毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

「オリンピックと政治の切っても切れない関係」 2014年1月29日(水)No.839

2014-01-29 14:40:28 | 日本語

昨年、2020年東京オリンピック開催が決まった。
国民のコンセンサスを得るためだろうか、
当初「被災地復興のためのオリンピック招致」という宣伝文句がよく聞かれたが、
それは「復興とオリンピック開催は矛盾せず成立するのか」という論議を呼んだ。
オリンピック開催のためにかかる膨大なコストは、
復興資金を削って成り立つ性質のものではないのか、
被災地は未だ先の見えない苦しい復興途上にあるというのに、という怒りの声も湧いた。
しかし、
「日本人であれば誰だって東北の人のことを思わない者などいない。
オリンピックで日本を元気にすることが復興につながるはずだ。
だから東京にオリンピック招致をするべきだ」
という東京都並びに政府の主張に、いつものようにメディアが同調し、
いつものように多くの日本人の心はそちらに傾いて、
招致国を決める際の安倍首相の
「東京は福島から離れているから安全には問題ない」
という福島県人の神経を逆なでする発言も、他の多くの政治家の問題発言同様、
日本社会ではうやむやにしてどこかに流されていこうとしている。
そしてとにかく本当に、
東京でオリンピックが開かれることになった。
「2020年まで生きていたいねえ」といった年配の人達の声もあると聞く。
それらの年配の皆さんはそんなにもスポーツが大好きなのだろうか。


スポーツと政治は関係ないと言われるが、オリンピックに関する限り、これは大嘘だ。
オリンピックを開催する国の政治家は、
その国の威信や評判といった国際的地位とともに当然経済効果にも腐心している。
即ち、その国の外交と経済の要として国際スポーツ大会を位置づけている。

過去のオリンピック大会を振り返ると、日本のオリンピック史上有名な、
「前畑がんばれ、前畑がんばれ、……勝った、勝った、勝った、前畑勝ちました……」
というアナウンスは、1936年ドイツのベルリン国際オリンピック大会でのことだが、
プールサイドの大観衆の中には当時のヒトラー総統もいた。
ヒトラーは当初、
「どうせアメリカが黒人を大勢連れてきてメダルをさらっていき、
ユダヤ人どもが金儲けに利用するんだろう。私は関心ない。」
と、開催に乗り気でなかったのを、ゲッペルス宣伝相が
「ベルリンでオリンピックをやれば、選手やコーチ、役員だけでなく、
大勢の報道陣、観光客も来ます。
我がナチスドイツの栄光を世界に宣伝する絶好の機会になるとお考えになりませんか。」
と説得したという。〈註1〉
宣伝外交の道具としてのオリンピック招致は、
ゲッペルスのみならず現代では多くの国家の基本である。

しかし、そのオリンピックに出場するスポーツ選手はたいへんだ。
もともとは日本国を背負って立つ気もまるでなく、
ただただ水泳が天才的に上手な和歌山県の女の子だった前畑秀子選手は、
「金メダルをとれ」という日本国(民)の期待を背負わされて、
ベルリンオリンピックに臨んだ。
もし金メダルを獲得できなかったら、
帰りの船から海に身を投げて死のうと覚悟していたという。〈註2〉
政治家や国民が自分でできない国家的事業を、
個人であるスポーツ選手に強要するために起きた悲劇の代表例が
1968年、マラソン選手円谷幸吉さんの自死である。
彼の『美味しゅうございました』を繰り返す遺書文は、
当時十代だった私にとってかなりの衝撃で、今も忘れることができない。
もし、自分のためだけに走っていられたなら、
円谷選手は今ごろ、孫に囲まれて
ニコニコ笑顔で彼個人に属する人生を楽しんでいたかも知れない。

スポーツと政治は関係ないというならばオリンピック選手が国家を背負って、
その重圧に押しつぶされて自殺する必要もないのだ。
国民も、政治家も、
国家の呪縛を一人のスポーツに秀でた人間に押し付ける権利をもつものではない。

前畑選手の悲壮な頑張りと、円谷選手の絶望は、
現代のオリンピックなど国際スポーツ試合ではあまり聞かない。
現代っ子の選手たちは国家の圧力を上手にマインドコントロールしているのだろうか。
そうであったとしても、今なお国際スポーツ大会の背後に
「国家」と「政治」は厳として存在し、個である選手の人生に確実に影響を与えている。
私は決してスポーツの試合を嫌うものではないが、
国家意思が露骨に見え隠れするオリンピック大会には違和感を、
スポーツが好きで、ひたすら自分の人生をかけてきた選手には同情を覚える。

〈註1、2〉参照:「オリンピックと日本人」(池井優著/NHK出版)

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「毒餃子事件判決」 2014年1月21日(火)No.838

2014-01-21 19:50:26 | 日記

私がまだ中国へ出稼ぎに行く前、「中国毒餃子事件」というのがあり、
日本社会は大いに騒いだ。
中国から輸入した冷凍餃子を食べて被害に遭った人がたくさん出たからだ。
昨日(1/20)、その事件の判決公判があったとラジオのニュースで聞いた。

あの事件以降、日本国内では中国の評判が落ちた。
「国家の体制とかを言っているんじゃないで。
こんな事件があったら中国人や中国のものってどこまで信用できるか心配やねん。」
と友人の一人が言った言葉が忘れられない。

当時、私は近畿中国帰国者支援交流センターで週末だけ日本語を教えていた。
帰国者の妻として日本に来た呂さんが、憮然とした表情で言ったことがある。
「皆、私の顔を見たら『毒餃子事件起きたな。中国、一体どうなってんねん』と聞く。
私は『知らん!』と言うだけ。日本でだって食品関係の事件はあるのに……。」
呂さんの言うように、日々のニュースを聞くだけでも、
日本でも食品にからむ事件は後を絶たない。
最近も冷凍食品に農薬が混入されるという事件があり、
誰が何故そんなことをしたのかは未だわかっていない。

確かに、農薬の使い方、廃油を再利用して売る手口など、中国のやり方は派手だ。
それでも日本人が日本社会の犯罪と中国などアジア諸国の犯罪を比較するとき、
そこに決めつけと差別が全くないと言えるだろうか。

2010年春、私はインターネットで中国江西省に職を見つけた。
その時の初任給は毎月4800元プラス光熱費500元、合計5300元/月だった。
当時の為替レートで円に換算しても7万円にも満たず、
心中(たったそれだけ~!)と叫びたくなった。
しかし、「毒餃子事件」で逮捕された青年の実家(農家)の年間収入が
2000元だと報道で知って(年間収入です。念のため)、愕然とした。
大学卒の初任給は南昌で平均2200~3000元/月とも聞く。

青年は高校に進学せずに都市部へ出稼ぎに行き、
初めの頃は実家に送金していたが、いつしか途切れたそうだ。
青年と妻は同じ職場(天洋食品)で臨時職員として働いていたが、
給料は非常に少なく、実家に仕送りできるどころか、
何回会社に願い出ても二人が食べていけるほどの給金は支払われなかった。
犯行の動機は、ようやく妻の給料を上げると約束した会社がそれを履行しなかった。
それで彼は決壊したという。

昨日、青年に無期懲役の判決が下った。
青年は終始無言でうつむいていたそうだ。
青年が逮捕された当時、実家まで取材に押しかけた報道記者に対してお父さんが、
「もし息子がそんな悪いことをしたのでしたら、
親として被害者の方々に心からお詫びします。
しかし、息子は家にいたときは本当に親孝行な良い子どもでした。」
と語った記事も読んだ。

あまりにも貧しい人々がいる。それも中国の一面だ。
中国は多くの課題を抱えている。

もし、と私は思う。
もし、周恩来氏が日本国家に日中戦争戦勝国として賠償金を要求していたら、
日本の今の状態はなかったかもしれない。
そして、中国はここまでの貧富の差を引きずらなかったかも知れない。
かたや日清戦争(1894-95)後、
戦勝国日本は当時の中国が払えないほどの賠償金を請求し、
中国は他国から借金してそれを支払った。
具体的に言うと二億両(テール)、つまり当時の銀相場で3億円を請求し、
後にさらに増額し、最終的に3億6千万円を受け取った。
当時の日本の国家予算は8千万円で、日本は国家予算の4倍以上の金額を
中国から受け取った、というかふんだくり取った。
日本が中国からとんでもない金額の賠償金を取ったことも、
周恩来氏が日本に対して賠償金を払わなくてもいいと寛大に申し出たことも、
二つとも消し去ることのできない歴史的事実である。

「毒餃子事件」の背景に中国の貧しさがあり、
その貧しさに対して日本は全く関係ないと言えるのだろうか。
戦争責任はきちんと果たすべきだったんじゃないだろうか。
いくら周恩来さんが寛大な申し出をしたからと言って、
その寛大さに甘え、責任をもいつしかODA援助にすり替え、
自国の経済発展に繋げた日本の戦後政治を、
私たちは胸を張って立派だと言えるのだろうか。
(2014年1月21日記)
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「若い坊さんの話を聞いた」2014年1月15日(水)No.No.837

2014-01-15 11:48:52 | 日記


1月11日(土)、大阪梅田の一角で39歳の京都のお坊さんの話を聞いた。
しかし、直接的な仏教の説教ではない。
「新聞うずみ火」(小さいけど全国紙)主催の
「秘密保護法について知ろう」という会があって、
そこで聞いた話だ。

私から見ればまだまだ若いそのお坊さんは、
特定秘密保護法案が国会に上程される前後から四条大橋のたもとで、
5週間、その危険性を訴えたという。
「坊主に何が分かる!」という非難もあったが、逆に握手を求めてきた人もいたそうだ。
「何が秘密なのかが分からない」
「逮捕されても理由が分からない」
「『一般』は対象外と言いながら、その『一般』とは何を指すのかが分からない」
という、実に曖昧で分からないことだらけのこの法律だが、
安倍首相自身も
「もうちょっとじっくり審議した方がよかったかも」
と後で漏らしたと聞いた。
もし、それが本当なら、自分たちが数の暴力でここまでやりたい放題できるということが
首相自身、未だピンときていなかったのかも知れない。
戦争を始めてから初めて(もう後戻りできないのか)と気づくようなものだ。
実に国民を舐めている。
国民は政府が何をやっても文句ひとつ言わないと信じきっているのだろう。

さて、その日の私の主な関心は、
何故この若いお坊さんが、今の日本の若者層としては珍しく
このような積極的行動に出たのかということだった。
岸野亮哉(きしの りょうさい)さんは、左京区専修寺(浄土宗)副住職。
イラク、ビルマ(ミャンマー)、スリランカなどにジャーナリスト・ビザで入国し、
取材を重ねた経歴を持つ。
それを聞いて(なるほど)と頷けた。
もちろん、取材に出かける感受性と意思、行動力が前提にあってのことだが、
それらの国々の人々の生活に接した時、骨身に沁みて分かることは、
言論の自由や、生命の危険に晒されることなく幸せに暮らす権利が
はく奪されているということだ。

スリランカで岸野さんが取材したのは反政府側の「タミルの虎」だったが、
そこでも撮影の制限は厳しく、あわやという場面もあったそうだ。
岸野さんは常に庶民の中に自分の身を置き、
あたかも近所づきあいをするように地元の人たちと接してきたことが
その話や映像から察せられた。
スクリーンに映し出されたスリランカの小さい女の子やおばちゃんたちの姿は
十年近く前のもので、岸野さんのカメラに向かって屈託なく笑っていた。
どうしているか心配でも、日本から彼女たちに手紙を出すことはできないという。
日本から手紙が届くということは即ち、
彼女たちの身を危険に晒すということだからだ。

ビルマ(ミャンマー)では岸野さんは、政治の話は一切するなと言われた。
アウンサン・スーチーさんが軟禁されている家の近くにも絶対行くな、
行ったら殺されるぞ、とも。
2007年9月、取材中のジャーナリスト、長井健司さんが殺され、
カメラは未だ戻ってこないのは衆知の通りだ。

これらの国々ではそんなことが普通だった。
そこで暮らす人々の生活を見てきた岸野さんが、特定秘密保護法に反対するのは、
至極当然の成り行きだろう。
言論の自由を制限することが国民にとってどれほど恐ろしいことか、
その実態をリアルに知っているからこそ、
四条大橋に立って道行く人々に訴えたのだと分かった。

また、その会に異色の30代前後の男性が参加していた。
彼は「国を守るためには戦争も辞さない」と考えている右派だと自分で言った。
彼の発言は、
「自分のような右派でもこの秘密保護法は言論の自由を制限する良くない法律だ。」
という趣旨だった。
(この人はわざわざ出かけて来るくらいだからふざけているわけでもないのだろうが、
戦争になったら言論の自由どころか生命を保持する自由だってないことが
なぜ分からないのだろう。あまりにも想像力が欠如している)と驚いたが、
こういう意見の人たちは日本にたくさんいるのも事実だ。
同じ若者でも、岸野亮哉さんとこの人は何故このように違ってくるのか。

分岐点は
「どこの国にも自分と同じ人間が、命を大切に思いながら一生懸命生活していること」
をリアルに想像できるか否かではなかろうか。
マジンガーZの話ではなく、現実であることに気が付くためにも、
異なる国の異なる民族を自分や自分の家族になぞらえてみることは効果がある。

以前、教師だった頃、
小学生に「もし、(相手について)自分だったらどう思う?」
とよく相手の立場でものごとを考えてみることを勧めたが、
同じことを「戦争も辞さない」論者たちに聞きたい。
大好きな人を思い起こし、そういう大切な人をどこの国の誰もが持っていると考えてみたら、
人間一人ひとりの存在の重みが少しずつイメージできるのではなかろうか。
そう、必要なのは他国の人々を具体的に想像し、イメージする力だ。

しかし、日本はまだかろうじてのどかだ。
こんな話し合いができるのだから。
これも日本国憲法第二十一条が
「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由を保障する」と認め、
それを国民が互いに尊重し合っているからこそできるのだ。
自民党の改憲法案にはこの第二十一条の項目に
「公益及び公の秩序に反する活動は認められない」という付け足しがある。
「公益及び公の秩序に反する」とはこれまた曖昧であり、
言論の自由を制限する危険性を孕むものだ。

他の参加者から「どうやったらこの法律を廃止できるんですか。」という質問があった。
その答えはその質問者も含め、一人一人が自分で出さなければならない。
ポイントは『諦めない・忘れない』だと思う。
何でもすぐに諦め、すぐに忘れてきた日本人。
私たちに諦める自由はもはや残されていない。
何の責任もない次世代の子どもたちを戦争や言論統制の恐怖から、守らなければならない。
私たちの子どもらの命を簡単に安倍たちの「国」に差し出すわけにはいかない。
    2014年1月14日(火)記
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「大阪女子の心意気」2014年1月10日(金)No.836

2014-01-10 11:35:19 | 日記



7年続く任意団体「帰国者の友」にはいろんな人が集っているが、
その中の一人に、吉田智里さんがいる。
私から見れば本当に可憐な女子である。
そんな若者が、「掃き溜めに鶴」と言ってはナンボ何でもへりくだり過ぎだが、
我々超熟成おばさんたちの中にスタッフの一人として普通に居るので、
それがまた「帰国者の友」の多様な豊かさを保障しているのであ~る。
鶴がお友達の鶴を呼んでもくれる。
ありがたい。

今日、十三のミスド(「ミスター・ドーナツ」の省略形)で智里さんとお喋りした。
実は、彼女はボランティア活動の達人なのだ。
夏休み、「関西きんじょすくいの会」スタッフとして
琵琶湖湖畔に福島・宮城の子どもたちを招き
放射能の恐怖から解放されたところで、
のんびり泳いだり、野染めしたり、昆虫採集したりする
「元気いっぱい琵琶湖キャンプ」活動を、3年間(計4回)続けている。
東北被災地ボランティアに行った際、そこで知り合った人たちが
「きんじょすくいの会」を組織して活動していたことに感銘を受け、
その関西版をこさえた人のところに馳せ参じたのだという。

スゴイのはその知り合い力であり、やってしまう力である。
東北にボランティアに行って、手ぶらで帰って来ない。
関西に戻ったら戻ったで、次の知り合いを見つけ、
何とか、子どもたちが夏休みの1週間でも、のびのびと
放射能の心配をしなくてもいいところで過ごさせてあげたいと、
活動する人と行動を共にする。
ないお金(失礼!)と、あとは智慧と力を出し合って、
全部、自分たちでやってしまうのである。
(これは「帰国者の友」も全く同じ)

智里さんは最近、西淀川区に引っ越した。
NPO法人「西淀川子どもセンター」事務局のスタッフとして働いている。
と言っても食べていくことは不可能なので、
アルバイトしながらの活動だという。
現在、夜間、大人不在で過ごしがちな地域の子どもたち(小・中学生)と、
夕食を一緒に作って食べたりしながら
話し相手や学習支援を実施するプロジェクトに取り掛かっている。
CAP(子どもへの暴力防止)活動を多くの学校に出かけて行っているのも、
この団体であるという。
そう言えば、私が以前働いていた西淀川区の小学校にもCAPが来てくれたことがある。
この団体だったのか~。

なぜこうしたボランティア活動をするのかというと、
社会の中でのびのびと成長できず、助けを必要とする子どもたちがいるからだ。
数年前に、親に虐待されて亡くなった子も西淀川区の小学生だった。
NPO法人を立ち上げた人たちも、地元の子どもたちの現実を見て、
手をこまねいていてはいけない、という気持ちだったのだろう。
(西淀川区が特別にそうした地域なのではない。
こうした現実がどこにでもあるのが、今の大阪である)

智里さんは、学生時代からYWCA国際部を始め、
様々なボランティア活動に参加していたが、
昨年春、それまで働いていたところを辞めて以来、
アルバイト以外の自分の全時間をボランティア活動に傾けている。
「お金の心配とかしないの?」
と聞くと、
「お金のことは確かにありますけど、でも、じっくり考えて、
人に使われて暮らすのは私の性に合っていないなと思って…。
私の人生の時間は私が使おう、私が自分を雇う社長になろうと決めたんです。」

不景気という割に中国の庶民の何倍も贅沢な暮らしをしながら、
目先の株価の上下で汲汲とする人々の多い日本社会の空気だが、
この言葉はさらりとした清風を私の胸に吹き込んでてくれた。

それでも(だからこそ)、一言せざるを得ないことがある。
こうしたボランティア活動の多くは、
国や自治体が為すべき仕事だ、ということである。
「社会制度化されるまで、不自由はお互い補い合って頑張っていこうね」
という庶民の健気な思いの表現としてのボランティア活動は、昨今、
「自力でできることを政治に依存するな」
という政治家の言葉に簡単にすり替えられている。
彼女が活動している「西淀川子どもセンタ―」には市の助成金は1円もない。
私は腹立たしかった。
彼女の収入源はNPOの会計からや助成金からち
ょこっとだけお金が出る場合もあるが、基本的にヘルパーのバイトで賄っている。

生活費を切り詰めて手弁当で活動するボランティアの活動を当然だと言う大阪市の姿勢、
そのトップに立つ市長を
「カワイイ~!お肌すべすべしてる~!」
とか言って支持する多くの大阪市民たち。
この悪夢のサイクルから、いつになったら抜け出すことができるのだろうか。
子どもを家において夜遅くまで働いている親たちも、あの市長を支持しているのだろうか。

智里さんも「本当は、市がやって当たり前のことです。」と言いつつ、
いたたまれず子どもたちのためにほぼ無償で働いている。
こうした人たちに甘え過ぎているのが今の日本の政治であり、社会だと思うんだけど、
違うだろうか。
   (2014年1月9日記)

〈付録〉
ミスドは阪急十三駅東口・西口の両方にある。
私は確かめもせずに違う方でのんびりと、
駅前を通る人たちのうち何割がマスクを着用しているかとか数えていて、
20分ぐらいしてからハッと気が付き、
まだ食べていなかったカスタードクリームパンを紙ナプキンに包んで
脱兎のごとくその店を去ったのである。
写真は間違って入った東口店から見た十三駅前。


全部で¥400弱だったかな?







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「これからひと月ネット難民生活」2014年1月4日(土)No.835

2014-01-04 18:40:02 | 日記
大阪に戻ったが、インターネットが使えない。
ここ1年ほどは自宅からではなく、
近所(家から徒歩数分)のマクドナルドにノートパソコンを持ち込んで
百円コーヒーを飲みつつ、数時間でテキパキメールチェックしたり、
ブログをアップしたり、調べものをしたり、アマゾンで注文したりして過ごしてきた。
自分の部屋のようなわけにはいかないが、
店の雰囲気にも慣れ、自分のお気に入りの席もできたりして、
便利に使えていたのだ。

今度帰ってくると、そのマクドが消えてなくなっていた。
マクド自体は繁盛していたのだが、
属していた「コーヨー鮮度館」というスーパーがつぶれたのだ。
真向かいにコンビニにしては大きいローソンができ、
数分歩けば阪急オアシスという新スーパーが客を引き付けている。
ひと時は「やっぱり、魚は鮮度館が一番美味しいわ」と
近所の顧客に太鼓判を押されていたのに、人心は移ろいやすい。
オアシスやローソンに負けてしまった。

そういうわけでネット難民になった。
私は「ワイヤレスブロードバンドWAIRELESS GATE」(株式会社ワイヤレスゲート)と
月々¥380使い放題の契約をしている。
使い放題といっても、使う場所が限定されている。
マクドナルド、スターバックス、あちこちの空港、東海道新幹線駅、
JR主要駅、トヨタショップなど、全国約2万か所だが、
車も買わないのにトヨタの店に行くわけにもいかない。
スターバックスは雰囲気いいけど、コーヒーだけで毎月の契約代に匹敵する。
新大阪駅はチャリで15分だが、
待合室でポソポソパソコンいじっている自分の姿を想像すると哀れである。

しかたがないので、方向を転じ、
これまた自転車で15分の十三のマクドに行くことにした。
本当は今日行こうと思ったのが、
自転車の籠にノートパソコンを入れて寒空を15分走る元気が出ない。
日本に帰って以来、強烈な偏頭痛に襲われまさか脳腫瘍?などと思うが、
セデスを2錠飲むと半日は治まる。鼻水も出る。眼も痒い。アレルギー症状だ。

ここ二日間、家でNHKラジオ第二放送を聞いて過ごした。
スゴイ番組があった。
日本の作家たちの声を聞かせてくれたのだ。
昨日は川端康成、谷崎純一郎、内田百、長谷川伸、松本清張など(あとは忘れた)、
今日は、林芙美子、白洲正子、宇野千代、幸田文、向田邦子の元気な声が聴けた。
ああ、樋口一葉も聞かせてくれたら…(笑)とザンネンに思いつつ、
いろいろ感想を持って楽しんだ。
やはり、谷崎純一郎は思っていた通りの声だった(私は全く好きではない)。
川端康成は甲高い声かと思っていたのが、それほどでもなかった。
素敵な話し方だなと思ったのは内田百だ。
そして、林芙美子は深いいい声だったが、
ちょっと意地悪っぽい響きがときおり感じられた。
自分とは全然関係ない人と思っていた宇野千代が、
いかにも自由で、可愛く、のびのびしていて身近に感じられたし、
幸田文の(江戸っ子だい!)といった風情も好感を持ち
(今度は幸田文さんの文を是非読もう)と思った。
向田邦子は女学生のように清純な声だった。
NHKはたくさん宝物を保存しているのだなあ。

ネット接続が非常に不自由になったことで、
私はブログを読んでくれる人たちに申し訳ないと思い、
焦ったりしたが、もはや、どうしようもない。
そうと決まったら、いいこともある。
自由時間が私のところに戻ってきてくれたような嬉しさがあるのだ。
不思議だ。ブログを書くことは誰に強制されていたわけでもないのに…。
2月初旬に中国に戻るまで、ブログは週一、二回程度の更新、
メールチェックもそれに準ずることにした。
その分、淀川河川敷や大阪の町を徘徊したり、図書館で本を読んだり、
家でラジオを聴いたり、英語の勉強をしたり、
と充実した時間が過ごせる。あら、うれしいな!

(1月3日)
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