プラチナ世代のマラソン旅行

時悠人chosan流処世術

★楽観バイアス(前編):コロナ慣れ

2021-07-31 08:00:12 | 日記・エッセイ・コラム
 ある心理学者が、「オリンピックの開催で、コロナを軽くみる『楽観バイアス』が強まり、緊急事態宣言が意味をなさなくなってきている」と指摘した。

 耳慣れない言葉だが、日常生活でも見かける人間の反対心理を指している。

 五輪の開催と緊急事態宣言という矛盾する条件下では、自分が好きな方に流れるのが自然で、『コロナは大したことがない』と軽視することになる。

 だから、緊急事態宣言を出して、コロナの怖さを訴えても、感染者数が5,000人になろうが、10,000人になろうが、不安を感じなくなる。

 一年前、小池都知事が、「これからは、脱コロナではなく、ウイズ・コロナ」とのメッセージは、一種の『楽観バイアス』で、意図とは違う形で現実化した。

 心理作用を変える有効な手立ては、行動を物理的に制限するか、長期戦を覚悟するしかない。

★感動の本質(番外編):五輪至上主義の見直し

2021-07-30 07:54:02 | 日記・エッセイ・コラム
 2020東京オリンピックは、異例づくめの開催になり、素直に喜べないが、各国代表の選手たちが、しのぎを削る真剣さに救われる。

 しかし、表彰式会場には、勝利の栄誉を祝福する観客の姿が無く、選手が自分でメダルを受け取る光景は、祭典の華やかさを欠き、感動も失せ気味だ。

 さて、「2019年ラグビーW杯」は、日本がアジアで初の開催国となり、日本チームの活躍で、「にわかファン」が増え、ラグビー界に革命を起こした。

 国際統括団体ワールドラグビーが、「これまでで最も素晴らしい大会」と高く評価したのも、ラグビー後進国と評価されていた日本選手が躍動したからだ。

 オリンピックは、「選手間の競争であり、国家間の競争ではない」という五輪本来の理念に立ち返れば、開催国が、国威発揚のために莫大な費用を負担するオリンピック至上主義を見直す契機にすべきだ。

★感動の本質(2/2):食育

2021-07-29 07:40:28 | 日記・エッセイ・コラム
 浜松市のある小学校が、日本財団「海と日本プロジェクト」と連携して、昨年9月よりヒラメの養殖に取り組み、生育期間を終えた6月に開かれた「いのちの授業」の報道番組も示唆に富んでいた。

 子供たちは、稚魚に愛称をつけて観察日誌を書き、育てたが、最終局面で、難しい選択を迫られた。

 養殖本来の目的は、「食べる」ことだが、成長を見守るうちにヒラメが愛おしくなり、食べることが出来ないと涙を流す子や、食べるために育てたと割り切る子等々、それぞれの心の葛藤がいじらしかった。

 全員で話し合って、結論を出そうとしても、なかなか決まらず、最終結論は、多数決で「食べる」ことになり、泣いた子も味を嚙み締め、笑顔に戻った。

 食育基本法は、知育・徳育・体育の基礎となるものと定めているが、「命」を「いただく⇒奪う⇒殺す」と表現を変えれば、重みも違ってくる。

 知識だけに終わらず、自然の恵みや温暖化、更には、命の尊さを学び、「いじめ・誹謗中傷・差別」をしない人間形成に役立てば、素晴らしい。(^^♪

★感動の本質(1/2):高校野球

2021-07-28 07:29:41 | 日記・エッセイ・コラム
 7月21日、新型コロナの関係で、米子松蔭が出場を辞退したあと、主将が、SNSで「試合がしたい」と訴え実現したニュースは、示唆に富む。

 出場辞退の発端は、米子松陰高校の関係者1人が、新型コロナに感染したもので、野球部員や野球部関係者らとの接触はなかったし、抗原検査も陰性だった。

 同校は、春の県大会の優勝校で、本大会の第1シード校だったので、無念さがヒシヒシと伝わった。
 鳥取県高野連は、一旦、不戦敗の判断を下したが、相手校の了解をとり、これをを取り消した。

 メンツを捨てた高野連の温情に応えたかのように、試合も劇的な展開で、1対2で劣勢だった米子松陰が、9回裏に2点を奪って3―2で逆転サヨナラ勝ちした。

 毎年、頂点を射止めるのは、1校だけだが、全高校球児が、熱い思いを胸に、苦しい練習に耐え、県代表を目指すひたむきさと純粋さが、感動を与える。

 大人社会では、新型コロナウイルスに怯え、必要以上にガードを固めている。我々の国には、オリンピックよりも素晴らしいものが沢山あると、気付くべきだと思う。(^^)/

★感動の落差(番外編):真夏の悪夢

2021-07-27 07:35:07 | 日記・エッセイ・コラム
 「世界中の青空を全部東京に持ってきてしまったような、素晴らしい秋日和でございます」。

 1964年東京オリンピックの開会式のテレビ中継が始まった時、NHK北出アナの第一声が流れた。その名調子に、「いよいよ始まるぞ!」と、胸が高鳴った。

 今回のオリンピックは、中継を一切、見ないことにしたので、開会式の様子を知らない。

 不謹慎だが、「世界中のコロナウイルスを東京に持ってきたようで、スタンドに人の姿がなく、重苦しい熱帯夜でございます。」と、発したいところだ。

 私の脳裏には、オリンピックは、さわやかな秋空が広がる10月10日開会の記憶がこびりついている。

 昨年、一年延期を決めた時、日程を変更するチャンスがあった。マラソン会場を札幌に変更してまでも、酷暑の中で開催する理由が、いまだに分からない。

 東京都議選や衆院選、自民党総裁選等々の政治日程で決まったのではないかと、疑心暗鬼に陥っている。