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小説 俺のスポーツ賛歌(2)   文科系

2024年03月07日 11時32分28秒 | Weblog
 さて、俺が大学院に入ったとき弟は高校三年生で、その三年間はこんな生活を見せてくれた。授業が終わるとすぐに帰宅、勉強。夕食を食べてまた勉強。ただし、週に三つほど必ず観るテレビ番組を決めていて、その一つは「歌謡番組 夢で会いましょう」。しばしの青春時間というわけだが、これら三つでさえ夕食前後の一時間以内。こうして、彼の一日平均勉強時間は七時間に及び、しかもこれが三年間続いたとあって、これらすべてには何というかとにかく驚かされてばかりだった。これは後にはさらにはっきりと分かるようになったのだが、国語ができなくて、家庭教師についていた。英数の家庭教師ならともかく、国語のそれって珍しいということから、何か鮮かに覚えている。俺に言わせれば、この国語不得意は当たり前だ。小学校から大学までこれだけ人付き合いがなければ、文学や古典の字面、文章はともかくその中身が分かるわけがない。それでいて数学実力テストは父の助けもあって愛知県最難関高校でトップなのだから、まー非常に偏った人間なのである。ちなみに、この弟を当時の母が他の二兄一妹にはやったことがないほどせっせと献身的に押し上げていた。この時の母は、これまで努めていた名古屋市立高校教師の職を定年まで五年以上を残して辞めてしまい、専業主婦になった。それは、弟を東大に入れるために世話を徹底しようという望みから決めたことだ。母が遺した旧女子高等師範学校(現お茶の水女子大学)愛知県同窓会誌「桜陰」への寄稿にこんな一節がある。
『昭和四〇年三月、○○高校退職。高校三年になって大学進学を前にした末っ子に一年間はすべてをかけてみようと、今まで出来なかった教育ママに徹しました』
  母のこの決心を弟がどう捉えたかは俺には全く記憶がないから、まーそんなに異例、異常なことのようには受け止めなかったということだろう。
 こうして弟は、東京大学理科一類に悠々と入って行った。国語の点数不足などは、彼の数学の高得点でいくらでも補いが付いたということだ。

 さて、中学在学中から普通の移動はほとんど自転車に頼っていた俺だが、バレーボールを止めた後はスポーツ・サイクリングがにわかにクローズアップされていく。
 初めて自転車に乗ったのは小学校中学年のころ。子供用などはない頃だから、大人の自転車に「三角乗り」だ。自転車の前三角に右足を突っ込んで右ペダルに乗せ、両ペダルと両ハンドル握りの四点接触だけで漕いでいく乗り方である。こんな乗り方ながら、初めて走りだせた時のあの気持! 〈速い!〉はもちろんだが、〈自由!〉という感じに近かったのではないか。脚を必死に動かしているわけでもないのに、風がピューピュー耳を切っていく! サドルに座って届かない足を回す乗り方を間もなく覚えてからは、かって味わったことがないスピードでどんどん走り続けることが出来る! 
 以降先ず、中高の通学が自転車。家から五キロほど離れた中高一貫校だったからだ。やはり五キロほど離れた大学に入学しても自転車通学から、間もなく始まった今の連れ合いとのほぼ毎日のデイトもいつも自転車を引っ張ったり、相乗りしたり。
 共働き生活が始まって、上の息子が小学生になったころから子どもとのサイクリングが始まった。下の娘が中学年になったころには、暗い内からスタートした正月元旦家族サイクリングも五年ほどは続いたし、近所の子ら十人ほどを引き連れて天白川を遡ったことも何度かあった。当時の我が家のすぐ近くを流れていた子どもらお馴染みの川だったからだが、俺が許可を出した時に文字通り我先にと身体を揺らせながらどんどん追い越していった、あの光景! 子ども等のそんな自転車姿がまた、俺にはたまらない。
 この頃を含む四十代は、片道九キロの自転車通勤があった。これをロードレーサーで全速力したのだから、五十になっても体力は今の日本では普通の二十代だ。自転車を正しく全速力させれば、体幹も腕っ節も強くなるのである。生涯最長の一日サイクリング距離を弾き出したのも、五〇ちょっと前のこのころ。先ず知多半島先っぽまで。そこから伊良湖岬先端までのフェリーをつかった三河湾一周の最後には豊橋から名古屋まで国道一号線の車道を走ってきた苦労も加えて、メーターが弾きだした実走行距離は百七十キロになっていた。

 五十六歳の時に作ってもらった現在の愛車は、今や二十年経ったビンテージ物だ。愛知県内は矢作川の東向こうの山岳地帯を除いてほぼどこへも踏破して故障もないという、軽くてしなやかな品である。前三角のフレーム・クロモリ鋼チューブなどは非常に薄くて軽くしてあるのに、トリプル・バテッドと言ってその両端と真ん中だけは厚めにして普通以上の強度に仕上げてある。いくぶん紫がかった青一色に注文した車体。赤っぽい茶色のハンドル・バー・テープは最近新調した英国ブルックス社製。部品は普通のサイクリストなら知らぬ人はいないシマノのデュラエース・フルセットである。

 定年近くのこんな俺を、同居生活という近くで見続けてきた母が度々口に出していた言葉がある。
『若い頃順調に一直線で来た男性は老後に苦労する。何らか意味がある寄り道をした人の方が豊かな老後になる。人生プラスマイナスゼロにできてるということなんだろうねー』
 これは、老後が即余生になってしまった父や、当時既にそうなりそうだった弟を見ていて、母なりに出した人生訓なのだ。ちなみに、先にも見た同窓会誌「桜陰」寄稿にもこんな一節がある。
『同居している次男夫婦も共働きですので、昼間は相変わらずの一人暮らしですが、二人が帰宅し、共にする夕食は楽しく、孤独を忘れることの出来るひとときです』。
 俺が五〇歳の頃から俺らは同居を始めて、その二年後に父が亡くなったその後の家庭風景を母なりに描写したものである。なお、この夕食時間は俺にとっても忘れられないものになっている。食卓に、母と連れ合いと二人それぞれの二品ずつほどが並んで、華やかな、楽しい食卓だった。なお、四人の兄弟姉妹の中で、両親が最も望まない青春時代を送った俺が晩年の両親と同居したというのは、皮肉というよりはむしろ当然の結果と今の俺は捉えている。博士号を持った外科医である兄は同じ名古屋市の同じ区内に住んで、八十歳を超えた今もなおパート勤務医として働いているが、父母共に兄夫婦とはいろいろあってむしろ疎遠といって良かったからだ。「一直線」の青春を過ごした息子やその配偶者とは、その親もなかなか親しく付き合えるものではないらしい。まして、全国区の大学を出た妹、弟は、それぞれ東京練馬区と横浜高台の自邸に住みついて、名古屋には帰ってこない。全国有数の大学卒業という優秀な子を持つということは、そんな覚悟も要るということである。なお、妹は母と同じ大学の大学院を出ている。


 五九歳の時に職場がスポーツジムの法人会員になったのを機会に、ランニングを始めた。その時に分かったことなのだが、入門して間もなくなんの苦もなく走れるようになって行ったのは、それまでのスポーツ好き、自転車人生があったからだった。自分の最高心拍数の七割程度で走りつづけると最も効率よく心肺機能を伸ばすことができるというランニング上達理論があると後で知ったのだが、素人が継続できる高速サイクリング心拍数がちょうどその辺りに来るものなのだ。つまり、俺はそれまでの自転車人生によってランニングに最適な心肺機能訓練を続けてきたわけだ。走り始めて一年ちょうどほど、六十歳で出た十キロレースで四九分台という記録を持っている。そして今七十七になる俺は、週に三回ほど各十キロ近いランニングをしている。その話が出たり、ダブルの礼服を着る機会があったりする度に連れ合いがよく口に出す言葉がこれだ。
「全部、自転車のおかげだよね」
 この礼服は、三十一歳の時、弟の結婚式のために生地選びまでして仕立て上げたカシミア・ドスキンとやらの特上物である。なんせ、俺の人生初にして唯一の仮縫い付きフル・オーダー・メイド。これがどうやら一生着られるというのは、使い込んだ身の回り品に愛着を感じる質としてはこの上ない幸せである。よほど生地が良かったらしく、何回もクリーニングに出しているのに、未だに新品と変わらないとは、着るたびに感じる二重の幸せだ。弟の結婚式から父母の葬式までを見続け、「自分の大人時代を今日までほぼ共に歩んできた礼服」。それも今できる品質なんだろうかとか、今作ったらいくらするんだろうとか思わせるような五十年物なのである。こんな幸せさえもたらしてくれる一六九センチ・五八キロ、体脂肪率十二%内外の「生涯一体形」も、「生涯スポーツ」、特に有酸素運動と相携えあって歩んで来られたということである。もちろん俺は、若い頃に医者に教えてもらったポリフェノールのことも忘れてはいない。酸素を多く取り入れ過ぎてきたその手当をしていないスポーツマンは早死にするとは、医者なら皆が語ること。それは酸素とともに空気から取り入れてしまう活性酸素が細胞を最も激しく老化させる有害物質だからである。これを中和してくれるのが、ポリフェノール。かくして俺の食生活は、晩酌が赤ワイン、野菜は馬みたいに食ってきたし、最も多くする間食は、チョコレートに煎茶だ。つまり、こういう食生活習慣がいつの間にか楽しいものになっているというわけである。

 ランニングとサイクリングの楽しさは、俺の場合兄弟みたいなもの。その日のフォーム、リズム、気候諸条件などが身体各部の体力にぴったり合っているらしい時には、各部最小限の力によって気持ちよくどこまでも進んで行けるという感じの兄弟。そして、そんな時には身体各部自身が協調しあえていることを喜び合っているとでもいうような。
 自転車が五九歳にしてランを生み、退職後はランが自転車を支えて、まだまだ長く続いていきそうな七十七歳の俺の活動年齢。パソコンにぶっ通し五時間座っていても腰背痛にも縁がないし、目も大丈夫と、これらすべて有酸素運動能力のおかげ。「パソコン五時間」というのは、現役時代から仕入れて今も続いている同人誌の編集活動に必須の、現に日夜重宝している能力である。文章創作というこの頭脳労働にまた、有酸素運動が威力を発揮している。走った日の後二日ほどは、老人になって特に感じる朝の脳の冴えと同じものを感じ、走らない日が三日も続くとたちまちどんよりとしてくるのである。人間の身体で酸素を最も多く消費するのが頭脳であるという知識を思い出せば、誰にでも分かる理屈だろう。ちなみに、人間個体が窒息死する時、この死が最も早く起こるのも脳細胞であるらしい。

 週に複数回以上走ることを続けてきたほどのランナー同士ならばほとんど、「ランナーズ・ハイ」と言うだけである快感を交わし合うことができる。また例えば、球技というものをある程度やった人ならば誰でも分かる快感というものがある。球際へ届かないかも知れないと思いながらも何とか脚を捌けた時の、あの快感。思わず我が腿を撫でてしまうというほどに、誇らしいようなものだ。また、一点に集中できたフォームでボールを捉え弾くことができた瞬間の、体中を貫くあの感覚。これはいつも痺れるような余韻を全身に残してくれるのだが、格闘技の技がキレタ瞬間の感じと同類のものだろうと推察さえできる。スポーツに疎遠な人にも分かり易い例をあげるなら、こんな表現はどうか。何か脚に負荷をかけた二、三日あと、階段を上るときに味わえるあの快い軽さは、こういう幸せの一つではないか。これらの快感は、たとえどんなに下手に表現されたとしても、同好者相手にならば伝わるというようなものだ。そして、その幸せへの感受性をさらに深め合う会話を始めることもできるだろう。
 こういう大切な快感は、何と名付けようか。イチローやナカタヒデなどこのセンスが特別に鋭い人の話をする必要がある時、このセンスを何と呼んで話し始めたらいいのだろう。音楽、絵画、料理とワインや酒、文芸など、これらへのセンスの存在は誰も疑わず、そのセンスの優れた産物は芸術作品として扱われる。これに対して、スポーツのセンスがこういう扱いを受けるのは日本では希だったのではないか。語ってみればごくごく簡単なことなのに。スポーツも芸術だろう。どういう芸術か。聴覚系、視覚系、触覚系? それとも文章系? そう、身体系と呼べば良い。身体系のセンス、身体感覚。それが生み出す芸術がスポーツと。スポーツとは、「身体のセンス」を追い求める「身体表現の芸術」と言えば良いのではないか。自分の視覚や聴覚の芸術ならぬ、自分の身体感覚が感じ導く自作自演プラス鑑賞付きの、誰にでも出来る身体芸術である。
 勝ち負けや名誉とか、健康や体型とかは、「身体のセンス」が楽しめるというそのことの結果と見るべきではないだろうか。そういう理念を現に噛みしめているつもりの者からすれば、すっかり体型がくずれてしまった体協の役員の方などを見るのは悲しい。勝ち負けには通じられていたかも知れないが、「身体のセンス」の楽しみはどこか遠い昔に置き忘れてこられたように見えるから。その姿で「生涯スポーツ」を説かれたとしても何の説得力もなく、「言行不一致」を免れることはできない。

 さて、こんな俺のロードレーサーが、先日初めての体験をした。直線距離三〇〇メートルとすぐ近くに住んで、今は週三日も我が家に泊まっていく仲良しの女の孫・ハーちゃん八歳と、初めて十五キロほどのサイクル・ツーリングに出かけた。その日に乗り換えたばかりの大きめの自転車やそのサドル調整がよほど彼女の身体に合っていたかして、走ること走ること! 「軽い! 速い、速い!」の歓声に俺の速度メーターを見ると二十四キロとか。セーブの大声を掛け通しの半日になった。
「じいちゃんはゆっくり漕いでるのに、なんでそんなに速いの?」
「それはね、(かくかくしかじか)」という説明も本当に分かったかどうか。そして、こんな返事が返ってきたのが、俺にとってどれだけ幸せなことだったか。
「私もいつか、そういう自転車買ってもらう!」
 そんなことから二回目には、片道二十キロほどの「芋掘り行」サイクリングをやることになった。農業をやっている俺の友人のご厚意で宿泊までお世話になる企画だった。
 人間の子どもの力って凄い。初めての長距離ツーリングなのに、行きも帰りも俺の速度メーターはおおむね二〇~一五キロ、二時間ほどで乗り切った。名古屋市を、北部から南へ縦断して隣の豊明市までというコースだから歩道を走ったのだし、信号は多いし、海に近い天白川の橋の真ん中から水鳥や魚を探すなどの長い休憩時間も二回ほどとったのだけれど。帰りなどはその上、途中にある大高緑地公園遊園地を二時間以上も飛び回ったうえで、さらに一〇キロ近くを文句も言わずに走り通した。けろっとして本人曰く、「私は身体が強いからね!」。初めは半径三キロ以内はこれまでにすべて征服したと豪語できる公園遊びから始まって、自転車から、正しい走り方までも俺が教えて来たこの小学二年生は、五〇メートルを九秒切って走り、二重跳び三十回とかの縄跳びも大好きなのである。俺のスポーツ好きが乗り移ったようなこの子と、まだまだ一緒に遊べる体力を持ち続けていたい。そして今は、やがて青春を迎えるだろうこの子との一日百キロサイクリング、これが俺の夢だ。俺の経験からいって、今のように週二~三日、一回十キロ近いランニングが出来ているならば、一日百キロのサイクリングは容易だと目論んでいる。ちなみに、そういう高齢者は、サイクリングが盛んな英仏などにはうじゃうじゃいる。そして、彼女がその年齢までサイクリングを熱烈な趣味と出来るか否かは、俺が我が父母の教育力をどれだけ換骨奪胎して受け継ぎ得たかに掛かっていると考えている。
 ハーちゃんは二〇一〇年九月生まれ、今はもういない父母はともに一九一〇年九月生まれ、きっかり百歳の歳の差だ。


(終わりです)



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小説 俺のスポーツ賛歌(1)   文科系

2024年03月07日 11時08分03秒 | 文芸作品
 長らくお休みで済みませんでした。今日から、2日連続で、19年に書いた中編小説を転載させて頂きます。よろしくお願いします。20年近く続いたこのブログをまだまだ続けたいから。


 照明を最小限にしたそのレストランは急上昇中の名古屋駅前地域でも指折りの店と分かった。テーブル一つずつが回りから隔てられた作りで、〈近辺の重役室から抜け出した財界人辺りが商売の探りを入れる会食などに格好の場所だな〉、それとなく見回していた。駅前ツインビルの一角に、六歳違いでまだ現役の弟が久し振りに二人で飲むために予約を入れた店なのである。東京から月一の本社重役会に彼が来名した秋の夕暮れのことだ。
 水を運んできたウェイターに彼が語りかける声が響いた。「このビルの社長さんは、僕の同僚だった友達でしてねー」。〈「せいぜいサービスしなよ」と告げる必要もあるまいに、いつもスノッブ過ぎて嫌な奴だな〉。こんなふうに、彼と会うと俺の神経が逆なでされることが多いのである。でも、その日の彼において最高のスノッブは次の言葉に尽きる。俺の過去について思わずというか何というか、こんなことを漏らしたのだった。
「兄さん、なんで哲学科なんかに行ったの?」
 そう尋ねた彼の表情が何か皮肉っぽくって、鼻で笑っているように感じたのは、気のせいなんかではない。そう感じたから黙っていたらこんな質問まで続くのである。「兄さんは元々グルメだし、良い酒も好きだし、生き方が矛盾してないか?」。まともにこれに応えたらケンカになると感じたので、こう答えた。「お前には分からんさ。世のため人のためという人間が、グルメじゃいかんということもないだろうし」

 さて、その帰りに弟の言葉を反芻していた。年収二千万を越えたとかが十年も前の話、東海地方有数の会社の重役に理工系から上り詰めている彼から見ると、俺の人生に意味はないのかも知れぬ。「人生、こういう生き方しかないのだよ」と決めつける押しつけがましさはさらに強まっているようだし。高校の文化祭などは全部欠席して家で勉強していて、俺の目が点にさせられた覚えがあったなー。そこでふっと、こんなことも連想した。「オバマのは、税を納めぬ貧乏人のための政治。私は納税者のための政治を行う」、前々回の米大統領選挙での共和党候補者ロムニーの演説の一部だ。つまり、金のない人々を主権者とさえ見ないに近い発想なのである。弟はこれと同じ人生観を持って、こう語っていたのかも知れない。「兄さんは別の道にも行けたのに、何でそんな馬鹿な選択をしたのか?」と。そこには「今は後悔してるんだろ?」というニュアンスさえ含まれていただろう。

 秋の夜道を辿りながらほどなく俺は、自分の三十歳ごろの或る体験を振り返っていた。大学院の一年から非常勤講師をしていた高校で、「劣等生」に対する眼差しが大転換したときのことだ。二十代はほぼ無意識なのだが、こんな風に感じていたようだ。こんな初歩的ことも理解できないって、「どうしようもない」奴らがこんなにも多いもんか! 彼らがどういう人生を送ってもそれは自業自得、本人たちにその気がないんじゃ仕方ない。この感じ方がその頃、コペルニクス的転回を遂げたのである。〈彼らとて好きでこうあるわけではないし、現にみんな一生懸命生きてるじゃないか〉。その時同時に、家族とは既に全く違っていると思った俺の人生観も、一種我が家の周到な教育方針の結果満載であると、遅ればせながら改めて気づいたのである。勿論、その良い面も含めて。そして、弟よりもむしろ俺の方が、我が両親の良い面を受け継いでいるのだろうとも、少し後になって分かった。彼らは、旧制中学校、女学校で能力のある貧乏な生徒を良く面倒みて、俺が成人になってからもずっと世話していたという例さえ、いくつか覚えている。この両親ともが、愛知県の片田舎、貧乏子沢山の家から東京へ、当時の日本に男女二つずつ計四つしかなかった高等師範学校へと上り詰めた人だった。父の方はさらにその上の大学院のような所も卒業している。母と結婚してから、その母が勤めた旧制女学校の稼ぎによってのことだった。こうして二人はつまり、明治政府が築き上げた立身出世主義人材育成・登用制度を大正デモクラシーの時代に国内で最も有効に活用できた「優秀な庶民」だ。だからこそ、同じような境遇の教え子を可愛がったということだろう。仏壇、長幼の序など古い家のしきたりのようなものはほとんどなかったが、「人生の幸せ=高学歴」および「人は皆平等に大切」と、そんな人間観、人生観と、それに基づく子育て力が非常に強い家ができあがっていたようだ。

 この時またふっと、弟のこんな言葉も甦ってきた。
「私の仕事は初め新幹線の進歩、やがてはリニア新幹線を日本に生み出すという夢に、各年齢では常にその最高責任者として関わってきたんだよね!」
 この誇り高い言葉はまー、あの皮肉っぽい笑みからすれば俺に対してはこんな意味なのだろう。「だけど、兄さんの仕事人生は、一体何が残ったの?」。確かに、最初の仕事を二十数年で辞めたのだから、そう言われるのも無理はない。それも、貧乏な民間福祉団体で休日も夜も暇なく働いた末の、精神疲労性の二度の病のためだったのだし。そこでさらに気づいたこと、これに似た病に、お前も罹ったじゃないか? それも若い頃の入院も含めて一度ならず今も……お互い頑張っちゃう家系だもんなー。

 いろんな言葉や思い出を辿りつつここまで来て、俺の思考はさらに深く進んでいく。弟は何でこんな挑戦的な言葉を久々に会った俺に敢えて投げたのだ? 今も病気が出かけて終わりが近づいている自分の仕事人生と、何よりもこれが終わったその先とを自分に納得させる道を懸命に探している真っ最中だからじゃないか。この推察は、妥当なものと思われた。すると、ある場面がふっと浮かんできた。
〈小学校低学年からアイツは電車が好きだった。我が家に近い母さんの職場・市立高等学校の用務員さんの部屋で母さんを待って一緒に帰る途中にある中央線の踏み切り。あそこでよく電車を見てたと母さんが言ってたよなー。彼は少年時代からの夢を、日本最高度の形で実現させたんだ……〉


さて、ここまでは、今から約一〇年ほど前のこと。この弟、というよりも兄弟妹と俺の四人が育った家族から俺だけが「変わった歩み」を始めたと、今になって初めて分かった時というものを振り返ってみよう。その始まりの出来事こそそもそも、「俺のスポーツ」なのである。
 四人兄弟のなかで、兄も弟も高校の時いったん入ったクラブを間もなく止めさせられている。確かそれぞれボート部と卓球部のはずだ。こんなに時間を取るのでは学業に障りがあるからということだった。妹は卓球部をずっと許されたが、女だからということだろう。これも何か両親らしい。両親と言ってもこの場合、主導したのは父だ。母は消極的に父に賛成した。庇ってくれたこともあったから、そう感じた。確かめたわけではないが、まず間違いないだろう。
 高校に入学してバレーボール部に入ったが、すぐに、「辞めろ!」と命令した父との喧嘩が始まった。父の手が出たことも一度や二度ではないといった、修羅場が初めは連日のように続いた。そんな時の母は、俺と父との周辺をただおろおろ、うろうろしていた。こうして結局、二、三年にはキャプテンになるなど、俺はバレーボールを三年間守り通したのである。
「事前にこの程度に身体を動かしておくと、こんなに楽にプレーができる」
「個人練習なども含めてどれだけ激しく動いても、最後に軽く一キロほど走ると、疲れがこれほど取れるものとは。翌日の身体も全く普通になっている!」
 こんな初歩的な知恵も、誰に教えてもらうということもなくふとした自分の試みから発見したもの。これらの知恵が当時の俺にとって価値が高いという意味でどれだけ新鮮なものだったことか。そして、クラブ活動の後自転車で家路についた時、あの汗と夕陽! 今さらにこれらが好きになっている原点であった。この時に培ったスポーツ好きや足どり軽い身体への愛着とともに。

兄弟でただ一人一浪の後、文学部に入った大学でも、一年の夏にはバレーボールクラブのレギュラーになった。浪人時代も母校のマラソン大会に出て全学二位になったほどに基礎体力を維持した上で、大学の入学式前から春休み中のクラブ合宿に飛び入り参加をして入学式も欠席という意気込みで始めたクラブなのである。そのレギュラー初陣がまた忘れられないもの。夏休みに静岡大学で行われた中部地方国立大学大会で優勝したのだった。その年、愛知の大学バレーボール・リーグ一部中位に属していた結構強いチームだった。県大会常連のような学業成績優秀校のエースなどが集まるこの大学のレギュラー獲得は当時の俺にとって大きな誇りにもなったし、同時に家からの『自立』のさらに大きな一歩を踏み出すものになった。俺の高校クラブが地区大会一回戦勝ち抜けもできない弱さだったから、この誇りはことさらに大きかった。
 ところが、このクラブを一年の秋には辞めてしまった。当時の俺の意識としては、二つの原因で辞めた。一つは、哲学科の大学院へ行きたくなったこと。今ひとつは、体育会系の人間には、友達にしたい人がいないと見抜いた積もりになっていたことである。当時の俺はどう言うか、人生を求めていた。自分の家に規定された貝殻が小さいとしか感じられないようになった宿借りが、次の大きな殻を求めて歩き始めるように。そして、その大きな要求に、スポーツやスポーツ仲間が助けになるとは思えなかったのである。当時の奇妙な表現だけれど、感情や行動におけるほどにスポーツを大切なものとは、頭の中では捉えていなかったということだ。すごく好きだったし、行動上の熱中度も周囲の他の誰にも負けていないという自信さえ発散していたはずだが、当時の意識ではそれを俺にとって数少ない「面白いこと」の一つと捉えていたに過ぎなかった。

 哲学科の大学院に入ったころ、二人の主任教授のうちの一人がその時の授業テーマの説明としてこんなスポーツ論を語ってくれたことがあった。
「西欧と日本とでは、スポーツについての考え方は全く違います。ロダンの『考える人』。あの筋骨隆々たる姿は、なにも立派な軍人が、あるいは陸上十種競技の名選手が、たまたま何かを考えているという姿ではないのです。そもそも人間が何かを深く感じ、考えるということそのものが、あーいうたくましい筋骨を一点に集中してこそ成されていくという、ルネサンス以来の西欧流『考える人』の理想型というものなんです。対するに日本では、深く感じ、考える人ってどんな人でしょう。芥川龍之介みたいな人を連想する諸君も多いのではないでしょうか。貧弱な身体だからこそ文を良くするというような人。このように、日本では文武は分けられていて、文が武よりも上と、そんな感じ方がずっと多く存在し続けてきました。この頃こそ文武両道とよく語られるようですが」
 なるほどと思った以上に、一種ショックを受けた。この小柄ながら均整が取れた老哲学科主任教授が、大学時代にやり投げの全日本クラス名選手だったとも聞いていたことも重なっていた。
〈文武両道は本来なら比例するという相関関係にあるということだろう。それを言行一致して追求してきた人々がいる。それが西欧知識人の一般教養にもなっている。こういう本気の背後には、こんなスポーツ哲学もあるのだ!〉
自分のスポーツ大好きに大きな意味が一つ、初めて生まれてきた瞬間だった。だが、実際にこの哲学の意味、価値を身体で現し、感じられていくのは、まだまだ後の話になっていく。


(あと1回続きます)
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