電脳筆写『 心超臨界 』

自分の人生を変えられるのは自分だけ
代わりにできる人など誰もいない
( キャロル・バーネット )

日本語の起源問題は今までの言語学では手が届かない(1/2)――西尾幹二教授

2017-03-22 | 04-歴史・文化・社会
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【 西尾幹二、文藝春秋 (2009/10/9)、p176 】

6 神話と歴史

6-5 日本語の起源問題は今までの言語学では手が届かない(1/2)

「目に見えない薄明の世界」と今言ったのは、ひとつは文字渡来以前の日本人の言語生活のことである。しかし薄明という言い方は正しくなく、文字を必要としないで生きていた古代人の言語生活はそれなりに明瞭で、豊饒であったに違いなく、われわれの思い上がった判断は慎まなくてはならない。

長大な時代を経過するに任せ、悠々と狩猟・漁撈と半農耕の時代をつづけた縄文時代のこの列島には、記録された歴史はなかったとしても、土器や住居趾が示すように、ごく大雑把な意味で共通している生活形式――大陸とは別種の――は多分あったであろう。しかし共同体は恐らくいくつもあり、言語も必ずしもひとつだったとは思えない。単純な共通性ではないにせよ、早くも縄文時代前期中頃――今から5千年前――に栗の栽培など一部に農耕が始まっていたなど定説を覆す諸事実が、三内丸山遺跡などの発掘で近年明らかにされ、驚異の目を見張らせた。シュメールなど都市文明と同時代に、予想以上に高度の文明がわが列島内に構築されていたことが推定されるのである。

としたら、いったい日本語はどこから来たのだろう、という謎めいた問いがあらためて内心に沸き起こってくるのを私はやはり抑えることができない。で、日本語の起源などという厄介な、柄にもないことを少し調べてはみたが、素人の悲しさで、いろいろな書を漁ってはみても、真贋のほどがわからない。

一時代前の書誌学者、川瀬一馬に次の名言がある。

  地理的に考えても、日本の文化と東洋の文化との関係は、日本は東
  洋の一角であるゆえに、在来の過去の長い間の日本文化は、東洋文
  化の中の一変形と見ようとするのも、尤もなことであります。しか
  しながら、日本の文化の歴史を探り、その本質を考えますと、海外
  の文化の影響は外形のことであって、内面的に見ますと、海の外の
  大陸の文化とは大いに異なるものであります。その異なるものは何
  であるか。また、それは何故にそうなったか。それをどうしてわが
  日本民族が身に具えるようになったか。

  海の外の東洋と西洋というものを考えてみると、それは地続きの大
  陸であります。そこでは何らか直接互に交渉し合う。純然たる独立
  の生活は営めません。独立の文化は成り立たない。勿論、民族の相
  違と、地理上、気候風土の条件による変化の相はありますが、根本
  的に見ると、東洋・西洋併せて一つの大陸の文化であります。

  それに対して、一島国の日本――(日本列島)――の文化は、大陸
  の文化と対立すべき内容が、厳然として存在いたします。悪い方の
  現れでは、単なる島国根性などと呼ばれたりしますが、しかしそれ
  は、大陸から独立した島国という条件のもとに生まれた、そのよさ
  を発揮した日本独特の文化であります。

  それ故、地球上に、日本文化と大陸(東洋・西洋)の文化との二つ
  が対立して存在するのであります。これは実に大きな問題でありま
  す。
  【川瀬一馬『日本文化史』】

日本はユーラシア大陸に対峙した独立の一文明である、という考え方は本書の冒頭から展開してきた。繰り返すようだが、日本の文化は東洋と西洋との二大文化が対立するそのなかの、東洋文化の一翼では必ずしもない。西洋の文化ばかりではなく、東洋の文化にも対立している、すなわち両方ひっくるめたユーラシア大陸の文化全体と日本の文化とが相対しているのだという考え方であり、私も基本的に賛成である。

最近は島国のこのような文化の純粋性を否定すべく、古代から海を渡って多種多様な人間の集団が各方面から来訪した諸事実をしきりに強調する歴史家がいる(たとえば網野善彦氏『朝日新聞』平成10年11月5日夕刊)。私もまた列島が多様な人間の集団から成り立つという可能性にはすでに何度も言及してきた。日本人は人種的にはモンゴロイドかもしれぬが、南北両方系が多様に混じり合って形成されていると考えられる。また海が必ずしも障壁ではなく、交流交易の道だったことも事実であろう。ただ、地球上の他の諸文明、たとえばユーラシア大陸の内部と比べたとき、比較相対的に日本が長所と弱点とをともに含めて、縄文以来の長時間尺のなかで自己完結度の高い一固有文化を形成してきたという事実を、あえて否定することなどどうしてできるであろう。部分をわざと拡大し、誇張して全体のように言う議論はやめてもらいたいものである。

川瀬一馬は大陸全体の文化と対立すべき日本文化の実体とは何かと問い、そのなかの決定的なモメント、唯一の文化的所産の現れとして「ことば(日本語)」を挙げているが、私もこれには100%同意する。言語こそ文明の出所由来を明らかにする根本要素だからである。

彼は白鳥庫吉(1865-1942)からの教えとして、日本語の発生・成立は海外の異民族の影響を受けることなしに独立して発達した、と述べているが、私はそこまで言えるかどうかには疑問をもつ。言語はたいてい枝分かれしたり、複数言語が重なって形成されたりするからである。ただ日本語の場合には、見きわめのつく数千年の言語史の尺度において枝分かれの時期がいったい測定できるのか否かが今問われているのだと聞く。

《 (2/2)につづく 》

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