電脳筆写『 心超臨界 』

歴史とは過去の出来事に対して
人々が合意すると決めた解釈のことである
( ナポレオン・ボナパルト )

三千万円を砂漠緑化に寄付

2004-12-05 | 08-経済・企業・リーダーシップ
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2004-11-08
100キロ・ウォークのゴールは、国民休暇村「伊良湖」の入口すぐ右手に設けられている。ゴールする人はそのままチェックインして、入浴と仮眠を取る。ゴールの制限時間は10月31日午後1時。31日未明から制限時間にかけてポツリポツリとゴールする人たちが続く。朝10:00を過ぎるころには、ゴールを見守る人々で賑わってくる。

その人たちのなかに、今年は伴走(サポーター)の側に回った犬塚社長ご夫妻と犬塚社長のお母さんである犬塚キヨさんの姿があった。家族総出で社員や知人のゴールを待ち構えている。キヨさんは今年90歳。遠めでしたけれど、その姿は宮崎 駿監督のアニメにでも出てきそうなお婆さんのように見える。遠くを見つめる目が、人類の未来をしっかりと見守ってくれているようで、印象的だ。

実は、キヨさんが犬塚社長を砂漠緑化の講演に誘い、どうしても現地を見たいと言い出して、1994年に犬塚社長を連れてモンゴルの砂漠緑化の現地を訪れた張本人である。帰国するとキヨさんは、私財を投げ打って三千万円を植林に寄付する。現在は、そのお金で植えられた15万本の木が青々と繁る森となり、「犬塚の森」と命名されている。

キヨさんの思いは、七福醸造の経営理念である「私達のすべての基準は、それが世界中の子供・子孫にとって『よいことかどうか』です」という言葉のなかにしっかり受け継がれている。

子々孫々のために地球を守ろうという崇高な理念に生きるキヨさんとの出逢いは、運命的だったのではないだろうか。私には、環境保全を目指す自分の心の中に、キヨさんの理念の核を植えつけてもらったように思える。これが100kmを完歩した本当のご褒美なのかも知れない。

キヨさんの砂漠緑化への取り組みは、月刊「到知」2001年4月号に次のように記述されている。
http://www.ajitokokoro.co.jp/omusubi/2001_omusubi01.htm

●犬塚社長が沙漠化防止に関心を持つようになったのは、平成五(一九九三)年三月、七十九歳になる母キヨさんに付き添って、遠山正瑛日本砂漠緑化実践協会全長の講演を聞きに行ったことからだった。

●遠山会長は鳥取大学教授を定年退官後、中国にぶどう園を作る技術指導に行ったことがきっかけで、砂漠緑化に取り組むようになった。そして中国内モンゴル自治区庫布其(くぶち)砂漠の恩格貝(おんかくばい)で植林を続け、九十四歳の今も砂漠化防止に奮闘している稀有な人である。

●遠山会長は声を喋らして、「中国では毎年東京都に匹敵する面積が砂漠化し、黄河も過度に工業用水や農業用水に使われた結果、河口付近では水無しの状態になり、ここ数年は旱魃(かんばつ)の状態が続いています。 

●しかし、砂漠の植林は気温の上昇を抑え、かつ雨をもたらして大地を潤す地球再生運動なのです。気が遠くなるような計画ですが、そこからやらなければならないのです」と訴えたのだ。

●どうしても現地を見てみたいと言うキヨさんに付き添って、犬塚社長は翌年三月、砂漠緑化協力隊に参加し、遠山会長の応援に庫布其砂漠まで行った。でも、気がつき果てるほどにどこまでもどこまでも続く砂漠を見たとき、「こんな所に木を植えても、うまく育つかな。焼け石に水なんじゃないの」と疑問視した。

●でもそれは杞憂に終わった。夏は日中五十度近くまで温度が上がり、みんな屋内に避難し、四時過ぎまで待つしかない過酷な環境なのに、遠山会長たちが砂漠に植えたポプラは活着し、青々とした林になっていたのだ。それはいま現在では緑の点に過ぎないけれども、人間の努力はいずれ砂漠を緑化することになると確信させるものだった。犬塚社長は恩格貝に三日間滞在し、植林に汗水垂らした。

●帰国後、犬塚キヨさんは定期預金や生命保険などを解約して三千万円を作ると、「私はもう八十歳で植林の手伝いはできませんが、これで苗木を買って、植林に役立ててほしい」 と遠山会長に寄付した。

●遠山会長はキヨさんの意を汲んで、「犬塚の森」と命名して十五万本を植林し、現在は青々と繁る森に成長している。
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