きょうはハロウィーンだったが、コロナ禍で盛り上がりに欠けたようだ。ハロウィーンの起源は「ウィッカーマン」(前々稿)に描かれたケルト発祥の悪魔崇拝の儀式だが、<ハレとケ)>の伝統に近いからか、日本でも一気に浸透した。マルクス・ガブリエルは来日時、<静寂が叫んでいるようだ>と東京を評していたが、この国の若者にとってハロウィーンは、内なる叫びを爆発させる機会なのだ。
束縛から逃れたいのに、手段が見つからないまま土に還る。俺もそのひとりだが、壁を越える者もいる。例えばストリッパー? 吉田拓郎の「舞姫」(作詞・松本隆)を重ねながら、新宿武蔵野館で「彼女は夢で踊る」(2019年、時川英之監督)を見た。
舞台は「広島第一劇場」だ。主人公の木下信太郎は二人一役で、青年期を犬飼貴丈、現在を加藤雅也が演じている。想定タイムラグは四半世紀で、二つの時代がカットバックしながら物語が交錯し、現世と彼我を結ぶ幻想的なラブストーリーとして収束する。「ラジオの恋」に感銘を覚えた加藤が時川監督にアプローチしたことが、本作誕生のきっかけになった。
木下は失恋の傷を引きずって広島にやって来た。ぶらり入ったバーで、サラ(岡村いずみ)に一目惚れする。「広島第一劇場」で踊るストリッパーとマスターに教えられ、劇場に足を運んだ。彼女の踊りに魅せられた木下は、高尾オーナーに直訴して住み込みで働くようになる。
「なぜ、裸になるの? 恥ずかしくないの?」……。木下の問いに、サラは裸身を晒すことで解放感と高揚感を味わえると話していた。実際はどうだろう。脱ぎ捨てることで絶望と慟哭、そして自身の痕跡を消したいというアンビバレントな思いに、サラは引き裂かれていたのかもしれない。
上記の「舞姫」は普遍的な男女の恋の本質に迫った曲とも取れる。♪舞姫 不幸は女を 舞姫 美しくする 男をそこにくぎづける(中略)舞姫 人は死ぬまで 舞姫 運命という 糸に引かれて踊るのさ……。このフレーズにサラの生き様を重ねてしまった。コケティシュでミステリアス、アンニュイで影があるサラは、男が魅せられる古典的なヒロインだと思う。
話は逸れるが、「洞窟おじさん」(全4回)を再放送で見た。実話に基づき映像化されたドラマで、主人公・一馬の青年期を中村蒼、中年以降をリリー・フランキーが演じていた。50歳を過ぎても女性を知らず、偶然知り合った真佐子さん(坂井真紀)に気持ちを伝えられない一馬を見かねたホームレスの先輩が、〝女性入門編〟としてストリップ観賞を勧めた。再会した真佐子さんに「ストリップを見てから明るくなったね」と言われていた。
サラへの思いが募る木下に店を譲るつもりでいた高尾は、「天の岩戸」を引き合いにストリップの存在理由を説く。前稿で紹介した「ワカタケル」にも登場する神話だ。天照大神が岩戸に隠れ、世界が闇になった時、神々が会議を開いた。その前で〝日本最古のストリッパー〟アマノウズメが服を剥いでいくと、男の神々が笑いながら囃し立てた。「何事か」と天照大神が顔をのぞかせ、世界が再び光で溢れたという内容で、上記の一馬のエピソードにも通じている。
俺も20代の頃、ストリップ劇場に数回、足を運んだ。ストリップといっても業態は様々だったが、その辺りは省略する。池袋のM劇場は平均年齢が高く、現在の俺(64歳)ぐらいの年の男が、ダンサーの秘所に見入っていたのが不思議だった。男と女の超えられぬ深淵というべきか。彼らの会話から年金生活者であることが窺い知れた。死ぬまで働かされる現在と比べ、1970~80年代の日本は遥かに豊かだったのだろう。
「彼女は夢で踊る」の肝は主題歌であるレディオヘッドの「クリープ」だ。痛いほどの失恋ソングで、90年代半ばの来日公演でトム・ヨークが歌詞さながらステージを這い回るように歌った時、「トム、大丈夫」と客席の女性たちが声を掛ける。4作目以降、失速したというのが初期からのファンの思いだが、それはともかく、当時はロックファンと同じ目線のバンドだった。
サラはステージで「クリープ」に合わせて裸身を晒し、ヤング木下と訪れた早朝の港でサラが踊るシーンでも背景に流れていた。エンドタイトルではオールド木下が、この曲をバックにぎこちなく踊っていた。
閉館興行でサラそっくりのメロディーが劇場にやって来た。ようこ(矢沢ようこ)にサラの消息を聞かされた木下は悄然とする。孤独な病死だった。頼りたければ劇場に来ればいいのに、サラはフェイドアウトしたままだった。彼女への思慕、自分の無力さを悔やむ木下を慰めるため、彼にしか見えないメロディーの形になって来世から訪問したのだ。切なく悲しい結末にカタルシスを覚え、ハンカチで目を拭った。
俺が今年度ベストワン級と絶賛するのは、個人的な思い出と連なっているからだ。加藤、監督、スタッフ、キャストによる手作り感たっぷりの映画に拍手を送りたい。愛っていいものだな。
束縛から逃れたいのに、手段が見つからないまま土に還る。俺もそのひとりだが、壁を越える者もいる。例えばストリッパー? 吉田拓郎の「舞姫」(作詞・松本隆)を重ねながら、新宿武蔵野館で「彼女は夢で踊る」(2019年、時川英之監督)を見た。
舞台は「広島第一劇場」だ。主人公の木下信太郎は二人一役で、青年期を犬飼貴丈、現在を加藤雅也が演じている。想定タイムラグは四半世紀で、二つの時代がカットバックしながら物語が交錯し、現世と彼我を結ぶ幻想的なラブストーリーとして収束する。「ラジオの恋」に感銘を覚えた加藤が時川監督にアプローチしたことが、本作誕生のきっかけになった。
木下は失恋の傷を引きずって広島にやって来た。ぶらり入ったバーで、サラ(岡村いずみ)に一目惚れする。「広島第一劇場」で踊るストリッパーとマスターに教えられ、劇場に足を運んだ。彼女の踊りに魅せられた木下は、高尾オーナーに直訴して住み込みで働くようになる。
「なぜ、裸になるの? 恥ずかしくないの?」……。木下の問いに、サラは裸身を晒すことで解放感と高揚感を味わえると話していた。実際はどうだろう。脱ぎ捨てることで絶望と慟哭、そして自身の痕跡を消したいというアンビバレントな思いに、サラは引き裂かれていたのかもしれない。
上記の「舞姫」は普遍的な男女の恋の本質に迫った曲とも取れる。♪舞姫 不幸は女を 舞姫 美しくする 男をそこにくぎづける(中略)舞姫 人は死ぬまで 舞姫 運命という 糸に引かれて踊るのさ……。このフレーズにサラの生き様を重ねてしまった。コケティシュでミステリアス、アンニュイで影があるサラは、男が魅せられる古典的なヒロインだと思う。
話は逸れるが、「洞窟おじさん」(全4回)を再放送で見た。実話に基づき映像化されたドラマで、主人公・一馬の青年期を中村蒼、中年以降をリリー・フランキーが演じていた。50歳を過ぎても女性を知らず、偶然知り合った真佐子さん(坂井真紀)に気持ちを伝えられない一馬を見かねたホームレスの先輩が、〝女性入門編〟としてストリップ観賞を勧めた。再会した真佐子さんに「ストリップを見てから明るくなったね」と言われていた。
サラへの思いが募る木下に店を譲るつもりでいた高尾は、「天の岩戸」を引き合いにストリップの存在理由を説く。前稿で紹介した「ワカタケル」にも登場する神話だ。天照大神が岩戸に隠れ、世界が闇になった時、神々が会議を開いた。その前で〝日本最古のストリッパー〟アマノウズメが服を剥いでいくと、男の神々が笑いながら囃し立てた。「何事か」と天照大神が顔をのぞかせ、世界が再び光で溢れたという内容で、上記の一馬のエピソードにも通じている。
俺も20代の頃、ストリップ劇場に数回、足を運んだ。ストリップといっても業態は様々だったが、その辺りは省略する。池袋のM劇場は平均年齢が高く、現在の俺(64歳)ぐらいの年の男が、ダンサーの秘所に見入っていたのが不思議だった。男と女の超えられぬ深淵というべきか。彼らの会話から年金生活者であることが窺い知れた。死ぬまで働かされる現在と比べ、1970~80年代の日本は遥かに豊かだったのだろう。
「彼女は夢で踊る」の肝は主題歌であるレディオヘッドの「クリープ」だ。痛いほどの失恋ソングで、90年代半ばの来日公演でトム・ヨークが歌詞さながらステージを這い回るように歌った時、「トム、大丈夫」と客席の女性たちが声を掛ける。4作目以降、失速したというのが初期からのファンの思いだが、それはともかく、当時はロックファンと同じ目線のバンドだった。
サラはステージで「クリープ」に合わせて裸身を晒し、ヤング木下と訪れた早朝の港でサラが踊るシーンでも背景に流れていた。エンドタイトルではオールド木下が、この曲をバックにぎこちなく踊っていた。
閉館興行でサラそっくりのメロディーが劇場にやって来た。ようこ(矢沢ようこ)にサラの消息を聞かされた木下は悄然とする。孤独な病死だった。頼りたければ劇場に来ればいいのに、サラはフェイドアウトしたままだった。彼女への思慕、自分の無力さを悔やむ木下を慰めるため、彼にしか見えないメロディーの形になって来世から訪問したのだ。切なく悲しい結末にカタルシスを覚え、ハンカチで目を拭った。
俺が今年度ベストワン級と絶賛するのは、個人的な思い出と連なっているからだ。加藤、監督、スタッフ、キャストによる手作り感たっぷりの映画に拍手を送りたい。愛っていいものだな。