私は一応、語学教師という職業についているわけですが、以前から申している通り私が語学が嫌い。
苦手なのじゃなくて、嫌い。
そんな矛盾した人間が語学教師をしています。
私は学生に対して『別に下手でもいい』という気持ちを持っています。
正直いうと、それは私自身の言い訳です。
私が外国語の習得が下手くそでもいい…
つまり私が英語やベトナム語が下手でもいいという言い訳、逃げ道を用意しているだけです。
ですが、私が思うに異文化コミュニケーションにおいての言語の役割ってそんなに大きいか?ってことです。
上手に話せるに越したことがないですが、それよりも下手でもいいからコミュニケーションを取り続けることの方が大切だと思うことが多いです。
つたない語彙で話しかければ、相手に笑われるかもしれない、それって恥ずかしいって思うでしょう。
でも、私はそれでいいと思いますし、それしかできないのだからそれ以上のものなんて、ねだってる場合じゃないです。
まずはそこがスタートだと思うんです。
それに初めて出くわしたとき、自分の言葉の稚拙さに気付き『あ、もっと上手になりたい』『上手にならなきゃ』って思うんです。
その繰り返しです。
ネイティブじゃないんだし、いつまでも下手でいいんです。そう思います。
別に言語を習得したから勉強しているのではなくて、コミュニケーションを取りたいからその手段として言語を勉強しているんですから。
こんなこといってると、方々から批判されるのですが…まぁあれです。
私の少ない人生経験で申しあげるのも恐縮ではありますが、手段が目的化した時のくだらなさは堪らないし、苦痛ですよ。
それにさ、話すが上手な人よりもさ、下手でも一生懸命話そうとしている人間の方が信用置けるじゃない?
でも、考えてみれば私のつたない英語をずっと聞かされ続けている大家さんは少しうんざりしているかもしれない。
『こいついつまでも上達しねぇな』って。
まぁ当たり前ですよね、英語に関しては上達する気が全くないのですから(何。
そのかわり少しずつではありますがベトナム語はできるようになってきているのでござるよ。
決してペースは速くはありませんが、拙者は拙者のできる範囲でじっくり学んでおるのでござる。
だって、語学嫌いだし。
でもね、人間って言葉の良し悪しだけで人を判断しません、きっと。
語学力のうとさをコミュニケーション能力でカバーですよ。
ニコニコ笑ってごまかしたり、貢物を用意したり、「私はバカです」とさらけ出してみたり。
というか、何度も言いますが、下手だからといって萎縮してしまったら、一生下手なままなんですよ。
下手でもいいから話さない限り、相手も、私もなにも変わらないのです。
私から見た私もいつまでもへっぽこ英語の日本人で、向こうから見ても私はへっぽこ英語の日本人でしかありません。
でも、語学力が劣るならそれ以外のところで補えばいいのです。
そうするとへっぽこ英語の日本人から、へっぽこ英語だけどなんか良い感じの日本人に昇格します(何。
私が問題とするのは語学のうまい下手よりも、異文化にいる相手に対してなにを伝えたいかということです。
語学が下手でも相手を喜ばせること、悲しませること、どちらもできてしまいます。
そういうことに言葉は要りません。
どんなに文化的な差異があろうとも、コミュニケーションを取り続けること以上の手段はないと思います。
その立場からしてみれば言語なんてちっぽけ。
だから、『下手でもいい』と私は思うのです。
『下手でもいい』から、困ってるなら困ってることを死ぬ気で伝えればいいし、嬉しいならその喜びを全身で表現すればいい。
そのことの方が語学が上達することよりも大切なんじゃないかって私は思います。
あくまでも、私は。
そんな考えで教壇に立っていることもあり、厳密さを重んじる業界にあって、だいぶぬるい講義をしていると思います。
このぬるさが学習意欲を促進していない気もするのですが、それは私以外の先生がやってくれると思うので気にしないことにしています。
苦手なのじゃなくて、嫌い。
そんな矛盾した人間が語学教師をしています。
私は学生に対して『別に下手でもいい』という気持ちを持っています。
正直いうと、それは私自身の言い訳です。
私が外国語の習得が下手くそでもいい…
つまり私が英語やベトナム語が下手でもいいという言い訳、逃げ道を用意しているだけです。
ですが、私が思うに異文化コミュニケーションにおいての言語の役割ってそんなに大きいか?ってことです。
上手に話せるに越したことがないですが、それよりも下手でもいいからコミュニケーションを取り続けることの方が大切だと思うことが多いです。
つたない語彙で話しかければ、相手に笑われるかもしれない、それって恥ずかしいって思うでしょう。
でも、私はそれでいいと思いますし、それしかできないのだからそれ以上のものなんて、ねだってる場合じゃないです。
まずはそこがスタートだと思うんです。
それに初めて出くわしたとき、自分の言葉の稚拙さに気付き『あ、もっと上手になりたい』『上手にならなきゃ』って思うんです。
その繰り返しです。
ネイティブじゃないんだし、いつまでも下手でいいんです。そう思います。
別に言語を習得したから勉強しているのではなくて、コミュニケーションを取りたいからその手段として言語を勉強しているんですから。
こんなこといってると、方々から批判されるのですが…まぁあれです。
私の少ない人生経験で申しあげるのも恐縮ではありますが、手段が目的化した時のくだらなさは堪らないし、苦痛ですよ。
それにさ、話すが上手な人よりもさ、下手でも一生懸命話そうとしている人間の方が信用置けるじゃない?
でも、考えてみれば私のつたない英語をずっと聞かされ続けている大家さんは少しうんざりしているかもしれない。
『こいついつまでも上達しねぇな』って。
まぁ当たり前ですよね、英語に関しては上達する気が全くないのですから(何。
そのかわり少しずつではありますがベトナム語はできるようになってきているのでござるよ。
決してペースは速くはありませんが、拙者は拙者のできる範囲でじっくり学んでおるのでござる。
だって、語学嫌いだし。
でもね、人間って言葉の良し悪しだけで人を判断しません、きっと。
語学力のうとさをコミュニケーション能力でカバーですよ。
ニコニコ笑ってごまかしたり、貢物を用意したり、「私はバカです」とさらけ出してみたり。
というか、何度も言いますが、下手だからといって萎縮してしまったら、一生下手なままなんですよ。
下手でもいいから話さない限り、相手も、私もなにも変わらないのです。
私から見た私もいつまでもへっぽこ英語の日本人で、向こうから見ても私はへっぽこ英語の日本人でしかありません。
でも、語学力が劣るならそれ以外のところで補えばいいのです。
そうするとへっぽこ英語の日本人から、へっぽこ英語だけどなんか良い感じの日本人に昇格します(何。
私が問題とするのは語学のうまい下手よりも、異文化にいる相手に対してなにを伝えたいかということです。
語学が下手でも相手を喜ばせること、悲しませること、どちらもできてしまいます。
そういうことに言葉は要りません。
どんなに文化的な差異があろうとも、コミュニケーションを取り続けること以上の手段はないと思います。
その立場からしてみれば言語なんてちっぽけ。
だから、『下手でもいい』と私は思うのです。
『下手でもいい』から、困ってるなら困ってることを死ぬ気で伝えればいいし、嬉しいならその喜びを全身で表現すればいい。
そのことの方が語学が上達することよりも大切なんじゃないかって私は思います。
あくまでも、私は。
そんな考えで教壇に立っていることもあり、厳密さを重んじる業界にあって、だいぶぬるい講義をしていると思います。
このぬるさが学習意欲を促進していない気もするのですが、それは私以外の先生がやってくれると思うので気にしないことにしています。
※コメント投稿者のブログIDはブログ作成者のみに通知されます