毎日がちょっとぼうけん

日本に戻り、晴耕雨読の日々を綴ります

日本人であることの恥  2011年5月31日(火) No.140

2011-05-31 18:34:51 | 中国事情
 上っ面ばっか、ウソばっか、形式ばっか。想像力枯渇ばっか。どうしてこうなの?日本は。日本を動かしているのは最悪な人たちだ。最高裁の日の丸君が代起立強制合法判決。「もう日本はいい!どうとでもなれ!」と言いたい。とは言っても、はあ~、私は日本人なんだ。
 最高裁判決の間違いは、公務員にも、生まれ育った人生があり、一人の人間であるということを否定したことだ。「公務員の思想信条に制約を加えてもいい」という判決は本当に恐ろしい非人間的な判決だ。
さらにそれに賛成して誰かが「卒業式や入学式でのマナーも守れない人に教育はできない」と書いていたが、まさに思考の凍結が進展している証左だ。君が代で起立しないのは「マナー違反」!?
人間が「なぜ」「どうして」を放棄すると、本当に堕落するというサンプルだ。

 底浅い思考回路は、許容範囲の狭い社会と表裏一体をなす。
それを、ここ中国で感じる。20歳そこそこの学生たちは、ひたすら生きることの善なることを信じ、とても大らかだ。綿密さに欠けるとか、年間スケジュールが何故ないのか、とブツブツ文句を言いつつ、実は私は、それは、そんなにたいしたことじゃないとも思っている。臨機応変、自分の能力をその時、その時フル回転させて生きている人たち。それと同時に、他人への寛大さを感じる。懐が深い。ルールが細分化されている日本では、非難されそうなことも、ここでは、「うん、それもありです。人生の1ページですから。」なのだ。
 
 中国では、国旗・国歌は小学校から徹底して教えている(小三以上は国歌が歌えること、とか)。しかし、足並みそろって行進する雰囲気は全然学校にはない。(大学入学の軍事訓練のときだけ、プロの軍人が大学に来て、行進させている。しかし、学生達はそれも一時の経験として、あとで面白おかしく話すのだ。)むしろ、私の印象では一人一人バラバラで構わないという雰囲気が小中学校をのぞき見て感じられる。「大切なのは、勉強だ。他は本当に二の次というかどうでもいい。」と大学生達は高校までの生活を振り返る。
そういう国と、日本のように、あらゆる事を細かく制限し、ルール化し、はみ出さない人間作りをやってる国とでは、国旗・国歌を徹底させたときの影響は大きく異なる。日本人は、無駄なく効率よく集団主義的に一つの方向に纏まっていくだろう。
 すでに、ずいぶん以前から腐ったメディアによる方向制御が行われている。ここで一緒に纏められて行くことを拒否するには、想像力が必要だ。あてがわれたことだけで思考を回して行くのではなく、見えないものを見、聞こえないものを聞く感受性が必要なのだ。
 今日のタイトルは、辺見庸さんの「生きていることの恥」をちょっともじってみたんですけど、今の実感です…。
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とぐろ巻く日本  2011年5月29日(日) No.139

2011-05-29 22:49:00 | 日記
 ちょっと離れたところから見える日本は今、大渦巻きにグルグルかき回されているようだ。
福島原発に始まるあちこちのボロ原発の不穏な情報もある。さらに地震・津波の被災地で、懸命に立ち上がろうとしているその時、大阪府知事の橋本さんは、「式典で君が代を歌うとき、起立しない職員を罰する」という条例を定めようとしていると聞いた。
 日の丸・君が代に関して、「日本人なら当然でしょ!イヤなら出て行け。」「公務員のくせに国が決めた法律を守らないのは話にならない。処分は当然だ。」という発言は、日本に居るときから耳にタコができるほど聞いた。そして、聞く度に(ああ、どっか行きたい。こんな国イヤ!)と思ったものだ。

 日本はどうしてここまできれいサッパリ過ぎ去った当時の事情を無視することができるのか。日の丸・君が代が国旗・国歌として法制化された1999年8月の暑苦しい日のことを、私はちゃんと覚えている。
ちょうど当時18歳の息子がオーストラリアから戻った日のことだった。息子は帰って来るなり、
「日本は滅びる!」
と叫んだので、てっきり国旗国歌法案が法制化されたことを言ったのかと思い、
「ええ?さっき国会で通ったばっかりなのに、もう知ってんの?」
と驚くと、彼が言いたかったのは「国が滅びるほどの暑さだ。」と言うことでした…。

 そんなことはどうでもいい。国旗国歌法案が通過したとき、「敬意を示すことは強制できない、しない。」ということがその時の確認事項だった。何故そんなことを覚えているかというと、訳がある。

「日の丸」については、兵隊として戦争にかり出された庶民を送るとき「死んでこいよ!」と言って振られていたのがこの日の丸の旗だ。私には戦争グッズの一つとしか思えない。母の兄が北海道の斜里駅で、まさにその通りの言葉と旗で送られ、言われた通り死んで帰って来たことを、母から聞かされている。
 ここ中国に来て、日中友好を前向きに考えている学生から、
「日本はどうしてドイツのように自国の侵略戦争について反省しないんでしょう。ドイツではハーケンクロイツのドイツ国旗をやめたのに、日本は続けていますよね。」
と言われたことがある。日本の反省については、戦後50年の節目に当たっての村山談話を伝えると、一様に「そうですか。それは知りませんでした。」と驚く。しかし日の丸については、こちらも言い訳しようがない。日本に侵略された国々から見れば、日の丸とナチスドイツの旗は同じ意味を持つのだから…。
「君が代」はどうひっくり返っても天皇制礼賛ソングだ。私にとって、それらは従来「敬意」ではなく「嫌悪」の対象だった。
法制化されたと聞いて、(ああ、明日から教師やっていけない…。)ド~ンと暗く沈んだ気分になった私の耳に、時の総理大臣小渕恵三さんが、慰めるように「国旗掲揚とか国歌斉唱とかは強制しません。」と言ったので、(じゃ、まだ仕事やっていけるかも)と、暗闇の中に一縷の光を感じた言葉として心に刻印されているのだ。それはたかが当時の総理大臣の個人的独り言ではない。日本の立法府の頂国会での答弁だ。法制化反対の国民の声が根強い中の強行採決だったので、小渕さんは(ごめんね~、無理言って~)ということで配慮を示したのだと理解している。こういう事情があったという事実は、12年経っただけで簡単に反古になるのだろうか。

 「日本人なら、国旗・国歌を尊重して当然だ。」という短絡的発言は、「日の丸・君が代」をめぐる議論の経過を全く無視した発言だ。「日本人つったって、いろいろ考えあるんだよ!自分の狭苦しい考えだけが正しいと思うな。バー○!」と言いたい。ものごとの歴史とか経過とか無視して、現在ある姿だけ見るのでは、表層しか捉えられない。こう考えてみると、中国人が60年以上前のことを昨日のことのように覚えているということは、とてもすごいことのように思える。忘れっぽい一部の日本人たちに、爪の垢を煎じて飲んでもらいたいですね。
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お茶会   2011年5月28日(土)  No.138

2011-05-28 07:13:50 | 中国事情
 月曜日、右耳後ろに刺すような痛みを感じ、翌日も翌々日も続いた。初め、風邪がぶり返したのだろうと考えていたが、葛根湯を飲んでも、バファリンを飲んでも治まらないその痛みに(脳の中に異変が起きたのかも…)とすら思った。昨年、66歳で亡くなった佐野洋子さんのことがふっと頭に浮かんだりした。彼女の死因は何だったのかな。
 しかし、木・金の最も充実した仕事日を向かえてアタフタしているうちに、頭痛は気にならなくなり、今朝は全く痛みを感じない。洟水、喉の痛みがあるということは、なんだ、やっぱり風邪か。長生きしたいとは思わないが、こんな中途半端な終わり方はちょっと拙い。できれば自然に包まれた隠遁生活でフィニッシュを決めたい。そんなことをぼんやり思った数日間だった。

 昨日、財経大学に岡田先生という日本女性が来て、茶道の基本的な形を手ほどきしてくれた。岡田先生は江西職業学院旅行ビジネス学部の日本語の先生だ。今回のお茶会も、彼女が申し出てくれたので実現できた。財大の学生達は、この茶会を「いつもの日本語コーナーに、職業学院の学生達も来て交流する」と思い込んでいたようで、岡田先生が一人(2年生のお出迎え係に連れられてだが)、キャリ-バッグにお茶の道具を詰め込んで登場したのを見て、初めて、自分たちだけのためにわざわざ来て下さったことを悟り、感激した。
 午後4時半から始めたお茶会は、1年生、2年生、3年生といつになく多彩な顔ぶれがそろい、ピーク時には50人を越え、廊下で立ち見も出た。お馴染み東華理工大学の学生達も村岡先生に連れられて参加してくれた。
 驚いたことには、学生達は茶道の知識がかなりあった。私が忘れきっていたお茶の道具名がスラスラ出て来る。どうして知っているのか聞くと、「インターネットで調べた」と言う。2年生は今『日本概況』という科目があるので、室町時代も茶道も華道も勉強しているそうだ。クルクル(舌を巻く音)。
 岡田先生が、浴衣の着方、帯の結び方も実演してくださると、乗りやすい学生達から盛んな拍手。さらに「先生、ポーズしてください。」と、皆携帯をかざして、さながら撮影会の様相を呈した。若くてきれいな岡田先生も、キュートに様々なポーズで応えたのは言うまでもない。
 隣の学校の村岡先生、ちょっと遠い学校の岡田先生、と頼もしい日本人教師の二人に出会えて本当に良かった。こうして日本人教師チームみたいなのが作れて、お互いに色々な場面で助け合えたらいいな、と
思う。芸のない私は助けられる一方であるが。

 今回の会場は、当初、狭い資料室を使う予定だった。しかし、いつもの3年生のメンバーが、向かいの自習室の方が広くて良い、と言う。その自習室は、半分壊れた机椅子が散乱し、机の中はゴミだらけ、どこもかしこも埃だらけ、何百匹もの蚊の大群、とまあ、荒れ放題の状態でとてもじゃないが『わび・さび』の美を表現するに相応しくない。そう言うと、彼らは前日、寮から掃除道具を持ってきて、黄さんの指図の下、あらビックリ!こんないい部屋だったの状態に整え、さらに折り紙でチャッチャとディスプレイまでやってくれたのだ。彼女たちの面目躍如というところだ。普段勉強、勉強で忙しい彼女たちは、日本語コーナーも「人数が足りない!」というときしか参加しないが、必要なときには何も言わなくても頭を働かせ、機敏に動いてくれる。こういう子達は、どんなことがあっても自力で人生を切り開いて行くんだろうなあ。
 当日は、最近体調を崩して元気がなかった陳さんも、一時間前にやって来て「先生、準備しましょう。」と言う。他にも2年生、3年生が何人も来て、きびきびと働いてくれる。これが中国を引っ張っていく力だ。中国が元気なわけだ。

 岡田先生が浴衣を脱ぎ、たたみ方を示しているのを見ながら、3年生の黄さんが、
「これを自分で作ることはできませんか。私たちはこれを着て卒業したいです。」と言った。来年だ。ひょっとしたらできるかも知れない。生地と糸とミシンがあれば。作り方も知らないクセに、すぐ安請け合いしたくなる私だった。

 
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ボツ原稿   2011年5月25日(水) No.137

2011-05-25 09:37:09 | 中国事情
 あと一ヶ月も経たないうちに油照りの南昌の夏が来るのが想像できない今日のうすら寒さ。20℃にもなっていない。今日だけ見れば長春より低温だ。廬山から帰ってすぐに引いた風邪が一ヶ月、治りきらずにぐずぐずしているのは、この変わりやすい天候のせいだと思う。

 この前の号でスピーチコンテストの話を書いた。選考会で惜しくも落選した陳さんのスピーチ内容をほぼ全文ここに載せる。彼は、この9カ月の私の授業の中で、常に一生懸命話を聞き、坂本九の「上を向いて歩こう」を律儀にメモし、趙博さんによるその替え歌詞「涙がこぼれたっていいじゃないか~」に目を輝かせて頷いていた子だ。(これを読むと「いったいどんな授業をしているんだ?」という疑念が湧くかも…。たまにね、ほら、余談とか。)
彼のスピーチ原稿には、私もなにがしかの責任を感じている。(「いいね~!これ。」とか褒め称えたし。)それが日の目を見ることもなく、ゴミ箱に捨てられるのは残念だ。せめてこのブログで紹介したい。言いにくい歴史問題にも勇気を持って触れた彼の気持ちを意気に感じて、誰か彼を「日本一週間招待」とかしてくれないかなあ…。


 「中日友好のために自分ができること」 (陳○○)

 皆さんは日本語学科の学生になったばかりの時、「君は、なぜ日本語を勉強するのですか。」と、よく質問されたことでしょう。私は、初め、単純に日本語に興味があって、翻訳者になりたかったのですが、時が経つにつれて、自分が他にもっとすべきこと、そして、もっとできることがあると感じるようになりました。

  先学期、私たちは日本の方から手紙をもらいました。宿題としての返事に、私はつい『日本は歴史について、よく反省していなかった』と書きました。そしてその三日後、先生は宿題のノートの間に、村山元総理の謝罪声明の資料を挟んで返してくれました。その資料を読んだ後、『そうか、日本は正式に謝罪したことがあるのか』とびっくりしました。

 中日交流のもっとも大きな壁は、やはり歴史問題です。この壁を取り除くために、一番大切なのは、政治家だけではなく、私達のような、相手の国の状況をよく理解する者一人一人の存在です。私は、中日交流の橋を造るために、たとえひとつの小さい石であっても、それになれるとしたら幸いです。
 一年生の時、日本語の先生は私達に中国の地図を書かせたことがありました。残念なことに皆が描いた地図は間違いだらけでした。先生はあの時こう言ってくださいました。『他国を理解するために、まずは自分の国のことを理解すべきだ』と。今考えて見ると、その通りだと思います。中日交流に、今私ができることは、まず、自分の国のことをしっかり理解して、きちんと日本の方々に伝えることだと思います。

 私は今、日本語ガイド試験の準備をしています。ガイドになるために、まず中国の歴史や風俗習慣など、様々な知識を得なければなりません。将来もし私がガイドになって、チャンスがあれば、ぜひ日本の方々に自分の国のことをよく伝えたいと思います。
 中日交流について、私達日本語学科の学生は、有利な条件を持っています。それは日本語です。三年生の私は、自分の責任を強く感じています。日本語の勉強を通じて、より一層日本を理解して、我が国の皆さんがまだ知らない、知るチャンスがない日本のことを伝えることが、もう一つのすべきこと、またできることだと思います。

 この間、私は日本の作家、妹尾河童が書いた『少年H』という小説を読みました。この本を通じて、私は初めて、中日戦争の間の日本の庶民たちの生活を理解することができました。あの時代の庶民たちにも、中国人のような悲惨な運命があったことは、たぶん中国の皆さんはほとんど考えたこともないでしょう。私はこの小説を読んでいるうちに、自分の歴史についての認識が、以前より深くなりました。しかしながら、中国では、このような本はあまり出版されていません。もしこの本が中国語に翻訳されて、たくさんの中国の皆さんが読めば、過去のためにお互いを敵視する人は少なくなるでしょう。

 日本語は中日交流を前進させるために、便利な条件であり、壁を取り除く強力な武器であります。交流を円滑に進めるためには、日本語を上達させなければなりません。こう思って、私は今学期、隣の学校と行った合同日本語コーナーに、積極的に参加しました。そしてまた今回のスピーチコンテストに参加するために、ここに参りました。

 中日両国人民の友好往来は2000年以上に渡っています。中日交流の歴史を知るのも、わたしにとって、一つのできることだと思います。1972年中日国交正常化が実現されました。今、歴史を鑑とし、新たなスタートラインに立ち、真摯な期待を抱いて、未来へ向かう。
わたし、そして私たちは、これが必ずできるはずです。
 平凡な私にとっては、中日交流について、できることはどう見ても限られていますが、微力ながらも、自分なりに貢献したいと思っています。もし皆も中日交流のために、一つの小さい石になれば、きっと中日の間に、しっかりとした友情の橋が作られると信じています。
 


 こんな志を持つ若者が、世間の垢にまみれ、くちゃくちゃにされないように、わたしら年寄り達が守ってあげなくちゃね!
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学生とお喋り   2011年5月23日(月)  No.136

2011-05-23 22:32:04 | 中国事情

 やや寒い。寒がりの範さんが冬のジャケットを着て資料室にやって来た。
「ずっと向かいの自習室で勉強していて、寒さでびびりました。」
と言うので、
「何か恐ろしい時にびびるのであって、寒いだけならただ震えてください。」
と言うと、
「いや、寒さだけじゃなくて、蚊も多いのでびびったんです。」
と言い返す。ああ言えばこう言う子だ。言葉がポンポン出て来るのが面白い。彼女の夕食は、キャンパス内のパン屋さんで買った薄切り食パンだ。胃腸が弱いので、夕食を学食でガッツリ食べると、夜に胃炎を起こすのだそうだ。
しかし実は彼女は、たいへんな食いしん坊だ。廬山から下りてくる日、朝食に廬山の食パンをすごい勢いでパクパク食べ、バスでつづら折りの坂道をおりてくる時、全て吐いてしまったり、私の宿舎でご馳走したカレーライスを4杯食べて、寮で胃炎のため七転八倒の苦しみを味わったりしている。それでも彼女は懲りない。

 範さんと、スピーチコンテストの学内選考の話をした。
彼女や他の数名は、学内選考が平等でないと感じていて、落ちた級友を気の毒がっていた。(やっぱり…。そう感じている子はいるんだ。)と内心嬉しかった。
楼さんが悪いわけではない。彼女は必死でやれることを全部やっているだけだ。問題はスピーチコンテスト自体が、いくらテーマで「中日友好のために自分ができること」を取り上げても、なんか口先だけって感じがするのだ。肝心の中国人教師達がどこまで真正面からその課題に取り組もうとしているか、微妙な雰囲気を感じる。日本語学科の老師達は、中日友好、草の根文化交流を言い続ける。しかし、政治的なこと、例えば日本の村山元総理が1995年にアジア諸国に対して謝罪した、ということなど、きっとスピーチで言われたくないのだ。今回、真正面からそのことを取り上げた陳さんは、日本語力においては非常に優れているのに、学内選考で落ちてしまった。
 範さんは、「スピーチコンテストの内容は、軽い方がいいんです。発音や声の大きさとか、パフォーマンスが重要です。」と言う。それにしても、陳さんがそれらの点で劣るわけではない。自然な発音、アクセント、語彙量の豊富さ、機転、どれもいい。
「これも人生の中の1ページです。」と他の子が言う。そう思うしか仕方がない。日本語学科の老師たちの本音を知りたいと思うが、知ったらガッカリするかも。

 陳さんは、選考ではずされた夜から調子を崩してしまった。超気の毒…。

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特訓開始   2011年5月22日(日)  No.135

2011-05-22 18:03:58 | 中国事情
 今朝、ベッドで目覚めたものの(外で鳥がさえずりだしたら起きよう)と、ダラダラ寝転がっていた。薄暗いので未だ明け方かと思い、しばらく目を閉じていたが、それにしては身体が「もう十分寝た!」と警告を発している。起き上がってカーテンを開けた。雨だった。すでに水たまりができていて、そこに落ちる雨粒の輪が見える。道理で鳥が鳴かないはずだ。久しぶりに一日中雨だった。気温16℃。

 江西省日本語スピーチコンテストに出場する3年生の楼さんに、先週から特訓を始めた。彼女は財大の大学院を目指している。もし、このコンテストに入賞できれば実績として認められ、進学に有利なのだそうだ。彼女は他にも優良学生賞、優秀共産党員賞なども得ている。学力が優良なのではない。学生活動家として優良なのだ。そうしたことが進学に影響するのがいかにも中国らしい。
 学内選考の過程ではいささか納得できないこともあったが、中国の教師達が彼女を学校代表として選出したのだ。私が今できるのは、彼女のスピーチ能力を上げることだけだと思っている。

 たまたま、上海の日系企業(楽天)で働いていた4年生の李さんが、卒業準備のために帰校し、久しぶりに我が宿舎に遊びに来た。律儀にお土産を忘れない。彼女は、上海に行く前、私に「先生、これから寒くなりますから…。」とあのヒトデ型暖手器をプレゼントしてくれた子だ。抜け目がないと言えばそうだが、(中国の子たちは、自分の人生を切り開くために自分なりにあの手この手を考えているんだなあ)と感心したものだ。彼女は、財大大学院への進学が決まっていたが、学費捻出のために上海へ、いわば出稼ぎに行ったのだった。私のクラス「商務日語」に出られないが、こうこうこういう訳で…、と訴えられたら、肯くしかない。「商務日語」の実習としてレポートを提出することを条件に許可した。こう書くと何か偉そうな感じだが、本人が許可を求めに来たので、許可したのだ。黙って北京に引っ越して、一度も授業に出ない子もいた。4年生になると、そんなことが当たり前のようだ。

 実は、3年の楼さんは、今、この李先輩に倣って、先輩の道を必死で追いかけている。半年前はボーイフレンドの郭さんとともに日本留学することを夢見ていた楼さんだが、お金の出所がなくなった。郭さんだけ日本に留学し、自分は夏休み短期留学することに切り替え、自校の大学院に進学することにしたのだ。いくら自校だからとは言え、大学院進学はやはり難しい。しかし、外国語学部(英語学科・日本語学科)で一人だけ推薦で入学できる。李さんがそれだ。そして後輩の楼さんもそれを目指している。優良共産党員も優良学生もひたすらそのためなのだ。

 学生達の下心丸出しのがんばりは、見ていて舌を巻く。13億人の人間で溢れかえっているこの国では、なりふり構っちゃ生きていけないんだなあ、と思う。楼さんの将来の夢は、日本料理店を経営することだ。未熟ながら私が彼女の師範となって、日本料理の手ほどきをしている(いや、ホンマ)。彼女のスピーチ内容は「食べ物がつなぐ中日の架け橋」だ。 
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一年男子の昼食会   2011年5月21日(土)  No.134

2011-05-21 18:42:48 | 中国事情
 変わりやすい南昌の天気。今は夕方6時45分だ。外は数時間前からかなりの強風が吹き始めたので、土埃が入らないよう全ての窓を閉め切った。昼過ぎまでは30℃ぐらいの気温で太陽がギラギラと照りつけていたのに。

 今日の昼食会は、一年生の男子がまもなく別れ別れになるので、その前に記念の昼食会をすることにし、そこに私がゲストとして招かれたのだ。最も日本語が達者な黄君が電話してきて、一緒に宿舎の近くのレストランに出かけて行った。一年生は女子30人、男子は全員でも10人しかいない。しかし、その少ない10人のうち数人が二年から学部を変わるんだそうだ。

 中国の大学では、希望外の大学や学部、学科に配属されることは、非常によくあることだ。毎年日本学科に入ってくる学生の何人かは、不承不承、嫌々、泣きながらの人たちだ。「断ったらどうなるの?」と聞いたら、「ランクを落として別の大学に行くか、浪人します。」とのこと。四年間、目をつぶってやり過ごそうと決意してくる学生もいるが、二年に進級する際、他学部に変わるチャンスが一回だけ与えられる。
 私が参加する会において、三年生の楼さん(一年生のアドバイザー)抜きに一年生が自分達だけで企画実行したのは初めてだ。
今まで彼らはいつも「日本語が話せませんから~。」と、楼さんの後ろにくっついて来ていたのだ。(とうとう、自分たちだけで一歩を踏み出したんだなあ)と、嬉しくなった。もう電話もメールもちゃんと日本語でしてくる。半年で、赤ちゃんから小学校低学年ぐらいまで成長した。(もちろん日本語についてのことだ。)朝から晩まで日本語を勉強しているといってもすごい成長だ。
一年の授業は二年生~四年生より6週間遅れて10月第2週からスタートした。その前の6週間は軍事訓練の期間だった。炎天下、ベッタリ張り付く汗を拭きながら行進したり、柔軟体操をしたりする姿を見て心から同情したものだ。長髪の女の子は髪を切らねばならない。訓練用の上下服は綿ではないので汗を吸い取ってくれない。まず、一回目のホームシックにかかるのがこの時期だ。
 そんなことを思いだしながら、豪華な四川料理と雪華ビール(北京のビールらしい。アルコール度2.5%)をを味わった。中国のお母さん達はほとんどビールを飲まないことが、今日もみんなの話で再確認された。日本でも、昔はそうだった。女性は人生の楽しみを、飲んだり食べたりじゃないものに向けていたのだ。ビール飲んでる経済的時間的余裕がなかったとも言える。それに引き替え、男達は中国でも日本でも、昔から自分の口を楽しませることに余念がなかったのだろうか。そう言っては身も蓋もない。酒類は気持ちをリラックスさせる効果があるので、コミュニケーションを円滑にする道具として、利用されてきたという方が、説得力がある。。
 今日も、18歳から20歳までの一年生の男達は、何回もビールを注ぎ合い、何回も「かんぱ~い!」を叫んで、交友を深めたのだった。ちなみに、話題になった中で、「日本のスターでとても人気があるのは誰?」と聞いたら「酒井法子」「SMAP」と返事が返った。一人マイケル=ジャクソンが好きでたまらない董さんだけ、「マイクは日本に行きましたね。本当に羨ましい。」「中国には一度も来ませんでした。もう、永遠に彼に会えない。悲しいです。」と切々と思いを述べ、ついでに何の歌か忘れたが、お馴染みの歌を歌ってくれた。そう言われて、振り返ってみればマイケル=ジャクソンもスゴイ人の一人だったなあ…。 
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南昌にしては爽やか  2011年5月19日(木)  No.133

2011-05-19 20:01:45 | 中国事情
 「南昌にしては爽やか」などと書くと、もう南昌歴幾星霜みたいだが、まだ9ヶ月足らずの生活だ。
昨年8月末に当地に来て以来、「今年の秋は南昌にしては珍しく1ヶ月続きました。」「今年の冬は南昌にしては暖かいです。」この4月も「南昌にしては雨が少ないです。」と、何回も聞いている。ラッキーなことに、私が来て以来「南昌にしては」過ごしやすい気候が続いているようだ。

 今日、午後4時ごろは体感温度27℃ぐらい、少々汗ばむものの、風も時折さらさらと楠の葉を撫でて通っていく。南昌郊外のこのキャンパスには、楠がたくさん植えられている。葉っぱをちぎると良い香りがする。日本の本州関東辺りは、薫風がそよいでいるのだろうか。こちらもそんなに引けを取らず、爽やかな向夏の候である。

 3時過ぎに麦廬園キャンパスから宿舎のある本部(ジャオチャオ)キャンパスまで、スクールバスの乗って帰ろうと、楠並木の一角のゴミ箱(これがバス停の代わり)の傍で待っていた。来ない。こういうことは頻繁にある。他に待っている人たちはペチャクチャ話に夢中で、バスが来ないのも気にならない様子だ。
 私は、10分ほど歩いて北門まで行き、そこで10人乗りバン(学生達は「タクシー」とか「ミニバス」と呼んでいる)に乗り、ジャオチャオまで帰ってきた。そういうことを、腹を立てたりせず淡々とこなせるようになってきた。
 ミニバスから降りると、タンクに「緑化酒水車」と書かれた水撒きトラックが、優しいケイナの音色のような音楽とともに通り過ぎていった。ホッとする音だ。何となく気を引かれて見送ると、何と、タンクの後ろには、男の人がホースを持ってへばりついていて、機械じゃなく、彼がホースで沿道の木に水を撒いているのだった…。(今日のスゴイ大賞だな)と感心しながら、宿舎に帰った。
 部屋に入り、朝ベランダに干した草履を取り込むため、戸を開けて出ようとすると、蜘蛛の巣に引っかかった。朝から夕方5時の間に、もうそんなものがかかっているとは。これも、ちょっとスゴイ。
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蟻さんたち   2011年5月18日(水)  No.132

2011-05-18 21:58:08 | 中国事情

 今日の午前中でテスト作りが終わった。
1科目につき3種類作り、そのうち1種類だけを実施する。一生懸命作ったうちの2種類がボツになるので、作る私はイラッとするが、これも不正防止のためだそうだ。テストでの鉛筆・シャーペン禁止といい、あの手この手で不正防止を考えている。逆に(ここではそれほど不正が多いのか~)と思ってしまう。うん、多いのだ。
 テスト作成は、面白い問題が作れたときにはルンルンするが、ビジネス文書関係の問題などを作っているときは、すぐ飽きたり、何か飲みたくなったり、そわそわ落ち着かない。我慢して我慢してパソコンに向かうが、どうしても嫌になると、気分転換をする。

 その気分転換というのは、蟻退治だ。先週くらいから、台所、バスルームにかなりの蟻が出没するようになった。台所の蟻は2種類。小さく影の薄い、人差し指でチョンと押さえたらもうおしまいという存在感希薄なのと、黒くてちょっとだけ大きいサイズのだ。トイレに出るのはちょうどその中間のサイズでやや茶色。数的にはトイレに出て来るのが一番多い。トイレの壁と床に隙間があり、そこから次々とはみ出してくるのだ。初めは、箒で掃き、トイレに流していた。ふと思いついて、セロテープに貼り付けてみた。箒だと、箒の先に紛れて難を逃れることができた蟻も、セロテープ攻撃の前にはなすすべがない。テープの粘着性によって、あっという間に絡め取られ、テープ上でもがいても離れて逃亡することは不可能だ。それを見ている人間の私は、どうしてだろう、何だか楽しくさえあるのだ。

 昔から、蛾の標本を作ってみたり、殺した蚊を並べたりするのが好きだった。虫が嫌いなのではない。並べて見るのが好きなのだ。先日も、職場の資料室に異常なほど蚊が出没するので、パチパチ叩いて殺した後、紙の上に並べ、窓際に置いて授業に行った。
 戻って見たら、あらら、蚊が全部消え去っていた。
(3年の範さんか黄さんが来て、捨てちゃったのかな?)と思ったが、紙だけは、私が置いた通りの場所から1ミリも動いていなかった。不審に思い、私はまた、苦もなく3,4匹の蚊を殺して最前の紙の上に並べ、そのまま学生のノートチェックに取りかかった。30分ぐらい経っただろうか。ふと、顔を上げて見てたまげた!
 紙の上には15匹~20匹の蟻が寄ってたかって蚊の死体を食いちぎるというのか、とにかく群がっていたのだ。窓の外から匂いを嗅ぎつけてやって来たに違いない。まもなく蚊の全てをちぎって運び終わったのだろう、紙の上には何も残っていなかった。蟻もみんなどこかに消えた。(すごい!)野生の世界がこんなところにも…。

 トイレや台所に出没する蟻を殺すことは、褒められたことではない。
私はときどき、自分が生まれ変わって今度は何になるのか想像するのだが、蟻になったらどれほど短命なことだろう。どう猛な巨人がセロテープでいたいけな我が命を、苦もなく抹殺するのだから。
ところで蟻のあとは何に生まれ変わろうかな。

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一日が早い     2011年5月15日(日) No.131

2011-05-15 19:11:08 | 中国事情
 津波が気仙沼湾を襲ったときに気仙沼住民が陸側から撮った動画を、今日、さっき初めてつぶさに見た。あの日から2ヶ月以上経つが、津波関係の映像は恐ろしすぎて到底見ることができなかった。3月12日から数日見続けたCCTVの映像は空から撮ったものだったが、それを見ただけでも十分過ぎるほどだった。
映像には、声も入っている。「なくなったね。」「うん、なくなった。」東北の言葉は語尾が下がる。ボソッと言うその言葉にこみ上げてくるものがあった。

 今、学生達に作文コンクール応募作品を書かせている。「頑張れ、日本!~千年不遇の震災と闘う日本人に~」というテーマだ。何しろ最優秀賞は「日本一週間招待」だ。お金がない子にとってチャンスだ。でも内容を見ると、やっぱ入賞は遠いかも・・・。

 中には「百年不遇の震災とたたかう日本人の皆様へ」と、1ケタずれている子がいたり、福島の放射能もれニュースで中国の人々が塩の買いだめに走った時のエピソードを書いている子もいて、面白いことは面白い。
 塩買いエピソードというのはA、B、C、3人の学生のお喋りを文にしたものだ。
Aさんのお母さんは塩を30袋を買った。Aさんは「それ、多すぎるよ!」と親を諫めたが、Bさんはそれを聞いて「それはまだマシだよ。うちのお母さんなんか巨大ケース3つも買ったよ。」と恥ずかしがった。しかし、さらにCさんは「まだまだ。私のお母さんなんか300kg買ったんだよ。」と言ったので、A,Bさんは「それは偉いねえ。でも300kgはちょっと~。」と言葉が続かなかった、という話だ。なんだか、大阪の子達の話を聞いているようで、テーマは深刻なのだが、ふっと笑ってしまう。
 
その子の話のオチは、「どうしてお母さん方は、3に関係する数字が好きなのか?」だった。これでは入選は難しいと思う…。

 ときどき、すっと胸に入ってくる言葉もある。
「『頑張れ、日本!』と言うより、日本に駆けつけたい。言葉より行動だ!でも現実の私はこの作文を書くことぐらいしかできない。」
「私は唐山大地震の唐山出身。四川省の地震の時、唐山の人たちは、メチャクチャ募金し、メチャクチャ物資を送った。それでもなお自分自身で四川省に駆けつけたがった。「どうして?」と聞いたら、「四川の人たちの痛みが分かるから。それに唐山地震のとき助けてもらった。」と言った。今回の日本の震災のことも唐山のみんなは同じように感じている。」
「歴史領土問題など、両国には課題が多い。しかし、両国の関係は言ってみれば『離婚もできない夫婦』のようなものだ。離れたくても、地面は動かない。いくらいがみ合っても、隣国同士助け合うしか方法はないのだ。」
・・・・・・・
これ以上書くと盗作される心配は全然ないものの、審査員は東京にいるらしいから、我がブログを読んで「未発表じゃない!」と叫ばれてもいけないので、やめとく。

毎日、添付されてくる学生からの作文を読んでいると、あっという間に一日が終わる。テストも作らなきゃいけない。脂汗が出てくる。
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ゆったり水曜日   2011年5月11日(水)  No.130

2011-05-11 23:27:37 | 中国事情
 朝7時半にオフィス前に行くと、既にお馴染みになった運転手さん(名前をまた忘れた~。中国語の名前は本当に覚えづらい。短いし、似たり寄ったりだし…)が、バンを横付けして待っていてくれた。
すぐに出発。市内までいつも約40分はかかるので、内田樹の「ひとりでは生きられないのも芸のうち」(文春文庫)という長い名前の文庫本を持って行った。スイスイ読めるし、ナットクだし、これはいい本を買ったわい。送料が中国だから大変とは言え、「日本に帰るまで辛抱我慢」ばかりしているので、たまに爆発して、ついとりよせてしまう。

 読み進む暇もあらばこそ、今日はなんと20分ぐらいで市内についてしまった。そんなに飛ばしていなかったのに。しかし、市内はさすがに込んでいる。(よく事故に遭わないでみんな暮らしているなあ)と感心する、ものすごい突っ込み。ずっとクラクションを鳴らしながら通るピカピカ新車の憎たらしいのが追い抜いていくが、我がドライバーさんはベテランの風格で、そんなのにいちいち反応しない。
 私がベトナム風乗り物みたいなのを見つけて「あれな何ですか?タクシー?」とか珍しがって聞くのにも、きちんと答えてくれる。
 車の合間を縫い、たくさんのバイクが走っている。自転車はほとんどみられない。親子2人、家族3人乗り、大人ばかりの3人乗りなど、50ccぐらいのバイクは大活躍だ。一人くらいポロッと落ちそうだが、そういうこともないみたいだ。

 保健所には8時過ぎに入った。空いている。受けつけ、写真撮影、採血、検尿、レントゲン(顎のせをメチャ高く設定するので、首吊りそうだった…)、心臓、視力、色覚、血圧など全部終わったのが8時半過ぎ。ドライバーさんが、通訳となってちゃんちゃん案内してくれたので、安心だった。視力検査では、私が読めない数字を、「5」、「7」と英語の小さい声で教えてくれる。もちろん検査員さんに叱られた。

 午前中いっぱいかかるかと思っていたが、なんと宿舎に戻ったのが、9時5分。オフィス2階に建て替えたお金を請求に行くと、ドライバーさんも一緒に上がってきて、早く仕事を片付けたことをかなり自慢していた。中国語は分からないのに、表情やらで何もかも分かる。

 というわけで、健康診断用に時間を取り、あれこれキャンセルしていたので、すっかり時間ができた。やれ嬉し。と言っても作文、作文。それに、テスト作りだ。ああ、目がかすむ。左腕が再び腱鞘炎ぽくなってきた。指まで痛い。この辺で今日はおしまいだ。
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健康診断   2011年5月10日(火) No.129

2011-05-10 18:01:01 | 中国事情
 「日本人の先生に健康診断をするので、都合のいい日を指定してください。」
と、私をサポートする係のシンペイ老師から電話があった。その時、自分の頭に駆け巡った想念は我ながら(よくそんな風に考えられたもんだ)と、後から振り返って思ったことだ。

 まず、「日本人に健康診断」という言葉で、(なに?日本人だから放射能汚染されているとでもいうのか!)という疑念が湧いた。
「それは急ですね。日本人だけですか?放射能汚染とか検査するんですか?」と聞くと、
「いえ、いえ。外国人の先生、全部です。」
と言うので、一応希望日時を伝えて電話を切った。その後、自分の部屋で何回も(さっき、確かに『日本人の先生』と言った。おかしいな?)という考えが頭をもたげだした。まさか国家が命令して日本人だけ放射能汚染の検査を秘密裏に行おうとしているのでは?もしそうだとしたら、人権問題だ。ズバリ、日本人狩りだ!)・・・・・・・
どんどん勝手に想像が走る。(他の外国人教師が検査しないのであれば、私も絶対そんな検査は受けない。すぐに日本に帰らしてもらいまっさ。)と決意した。

 結果、他の国から来た教師達も受ける定期健康診断だった…。ビクトリアに聞いてそれが分かり、かなりホッとした。が、その後は、ちょっとしたことで自分の心があっという間に疑心暗鬼状態になったことが、ちょっぴり恥ずかしかった。心のどこかで(中国では日本人個人はどんな目に遭うか分からない、油断してはいけない)と思っていたんだなあ。
 管理人のミズ劉やミズ呉をとてもいい人達だと思い、大学の先生や学生たちの熱いもてなしに感激していた自分の中に、すぐに人を疑う心や、日本の放射能汚染でいじけてしまった心がまぜこぜに存在していたんだ。アカン、アカン…。

 明日は健康診断。朝7時半宿舎出発。南昌市内まで交通渋滞になるから早めに出かけるそうだ。確かに江西省南昌市でも、自家用車で通勤する人がとても多い。農民ではないと思う。運転している人たちは日に焼けていないから。渋滞状態を見て、中国は人口が多いということが再確認できる。
 シンペイ老師も昨年末にベンツを買い、現在自家用車通勤だ。「人生の楽しみですから。」とニコニコ笑う。(そうだよね。一通り体験したら、もう要らなくなるかもしれないけど)と心でつぶやく。自分がお婆さんになってきたからか、日本社会が年取ってきたからなのか、そんなにモノは欲しくなくなっているのを感じる。
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作文コンクール   2011年5月8日(日)  No.128

2011-05-08 22:24:27 | 中国事情
 日中交流研究所(東京豊島区「日本僑報社」内)主催の中国人学生による日本語作文コンクールがもう何年も行われている。協賛は株式会社「ドンキホーテ」と書いてあるが、どんな会社かサッパリ分からない。お金をたくさん出してくれているのだろう。最優秀賞は「日本へ一週間招待」だ。日本大使館、日中議員連盟や人民日報なども後援に名を連ねている。

 私の受け持つビジネス作文クラスでそれに応募することにした。テーマは震災前は別なのがあったのだが、震災後、「がんばれ!日本」が加わった。5月末の締め切りに間に合うよう、早く書け書け、とせかしていたのに、今ごろになって、ようやく作品が集まりだした。集中したら添削したくないので、早くして欲しかったのに、案の定、このざまだ。昨日から7人も8人も作品を送りつけるので、今日は一日作文添削とテスト作りで、パソコンに張り付いていた。

 気分転換は掃除と洗濯、それに布団干し。
午前中は好い天気で、また30℃前後の様相を呈している。かび臭い敷き布団を干してとても爽やかな気分になった。私が住み始めたときから既にかび臭い敷き布団(マット)だ。自分で布団を買ってもいいのだが、スーパーから持って帰るのが面倒だ。それに、既にある物を大切に使うことに抵抗はない。
昨日は、午前中に南側ベランダの網戸2枚を洗った。洗った後、(こんな色だったんだ!)と驚くほど清潔な白っぽい色になり、一ヶ月はこの色がキープされることを祈った。細かい土が毎日少しずつ堆積するベランダは、一週間放置すると、風が運び込む各種ゴミと相まってたいへん汚くなる。あんまり汚いと掃除するのが嫌になるので、毎週しかたなく掃き掃除とモップがけをしている。

 作文は、油断するとウッと涙が出そうになるものもある。学生が自分を正直に語る文に出会うときなどが、そうだ。紹介したいがコンクール応募作品なので、できない。落選したらバンバン紹介しましょう。さすが大学生、と思うのもあるし、日本の小学生とほとんど変わらないレベルのもある。これは日本語が上手下手ではなく、普段の思考力の差だと思う。
でも、作文を読むのはいいが、添削には本当に時間がかかる。今日は、朝から今まで12時間は添削しているなあ・・・。早くこの状態から抜け出したい。
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楼さん&郭さん   2011年5月7日(土)   No.127

2011-05-07 22:17:01 | 中国事情
 いつでも財経大日本語学科の学生たちは忙しい。月~金までは日本語のあれこれ(日本語会話、文法、聴解、読解、日本概況、商務日語、ビジネス作文…)がメインの授業だが、2年生から副専攻というのが選択できる。金融とか会計とか財経大学ならではのコースだ。ほとんどの子たちが1000元以上払ってその副専攻の諸科目を受けている。
それは土日と平日の夜が多い。さらに学生会の役員や共産党に入っている学生は目が回るほど
忙しいはずだ。それでもキャンパス内でもちろん授業も受けられ、食堂や寮もあるという便利?な生活なので、何とかまわっているのだろう。

 今日の午後はそうした大変忙しい学生の楼さんと郭さんが家に来た。というか、来てもらった。朝、7時過ぎまではインターネット接続できていたのに、8時前にメールを送ろうと思ったらあらま、どういう訳かできないではないか。昼までは何とかなるかと回復に望みをかけたが、一向につながらない。困ったときの郭さん頼みで、電話して来てもらったのだった。

 なぜ楼さんまで来るのかと言うと、私の宿舎のある本部の体育館で午後、楼さんは学生会の役員の一人として外国語学院バスケットボールの試合に参加し、ボーイフレンドの郭さんはその応援で本部に来ていたのだ。その試合後二人は仲良くやって来た。試合は一生懸命頑張ったが負けたそうだ。
今日は多分30℃前後の気温だったと思う。汗だくでやって来た楼さんは洗面所で顔を洗い、その後すぐに私と郭さんの前でコンパクトを出して眉毛を描き始めた。楼さんの化粧法は眉毛を細く剃り、丹念に書き込む和風タイプだ。3年生で楼さん以外にそこまで化粧をしている子はいない。冬休みにお土産として大阪で買ってきた「泣き顔が似合うアイライナー」とかいうのをプレゼントしたら、本気で喜んでくれた。

 私と楼さんが夕食の支度をし、郭さんがパソコンを直すという分担で、台所で豚肉の生姜焼きとポテトサラダ、キュウリの酢の物の準備に取りかかった。数分後、郭さんは「もう大丈夫です。」と台所にやって来た。原因は、この102号の部屋部屋の配線がメチャクチャで、それをあちこちいじったら、つながったという。私にはできないことだ。本当に郭さんはすごいな~。パソコンは子どもの頃からの趣味で自分勝手にいじっていただけというが、いじっていてこんなに何でもさっさとできるのが驚異的だ。パソコン関係の勉強をしに、日本留学を望んでいたが、この原発事故で、やはり家族がジワ~っと反対のオーラを発しているのだそうだ。親孝行な中国の子たちは、親の考えをとても尊重する。郭さんは、今日本留学をどうするか悩んでいるところだと言う。

 夕食は、豚肉の生姜焼き、ポークピカタ、ポテトサラダ、胡瓜の酢の物と2月に船便で送ったコシヒカリのご飯だ。豚肉でも鶏肉でも、日本のスーパーのようにスライスしてパック詰めされたものは買えない。塊を自分で選び、袋に入れて量ってもらう。その日その日で、売られている肉の部分が変わる。薄くスライスしようとしたら、包丁が切れないのと、豚肉の塊がモモ肉部分じゃないところまでくっついていたので、とても不揃いで厚さも薄かったり分厚かったり、ずたずたになってしまった。しかし、生姜焼きとポークピカタの両方とも、美味しくできた。醤油とお酒、酢は全部中国のものなので、少し味は強く感じたが、肉好きな二人はパクパク食べてくれた。若者がしっかり食べるのを見るのは気持ちがいい。

 その後、差し迫るスピーチコンテストや作文コンクールの話をしていたら、9時半になっていた。二人は慌てて帰って行った。今日は商務日語のテスト3種類を作り上げる目標があったが、明日あした。もう眠くてたまらない。
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孟宗竹のタケノコ   2011年5月6日(金) No.126

2011-05-06 19:44:04 | 中国事情
 3年の黄さんが3日間だけのゴールデンウィークに家に帰り、お土産に家の近くの竹林のタケノコをたくさん採ってきてくれた。日本のスーパーで一般的にタケノココーナーに置かれているのはゴロンと太い種類のものだが、黄さんが資料室でせっせと、友だちの劉さんとともに皮むきをしてくれたタケノコは、細く棒状に尖った30cmほどのものだった。江西省のタケノコはもっぱらこの種類だそうだ。後から河北省出身の範さんも来て、皮むきを手伝ったが、彼女はこの種類のタケノコは記憶にないと言う。しかし、彼女は祖父母、両親に囲まれ、蝶よ花よと育てられた一人っ子なので、台所の手伝いは皆目したことがない。ということは、河北省にあるかないか、彼女の記憶だけに頼るのは危険かも知れない。

 夜、黄さんに教わった調理法とは似ても似つかぬ、タケノコの卵とじを自分勝手に作って食べた。ワクワクしながら口に入れると、茹でて小口切りしたタケノコは、ポリポリして、しかも固すぎず、なかなかの美味しさだった。何と言っても皮ごと故郷から運んで、資料室で皮をむいた後、数時間で調理された新鮮さが、口の中にフワーッと広がった。数日経つとまた味が変わるのだろう。たくさんもらったので、管理人室のミズ劉にお裾分けした。
 翌日は、雑炊に入れた。これも意外と言えるほど美味しかった。

 連休中は雨が降ったので、一気にたくさんのタケノコが伸び、お母さんと黄さんは、私や2人の学友のお土産にせっせと採ってくれたのだという。
 黄さんは、一浪して財大に入った。彼女は長女で、小さい頃から両親の期待を一身に受けながら育ったので、入試に落ちたときは相当落ち込んだそうだ。期待に背いた申し訳なさと、浪人したらどれほどお金がかかるかという心配で、人生がお先真っ暗だったそうだ。
それまでもお父さんは、黄さんと、弟妹3人の学費のために、夜中の1時にバイクで家を出発し、工場で働いて夕方帰ってきたときは、いつも硝石の粉にまみれて真っ白だったそうだ。それでも黄さんの両親は、「君は私たちの誇りだ。もう一度大学に挑戦してみなさい。お金の心配はするな。」と後押ししてくれた。彼女は、海外旅行どころか、お金がないため、この間の廬山旅行も私たちと一緒に行かなかった。ゴールデンウィークは、両親が待っているので帰ってあげなければいけない。廬山に行くお金はない、という結論だった。もともと、廬山行きは彼女の友人が廬山の麓の九江市に住んでいるので、黄さんが連れて行ってくれるという計画だったのだが、結局、肝心の黄さん抜きで私たちは厚かましく出かけて行ったのだった。

 学生たち一人一人、いろいろな出自があり、必ずしも貧乏な家庭出身の子ばかりではないが、とりわけ江西省出身の子達は貧しい農家出身者が多い。1978年からの改革開放政策では、まず沿海地域の経済促進を第一にしてきたため、内陸の省は経済発展から取り残された。今、少しずつ農村の経済状況は改善されてきたというが、まだまだだ。ちなみにこの江西省の中国でのニックネームは「農業大省」だ…。
 こんどこのメンバーで旅行するときは、何としても黄さんも一緒に行こうと思う。 
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