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日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

ダニー・ネフセタイさんが育ったイスラエルという国

2024-03-30 16:15:51 | 平和

昨年10月~12月頃、

「イスラエル」という言葉を聞いただけで心臓がドキドキした。

毎日まいにち、パレスチナの悲惨な状況をXの動画で観ているうちに、

見なければならないと思ってもどうしても見るに耐えず、思わず立ち上がってうろうろ歩き、

イスラエル軍の兵士たちに汚い憎しみの言葉を発したりした。

今年1月に入り、何とかその時期を脱して、

イスラエル人の書いた文章であっても冷静に読めるようになって手に取ったのが、この本だ。

『国のために死ぬのはすばらしい?』(高文研)

著者はダニー・ネフセタイさん(1957年生まれ)。

日本に滞在して40年余り、今は埼玉県在住の木製家具職人だそうだ。

本の前文には「イスラエルで生まれ育ち、ワケあり教育を受け、その後日本に移住して

生まれ故郷に対する別の視点を持つようになり…」とある。

この本を読んで初めて「ワケあり教育」の実態を知り、

イスラエルの人々に対する否定的感情がかなり変化した。

やはり、知ることが理解の第一歩なんだなあ。

 

イスラエル国家がユダヤ人の絶え間ない戦争の歴史の中で得た教訓は

徹底した愛国心と軍国主義の教育こそが国家の基礎である、ということだった。

今でもイスラエルの学校で、小学生から叩き込まれるスローガンに次の2つがある。

捕虜になるな、死ぬまで戦え。

②国のために死ぬのはすばらしい。

この2つは戦争の史実を根拠とする。

①「捕虜になるな、死ぬまで戦え」は、ローマ帝国がエルサレムからユダヤ人を追い払ったとき(紀元 70年)、3年間抵抗を続け、最後はマサダ要塞で集団自決したこと(紀元73年)に拠る。1973年第4次中東戦争でエジプトの捕虜になったイスラエル軍部隊に対して、イスラエル国民は「よくも死ぬまで戦わずに捕虜になったな!」「マサダの教訓はどうした!裏切り者」と罵声を浴びせた(16歳のネフセタイさんもそう叫んだ)。

マサダ要塞:イスラエル国防軍新兵の入隊宣誓式の場所「マサダは二度と陥落しない」と誓う。観光地になっている。

②「国のために死ぬのはすばらしい」は、テルハイでのアラブ人とユダヤ人入植者との戦い(1920年3月)で死んだユダヤ人司令官ヨセフ・トルンペルドールが最後に遺した言葉。

テルハイ:もともとアラブ人が多い地域だったが、シオニズム運動でユダヤ人が入植し、衝突が絶えなかった。イスラエル建国前にアラブ人と勇敢に戦って死んだトルンぺルドールは❝建国の獅子❞と呼ばれ歴史上の英雄になった。イスラエルの歴史は戦争ばかりだが、その中でも「テルハイの戦い」は特別で、毎年「テルハイの日」は学校行事になっており、教室の壁には黒板ほどの大きさの横断幕が掲げられ、そこには「国のために死ぬのはすばらしい」と書かれている。

学校、家庭、地域、メディア情報などによって、国民は

イスラエルの正当性を否定するもの=アラブを敵対視(ナセルとヒトラーを同種とする)し、

闘争の美化と不可避性を刷り込まれ、国民の‶信念“が形成されている。

多数のイスラエル国民の声は次のようなものだ。

「相手を嫌っているのはイスラエル側ではなくアラブ側である」

「戦争を望んでいるアラブ人と違い、私たちユダヤ人は平和を愛する優れた民族である」

「悪者のアラブ人とは和平交渉も不可能だし、彼らの言うことも信用できない」

「ラグバオメルの焚き火」という13世紀から伝わるユダヤ教の祭りがある。

ネフセタイさんは子どもの頃、ジャガイモなどを焼いて食べるとき、ヒトラーやナセルの人形も焼いたという。

祭りで敵国リーダーの人形を焼くことについてイスラエル人は

「私たちは年に一度、相手側は毎日やっている」と本気で言うという。

 

『国のために死ぬのはすばらしい?』ではないが、

『イスラエル諜報機関暗殺作戦全史 上・下』ロネン・バーグマン(小谷賢訳・早川書房)という本の一節に、

「誰かが殺しに来たら立ち向かい、こちらが先に殺せ(rise and kill him first)」がある。

こちらが先に殺せ(rise and kill him first)」は、

政府や軍部当局がよく引用する言葉だそうだ。

政治指導者の多くは元軍人で、

元特殊部隊出身の首相も複数居る(ネタニヤフ、シャロン、ラビンなど)。

 

イスラエルには徴兵制度がある(男子18歳から3年間・女子2年間)。

青春時代の人生で最も美しい時期に戦争(人殺し)の練習だ。

とまあ、

(これだけ叩き込まれれば、ああなるわね)と教育の恐ろしさを再認識せざるを得ない。

ネフセタイさんは日本で暮らしていても、

ずっと、イスラエルは正しい、正義の戦争だと思っていて

日本人の妻が批判しても、イスラエルを援護していたそうだ。

しかし、2008年、イスラエル軍が約3週間のガザ攻撃で

450人の子供を含む1400人のパレスチナ人を殺害した時、

ネフセタイさんの心の中で何かが変わった。

それまでも大きな戦争は何度もあったが、

この時イスラエルの戦争の質が変わった、イスラエル国民もどこか変わった、と感じたという。

ネフセタイさんはそれ以降、戦争という手段を絶対にやめようとしないイスラエルに異議を唱えて、

現在に至っている。

変わったのはイスラエルだろうか、ネフセタイさんだろうか……。

外国から故国を見ることの意味は大きい。

そして、そんなに大昔でない過去の日本も、

今のイスラエルと酷似した教育が為されていたことを痛苦に思う。

それにしても私たちは、国家の意向に沿って洗脳されるだけの存在なのだろうか。

自立した個人としての自分はそのまま自分だと勘違いしつつ、

実はただのモブ群衆の一部品になり果てるような、

ただの情けない愚か者なのだろうか。

そうならないためには何を成すべきか、歴史の経験の中にヒントがあると思う。

と言うか、私たちはそこからしか学べない。

 

⤵ダニー・ネフセタイさんの最新書はこちら。

 

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1 コメント

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教育の恐ろしさ (こきおばさん)
2024-04-08 06:44:04
私も子ども時代、国のために死ぬことは素晴らしいことだと教えられました。が、旧満州でしたから、本土よりは緩やかだったんだと思います。それでも男は兵士になること、女は子どもをたくさん産むことが美徳だと思っていました。命は国にささげるものだという教えは、強くたたき込まれたと思っています。
戦争は人が獣になること、人間のすることではなりません。

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