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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「その日の内に中国山東省の宿舎にたどり着けた~!」No.2628

2018-08-31 23:59:41 | 亜細亜

関西空港から目指すは一路、中国河南省鄭州空港。

そこから長距離バスで山東省菏澤市に向かいます。

出発するやたちまちうとうとしてハッと気がつくと

飛行機の左側に陸が見えました。

島根半島?

何と美しい……。

このポチッと浮かぶ小島にも人が住んでいるのでしょうね。

今夏7月日本に帰った時は、

宿舎から大阪の自宅まで、ほぼ24時間かかりましたが、

今回は午前10時前に大阪の家を出て、菏澤の宿舎に着いたのは午後10時半。

非常に短時間で、全て順調でした!

下は着陸寸前の機内から見た鄭州市の様子です。

鄭州は曇っていました。

鄭州空港からバスで山東省菏澤市に行くまで

バスターミナルで1時間ほど待ち時間があったので、

これ幸いと中国で使う携帯に充電しました。

しかし、私のように充電している人はもはやいません。

座席に移動用の充電器に充電できる装置が着いているのです。

私はそんなもの持っておりません(キッパリ)。

座席をじろじろ見ていたら、

ここにも軍人用優先座席があるのに気づきました。

日本で万が一、憲法が改定されて軍隊ができたりしたら、

日本も中国のように

駅やバスターミナルに「軍人優先座席」ができるかも知れません。

しかし、

「お国のために命をかけてくれる兵隊さんが優先」は

明治憲法の世界です。

明治憲法では天皇の統帥権の名の下に

軍部がのさばって侵略戦争に突っ込んでいってしまいました。

それを痛苦に反省して文民統制を布いたのが戦後の日本国です。

軍隊とは戦争することを前提とした武装組織です。

19世紀までとそれ以降では戦争の質が変わっています。

領土拡張に正当性は認められません。

そうした前近代的な領土拡張を企てる国家に対して、

外交の稚拙さや失敗を武力で補い、かたをつけるのが今の戦争です。

(「専守防衛」の自衛隊がいるだけで十分だと言える

したたかな外交力をこそ日本の政治家は身に付けなければならないのに……)


そんなことを思っているうちにバスに乗る時間が来ました。

なんと、そのバスに乗るとき

フィリピンから戻ったEVE先生とばったり!

3時間半のバスの旅も

喋ったり、居眠りをしたりしているうちにすぐ終わり、

菏澤の長距離バスターミナルまで

日本語学科の李海鵬先生がお迎えに来てくださったので

スイスイ宿舎に向かいました。

いつからか、いつも送迎を買って出てくださる李海鵬先生には

本当に心から感謝しています。


部屋に入ったら埃とカビの臭いが満ちていましたが、

そんなことには慣れています。

下の写真のようになっているのにも慣れています。

しかし、水が出ないのは残念でした。

掃除ができません。

全てはアシタ、明日ということにして

お休みなさ~い。


 



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「さあ、学校も始まった。私も出発だ!」No.2627

2018-08-30 23:54:08 | 日本事情

27日月曜日正午前の大阪市内。以前、大阪の小学校は9月1日から2学期が始まりました。さらに始業式が終わったらいつも10時過ぎには帰宅していましたが、近年は8月末から2学期が始まり、初日から授業をするそうです。全国学力調査で大阪の子どもの成績がどん底に近いからだそうです。

こちらでは、子供たちを取り囲むように大人が数人ついています。誘拐、暴行などの被害を子どもが受けないように保護しているのでしょう。服装を見ると、保護者(PTAの役員さんか?)、教師、「生き生き」(放課後生活活動)指導員などでしょうか。

 

↓出発準備で十三(じゅうそう)までお買い物に。十三はこんな街です。

私は、大阪が決して嫌いではありませんでした。

「維新」が大阪府・大阪市の長になるまでは。

今は、他のところに引っ越そうと思います。

大阪市に税金を払いたくないからです。

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「翁長さんの遺志を継ぎ、ついに立つ!玉城デニーさん」No.2627

2018-08-29 15:44:29 | 我が心の沖縄

ずっと固唾を呑んで沖縄県知事候補者が決まるのを待っていました。

がんばれ!

玉城デニーさんと沖縄県民の皆さん!!

 アベが名護市長選や新潟知事選のとき同様、

どんなに巨額のお金を投入して沖縄の声を押し潰そうとしても、

どうか、負けないでください。

沖縄は日本の民主主義の学校です!!

17:46 - 2018年8月28日
 
ーーー付録ーーー
玉城デニーさんの若い頃の写真を見つけましたよ~~
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「突然のさようなら・・・ちびまるこちゃん」No.2626

2018-08-28 23:53:29 | 人間
    
 
大人になっても漫画に目がなかった私は、
自分の子どもがずいぶん小さい時、
まず「りぼん」という少女マンガ誌の中に、
〈台風の洪水が自分の町を襲った際、
自宅の屋根の上にのぼり手を振る同級生の様子を
冷静な口調で語るちびまるこ〉
を発見して胸に焼きつき、
その後「りぼん」を読むたびに、
ちびまるこのページをちぎって保存していました。
そうこうしている内に、
テレビでそのアニメ版が放映されるようになり、
我が家では『ちびまるこちゃん』を
『ちびまるこ!』と呼び捨てするくらい愛し、親しんできたものです。
当時、健在だった北海道の母も『ちびまるこちゃん』が大好きで
趣味のお経の丸暗記に夢中だった父に、
「父さん、『ちびまるこ』が始まるよ。『ちびまるこ』なんだよ!」
とうるさく言い、
「だからどうした?」
と、二人はまるでさくらももこ家のような会話を交わしていたと、
夏休み、祖父母の家に遊びに行っていた娘が後日語っていました。

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以前、小学校教師だった私は
エッセイ集『もものかんづめ』を教室に持って行き、
しばらくの間、子供達に読み聞かせしたものです。
確か4年生ぐらいだった子どもたちにとって、
その時間は、新感覚のエッセイを楽しむ時間だったと思います。
中国でも『ちびまるこちゃん』は『櫻桃小丸子』と呼ばれ、
知らない学生はいません。
あのアニメで日本の庶民の家の風習を学んだという学生もいます。
これからジワジワと
さくらももこがいない喪失感が胸に広がってきそうです。
今既に、かなりの脱力感に襲われています……。



 
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「沖縄の基地問題が超分かりやすい動画見つけた!」No.2625

2018-08-27 20:10:36 | 我が心の沖縄

莫大な税金を使って建設している辺野古新基地、

いったい何が問題なのかがとてもよく分かる動画を見つけました。

「沖縄」が抱える基地問題について、7つのポイント「#知らない沖縄」

1.そもそも、日本に米軍基地があるわけ。

2.特に沖縄にばかり基地が集中しているわけ。

3.米軍基地の機能:沖縄ばかりに基地を集中させる必要はない!

4.米軍基地の存在:騒音被害、山林火災、墜落事故、事件の多発!

5.空飛ぶ棺おけ、オスプレイ問題

6.普天間基地問題

7.税金を使った辺野古基地建設問題

これら7つのポイントは、

ホンドの人々が沖縄に過重な負担を押し付けたまま

(ああ、よかった~。私のところじゃなく沖縄が犠牲になって~)

とか思っていていいのかよ!!

ということを問いかけています。

私たちは、もう、なんぼなんでも答えなければなりません。

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「NHK、安室奈美恵さんの翁長知事追悼コメントを一部削除報道」No.2624

2018-08-25 22:55:07 | 我が心の沖縄

写真はHUFFPOST JAPANより

下は、翁長知事が亡くなった8月8日の翌日に

安室奈美恵さんが発表した追悼コメントですが、

なんとNHKはこの一部をカットして報道したというのです。

どの部分か皆さん、お分かりになりますか

    ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

   《お悔やみ申し上げます》ー安室奈美恵ー


   翁長知事の突然の訃報に大変驚いております。

    ご病気の事はニュースで拝見しており、

   県民栄誉賞の授賞式でお会いした際には、

   お痩せになられた印象がありました。

    今思えばあの時も、

   体調が優れなかったにも関わらず、

   私を気遣ってくださり、優しい言葉をかけてくださいました。

   沖縄の事を考え、沖縄の為に尽くしてこられた

   翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ、

   これからも多くの人に愛される沖縄であることを願っております

   ーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

NHKがカットしたのは

〈翁長知事のご遺志がこの先も受け継がれ〉

の部分だそうです。

翁長知事の遺志とは、

「辺野古基地建設を許さない」ことです。

NHKニュースはどこまでアベ政権に忖度するのでしょうか。

報道の独立性をかなぐり捨てて政権にスリスリするNHKに

受信料を支払うのは皆さん、如何なものでしょう?

放送法は(いくら政府に圧力をかけられても)、

公平中立でなければならないと定めています。

2年前、高市早苗総務大臣の「電波停止発言」は

言論弾圧であるとして猛批判を浴びましたが、

今、「言論・報道の自由」ならびに

「民が知る自由」は明らかに制限されています。

真実を報道しない報道機関に

なんで私たちが血と汗と涙を代償に得たお金を払わなアカンのでしょう。

私たちは政府の言いなりにお金を払うロボットじゃないんです。

アベ首相が「国民からお金を吸い上げ云々・・・」と述べた言葉を

皆さん、ゆめゆめお忘れなきようにね。

  「お金」の画像検索結果


さて、安室奈美恵さんは9月16日に引退しますが、

その前日の15日、故郷の沖縄で最後のライブショーをします。

BEGIN、MONGOL800など同じ沖縄出身のミュージシャンも

参加するそうですが、

彼らは日頃から平和を希求し発言しているグループです。

安室を含め、

沖縄を代表するミュージシャン達が発するメッセージに注目したいものです。

↑安室奈美恵

↑BEGIN

↑MONGOL800

↑え、誰?って平井堅ですよ~ 彼も出演するそうです。

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「知床の酢漬(すしづ)けだ~い!」No.2623

2018-08-24 09:53:10 | 日本事情

もうすぐ終わる夏休みを振り返ると、

たくさんの出来事が頭の中を走馬灯のように……いやホント。

元来引きこもりタイプの私ですが、

人生の残り時間を考えてか

近年やたらとあちこち出かけるようになりました。

出かけるたびに、その土地ならではの美味しさに出会います。

特に、沖縄の昆布をベースにした味は

私の嗜好に合致していて大好きです。

しかし!

その沖縄でも満たされないもの、それがこれなのです。

   ↓       ↓       ↓

北海道の鮭の酢漬(すしづ)けですよ~~ん。

知床半島のウトロに住む姉が手作り酢漬けを送ってくれたんです

しかし、実はこの酢漬け、

故郷北海道ならではのものだとずっと信じていたのですが、

念のため出自を調べてみたら、な、なんと!

岩手の郷土料理だった・・・・・・ (註)

北海道は明治になって政府の開拓事業の呼びかけに応え、

東北地方を中心に内地(北海道人は本州をそう呼びます)から

貧乏人、山師、犯罪者、流れ者など多くの庶民(笑)が移住しました。

従って、本州各地の味も定着したのでしょう。

北海道人の、古い伝統に拘泥せず開明的だと言われる気質は

こういう寄せ集めの浅い歴史から生まれたのだと思います。

そうそう、「貧乏人、山師、犯罪者、流れ者など」という表現は

母校の斜里高校の世界史の佐々木茂先生が授業で言った言葉です。

佐々木先生も北海道生まれの北海道育ちです。

「我々はそうした山師や犯罪者、流れ者の子孫なのであります。」

ときっぱり言うので、教室はブハッと笑いに包まれました。

佐々木先生は確か1933年生まれだったと記憶していますから、

おお、もう85歳になられたのかあ~。

先生、お元気ですか!

↑わさび醤油でいただきました。お茶は中国のプーアル茶です。

 (註)

酢漬け
岩手の郷土料理でなれずしの一種。酢漬けにした魚の切り身、飯と麹を混ぜたもの、かぶ、にんじん、ふのりなどを順に樽に詰め、これを繰り返して重ね、重しをして熟成させる。魚はほっけ・鮭・にしん・さんまなどを用いる。https://kotobank.jp/word/%E9%AE%93%E6%BC%AC%E3%81%91-808711

なれずし

【中国料理】より …南渡した漢人が覚えた珍味として落とせないのが,鮓(さ)である。これは,なれずしで,魚を塩につけてから米飯にはさんだうえ,おもしでおさえて飯が乳酸発酵したころあいに魚を食べた。 隋から唐にいたって当時の国際都市長安は,西域人(胡人)が多く往来・居住し胡風が広まったことはよく知られる。… ※「なれずし」について言及している用語解説の一部を掲載。https://kotobank.jp/word/%E3%81%AA%E3%82%8C%E3%81%9A%E3%81%97-894119


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「中国山東省からビックリ仰天の知らせ!」No.2622

2018-08-22 22:50:19 | 中国事情

今月末には中国山東省に戻るとあって、

パスポートの更新、持っていく薬・本・文具等の準備、旧友との交友など、

日々駆け回っていますが、

今夜8時過ぎに家に戻ってパソコンを開くと、

山東省菏澤学院1年生(9月から新2年生)からメールが届いていました。

7月初めに受けた日本語能力試験(N2)に合格したとのこと。

菏澤学院で1年生がN2試験に合格したのは韋彤さんに続き2人目です。

驚いたことには、満点180点のうち177点という高得点。

菏澤学院始まって以来の点数であることはまちがいありません。

 実は、このZHAOさん、

小学校では伸び伸びやんちゃな子でしたが、

中学校で勉強に目覚めると同時にめきめき成績が上がり、

高校入試では県で10位以内に入るトップクラスの成績を収めた学生です。

しかし、あまりに周囲の期待に応えようと頑張り続けているうちに

重圧に押し潰され、2年生から不登校になってしまいました。

彼が再び登校したのは大学入試の日だったそうです。

それで菏澤学院に入学してきました。

ZHAOさんの校内スピーチ大会での発表は次のようなものでした。

 

ーーー「自分の幸せも大切にね」 趙祖琛 ーーー

「あなたは本当に面白い人だね。」

「いつも頑張っていますね。」

 私は高校時代によく先生に褒められました。

その頃私のイメージは、百%ポジティブ、

明るく、元気で頑張り屋というものでした。

でも、実は、その時の私はそんなに楽ではなかったんです。

眠れない日々が続いて、死んだほうが楽だと思ったことすらあります。

 

「他人に幸せをあげるだけじゃなくて、自分の幸せも大切にしてね」

大学に入ってから、母校の朱先生を訪問したとき、そう言われました。

朱先生は癌という難しい病気を抱えています。

命がどれほど大切か、その先生はきっと分かるのでしょう。

私の心の中を見透かす言葉でした。

「完璧な人になろう、周りの人を楽しませよう。」と考えながら生きていた私は

確かにたくさんの友だちを作りました。

そして、いい成績も取りました。

でも、他人の期待に応えることばかり気にしてきた私は、

自分のためにどのように暮らせばいいのか、全然分かりませんでした。

人間という生き物は複雑です。複雑で豊かな感情を持ってこそ、

人間だと言えるのでしょう。

しかし、私は、その「感情」という最も大切なものを

どこかに落としてしまいました。

小説を読んでも、登場人物の気持ちが深く味わえません。

周りの人が笑えば、私も笑います。

でも、なぜ笑うかよく分かりません。


しかし、生きることが一番苦しかったとき、私は、ある歌に出会いました。

歌詞の中で、女の子は死を選びます。

でも、死ぬ前に、彼女はまだ生きることを求めていたんです。

「精一杯勇気を振り絞って 彼女は空を飛んだ

鳥になって雲を掴んで

風になって遥か遠くへ

希望を抱いて飛んだ~

生きて 生きて 生きていたんだよな ♪」(註)

気がつくと涙が勝手に溢れ出ていました。

(私は、涙を流すことができる。まだ、自分の感情を心に持っているんだ!

私には、まだ、生きる力がある。)

そう思って、未来を信じて、生き続けることを選びました。

 

「他人に幸せをあげるだけじゃなくて、自分の幸せも大切にしてね。」

と言ってくださった朱先生。

私は今、大学で、自分の暮らしを始めました。

自分の目でこの世界をよく見て、人々の声を聴いて、体験して、

自分のための生活を楽しみます。

先生、また、先生のところに行きます。

先生も、どうかお元気で

ーーーーーーーーーーーー

中国の受験勉強の過酷さは日本の比ではありません。

高校生の中にはあまりのストレスに耐えかねて

大学進学を諦める者も少なくないし、

受験の半年前ほどから鬱病になる子もいるそうです。

不登校になった趙さんが菏澤学院に来たのは

(なんだ、こんなにのんびりしていてもいいのか)

と気がつくことができて、

彼自身にとってかなり良かったのでは、と

内心私はほくそ笑んでいたのですが、

持ち前の完璧主義でこんな高得点を出してしまった趙さんが、

周囲とのギャップに苦しまないことを願ってやみません。

もうすぐ、新学期。

さあ、ぼちぼち心のエンジンをかけないと。

(註)「生きていたんだよな」(あいみょん)

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「『復員兵』でも『引揚者』でもない中国からの『帰国者』たち」No.2621

2018-08-21 12:31:01 | 反戦平和

前号のブログ(No.2620) で、

引揚者である「こきおばさん」の体験記を掲載させていただきました。

引き揚げてくるとき10歳だったこきおばさんは、

国家の保護もなく、守ってくれるはずの軍隊には見捨てられ、

飢餓と命の恐怖に襲われつつも何とか帰国しましたが、

何と日本に着いてからも屈辱的扱いに耐えなければなりませんでした。

私の父母も1946年に引揚げてきた組で、

苦労して故郷北海道に帰ったというのに「引揚者が……」と陰口を叩かれたと、

こきおばさんと同様のことを言っていました。

自分のせいでなく酷い目に遭った者を虐めたり差別したりするのは

日本人の伝統なんでしょうか??

『広島に歳はないんよ』の佐伯敏子さんも被爆後地域の人に冷たくされ、

『火垂るの墓』の野坂昭如さんも親戚のおばさんに冷遇されました。

2011年3月の福島原発事故後、避難した子どもの学校でも

多くの虐め事件が発生しています。

この底意地の悪い根性、何とかなりませんかね。

 

さて、「引揚者」と「帰国者」は

同じように他国から日本に戻ってきた民間人を指す言葉ですが、

違いは帰国の時期です。

「(中国からの)引揚者」とは大雑把に言って、

1945年敗戦から1972年日中国交正常化までに日本に帰国した日本人

(多くは1958年8月までに帰国)、

 

「(中国からの)帰国者」とは、

1972年の周恩来、田中角栄が切り開いた

日中国交正常化以降に帰国した日本人を指します。

私は以前、大阪にある近畿中国帰国者支援交流センターで

帰国者の皆さんに日本語を教えていました。

そのときのクラスで、とても熱心に勉強していた学生の一人に

西井澄さん(82歳)がいます。

偶然にも引揚者のこきおばさんとほぼ同年齢で、

中国にいたときの住所も近所ですが、

敗戦後の人生の歩みは全く異なります。

しかし、お二人に共通するのは、

日本に帰ってからも困難な生活が続いたことと、

今もなお「戦争は絶対にダメだ!」

声を大にしておっしゃることです。

 ↓2015年3月満79歳の高校卒業(大阪府立大手前高校)を「帰国者の友」で祝った際のもの。

「私の歩んできた道」西井 澄 (註1)

 私は昭和十一(1936)年3月25日、高知県中村市川登で生まれました。家の前は有名な四万十川が流れています。川の両岸に高い山がそびえ、きれいな木がいっぱいで景色が非常に美しいところです。こんないい思い出の故郷です。6歳まで私はよく川の周りで遊んでいました。隣の平さんとカヨさんという人といつも一緒に水遊びをしていたのを覚えています。

 それが昭和十七(1942)年5月7日に、家族4人(父、母、私、妹)で、高知開拓団として旧満州吉林省舒蘭県小城子鎮四合屯八道林村へ行きました。母は自分が一人娘だったので、そんなに遠くに行くのは賛成でなかったのですが、政府が土地も、馬も、農具も、全部用意してくれると言うので、父が乗り気になり参加を決めたそうです。八道林村は辺鄙な山の中でした。30戸ぐらいの家がありましたが、日本人はただ7戸でした。

 私は6歳でしたから学校に入る歳でした。でも、学校には入れませんでした。理由は周辺地域で学校に行く子は私一人だけだったのですが、家から学校まで10kmもあり、道の両側に高い木が鬱蒼と茂っていて狐や狸が頻繁に出てくるし、木と木の隙間には死んだ人が入っている棺がごろごろ置いてある(当時のその地域の習慣でした)ので、怖くて行けませんでした。その後、北海道から3家族が入植してきました。その中に子どもが3人いたので、翌年その子たちと一緒に一年遅れて入学しました、その学校生活の思い出は、九州出身の近藤先生という優しい男の先生が複式学級の担任だったこと、「猿かに合戦」というおもしろい劇をしたことです。 

 父と母は農業をして一家4人の生活を支えていました。労働は過酷で貧しい生活でした。私は毎日学校に行き、家に帰ったら妹と遊ぶ暮らしでしたが、昭和二十(1945)年6月、下の妹が生まれ5人家族になりました。苦しい生活が続く中で生きていましたが、楽しかった。父母と三姉妹の5人がいるので、お喋りをしたり……。この時は、親の笑い顔が見えました。

 その月の6月30日、父に召集令状が来て翌朝すぐに兵隊に行きました。このとき、母は出産7日目でした。仕方がないから9歳の私が父を舒蘭県の駅までお送りしました。私は涙を流しながら父と別れました。父は行ったなり、再び戻ることはありませんでしたが、一度だけ「戦争が終わったら、荷物は何も持たず逃げなさい。」と書かれた便りが届きました。3ヶ月も経たないうちに終戦になりました。

 8月15日、母は3人の子どもを連れて家を出、その日から避難生活が始まりました。吉林から奉天(今の瀋陽)まで6ヶ月かかりました。最初は四合屯小学校に集まりましたが、このとき、中国人に襲われ、学校のガラスは割れ、私と妹は団体の人たちについて山の奥の方へ逃げました。母は赤ちゃんのオムツをお願いしようとして大きな木で殴られ、生まれて2ヶ月の妹を抱いたまま校庭で倒れました。後で誰かに助けられたそうです。この日、私と妹は山の奥で一晩過ごしました。明くる日の昼ごろ学校に戻って、母に会えました。母の頭は白いガーゼで包まれていました。後で食事が配られました。一人に1つのおにぎりでした。

 夜になったらロシア軍が入ってきて、きれいな女の人を捕まえて外へ出ようとしたので、部屋の中は子どもの泣き声や、「助けて!」と叫ぶ女性の声で大騒動になりました。こういう怖いことを防ぐために若い女の人は子どもを借りて抱いたり、顔に炭を塗ったり、色々な方法を考えました。9歳だった私は(どうしてこんな世の中になったんだろう。戦争があるからこうなったんだ。戦争は怖い。戦争は人を殺す。戦争は家族をバラバラにしてしまった)と、心底思いました。 

 小城子の駅から貨物列車に乗ってハアビに到着、ここでも学校に避難しました。ひとつの教室に60人ぐらいがひしめき合って住むことになりました。玄関はロシア軍が守衛。10月頃でした。気候がだんだん寒くなって雪も降り、気温はマイナス10度以下。ここには1ヶ月ぐらい居りました。このとき、食べ物・飲み物は不十分でした。だから毎日人が亡くなり、みんな直面する困難な生活の中で生きるために、子どもを中国人に預けたり、中国人と結婚したり、それぞれでした。

 私たちはここからまた新京(長春)に行き、団体宿舎のようなところに住みましたが、食べ物がなくなり、生後4ヶ月ちょっとの妹が亡くなりました。母に抱っこされて息を引き取りました。悲しくて泣きました。生きていたら数えで65歳です。(註)

 長春から瀋陽へ、11月の中頃、満蒙小学校に着きました。50人ぐらいが一緒です。また、毎日人が死んでいきます。幼い頃から人の死ぬ姿ばかり目の当たりにしてきました。母もここで伝染病にかかって動けなくなり、仕方がないから上の妹を中国人の王さんに預けました。母と私も韓さんという人に助けられました。大きい街から馬車に乗って2時間かかる農村へ連れて行かれました。家に着いたら、22人の大家族でした。 

 私と母は韓さんから食事を得られ、お腹いっぱいになり、母の病状は良くなりました。母は韓さんの妻として、私は養女として、大家族の中での生活が始まりました。韓さんは5人兄弟の2番目です。何の権力もありません。ただただ、働いて弟達の家族を養うだけです。母は毎日、家事(例えば、水汲み、ご飯炊き、畑の草取り、田植え、稲刈り……)をしました。私は子守り、家事の手伝いなどをやらされました。食事は2食です。10時頃に朝ご飯を食べます。食事の時間になったら、机の上にご飯1椀、漬け物1皿が載ります。おかずはあまりありません。月に一回、もち米で作ったお餅を夕飯に食べますが、私と母にはくれませんでした。

 こんな悲しい生活でも、我慢し、辛抱することが生きていくためには仕方がないことでした。私は一度、重い病気に罹って歩けなくなりました。足が曲がってしまいましたが、それでも病院に行かせてくれません。自分で忍耐し、回復の時間を待つしかありませんでした。学校に行くなど、論外でした。歳は10歳だったけれど、労働者として働かされるばかりでした。

 1949年10月1日、中華人民共和国が正式に成立し、共産主義になり、私もちょっとは解放されました。と言うのは、大家族から出て、兄弟5人がそれぞれ自分で所帯を持ち、家族は3人になったので、大家族のときより、ちょっと自由になり、この時に小学校3学年に入らせてもらいました。歳は13歳ですが2年までしか行っていませんから、3年生から勉強を習うようになったんです。でも3人の土地があるから、畑仕事をしなければならず、学校に通えるのは雨の日と雪の日だけでした。小学校は5年半で終わりましたが、実際の知識は3年生ぐらいでした。

 この時期は社会的に教師が足りないので、急に師範学校へ推薦してもらいました。4年間学校に住み込みながら勉強しました。1956年7月から小学校の先生になり、重い任務を引き受けました。6年の担任です。最初は怖かったです。でも、国のため、子どものために一生懸命でした。それから25年間小学校に勤めました。仕事仲間の同僚と結婚して4人子どもをもうけ、家事や子育てと、いろいろなことをしてきました。

 私も母も生きるか死ぬかの境目に中国人に助けられました。だから今の私があるんです。私には育ててくれた第二の祖国、中国があります。中国が私を一人前に育ててくれました。感謝しております。一生忘れられない祖国です。「それなら、どうしてまた日本に帰ってきたのですか?」と聞かれるかも知れません。

 中国では毎年、各種の政治運動があります。「三反運動」、「五反運動」、「反右闘争」、そして最後に「文化大革命」が起きました。私はこの運動によってたいへん大きな影響を受けました。私は日本人だからみんなに、「お前は『小日本鬼子』だ」、「お前は日本から派遣されたスパイの一員だ」と言われ、攻撃の的にされました。子どもも学校で虐められました。自分だけなら我慢できますが、子どもが泣いている様子を見るのは辛くてたまりませんでした。本当に我慢できなくなり、(日本に帰りたい)と思うようになったのです。

 それで、1981年8月22日、45歳の時に、日本の国から一切援助を受けないで自費帰国しました。祖国に帰れたときは(これからは安心して暮らせることだろう)と思い、嬉しかったです。しかし、その喜びは帰国後、たちまち飛んでしまいました。喜びは苦しみになりました。何かをやろうと思ったとき、全く日本語が喋れないし、日本の習慣・文化がわからないのです。全部新しい環境の下で生きて行くことになりました。まず、仕事を探すことから始め、友達の紹介で病院の付き添いをすることになりました。8月22日に日本に帰ってきてその月のうちにもう、仕事を始めたのですが、この時はとっても嬉しかった。仕事があれば生活が出来ます。でも、この仕事は毎日24時間体制で働く仕事で、体力的にも精神的にも疲れる仕事でした。言葉が分からない者にはなおさらです。しかし、私は68歳までこの仕事を続けました。

 帰国当時の苦しさは、中国にいたときより酷かったですが、私は次々に襲ってくる困難の一つひとつを乗り越えて、最低限の生活を維持してきました。子どもも成長してみんな仕事に就き、ようやく、これから幸せに暮らせるときがきました。

 しかし、その嬉しい気持ちが一瞬にして消える出来事がありました。病魔に襲われたのです。大腸癌でした。阪大病院に入院しました。2ヶ月の入院生活は辛かった。長い、長い検査のとき、正直言って生きているのが嫌になりました。そんな悩み・苦しみのとき、私は過去を回想して(今まで何でもやってきたんだ。闘病生活に負けてたまるか!これからも頑張っていくしかない)と自分を励ましました。早く元気な身体を取り戻すため、外に出て歩いたり、新鮮な空気を吸ったり、色々なことを試みました。お医者さん、看護師さんのおかげで何とか退院し、家に帰っても病院の指示に従って適当な運動を続けたので、早く元気になりました。これからも何かをして、楽しく自分の人生を歩まなければならないと思っていた矢先、友達の紹介で夜間中学に入らせてもらい、愉快に学生生活を送っています。若返りさせてもらいました。

 今は、日本に帰ってきてよかったと思います

(註1)この作文は2012年度解放文学賞佳作に入賞したものです。

(註2)この作文は2009年に近畿中国帰国者支援センターで日本語学習をする中で、自主活動として書いたものです。妹さんは、生きていれば2009年当時満64歳、2018年8月現在では73歳です。

ーーー西井澄さん関連ブログ

「私は中国残留の子どもだった」  2012年7月22日(日) No.399

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/1877300cc6123bcd200c01559dd4a03f

「中国帰国者一世の快挙:79歳の高校卒業」2015年4月1日(水)No.1122

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/45080f00fd5e88d1ad087909fa92954f

「西井澄さん、中国残留の体験を語る」2015年4月23日(木)No.1342

https://blog.goo.ne.jp/bluehearts_10_11/e/dcdc17be43f057b7fa8da5b64a9f597c

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「『復員兵』と『引揚者』」No.2620

2018-08-19 23:49:29 | 反戦平和

【復員兵たち】

1945年8月25日、ヒロヒト昭和天皇は、

海外で武装解除した日本陸海軍の将兵に対し、

「速やかに整然と復員し、皇軍有終の美を為すことが私の願いだ」

と勅諭を告示しました。(「兵を解くにあたり一糸乱れざる統制の下、整斉迅速なる復員を実施し、以て皇軍有終の美を済すは、朕の深く庶幾する所なり」)

満州・朝鮮に約100万人、

中国に約110万人、

南方諸地域に約160万人の合計約370万人も出兵していた

陸海軍将兵は、日本に「復員」してきました。

(写真は『敗戦国ニッポンの記録昭和20~27年上』米国国立公文書館所蔵写真集、半藤一利編著、アーカイブス出版刊;「写真記録 信州の昭和」信濃毎日新聞社などから)

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生きて故郷の土を踏んだ復員兵の皆さんは、

どれほど、この日を待ち焦がれていたことでしょう。

しかし同時に、帰ることの叶わなかった仲間を想い、

その後の人生を過ごしたことは想像に難くありません。


【引揚者(ひきあげしゃ)たち】

 兵士達の帰還が迅速に行われたことは多くの記録が語っています。

 しかし、中国満州など「外地」に国策として移住した

約300万人の「引揚者(ひきあげしゃ)」と呼ばれる民間人は、

天皇の勅諭対象にならず、国家の保護もなく、

自力で母国へ帰って来るしかありませんでした。

地域別では、

中国東北部(旧満州)127万人、

満州を除いた中国本土約49万人、

台湾約33万人、

朝鮮半島約72万人(うち北朝鮮約30万人)

樺太(サハリン)約39万人と続きます。

国に見捨てられたと言っても過言ではない引揚者たちが

帰国するまでの労苦は筆舌尽くし難く、満州だけでも、

引き揚げの際の犠牲者は日ソ戦での死亡者も含めて24万人超(

そのうち8万人は一般開拓民)で、

東京大空襲や広島、長崎の原爆、沖縄戦を数で上回る惨事でした。

「世界史上にもこれほどに苦難の祖国帰還の例はない。

とくに幼い引揚者の疲れ切った姿には、

戦争の残酷さ、残忍さというものを強く突きつけられ、

出迎えた人々の涙を誘ったという。」

という記事もあります。

↓復員船とは違い、漁船で命からがら引き揚げてきた人々。

↓佐世保港。私の両親も天津からこの港に引き揚げてきました。

 

↓東京品川駅。 両親を失った子が首に遺骨を下げています。

当時、全ての子どもの顔を正視する資格を持つ大人はいたでしょうか。

自分達の責任で子どもをこんな目に遭わせたのです。 

       


今の日本の政権は再び、このような事態を招きかねない方向に

庶民を誘導しているとしか思えません。

私たち大人は、また、戦争を選ぶのでしょうか

気がついたら、もう戦争が始まっていた、というようにぼんやりと。

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「中国での戦争、本当のところはどうだったんだろう?」No.2619

2018-08-18 10:11:35 | 反戦平和

さきの大きな戦争は実際の話、どうだったのか。

自分が戦争を遂行した立場に近い政治家は、

「あれは正義の戦争だった」

「アジア解放のために必要だった」

と、必ず肯定します。

私が知りたいのは政治家の手前勝手な自己肯定論ではなく、

政治家の決断に自らの運命を委ねるしかなかった

「庶民」にとっては本当のところ、どうだったかです。

私も庶民以外の何者でもないからです。

拙ブログを書く中で知り合った「こきおばさん」は

ご自身のブログで、

幼少の頃、中国東北部で実際に体験されたことを書かれています。

内容を読む以前に私は、

現実に戦争を体験された80歳の方が

ご自身でブログを立ち上げていらっしゃることに

驚きを覚えました。

なぜなら、

50代~60代の私の友人の何人もがインターネットを忌避し、

私の精魂込めた(笑)ブログ文も読んでくれたためしがないからです。

自らネットで発信するこの人生の先輩の文からは

人生を切り開き、踏ん張ってきた強いオーラを感じるだけでなく、

自分の戦争体験から学んだことを

次の世代に何とかして伝達したい思いをひしひしと感じます。

読んだあと、少し後輩の私にはこれを受け止め、

また次にパスしていく務めがあると考えました。

戦争体験者の一人ひとりの脳裏には、

忘れ得ない戦争の一断面が刻まれています。

多くの体験者からお話を伺うことで、

戦争の全体像が浮かび上がってくるのではないでしょうか。

私の前置きはいつも長いですね(笑)。

「こきおばさん」のお話をここに転載させていただきます。

(正確には「敗戦直後の体験」です)

ーーー「私は忘れない」ーーー

 敗戦まで

 

 昭和20年8月16日未明、激しく玄関を叩く音に祖父や母が起こされ、「日本が戦争に負けた」ことを知らされました。当時私は9歳、満州・吉林から列車で1時間足らずの場所、天崗(てんこう)という場所に住んでいました。

 父は商売にかけては天才的な才能の持ち主で、新京に本店を置き、吉林・奉天・天津・大連・ハルピン・牡丹江などに店を出し、親族を呼び寄せそれぞれの店の責任者にしておきました。財を成したので、生涯、趣味の釣りと猟を自分の土地で出来るようにと、3,000町歩の土地を買い上げ、一家で天崗に移り住んでいました。電気もないランプ生活でしたが、鶏や牛・馬・豚を飼い、犬・ガチョウなどとも遊び友達でした。父は家の前と後ろを流れる川で魚釣りをしたり、雉や鴨を毎日のように腰にぶら下げて帰って来ました。私は大自然の中で妹たちと伸び伸びと暮らしていました。

吉林へ

 

 敗戦を教えてくれたのは、近隣にあった満鉄の牧場の場長さんでした。15日正午、吉林で玉音放送を聞き急いで帰ってきたのでした。「ここに居ては危ないから、すぐに避難するように」大人たちは荷物をまとめたり写真を燃したりしていました。父はその年の初夏、召集されて居ませんでしたが、祖父と母・叔父・叔母・親族や中国人の使用人たちに連れられ、駅に向いました。駅には

何かを感づいた現地の人たちが集まっていましたが、別に危害を加えるでもなく遠巻きに見ていました。列車で吉林へ着き、叔母といとこたちが居た吉林の家での生活が始まりました。 そんなある日の夜明け、突然父が帰って来ました。

命がけの脱走

 父は吉林の部隊にいて終戦を迎え、武装解除後、捕虜になり収容所にいました。ある日、ソ連兵と捕虜とで野球の試合をしました。父も10代の頃野球をしたことがあり、選手として試合に臨みました。その試合で足を捻挫してしまったのでした。

 翌日集合がかかり、「病人はここに来い」と言われた時、父は何かを感じ取り、いかにも重症であるように大袈裟に痛がって病人の中に入りました。吉林駅に着くと捕虜たちは列車に押し込まれました。どの車両も窓は開かないようになっていて、車両の中には、武装したソ連兵が乗っていましたが、病人の車両は窓も開くし、ソ連兵も居ませんでした。意を決した父は、列車が吉林駅を過ぎる頃、夜陰に紛れて動いている列車の窓から飛び降りたのです。それに気づいたソ連兵がデッキから銃を発射しました。が、弾は当たらず父は傍の溝の中に腹ばいになっていました。銃声を聞いて駅にいた兵士がすぐ傍まで来ました。「あの時ほど自分の心臓の音が大きく聞こえたことはなかった」生前父は、何度となく話していました。しかも犬を連れていたので、死を覚悟したそうです。暫くそこに居ましたが、安全を確認して吉林の店まで徒歩で逃げてきたのでした。脱走したとわかると銃殺されるからと、暫くの間父は地下室に隠れていました。吉林の店には倉庫兼用の地下室があったのです。父は昼はその地下室にいて、夜は家族の元に出てきていました。 

捨てられた開拓団

 

 3ヶ月ほどして父が表に出ても大丈夫だと判断して、皆と生活するようになった頃、吉林は厳しい冬になりました。みぞれが降る寒い日、半裸状態の人たちがコモをかぶったりして、近くの映画館に避難して来ました。東北から国策で送られた開拓団の人たちで、その代表だと言うおじいさんが家を訪ねてきました。「水が出ないので、水を汲ませてください。近所でお願いしましたが、皆、断られました」父は「水は命の源、どうぞ使って」と外の水道を使うように言いました。喜んだ開拓団の人たちは、お礼にと味噌や麹・どぶろくの作り方を教えてくれました。父はそれで大儲けをしたのですが、その話は置いておくとして、代表のおじいさんは、こんな話をしました。

「私はこの手で、嫁と孫を殺してきました。避難して山道を歩いている時、どうしても孫は遅れがちになりました。私は嫁に『孫をここへ捨てていけ、中国人は子どもを大事にするから、きっと育ててくれるから』と何回も言ったけれど、嫁は『どうしてもそれは出来ない、子どもを捨てるぐらいなら私とこの子を殺してください』と繰り返すばかり。私は皆を連れて行く責任があるから、そうするしかなくて、嫁と孫の首を絞めて殺してきました」話す人も聞く人も涙・涙でした。

この話は子どもだった私の耳にも今も焼き付いています。あのおじいさんは生涯自分を責め続けて過ごしたことだと思います。 

叔父の死

 ある日、天崗の警察署長から、「ここは落ち着いているから、一度来て荷物をまとめたらどうか」と連絡があり、父は当時6歳の妹と、19歳の叔父と同じ歳で家で働いていた親族、それに中国人の使用人を連れて行きました。現地の人たちは気持ちよく迎えてくれたそうです。が、夜中突然中国人の集団に襲われました。警察署長さんが解散させてくれたので、父は「子どもを連れているから一足先に帰るが、明るくなったら皆で帰って来い」と言い残して帰って来ました。けれど、叔父と親族の二人はその後又襲ってきた人たちに殺されてしまったのです。それは山に逃げた敗戦を信じない日本兵が、その前の日、食料を調達に隣に下りてきて、現地の人たちを殺し食料を奪って逃げたのです。その恨みから丁度そこにいた日本人を殺せと、叔父と親族の二人が犠牲になったのでした。叔父たちは日本兵に殺されたのだと私は今も思っています。

 引き揚げ

 

 やがて父の親族は皆、新京の店に集まることが出来、一緒に生活しました。敗戦から1年過ぎて21年9月、引き揚げることになり、コロ島から船に乗り込みました。船といっても貨物船で、船底に荷物のように押し込まれました。船の中ではコウリャンのおかゆのようなものを、1食にお玉1杯ぐらいしか貰えませんでしたから、毎日のように死人が出ました。が葬儀らしい事も出来ずコモに包んでは海に投げ込んでいました。そんな光景は毎日のように見られました。

 待望の日本を目前にして、検疫が始まりました。何列にも並んで毎日のように、首筋からDDTを吹き込まれたり、両腕を出して左右から注射をされました。勿論針の交換などせず、次々と刺していきましたから、あれで肝炎になった人もいたということです。

 今考えても一番屈辱的だったことは、検便でした。甲板に4~5人の検疫官が椅子に座り、私たちはその前に列になって次々とお尻を出し四つんばいにさせられ、ガラスの棒のようなものを肛門に刺されました。子どもの私でさえ嫌でしたから、女性はさぞかし辛い思いをしたことでしょう。それに今も許せないことは、その様子を検疫官の後ろに廻って、卑猥な笑みを浮かべながら見ていた男たち!  

 戦後の生活

  吉田の家に帰って来て、私は4年生に編入しました。が、戦後の生活も大変でした。教科書は上級生から譲り受けましたが、文具はなくノートは白いところがなくなるほど書き込みましたし、鉛筆も紙も粗悪品でしたから、書くと破れました。消しゴムがなくて指に唾をつけて擦ったりしました。雪が降っても長靴はなくて下駄履きでした。靴を買うのにもゴムの靴底を持っていかなければ売って貰えませんでした。給食なんてありませんでしたから、昼食はお弁当でしたが、殆どの子はお弁当を持ってはいけませんでした。オジヤとかオカユのようなものを食べていましたから、弁当箱に詰められないのです。だから皆、家に食べに帰りました。でも中には家に帰っても食べるものがないため、空き腹を抱えて日向ぼっこをして昼休み時間を過ごす子も居ました。小学校では江ノ島・鎌倉、中学校は日光へ修学旅行に行きましたが、どちらも布の袋にお米を入れて持って行きました。どこに泊まるにしてもお米を持っていかないと泊めてもらえなかったのです。

 お米の代わりによくサツマイモが配給になりました。切干にしたり、ご飯に炊き込んだり毎日芋の食事でした。あの時一生分の芋を食べたからでしょうか、私は今もサツマイモはあまり食べたいとは思いません。  

戦争は犯罪

 人殺しはいつの世でも犯罪の筈です。だのに戦争では人殺しをすればするほど勲章がもらえます。いくら考えても、どう考えてもこれはおかしなことです。人間が人間ではなくなる戦争。動物だって無駄な殺し合いはしないでしょう。武器まで使い そして今はボタン一つで命を奪ってしまう戦争は、人間だったらしてはいけないことなのです。

 *写真は1,994年叔父の50回忌にあたって、どうしても現地に行き慰霊したいとの思いを強くし、旧満州のゆかりの地を訪れた時に写してきたものです。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

(註)地名:新京=旧満州帝国の首都。現在は吉林省長春市奉天=旧満州の地名。現、遼寧省瀋陽市天崗=吉林市郊外の地。現、天崗鎮

「こきおばさん」のブログサイト:

いけだねっとNO2 http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/

この文章では触れられていないこと(お父様が中国に渡った経緯など)が、下の文章に書かれています。合わせてお読みくだされば幸いです。 

http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51841005.html#comments

http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51781203.html#comments

http://blog.livedoor.jp/leltugo123-yuki1234/archives/51227980.html#comments

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「美しいサンゴの海に土砂投入の危機!」 

2018-08-17 15:32:35 | 我が心の沖縄

今日、8月17日に政府はこの大浦湾(辺野古の海)に

土砂を投入して埋め立てる予定だったのです。

「子や孫のために美ら海守ろう」

命を削って頑張った翁長知事と市民の力で、

今日の投入は何とか食い止められました。

私は、一昨年7月の高江ヘリパッド工事強行の時のような、

凄惨な状況になるかと本当に案じていましたが、

取りあえず、今日は、大丈夫でした。

この大浦湾の底の地盤は軟弱でマヨネーズ状態のところもあると

専門家は工事の危険性を指摘しています。

何千年も前から育まれてきた命の海を埋め立てて

巨大な軍事基地を作り、あげくにマヨネーズ地盤で崩壊……。

「今だけ、金だけ、自分だけ」の利権屋が政治を操ると

国土がボロボロに荒れ果ててしまうことに、

みんなが気がついたら、

今、政府が行っている横暴を止められるのです。

平和と海と命を守る日本の市民の闘いは明日も、あさっても、

毎日続きます。

辺野古の基地建設を断念するまで。

↓下の3枚の写真は今日のものです。ChibaさんのFB記事からお借りしました。

  

  


沖縄・辺野古(大浦湾)の海。「様々な種類のサンゴがひしめき合うサンゴの海!」 

Dive Shop桜海

YOU TUBEには辺野古の海(大浦湾)の自然を撮った動画がたくさんあります。

 ↓        ↓        ↓      

https://www.youtube.com/watch?v=wO7i4te5xJI

https://www.youtube.com/watch?v=BGuBFKHiVDU

https://www.youtube.com/watch?v=9pL6V9ZAeHw

 

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「のたれ死にさせられて、今さら『英霊』とは」No.2167

2018-08-16 22:53:47 | 反戦平和

戦争に行かされ、人殺しをさせられ、最後は、殺された兵士たちを

「英霊」と言って奉り、今の日本の平和は「英霊」の尊い犠牲のおかげだと

アベ総理大臣たちは言うのですが、

私はどうやったらそんな論理が成り立つのかが全く分かりません。

日本の戦後の平和(一応)は、

戦争に完膚なきまでに負けた日本が占領軍統治というプロセスを経る中で、

初めて実現したことです。

「英霊」が、日本に攻め込んでくる他国と闘ってくれたおかげで

日本国の平和が守られたのではありません。

逆に、日本は攻め込まれたのではなく、他国に攻め込んでいったのです。

例えば、中国(当時国民党政府)は戦争を回避するための

和平交渉を何度も提案したにも拘らず、

「国民政府相手にせず」と侵略戦争に突入していったのは、

他でもない大日本帝国なのです。

中国にだけでなく、日本政府は

「大東亜共栄圏」なる手前勝手なイメージの下、

アジアの多くの国々に侵略していきました。

戦後になって「英霊」と奉られた亡き兵士達は、

理不尽な侵略戦争の尖兵にさせられ、

無責任な軍事作戦に駆り出されて犬死していったのです。

食べるものも無いなか、餓死者は戦死者の60%に及ぶとまで

言われています。

「英霊」は、戦争の犠牲者なのです。

と言うか、戦争を遂行した日本政府によって殺されたのです。

      

下は、94歳ブログ「紫蘭の部屋」さんからの引用です。

ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

餓死者は将校よりも下士官、下士官よりも一般兵に多かった。中部太平洋のメレヨン島の守備隊は、アメリカ軍の飛び石作戦により、戦場の背後に取り残され補給が絶えたために大量の餓死者を出しているが、その内訳は 

   将校・・・  死者   57  生還126 死亡率   31%

   下士官・・・ 死者  319    生還185 死亡率 63%

    ・・・     死者1911    生還449 死亡率   81%

 となっていて、いかに兵たちの餓死者が多かったかが伺われる。

ーーーhttps://blogs.yahoo.co.jp/siran13tb/65310222.html
 
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「『火垂るの墓』は反戦アニメではないー高畠監督の言葉」No.2166

2018-08-15 22:23:41 | 反戦平和

 また『火垂るの墓』のDVDを買いました。

4月に高畠監督が亡くなった時、

このアニメは必ず見ようと菏澤学院のの3年生達と約束したのです。

実は、中国ではわざわざDVDを買わなくても

ネットでダウンロードし、いつでも無料で見られるのですが、

私は大切な作品はお金を払って買います。

著作権の問題もさることながら、

そういう姿勢を学生達に示したいのです。

作品に最大の敬意を払うため、

あるいは、貴重な文化を遺すために費やすお金は

決して無駄遣いではないでしょう。

このアニメ映画『火垂るの墓』については、

戦時中、岡山でアメリカ軍の空襲に遭遇した高畠監督自身が語った

「この映画で次の戦争は止められるかと言えば、それはできないだろう。」

という言葉があります。

それを見たら戦争の抑止力となる映画が反戦映画であるとすれば、

『火垂るの墓』はそうではない、ということです。

それは今の日本で、とりわけ留意すべき言葉のように思えます。

「為政者が次なる戦争を始める時は『そういう目に遭わないために戦争をするのだ』と言うに決まっているからです。自衛のための戦争だ、と。惨禍を繰り返したくないという切実な思いを利用し、感情に訴えかけてくる。

『戦争をしたとしても、あのような失敗はしない。われわれはもっと賢くやる。70年前とは時代が違う』とも言うでしょう。」

「再び戦争をしないためには、あの戦争がどのように進んでいったかを学ばなければならないと思うのです。
私が戦争中のことをどれだけ知っているかと聞かれれば、大したことはない。でも、安倍晋三首相よりは知っています。」

「こんな戦争やったって無駄だし、ダメだし、やるべきじゃない、あるいは、負ける、と思っている人でも、いったん国が戦争に踏み切ってしまったら、日本人は日本人で団結したいためにそれまでの主張は無になるんですよ。」

「『和を持って貴しとなす』というのはすばらしいし、うまく機能する場合もあります。僕も、一日本人として大好きです。だけど、ものすごく危険なんです。西洋流の、あの個人主義的な、一人ひとりが自立して自分の意見を、周りが反対だろうがちゃんと述べて、議論をして深めて、なんていう体質は全然できていない。これだけやっても、民主主義は身についていない……。」

「いざ、大きな事を為すときには、やっぱり自分になって、自分が戦争に行きたくなかったら『行きたくない』と言うべきだし…。そういうことは空気を読んじゃいけないと思う。」

 

では、いったい何が、私たちの平和希求にとって力になり、

戦争の抑止力になるのでしょうか。

それは日本国憲法の平和主義宣言です。

また、高畠監督の言葉を引用します。

「憲法第9条というものすごい歯止め、確かに世界的に見てこんな憲法を持っている国はないのであって、戦争を出来ないようにしているというのは、すばらしい智恵です。これは世界的に見て最先端の智恵ですよね。」

「今、戦争やってて、成功している戦争はありますか。勝ってその後うまく行ったと。一つもないですよね。」

「だから戦争は、もう上手く行かないんですよ。それがこんなに分かってんのに……。

みんなが、日本の私たち全体が共有したいですよね。」

*高畠勲さんの言葉(茶色部分)は、岡山での平和講演会(2015年)、カナロコ by 神奈川新聞 などからの引用。

 

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「SNSで広がる翁長知事追悼ー銀座でキャンドル灯す」No.2165

2018-08-14 23:42:00 | 我が心の沖縄

銀座は、2013年当時那覇市長だった翁長さんを先頭に

「オスプレイの配備反対」行動がなされたとき、

ヘイト言語「反日」「サヨク」「抹殺する」が

浴びせられた場所であり、

それに対して翁長さんたちが毅然としてパレードを遂行した場所です。

追悼の場所をその銀座に決めた企画者の女性に心から賛同いたします。

↑Shigeko Kakiuchiさん発信の沖縄タイムス8/14切抜きです。

 

↓2013年1月、ヘイト集団に「売国奴」「生ゴミはゴミ箱へ帰れ」と

理不尽な暴力言語を浴びせられながら、

静かに毅然と歩む翁長さんたちオスプレイ配備反対代表団。

この事実を、ホンドのどれくらいの人々が知っているでしょう。

この集会とデモに参加されたO.S.さんが、

「ヘイトも酷かったけど、会場の日比谷野音が満員だった

この集会とデモを、

NHKをはじめとするメディアが取り上げなかったのが、

もっと酷いと思いました。」

とコメントを寄せていらっしゃいました。

メディアのアベ政権に対する忖度は既に大手を振っていたのです。

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