開いた口が塞がらないクニにっぽん。

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キーマカレーを作りました。お店用です。

ターメリックライスも炊いてバッチリです

写真はネットのを借りましたが、店では卵は乗せず、

ハーブをトッピングします。

 

明日土曜日は店でカオソーイカレー作りに挑戦します。

タイ北部チェンマイからラオスにかけての麺料理に使うカレーです。

今の日本社会の有様を見るにつけ

もはや言葉も出ませんが

モノづくりしている間はそちらに集中するので

表情のない新首相の死んだ魚の目を思い出さなくても済みます。

店で料理をしている間、

サッチモの「What A Wonderful World」、

オーティス・レディングの「Change is gonna come」、

Canned Heatの「Spoonful」「On The Road Again」だのを

エンドレスで何度も何度もガンガン流しながら

自分の世界に浸ります。

このままずっと浸っていたいわ、ホンマ。

 

エドワード・サイード『知識人とは何か』という本、

題目の〈知識人〉という言葉に衒いを感じて

長らく近寄りがたかったのですが

今の日本や世界の現象をそのものずばりと指摘しているので

子どもっぽく気後れしている場合ではないと思い、数年前に読み、

いくつかのページは何度も読み返しました。

メモとしてここにも記録しておきます。

アメリカがポスト冷戦構造の中でこしらえた文脈の中で

「知識人」はどうすればいいのか

という命題でこの本は貫かれています。

サイードによれば「知識人」とは、

「亡命者」であり、

「周辺的存在」であり、

「アマチュア」であり、そして

「権力に対して真実を語ろうとする言葉の使い手」

す。

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1)(アメリカの知識人C.ミルズの言葉の引用して)「新鮮な認識ができるか否かは、現代のコミュニケーション[すなわち現代の表象representationシステム]が押し付けてくるステレオタイプ化したビジョンなり思考の仮面をはぎ取り、それを粉砕できるか否か、にかかっている。大衆芸術、大衆思考の世界はますます政治的にからめとられるようになった。だからこそ政治の世界では、知識人の連帯と努力が優先されなければならない。もし思想家が政治闘争の中で真実の価値を身を持って体現しないのなら、そのような思想家は、生きた経験全体を責任を持って扱うことはできないのである。」・・・この一節は読むに値するだけでなく、くりかえし読むに値する。ここには重要なヒントがちりばめられている。

2)・・・こうした状況にあって知識人が弱い者、表象=代弁されない者たちと同じ側に立つことは、私にとって疑問の余地のないところである。知識人はロビン・フットかと皮肉られそうだ。けれども知識人の役割はそれほど素朴なものではなく、またロマンティックな観念論の産物として容易に片づけられるものではない。知識人とは、その根底において、決して調停者でもなければ文脈形成者でもなく、批判的センスに全てを賭ける人間である。つまり、安易な公式見解や既成の紋切り型表現をこばむ人間であり、なかんずく権力の側にあるものや伝統の側にある者が語ったり、行ったりしていることを検証もなしに無条件に追認することに対し、どこまでも批判を投げかける人間である。ただ単に受け身の形で駄々をこねるのではない。積極的に批判を公的な場で口にするのである。

3)これは知識人の使命を政府の政策に対する批判者に限定することではない。むしろ、絶えず警戒を怠らず、生半可な「真実」や容認された観念に引導を渡してしまわぬ意志を失わぬことを、知識人の使命と考えるということだ。こうしたことは揺るがぬ現実感覚をどこまで持ち続けられるか、合理性を求める体力をどこまで維持できるか、そして、公的な場で出版したり話をしたりする活動の中で、自分自身を見失わずにバランスを取りながら、どこまで奮闘できるかにかかっている。言い換えるなら、知識人の使命とは、つねに努力すること、それも、どこまで行ってもきりのない、また、いつまでも終わらない努力を続けるということだ。

知識人の使命にまつわるこうした奮闘努力と複雑さは、たとえ使命を全うしたからと言って、とりわけ人から好かれるわけではないにしても、少なくとも私にとっては、知識人の使命をいっそう豊かなものにしてくれる要因なのである。