電脳筆写『 心超臨界 』

もっとも残酷な嘘の多くは沈黙の中で語られる
( ロバート・ルイス・スティーブンソン )

共産党の活動区域が支那本部だけでなく、満洲にも及んでいた点は見逃せない――古荘光一さん

2012-05-04 | 04-歴史・文化・社会
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誰が「南京大虐殺」を捏造したか[4]
古荘光一・フリージャーナリスト
【「WiLL」2012年5月号
http://tinyurl.com/77ld5s9、ワック出版、p96 】

◆ソ連の支那包囲網

張学良を退治したソ連軍はハバロフスクの駐屯地に引き揚げたが、満州はソ連が好きなときに占領できる軍事的空白地帯になった。

日本軍は警戒心を掻き立てられた。空白地にソ連が再度進出すれば、ソ連による支那包囲網が完成するからだ。それまでも、ソ連は二つの戦略で支那を取り込もうとしてきた。一つは清朝時代に属国だった周辺国を支配下に置き、支那を外周から包囲する方法であり、いま一つは支那本部の共産化を図ることであった。

外周からの包囲は、三方向から進んだ。最初に支配下に置いたのは、外モンゴルである。1920年代前半に占領し、早々と衛星国化に成功した。鎖国体制を敷き、現地の青年を洗脳して手先に使い、ラマ僧、王族、知識人の殺戮(さつりく)など、スターリン型の統治を実行させた。

また、南の内モンゴルと西の支那東トルキスタン(新疆)に軍隊を送り込む準備に着手し、高速道路を建設した。

支那東トルキスタンでは、別の浸透方式をとった。この地域はトルコ系のウイグル人など非漢民族の土地で、もともと文化的にも経済的にも支那本部との結びつきが弱かった。

そこで、ソ連は地域の対ソ貿易依存度を高める工作からはじめ、数年で実質支配地に変えてしまう。裏支配方式を採用したのは、南のチベットに影響力を持つイギリスを刺激したくなかったからである。

外モンゴルの東の満洲では、東西に伸びる東支那鉄道沿線で共産主義の宣伝を繰り広げていたが、日本が南満洲鉄道を所有し、関東州には軍隊も駐屯させて地元軍閥を擁護していたから、勢力を拡大するのは難しかった。しかし、日本と絶縁した張学良の弱体化で状況が変わり、ソ連の満洲への南下は時間の問題になった。

一方、支那本部でソ連は、1921年に現地人に共産党を結成させ、さらに孫文の国民党を支援する名目では国民党と共産党を協力させた。これはいったん失敗し、1927年春以降、蒋介石に追われた共産党は、山間僻地に逃げ込んだ。

ところが、共産党は素早く体制を立て直し、支配地を拡大しはじめた。

すこしあとのデータであるが、、アメリカ人共産主義者のアグネス・スメドレーが、1934年にニューヨークで出版した『支那赤軍は南進する』に乗せた数字と地図がある。

それによると、1930年代のはじめ頃、共産党は各地にソビエト共和国を形成し、約9千万人を勢力下に入れていたという。当時、支那の人口は4億人といわれたから、その四分の一に近い人数である。共産軍の兵士は百万人を数えたともある。

これには誇張があると思われ、文字どおりに受け取るわけにはいかない。しかし、共産党の活動区域が支那本部だけでなく、満洲にも及んでいた点は見逃せない。共産党は当時、日本の一部だった朝鮮半島にも浸透する隙をうかがっていたようだ。

中国共産党の跳梁(ちょうりょう)ぶりを日本軍首脳がどこまで詳細に把握していたかは不明だが、蒋介石が討伐に手を焼いていたことは承知していただろう。

満州事変の前夜には、共産勢力が支那を握ろうとし、その余波が朝鮮半島、ひいては日本内地に及びかねない状況が生まれていた。

張学良がソ連との戦いで一敗地にまみれたのを好機とみた溥儀は、自分を満洲の皇帝にしてほしい、と日本の軍人に働きかけた。

( ◆溥儀、日本に働きかける へつづく )

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