酔生夢死浪人日記

 日々、思いついたさまざまなことを気ままに綴っていく

「彼女は夢で踊る」~心に刺さるラブストーリー

2020-10-31 22:07:23 | 映画、ドラマ
 きょうはハロウィーンだったが、コロナ禍で盛り上がりに欠けたようだ。ハロウィーンの起源は「ウィッカーマン」(前々稿)に描かれたケルト発祥の悪魔崇拝の儀式だが、<ハレとケ)>の伝統に近いからか、日本でも一気に浸透した。マルクス・ガブリエルは来日時、<静寂が叫んでいるようだ>と東京を評していたが、この国の若者にとってハロウィーンは、内なる叫びを爆発させる機会なのだ。

 束縛から逃れたいのに、手段が見つからないまま土に還る。俺もそのひとりだが、壁を越える者もいる。例えばストリッパー? 吉田拓郎の「舞姫」(作詞・松本隆)を重ねながら、新宿武蔵野館で「彼女は夢で踊る」(2019年、時川英之監督)を見た。

 舞台は「広島第一劇場」だ。主人公の木下信太郎は二人一役で、青年期を犬飼貴丈、現在を加藤雅也が演じている。想定タイムラグは四半世紀で、二つの時代がカットバックしながら物語が交錯し、現世と彼我を結ぶ幻想的なラブストーリーとして収束する。「ラジオの恋」に感銘を覚えた加藤が時川監督にアプローチしたことが、本作誕生のきっかけになった。

 木下は失恋の傷を引きずって広島にやって来た。ぶらり入ったバーで、サラ(岡村いずみ)に一目惚れする。「広島第一劇場」で踊るストリッパーとマスターに教えられ、劇場に足を運んだ。彼女の踊りに魅せられた木下は、高尾オーナーに直訴して住み込みで働くようになる。

 「なぜ、裸になるの? 恥ずかしくないの?」……。木下の問いに、サラは裸身を晒すことで解放感と高揚感を味わえると話していた。実際はどうだろう。脱ぎ捨てることで絶望と慟哭、そして自身の痕跡を消したいというアンビバレントな思いに、サラは引き裂かれていたのかもしれない。

 上記の「舞姫」は普遍的な男女の恋の本質に迫った曲とも取れる。♪舞姫 不幸は女を 舞姫 美しくする 男をそこにくぎづける(中略)舞姫 人は死ぬまで 舞姫 運命という 糸に引かれて踊るのさ……。このフレーズにサラの生き様を重ねてしまった。コケティシュでミステリアス、アンニュイで影があるサラは、男が魅せられる古典的なヒロインだと思う。

 話は逸れるが、「洞窟おじさん」(全4回)を再放送で見た。実話に基づき映像化されたドラマで、主人公・一馬の青年期を中村蒼、中年以降をリリー・フランキーが演じていた。50歳を過ぎても女性を知らず、偶然知り合った真佐子さん(坂井真紀)に気持ちを伝えられない一馬を見かねたホームレスの先輩が、〝女性入門編〟としてストリップ観賞を勧めた。再会した真佐子さんに「ストリップを見てから明るくなったね」と言われていた。

 サラへの思いが募る木下に店を譲るつもりでいた高尾は、「天の岩戸」を引き合いにストリップの存在理由を説く。前稿で紹介した「ワカタケル」にも登場する神話だ。天照大神が岩戸に隠れ、世界が闇になった時、神々が会議を開いた。その前で〝日本最古のストリッパー〟アマノウズメが服を剥いでいくと、男の神々が笑いながら囃し立てた。「何事か」と天照大神が顔をのぞかせ、世界が再び光で溢れたという内容で、上記の一馬のエピソードにも通じている。

 俺も20代の頃、ストリップ劇場に数回、足を運んだ。ストリップといっても業態は様々だったが、その辺りは省略する。池袋のM劇場は平均年齢が高く、現在の俺(64歳)ぐらいの年の男が、ダンサーの秘所に見入っていたのが不思議だった。男と女の超えられぬ深淵というべきか。彼らの会話から年金生活者であることが窺い知れた。死ぬまで働かされる現在と比べ、1970~80年代の日本は遥かに豊かだったのだろう。

 「彼女は夢で踊る」の肝は主題歌であるレディオヘッドの「クリープ」だ。痛いほどの失恋ソングで、90年代半ばの来日公演でトム・ヨークが歌詞さながらステージを這い回るように歌った時、「トム、大丈夫」と客席の女性たちが声を掛ける。4作目以降、失速したというのが初期からのファンの思いだが、それはともかく、当時はロックファンと同じ目線のバンドだった。

 サラはステージで「クリープ」に合わせて裸身を晒し、ヤング木下と訪れた早朝の港でサラが踊るシーンでも背景に流れていた。エンドタイトルではオールド木下が、この曲をバックにぎこちなく踊っていた。

 閉館興行でサラそっくりのメロディーが劇場にやって来た。ようこ(矢沢ようこ)にサラの消息を聞かされた木下は悄然とする。孤独な病死だった。頼りたければ劇場に来ればいいのに、サラはフェイドアウトしたままだった。彼女への思慕、自分の無力さを悔やむ木下を慰めるため、彼にしか見えないメロディーの形になって来世から訪問したのだ。切なく悲しい結末にカタルシスを覚え、ハンカチで目を拭った。

 俺が今年度ベストワン級と絶賛するのは、個人的な思い出と連なっているからだ。加藤、監督、スタッフ、キャストによる手作り感たっぷりの映画に拍手を送りたい。愛っていいものだな。
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「ワカタケル」~池澤夏樹が迫る日本の原像

2020-10-27 23:28:08 | 読書
 「欲望の時代の哲学2020~マルクス・ガブリエルNY思索ドキュメント」(全5回、NHK・Eテレ)でガブリエルと対談したカート・アンダーソン(作家)は<米国において現実と幻想が混濁し、インターネットの進化によって幻想が制御不能になった。過剰な自由がこの国の課題>と語っていた。〝SNSの暴走者〟の代表格が「2万回の嘘をついた」と指摘されている米トランプ大統領である。

 日本でも構図は変わらない。学術会議関連で政治家がフェイクニュースを垂れ流していることは「文春オンライン」が報じた通りだ。被害者は後を絶たないが、川上未映子さんもそのひとりだ。ネット上で中傷や脅迫を受けたとして、投稿者に約450万円の損害賠償を求める訴えを東京地裁に起こした。

 さて、本題……。日本はいかに形成されたのだろう? そして、日本人とは? この問いを池澤夏樹は誰より深く考察してきた。「静かな大地」でアイヌを、「カデナ」で沖縄をメインに据えた。世界を俯瞰して眺める池澤は「花を運ぶ妹」で日本軍がインドネシアに残した傷痕を抉っている。

 池澤は早くから原発に疑義を呈していた。「すばらしい新世界」(2000年)で再生可能エネルギーに言及し、3・11直後の「春を恨んだりはしない」で日本人の宿命論、心象風景を綴っていた。1400年前の墳墓盗掘に端を発した<日本-中国-ウイグル-チベット>の関係を背景に据えた「キトラ・ボックス」の延長線上にあるのが、今回紹介する新刊「ワカタケル」(日本経済新聞出版)だ。

 「古事記」や「日本書紀」をベースにした本作には、池澤の歴史観が滲み出ている。古代における女性の地位、仏教伝来(538年)以前のスピリチュアルな信仰、奔放な性、朝鮮半島と日本の濃密な関係、和歌の持つ意味をポイントごとに記したい。

 大王ワカタケルとは雄略天皇(在位457~479年)である。ワカタケルは死後に送られる諱(いみな)で、語り部は青春時代の恋人――と書くと今風に過ぎるか――のヰトで、采女として仕えていた。「古事記」の編纂に関わった稗田一族で、阿礼の名を継いでいる。ワカタケルの暴走を戒めるなど、ヰトは大きな影響力を行使する。力の源泉は予知能力で、犬、狐、鳥を自在に操ってワカタケルを支えた。

 史実を伝える職務に専念するためワカタケルの元を去る時、ヰトは魂と能力を共有するワカクサカを太后に据えるよう進言する。ワカタケルが大王に就くに当たって大きく寄与したのは、ヰトとワカクサカ太后の精霊と交流するシャーマン的な能力で、治世の前半は穏やかに過ぎた。

 世界十大小説に「苦海浄土」を挙げ、「世界文学全集全30巻」の責任編集者として日本から唯一、同作を選出したように、池澤は石牟礼道子の最大の理解者だった。社会活動家としての側面が強調される石牟礼だが、激情と狂いを秘めた童女であり、自然児だった。

 池澤が<営みの一切は魂の深さに関わっている>と評した石牟礼は、精霊や死者と交流する姿を目撃されている。池澤がヰトとワカクサカ太后を造形する際、自然と一体化した石牟礼をイメージしたのではないか。ヰトに加え、ワカタケルには優秀なアドバイザーがいた。渡来人の李先生である。

 李先生は支配者としての道を説き、故事来歴、典礼、海彼との距離感を教える。「爆笑問題のニッポンの教養」を紹介した稿(2010年3月)で静岡市立大・鬼頭宏前学長(放送当時、上智大教授)は、「奈良時代の人口の70~80%は朝鮮半島からの渡来者」と語っていた。日本と朝鮮半島は、肉体のみならず精神や文化のDNAを共有しているのだろう。

 粗暴だったワカタケルは歌人としても知られており、本作にも多くの歌が紹介されている。前稿で紹介した「ウィッカーマン」の舞台サマーアイル島の住民の如く、ワカタケルは奔放だった。大王ゆえ〝役得〟はあったが、周りの者も同様だ。仏教と政治との結びつきが性を縛ったのだろう。

 現代的にいえば、外交の失敗でワカタケルは治世の後半、求心力を失う。新たに大王になる意思を固めたのは、女性の力を確信するワカクサカ太后だ。カタストロフィーの後、細い糸を手繰り寄せる作業で新たな大王を決める経緯に、俺は〝万世一系〟への疑義を感じた。歴史は都合良く改変される。仏教は皇室にとって、秩序を保つ最高のツールだったのだ。

 誰彼構わず共寝(同衾)に誘うワカタケルだが、歌を贈って気持ちを伝えるという礼儀を尽くすうち、歌人としての能力を磨いたともいえる。ある時期まで相聞歌を詠む力が、美女の条件だったのかもしれない。上記した川上未映子さんは作家、詩人で俳優でもある。時代を超越し、あらゆる点で美女の条件を満たしている。裁判を終え、新たな傑作を発表することを願っている。
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「ウィッカーマン」~伝説のカルト映画が顛倒させる<神と悪魔>

2020-10-24 16:20:44 | 映画、ドラマ
 警察や検察に抵抗を覚える俺だが、ブログを書く時はスカパー!で録画した刑事ドラマを視聴し、〝BGD〟として活用している。最近発見したのは「警視庁機動捜査隊216」(2010年~、全10回)だ。沢口靖子演じる目黒分駐所第二機捜・沢村班長は、捜査一課時代に関わった事案で、「撃つべきか、それとも……」と今も悩む孤独でクールな警部補だ。

 テンポの速さ、金子巡査部長(赤井秀和)らとのチームワークも魅力だが、最大のポイントは社会性だ。沢村に横恋慕する土井記者(西村まさ彦)との掛け合いで、格差、汚職、ブラック企業、貧困ビジネス、介護、痴呆老人、家庭崩壊、不毛なSNSなど、この国の闇を抉っている。瀬戸大作氏の活動に重なるので前稿の枕にとも考えたが、バランスを勘案してスライドした。

 さて、本題……。今回は新宿ケイズシネマで見た英映画「ウィッカーマン ファイナルカット」について記したい。「ウィッカーマン」(1973年、ロビン・ハーディー監督)は悲劇と伝説に彩られた波瀾万丈の〝カルト映画〟だ。紛失していたネガフィルムが見つかり、監督自身が再編集して公開にこぎ着けたのがファイナルカット版である。

 俺は20年ほど前、スカパー!の映画チャンネルでオンエアされた本作を見た。舞台はキリスト教以前の土着信仰が根付いたスコットランドの孤島である。ちなみに2006年のリメーク(ニコラス・ケイジ主演)は、女権主義者が支配するアメリカの島に設定を変えていた。

 冒頭、スコットランド警察のハウイー刑事(エドワード・ウッドワード)が、行方不明になった少女ローワン・モリソンを捜索するため、水上飛行機でサマーアイル島にやってきた。依頼の手紙がハウイーに送られてきた経緯は最後に明かされる。

 婚約中のハウイーは結婚まで純潔を守るという敬虔なクリスチャンだ。島の様子はフリーセックスを謳歌する当時の風潮と近く、教育にも及んでいた。自身の〝常識〟と対極にある性の解放に怒りを覚えたハウイーは、宿屋の娘ウイロー(ブリット・エクランド)の濃厚な誘惑を拒絶した。本作の見どころの一つは踊るエクランドの艶やかな裸体だが、吹き替えとの説もある。

 ハウイーの問いに、全ての島民たちは「ローワンなんて知らない」と答える。よそよそしい態度は、ハーディー監督の実体験に基づいていた。ドキュメンタリー制作スタッフとしてケルト文化が根付くコーンウォールを訪れた際に見聞したことが、本作の幾つかのシーンに反映しているという。

 本作を観賞した方は既視感を抱いたはずだ。映画やドキュメンタリーに現れるカーニバルは祝祭的、呪術的、異教的なムードに包まれ、サマーアイルの五月祭と重なる。ハウイーはキリスト教が放棄された島で、絶対的な存在であるサマーアイル卿(クリストファー・リー)と対峙する。

 島民は輪廻転生を信じている。ローワンの妹は姉の実在を否定しつつ、「ウサギのローワン」と呼んでいた。ローワンの墓に行き着いたハウイーが掘り返してみると、棺にはウサギの死骸が納められている。キリスト教への冒瀆、公教育の崩壊を伝えるためスコットランドに戻ろうとしたハウイーだが、用意されたシナリオから逃れる方法はなかった。

 狂気に彩られたミステリアスな内容とアンビバレンツなサントラは、穏やかなブリティッシュトラッドだ。英国では古代、多神教を信仰する人々をキリスト教徒にするため、自然のサイクルを司るジョン・バーリーコーンをキリストとして擬人化した。トラフィックの名盤「ジョン・バーレイコーン・マスト・ダイ」(70年)も、この伝説に基づいているはずだ。

 ハウイーがキリスト教、サマーアイル卿が異教=悪魔を象徴しているという図式も成り立つが、死を前にハウイーが捧げた祈りの対象が、キリストからサマーアイル卿に変わったというのは穿ち過ぎかもしれない。次稿で紹介する小説の舞台は、性が解放され、万物に神が宿っていた仏教伝来以前の日本だ。キリスト教や仏教は人間を幸せにしたのだろうか、それとも束縛のツールだったのか……。俺の中で価値の顛倒が起き始めた。
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五箇&瀬戸氏に「コロナ時代」を生き抜くヒントを学ぶ

2020-10-21 22:07:02 | 社会、政治
 側近の顔ぶれから公安・警察色の濃い菅政権の下、情報管理は進むだろう。喧伝される「新しい日常」に、好戦ムードを煽った国民運動総動員運動が重なって、不安と恐怖を覚える。前政権からの〝宿題〟東京五輪開催は、ほぼ不可能になった。欧米では凄まじい勢いで新型コロナ新規感染者が増えている。

 ポスト・コロナ時代は訪れず、人類は永遠にコロナ時代を生き続けることになるかもしれない。俺もこの間、Zoomでイベント等に参加していたが、久しぶりにリアル講演会に足を運んだ。研究所テオリア主催のシンポジウム<「コロナ時代」を生き抜くために>(文京シビックセンター)である。

 <「新型コロナ」から学ぶこと――グローバルからローカルへ>(五箇公一氏=国立環境研究所)、<「コロナ災害」に立ち向かう――緊急支援の現場から>(瀬戸大作氏=反貧困ネットワーク)の2部制で、Zoomで視聴した方は多かったはずだ。五箇氏はブログで何度も紹介した生物学者、瀬戸氏はコロナ禍による困窮者のために奮闘する活動家……。立ち位置が異なる両者の講演は「コロナ時代」のビフォア、ナウ&アフターに迫る充実した内容だった。

 新型コロナ蔓延の原因は2つある。一つはグローバリズムによる物流の広がり、もう一つは自然破壊だ。2月に「デモクラシーNOW!」HPで科学ジャーナリストの警告に触れて以降、自然とコロナの因果関係に気付く。とりわけ説得力を覚えたのは五箇氏の論考で、新型感染症の半数は野生生物由来という。

 乱獲、気候変動、途上国の簒奪により、生息地を破壊された野生動物の生活パターンが変化し、ヒトと動物の距離が今までにないほど接近した。ダニ学者で生物多様性の保全に取り組む五箇氏は、仮に新型コロナが終息しても、新たなウイルスが発生する可能性が高いと指摘し、それを防ぐために必要な手段を提示する。

 まずは生物多様性破壊を減速させ、生態系のゾーニングを確立し、自然との共生を目指す。そのためにグローバリズムから脱却し、ローカリゼーションと地産地消を志向することを主張していた。里山の意義を説く五箇氏と重なったのは第19回「脱成長ミーティング」(昨年8月)で講師を務めた大沼淳一氏だ。同氏は日本人が共生してきた温暖な気候、森林、豊かな水資源に立脚し、新たな社会モデルを形成するべきと提言していた。
 
 五箇氏は長いスパンで生物多様性を軸に論じていたが、瀬戸氏は計36団体から成る「新型コロナ災害緊急アクション」を結成し、コロナ禍に追い詰められた人々に不眠不休で寄り添っている。雇い止めやリストラで家賃やローンの支払いに苦しむ人が急増しているが、中でも目立つのが若者の窮状だという。

 瀬戸氏の元には連日、「もう何日も食べていない」、「今から野宿」といったSOSの電話がかかってくる。生活保護を申請しても住居は提供されず、自立支援より就労支援が優先される。福祉事務所を訪ねると、かの竹中平蔵氏が会長を務めるパソナなど人材派遣会社の求人票が貼ってある。菅首相は就任後、まず竹中氏と会食した。そのキャッチフレーズは自助、自己責任で、官民一体になった〝貧困ビジネス〟が進行中なのだ。

 前々稿で紹介した映画「スペシャルズ」では、責任を回避する<公>に弾き飛ばされた青少年のために奮闘する<民>を描いていた。瀬戸氏は同作のW主演、ブリュノとマリクに重なる点が大きい。後退した日本の<官>は弱者に手を差し伸べないから、新型コロナ災害緊急アクションのような良心的な<民>が必要なのだ。

 瀬戸氏が語るエピソードの数々に胸を抉られる。生活に困窮し、風俗産業で働く女性を食い物にする経営者と闇金業者がいる。瀬戸氏はクルド人など外国人労働者の援助にも取り組んでいる。国連の「恣意的拘禁作業部会(WGAD)」がこの9月、日本の入管収容制度における長期収容は世界人権宣言と国際法に違反し恣意的であると結論付けていた。

 俺はかつて、瀬戸氏が所属する反貧困ネットワークの会員だった。メアドの変更を伝えなかったので縁が切れ、会費や寄付を送れなくなった。忸怩たる思いがあるが、今の俺には活力も金銭的な余裕がない。陰ながら瀬戸氏、反貧困ネットワーク、そして新型コロナ災害緊急アクションの活動を折に触れて伝えることが俺の責務だ。
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「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」~音楽に救われた前半生を振り返る

2020-10-17 22:58:01 | 音楽
 おととい(15日)、64回目の誕生日を迎えた。この10日余り、ビートルズの「ホエン・アイム・シックスティー・フォー」が脳内で木霊している。俺は〝永眠のリハーサル状態〟だが、父は64歳の頃、司法書士、塾経営をこなす傍ら、家庭菜園、囲碁クラブ、パチンコ、仲間内の旅行と慌ただしい日々を過ごしていた。その父が召されたのは69歳……。俺にどれほどの時間が残されているのだろう。

 今回は音楽を軸に前半生(30歳まで)を振り返る。幼い頃、母、亡き妹に加え祖母が同居していた。3代の女性が歌番組を好んだこともあり、俺も小学生時代、歌謡曲に詳しかったが、偶然ラジオで聴いたビートルズの「シー・ラブズ・ユー」に痺れたことがきっかけで、グループサウンズ、「ザ・モンキーズ」を経て嗜好が変わった。

 中学生になると深夜放送に夢中になり、「ヴィーナス」(ショッキング・ブルー)、「トレイン」(1910フルーツガム・カンパニー)、「霧の中の二人」(マッシュマッカーン)で洋楽ファンになる。同じ道を歩んでいた同級生たちは中3の頃、揃って〝転向〟する。新3人娘(小柳ルミ子、天地真理、南沙織)の影響は絶大で、俺が一歩進んでロック派になったのは「ウッドストック」、「ギミー・シェルター」、「レット・イット・ビー」を見たからだと思う。

 ザ・フー、クラッシュ、エコー&ザ・バニーメン、キュアー、スミスら贔屓のバンドと次々に出合ったが、邦楽ロックではルースターズ、PANTAを追いかけた。PANTA&HAL名義の2枚のアルバムは80年代前後、世界観とサウンドストラクチャーで世界の頂点に到達していた。最も心を揺さぶられたのは、めんたいロックの流れを酌むザ・バッヂだ。

 彼らの上京後初ライブを偶然、エッグマンで見た(当時ザ・レイン)。友人のバンドとの共演で、彼らを知る者は皆無のアウェイ状態だったが、瞬く間に知名度を上げ、新宿ロフトをフルハウスにするまでになった。ジャムの来日公演(82年)で前座を務めた後、シーンから消えた。好きな女の子が突然消えたような喪失感に沈んだが、バッヂは世紀が変わった頃に再評価され、俺の中の〝未完のストーリー〟は完結した。

 「MUST BE UKTV」(BSプレミアム)は80年代に活躍したアーティストによるスタジオ ライブを収録している。懐かしさを覚えたが、プリファブ・スプラウトを除いて感興を覚えなかった。一方で、居酒屋ランチを食べていて心が潤むことが頻繁にある。有線放送の「赤いハイヒール」で零れた涙が、鶏野菜スープに塩味をペーストする。「ザ・カバーズ」(BSプレミアム)では宮本浩次が歌う「木綿のハンカチーフ」に胸が熱くなった。

 それぞれ太田裕美の4th、5thシングルで、傷と恥多き青春時代の記憶と重なったのだろう。ともに作詞は松本隆、作曲は先日亡くなった筒美京平さんである。齢を重ねると童心に帰るというが、俺はロックで研ぎ澄ました湿っぽい感性を取り戻したのか。

 俺の部屋の棚にはCDが溢れている。失意と孤独に苛まれていた暗い青春期を救い、癒やしてくれた作品の数々だ。他の人にとってはゴミの山かもしれないが、音楽に限らず小説や映画の数々により、俺は何とか東京砂漠の隅っこで生き長らえている。
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「スペシャルズ」~スクリーンに迸る血の通ったリアリティー

2020-10-13 20:09:14 | 映画、ドラマ
 飢餓救済が評価され、世界食糧計画(WFP)にノーベル平和賞が授与された。その活動に敬意を表したいが、WFPを傘下に置く国連は、飢餓の原因といえる紛争、グローバル企業による簒奪に抑止力を発揮しているのだろうか。常任理事国5カ国は大量の武器を輸出する〝紛争創出装置〟、グローバル企業の〝伴走者〟であることは否めないからだ。

 飢餓とまでいわないが、米国の現状も深刻だ。前稿の枕で、コロナ禍による失業者、困窮家族救済を軸とした共和・民主両党の協議を打ち切ったトランプを批判したが、CNNやNHK・BS1を見ていると、同国の貧困がコロナ禍で臨界点に達していることが窺える。公平な社会(≒社会主義)を訴えるバーニー・サンダース、その影響を受けた<民主党プログレッシヴ>への支持が拡大しているのは当然だ。

 「デモクラシーNOW!」のHPには、貧困問題に取り組むウィリアム・バーバー師の言葉が紹介されている。いわく「米国人の半分近くは貧困で,コロナ禍以降、生活苦に喘ぐ人は数百万増えている。それにもかかわらず、大統領選では格差と貧困が無視されている」(趣旨)……。多くの弱者が喘いでいるのは米国だけではない。

 新宿で先日、仏映画「スペシャルズ」(19年)を見た。監督・脚本は「最強のふたり」(11年)で全世界の注目を浴びたエリック・トレダノ&オリヴィエ・ナカシュのコンビだ。「最強のふたり」は人生の意味を問う至高のエンターテインメントだった。本作もその延長線上かと想像していたが、同じく愛をメインテーマに据えながら、全編シリアスなトーンに貫かれていた。

 本作の主人公は2人の男だ。自閉症の青少年のための介護施設「正義の声」代表のブリュノ(ヴァンサン・カッセル)と、ドロップアウトした問題児と向き合う「寄港」運営者のマリク(レダ・カテブ)である。両者は親友で、二つの組織は一心同体なのは、「寄港」で更正したディラン(ブライアン・ミアロンサマ)が「正義の声」スタッフになったことに表れている。

 「正義の声」は未認可で赤字経営。働く者の多くは無資格で、仕事はハードで低賃金というのは、日本の介護の現場と変わらない。厳しい状況に身を置きながら笑みを絶やさぬブリュノとマリクの合言葉は「何とかする」……。だが、「正義の声」に厚生省の査察が入り、〝何ともならない崖っ縁〟に追い詰められる。  

 ブリュノとマリクは矜持、侠気、反骨精神に溢れ、子供たちを守るために体を張っている。本作は実話に基づいており、ブリュノ、マリクだけでなく登場する子供たちにも実在のモデルがいる。だからこそ、スクリーンに血の通った骨太のリアリティーが迸っている。

 電車の警報ボタンを押す癖があるジョセフは、試用期間(1週間)を設けられて工場で働くことになったが、他者への距離感を掴めず、正式採用は認められなかった。自損行為を防ぐためヘッドギアを装着したヴァランタンが、ディランが目を離した隙に失踪したことで、「正義の声」の存続は難しくなる。

 査察官とブリュノの直接対決が本作のハイライトだ。血の通わないデータや資料に拘泥する査察官に、ブリュノは怒りをぶちまける。「正義の声」に収容されている青少年の状況を説明しながら、「数十人の入居希望者を含め、あなたたちが全員引き取ってくれ」と迫るブリュノに、査察官は声を失くした。

 <官→民>は新自由主義の常道だが、フランスでは<官>に見捨てられ、たらい回しにされた重症の自閉症に苦しむ少年たちが、<民>すなわち「正義の声」にたどり着く。ブリュノたちの奮闘により法律が改正され、民間への委託が拡大する。ラストのチャリティーショー、子供たちがスタッフとともにバスケットやサッカーに興じるシーンに希望の灯が射していた。

 ブリュノがユダヤ人、マリクがイスラム教徒という設定も興味深かった。憎み合うはずの二人だが、世界観と高邁な目的を共有するから手を携えることが出来る。ちなみにブリュノは〝出会い系〟にはまっている。彼に思いを寄せている秘書の女性が気を揉んでいることに気付いていないようだ。

 ここ数年、関心が薄れていたNFLだが、今季は週に1、2試合見るようになった。贔屓のシーホークスが開幕5連勝と好調なこともある。HCはブリュノに似た熱血タイプのピート・キャロルで、2度目のスーパーボウル制覇を期待したい。
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「鵞鳥湖の夜」~スクリーンの闇に誘われ、夢現を彷徨う

2020-10-09 12:51:56 | 映画、ドラマ
 王将戦挑決リーグで豊島竜王が藤井2冠を、王座戦第4局では久保九段が永瀬王座を破った。ともにAI的には大逆転で、天才たちの〝人間の証明〟というべきかもしれない。棋界最大のイベントがきょう始まった。タイトル100期を目指す羽生九段が復調気配の豊島竜王に挑戦する。結果と感想は逐一、ブログで紹介したい。

 香港政府は共産党の圧力を受け、「独立思想を教えた」として小学校教師の登録を取り消した。日本でも同様のことが起きている。官邸による日本学術会議への人事介入だ。任命拒否されたのは戦争3法に反対した学者6人で、伏線は3年前に遡る。同会議の日本版「軍産学複合体」反対声明を、<安倍機関=菅機関>の読売新聞などが批判していた。中国、ハンガリーら独裁国家はメディアを実効支配しているが、日本の現状もかなり深刻だ。

 トランプのこの間の常軌を逸した言動に愕然とさせられたが、最悪なのはコロナ禍による失業者、困窮家族救済を軸とした共和・民主両党の協議を打ち切ったことだ。<1%>のみの利益を追求する〝狂気〟のトランプは、〝普通〟のバイデンに水をあけられつつある。

 枕が殊の外、長くなったのには理由がある。新宿で先日、中国映画「鵞鳥湖の夜」(2019年、ディアオ・イートン監督)を見たが、夜景のシーンが続くスクリーンに見入っているうち、業後の疲れもあったのか、闇に落ちてしまったのだ。的外れの感想を以下に。

 チョウ(フー・ゴー)は降りしきる雨の中、高架駅の前で妻ヤン(レジーナ・ワン)を待っていた。「おにいさん」と声を掛けてきたのは、鵞鳥湖で水浴嬢(娼婦)を生業にするアイアイ(グイ・ルンメイ)で、ヤンは来ないという。チョウは自分に掛けられた懸賞金(30万元)を妻に渡したかったのだ。

 チョウは5年の刑期を終え、バイク窃盗団に戻ったが一騒動あり、誤って警官を射殺してしまう。指名手配されたチョウを、捜査を指揮するリウ隊長(リャオ・ファン)、ギャングたち、水浴嬢を束ねるホア(チー・タオ)らが追いかける。朦朧としていた俺を時折刺激したのが光の渦、銃声、雨音、バイクの轟音だった。鮮やかで妖しい照明、音響、美術に、鈴木清順の作品の断片を重ねていた。

 <アウトサイダーとファムファタールが織り成すフィルムノワール>が本作の謳い文句で、俺は観賞、いや、ぼんやりスクリーンを眺めているうち、既視感を覚えていた。イーナン監督の前作「薄氷の殺人」(14年)でW主演を務めたグイ・ルンメイとリャオ・ファンが重要な役柄を演じていたことが大きかった。主役のフー・ゴーは目の動きで、凍えるような心象風景を表現していた。全編を貫くダークな色調はオーソン・ウェルズ、アンリ=ジョルジュ・クルーゾーに共通している。

 冒頭で謎を突き付けられた。なぜ、水浴嬢のアイアイが妻の代わりに来た? 2人の関係は?……。「悪魔のような女」(上記のクルーゾー)のような展開がよぎる。俺が肝心な糸口を見落としていたに相違ないが、太陽の下でのラスト、リウ隊長も呆然としていた。もう一度見たら、謎は解けるだろうか。
 
 この間、中国映画を見る機会が多かったが、絶賛の嵐だったビー・ガン監督の「凱里ブルース」と「ロングデイズ・ジャーニー」には距離を感じた。一方で自ら命を絶ったフー・ボー監督の「象は静かに座っている」は昨年のベストワンで、冒頭から心を掴まれ緊張を切らさず4時間を過ごした。その時の体調で見え方が変わってしまうのは仕方ないが、本作のイートンにしてもフー・ゴーにしても、中国の映画監督には試練が待ち受けている。

 映画は社会とリンクした芸術ゆえ、映画祭で香港、ウイグル、国内の言論封殺について、監督たちは質問攻めに遭うだろう。1968年、ルイ・マル、トリフォー、ゴダールらは学生、労働者、市民との連帯を訴え、カンヌ映画祭を中止に追い込んだ。マフマルバフ、ゴバディ、パナヒらイランの巨匠たちは弾圧と検閲をかいくぐり、物語が神話に飛翔する一瞬をスクリーンに焼き付けた。

 「鵞鳥湖の夜」の多くのシーンは武漢で撮影されたという。<コロナは大丈夫>という国家のフェイクで肉親を失い、当局に抗議して監視下に置かれている家族が、昨夜の「国際報道2020」で紹介されていた。イートンが<AI独裁国家>に疑問を抱き、イラン人監督たちに倣って国外に出る日が来るかもしれない。本作に漂う閉塞感が前触れというのは、俺の勝手な妄想だけど……。
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「ブルックリン・フォリーズ」~人生の意味を問いかけるレクイエム

2020-10-05 22:04:05 | 読書
 史上最低の討論会に続き、トランプのコロナ陽性と、大統領選は混沌の極みで進行しそうだ。ヤジを飛ばすトランプにバイデンが気色ばんでいたが、世論調査に驚いた。49%がバイデン優位、10%が引き分け、41%がトランプ優位……。トランプ応援団が集まった会場は、トランプの不規則発言に大いに沸く。檄を飛ばされたプラウド・ボーイズ(白人至上主義者)も勇気づけられたことだろう。

 別稿(9月11日)で紹介した「ジョーカー」で印象的だったのは、アーサー(ジョーカー)が、「狂っているのは僕? それとも世間?」とカウンセラーに尋ねるシーンだ。アメリカ社会が正常の範囲なら、狂っているのは俺だ。ある小説が、ふと覚えた不安を取り除いてくれた。ポール・オースター著「ブルックリン・フォリーズ」(2005年、新調文庫/柴田元幸訳)である。

 オースターはユダヤ系作家を代表するひとりで、舞台は多くのユダヤ人が暮らすニューヨーク。9・11を数日後に控えた頃、物語は幕を閉じる。主人公は退職したばかりのネイサン・ウッドで、離婚と娘との確執、大病と問題を抱えており、死に場所として故郷のブルックリンを選ぶ。

 ブルックリンは移民たちが暮らし、多様性とアイデンティティーを尊重する街だ。中流階級、低所得者、ホームレス、野良犬が肩を寄せ合うダウンタウンで、自然も豊かだ。孤独な老後の気晴らしとして、自身の来し方を〝愚行の書〟に綴り始めたことが、鮮やかなラストに繋がっていく。ブルックリンを丁寧に描写す筆致に、オースターの街への愛情が滲んでいた。

 別稿で紹介した「猿の見る夢」(桐野夏生著)の主人公も59歳だった。「ブルックリン――」のネイサンも60歳前後で俺と同世代だ。自身を愚か者と見做し、自嘲的、自虐的に語る点には親近感を覚えたが、その実、格段の差がある。保険会社で辣腕を振るったネイサンは世知長けており、判断力と機動力を併せ持っている。

 人情が息づくブルックリンで、人生の奇跡が現出する。起点になったのは甥トムとの再会だった。に感嘆させられたが、起点になったのは甥トムとの再会だった。 トムは親族の期待の星で、研究者、大学教授として成功への道を歩んでいたが、突如ドロップアウトする。ニューヨークに流れ着き、タクシー運転手を経て書店員になったトムは敗者の匂いを纏う肥満した青年になっていた。

 ネイサンとトムに加え、強烈なキャラクターを持つ2人が物語の回転軸になる。ひとりはトムが勤める古書店「ブライトマンズ・アティック」の主ハリーだ。ゲイのハリーは、かつて絵の贋作を商売の糧にして臭い飯を食ったことがある。波瀾万丈の人生を謳歌する悪党なのだが、なぜか憎めない。ちなみに、物語の後半にはレズビアンのカップルが誕生する。

 トムの専門は文学で、ネイサンとハリーにも多少の蓄積はある。ポー、ソロー、カフカを遡上に載せた文学論を楽しめた。「緋文字」の作者ホーソーンが後半、二重の意味でキーワードになっていた。オースターの構想力、魅力的な登場人物の造形、ユーモアに溢れた語り口に感嘆し、今までなぜ気付かなかったのか不思議な気がした。

 もうひとつの回転軸はトムの妹レイチェルの娘で、ネイサンの姪に当たるルーシーだ。トムは道を外したが、レイチェルは軌道得から転がり落ちた。全米を放浪したレイチェルは、ルーシーを兄に託した。9歳の神々しい美少女は〝沈黙の行〟でネイサンとトムを困らせるが、次第に打ち解け、二人の心の灯台になる。ルーシーの〝愚行〟がトムに至福をもたらした。

 人を騙すのを習慣にしているハリーは、自らが掘った穴にはまり、裏切りに遭って非業の死を遂げたが、ネイサンの機転により緩やかで柔らかなエンディングに導かれる。大団円と思いきや、ネイサンは生と死の境界を彷徨うことになる。その経験で人生と言葉の意味に思い当たったネイサンは回復後、ある決心をする。9・11で亡くなった人々へのレクイエムを、時系列を前倒しに準備するのだ。

 枕で<アメリカ社会が正常の範囲なら、狂っているのは俺だ>と記したが、その思いをネイサン、トムと共有していた。両者は平均的なユダヤ人で、民主党支持者だ。共和党、ブッシュ、福音派教会は彼らの目に狂人の如く映っている。ネイサンとトムが生きていたら、トランプとネタニヤフが形成する〝悪の枢軸〟に愕然としているはずだ。

 ネイサンが綴っていた愚行の書を俺に当てはまれば当ブログとなる。ともに備忘録、遺書代わり、そして存在証明だ。体力的に更新するのは厳しいが、もう少し続けようと思う。
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コロナウイルスはタナトスを呼ぶ?

2020-10-01 23:41:32 | 独り言
 おとといは横浜スタジアムに足を運んだ。V争いと無関係ゆえ、素直に野球を楽しめた。輝く選手の中でとりわけ目立っていたのは梶谷だ。〝ちゃらんぽらんな天才〟というイメージを抱いてきたが、ヒーローインタビューでは不断の努力を強調していた。FA権を獲得しているが、ベイスターズに残留してほしい。

 同日、開幕投手として菅野が12連勝の球団新記録を作った。俺は小学4年時、ルーキー堀内の13連勝を甲子園で目撃している。ON弾、赤手袋の柴田の盗塁と巨人ファンには堪らない展開で逆転勝ちする。その後、〝浮気〟してテレビでも野球を観戦しない時期もあったが、還暦をすぎて童心に帰った。贔屓チームは変わったが、子供の頃のように野球を楽しんでいる。

 当夜の始球式に登場したのは菜々緒だった。大型ビジョンに映る彼女に見入りながら、俺は思った。菜々緒の代わりに芦名星さんや竹内結子さんがカクテル光線を浴びていても何ら不思議はないと……。ちなみに山崎は菜々緒が投じたワンバウンドをよけきれず、ボールが側頭部に当たる。珍プレーの直後、初球本塁打と怪しい雲行きだったが、佐野の3ランで空気が変わった。

 コロナ禍は社会の隅々に暗い影を落とす。ソーシャルディスタンスが倣いになり、人と人の距離が遠くなった。日々発表される感染者数は人間の無名化、数値化をもたらし、他者に鈍感になる。欧州では共助、弱者との共存がポストコロナの基調になったが、日本については悲観的にならざるを得ない。中村文則が指摘した<公正世界仮説>に取り込まれているからだ。

 公正世界仮説とは、〝社会が理不尽で危険と思うと人は不安になるから、問題があると感じても認めない。誰かが被害を訴えた時、あなたにも落ち度があったと被害者を批判することが社会の主音になる〟……。具体的にいえば、権力者(首相や知事)に阿り、政治の無策にも怒ることなく、自己責任を粛々と受け入れる。<屈辱を噛み締める弱者は立ち上がる>が公式だが、日本では国民が沈黙を守るかもしれない。

 コロナ禍がもたらしたのは、生と死のアンビバレンツな志向性だ。國分功一郎(哲学者)は「生存以外のいかなる価値も認めない社会とは何なのか」と問いかけていた。病院に見舞いにいくことも出来ず、弔いや墓参も簡素化される。その一方で、生と死を隔てる壁が低くなったのではないか。三浦春馬さん、上記の芦名さん、竹内さんの自殺にそんな思いを抱いた。

 彼らは俺のような超凡人と対極にある。周囲は順風満帆と見ていたから、心の裡を誰何するのは難しい。物語、仮想の世界で煌めいている人たちは、現実社会でのリアリティーが希薄になり、その隙にタナトスが忍び寄る可能性もあるだろう。とはいえ、現実に縛られている者は、タナトスに蹂躙されても不思議はない。失業者が溢れ、確実に自殺者は増えるだろう。

 コロナ禍は明と暗を俺にもたらした。明はブログのステイホームバブルだ。遺書代わり、備忘録である点は変わっていないのに、ステイホームバブルで訪問者数は飛躍的に伸びた。バブルだからたちまち旧に復したが、3カ月足らずとはいえ、俺の駄文に多くの方が付き合って下さったことに感謝している。

 暗の方は、皆さんが経験されているように、行きつけの店が次々に営業をやめた。何よりライブスペース「高円寺グレイン」の閉店が痛かった。映画会、トークイベント、ミニ集会など30回近く足を運び、様々な人と出会い、交流出来たことは俺にとって大きな財産で、体の一部がもがれたような痛みを覚えている。

 システム障害で東証が終日、売買停止になった。市場は今、〝1%の運動会〟になっている。コロナ禍対応で財政出動が世界の空気になっている。リスクが小さいとみて、資金は市場に流れているという。今回の件は、<99%>の生活実感と株価が無縁であることを教えてくれた。

 今稿は米大統領選の公開討論会をメーンに据えるつもりだったが、目を覆うような内容について、次稿の枕で記すことにする。
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