電脳筆写『 心超臨界 』

苦労に対する最大の報酬は
その引き換えに得るものではない
苦労したことで形成される人物である
ジョン・ラスキン

実証と信頼によって農業技術を伝達する――ダショー西岡の精神

2024-05-29 | 03-自己・信念・努力
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1972年に即位した第4代ジグメ・シンギ・ウォンチュック国王は、GNPに対してGNH(国民総幸福量)という概念を提唱したことで知られる。急速な近代化は人間を真の意味で幸福にするとは限らない。徐々に大地へ根を張るような援助哲学を第一とした西岡の姿勢は、こうした国王やブータンの人々の価値観と深く共鳴していったのだろう。


「日本人へ 私が伝え残したいこと」
( 文藝春秋SPECIAL、2008 Summer No.5 季刊夏号、p44 )

ブータンの農業にかけた半生――「ダショー」西岡京治の志
ノンフィクション作家・稲泉連

ブータンという異国の農業の発展のために、その生涯をかけた日本人がいる。1964年、海外技術協力事業団(現・国際協力機構)から専門家として派遣された西岡京治は、後の28年間の人生をブータンでの農業指導に費やした。その功績は国王にも認められ、彼は同国の高位「ダショー」を与えられた唯一の外国人である。

ブータンは南はインド、北はヒマラヤ山脈を挟んでチベットと隣接する王政の国。国土の7割が森林に覆われ、切り立った山々から流れる河川が盆地を作り出す。わずかな平地に田畑を敷き詰めるようにして人々は農業を営んで暮らしていた。

大阪府立大学農学部で学び、ヒマラヤの植物調査を行ってきた研究者の西岡にとって、ブータンでの農業指導の仕事は念願ともいえるものだった。同じ年の10月に東京オリンピックを控え、日本の都市の風景が一変しつつあった頃。彼は盆地の一つ、パロに試作農場を作り、日本式の農業を伝える拠点としたのだった。京治とともにこの地へやってきた夫人の里子さんは、著書『ブータン神秘の王国』の中で田園の広がるパロの美しさをこう描いている。

〈眼下に広がるパロ盆地には、麦が青々と育ち、はるか向こうの丘の中腹には白壁の堂々たるパロ城が見えた。そして、その左手には白く雪をかぶった山々が並んでいた。強い5月の陽光の中に美しい自然が燦然と輝くこの光景こそ、私が望んでいたブータンの姿であった〉

当時、ブータンは外国人のほとんど訪れることがない文字通りの“秘境”だった。言葉も思うように通じず、食料一つとっても物々交換。地縁や伝手を持たない夫婦の生活を手探りで始めつつ、西岡は試作農場にモミや野菜の種を蒔(ま)いていく。

彼の手法が初めから受け入れられたわけでは当然なかった。

ブータンは稲作の栄えた土地柄だったとはいえ、まだまだその手法には改良の余地があった。しかし彼が問題点を指摘しても、新参者である日本人の意見はなかなか聞き届けられない。当初の彼にできたことは、実習生の3人の少年とともに、小さな農場でブータンに合った作物を探し続けることだった。

夏になり、ずっしり重いダイコンなどの野菜が収穫され始めると、徐々にパロの人たちの視線も変わってくるのだった。これまでブータンで作られていたものと比べ、西岡の作る野菜はとても立派な出来だったからだ。

2年が経ち、さらに3年が経つと、西岡の野菜は市場にも根付き始める。野菜栽培での成功によって、パロの人々は稲作についても彼の言葉に耳を傾けるようになった。そうして助言した並列植えによる効率化などは、後にブータンの米の収穫量を格段に伸ばすことにもなった。

パロの地でたった一人、粘り強い作業を続ける西岡は、どこまでも実直で孤高な印象を受ける人だ。例えば彼のブータンでの取り組みを知って私が心打たれたのは、自らの農場の成果を見せることで、実証と信頼によって農業技術を伝達していこうとする姿勢だ。まず行い、それに周囲の人々が興味を示し始める。彼は上からの視点で「教える」という手法を決して採らない。むしろ大事なのはブータンの美しい風景を愛し、ブータンの人々の心を理解し、ブータンから「学ぶ」こと――〈仕事の合い間には、せっせと村人達に話しかけ、彼らの畑や水田からも、いろいろ学び取る〉(同前)なかで、少しずつ地域に受け入れられていったのだ。

西岡はパロで活動に成果が出始めた後、すでに彼の取り組みを高く評価していた国王の要望もあり、シェムガン地方の焼畑地帯での「第4次5カ年計画」にも携わることになった。目的は土地を痩せさせる焼畑農業を廃し、水田を作っては村民を土地に根付かせることだった。

彼は技術援助における自身の哲学について、〈中央集権の排除〉と〈常に地方に重きを置くこと〉を挙げている。都市型の援助は地方の人口流出に繋がる。だからこそ、〈地方の人々の生活に最低限必要なものをまず満たすような援助をやった方が、長い目で見て国のためになる〉(同前)のだ、と。

5年間続いた「シェムガン計画」で、西岡は350を超える水路を露天掘りで作り、800回もの話し合いを村人とともに行ったという。『ブータン神秘の王国』の中に、村人と話をする西岡の姿を写した、印象的な一葉がある。写真の中で彼は人々に取り囲まれて座り、まさに車座の中心で何かを熱心に語っている。そこからは、ブータンのために尽くそうとする静かな気迫が確かに伝わってくる。

1972年に即位した第4代ジグメ・シンギ・ウォンチュック国王は、GNPに対してGNH(国民総幸福量)という概念を提唱したことで知られる。急速な近代化は人間を真の意味で幸福にするとは限らない。徐々に大地へ根を張るような援助哲学を第一とした西岡の姿勢は、こうした国王やブータンの人々の価値観と深く共鳴していったのだろう。

1992年、西岡は敗血症にかかり、ブータンの病院で生涯を閉じた。享年59、パロでの葬儀には、王族や政府の要人、そして村民たちがどこまでも続く列を作ったという。この様子を見つめていた里子さんは書いている。〈パロ谷はその日、抜けるような青空で、桃の花が丘一杯に咲いていたのを憶えている〉と。

畑や水田が織りなす里山の美しい風景がある。西岡はパロの農業を改良し、焼畑地帯を水田に変えていった。ならばそこにあった実直な意志――それは彼の愛したブータンの風景そのものに、今も染み渡っているということになる。
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