ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

店主ご挨拶

ようこそお越し下さいました。 昨年(2010)、3ヶ月の雲水修行に行ってまいりました。 私は働き者で(自己申告)、精舎は朝は早く夜は遅く「朝瞑想」の時間は、気がつくといつも寝ておりましたが・・。 私の人生の1ページに、思いがけないご褒美を頂けたような日々を過ごさせて頂きました。・・ま、主婦でも決心ひとつで如何様な道も開けるんですね。 今も精舎に行くと「実家に帰った」ような気がします。 このブログ管理人は、最近物忘れ症候群中につき、おいで頂いた感謝を申し上げ、コメントを頂いても書いたり書かなかったり、付き合いが悪いことのご無礼をお許し下さいませ。

『「熱烈伝道対談」について』(その4) 北海道館長 七の日講話より

2011-09-11 23:39:09 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 


『「熱烈伝道対談」について』(その4)

(本稿は、2011年9月7日北海道正心館七の日講話の内容のエッセンスをまとめたものです。)
 『How to spread this truth』の中では、以下のようにおっしゃっています。
「日本人の最大の敵は、恥ずかしがり屋(shyness)であること。日本人は、自分の意見を述べること、とりわけ、宗教的信条を明言したり、信仰告白することについて、とても臆病である。

これは、(ムラ社会の中で)人間関係を失うことを極度に恐れているからであり、外国人に比べて、互いに依存し合って生きている率が、非常に高いからだ。
しかしこれは、外国人の視点から見ると、「精神的に自立していない」ように見える。自分の信条や意見を宣言できない人は、自立していないのだ。」
(以下、多少補足しながらですが)

人間と動物を分けるものは、「自分の信条・意見を持っているかどうか」であり、ひとたび選択した自分の信条に殉じて生きるのが人間であり(人はパンのみにて生きる者にあらず)、食うために生存しているのが動物だと、彼らは思っている。
だから、「自分の信条を明確に持たず、それを表明もしない」というのは、良く言えば、「精神的に自立していない」ということになるが、もっと言えば、彼らが本音で思っているのは、「それでは、人間ではなく、動物ではないか」ということである。

人間が人間である以上、動物にはない「価値ある信条」を選び取らなければならない。そして人は、人間であることを証明するために、自らの信条を積極的に表明し、「できればそれを、あなたと分かち合いたい」と意思表示する。
これは、人間が人間であるための、当然の条件であり、外国では、取り立てて強調する必要がないことでもある。

(現に私も、アメリカ人や、もっと言えば中国人に伝道したときですら、同様の反応が相手から返ってきて、この国の特殊性を思い知らされたことがある。)
しかしこの国では、かなり強く強調しないと、このことを自覚してもらえない。繰り返すが、「人間とは、何がしかの"価値ある信条"を選び取らなければならない存在」である。そして、ひとたびそれを選び取ったならば、自らの信条を「表明」し、他人の批判を恐れず、「その信条に殉じた生き方」をしなければならない。

それが、この英語御法話の中に出てくる「自ら意志決定者になり、その下した結論に対して責任を持つこと」の意味でもあるのだ。

Think Big ! について
 最後、三つ目の論点として、御法話(対談)の最後の方に出てくる「Think Big」というのがありますが、大幅に時間超過してしまったので、これについては、ひと言の言及にならざるを得ません(笑)。
先生が、転法輪さんの"Think Big"について、「それは、僕の気持ちをよく知っているからだよ。本当はこんなものじゃなくて、「イスラムもバチカンも超えていきたい」と本気で思っていることを良く知っているからだよ」と仰っていました。「それがわからないと、「本部の責任のない立場の人は、Think Bigが言える」となってしまう。「自分達は、実際の数字の責任を負っているから」と。

しかし、最近、私が支部長交流会に出ないのも、うつむき加減の彼らを見るのが辛いからなんだよ。
私が本心を言ったら、ぶっ倒れてしまうのがわかっているので」という御言葉には、やや寂しいものがありました。
しかし、本日、縷々(るる)述べてきましたように、まだ、支部長達(&在家伝道師達)の光の力(光の指導が及んだ力)は発揮されていませんし、本当の意味での「自由な創意工夫」も、全く発揮されておりません。

私は毎朝、お祈りのときに、「自分が貢献できる主の在世時に、最低限到達しなければならないライン」というのを、具体的にいくつかの数字を挙げて、明確にイメージしていますが、それは、基本的なレベルにおいて、現在の10倍から20倍の水準です。
ターゲットとする期間は、遅くとも主の在世時、出来れば、10年で見通し(目途)を立てることです。
これは、外から客観的に見れば、「Think Big」に見えるかもしれませんが、ある時に伺った、
「仏陀が救世主であるための、初代在世時に突破しなければならない最低限のライン」
からすると、ギリギリの数字です。
この礼拝堂で七の日講話を聴いてこられた方なら、具体的にどういう水準(数字)であるかは、お分かりになると思います。

 実現されていないことは、山ほどありますが、発揮されていない力も、山ほどあります。
ですから、頑張りましょう!
いつまでも蘭さんが吼えて(ほえて)いるだけでは、アカンのですよ!(笑)
本日は、本当にありがとうございました。


   
これは『転法輪蘭との「熱烈伝道対談」』大川隆法先生 公開対談の 北海道館長のご解説です。
その前に本物を拝聴したいものです。


もう駄目・・眠くて  眠くて

では  今夜は  おやすみ~~~




『「熱烈伝道対談」について』(その3) 北海道正心館 七の日ご講話

2011-09-11 23:14:40 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 
   
『「熱烈伝道対談」について』(その3)

(本稿は、2011年9月7日北海道正心館七の日講話の内容のエッセンスをまとめたものです。)

 説法能力を高めるための第一は、当然のことながら、「教学」ですが、但し、支部長はともかくとして、一対一の伝道を基本とする在家の方の「宗教的説得力」ということで言えば、「5年、10年と法臘(ほうろう)を積んできて、主の御法話を聴き続けてきた方であれば、伝道(宗教的説得)に必要十分な教学は、十分身についている」と言えると思います。ですので、「教学が大事」というのは、主として、今、説法の価値を高めようとしている支部長、出家者向けの言葉です。

第二は~これから言うことを「当たり前じゃないか」と言わないでくださいね、出来ていないから強調しているのです~、

「学んだ教えを実践する」ことです。

実際にその"心の教え"を実践してみて、「あぁ、そういうことだったのか」という"自分の変化"を実感する機会を増やすこと。

そうすると、人に語ったときに、独特の"味わい"が出てきて、その人の説得力が増します。同じ言葉を発しても、ある人の言葉には説得力があり、別の人の言葉には説得力が出ない理由は、ここにあります。

「言葉に光が宿る」という現象は、その言葉(仏言)を実践することによって、起きるのです。これが実は、「知識を実践によって智慧に変える」ということの意味で、それによって、
「自分の言葉で語れる」ようになれますし、「あなたの場合は~」と、対機説法(個人相談)にも強くなることができます。

このポケット(智慧に転化したもの)をたくさん持っている人が、説法能力の高い人なのですね。

 第三は~そしてこれが今の時期に一番重要なのですが~、ここで先生が仰っておられるとおり、「(ある種の)精神統一能力を持つ」ことです。
今日は、敢えて、これを「無我になること」と表現したいと思います。

「ある種の」という注釈を付けた理由は、この「精神統一」あるいは「無我」が究極まで行って、「完全に受身」のレベルまで到達すると、「チャネリング」の域に達するわけですが、そこまで行かなくても、「無我」を心がけることによって、「光の指導が始まる」ことが分かります。
そして、これを強調する理由は、ある英語御法話の中で仰っておられましたが、「結局、聴き手が感動するかどうか、説得されるかどうかは、その人に光の指導が及んでいるかどうかで決まるのだ。

そのとき光の指導が及んだら、人は感動する。それが及んでいなかったら、単なる事務連絡か、社長の朝礼の訓示で終わる。
宗教的感動を生むのは、光の指導であり、そのためには、「無我」にならなくては駄目なのだ」と。
「無我」をさえぎる最大のものは、この後大きな論点の二番目の中で述べますが、「自分がどう思われているのだろう」ということを、あまりにも気にしすぎる自意識です。

"人の目"であるとか、"他人の評価"を気にしていると、光の指導が及んできません。
もう一つ、「無我」をさえぎるものとして、この御法話の中で採り上げられているものは、
「心の奥底では、実は、この世的利害や名誉心、或いは保身が動機となってやっている場合」です。

人間の本心というのは、ごまかせないもので、そういう場合は、潜在意識の方が"やましさ"(嘘っぽさ)を感じてしまっていて、光が乗らない(降りてこない)のですね。
 ですから、「説法の力を増す」と言ったときに、もちろん、説法技術的な話は多少ありますけれども、"宗教家の本質"という観点から言えば、以上の三つが中心です。

特に、三番目は、あなたの説法を劇的に変え、不連続に変化します。それが、「宗教的説得力」の本質でもあります。
そして、それは、普段からの心の修行(無我修行)の下支えがあって、始めて可能になるものであり、結局は、「そのような日々の精進を続けようと思う「信仰心」「菩提心」の賜物(たまもの)なのだ」ということを、ぜひ、心に留めておいてください。

「主と一体となる」とは

 二番目の大きな論点として、御法話(対談)の中ほどで出てきた、「主と一体となる」ということについて、お話したいと思います。
 この点に関して、転法輪さんを評して、先生が、「ある意味で、開き直っているから。「どう思われてもいい」と思っているからだよ」と仰っていました。

「そこまで信じ切り、本気になっている信仰者に対しては、人は、実は、嘲笑したり、からかったりはできないものなのだ。
よく人は、伝道するときに、「これで人間関係が壊れたらどうしよう」ということを心配するが、そこまで行くと、「それでも人間関係をつくれないか」ということを、相手が考えてくれるようになる。

多くの人は、そこまでの経験を持っていない」と仰っていました。

これは、「精神的自立と伝道力」という当初のテーマに直結してくる内容なので、『How to spread this truth』の内容に踏み込んで、お話したいと思います。

(「その4」に続く)

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『「熱烈伝道対談」について』 (その2)

2011-09-11 22:59:40 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 

『「熱烈伝道対談」について』 (その2)

(本稿は、2011年9月7日北海道正心館七の日講話の内容のエッセンスをまとめたものです。)

 たとえば私は、北海道正心館の館長になって、北見支部とか函館支部を3回以上訪問していますが~ そしてそれは、北海道正心館の館長としては多い方だと思いますが~それでも、札幌に居て、北見や函館の実情なんて、わかるわけがないですよ。
いわんや、東京に居て、わかるはずがないんです。

だから現地の支部長が、信者さんと相談しながら、ベストの手を打ち続けていくしかないんです。
日本の国では、中央の部門(中国で言えば共産党本部)が、いろいろ心配になって、あれこれとチェックしたがります。そして、受ける側も、自分で責任を負うのが恐くて、事前に了承を取りたがります。
これは、教団全体の規模が、ミニサイズの地方本部程度(1990年頃?)ならともかくとして、今の規模でそれをやると、少なく見積もっても、救世運動のスピードを百倍位遅らせているように見えます。

その際、良く出てくる言葉が、「何か問題が起きたらどうするんだ」ですが、ここがまさに、ハイエクの「法の下の自由」の根幹に関わってくる部分です。幸福の科学が中国共産党であれば、これも止むなしですが、「自分の頭で考える」(=「経営担当者を養成する」)ことを標ぼうする組織であれば、「自由主義社会では、「事前許可」こそが例外であって、致命傷にならない限り、原則やらせてみる。結果は、市場(信者さんの声)に事後評価してもらえばいい」ことを理解しなければなりなません。

これが、先生がよくおっしゃっている、「法律に違反しないかぎり自由。まずはチャレンジしてみよ」の真意です。もっと言えば、アレコレ口をはさみたがる側に、「そもそも、口をはさむに足る見識を持っているのか」を問わなければなりません。

「判断材料は、現場の方に居なければわからないでしょう」ということで、この部分が、「ハイエクの経済哲学」の中核なのですね。そして、「もう20年たったのだから」という先生の御言葉の意味は、「10年、20年という法臘(ほうろう)を持った支部長・信者が相談して決めたことであれば、一義的に判断を委ねてやらせてみなさい。企画が悪ければ、市場(信者さん)に淘汰(とうた)されるだけのことです。

その程度の懐(ふところ)の深さは持っていなければなりません。それによって、多少の雑草(ドクダミ)は生えるでしょうが、雑草をゼロにしようとしたら、大輪の花もまた、ゼロになります」ということを仰っているわけです。

特に、最後の一文は、「資本主義精神」の急所で、シュンペーターの思想の肝(きも)なのですが、教団の中でも、日本の国でも、あまりにも理解されなさ過ぎているように見えます。発展を目指したら、多少の雑草は生えます。雑草をゼロにしようとしたら、発展はなくなります。(これが統制経済による事前規制の姿。)この雑草を飲み込むだけの器がリーダーには必要で、松下幸之助流の言い方をすれば、「3回成功して1回失敗するくらいが、一番健全だ」ということですね。

代わりにやっていた二つの仕事

 御法話(対談)には、面白い話が出てきて、「この20年間、宗教家として本来やるべき仕事の代わりに、二つの仕事をやってきた」ということが出てきます。
 一つは、問屋さんの仕事(=声聞仕事)。これはどういうことかと言うと、昔の講演会や特別セミナーには、今のような大々的衛星中継はありませんでしたから、地方本部長を始めとして、その地方の主だった幹部の仕事は、「特別セミナーの最前列に陣取って、先生の話をしっかり書き取り(声聞)、地元に戻って信者さんにそれを伝える(問屋さんの卸業)のが主たる仕事だった」というのです。

そこで、適当にタイムラグ(時間差)を付けたりすると、「自分の価値が上がる」(しかし救世運動は遅れる)という現象が起きました。今はそれが許されなくなってきたので、先生の御言葉を借りれば、「会社でいうと、中間管理職に当たるような男性陣に、イノベーションがかけられてきており」、しかも、「日本の会社というのは、同じことを繰り返すことを前提にしているところがあったので」(「右肩上がりの時代」の名残り)、
「そういう人達が、今、苦しくなってきた」と。

 その際、もう一つ特徴があって、「出家しても、在家時代の"この世的な仕事のやり方"から、なかなか抜け出せないところがあって、そういう人達が一番集まったのが、実は、旧活動推進局だったのだ」というのです。先生によると、「中途採用の人が一番入りやすいところで、よく、「在家時代と同じ仕事ですね」と言われたが、それは、仕事の内容が同じだったのではなくて、「その人が、そういう仕事しか出来なかった」ということなのだ」と仰っていました。

「当会には、宗務本部の様な御禁制部門(精神統一が出来ない人、ベーター波動の人が長く居られない部門)があるが、逆の意味で、「総裁に対する御禁制部門」が、長らく存在していた。

それが旧活動推進局で、「ここは、赤鬼さん、青鬼さんの取立て部門なので、先生は口出しするな」という"御禁制"が長らく存在していた。それが崩れたのは、つい最近のことである」というのです。

宗教的説得(説法)ができなかったので、(1)問屋・声聞業をやるか、
(2)この世的営業手法(ノルマ型?)で代替していたが、いよいよエル・カンターレ信仰を打ち立てる段になって、両方とも通用しなくなってきたので、本来の仕事である「信仰心に基づいた宗教的説得(説法)」に、本気で取り組まざるを得なくなった、というのが、今回の経緯(真意or神意)です。

では、「宗教的説得力(説法の力)を高める本質は何か」
それについて、これから三つほどお話します。

(「その3」に続く)





『「熱烈伝道対談」について』 その1  北海道正心館 七の日講話より

2011-09-11 22:33:14 | ご講話・ヘラトリ・リバティ 
 

友よりメールを頂きました。
  
『「熱烈伝道対談」について』 その1

(本稿は、2011年9月7日北海道正心館七の日講話の内容のエッセンスをまとめたものです。)

 かねて予告しておりましたとおり、本日は、「精神的自立と伝道力」というテーマで講話をする予定でおりました。
このテーマは、英語御法話『How to spread this truth』に出てくる三つの論点のうちの、最初の論点に焦点をあてたものです。

ところが、その後、『転法輪蘭との熱烈伝道対談』という御法話(対談)が急きょ開示となりまして、これについて、各方面の方々から、「ちょっと、解説してもらえないか」というリクエストが相次ぎました。確かに内容をみると、「ここで出てくる先生の御言葉(結論)をスッと腑に落とすには、少し解説が要るかな」という感じがしましたので、冒頭のタイトルのように、内容を変更した次第です。

但、今日は、この「対談」の中から三つの論点を採り上げて、詳しくお話しようと思いますが、そのうちの2番目の論点は、今日予定していた「精神的自立と伝道力」というテーマとも重なるものですので、その意味では、予定内容をもう一段膨らませたものだとご理解いただいて結構です。この「対談御法話」のPRも兼ねて、これから始めさせて頂きます。

開拓伝道の鍵と説法能力の本質

 まず第一点目に、対談の最初の方で、「国内が、相変わらず開拓伝道型になっていない」というお話をされました。
これは以前からご指摘のあるところですが、ここにきて、特に海外の支部で「開拓伝道」が大きく進展し始めたので、国内とのギャップが異様に目立ってきています。
「開拓伝道」とは、これまでにも、教派神道のK教出身の元職員の方のお話を引用されながら、何度もご説明があったとおり、「支部長が自分一人で乗り込んで、ゼロから信者をつくっていく」ことです。(上記K教の方のうちのお一人は、K教時代、実際にそれを北海道で実践されたので、真実味がこもっています。)

当会では逆に、ある程度信者ができてから、税務署よろしく(或いは生命保険会社の支店のように)支部が開設されてきたので、事業風の表現をすると、「既存客から割当分?を吸収する事はできても、新たに信者を開拓する力が極めて弱い」ということを仰っているわけです。そして、そのように「開拓型」へと脱皮できない最大の理由の一つとして、「国内では、横並び意識が強すぎるからだ」とおっしゃいました。
これは、率直に言って、そのとおりです。

海外でスーパーマン的に活躍して、開拓伝道を劇的に実現している支部長達が、国内でもスーパーマン支部長だったかというと、決してそんなことはありません。
平凡な支部長だったとは言いませんが(笑)、まあ、ABC評価でいえば、「大体B+で時々A-を取る」くらいの感じでしょうか。

その同じ支部長が、海外に出ると、劇的に"変身"してしまうわけです。
もちろん、「迎える人々の側に信仰への理解がある」という側面もありますが(但し、これが国内に対して、もはや"言い訳"にならない理由(御指摘)については後述)、最大の理由は、「日本(本部)から目の届きようがないので、支部長が自分で判断して勝手にやっている」ことだとおっしゃいました。

これも、実によくわかる感じがします。
最近ロシア伝道(ロシア伝道ネットワーク)に力を入れているので、海外の事例がよく耳に入ってくるのですが、現地の支部長(ネイティブ含め)が勝手に判断して実行して、大成功を収めている事例が、実に多いです。
その中には、「国内で同じことをやろうとしたら、本部の反対で潰れただろう」と思われることや、「国内だったら、周りの"やっかみ"とか、上部組織?の"チェック"とやらで、大変だろうな」ということが、結構あるのですね。

ところが海外だと、国際本部も事前にチェックのしようがないので、成功後にあとから追認するしかないわけです。
「それが成功の理由だ」と。そして、「もう20年もたったのだから、(支部長が)プロとして独立するべきだ」とおっしゃっていました。

 日本社会には、大きな誤解(先入観)があります。それは、「本当の意味で、「統制経済」と「自由主義経済」の違いがわかっていない」ということです。言葉を換えると、「独裁体制(統制経済)は、"事前許可"を多く要求するが、自由主義経済は、"事後評価"が原則である」ということです。難しい言い方をすると、「御法話『未来への選択』に出てくる"ハイエクの「法の下の自由」"の本当の意味を、教団関係者も日本人も理解していない」ということなのですね。

これについて、最初に、少し詳しく述べてみます。
(「その2」に続く)




お久しぶりです。

9月3~4日は、中部で祈願を3つ受けました。

「うわぁ・・きれいになったぁ」・・のあの祈願と
貧乏神追い出し・・と大黒天成長・・

貧乏神はたたき出して、大黒天を迎え入れる・・

ありがたいねぇ  (o~-')b