるな」と教えられる。<原子力 明るい未来のエネルギー>なんて標語に反発を覚え、土地売却に最後まで抵抗する。当時の愛子の恋人が、標語を作った健次だった。

 愛子は3・11直前、フェイスブックをきっかけに健次(勝野洋)と再会する。希望に満ちた10代の頃、そして還暦を過ぎた現在……。浜辺で海に向かって小石を投げるシーンがシンクロする。健次は元東電社員で、同じ道を歩んだ息子を作業時の被曝で亡くし、自身の標語が虚妄であったことを実感している。祖母の不倫に気付いた美紅の行為が悲劇をもたらすが、絶望的状況における愛子の犠牲的精神が胸を打つ。

 製作サイドの遊び心かもしれないが、2011年と2012年の境にある趣向が凝らされている。謎が解けて全てが繋がり、全体像がクリアになった時、時空を超えた世界が俺の目前に広がっていた。あいときぼうは決して反語ではなく、真昼の星のように煌めいているはずだ。高邁な意志、歴史への深い洞察に裏打ちされた本作は、俺の記憶の底に張り付いている。「エレニの帰郷」とともに、今年のベストワン候補だ。

 園子温監督が福島原発事故をテーマに据えた「希望の国」(12年)を製作する際、国内から資金を得られず、海外から協力を得た。興行的に大苦戦している本作について、仕事先の整理記者Yさんは、「反原発集会に参加している人がこぞって見にいけばいいのに」と話していた。政治とカルチャーが60年代のようにリンクしていないことが残念でならない。
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