20年に及ぶブログ活動の集大成 → <a href=https://blog.goo.ne.jp/chorinkai/e/3d8eb22fad45ce7b19d6a60e8a70b7e7" target="_blank">★仏様の指
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東京裁判史観の虚妄を打ち砕き誇りある日本を取り戻そう!
そう願う心が臨界質量を超えるとき、思いは実現する
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■緊急拡散宜しく『選択的夫婦別姓は戸籍廃止を策した反日勢力の亡国法案です』【「水間条項」国益最前線ブログ】
■超拡散記事『上限の無い特定技能外国人(移民)に認めるバス運転手・鉄道運転手に貴方の命を預けられますか!』
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ところが、幸田露伴がこれに疑問をはさんだ。韓信は股をくぐったけれども、高祖がその立場にあったら果たしてくぐっていたかどうか――というわけだ。そして露伴は、高祖ならくぐらなかっただろうというのである。高祖は漢を興した本当のトップであり、一方、韓信は偉い武将にはなったもののそれ止まりで、結局高祖の家来にすぎない。本当のトップに立つ人間は、このような恥辱には耐え得ないはずである。だから高祖は人の股はくぐれはしないというのである。
◆「韓信の股くぐり」はリーダーの名折れ
『人の上に立つ人になれ』
( 渡部昇一、三笠書房 (2000/5/1)、p86 )
漢の高祖など、どこが偉いのかわからないような人物であるにもかかわらず、親分肌だったために家来がついていっている。高祖は中流農家の末っ子で、百姓が嫌いで遊びほうけていたような人物だ。この時の仲間が、高祖がまだ劉邦(りゅうほう)といわれていた時分にすでに彼に従い、ついには秦を滅ぼして漢を興すのだから、たいした親分肌だったのだと思う。
高祖を見ていると、リーダーというのは、最終的なところでは筋を通さなければならないというのがよくわかる。そして決定的な場面において面子を守るから、人がついていくということもわかる。
「韓信の股くぐり」という有名な話がある。前漢初期の武将の韓信が、若い頃に 屠殺に従事する無頼の若者の股の下をくぐらされるという屈辱を味わいながらも、それに耐え、後年大成したというものだ。
韓信は偉い武将になるという大望を抱いていたからこそ股くぐりもできたということで、ここから、大志を抱く者は目の前の小さな恥辱などには耐えなければならないということわざとして用いられる。要するにこの話は一般的には美談なのである。
ところが、幸田露伴がこれに疑問をはさんだ。韓信は股をくぐったけれども、高祖がその立場にあったら果たしてくぐっていたかどうか――というわけだ。そして露伴は、高祖ならくぐらなかっただろうというのである。高祖は漢を興した本当のトップであり、一方、韓信は偉い武将にはなったもののそれ止まりで、結局高祖の家来にすぎない。本当のトップに立つ人間は、このような恥辱には耐え得ないはずである。だから高祖は人の股はくぐれはしないというのである。
露伴によれば、本当にトップに立てる者とそうでない者との根本的な違いはここにあるという。だからこの話は美談でも何でもなく、世の中には高祖のような器量もないくせに股をくぐるのを嫌がる者がいるが、そういう者は自滅し、器量がなくてもそこで我慢して股をくぐれるようなら、そこそこの武将ぐらいにはなれる――それくらいの意味でしかないというわけだ。
露伴がいいたいのは、トップになれるような人物は、そこまで卑屈にはなれないだろうということだ。逆にいえば、頑としてくぐらないという姿勢がトップリーダーには必要なのだ。たとえ死しても卑屈にはなるまいという、徹底した筋の通し方ができなければ本当のトップにはなれない。だから、くぐった韓信は命だけはとりとめても、武将止まりだったのである。
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ところが、幸田露伴がこれに疑問をはさんだ。韓信は股をくぐったけれども、高祖がその立場にあったら果たしてくぐっていたかどうか――というわけだ。そして露伴は、高祖ならくぐらなかっただろうというのである。高祖は漢を興した本当のトップであり、一方、韓信は偉い武将にはなったもののそれ止まりで、結局高祖の家来にすぎない。本当のトップに立つ人間は、このような恥辱には耐え得ないはずである。だから高祖は人の股はくぐれはしないというのである。
◆「韓信の股くぐり」はリーダーの名折れ
『人の上に立つ人になれ』
( 渡部昇一、三笠書房 (2000/5/1)、p86 )
漢の高祖など、どこが偉いのかわからないような人物であるにもかかわらず、親分肌だったために家来がついていっている。高祖は中流農家の末っ子で、百姓が嫌いで遊びほうけていたような人物だ。この時の仲間が、高祖がまだ劉邦(りゅうほう)といわれていた時分にすでに彼に従い、ついには秦を滅ぼして漢を興すのだから、たいした親分肌だったのだと思う。
高祖を見ていると、リーダーというのは、最終的なところでは筋を通さなければならないというのがよくわかる。そして決定的な場面において面子を守るから、人がついていくということもわかる。
「韓信の股くぐり」という有名な話がある。前漢初期の武将の韓信が、若い頃に 屠殺に従事する無頼の若者の股の下をくぐらされるという屈辱を味わいながらも、それに耐え、後年大成したというものだ。
韓信は偉い武将になるという大望を抱いていたからこそ股くぐりもできたということで、ここから、大志を抱く者は目の前の小さな恥辱などには耐えなければならないということわざとして用いられる。要するにこの話は一般的には美談なのである。
ところが、幸田露伴がこれに疑問をはさんだ。韓信は股をくぐったけれども、高祖がその立場にあったら果たしてくぐっていたかどうか――というわけだ。そして露伴は、高祖ならくぐらなかっただろうというのである。高祖は漢を興した本当のトップであり、一方、韓信は偉い武将にはなったもののそれ止まりで、結局高祖の家来にすぎない。本当のトップに立つ人間は、このような恥辱には耐え得ないはずである。だから高祖は人の股はくぐれはしないというのである。
露伴によれば、本当にトップに立てる者とそうでない者との根本的な違いはここにあるという。だからこの話は美談でも何でもなく、世の中には高祖のような器量もないくせに股をくぐるのを嫌がる者がいるが、そういう者は自滅し、器量がなくてもそこで我慢して股をくぐれるようなら、そこそこの武将ぐらいにはなれる――それくらいの意味でしかないというわけだ。
露伴がいいたいのは、トップになれるような人物は、そこまで卑屈にはなれないだろうということだ。逆にいえば、頑としてくぐらないという姿勢がトップリーダーには必要なのだ。たとえ死しても卑屈にはなるまいという、徹底した筋の通し方ができなければ本当のトップにはなれない。だから、くぐった韓信は命だけはとりとめても、武将止まりだったのである。
を願うは世の常。「爺さん、お前はどうじゃ」と問わ
れれば、「ワレ イマダ モッケイタリエズ」とでも
答えるか。