ジーン・ウールの不思議な旅

ジーン・ウールは不思議な女性です。姿を変えて過去にも未来にも現れます。
もしかしたら貴方の友人や奥様かも知れません。

万人の万人に対する戦い とは

2010-03-05 07:42:39 | シュタイナー
新太陽の法には、
アーカーシャの記録を実在界で見てきた人としては、スウェデンボルグ、ルドルフ・シュタイナー、「黙示録」のヨハネが光子体離脱をしてアーカーシャの記録を見てきて、それについての報告をしています。皆8次元如来界の人です・・ 

「黙示録」のヨハネが見てきたという、新約聖書にある人類の未来図・・彼が見てきた人類の終末的様相は、この20世紀から21世紀初めに人類を襲うことになっている危機的ヴィジョンであったことは真実です。p21  と書かれています。

大川隆法総裁の「奇跡のメカニズム」のなかで  本能のままに、「万人の万人に対する闘争」という生き方をしたら、大変な社会になる・・と言及した箇所があります p41 が

シュタイナーの神智学では「万人の万人に対する戦い」という時代が、未来に来ると予言しています。

シュタイナーの黙示録の秘密 より

「今日、文明国に受肉している魂は、かってアトランティス大陸に受肉していた」といわねばなりません。アトランティス大陸で、少数の魂がみずからにふさわしい方法で進化してきました。魂は進化したので、より進化した体の中に受肉することができるようになった。
進化から取り残された魂のみが、低い段階にとどまった体のなかに受肉しなければなりませんでした。

常に進化から取り残された体に受肉しうる魂が存在するのです。自分から結びつくのでなけらば、いかなる魂も進化から送れた体には受肉しないのです。・・・
地上での使命を正しい方法で通過した魂が、ある人種に受肉します。この人種のなかで、この人種の能力を習得し、つぎにはより進んだ人種に受肉しようとします。ただ、物質から抜け出ようとしない人種のなかに下った魂は、みずからの重さによってその人種のなかにとどまります。そのような魂は2度場合によっては3度、同じ人種の体のなかに受肉します。このことが、ある伝説のなかに見事な方法で語りつがれています。・・・

キリスト・イエスを拒否したためにいつもおなじ人種のなかに受肉しなければならないアハスエルスの伝説(永遠のユダヤ人)のなかに語られています。
このような伝説のなかに人類進化の偉大な真理が描かれています。いかなる魂も不当に古い体にとどまってはなりません。・・前進せよと叫ぶ声を聞く魂は、「万人の万人に対する戦い」という大きな破壊の時期を乗り越え、今日とはまったく新しい体のなかに現れるでしょう。

たとえば、アトランティス人の体を今日の人間の体とおなじようなものだと考えるのは近視眼的な見方です。何千年という時の流れのなかで、人間の外的な体つきも変化するのであり、「万人の万人に対する戦い」ののちに現れる人間は今日の人間とはまったく違った形姿をとるでしょう。

今日、人間はある点で善悪を隠すことができるように作られています。たしかに人間の顔つきは多くの秘密を明かし、顔立ちから多くのことを読みとることができます。しかし、悪党が無邪気な顔つきでやさしく微笑んだり、立派な紳士だと思われたりすることが、今日ではまだ可能です。逆の場合もあります。・・魂の聡明さ、愚かさ、美しさ、醜さを、普通の顔つきの背後に隠すことが今は可能なのです。
このようなことは「万人の万人に対する戦い」のあとにやってくる時空においてはもはや起こりません。額、顔つきに、その人が善人か悪人かが書き込まれるのです。魂の内奥が顔に現れるのです。・・「万人の万人に対する戦い」ののちには2種類の人間が存在することになります。

「万人の万人に対する戦い」ののち、今は魂のなかにかくれているものすべてが、だんだんあらわになってきます。ある本によって、7つの封印が解かれねばなりません。この本とは、どの本のことでしょうか。その本はどこにあるのでしょうか。

黙示録のなかでは、何が本、聖なる書といわれているのかを、はっきりさせようと思います。聖書のなかでは「本」という言葉はごくわずかなところにしかでてきません。このことを見過ごしてはなりません。創世記5章1節には、「これは人間の系統の本である。神は人間を創造し、人間を神の似姿につくり、彼らを男と女に創造した」云々とあります。「本」という言葉がふたたび現れるのは、第一福音書の第1章です。「これは、アブラハムの子、ダヴィデの子、イエス・キリストの誕生の本である。アブラハムはイサクを生み、イサクはヤコブを生み」云々と書かれています。ここでも、系譜が数え上げられています。そして「本」という表現はふたたび、ヨハネ黙示録のなかにあらわれます。子羊のみが7つの封印のある本を開くにふさわしい、という箇所です。「本」という言葉はいつも決まった意味で使われているのです。原典を文字どおりに理解しなければなりません。今日でいう本のことがいわれれいるのではありません。「土地台帳」という表現のほうが、本という言葉のかつての意味を残しています。

本という言葉は、何かが連続して記入されているものを指す言葉でした。綿々と相続されるような、所有権を記したものを指す言葉でした。伝えられていくものを明らかにする文書を指す言葉でした。
旧約聖書においては、本という言葉は、血をとおして受け継がれる系統を記録する文書を指しています。系図を記録する以外の意味では、本という言葉は使われてはいません。
おなじく、第一福音書において、本という言葉は系図を記録したものを指すために使われています。つまり、時間のなかでつづいて生じることが「本」に書かれているのです。時間のなかでつづいて生じることの記録以外のものが、本という言葉で示されていることはありません。ほぼ、年代記とか、歴史とかいう意味で、本という言葉は使われたのです。

いま人類のなかに置かれ、文化期から文化期へと人間の自我のなかに書き込まれ、人間の魂のなかに書き込まれ、「万人の万人に対する戦い」ののちに封印を解かれるこの「生命の本」のことを、黙示録はいっているのです。この本のなかには、諸文化期が記入されています。昔の本に系図が書き込まれていたように、この本のなかには人間が霊的に到達したものが記入されています。


「新太陽の法」には諸文化期が書かれてい、20年ちかく封印されていた霊言や預言が今嵐のように語られはじめていることを知って下さい。

「万人の万人に対する戦い」の時代は、既に始まっているのではないでしょうか。


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