毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「3歳で中国に置き去りにされた日本人の子を救った中国人養父」No.2405

2019-08-30 12:03:07 | 中日(日中)関係

中国山東省に戻り、夜涼しいからぐっすり寝られるわ、と思ったのも束の間、風邪を引きました。

アレルギーも出て痒く、目を擦っていたら白目部分に水泡が……。

目に負担をかけないようにブログも書かず(笑)、極力安静にしていたいところですが、

今学期の授業準備もあり、USBメモリーや外付けハードディスクなどの資料を整理していたら、

「中国残留孤児」で帰国者一世の横山三郎さん(大阪府堺市在住)のインタビュー記事を見つけました。

友人の人民新聞編集長が、私の日本語の生徒でもあった横山さんを取材したものです。

2013年9月の記事ですが、日中関係の現状についての横山三郎さんの提言は

ある意味、残念ながら、今も変わらず正鵠を得ていると思います。

『(日中は)1972年に戻って、友好関係を築く原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。……養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
 中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。』(横山三郎さん:インタビューより)
   

中国残留孤児が語る領土対立の愚

極貧の中で育ててくれた養父の国=中国
国家が対立しても貧しき民は助けあう

横山三郎さん(大阪府堺市/69歳)インタビュー 人民新聞オンライン2013/9/5更新

「言論NPO」とチャイナ・デーリーが共同で行った世論調査によると、相手国に「良くない印象を持っている」と答えた人の割合は日本が前年比5・8ポイント増の90・1%、中国は同28・3ポイント増の92・8%に達し、2005年の調査開始以来、最悪となった。日本政府による尖閣諸島国有化(昨年9月)以降の関係悪化が影響しているのは明らかで、嫌悪感増大の背景にあるのが、領土問題をとおしたナショナリズムの扇動であることは疑いようがない。

 こうした両国の対立感情を強く憂慮しているのが、日本に帰国した中国残留孤児の人々だ。日本の敗戦前後、両親の死亡や混乱のなかで中国人養父母に育てられた残留孤児たちは、養父母への感謝とともに日中関係の好転を心より望んでいる。
 8月1日、そんな一人である横山三郎さんに、その半生と日中関係についてインタビューした。
 横山三郎さんは、現在69才、堺市の公営住宅に住んでいる。1943年、奈良県吉野郡天川村で生まれた横山さんは、翌44年、両親と3人の兄弟とともに中国に移住した。ところが、父親はすぐに徴兵され、ソ連軍捕虜となりシベリアの収容所で死亡した。
 母親も父親の後を追うように死亡。残された子どもたちは、地元中国人家庭に引き取られたが、体が弱かった横山さんを引き取る家庭はなく、置き去りにされたそうだ。このとき横山さんは3才。ひどい下痢と栄養失調で瀕死の状態にあったという。
 その横山さんを助けたのが養父となる王希順さんだ。王さんは、若い頃中国東北地方を流浪していたほどの貧農。横山さんを抱き上げようとした時も、周囲からは「もうその子は助からない。敵国の子どもを助ける必要もない」と反対されたという。
 それでも死にかけた子どもを不憫に思った王さんは、横山さんを拾い上げたものの医者に診せる金もない。民間医療を施し1日様子を見てみると虫の息が次第に強くなり、横山さんは一命を取り留めた。横山さんは毓福(ゆいふ)と名付けられ、王さんの実の子として育てられた。

横山三郎さん(堺市の自宅で)

編集部:養父はどんな人だったのでしょうか?

横山:私の記憶は、5才から始まります。それ以前のことは、生き別れになっていた兄からの手紙で初めて知りました。山東省にいた兄は、私が32才の時、突然手紙を寄こし、私の出生の秘密を知らせてくれました。

 養父は、山東省北崗山村の生まれです。貧困のため一生独身で苦労の一生を終えた人です。若い頃は、中国東北地方を流浪するほど貧乏で、妻もいません。そんな貧しい養父が50才の時に、私を拾って育ててくれたのです。
 私と養父は、吉林省長白山にある小さい山村でわずかの田畑を耕し、野菜を町に売り行って、たいへん貧しい生活を送っていました。父は私を抱いて畑に連れて行き、畦で遊ばせながら畑仕事をしていました。
 家に女性がいなかったので、衣服は村の人の援助に頼りましたが、靴は手作りするのが難しくて、春から秋までずっと裸足で学校に行っていました。でも冬になると両足は凍傷になり、腫れがひどくて、痒みと痛みで本当に我慢ができませんでした。村の人が「可哀想な子どもだねえ」と言って古い靴をくれましたが、大きすぎるものや小さすぎるものばかり。その当時、私の一番の夢は、ぴったり合った靴を履くことでした。
 私の最初の記憶は、5才になった年の大晦日です。養父が夕食の後に戸棚から小さい紙包みを取り出し、私に差し出しました。包みを開けてみると拳くらいの黄緑色の果物が現れました。父は、「これは梨だ。町で買ってきたのだ」と言いながら、凍った梨を茶碗に漬け柔らかくしてくれました。
 噛んでみると薄い皮が破れて、白く甘い果肉が口の中に広がりました。父はオンドルに座ってキセルでたばこを吸いながら私の食べる様子を見、目を細くし、顔に皺を寄せていたのを覚えています。
 父は、「忠厚謙和」の人でした。私の命の恩人であり、誠実にして謙虚、優しく勤勉な人でした。私は、その果物を思い出すと口の中に甘い汁が流れ、父の姿とともに蘇ってきます。

編:日本人であることでいじめられたりしなかったのでしょうか?
横山:小学校の頃、友達から「小日本」(シャオリーベン)とからかわれたことはありました。しかし、父に聞いても(私が日本人であることを)強く否定しましたので、私は全く気づきませんでした。子どものことなので悪口を言ってからかうことはよくあることです。しかし、村の人は知っていたようです。
 1999年、日本に帰国することにした私は、教師時代の同僚である法さんに暇乞いに行きました。みんなで思い出話に話を咲かせたものでした。そんな昔話の最後に、法さんは、「私は、あなたが日本人であることを知っていましたよ」と告げたのです。
 私は驚きました。6才年上の法さんは、私が兄のように慕った友人であり同僚です。私に仕事のことを教え、仕事の合間にはいろいろな話をし、趣味として音楽や劇なども一緒に勉強していた仲です。
 私自身が知らなかった出生の秘密を法さんが知ったのは、次のようなことでした。「1970年の正月、吉林省から帰ってきた親戚があなたの養父の友達で、その親戚からあなたが日本人の子どもであることを聞いた。でも当時は文化大革命の最中だったので、あなたにも誰にも言わず黙っていたんだよ」。
 文化大革命は、前例のない災禍です。たくさんの無辜の人々が冤罪で被害を受けました。私の出身が暴露されれば、きっと「日本の奸臣、特務」として扱われたことでしょう。仕事をクビになるのは当然として、命があったかどうかもわかりません。
 また、法さんが私を日本人だとして検挙させれば、功績が認められ、役職昇進もできたはずです。でも法さんは、この事実を心の奥深いところに隠して、秘密を守り通したのです。法さんもまた、私の命に関わった恩義ある友達です。 

編:中国では、教師だったそうですね。
横山:吉林省にいては、いずれ私の出生の秘密が明らかになると思った父は、1951年、8才になった私を連れて故郷である山東省北崗山村に戻りました。新たな生活といっても、58年から大躍進運動で飢饉が発生するほどで、極貧のなか小学校を卒業しました。
 1959年、16才になった私は、地元の小学校補助教師に採用されました。同僚5人の中に、先の話で紹介した法兆吉さんがいます。
 60年から「3年困難時期」が始まりました。生産隊からの食料配給はわずかで、みんな芋の蔓や楡の葉などを干して粉末にし、中に少しだけトウモロコシの粉や大豆の粉を入れて食事を作りました。
 大人たちは、生産に従事してるので、小学校でも集団採集活動が巻き起こりました。子どもたちをつれて山に入り、山菜などを集めるのです。授業が終わる午後3時頃、私と生徒たちは、道具と袋をもって山の麓に歩いていきます。子どもたちは、汗と埃で真っ黒になりながら、袋一杯の山菜を集めました。
 畑での労働が終わって帰ってきた大人たちは、その様子を見て喜び、「新しい先生は、役に立つね」と言ったそうです。私はとても誇らしい気持ちでした。
 同僚5人の中で私は、一番若く、教師資格もありません。そのコンプレックスもあり、同僚たちに追いつくことを決意しました。
 1960年の初め、県教育局は教師の水準を高めるために、函授師範学校(一種の通信大学)を興しました。県内の農村に「教学点」という学舎を設立。週に1日ずつ教師が交代で通い、講義を受けるのです。
 私の受講日は日曜日でした。村から8㎞離れた教学点まで片道1時間半かけて歩いていき、午前8時から午後4時まで受講しました。2年半かかって初級師範学校試験に合格し、すぐに中級に進みました。
 1963年、20才になった私は、養父の決めたとおり結婚することになりました。その準備のため1日だけ、師範の授業を休んだことがあります。当時の農村は、電話もなく、欠席の連絡もできませんでした。
 すると次の土曜日、家で昼食をとっていると突然入り口をノックする人がいました。開けると雨の中青い傘をさした師範学校の先生が立っていたのでした。
 先生を応接間に通してお茶を注ぐと一気に飲み干して、欠席の理由を尋ねました。私が事情を説明すると先生は、「結婚はもちろん大事です。しかし勉強は同じくらい重要です。若い時に勉強しなければ一生悔いが残ります。結婚の準備は朝と夕方など他の時間にやってください。日曜日は、必ず教学点に来るように」と、強い口調で言いました。
 師範の先生は、都市部から歩いて教学点に来て講義をされています。この日は、雨にもかかわらず講義を休んだ私のために村まで足を延ばして来てくれたのでした。
 私は、先生の特別の苦心を知っていたので、何の弁解もできませんでした。これ以降、私は、1度も休むことなく受講し、2年半後の中級師範試験には、優秀な成績で合格し卒業しました。これでようやく高校卒業資格を取得し、国の教師として採用され、中学校の教師となりました。
 それから後は、師範学校に進みたかったのですが、文化大革命が起きてしまいました。一時、函授院校は、全て閉鎖されました。
 1972年、社会が安定して、私は、やっと師範専門大学に入学します。ようやく大学に入る夢が実現したのです。

編:日本人であることがわかった経緯と、帰国に至る経緯は?
横山:1975年、32才の時に、実兄からの手紙で私が日本人であることが判明しました。その手紙には、私たち4人の兄妹が残留孤児になった経緯や、私が養父に拾われた経緯などが書かれていました。
 その手紙を見せると、父は全てを打ち明けたのでした。とてもショックでしたが、苦労して育ててくれた養父への深い感謝の念を感じました。また、日本から中国に渡った私たち家族の悲惨な末路を思うと、痛いほどの悲しみを感じました。
 こんな養父を置いて、帰国することなどできません。養父が生きている間は、中国で生活することに決めました。
 1985年、養父が89才の天寿を全うしました。私は、教師の仕事に誇りとやりがいを感じていたので、中国に留まるつもりでしたが、1987年、訪日して親戚を探しました。京都で叔父や叔母と会い、お互いを確認し合いました。厚生労働省は、私を残留孤児として認定。いつでも帰国できる状態となりました。

編:帰国を決めた理由は?
横山:兄の息子が、日本への帰国を相談するために吉林省からやってきたことがきっかけです。1991年、吉林省にいた兄が病死したのですが、いまわの際に私を枕元に呼び「自分は祖国に帰れないが、私に代わって家族全員を連れて日本に帰ってくれ」との遺言を託したのです。
 私は、仕事があるし、子どもたちの進学もあり、すぐには帰りませんでしたが、1999年、甥がはるばる訪ねてきて「先に帰国して、私たちを呼び寄せて欲しい」と訴えました。
 私は、退職を決め、日本政府に帰国申請をすると、すぐに許可の返書が届きました。その年の12月に私と妻と娘など5人が日本に帰国し、翌年、甥たちも帰ってきました。兄の十年来の遺願が実現されました。

編:帰国に際して不安はありませんでしたか?
横山:中国での日本人のイメージは、戦争時代の兵士です。しかし一方で、先進文明が発達し、美しい四季のある国土のイメージもありました。帰国者は、4カ月間帰国者センターで受け入れられ、その後も様々な支援が準備されていましたので、すぐに不安は解消しました。

編:昨年以降、日中関係が緊迫しています。どう感じていますか?
横山:釣魚島(尖閣諸島)をめぐる日中対立は、得られるものより、損失の方がはるかに大きいものです。尖閣諸島問題は、歴史認識の問題でもあるので、1972年の日中国交回復の時も、1975年日中平和友好条約締結の際も、政治家の知恵である「棚上げ論」によって、対立を回避し、経済関係を発展させてきたのです。
 中国には「来之不易」という言葉があります。これまでの日中関係は、様々な困難を一つ一つ克服し積み上げてきたもので、決してあだな辛苦で手に入れたものではないのです。この実績を、無に帰していいのでしょうか?
 石原都知事をはじめとする右翼政治家は、表面上は、「日本の国益」などと叫んでいますが、実際は、自分たちの政治的利益しか考えてません。彼らのスローガンと政治手法は、民衆をだまし、惑わすためのものです。
 特に若者や中年男性が扇動されているように見えます。これを続けるととても危険です。戦争が始まれば多くの人が傷つき死にます。その時に気づいても遅いのです。

編:どうすべきでしょうか?
横山:1972年に戻って、友好関係を築くという原点に帰るべきです。相手を「敵」と思ってはいけません。平和を基礎にすることを最も訴えたいのです。
 私は、2006年3月、故郷(山東省)の小学校を訪問し、「和平万歳」の碑とパソコン25台を寄贈しました。碑文には、養父への深い感謝と平和友好への思いを綴りました。
 養父は、極貧の中で敵国の子である私を立派に育ててくれました。たとえ国が戦争をやろうとも、民衆は人間としての思いやりをもって助け合って生きてきた歴史があります。
 中国は、大恩ある養父の国であり、私の故郷でもあります。日中友好なくして私たち中国残留孤児の心の平穏はありません。

https://jimmin.com/legacy/htmldoc/149101.htm 人民新聞オンライン

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「楽しかったのは映画館でガンダムを観たこと、悲しかったのは京アニの火災」No.2404

2019-08-27 21:14:47 | 中国事情

↑京アニ代表作の一つ『けいおん』

菏澤学院日本語学部2年生に、夏休みはどんなだったか聞きました。

「イライラしたこと:うちの犬にガールフレンドができたけど、

他所の白い犬に奪われ、その犬とうちの犬が闘って負けて傷つきました。」

「影響を受けたこと:早朝近所の鶏がこー、こーと鳴くので睡眠に影響しました。」

「たいへんだったけど楽しかったこと:一ヶ月のうち3日しか休まず、

朝8:20から夜11:00まで日本からの輸入品の商標タグを数えました。

本当につまらなかったですが、

3650元給料をもらった時は楽しかったです。

電子辞書を買いたかったけど、

両親が学費を払えと言ったので、電子辞書は買えませんでした。」

 などの中で、ガンダム大好きの班長の王さんが言ったのは

「複雑でした:

楽しかったのは初めて中国の映画館で日本語のガンダムを観たこと、

悲しかったのは京アニの火災です。35人もなくなりました。

有名なアニメ映画監督も亡くなりました。

寄付金が16億円も寄せられました。」

王さんは京アニのニュースをきっちりチェックしていて、

容疑者が今大阪の病院に移送されたことも教えてくれました。

日本語での発表の後、王さんは京アニの事件の酷さと、

数々の京アニ作品の話を中国語でクラスメートに詳しく説明していましたよ。

     

実は、中国ではこの事件はCCTV(中国中央テレビ局)、

中国版ツイッター微博(weibo)などのSNS、

動画サイトなどで広く報道され、

微博では「#日本京都動画発生爆炸」のハッシュタグがついた記事は

7月20日までで約7000万回も見られ、

洪水のようなコメントが寄せられたそうです。

中国語の「加油!」=「がんばれ!」を勘違いする日本人もいたようですが、

中国の人々は、日本で起きた悲劇への哀悼と、

国境を越えたアニメ文化へのリスペクトを表明していたのです。

7月20日のウニュ(withnews)は次のように報じています。

『中国の「ニコニコ動画」のような動画サイト「Bilibili」では、「日本アニメ史上最も暗い一日」というタイトルで、ニュースの映像を流しました。動画の再生回数は48万を超え、「弾幕」のコメントは2000件以上にのぼっています。「逝者安息(ご冥福をお祈りします)」のコメントが圧倒的に多かったです。

「京アニのない未来は私の期待している未来ではない」

「まさか……天が落ちる感じ……」

「本当に悲しいです」

「京アニの復活を祈ります」

コメントの中には、人材はもちろん、アニメの資料、原画が失われることを惜しむ声もありました。「真的従作品里学到了許多、尤其是key三部曲的涙悟人生。希望能堅強起来、為了動漫文化、為了今後の動漫業界、加油!」(彼らの作品から多くことを学びました。特にKey三部作は非常に涙を誘い、人生を悟ることができました。アニメ文化とアニメ業界のために、立ち直ってほしいです。頑張ってください!)」https://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20190719-00000002-withnews-cn&p=2

中国のみならず、韓国からも熱いメッセージが寄せられ、

カナダのトルドー首相、国連のグテーレス事務総長、

アメリカやフランス、中国の大使館も

相次いで悲劇を悼むメッセージを発表したとのこと。

どれほどの才能ある多くの命を日本は失ってしまったか、

今さらながら気持ちが沈みます。

今日は夕方、VPNでユーチューブが見られたので

『けいおん』『響けユーフォニアム』の一部を観ました。

 

 ↑『響けユーフォニアム』

↑『けいおん』

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「今日、新学期が始まった」No.2403

2019-08-27 00:03:28 | 中国事情

VPNがつながりにくいのは毎日夕方以降、

特に夜の9時~11時台には実に頻繁にカットされます。

魔の時間帯を避けたいのに、昼間ブログを書く時間がありません。

何時間もかけてようやく新規投稿欄が開けたのは

もう翌日・・・・・・。

gooのポータルサイトが普通に開けなくなったのは

6月頃、あのほんこんデモの辺りからです。

今学期、大学から

「ほんこんについて一切学生に言うべからず」と通達があり、

このブログでも気をつけて当分ひらがな表記にすることにします。

あのノーベル平和賞の劉暁波さんのときのように、

自分のブログに到達できなくなるのは避けたいですから。

↑毎年、秋のキャンパスを美しく彩るモクゲンジが開花し始めました。

8月26日(月)、今日から新学期が始まりました。

中国は2学期制で、

だいたい九月は新学期、三月は二学期という感覚ですが、

どこの大学も微妙に開始日をずらしたりするので

時々うっかりした学生が早めの新学期に現れず、

どうしたのかとクラスメートが携帯で連絡を取ると

まだ家でのんびりテレビを見ていたりします。

なぜ各校で学期開始をずらすのか聞いたところ、

中国の大学生たちが一度にそれぞれの学校に移動したら

電車やバスが混み過ぎてとんでもないことになるためだと

説明され、納得しました。

とにかく、日本とは比較できないほど人数が多いところですからねえ。

 

スタートから宿舎の汚さですったもんだして

部屋はまだすっきりとはしていません。

今日、新二年生に宿舎の事情を話すと、

「僕たちの男子寮もほぼ同じ状況です。めっちゃ汚い」

と唯一の男子学生の王さんが言っていました。

↑キャンパス正門から図書館まではモクゲンジの並木道です。

この写真、毎日、図書館に通って勉強していた卒業生が見たら、

きっと感慨深いものがあるでしょう。

私も歩きながら、卒業生に似た学生を見かけると

とても懐かしい気持ちになります。

さあ、悲喜こもごもの気持ちをスパッと切り替え、

また一年、姿勢を正してスタートします。

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「言葉で言うことが重要な国、中国」No.2402

2019-08-25 19:22:00 | 日本中国比較

外事処と私の交渉は前向きに進展しています。

 昨日、日本語学部の楚主任に他の用事がてら、

部屋のゴミ・ペンキ写真メールを送って、

外事処にハウスクリーニングしてくれるよう伝言を依頼し、

今日は自分でも直接、

外事処(外国人教師の担当部署)副主任のMr.侯に

携帯メッセージで「写真と要望を送りたいが、

私のガラケーでは写真が送れないのでe-メールアドレスを

教えて」と送信しました。

すると、すぐ電話で返事があり、用事は全部日本語学部の李先生を

通してくださいと(上手ではない英語で)言うので、

私は(なんだ、えらそうに)と頭にきて、

「あなたとは直接話ができないのかい。O.K.!」と

ブチッと電話を切ってしまいました。

歳を取ると短気で頑固になるというのは

こういうことかも知れないと、切ってから思いました(笑)。

その後、李先生に外事処への要求の伝言をお願いしようとしていたら

李先生の方から「何か用事がありますか」と先回りして電話がかかってきましたよ。

私は豚でも鶏でもないので、人間らしい部屋に住みたい。

汚い部屋は我慢できないので、自分で掃除を始めたが、

自分では無理なことがある。

具体的には次の4点を解決して欲しい。

床などのペンキ汚れを取ること。

私の塵取りを返して。

③台所の電子レンジが置いてある机が汚いので、ペンキを塗るか

シートで隠すこと。

④ゴミ捨て場と化した部屋のゴミを撤去すること。

とまあ、どれも当然の要求を並べたのです。

するとどうでしょう!

30分後、70代ぐらいのおじいさんが

手にお好み焼きのコテのようなものを持って登場したではありませんか。

 ↓早速ゴリゴリペンキを擦り取るおじいさん。

 ↓そうしているうちに、李先生が塵取りのみならず掃除道具一式と

雑巾用タオル2枚、フック、延長コードなどを買ってきてくれました。

外事処がお金を払うからというので私は遠慮なくもらいました。

要求の①②はあっという間に実行されました。

あとは③の机と④のゴミです。

↓これが③の机。見事に汚いですね。

拭いてもダメで鑢(やすり)があれば擦り取るのですが。

 ↓④のゴミの山。

以前の汚いカーテン、ソファーカバー、壊れて何十年かの扇風機などが

汚くて寝ることもできないベッドの上に放置されています。

ベッドも捨てて欲しいのですが、学校の財産だからそれはできないとのこと。

以前Mr.張は、「カバーをかければ大丈夫だ」と言っていました……。スゴイ。

 李先生によれば、外事処は③④も必ず実行すると確約しました。

という訳で私の怒りは終わりました(笑)。

李先生が言うには、

中国では10年ぐらい前まで一般的に、

室内工事の後片付けは住む人がするのが当然だったそうです。

その代わり、安い請負金額でした。

中国社会が豊かになってきて、

ハウスクリーニングも工事業者が請け負うケースが増えましたが、

その場合金額も高くなるそうです。

菏澤学院の外事処は10年前的にやったのですね。

本当に、ドけちな大学です。

それでも、筋の通ったことを要求すればたいていは通るのです。

と言うか、言わないと通らない(笑)。

「言わなくてもこれくらい分かってくれるだろう」

「以心伝心」「あうんの呼吸」「文脈を読め」

・・・・・・

特に公的な場面でそれでは伝わらないと思ったほうがいいですね。

中国的と言えるかもしれませんが、

思えばアメリカも同様でした。

 

 

 

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「ああ懐かしい菏澤…と思ったのも束の間(涙)」No.2401

2019-08-25 00:00:17 | 中国事情

ブログを書こうとして1時間半悪戦苦闘し、

ようやく編集ページにたどり着きました。

写真を載せるのは今は不可能です。

夏休み前、ネット規制がガンガンきつくなっていたことを思い出しました。

原因はホンコン事情です。

GOOブログもVPNで繋がないと、もはや見られません


さて、格安直行便で河南省の省都鄭州に16500円で飛んだあと、

長距離バスで3時間弱で菏澤に着き、車で迎えに来てくださった同僚の李先生に、

菏澤のおいしい蝦や黄花魚(日本名:キグチ)の餃子(もちろん水餃子)を

たらふくご馳走になって、

機嫌よく午後8時前宿舎に着いたまではよかったんです・・・・・・けどね。

ドアが新しく変わっていたので、

電話して鍵をMr.張に届けてもらい(ランニングシャツに短パン姿でした)、

中に入ると、ああやっぱり。

夏休みは部屋の壁の塗り替え・カーテンの付け替え工事をすると聞いていたので

「くれぐれもハウスクリーニングをしてくださいよ」

念を押して日本に帰ったのに、このザマだい。

(写真を挿入したいのですが、中国のネット規制と、

学生が大勢アクセスしているため、今は何度試みても無理です)

昨夜は取り合えず、

寝るベッドと座るソファー、テーブルの上だけきれいに埃を取って、

シャワー室は水で流せるだけゴミを流してかろうじて身を清める場所を作り、

その晩は寝ました。

今日は掃除と怒りと写真撮影です。

部屋の塵取りがなくなっていたので塵が集められないことも

腹立ちを増幅させました。

一昨日は、一生懸命整理整頓した大阪の我が家を

ハウスDO淀川北店(不動産会社)のスタッフに撮影していただいたのですが、

二日後は、自分が埃とペンキまみれの部屋を撮影しています。

外事処の責任者に文句を言うためです。

文句を言っても結局は自分で全て掃除しなければならないでしょうが、

「部屋の汚い有様は、

外国人教師を人間扱いしていないとしか思えない。

私はあれほど工事の後は掃除してねと言ったではないか。

あげくに私の所持品の箒やモップ、雑巾を勝手に使って、

塵取りをなくしたことは言語道断である。

私は掃き集めたゴミを塵取りがないので部屋のあちこちに放置してある。

塵取りを弁償していただきたい。

金額の問題ではなく憤怒に耐えないためである。」

と写真を添えて外事処の対応の不備を言わなければ気持ちが治まりません。

数年前の暖房工事のときの酷さが甦ります。

* * * * *

さて、今から再再度の写真UPを試みますが

無理なら皆さん、文だけで、

私の置かれた有様を想像してくださいませ(涙)。

これから国慶節(10月1日)ぐらいまで

部屋の掃除を続けなければならないでしょう。

* * * * *

ふう、アップできました!

見てそんなに楽しいものではありませんが(笑)。

↓洗濯室。泥がこびり付いています。

 ↓寝室の隅にタバコの吸殻。床の白い斑点は壁塗りのペンキ。

床に何も敷かないで塗ったのでしょうか?

杜撰にもほどがあるわ。

↓これは昨夜撮影。シャワー室はトイレ兼用です。

埃はともかく、こんな大きい塵は水で流せませんでした。

カーテンをブラインドにしたからと言ってなぜこんな大きい塵が

謎です。

↓台所傍のゴミ。あちこちにゴミをかためて置いてある状態です。

↓相棒の支えなくなり斜め立つ箒や哀れ塵取りいずこ・・・

 ↓台所の隅の床が最もペンキ跡が酷いです。

こんな仕事して恥ずかしくないんですかね?

外事処はこの仕事にお金払うわけ??

↓宿舎は広い3LDKですが、そのうちの一室はゴミ置き場。サイテー。

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「関空国際ターミナル2はガラガラ」No.2400

2019-08-23 10:00:26 | 日本事情

今撮った手荷物検査場前の写真です。

関空第二ターミナルからは格安航空の春秋エアラインが

韓国の済州、中国の鄭州、大連、上海などへ毎日飛んでいます。

夏休みも終わり間近のためか、第2ターミナルのせいでしょうか、

あるいは外交問題のせい?

聞こえてくる韓国語がいつもよりグッと少なめです。

写真でもかなり空いている様子が伝わりますよね。

列に並んで、立って待つ必要はなく、皆ちゃっちゃと入って行きます。

私はゆで卵を食べないと、塩が引っかかるので

一生懸命3個食べました。

 

さて、めっちゃ安いチケット(税込み¥16,532円)に飛びついて買った後で、

(しまった、春秋航空だった!)と気がつき、

今日を迎えるまで、ちゃんと飛ぶかどうかハラハラしていました。

私の記憶では吉祥航空と春秋航空には酷い目に遭っていますから。

あと南方航空も。あ、それから天津航空も(笑)。

でも、今日は奇跡的にちゃんと搭乗手続きが開始されましたよ!

あとは、飛行機の中で何時間も待たせられないことを祈るばかりです。

春秋航空はLCCだけあって、エコノミークラスの乗客は

預ける荷物は重量10kgまで(私はちょうど10kgでした)、

搭乗手荷物は7kgまで、しかも、サイズは40×30×20(cm)なので

いつものキャリーバッグは止めて、リュックサックにしました。

でも他の多くの客は私の持っているのより大きいキャリーバッグで

平気な顔して搭乗を待っているのです。

あれれ?

ま、いいわ。卵の口直しに日本の美味しいアイス最中の食べ納めして

いざ、行かん!

 

 

 

 

 

 

 

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「家を売ることに」No.2399

2019-08-20 23:19:36 | 自分事情

↑夜ライトに映えて美しい隣のマンションの垣根の木。

漫然と(そろそろ大阪暮らしとおさらばしよう)

と思いつつ過ごした数年でしたが、

ここにきて突然急展開し始めました。

先週、思い付いてネットでマンションの部屋の査定を申し込んだところ、

なんと6つの不動産会社から電話があり、

連絡の早い方から4社に部屋を見て査定してもらったのです。

4社だけでも私にとっては非常に疲れることでした。

スーツも靴もバシッと決めてそれぞれの会社を背負い、

査定に来てくださった不動産会社の方々からは、

(何が何でも我が社に販売を任せてくださいね~~)

というオーラがひしひしと伝わってきます。

4人とも30代から40代と見受けましたが、

説明のしかたや質問への答え方など、

(日本の営業マンのプレゼンテーション能力はこうなのか)

と舌を巻くばかりの見事さで、感動的ですらありました。

4社とも当該マンションや近隣の過去データを基に

部屋の現況を見て査定するので結局、査定額はほとんど同じです。

しかし、この4社のうち1社を選び、

専らお任せしてバリバリがんばってもらわなければなりません。

私は人間に序列をつけるのが本当に苦手です。

教師の習性でしょうか、

(どの子もそれぞれ輝いている。

相対的に評価したり順位をつけたりすべきでない)という感覚を

全力で査定してくれる営業マンの皆さんにも感じてしまうのでした。

昨日、とうとう1社に電話して

「販売媒介を貴社にお願いします」と言いましたが、

決断まで一晩苦しみました。

しかし、選択した会社の営業マンさんの説明は

あらゆる点から評価に値する優れたものでしたし、

会社も私のマンションの近所にあるので

ここにお願いするのが妥当だ、と最終的に決めた次第です。

 

23日(あ、もう明日だ!)中国に出発する身とあって、

留守の間の段取りをしたり、

購入希望者が部屋を見に来たとき、ちょっとはきれいにしておかないと、と

片付けたり(十数年前の引っ越し以来初めて見たものも(笑))、

中国に送る荷物もまとめたりと、

パソコンを見る暇もありませんでした。

このブログも、1日前に書こうとして

くたびれ果てて寝てしまい、今続きを書いているものです。

この夏休みはホンマ、忙しかったわ……。

 

SUUMOやHOMESに我が部屋が載るのもまもなくかも

家が売れたら、娘や息子の住む尼崎のどこかにひっそりと庵を結ぶつもりです。



 

 





 

 

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「逝く夏・・・また冬休みまで再見!」No.2398

2019-08-18 23:57:04 | 日本事情

 もう8月18日、中国に出発する日がじりじりと近づいています。

お昼は懐かしい友だちとランチをいただきながら

互いの近況を交わしました。

仕事のこと、身体のこと、社会のこと。

思うようにいかないことがたくさんありますが、

お喋りするとちょっぴり元気になります。

今回会ってみると、

夏バテで痩せている人と、

ストレスで太っている人に二分されました。

私は決してストレスではないのですが、

日本の美味しい食べ物のために後者グループに属するしかありません。


午後は用事かたがた娘夫婦宅へ出向き、

二人の孫娘に請われて最後のプリキュアごっこ。

私に与えられた役は「野乃はな」です(意味不明でも演じるしかない)。

小さくてイケ面のオーケン王子、

キュア・アンジュ、キュア・エトワール、キュア・エールとか、

登場人物の名前をようやく覚えましたが、

一ヵ月後には絶対全て忘れてます・・・・・・。


近所の公園の夏祭りにも出かけました。

中国の学生たちに紹介しようと写真をたくさん撮りましたよ。


↓孫二人の一番の楽しみは綿菓子です。

綿菓子は中国にもありますが、どこが出所か調べると、

1897年、アメリカのナッシュビルのお菓子屋さんが発明して、

世界に広がったんですって。

↓次はカキ氷。唇や舌に色がつきますが、二人はおかまいなしです。

この祭りの圧巻の出し物は

主催の阪神医生協のハワイアンダンス(サークル活動でしょうか)でした。

しかし、地元の婦人会も負けていません。

定番の「ドラえもん音頭」や「炭坑節」に続いて

何と、もんた&ブラザースの名曲「ダンシングオールナイト」

パーフェクトに盆踊りにしましたよ!!

↓写真では分からないと思いますが、

浴衣姿の皆さん、あの曲の早いリズムにバッチリ乗って踊っているんです。

毎日練習したんですねえ。

いや~、地元を盛り上げる女性の行動力に感動しました!!

おじさんたちも、ストリートダンスとかやれるんじゃないですか。

夜、テレビ見てビールばかり飲んでいないで練習したら。

 

お祭りの帰り、三人と暫しの別れ。

また冬休みにはプリキュアの特訓が待っています。

 

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「日本の街には韓国朝鮮文化がた~っくさん」No.2937

2019-08-16 23:11:16 | 亜細亜

夜の尼崎の街でムグンファ(무궁화:無窮花)が強風に揺れていました。

ムグンファは韓国の国花。日本名は木槿(むくげ)ですね。

♪ムグンファ ムグンファ ウリナラコッ♪

風に負けず、空に向かってまっすぐに伸びる真白い花の凛々しさよ。

日本に併合され支配されていた時代、この花は抵抗の象徴だったそうです。

今の日本には「嫌韓」とかいうじつに狭量の心悪しき発想がありますが、

街には日韓の経済文化交流がいたるところに見られます。

その代表はスーパーマーケットです!


2012年、民主党の野田首相がそれまでの周恩来・田中角栄会談以来の

「尖閣問題棚上げ・未来の英知に委ねる」路線をかなぐり捨て、

魚釣島を国有化するというこれ以上ないほどの挑発に出たとき、

中国は反日デモで溢れましたが、

「そんなに日本が嫌いなら日本食を食べるなよ!日本製品も使うな!」

と、人々に冷静さを訴える声も中国のSNSで飛び交いました。

私も同じことを言います。

「嫌韓」を言う「愛国」者たちは、

日本の庶民に愛され、親しまれている

焼肉もキムチも食べるなよ!

もちろん、あのごま油と塩味で超おいしい韓国海苔も!!

 

はっきり言って、

「嫌韓」だの「嫌中」だの、愚の極みです。

将来を見据えない心狭い政治に踊らされるなっての。

長いアジアの歴史を見てみなさい。

千年以上の交流を続けてきたにも拘らず

一時期の自国の利益だけ切り取って戦争だ、何だとワーワーやったのが

バカ丸出しの、あの時代だったじゃありませんか。

また同じことしてどーするんだよ。

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「武田一義の『ペリリュー 楽園のゲルニカ』無料版で読んだ」No.2936

2019-08-16 02:18:40 | 

 

昨日、NHKラジオに武田一義さんという漫画家が出演して、

話題の漫画『ペリリュー 楽園のゲルニカ』を描いた人だと

紹介されました。

(へえ、戦争漫画を描いた人か)と何気なく聞いていたら、

同郷の北海道出身、44歳で、私から見ればとても若いのです。

当然、戦争経験はありません(私だって経験してないのに(笑))。

「戦争の記憶を風化させてはいけない」

「戦争を知らないものに限って戦争の必要性を得々と語る」

「とにかく戦争はアカン、平和がだいじ」

と、私たちは口を酸っぱくして言いますが、

武田一義さんは子どもの頃、そうした戦争の体験話を

(いつも同じ。もう分かったわ)と辟易していたそうです。

平和の大切さを子どもたちに伝えたいという必死の気持ちが、

逆に(押し付けがましい)と受け取られていたのですね。


では武田さんはどうして『ペリリュー 楽園のゲルニカ』という

過酷な戦争を題材にした漫画を描くことになったのでしょうか。

彼に影響を与えたのは、

アニメや漫画の登場人物の中に「戦争帰り」がいたり、

物語の中で誰かのお父さんが「戦争で死んでいた」り、と

自分が読み、影響を受けた多くの作品の中で見え隠れする戦争が

ジワジワと心に蓄積されていたことと、

直接的なきっかけは

2015年に先の天皇ご夫妻がパラオ諸島のペリリュー島にも

慰霊の旅をしたことで、

自分の全く知らなかった南の島にも日本軍が出兵し、

アメリカ軍との激戦で兵士のほとんどが「玉砕」したことを知り、

「戦争は人間の極限状況だと思うので、

自分がそれを調べて、知り得たことを描くということは

多くの人に、自分が知っていった過程をパスできると思い・・・・・・」

と、動機を語っています。

彼がいつも気をつけていることは、

「普通の人の気持ちや生活と戦争が乖離しないこと」。

自分とかけ離れた特殊な人が戦争に行って、

戦って死んだわけではないということを

確かめて、描き、確かめて、描き、していることです。

現代の「普通の人」が、戦争を自分や自分の国の歴史と乖離させないために。

「僕が思うのは、昔の戦争にいた若い人も、今の自分たちも、

本質的にはあまり変わらない人間だと思っていて。

自分が登場させた人物が本当にその場にいたら

(どういう行動をするだろうか)

(どういう判断をするだろうか)

ということを、ずっと考え続ける、

想像し続けるということが必要なことだと思う。」(武田一義)

武田一義さん自身が過去において、

(いつも同じ話。もうウンザリ)という感想を持ったのは、

自分とは関係ない、と思ったからだという自覚があるのでしょう。

登場人物は可愛い三頭身キャラで描かれています。

深刻な戦争漫画であっても受け入れて読んでもらい易いのでは、と

漫画家の視点で考えたそうです。

下は、無料版で読んだペリリュー ─楽園のゲルニカ─ 1巻』

(作者:武田一義 / 平塚柾緒(太平洋戦争研究会)白泉社:2016年発行)

からの切り抜きです。

若い漫画家が、調べて、追体験して、考え続けて描いた力作だと思います。

 

 

 

 

 


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「しまった、全然似合ってない」No.2935

2019-08-15 20:00:59 | むかむか

昨日、スプレーペンキを買ってきて、

下のボロボロの箱に塗り付けました。

こげ茶色を買ってきて両隣にペンキの臭いが漂うのを気にしつつ

ベランダで急いで吹き付けたところ、

予想以上に色が濃過ぎてこんなになってしまいました(下の写真)。

「けやき色」とか上から塗りつけたら何とかなるのでしょうか。

或いは、赤か黒・・・・・・。

いや、シールでも貼り付けたほうがいいかも。

しかし、中国に出発するまであと1週間。

こんなことばかりやってる暇はありません。

ああ、これだけは拾ってくるべきではなかった・・・・・・

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「うわ、なぜ捨てるんだろう」No.2934

2019-08-14 02:36:05 | がんばれ貧乏人

私の部屋には、

(うわ~、こんなすてきなもの、なんで捨てるのかなあ)

と、マンションの粗大ゴミ捨て場から救出した家具がいくつもあります。

上の写真の椅子二脚のシンプルなデザイン、

下の電話置き台の色合いと質感、

どちらも何年も変わらずお気に入りです。

しかし、中には見るたびに(どうにかしないと……)と思うものも。

下の黄色枠のうち、

下の引き出しは材質と言い、色合いと言い、文句なしなのですが、

上の方は(ペンキを塗ればいいわ)と、とり合えず拾ったものの、

間もなく中国に行ってしまい、そのまま放って幾星霜の扉付き収納箱。

何度も(しまったなあ、また捨てようか)と思った失敗例ですが、

せっかく拾ったのだからと思い返し、10年以上過ぎました。

そんな家具たちに今朝また一つ、拾い物仲間が増えました。

ゴミ捨て場の脇に捨て置かれていた木製オープンラックです。

材質もズシッと重みがあり、とてもいい感じ。

難点は二箇所にかなり派手な擦り傷があることです。

夕方、意を決してコーナン(DIYの店)にペンキを買いに行きました。

(昼間の大阪は暑くて、暑くて、気楽に外なんか出られません)。

ついでに以前から気になっていた

床の光沢ニス、傷隠しペンキ、刷毛なども買い込みました。

全て明日の仕事です。

でも明日は何℃かなあ……。

暑すぎたらベランダでのペンキ塗りは到底無理だわ。


 

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「れいわ二議員は介助費自己負担すべきという主張はズレている」No.2933

2019-08-12 12:00:55 | 思想

参院選が終わり、

変わらなければならない日本の姿がいくつも浮かび上がってきました。

昨日のブログに書いた選挙管理委員会の開票不正について、

国政選挙は有権者が異議申し立てできる制度が裁判以外ないという

とんでもない制度上の欠陥が分かりました。

有権者は主権者です。

主権者の権利行使が疎外された場合、

選挙を執り行った選挙管理委員会は

有権者の異議を聞き、それに誠実に応える義務があるのです。

その義務を履行すると同時に制度を一刻も早く改正してください。

と言うか、早く改正しなさい!です。

何度でも言うけど、私たち有権者は日本国の主権者なのです。

もう一つ変わらなければならないのは、

重度障害者の国会議員(れいわ新選組の舩後さん・木村さん)の誕生に伴って

気がついた、

健常者仕様になっていた国会の諸設備、諸制度、

そして、障がい者の自立支援法の改定です。

障害者の就労を含め、社会的自立を助ける目的で作られた

自立支援法(障害者総合支援法)は、就労を支援すると言いつつ、

職場に介助ヘルパーが付き添うことを禁止しているという摩訶不思議な法律だと

私は舩後さんや木村さんの主張で初めて知りました。

「自立支援法(現在は障害者総合支援法)と言いながら、職場にヘルパーがついていくことは禁じられているからです。障害者は働くなと言うことでしょうか? この部分は絶対に変えなければいけません」
BuzzFeed News 7月21日(舩後靖彦 れいわ新選組・参院議員)

「重度訪問介護を使っているすべての障害者の人が介護者をつけて社会参加できるように。そして、労働や通学に使えるような制度にして頂きたい」
テレ朝news 8月5日木村英子 れいわ新選組・参院議員)

「特別扱いになってしまう。全ての障害者が公費で社会参加できるようにすべきだ」
愛媛新聞ONLINE 8月7日(木村英子 れいわ新選組・参院議員)

ーーーーーーーーーー

このれいわ新選組の二議員に対して、

「特別扱いするな」「議員特権だ」と批判する声があります。

例えば、維新の大阪市松井市長・大阪府吉村知事が

(国会議員は高額所得があるのだから)

介護費用は自己負担すべきだと主張しています。

しかし、国会議員の給料は従来健常者議員を想定したものでした。

つまり、障害者議員は健常者議員と同じ給料の中で

介護費用を自己負担すべきだと言っているのですが、

それでも十分給料があるのなら、

健常者議員はその負担がない分、給料もらい過ぎじゃないんですか。

維新議員から「身を切る給料返上」は聞いたことないんですけど

まず、自分自身が「身を切る改革」ってのをやってほしいもんです。


兎にも角にも、

重度障害者が働くための自立支援法改革は早急に推進されることになるでしょう。

口で何千、何万回訴えても実現されなかったことが、

れいわ二議員の誕生で急ピッチで実現する・・・・・・

これ、本当にすごいことですよね。


資料:れいわ重度障害議員を「特別扱い」「議員特権」と言ってしまう人たちは何がズレているのか?」

  文春オンライン 更新日:2019/08/12

https://gunosy.com/articles/Ru0Go?s=s&fbclid=IwAR2pXltOiFM4s8dFOhte9QX9cAVqbGAr5oGEwJABxN3FhBUBmUZg3093hqc





 

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「投票したのに0票とは?!堺市美原区選管の不正」No.2932

2019-08-10 23:53:07 | 民主主義について

堺市の他の6区では共産党の山下芳生さんが100票以上獲得しているのに、

美原区だけ唐突に0票??

美原区在住の少なくとも4人は共産党の山下さんに投票したというのに

美原区選管は「開票は適切だった。なんで0票になったか分からない」

と言うだけで、自ら調査することを拒んでいます。

私には投票した4人の怒りがよく分かります。

「なぜか原因は分からない」で選管の責任が果たせますかっての


私は投票所では、投票箱に候補者の名前を書いて箱に入れる際、

両手で拝んでから入れています。

たった一票しかない自分のこの票が

どうか有効に効果を発揮しますように、と。


たった一票……。

ちっぽけな一個人のささやかな権利に

深い願いを込めて行使するのに、

それを数えてもらえないような選挙制度は

民主主義の手段とは無関係で、ただやっただけのアリバイ作りです。

お金だけは膨大に使っているのにね。

こんな不正が横行する日本の国政選挙に

異議申し立てできなかったら、

あほらしくて投票なんか行きたくなくなります。

ひょっとして今回の0票は、それを狙っての操作?

     

堺市美原区選管は投票した有権者の権利が冒涜された今回の事件を

自主調査して、選管への不信を取り除くべきでしょう。

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「悪かったなあ、下の階のおじいさん」No.2931

2019-08-09 23:16:33 | 自分事情

 

↑8月4日夕刻の京都七条大橋の夕焼け。文とは無関係ですけどね。

 

7月25日のブログにマンションの下の階のおじいさんが

夜中の1時半に私の部屋に押しかけ、

モニターフォンをピンポンピンポン鳴らして

大迷惑したという話を書きました。

   ↓    ↓    ↓

「見知らぬパジャマ老人が真夜中に押しかけてきた…」No.2992

その時は、夜中に押しかけて来て

「お前の部屋のモーターの音がうるさくて寝られへんねん。バカ」

と決め付けた爺さんの言葉が全く事実と異なることや、

「お前」「ばか」という超失礼な言葉遣いで罵られた怒りに燃え、

お爺さんの顔写真をバシバシ撮って、

「みんなに発表するよ。当然でしょ。」

と、お爺さんが入れ歯も入れず

「撮るのか。まあ、なんだな」とかフォゴフォゴ言っているのを

肯定したと断定し、

お爺さんの顔のみならず、

モーター音なんか一つもしていないお爺さんの部屋の写真を

ブログに載せたのです。

私のその時の気持ちは、被害者意識100%で、

(私は悪くない!あのくそ爺さんに自分が悪かったと認めさせないと)

という憎しみの気持ちがチロチロと燃えていました。

・・・・・・

数日後、ブログを見た娘から

「そのお爺さんが認知症だったら、

せめて顔は隠すべきやと思うで。

他人の部屋の写真を公開するのも良くないよ。」

とたしなめられ、

それまでも少しずつ怒りに変わって心に痛みを感じていた私は

一気に目が覚める思いでした。

自分こそが被害者だと思い、怒りの感情に身を任せると

相手のことなんか考えていられません。

しかし、気を落ち着けて冷静に見れば

相手には相手の事情があるのですよね。

今回、仕掛けてきたのは確かにおじいさんの方ですが、

その際、いわゆる「被害者」の私がどのような対応をするかが

ものごとを打開する際に重要だったわけで、

私はお爺さんがどうも認知症っぽいなと感じつつも

(くそジジイに絶対負けるもんか)という対抗意識ばかりで

売り言葉に買い言葉の喧嘩をしたわけです。

ああ、1972年の周恩来と田中角栄の会談の際、

周恩来さんが見せたあの寛大さが私にも欲しかったな(笑)。

お爺さん、張り合ってごめんなさいね。

今度、昼間に「その後、モーターの音しますか」と

お爺さんの部屋を訪れても良いほどの気持ちになっている今の私です。

 

 

↑8月4日、夕刻の京都七条大橋たもとの枝垂れ楊と遠い月(文とは全く無関係)。

 

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