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電脳筆写『 心超臨界 』

強みは物理的な能力がもたらすものではない
それは不屈の信念がもたらすものである
( マハトマ・ガンディー )

神聖な存在である私たちの真の許しとは、罪人ではないと知ることだ――アラン・コーエン

2010-07-07 | 03-自己・信念・努力
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「人生の答えはいつも私の中にある 上」
【 アラン・コーエン、ベストセラーズ、p54 】

《 罪などない 》

『A Course in Miracles』は、神聖な存在である私たちの真の許しとは、罪人ではないと知ることだ、という。世間でよく行われている許しとは、ある行いを罪だとし、その後それを見逃してやろうというものだ。それは、私たちが許したというその罪の存在を認めていることなのだ。それは「まさかりを埋めても、その後どこに埋めたか覚えている」と言われるのと同じだ。(訳注※ネイティブアメリカンが和睦する時にまさかりを埋めた習慣から来ている)。

私の友人のボブの話は、生来の清らかさを如実に語っている。

大学4年生の時、大学の書店の前に卒業アルバムが陳列されているのを見たボブは、1冊どうしても欲しかった。だがお金がなかったので誰も見ていないすきに1冊取り、そのまま持ち去ってしまった。

その後数日間というもの、卒業アルバムを盗んだことで、彼は罪の意識にさいなまれた。恥ずかしさがつのり、他のことは何も考えられなくなってしまった。そしてついに自分の罪を告白しようと決意した。卒業アルバムを書店の店長に差し出し、自分の罪を謝ったのだ。

だが驚いたことに、ボブが告白すると店長は、責めるどころか笑って答えた。

「その卒業アルバムは盗んだわけじゃないよ。もとから無料だったんだよ。在庫が多すぎたから、余ったのをテーブルの上に置いて、『卒業アルバムの欲しい方は書店から敬意を込めて差し上げます』という貼り紙をしておいたんだ。君はその貼り紙を見なかっただけだよ」

ボブは本当は罪を犯していなかったことにショックを受けると同時に、ほっとしただろう。同様に、私たちが自分で犯したと思っている罪は、罪ではなく、単に私たちの意識の中での思い違いに過ぎない。私たちを許している貼り紙を見なかったのだ。

ただし、このボブの物語は、強姦や略奪、強盗までをも全面的に許しているということではない。この物語は、多くの人々が引きずっている罪の意識という重荷を捨て去る方法を語っているのだ。そして、私たちが持っている罪の概念を超えた清らかさがどんなものであるか教えてくれる。

(後略)

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