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毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「うちの子に『いただきます』と言わせるな」 2013年1月31日(木)No.557

2013-01-31 14:26:09 | 日本中国比較
昨日は「食べ残さない」日本人の習慣の基にある思想についてちらっと書いたが、
それは「いただきます」という言葉に如実に表現されていると思う。
多くの宗教団体が、手を合わせたり、「感謝します」「ありがとうございます」「いただきます」の大切さについて(うるさく)説教をするので、
幼く反抗的だった私は、一つもありがたい言葉と思えなかったが、
それは宗教団体の罪でも、まして、それらの言葉の罪でもない。
私がアホだっただけだ。

我が母は、思想などという言葉を人生で一度も口にしたことがなかった人だが、
子どもの時、米とぎで米の粒を流しにバラバラとこぼした私を、
まさに目の色を変えて叱責した。
「作ってもらったものに何というもったいないことを!」
と、一粒ずつこれ見よがしに拾った。
(なんだ、五粒や十粒くらい)と幼い私は不服だった。
(せっかく米とぎの手伝いをしているのに、褒めてくれても良さそうなもんだ)と悔しくもあった。
しかし、米俵は一粒ひとつぶの米の集積である。それを収穫する過程で大いなる人力・自然力が働き、私たちはその結果をもらって食べ、エネルギーとしている。
一粒がその原点であるのだから、決して軽んじてはいけないことを、
母は自分の生きてきた歴史の中で体得していたのだ。

もし「お金を払って米を買っているのだから感謝する謂れはない」と言う者がいたら、本ものの愚か者だ。
太陽や雨の恵みはお金と代償に与えられているのではない。
日が照ること、雨が降ること、風が吹くこと、きれいな空気、
これらは全て自然が我々生き物にくれた絶対的に気前の良いプレゼントである。
何しろこれがないと私たちは生きることができないのだから。
東日本大震災や阪神淡路大震災では、
自然の人間にとっての別な側面をつくづく知らされたが、
だからと言って自然に闘いを挑み、ねじ伏せる力を人間は持ちえない。
そして、持つ必要もない。
私たちも自然の一部なんだから。
昔から人々が伝えてきた自然への感謝と畏怖の念を、
私も、土を感じる生活から遠ざかった今もなお、
かろうじて受け継いでいる。
自分が「お天道様教徒」を名乗る由縁でもある。

しかし、生産と無関係なところで、
投資だの、上手にお金を増やすことだのが日本人の関心事となっている現在、
自然や生産努力への気持ちにも確実に変化が生じているようだ。
以前、貧血が起きそうな話を聞いたことがある。
私が以前(3年前まで)、小学校で働いていた際に別の学校の先生から聞いた事例だ。

大阪市の小学校では給食前に当番が
「手を合わせてください。」
「それでは皆さん、ごいっしょに、いただきま―す!」
と号令するのに合わせ、クラス全員が同様に唱えるのが一般的だ。
それに対して、ある保護者からクレームがついた。
「うちはちゃんと給食費払ってるんだから、『いただきます』じゃないんですよ。
その言葉、言わせないで欲しいんだけど。」
・・・・・・・。
これから食事のときの挨拶は「いただきます」に代わって、
「払ってます」になるのだろうか。
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「食べ残すことがグッド・マナーの中国」 2013年1月30日(水)No.556

2013-01-30 12:52:21 | 日本中国比較
食べ残すことが良いことだなんて、
日本の習慣とは全く相容れないと思う人も多いだろう。
何しろ
「よそのお宅で出されたものは全部食べなさい。食べ残しは失礼だよ。」
と躾けられて育った日本民族である。
中国は真逆だ。

学生たちが私の宿舎に遊びに来たとき、
私はいつもワンパターンのカレーライスを御馳走する。
三年生くらいになると日本の習慣も頭に入っていて全部食べてくれるが、
入学したての一年生たちは、きっちり、少し残すのである。
(生まれて初めて食べたカレーの味はどうかな?口に合わないのかな)
と、私は内心ハラハラしているので、残されるのは、
礼儀で残すのか、美味しくなくて残すのか分からず、
さらに、せっかく作ったのにもったいないという気持ちが働いて、
正直(残してくれたの?あら嬉しい!)とは全然思えない。

しかし、王敏さん著「謝謝!宮澤賢治」(だったと思う)の中に
あるエピソードを読んで、
中国の「食べ残し」マナーについてストンと腑に落ちた気がした。
貧しい時代の、貧しい農村での話だ。
『お粥と一品だけの質素な夕食を取ろうと準備していた家に、
その家の子どもの学校の先生が、たまたま訪れた。
一緒に食事を、と勧められて断るのも良くない。
先生はありがたく席についた。
貧しい食事だったが、その家のお母さんは精一杯の菜を
先生の皿に盛り、自分は食べなかった。
先生はにこやかに談笑し、
「ああ、たくさんいただきました。お腹が一杯です。」
と言って帰って行った。
皿の中の菜はほんのちょっとしか食べられていなかった。』
大体そんな内容だったと記憶している。
「食べ残し」が礼儀作法となった背景には、
貧しい生活の中で相手の心を思う気遣いがあったのだ。

一方、日本については
江戸末期に開国を迫ってやって来たアメリカ人が、
「日本人の奇妙な習慣」と目に映ったことを書いた文を読んだことがある。
日本人の武士たちはアメリカ人に招かれた席で食事を終えて立ち去る際に、
食べ残したお菓子を持参した紙に丁寧に包み、
それを懐に入れて立ち去った。
御膳には食べ残しは全くなかった。
全員の侍がそうしたのだそうだ。
(これを外国人は「奇妙だ」と思うのか…)と、
私はちょっと不快感を覚えた。
だって、そうでしょ。
御膳の食べ物を平らげることは、もてなしてくれたアメリカ人への
(本当に美味しかったです。だからすっかり食べてしまいました)
というアピールである。
さらに、家で待つ子どもたちに
「ほら、珍しいものをいただいてきたよ。」
と紙包みのお菓子を出したら、
どんなにその家の子たちは幸せな気持ちになるだろう。
子どもだけでなく、家人皆で楽しくお相伴できるではないか。
なぜ、アメリカ人はそんなことも分からなかったのか、
という不満が湧くのだ。

ところで、時代は変わり、
今日1月30日の新華網(新華社通信インターネット版)に
「中国で『反・食べ残し』運動広がる」の記事が載っていた。
その記事では、「食べ残し」が悪習・浪費だと決めつけられていた。
確かに現代中国では、相手を思い遣って食べ残す必要はないだろう。
中国の食生活は満腹を演じなくてもいい、豊かな時代になったのだ。
写真は新華網より転載

記事では韓国と日本での食べ残し対策も紹介されていたが、
次の文にはかなり違和感を覚えた。

■日本の場合
日本人は食事代に関することに細かい。親友や同僚たちの会合だけではなく、政治家でさえ宴会の際には割り勘をする。最終的に自分の財布から金を出すため、日本の宴会では食べ残しなどの浪費はあまり見られない。


この文を書いた人は全然分かっていない。
自分の財布からお金を出すから食べ残さないのではない。
日本の「食べ残さない」習慣は
そんなけち臭い、しみったれたものではないのだ。
全く理解の底が浅い。
「(誰が支払うかに関わらず)もったいない」
「もてなされたものをゴミにするのは失礼だ」
という思想がなんで分からないのかな~。
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「李さん夫婦―ある中国帰国者の人生」 2013年1月28日(月) No.555

2013-01-28 19:03:07 | 中国帰国者
帰国者2世李(渡辺)達夫さん(70歳)とお連れ合いの遅素媛さんのお宅にお見舞いに行った。
もう一年半前のことになるが、遅素媛さんが北京の旅館で階段最上階から落ちて生死をさまよう大けがをした。過労死で亡くなった愛娘の葬式に参列し、悲しみの帰宅途中での二重の悲劇だった。
純粋ボランティア任意団体である「帰国者の友」メンバーは、
持てる力の全てを繋いで何とか帰国―入院の手筈を整えた。
ど素人ばかりの団体だ。NPO法人ですらない。
しかし、フル回転して頑張り、また他の団体・個人の力を大いに借りて、
人生のどん底状態の李さん・素媛さんご夫婦を何とかサポートできたことは、
「庶民だってやればできる」という証拠だと自負している。
(当時の状況については2011年8月9日、20日、22日、28日、30日のブログをご覧ください)

中国から帰省するたびに見舞いに行くのだが、
昨夏、お邪魔したときに比べて
昨日の李達夫さんの表情は柔らかかった。
毎朝6時に起きて、妻である素媛さんのために朝食と薬を用意し、
リハビリ、昼食、薬、昼寝、リハビリ、夕食という介護の一日を過ごす。
これを一年半続けている。
この事故の前までは、
達夫さんが梅田の日本語教室から自転車で帰ってくるのを
素媛さんは市営住宅団地のベランダから今か今かと待つ日々だった。
餃子を包み、お湯を沸かし、李達夫さんがドアを開けると、
ちょうど茹で上がったホカホカの水餃子で出迎えるのだった。
素媛さんは日本語学習を早々と諦めて、
終日部屋で絵を描き、言葉の分からない日本での生活を過ごしていた。

60歳まで吉林省で働き、
その後お母さんの故国への移住を決意した李達夫さんとともに人生を紡ぐ者として、
日本海を越えて大阪にやって来た素媛さん。
彼女は当時、吉林市で絵を描く仕事に従事していた。
決して生活に困っていたわけではない。
素媛さんは李達夫さんが文化大革命で12年間農村の強制労働に従事していたとき、共通の友人に伝え聞いて面会に来た。
それが二人の初めての出会いだった。
「彼は姿形が見目麗しく、心も美しい人でした。」
素媛さんは元気だったころ、帰国者の友パーティーでのろけたことがある。
何歳になっても自分の連れ合いを衆人に対して堂々と褒めちぎるのが中国式だ。
もちろん嘘はない。
素媛さんは「日本人と結婚するなどとんでもない!」
と猛反対する家族の反対を押し切って李達夫さんの妻となった。

今、素媛さんは、
「このおじさん(李達夫さんのこと)が、お菓子を食べたらだめだと言うの。」
としょんぼりする。
事故後、日本での入院、退院、自宅療養の中で、
彼女の体重は50㎏から65㎏に膨れ上がってしまったので、
李さんはダイエットに踏み切った。
それが恨めしいのだ。
今、彼女にとって李達夫さんは「世話をしてくれる好いおじさん」だという。
脳挫傷等の後遺症で記憶も戻らず、童女のような素媛さん。
しかし李さんはそんなことは意に介さない。
自分に人生を捧げてくれた素媛さんの恩を今返す時だと微笑む。
こんなふうに思うまで、李さんはどれほど涙を流したことだろう。

帰り道、一緒に行った「帰国者の友」メンバーと、
「李さん夫婦を始め、帰国者の多くがこれからさらに、
言葉の壁・年齢の壁に苦しむことだろう。
そうした事態に備え、『帰国者の友』のNPO法人化がやはり必要だ」
という話になった。
ぼちぼち、腰をあげなアカン。
身が二つ欲しい。

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「敵意と憎悪に炎上する社会」 2013年1月24日(木) No.554

2013-01-24 14:22:46 | 日記
敵意と憎悪はどこまで人心を汚すのか。
大阪桜宮高校の生徒と思われる子たちが
①「はしもと、殺す」
②「民のくせに」
とツイッターに書きこんだという。
どちらもどうしようもなく攻撃的な言葉だ。

①の「殺す」は、「死ね」「消えろ」同様、大阪の子どもの悪口言葉の代表だ。
以前、いわゆるヤン・ママが、
阪急梅田駅のトイレでいつまでも手を洗っている自分の子どもに
「止めゆうとるやろ!お前、殺すぞ!」
と言っているのを聞いて呆然としたことがある。
他の地方ではどうだろう。特殊大阪的現象なのだろうか。
日本ではないが“I’ll kill you!”は
アメリカのシアトルでは(もちろんジョークとしてだが)
先生まで使っていたので驚いたことがある。
こうした極端に否定的な言葉が日常生活で使われる背景には何があるのか、
考えなければならないだろう。
しかし、今、それについて述べる気はない。

②の「民」発言は何か月か前に週刊朝日の記事で問題になったばかりだ。
出身であることで橋下徹の人格を落とし込めると思っているような差別丸出しの三文記事だった。
私は橋下徹を0.001%も支持しないが、この記事は浅ましい。
人間としての品格をドブに捨てたものだ。
それにしても、こんなに次々と攻撃のために「」が使われるのでは
「差別はなくなった」とは決して言えない。
それどころか、昨今の人心荒廃によって、
まるで完治せず潜んでいた病のようにむくむくと頭をもたげてきているのを感じる。

さらにこれらの書き込みに対する批判・非難でツイッターが「炎上」しているとのこと。
「大阪ってこうなのか。はしもとさんの言っていることよく分かったわ。」
21日記者会見に臨んだ女子生徒の発言「今まで続いている伝統は今でも正しいと思っている」という発言の揚げ足を取って、
「これ(「殺す」「民のくせに」という書き込み)が桜宮高校の伝統なのね。」
という言葉に、またしても敵意と憎悪の増幅作用を見てしまう。

私は人々が望んでこうした泥沼状態を作っているとは思わない。
それなのに売り言葉に買い言葉の攻撃的反応を、即座に繰り返す。
昔から「腹が立ったら10数えろ」と言うではないか。
なぜ、(問題の中枢は何か)をもう少し冷静に考えられないのか。
何か事件が起きるたびに敵意と憎悪で「炎上」する社会。
誰に向けたらいいのか私は苛立つ。
自戒として次の詩句を呟いてみる。

『 苛立つのを
  近親のせいにはするな
  何もかも下手だったのはわたくし
 
  ・・・・・・・・・・

  だめなことの一切を
  時代のせいにはするな
  わずかに光る尊厳の放棄

  自分の感受性くらい
  自分で守れ
  ばかものよ 
 』 ( 茨木のり子 )

 


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「あまりに情けない!市長に振り回される大阪市教委」 2013年1月21日(月)No.553

2013-01-22 01:40:25 | 日記
1月21日、大阪市教委は、
桜ノ宮高校体育科とスポーツ健康科学科入試の中止を決定した。
代替措置として普通科の募集人数を増やし、
体育科の科目などを普通科でも実施するという。
つまり、体育科の看板をはずして普通科と取り換えただけ。
内容は同じようなことをするから、
体育科志望の生徒も普通科を受験すればいいと言うのだ。
これは「橋下市長に言われたからではなく、
教育委員が一人ひとり一生懸命考えた結論」なのだそうだ。
いったい何を一生懸命考えたんだ?
体育科入試を中止したところで何が根本的に変わると言うのか(?_?)
橋下市長のヒステリックで押し付けがましい意見に押しまくられ、
それでも保護者や市民の手前、
まさか入試を止めるわけにもいかないので折衷案を考えただけじゃないか。
表面を取り繕うだけの不真面目極まる結論だ。
こんなのが本当に教育委員かと思うと心底がっかりだ。
現場の教師たちもアホらしくてやる気がなくなるだろう。

確かに体罰は悪い。
恐怖によって支配し、強制的に努力させることで目標を達成させる
というやり方が、人間に対して効果的だとする考え方が間違っている。
しかし、ついこの事件が起きるまで橋下市長は体罰支持者だった。
自殺者が出たことでそれが間違いだったと反省したそうだ。
何が間違っていたと分かったのだろう。
スポーツクラブの体罰顧問と橋下は同じことをしているじゃないか。
市長就任以来、処罰を振りかざして高圧的・強権的に市の職員を支配し、
反対意見をねじ伏せて自分の言いなりに屈服させる方針を貫いている。
職員は首になって路頭に迷う恐怖から黙って彼に従うしかない。
高校の顧問は「体罰」で生徒を支配し、
橋下は「処罰」で職員を支配している。全く同じだ。
そんな彼が桜ノ宮高校の教職員をエラそうに批判する資格などあるはずがない。
当然にも桜ノ宮高校の在校生や保護者が憤り、
保護者たちが大阪市長と教育委員会に要請書を提出したが、
今日の市教委の「決定」に対しては、
一般市民たちもともに反撃しなければ舐められ過ぎというものだ。
コメント (7)
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「尖閣諸島/魚釣島問題で両国民が考えたこと」 2012年1月20日(日)No.552

2013-01-20 14:38:28 | 日本中国比較
さて、「ラジオ深夜便」で三潴(みつま)正道さんが、
最後に語ったことについて書きたいと思う。
「昨年の尖閣/釣魚島の影響で良かったと言えることもある。
それは、中国でも日本でも、『もう政府に任せているのはだめだ。おれたちはおれたちでやる。自分たちの力で民間の草の根交流をやらなければならない。』という声があちらでもこちらでも聞かれることだ。」

という言葉だ。

確かにそうだ。
我が日本語学科の学生たちが9月後半から10月のどん底期をかいくぐった後に書いた作文には、
「戦争は絶対にいやだ。」
「政治は政治。尖閣諸島/魚釣島問題の最中にも、日本を信頼して留学に旅立った中国人学生がたくさんいる。もっとお互いが分かりあえるためにも、私たちは日本に留学したい。日本の若者たちにも中国に来てもらいたい。」
「両国民の友好促進は必ず政府間交渉にいい影響を与えるはずだ。」
「私たちは覚えた日本語を武器にして中日友好の懸け橋になれる。私たちは役に立てる。」

という言葉が多く見られた。
それを読んだとき、私は彼女ら・彼らとともに歩む覚悟を固めた。
権力と無関係な庶民同士は、国家という垣根など軽々と超えて人間同士の交流ができるはずだ。
交流無くして相互理解なし。相互理解無くして平和は持続できない。
お互いに自国の目先の「利益」に目がくらんで意地の張り合いをしないよう、また、それを煽らないようにしよう。
「すぐ批判・否定」じゃなく「まず耳を傾けること」を心がけよう。

ここからはオマケの文。
この冬、大阪に戻って自分のある感覚が変化しているのに気付いた。
従来、レストラン等を含め、公共の場で傍若無人に大声で騒がれるのは私にとって最もイラつくことの一つだった。
それが、である。
ここ十日ほど、ここマクドナルドに来て座っていると、私同様、ほぼ毎日来てゲームなどして帰る数人の小学生(たぶん高学年)がいるのだが、
彼らの発する声がかなり大きく、休み時間の教室状態的であるにも拘らず、
私はそれがもはや腹立たしくないのだ。
「お前、千円持っているからって自慢するなよな。」
「ああ、助かった。○君がおごってやるって言ったとき、▽ちゃんが遠慮してくれたから僕、チキンナゲットおごってもらえたわ。」
とか、あほらしい会話がガンガン聞こえてくる。
ウルサイ。しかし、あまりの愚かさに笑いがこみ上げはするが
どうしても腹が立たない。
これはあきらかに中国で訓練されたとしか思えない。
中国で暮らしたら寛大になるわ

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「日中の礼儀習慣も国民感情に影響する」 2013年1月18日(金)No.551

2013-01-18 13:34:40 | 日本中国比較
(今日もマクドの片隅から
昨日の早朝、NHKのラジオ深夜便で
「今、中国が面白い」(日本僑報社刊)の監訳者三潴(みつま)正道さんのインタビューを聞いた。
彼は中国の特徴として、
1歴史 2商業民族 3礼儀の基本の3つを挙げ、
例を出して分かりやすく解説した。
なるほど、と思えたが、
特に、3番目の「礼儀の基本」の中日の違いには、
自分の体験を照らし合わせて実にナットクした。
例えば以下の如し。

〈例その1〉
北京オリンピックの際、当局は国民に「外国人に初めて会ったとき根掘り葉掘り聞くな。」と通達した。

(そうそう、中国の日本語会話テキストにも初対面で学生が「先生は何歳ですか」と聞くのがあって呆れたが、中国では普通だ。また、私は携帯電話番号をよく聞かれる。老師が私の携帯番号を学生たちに公表することもあった。オフィシャルとプライベートの区別があまりないのだ。もう慣れたが…)
〈例その2〉
中国では人前で一人煙草を吸うこと、飴を食べることは失礼。必ず傍の人にも勧めなければならない。

(そう言われたら、行く先々で必ずお菓子とか果物を勧められた。お返しをしないとダメかな?と初めのうちは気を遣ったものだ…)
〈例その3〉
中国からの留学生がお土産を日本人に渡したとき、即座に別の品物でお返しをされて、とても屈辱を感じた。

(誠意を突き返されたと感じるんだな。まず「ありがとう」とゆったり受け止めて、その後、機会があればその時のお返しをするのが自然だというのはよくわかる。もし私も即座に何かお返しされたら、なんかね~)
〈例その4〉
中国と日本では「謝る」ことの意味が違う。日本では謝ったらそれで許される・終わりだと思うが、中国では謝ったらその後補償しなければならない。即ち、自分の非を認め、その非をこれから償いますという意味である。
2010年の中国人漁船長を日本が釈放した事件にも、この感覚の違いが影響を与えた。日本側は日中友好のために早期釈放したのに、中国側は「日本は逮捕したことを間違いだったと認めたから釈放したのだ」と受け止めた。中国側の国民感情からすれば、間違いを認めたらペナルティを引き受けるべきだというのがある。だから中国政府は損害賠償を請求したのだ。それをしなければ国民に弱腰外交と非難されるからである。

(そうなんだよね。私はすぐに学生に「たいへん申し訳ありません。ノートはまだ返せません。」などと言うが、他の老師がそういうことはあり得ない。学生も何かあったら必ずそのわけ―日本的には『言い訳』―を述べる。日本では「言い訳するな。ただひたすら潔く謝ればそれで良い。」といった感覚が伝統的だった。今はだいぶ変化してきたと思うが)

例その4については、中国だけではなくアメリカにも言える。2001年、ハワイ沖で日本の水産高校の練習船「えひめ丸」にアメリカの潜水艦が(向こうから勝手に)衝突してきて、日本の高校生が何人も死んだ事件があった。そのときも、原子力潜水艦の艦長は頑として謝罪しなかった。あのときは(なんという国だ!)と腹が立ったが、すぐに謝る民族はそんなに多くないのかも知れない。また、謝った後、(やれ、これで終わった)と、何でもすぐ忘れるというのは別問題で無責任である。

それぞれ長年の間に培われてきた独自の礼儀作法、習慣を持つのは当然だが、自分の価値観だけを基準とすると、たちまち相手を誤解したり、否定したりしたくなる。従って、異文化交流が必要なのだ。現代は国際化が進み、グローバル・ヴィレッジ時代などと言われるが、島国で、多民族共生の歴史を持たない日本民族は、隣近所の国々の文化・習慣などに意識的に親しむ必要があると思う。
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「南昌→広州→大阪」(その3) 2013年1月16日(水)No.550

2013-01-16 18:41:07 | 中国事情
次第に我が書斎化してきたマクドから。

3:中国大都市の暮らし―余さんのお母さんの生活

広州市は広東省の省都で、洗練された大都市である。
私の中国での住居がある江西省南昌市と比べると、
例えば北海道の網走市と札幌市ぐらいの違いだと言えば分かりやすいかも知れない。
2年生の余さんのお母さん(宋明淑さん)の御先祖は浙江省人だったが父母の代で江西省に引っ越し、明淑さんは江西省で生まれた。その後、江西省人と結婚、2人の子どもを産み育て、十年前離婚して独り広州市内のマンションに住み今に至っている。
(ちなみに中国でも離婚は珍しいものではないそうだ)
今回、初対面にも関わらず厚かましくも二晩も泊めてもらったのは、中国庶民の暮らしに触れることができるという大いなる期待があったせいもある。

しかし、宋明淑さんが中国都市部庶民の平均的生活をしているかどうかは私には判断できない。
まず、広州市白雲区のマンションに一人暮らしできる経済力がある。
近所は狭い敷地に古い建物がたくさん建っている下町的雰囲気の場所だが、
明淑さんの住むマンションだけは昨年建ったばかりのすっきりしたビルで、
一階には管理人がいるし立派なエレベーターもある。
以前は美容コンサルタントをしていた彼女は、
現在、マンションなどのオートロック式鍵を売る会社に勤めている。
毎日会社に行くわけでなく家でコンピューターを駆使して取引をしたりする
バリバリのキャリア・ウーマンである。
この冬休みにも余さんを連れて四川省成都に行くが、
それも主に仕事上の出張なのだそうだ。
明淑さんは40歳前後。
背筋がまっすぐ伸び、165cmほどのスラリとした立ち姿が美しく、
丸い小顔のニコニコ笑顔が魅力的な女性だ。
実は、デジカメで写真を撮らせてもらったのだが、
パソコンに保存するためのコードを南昌に置き忘れ、
文だけで表現しなければならないのがかなり負担なのだが仕方がない。

宋明淑さんのお蔭で私は、余さん、劉さん(後から潘さんも)と一緒に
広州一日バス観光、
有名な「広州酒家」での飲茶、
広州ガチョウ・鶏料理+四川料理レストラン、
生きた動物・魚の活料理(鮭の刺身も!)レストランと、
夢のようなもてなしを受けた。

その一つ一つは全て興味深く、美味しいものだったが、
私が最も印象に残ったのは、宋明淑さんがレストランで注文する際も、
自宅で料理を作ってくれるときも、
つねに食材と身体の関係を考えていることだった。
「○○と▽▽は食べ合わせが悪いので避けましょう。」
「この肉を食べたら、その野菜を食べるといいです。」
「この野菜はPHが7~8だから…。」
といったふうに、まるで漢方医の処方を聞いているみたい。
(味も広東風で、とても美味しい!
全く唐辛子を使っていなくて江西省と同じ中国とは思えない…)
台所には薬みたいな食材が入ったガラスの蓋つき瓶がズラリと並ぶ。
劉思婷さんも、
「こんなに養生を考えて食事する中国人を初めて見ました。」
と驚きの表情だった。
それだけではなく、宋さんは自分の身に着けるアクセサリーも
ササッと自分で作る。
私にもマッサージ効果のあるきれいなブレスレットを作ってくれた。
自分のできることは自分でし、お金も上手に使う。
毎日早朝に起きて、インターネットでシンガポールのお坊さんのお経を聞き、
ともに唱える。
生活全体が落ち着いて地に足がついている。
最先端を行く中国知識人女性の一つの型を垣間見た気がした。



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「財大に雪が降った日~周さんのメール」2013年1月15日(火)No.549

2013-01-15 15:47:51 | 中国事情
関東は雪が降ってたいへんだとのこと。
日にちは前後するが、中国の亜熱帯地方(江西省南昌市)にも1月4日雪が降った。
No.545にそのことを書いたところ、キャンパス内にいた日本語学科の学生から
写真とメールが送られてきた。
とても楽しんでいるのが分かる。
日本では犬と子どもは庭駆け回り、猫と大人は炬燵で丸くなる、といったところだろうが、
中国では、老師までワクワク声で
「先生、一番美しい景色を見てから日本に戻れてラッキーですね!」
とか言うのだ。
わたし的には非常にアンラッキーなんですけど。


↓今回メールと写真を送ってくれた周双双さん。
12月の「アニメ吹き替え大会」ではドラゴンボールのチチ役で見事優勝した。
根っからのアニメ好きで、もし日本に行けたら、是非声優に会いたいと作文に書いていた。


↓雪だるま(中国語では「雪人」)や雪滑りなどで遊ぶ大学生たち。
どの国の子も同じだねえ。





↓図書館前の広場。テストが終わった学生たちはもう帰省しており、
キャンパスにいつもの活気はない。


↓ペンギン池の金魚が心配で出かけてみたとのこと。
2年前も同様にペンギンは雪をかぶっていた。


以下、メール文もちょっと紹介。

先生:
   先ほど先生のブログを拝読しました。だからメールをお送りしたいです。
  今日の雪は2013年の初めての雪でした。
  中国では「雪は豊年の兆し」という諺があります。
  そして南方に生まれ育った私にとって雪は非常に珍しいので、
  嬉しかったです。
   午後1時半ごろ、隣の寮の部屋の英語クラスの友達が
  「外で雪合戦をしよう」と私たちを誘いました。
  もちろん私は行きました。
  第一校舎の前の芝生は雪に覆われていて綺麗でした。
  そこで私たち4人(男2人、女2人)が雪合戦をはじめました。
  やはり男の人は体力が強かったから、私は何回も的中されました。
  雪は上着の襟からはいって、とても寒かったです。
  最後に、私たちは服も靴もマフラーも手袋も帽子も濡らされました。
  大変だったけど、楽しかったです。
   寮に帰る途中、外国語学院前の池のなかの金魚さんたちが心配で、
  そこへ行きました。金魚さんたちは隠れていて見えなかった。
  でも、ペンギンさんたちを見て、
  「あら、多分ペンギンさんたちは楽しくて懐かしいでしょう。
   雪が降って南極みたい~~~」
  と思いました。 
  先生のブログから、今日先生も麦盧キャンパスにいらっしゃったのが分かりました。
  お会いできなくて残念でした。滑って転んだ先生は大丈夫ですか。
  こんな天気で外に行くのは気をつけてくださいね。
  明日広州市に移動されますか。よいお旅を。
                  (周双双)
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「上柴とおるのポップス出前寄席」 2013年1月15日(火)No.548

2013-01-14 16:32:52 | イベント情報
1月5日からインターネット流民になった私は、ここ大阪でもあちこちを彷徨い、
ついに到達したのがここ、淀川区新高のマクドナルドだ。
YahooBBで全国2万件のスポットで使えるプロバイダー契約無しの380円/月を
契約し、さて一番便利なスポットは?と探して見つけたのが、
家から3分のスーパー内マクドナルドだった。
9日に帰国した私は、家で臨時のネットワークCG-GUESTを使っていたが、
一日のうち数時間繋がるだけの実に頼りないもので、
いくら中国で忍耐力がついたと言ってもインターネットだけは安定したものを使いたい。
1階100円のコーヒーでようやくほっとするスペースを見つけ、
2月中旬にまた中国に行くまでは毎日マクドにノートパソコンを持ち込み、
数時間を過ごすことにした。
マクドなんて何十年ぶりに入るだろう。
私のライフスタイルには全く合わない店だが、まあ、仕方がない。


さて、広州滞在記をちょっと休んで、
今日は大阪のホットな話題をご紹介することにした。
題して「上柴とおるのポップス出前寄席」

昼間からリラックスしたおっちゃんが犬を連れ、首にマフラーを巻き、ジャージーの体操ズボンのポケットに片手を突っ込んでのんびり歩く風情も懐かしい街。
ここは大阪、地下鉄堺筋線「動物前」下車の今池商店街の一角である。
毎月第3土曜日の夕方から商店街の喫茶店「喫茶日本一」(店主バルタン亀吉さん)で、
ある会が開かれている。
知る人ぞ知る上柴とおる師匠の「ポップス出前寄席」だ。
今回は特別に第2土曜日開催で何とか間に合い、フミちゃんと一緒に参加することができた。
もう34回を数えるこの会は、始まったきっかけがちょっとスゴイ。

3年前、FMCOCOLOで「南港ミュージックエンターテイメント」という人気音楽番組があった。
タイトルを聞いたらすぐに分かるような曲はあまりかからず、
知っている曲でも、一味違うアレンジや別のミュージシャンのものを紹介し、
「(たかが)アイドル歌手」とレッテルを貼られているシンガーにも丁寧に照明を当てて、
知られざる曲や意外な側面を教えてくれたりもした。
端的に言えばその番組は、
まさに海外ポップスの授業を受けているような気になる番組だった。
私は音楽は何でも聞く。
しかし、成り行き任せで狭い範囲の曲を何度も聴くだけの、
スポットライト知識と嗜好しか持たなかった。
この音楽番組はそんな私にさらに深い知識と楽しみ方を教えてくれた。
折しもこの番組開始時期は、私が40代の最後の一年間、
仕事を休んでアメリカのコミュニティ・カレッジに留学し、
「American Popular Music History/アメリカン・ポピュラーミュージック・ヒストリー」などをかじって(ああ、面白かった。もっと勉強したかったな)と後ろ髪引かれながら、日本の職場に戻った頃と重なる。
「上柴とおる」という名前は(なんか聞いたことあるなあ)という程度だったが、
たちまち、選曲の面白さと聴いている者を脱力させる話芸に引き寄せられ、
一週間に一度のその番組を心待ちするようになった。
人との約束はできるだけその時間帯をはずし、
致し方ない場合はトランジスタラジオで道を歩きながら聞いた。
この番組を聞くことでラジオ文化が私の傍に戻ってきた。
このように、かなりののめり込み方だったが、
その番組の他のリスナーたちも私に負けていないのが、
番組を聞いていて感じられた。

そんな超人気音楽番組が3年前、FMCOCOLOから姿を消した。
簡単に言うとFMラジオ業界の強者FM802が、
弱小FMCOCOLOを乗っ取ってしまったのである。
その際、FMCOCOLOの看板番組の一つである「南港ミュージックエンターテイメント」がどうしてカットされたのか、今でも納得できず腹立たしい。
たくさんの聴取者(私もその一人)が請願のメールを送ったりしたが、
「かく在るべし」を描く上の方には取り上げられなかった。
その後私はFMCOCOLOを聞くのを止めた。

番組はストップしたが、番組ファンの気持ちはストップしない。
聴取者の中に「喫茶日本一」経営のバルタン亀吉さんがいた。
彼が上柴とおる師匠に「うちの喫茶店で番組の続きをやっとくなはれ。」と持ちかけ、
師匠がボランティア精神で引き受けてくださった。
それが「ポップス出前寄席」の始まりである。
それから足かけ4年、34回続いていること自体、
大阪(と言うか関西)にもポップスを愛する人々がたくさんいることを証明しているが、
上柴師匠のキャラクター抜きにはここまで存続できなかっただろう。
利益を度外視しても自分の愛するポップス文化を紹介しようという真っ直ぐな姿勢、
時勢を鋭く批評する一言、
そしてお笑い界でもバッチリ通用する話芸。

また、ラジオで上柴とおるディスクジョッキーの声を聞きたいものだが、
この「ポップス出前寄席」もますます発展することを切に願う。
私は帰国の際に参加するだけにすぎないが、
中国にいながらMIXIで情報を知るのも楽しい。
出前寄席の号外として、聴取者の中のミュージシャン(シーザリアンヒロさん、デューンさんなど)のライブや、ピーター・バラカンさんの生音楽談義などもある。
もはや「南港エンターテインメント」の聴取者は単に番組を聞くだけではなく、
双方向で大阪ポップス文化を作る積極的存在である。
出前寄席の帰り道、フミちゃんと
「もし戦争になったら、こんな文化活動は世の中の役にならないとか言って、
あっという間に禁止されるやろね。」
とボソボソ言いながら地下鉄の駅に向かった。
ただただ音楽が好きという庶民の楽しみが、
どこか上の都合によってまた辛い目に合わない様に、
自前で作り根を張っていくことは確かな力になる、と思う。


下にMIXIの喫茶日本一コミュニティ情報(バルタン亀吉さん)を転載する。
もしあなたが参加希望なら、まずMIXIの「喫茶日本一」に!
-----------------------------------------------------------------
大阪名物?「喫茶日本一」のコミュニティです。

「上柴とおるの『ポップス出前寄席』」は喫茶日本一で開催!
ご参加はこちらのコミュニティにて受付けます!

●喫茶日本一へは…
大阪市西成区天下茶屋・今池本通商店街内
地下鉄堺筋線「動物園前」駅8号出口を上がって左へ
(8号出口へは堺筋線ホームをご利用ください)

定休日は水曜日です。

●第34回「ポップス出前寄席」
日程: 1月12日(土)(★次回は第二土曜日です!)
会場: 喫茶「日本一」

開場: 午後4時(貸切り)
開演: 午後5時(休憩はさんで午後9時終了予定)
木戸銭: 1000円(税込)
定員: 限定30人様

動画撮影、音声収録等はご遠慮下さい。

Ustreamはこちら
http://www.ustream.tv/channel/%E3%83%9D%E3%83%83%E3%83%97%E3%82%B9%E5%87%BA%E5%89%8D%E5%AF%84%E5%B8%AD
いつものとおりこちら↓もあわせてお楽しみください。

☆上柴とおるさんのブログ「ポップス・ア・ゴー・ゴー」
http://popsagogo.blog29.fc2.com/
似顔絵は当コミュでお馴染はせちゃん画伯の作です。

☆上柴とおるさんの「ポップス再前線」(芽瑠璃堂マガジン)
http://www.clinck.co.jp/merurido/_friends/00012/
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「南昌→広州→大阪」(その2)2012年1月11日(金)No.547

2013-01-11 14:55:34 | 日本中国比較
十三のマツヤ電気で2980円のルーターを買った。
お蔭さまでこのように自宅で書き込みができる。うう、ウレシイ
しかし、私の使用しているネットワークは空港などで使われているタイプで、
セキュリティ対策なし。
「あなたの文面は誰かに読まれるかも知れません」と警告を受ける。
文面読まれるのはありがたいぐらいだが…。
電波が弱く、時々力尽きてふっと切断される。
油断大敵な状況なので、今日もさっさと書くことにする。

2中国の人々のもてなし方
 日本と中国の人々は表現の仕方が(やはり同じアジア同士、似ているな)と感じる場合もある。もちろん真逆だと驚くことも多い。今回の広州市滞在(5日~7日泊)では、中国の人々の熱いもてなしの真っ直ぐさに、日本との違いを改めて噛みしめることになった。
 
 旅行の計画段階で私は、100元前後の安ホテルを手配してくれるよう思婷さんに頼んだのだが、ちょうど5・6日は中国全土での一斉大学院入試とかち合ってホテルはどこも満員だとのこと。取りあえず5日は思婷さんの大学院寮に泊めてもらうことにし、後はホテルに移動することにした。するとその後、二年生の余立君さんが、
「先生、広州なら私の母の家があります。家に泊まってください。」
と申し出てくれ、さらにその後、三年生の潘梅萍さんが、
「私もこの冬休みは広州の妹のマンションに滞在します。先生、広州で一緒にあちこち行きましょう。案内しますよ。」
と、次々に温かい申し出があるではないか。この辺から私は『恐縮です』心理状態へと突入した。見ず知らずのお宅に泊めてもらうこと、授業外で学生たちに世話をかけることは日本的には「迷惑をかけること」であり、できるだけ避けたいと思うのが普通だろう。

 結局、5日・7日は余立君さんのお母さんのマンションに、6日は劉思婷さんの寮に泊めてもらい、ホテルには一泊もせず終わった。小紅老師にその話をしたら、
「中国では一番のもてなしは家に泊まってもらうことです。それが一般的なやり方です。」
とのこと。日本では(特に都市部では)ホテル代を払って、お客さんはそこに泊まってもらう方が多くなってきたように思う。
「家が狭いので失礼に当たるのでは…。」
「ホテルでゆっくりくつろぐ方が気が休まるのでは…。」
という声も聞く。
 そういえば中国人女性が書いた日本留学経験のエピソードを何かで読んだことがある。彼女は「美味しい料理をご馳走するわ。」と日本人の年配の女性に言われて喜び勇んで出かけたところ、自宅ではなくどこかのレストランに連れて行かれ、悲しくてたまらなかったという話だった。
「どんな高級レストランの料理よりも自宅で手作り料理をいただく方が私には何倍も嬉しかったのに…。」
と書いてあった。こんな小さいことでもせっかくの気遣いが擦れ違ってしまう。
 それでも、家庭団らんを何よりもの宝物としている中国の人々のもてなしは、個人個人の距離を常に意識する日本人にとっても決して窮屈ではないのではないか。私自身、疑似家族的感触まで味わわせてもらえ、気安さ、懐かしさを全身で感じた。ここにも少し前の日本の姿がある気がする。

「自分の事は自分でする」「他人に迷惑をかけない」…、こうした言葉を小さい頃から耳にタコができる程聞いて育つ日本人。かたや「来るものは拒まず」「頼って来る者はいつも両手を広げて迎えるべき」「たとえ借金しても全力で迎える」のが中国式もてなしだとよく聞く。昨年、思婷さんの故郷を訪ねたときもそうだったが、この広州でもこの「とことんもてなす」熱さを改めて感じたのだった。次回は、余さんのお母さん家でのことを書く予定。(続く)

ふう、何とか電波が途切れず最後までたどり着いたわ~~。(^_^;)
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「南昌→広東省広州市→大阪」 2013年1月10日(木)

2013-01-06 21:53:05 | 中国事情
あらもう1月10日。6日ぶりのブログ書き込みだ。
懐かしいなあ。
広州ではネットを使う時間がなく、
一昨日夜に帰宅後はインターネット接続できないパソコンを抱えて
悪戦苦闘していた。ルーターを買いに上新かマツヤ電機に行かんとイカン。
というわけで、とりあえず十三のインターネットカフェにやって来たのだ。
(ここは一年前から会員で「困ったときのカフェ頼み」をしてきたが3時間800円はもったいない。無料で図書館とか使わせてくれたらいいのに。本当に大阪市はケチくさいわ。あ、淀川区だけかな。橋下に雇われたあのヤクザ区長で有名な…

時(トキ)は金なり。
自宅のパソコンで下書きしたのをUSBメモリーに入れて
ここでコピーするという我ながら入念な準備ぶりだ。
自慢している時間ももったいないので
さっさと貼り付けまっさ(もうすっかり大阪弁に戻っている)。

「南昌→広州→大阪」その1
 1月5日(土)朝8時にオフィスが準備してくれた送迎車で南昌の昌北空港に向かった。
ドライバーは親切なミスター陳(以前保健所の身体チェックのとき通訳を買って出てくれて、視力検査のところでは英語で答えまで私に教え、検査技師に叱られていた人だ)。
普段は20分で着くところをこの日は45分かかった。前日の雪が凍ってつるつるのアイスバーン道路を行くのだ。溝にはまっている気の毒な車たちを横目で確認しつつ、ゆっくりゆっくり進まざるを得なかった。空港に着いたときミスター陳は「ふう~」とため息をつき、私は感謝と称賛を拍手で表した。それくらいの緊張したひと時だったのだ。彼は帰り道をどのように戻っていくのだろうかと、ちょっと気になった。

 中国南方航空の便は50分遅れただけで11時半にちゃんと飛んだ(中国的には順調)。機内昼食がなんか統率のとれていないメニュー(パン・カステラ・ミニトマト・ピーナッツ・ザーサイ+飲み物)だったのは残念だったがこれも小さいことだ。午後1時過ぎ、昌北空港から2時間弱で広州空港に着いた。空港には、昨年江財大を卒業して広州外語外貿大に進学した劉思ていさんと財大2年生の余立君さんが迎えに来てくれていた。ありがたいことだ。

 私の中国旅行は学生諸君のサポートなしにはあり得ない。旅行をしたいと思ってもパッケージツアーのコースから外れ、自分だけで希望のところに行くのは中国語が堪能でなければ簡単ではない。私のような「ニーハオ」レベルの人間が農村や成都・九寨溝に行けたのはひとえに彼女ら彼らの尽力のお蔭である。今回の広州市訪問も広州空港で迎えてくれた二人のお世話で楽しいものになった。さらに三年の潘梅ひょうさんも後で加わり(彼女は汽車で私より1日早く南昌を発ち、私と同じ日に広州に着いた)、まさに至れり尽くせりで(申し訳な~い!死んでお詫びを)と叫びたいくらいだったが、こうなったら恐縮せず、もはやリラックスして楽しむしかない。

 広州は暖かかった。町並みは南昌とはまるで違い、インターナショナル・シティだ。つまり、車もバイクも人々も交通ルールを守り、道路は広く、ゴミは少ない。歩道を電動車いすの人が通っているのも南昌では見られない光景だった(南昌の歩道は段差ばかり。車いすは使えない。私もしょっちゅう躓く)。市バスの車内放送の違いが可笑しかった。南昌の車内放送は、
「前のドアから乗車し、その後、後ろに移動して降車口からきちんと降りてください。」
と言う。広州市内のバスでは
「民族的道徳心を持ち、お年寄りや体の弱い人に席を譲りましょう。」
だった。南昌っていったい…。(-_-;)
 遊歩道に何十台もの卓球台があり、退職した元気な年配者たちがバリバリ元気に、と言うか見事な技で卓球をしていた。思わずカメラを向けるとやたら照れていた。別のところでは韓国のチェギ遊びと全く同じ、足で羽のついた重りを蹴っているグループもいた。みんなとても上手だ。おそらく、ほぼ全員60代以上だ。誓っていうが私はたった一度もうまく蹴られないに違いない。のろのろ歩くぐらいが精一杯だ。
 広州市では歩いていても、時折日本語会話が耳に飛び込んできたり、日本語の看板も目に入る。もちろん日本だけでなく諸外国からビジネスピープルが訪れる大商業都市なのだ。さらに近くのビジネス都市深圳と違い、広州には歴史の趣があり、落ち着いた都市生活も十分楽しめるところだ。熟年の元気な男性が緑豊かなガジュマルの街路樹の下を半袖Tシャツ姿でジョギングしているのが印象的だった。(続く)

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「明日は広州市に移動」 2013年1月4日(金) No.545

2013-01-04 19:09:24 | 中国事情
何だ、なんだ。ヒトが移動しようって時に雪なんか降って。
「これでも亜熱帯かよ~」とブツブツ言いながら成績を届けに麦盧キャンパスに出かけた。
雪なのでバスの便数は大変少なく、従って、バス停で待つ客は普段の倍以上で、
いつも比較的空いている520番も、さすがに今日は後ろから乗る人がいるほどだった。
(ここでは、非常に混んでいるとき、降車口からも乗車する人が多い。律儀に乗車口で乗る順番を待っていると、突然、運転手がドアを閉めて見切り発車し、バス停に取り残されることがよくあるのだ。運転手は「前から乗れ!」と叫ぶがみんな聞こえないふりをする。乗れたらいいのだ、乗れたら。)
麦盧キャンパスでは、
まだ学校に残っている学生たちが雪が降っているのをものともせず、
楽しそうに雪だるまを作ったり、雪合戦をしたりと、
2年ぶりの雪を歓迎する和やかムードで溢れていた。

私が使わせてもらっている資料室に行くと、あら、嬉しや。
エアコンがついているじゃないですか(例によって中古だけど)。
試運転すると、我が宿舎のより実に安定的な温風が出てきた。
2月、日本から戻ってきたら毎日資料室通いしようっと。
だって、宿舎よりずっとあったかいんだも~ん。

宿舎に帰る途中、一回滑って転んだ。
あっちでもこっちでも、転んでいる人がいる。
路面がツルツルだからだ。
見かけのいい大理石仕様の道路は、雨や雪ではとにかく非常に滑り易い。
見栄えばかり腐心して、歩く者のことなどひとつも考えていないと
このブログで何十回も声を大にして訴えているが、改善の気配は全くない。
(訴える場所が違うっちゅうねん)
とにかく、足の裏に全神経を注いで歩くしかない。

部屋に戻ると台所の温水器から漏水していた。
もう~、明日出発だというのに~


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「故郷に帰る学生たち」 2013年1月3日(木) No.554

2013-01-03 17:49:36 | 中国事情
今日も寒い一日。最高気温がかろうじて0.1℃まで上昇したが、
[風力5]と、冷たい風が強く吹いていた。
文字通り寒風吹きすさぶ中を、午前中で第二専門のテストを終えた
3年生の奉さん、潘さん、羅ちゅうさん、林さんが遊びに来てくれた。
今日の夕方、汽車に乗って帰る羅ちゅうさんを筆頭に、
皆、遅くとも明後日5日には故郷に向けて出発する。

我が宿舎に着いたときは4人とも冷たい風で顔が赤くなっていた。
しかし、私の部屋もちっとも暖かくない。
せめてものもてなしで、カイロを一人に一個ずつ渡した。
4人のうちカイロを使った経験者は誰もいなかったので、
ひとりをモデルにして使い方を説明した。
「桐灰化学のブランド品だよ」などと自慢したが、彼女たちには当然意味がなく、
素肌に貼ってはいけないことなども言わなければならない。

貼る前に
「これ、お祖父ちゃんに持って帰ってあげたいな」
と林蘭さんが言う。
こういう言葉がごく自然に出てくるのが中国の子たちだ。
安徽省出身の林さんはこの前の夏休み、農村にあるお祖父さんの家で二人で生活した。
親や身内の皆は仕事で都市に出稼ぎに行っている。
一家が揃うのは一年に一度の春節(旧正月)のときだけだ。
夏休み明けの作文に林さんは、お祖父さんと過ごした日々を綴っていた。

「おじいちゃん、炊事・洗濯、全部私がするからね。
おじいちゃんは安心して外の仕事をして。」
と林さんが胸を叩くと、
「お前の出来る料理はたった一つだけじゃないのかい。」
と冗談を言いつつ、孫の成長に目を細めるお祖父さん。
お祖父さんは、食事のたびに以前の生活の苦しかったことを語り、
「今のこの生活は本当に恵まれている。そのことを忘れたらだめだよ」
と言うのだった。

そんな文中の言葉が印象に残っている。
何が恵まれているかと言うと、食べようと思えば肉も毎日食べられるような類だ。
日本でも、
「盆と正月にだけ鶏を絞めて食べたものじゃ。」
といった話はそんなに遠い昔話ではないのではないか。
1960年代から、日本人の生活は物質的にどんどん豊かになってきた。
今、長期不況で庶民の生活は苦しいというが、
外見からは(例えば中国庶民的視点から見れば)
切羽詰った雰囲気が伝わってこない。
インフラは整備され、スーパーに行けば世界中の食品が買える。
日本の庶民の苦しさの実態は、モノがないのではなく、
お金がないのである。

どうなんだろう。
例えば、どこか小さい農園を借りて野菜の栽培などできないのだろうか。
自分が要るものを全てお金で賄おうとすると、
お金は羽が生えて飛んでいく。
消費力をアップさせるためには給料を高くするべきだというのは当たり前で、
私も何一つ不服はない。
給料が上がったら、お金がたくさん使える。
みんながお金をたくさん使ったら、経済が活性化する。
消費者は生活が潤う。
確かにそうだろう。
しかし、私は自分がそんな堂々巡りみたいな構造に組み込まれることから
何とかして逃れたい気がする。
それこそベランダ農園でもして。
社会の分業の中に「消費するだけの役目」の人がいたら、
その人は、かなり不幸せ感が漂うんじゃないか。
明日は経済がどうなるか、
いつもそのことを第一義的に考えざるを得ない生活なのだ。
今の都市生活者の多くは、そんな役目を担わされているのではないだろうか。
「日本の未来よりも今日の物価が気になる」人たちにとっては
まさに真面目に「お金イコール命」なのだろう。
そういう人たちに、少しでも自給自足的余地を提供する豊かさもないのだろうか。
日本という国は。

安徽省の林さんのお祖父さんの言葉から、
いろいろ考えを広げることが出来る。
本当に日本の消費者の皆さんは、
是非とも機会を作って
中国の農村を訪れて欲しい。
日本社会が何を得て、何を失ったのかが
歴史のネジを回すように見て取れるからだ。


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「うっ!さぶっ (((;゜Д゜)))」 2013年1月2日(水) No.553

2013-01-02 20:55:55 | 中国事情
太陽は昼まで。
洗濯物を干し、食卓をベランダのごく側まで引き寄せてテスト採点の続きをした。
敬語の使い方問題の解答に
「こちらからご連絡いたす」とかいうのがあって、
「江戸時代か!」とツッコミを入れたりしながら楽しく続けた。

午後、急に曇ってきた。そうなるともう南昌はダメだ。
風が強く唸り声を立てて窓を軋ませる。
どんどん体感温度が下がってくる。
手を温めるだけの目的で熱いインスタント・コーヒーを淹れ、
カップで暖をとる。

日本ではネットで中国の天気予報を見て、自分のところと比較したりするかも知れない。
私も最初のうちは予報を欠かさず見ては一喜一憂していた。
そのうち気づいたことがある。
南昌の天気予報は、あくまでも予報に過ぎないということだ。
どういうことかと言うと、
日本の天気情報は刻一刻と緻密に修正され、
実際の時刻にはほとんどズレのない天気の状態になる。
南昌の予報士さんたちはそういうことをしない。
前日の予報は当日の早朝5時に一回修正される。
その後は、どんなにその予報が実態とかけ離れていてもほったらかし。
なので、最高気温予報が8℃の今日、実際には4.8℃以上に決してならなくても、
その予報はずっとそのまま今日一日ネットで流される。

そんなにズレていて恥ずかしくないのか。
あるいはまた、市民から苦情は出ないのだろうか。

日本で暮らしているアナタは不思議に思うだろう。
苦情は出ないようなのだ。
中国の人々はいちいち細かいことにこだわって生活していない。
数字の少々のズレなどどうってことないのだろう。
学生たちは
「ネットの予報も一応参考にしますが、正確なのは窓から外を見ることです。」
と言う。
日本で生活するうちに知らず知らず、
(天気予報はこまめに修正して現在の天気状況を出来るだけ正確に伝えてくれるものだ)と思い込んでいた私は、
最近まで、ネットで天気予報を見、それに基づく準備を整えて行動し、
一日の終わりには「このウソつき!」と罵倒する日が多かった。
石の上にも三年・・・。
天気予報の大雑把さにも、慣れてきた。

夕方、
刺すような冷気がカーテンを通して入ってくる中(もちろん窓は締めてある)、
パソコンで成績を打ち込んでいたら、
4年の洪さんから電話があった。
3日後に迫った大学院試験対策の質問だ。
これから図書館に行ってパソコンで作文を送るので見て欲しいという。
部屋に居ながら、寒いのなんのと不平を言うのはやめようと襟を正した。
学生たちは、
遥かに厳しい環境でひたすら努力しているのだ。

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